封じられた星
第35話 封じられた星
ヴァルガルドへ入って、まだ一日目。
僕たちは国境砦を抜け、白銀の街道を歩いていた。
冷たい風が頬を撫でる。
吐く息は白く、足元の雪は踏むたびに音を立てた。
「寒い……」
僕は外套の襟を引き上げる。
「さっきからそればかりじゃな」
ベラが呆れたように言った。
「だって寒いものは寒いよ」
「この程度で音を上げておっては、ヴァルガルドの奥へ進めぬぞ」
「これで程度なの?」
「そうじゃ」
「……先が思いやられるな」
アンが小さく笑った。
「今日泊まる宿場は、もうすぐですよ」
「本当?」
「はい」
アンが地図を確認する。
「国境砦から少し進んだところにあります。ヴァルガルドへ向かう商人や冒険者が、一度休むための場所ですね」
「じゃあ、まずはそこへ行こう」
僕たちは雪道を進んだ。
しばらく歩いたところで。
僕はふと足を止めた。
「……あれ」
「どうした?」
ベラが振り返る。
僕が見ていたのは、雪山の向こうにそびえる一本の塔だった。
遠く離れているため細部までは見えない。
それでも。
その塔だけは、周囲の白銀の景色の中で異様な存在感を放っていた。
巨大な石造りの塔。
上部は雲に隠れ、どこまで続いているのか分からない。
「塔……?」
アンも足を止めた。
その瞬間。
アンの表情が変わった。
「……」
「アン?」
「いえ」
アンは塔をじっと見つめる。
「……なんでもありません」
「知ってるの?」
「いいえ。あれを直接見るのは初めてです」
そう答えながらも。
アンは何かを思い出そうとしているようだった。
「でも……」
「でも?」
「どこか、懐かしい感じがします」
僕はもう一度塔を見る。
胸の奥が。
微かにざわついた。
「僕も」
理由は分からない。
ただ。
あの塔から、何かを感じる。
「今日はもう遅い。宿場へ行こう」
ベラが言った。
「塔のことは、落ち着いてから考えればよい」
「うん」
僕たちは再び歩き始めた。
やがて雪原の向こうに、小さな町が見えてきた。
「宿場町ですね」
アンが言う。
石造りの建物が並び、煙突から白い煙が上がっている。
街道には馬車が何台も停まり、商人や冒険者が行き交っていた。
人の数は思ったより多い。
ただ。
ローディアとは雰囲気が違った。
皆、必要なことだけを話し、黙々と歩いている。
厳しい寒さの中で生きるために。
この国の人々は無駄を削ぎ落としているように見えた。
「まずは宿を探そう」
僕たちは宿場町へ入った。
大通りから少し外れた場所に、冒険者向けの宿を見つける。
扉を開けると。
暖炉の火が目に入った。
「暖かい……」
思わず声が漏れる。
「またそれか」
ベラが笑う。
「だって本当に暖かいんだから」
僕たちは部屋を取り、荷物を置いた。
久しぶりに大きな荷物を下ろす。
それだけで身体が軽くなった気がした。
「少し休んだら、ギルドへ行きましょう」
アンが言う。
「ヴァルガルドに入ったことも報告しておきたいですし、街道の情報も聞いておいた方がいいでしょう」
「そうだね」
少し休んだ後。
僕たちは宿場町の冒険者ギルドへ向かった。
中へ入ると、思ったより多くの冒険者がいた。
受付で冒険者証と通行証を提示する。
「C級冒険者ですね」
受付嬢が確認する。
「ローディア支部からの移動……本日、ヴァルガルドへ入国されたということで間違いありませんか?」
「はい」
「分かりました。こちらで記録しておきます」
手続きを終えると、受付嬢が地図を取り出した。
「この先へ向かわれる予定ですか?」
「はい。まずはヴァルガルドの中心部へ」
「でしたら、しばらくはこの街道を使うことになりますね」
受付嬢が地図を指差す。
「最近、この先で魔物の目撃が少し増えています。今のところ大きな被害はありませんが、十分注意してください」
「分かりました」
アンが頭を下げる。
「ありがとうございます」
「それと……」
受付嬢が少しだけ言葉を濁す。
「ヴァルガルドでは、他国よりも身分証や通行証の確認が厳しいです。特に北部へ向かう場合は、必ず冒険者証を携帯してください」
「分かりました」
僕たちはギルドを出た。
外へ出ると、雪が静かに降り始めていた。
「今日は宿に戻ろう」
僕が言う。
「うむ」
ベラが頷く。
宿へ戻り、夕食を済ませる。
暖炉の火が揺れる部屋で、三人で今日一日のことを話した。
「それにしても、あの塔……」
僕が言うと。
アンが黙った。
「やっぱり気になる?」
「……はい」
アンは窓の外を見る。
遠くに見える白銀の山々。
その向こうに、あの塔がある。
「ソル」
「ん?」
「少し……私の話をしてもいいですか?」
「もちろん」
アンはしばらく黙っていた。
そして。
ゆっくりと口を開いた。
「私は、今まで本来の力を使っていませんでした」
「……やっぱり?」
ベラが目を細める。
「妾も気づいておった」
「え?」
僕は二人を見る。
「アンの魔力は、以前から妙に少なかった」
ベラが言う。
「魔王である妾が見ても、不自然なほどにな」
アンは静かに頷いた。
「隠していたんです」
「どうして?」
「天使から」
その言葉を聞いた瞬間。
部屋の空気が変わった。
「前回、私たちが戦った災厄」
アンが続ける。
「あれは強力な存在でした。でも……」
アンの瞳が細くなる。
「あれは高位の天使ではありません」
「……雑兵?」
「そうです」
アンは頷いた。
「私が恐れているのは、その上にいる存在です」
僕は息を呑んだ。
「高位の天使に私の存在を知られないために、私は四百五十年前……自分自身の力を三つに分けました」
「三つに?」
「はい」
アンは胸元へ手を当てる。
「魔力を分散させ、それぞれを封じました。私という存在そのものを、天使から隠すために」
「じゃあ……今までのアンは」
「本来の力の、ほんの一部です」
アンが僕を見る。
「今の私は、本来の力の約八パーセントほどしか使っていません」
「八パーセント……?」
思わず聞き返した。
ベラが小さく笑う。
「やはりのう」
「でも」
アンが続ける。
「このままではいけないと思っています」
「どうして?」
「災厄と戦ったからです」
アンの声が少し低くなる。
「あの程度の存在でさえ、私たちを追い詰めた」
そして。
アンは自分の手を見た。
「次に現れるものが、同じ程度とは限りません」
部屋の中が静かになる。
僕はアンを見る。
「……力を戻すの?」
「はい」
「どこまで?」
「四十五パーセントまで」
「そんなに……」
「ただし」
アンは僕を見る。
「今の私の器だけでは、そこまで力を戻すことができません」
ベラが立ち上がった。
「だから妾の魔力を使う」
「ベラ……」
「問題ない」
ベラは迷いなく答えた。
「お主が必要だと言うなら、くれてやる」
「でも、それじゃベラが……」
「妾は魔王じゃぞ」
ベラが笑う。
「この程度で倒れるほど軟弱ではない」
「……ありがとう」
アンは静かに頭を下げた。
「では」
アンが立ち上がる。
「始めます」
僕たちは宿の部屋の中央に集まった。
アンが目を閉じる。
ベラが手を伸ばす。
「魔力を流すぞ」
「お願いします」
ベラの身体から魔力が溢れ出した。
黒紫色の魔力が空気を震わせる。
それがアンへ流れ込んでいく。
「……っ」
アンの身体が震えた。
その瞬間。
アンの周囲に。
赤い光が浮かび上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで夜空に星が生まれていくようだった。
「これが……」
僕は息を呑む。
アンの身体を巡っていた魔力が。
次第に濃くなっていく。
八パーセント。
それまでのアンとは。
明らかに違う。
「……封印を解除します」
アンが目を開いた。
その瞳に。
赤い光が宿る。
「四百五十年」
静かな声だった。
「私は、この力を眠らせてきました」
赤い魔力がさらに膨れ上がる。
「隠れるために」
「生き残るために」
「そして……誰にも、この力を知られないために」
アンが右手を握る。
空気が震えた。
「ですが」
その瞬間。
アンの周囲に、三つの魔力の塊が現れた。
それぞれが異なる方向へ引き離されている。
「もう、隠れているだけでは守れない」
赤い魔力が爆発する。
「――封じられし三つの星よ」
一つ。
また一つ。
魔力の塊がアンへ戻っていく。
「四百五十年の沈黙を終えろ」
最後の一つが。
アンの胸へ吸い込まれた。
「今、この身に還れ」
ドンッ!!
凄まじい魔力が部屋を揺らした。
窓が震える。
暖炉の炎が大きく揺れる。
雪が窓の外で舞い上がる。
「うわっ……!」
僕は思わず腕で顔を庇った。
ベラも髪を押さえる。
そして。
次の瞬間。
すべてが静かになった。
アンが立っている。
赤黒い魔力が、その身体を薄く包んでいた。
今までとは。
比べものにならない。
「……これが」
僕は呟く。
「アンの……本当の力」
アンがゆっくりと目を開く。
「いえ」
その声は。
今までよりも少しだけ低かった。
「まだ半分にも届きません」
僕は言葉を失った。
本来の力の四十五パーセント。
それでも。
今までとは別人のようだった。
「……成功したのか?」
僕が聞く。
「はい」
アンは自分の手を握る。
「これなら、戦えます」
その時。
ベラが膝をついた。
「ベラ!」
僕が駆け寄る。
「大丈夫じゃ」
ベラは立ち上がろうとする。
けれど。
いつものような余裕がない。
「少し……魔力を使いすぎただけじゃ」
アンの表情が曇る。
「申し訳ありません」
「謝るな」
ベラが言った。
「これは妾が選んだことじゃ」
「でも……」
「ならば、次はお主が妾を守れ」
ベラは笑った。
「それでよい」
僕は二人を見た。
アンが強くなった。
その代わり。
ベラは弱くなった。
それは。
僕たち三人の旅にとって、大きな変化だった。
その夜。
僕たちはそれ以上、話をしなかった。
ベラは早めに眠り。
アンも静かに目を閉じた。
僕は一人、窓の外を眺めていた。
雪が降っている。
そして。
遠く。
あの塔が見える。
「……アルデバランの塔」
その名前を口にした瞬間。
背後から声がした。
「……ソル」
僕は振り返った。
アンだった。
「どうしたの?」
アンは。
窓の外を見た。
そして。
驚いたように目を見開いた。
「……この気配」
「知ってるの?」
「はい」
アンの顔から。
さっきまでの余裕が消えた。
「……懐かしい」
「誰?」
僕が聞く。
アンはしばらく黙っていた。
そして。
静かに答えた。
「アルデバランです」
「……え?」
「私は、あの人を知っています」
僕は息を呑んだ。
五百年前の英雄。
守護騎士アルデバラン。
アンは。
その男と。
かつて顔を合わせていた。
「なら……」
その瞬間。
頭の中に声が響いた。
――ソル。
僕の身体が固まる。
「……!」
聞き間違いじゃない。
確かに。
僕の名前を呼んだ。
――来い。
窓の外。
遠くにそびえる塔が。
一瞬だけ光った。
そして。
もう一度。
低く。
力強い声が響く。
――星を継ぐ者よ。
――アルデバランの塔へ来い。
僕は立ち上がった。
胸の奥で。
星装が強く反応している。
隣でアンが目を閉じる。
「……間違いありません」
「アルデバラン?」
「はい」
アンは塔を見つめる。
「間違いなく……あの人です」
僕は窓の外を見る。
白銀の夜。
雪に包まれた塔。
五百年前からそこに立ち続ける。
守護騎士の遺した場所。
そして今。
その塔が。
僕を呼んでいる。
「……行こう」
僕は呟いた。
明日。
あの塔へ。




