動き出すギルド
第29話 動き出すギルド
「最初から全部、もう一度聞かせてくれ」
ギルド長ガルムの言葉に、僕たちは顔を見合わせた。
ついさっき受付嬢へ報告したばかりだ。
でも。
どうやら簡単な報告だけでは済まなくなったらしい。
「ここじゃ落ち着かん。上へ来い」
ガルムがそう言って歩き出す。
受付嬢も机の上に置かれていた地図と僕たちの記録用紙をまとめ、その後へ続いた。
「行くぞ」
「うん」
「はい」
僕たちもついていく。
受付の奥。
職員しか入れない扉を抜け、階段を上がる。
二階にはいくつか部屋が並んでいた。
その一番奥。
ガルムが扉を開く。
中は思っていたより簡素だった。
大きな机。
椅子。
壁一面に貼られた地図。
棚には大量の書類。
その中でも目を引いたのは。
深緑樹海。
巨大な地図が壁の中央に貼られている。
外縁部。
中層部。
深層部。
細かな線で区切られ、所々に赤や青の印が書き込まれていた。
「座れ」
ガルムが机の向こう側へ回る。
僕たちは並んで椅子へ座った。
受付嬢はガルムの横。
ベラだけは座る前に壁の地図を見上げていた。
「随分詳しい地図じゃな」
「冒険者が何十年もかけて作ったものだ」
ガルムが答える。
「全部正確とは限らんがな」
「深層部も?」
「そこはほとんど空白だ」
よく見ると。
確かに。
樹海の奥へ行くほど書き込みが減っている。
中心部付近なんて、ほとんど何もない。
「ベラ」
「なんじゃ」
「座ろう」
「分かっておる」
ようやく座る。
ガルムが僕たちの記録用紙を机へ広げた。
「さて」
太い指が紙の上を叩く。
「村へ着いたところから頼む」
「分かりました」
僕は朝のことから順番に話し始めた。
ルクス村へ着いたこと。
樹海側の柵が最近になって補強されていたこと。
村人から。
夜になると魔物の声が近くなったと聞いたこと。
「家畜も樹海側へ近づくことを嫌がっていました」
アンが補足する。
「馬や牛が?」
受付嬢が聞く。
「はい。三、四日前から急に、とのことです」
ガルムが何も言わず紙へ視線を落とす。
「それから、ガルドさんが二日前から戻っていないと聞きました」
その名前を出した瞬間。
ガルムの指が止まった。
ほんの一瞬だけ。
でも。
確かに。
「……続けろ」
「はい」
何か気になったけれど、話を続ける。
村を出て。
境界を調査したこと。
最初は普通の獣の足跡しかなかった。
それが北へ進むにつれ変わった。
「複数種類の魔物の痕跡を確認しました」
アンが自分の記録用紙を差し出す。
「少なくとも四種類。実際には、それ以上だと思います」
ガルムが紙を見る。
「四足獣型。鳥型。それに蹄か」
「はい」
「足跡の新しさは?」
「新しいものは半日以内。古いものでも二日以内程度だと思います」
「数は?」
「正確には出せません」
アンが首を横へ振る。
「重なっていましたから。ただ、十や二十では済まない可能性があります」
受付嬢の表情が強張る。
ガルムは変わらない。
「方向は?」
「それが一番妙でした」
僕が地図を引き寄せる。
ルクス村。
深緑樹海。
その間。
「最初は村へ向かってると思ったんです」
指で足跡を追った場所を示す。
「でも途中で分かれました」
北。
西。
南。
それぞれ違う方向へ進んでいる。
「村を目的にしているようには見えなかった」
「なら共通点は?」
ガルムが聞く。
「全部」
僕は樹海から外へ向かって指を動かす。
「森から離れてました」
ガルムが地図を見る。
「一つも樹海へ戻る痕跡はなかったのか?」
「私たちが確認した範囲では」
アンが答える。
「ありません」
沈黙。
ガルムの指が机を一度叩いた。
「続けろ」
そこから。
人の声を聞いた。
調査範囲から僅かに外れていたけれど、助けを求める声だった。
そして。
「ガルドさんを見つけました」
また。
ガルムの指が止まる。
今度は。
僕もはっきり気づいた。
「……怪我は?」
報告より先に聞かれた。
「右脚を怪我してました」
「深いのか」
「血は出ていましたけど、アンが見た限り命に関わるような傷ではありません」
アンを見る。
「はい。しばらく安静は必要でしょうが、適切に処置すれば問題ないと思います」
「そうか」
それだけ。
でも。
ガルムの肩から、僅かに力が抜けたように見えた。
「ギルド長?」
僕が聞く。
「何だ」
「ガルドさんと知り合いなんですか?」
一瞬。
受付嬢がガルムを見る。
ガルムは僕を見たあと。
小さく息を吐いた。
「弟だ」
「え?」
「ガルドは俺の弟だ」
「弟!?」
思わず声が大きくなる。
「似てる?」
僕はガルムを見る。
大柄。
顔には大きな傷。
明らかに戦士。
次に。
今日助けたガルドを思い出す。
狩人。
髪の色は似ていた気がする。
でも。
「名前は似てるけど」
「そこですか?」
アンが言う。
「いや、だってガルムとガルドだよ?」
「親が付けた名だ。俺に言うな」
ガルムの顔が僅かに険しくなる。
「すみません」
「ガルドが行方不明なのは知ってたんですか?」
アンが聞く。
「ああ」
ガルムが頷く。
「村から正式に知らせが来たのが昨日の夕方だ」
「すぐ捜索しなかったの?」
「する予定だった」
ガルムが机の端に置かれた別の紙を取る。
そこには。
『行方不明者捜索』
と書かれていた。
「今日の午後からC級を二人出す予定だった。あいつは狩人として長い。樹海へ入って二日戻らん程度なら珍しいことでもない。それに、村の連中も昨日までは自分たちで探していた」
なるほど。
最初から遭難だと決まっていたわけじゃない。
「それより先にお前たちが見つけた」
ガルムが僕たちを見る。
「礼を言う」
そして。
頭を下げた。
「弟を助けてくれて、ありがとう」
思っていなかった。
ギルド長という立場の人が。
こんなに素直に頭を下げるとは。
「いや」
僕は慌てて言う。
「本当に偶然だったんです。声が聞こえたから」
「それでもだ」
ガルムが顔を上げる。
「声を聞いても、自分たちの依頼範囲外だと無視する奴はいる」
「……」
「お前たちは行った」
短い言葉。
でも。
何だか少し嬉しかった。
「それに」
ガルムの目がアンへ向く。
「村まで連れ帰ったんだろう?」
「はい」
「なら十分だ」
ベラが腕を組む。
「妾もおったぞ」
「分かってる」
「ならよい」
何を気にしてるんだ。
受付嬢が少し笑う。
ただ。
ガルムはすぐに仕事の顔へ戻った。
「それで」
地図へ視線を落とす。
「ガルドを見つけた場所に、骨甲狼がいた」
「はい」
「間違いないな?」
「間違いありません」
アンが答える。
「肩から背にかけて骨板。前肢にも骨質化した部分がありました」
「大きさは?」
「二メートルほど」
「成体か」
ガルムの顔がさらに険しくなる。
「何かおかしい?」
僕が聞く。
「骨甲狼がこの位置にいること自体がおかしい」
ガルムの指が地図の奥へ伸びる。
「本来の生息域はここだ」
外縁部。
でも。
中層部にかなり近い場所。
僕たちがいたところよりずっと奥だ。
「縄張り争いで追い出された可能性は?」
アンが聞く。
「ある」
「では」
「一体だけならな」
ガルムが答えた。
やっぱり。
問題はそこ。
「ガルドさんも、一体じゃないって言ってました」
僕が続ける。
「何を見た?」
「角のある猪みたいな魔物。大きな蜥蜴。猿型。それ以外にも何種類も」
「数は?」
「本人も分からないって」
「そいつらはガルドを襲ったのか?」
「いいえ」
アンが答える。
「すぐ近くを通った個体もいたそうですが、人間へほとんど反応しなかったと」
ガルムが黙る。
「どんな様子だった」
「逃げてた」
僕が答えた。
「ガルドさんはそう言ってました」
「何からだ」
「分かりません」
「見た者は?」
「いません」
ガルムが腕を組む。
「骨甲狼は?」
ベラが口を開く。
「あやつも同じじゃろう」
「理由は?」
「戦っておる最中、何度も森の奥を見ておった」
ガルムの視線がベラへ向く。
「お前たちを前にして?」
「うむ」
「何度も?」
「そうじゃ」
ベラが机へ頬杖をつく。
「妾が魔法を撃ったあとですら、じゃ」
「……」
「怒っておるというより」
少し考え。
「怯えておったな」
僕も同じ印象だった。
あの骨甲狼。
僕たちを襲っていた。
でも。
目の前の敵だけを見ていなかった。
何度も。
森の奥を気にしていた。
まるで。
追いつかれることを恐れているように。
「それと」
僕は思い出す。
「夜に地面が揺れたそうです」
「ガルドが言ったのか?」
「はい」
ガルムの目が僅かに細くなる。
「どんな揺れだ」
「地震じゃないって」
「根拠は?」
「一定じゃなかったらしいです」
僕はガルドの言葉を思い出しながら。
机を指で叩く。
ドン。
少し間を空ける。
ドン。
「こんな感じで」
「歩いているようだった、と」
アンが続ける。
ガルムが紙を見る。
「巨大種か」
「分かるんですか?」
「いや」
首を横へ振る。
「足音ならな」
「違う可能性も?」
「魔法。地盤。魔物同士の争い。考えられるものはいくらでもある」
その言葉を聞いて。
少し納得した。
何か巨大な魔物がいる。
そう決めつけるのは早い。
「ただ」
ガルムが言う。
「魔物が一斉に逃げた時期と、地面の揺れが重なるなら無視はできん」
そして。
「最後」
視線がベラへ向く。
「魔力が乱れていたという話を聞きたい」
ベラが少しだけ身体を起こす。
「言葉通りじゃ」
「具体的に頼む」
「面倒じゃな」
「ベラ」
アンが見る。
「分かっておる」
ベラが目を閉じる。
少し考えてから。
「魔力というものは、本来流れておる」
「流れる?」
僕が聞く。
「空気と似たようなものじゃ。濃い場所も薄い場所もある。じゃが、何もなければ大きく乱れることは少ない」
「樹海は違った?」
「うむ」
ベラが机の地図を見る。
「森の奥。それもかなり広い範囲で、流れが歪んでおった」
「大規模魔法?」
ガルムが聞く。
「似ておる」
「違う?」
「違う」
即答。
「大規模魔法なら、中心がある」
ベラが指で机に円を描く。
「魔法を使った地点。術者。魔道具。何にせよ、どこかに魔力が集まる場所が生まれる」
「今回は?」
「分からぬ」
ベラの指が広く動く。
「全体が乱れておった」
ガルムが黙った。
アンも。
受付嬢も。
「ベラでも知らない?」
僕が聞く。
「見たことはない」
「五百年前にも?」
「ない」
その一言で。
空気が少し変わった。
ベラは五百年前の世界を知っている。
魔王だった。
当然。
僕なんかより遥かに多くの魔法や魔物を見ている。
そのベラが。
知らない。
「……なるほどな」
ガルムが椅子へ深く座った。
しばらく。
誰も喋らない。
外から。
一階の喧騒が僅かに聞こえてくる。
笑い声。
杯がぶつかる音。
今日一日を終えた冒険者たちの声。
この部屋だけ。
別の場所みたいに静かだった。
やがて。
ガルムが壁の地図を見上げる。
「受付」
「はい」
「この三日で出た、外縁部の異常報告を全部持ってこい」
「分かりました」
受付嬢が部屋を出る。
「他にもあるの?」
僕が聞く。
「細かいものならな」
ガルムが答える。
「今までは全部、季節的な移動か縄張り争いで説明できる範囲だった」
「どんな?」
「南東の伐採場で、普段より大型の魔物が見つかった。北側の猟場でも、魔物の足跡が増えている」
「ルクス村だけじゃない」
アンが言う。
「ああ」
ガルムの表情が険しくなる。
「まだ点だ」
「点?」
「それぞれ別の現象だと思ってた」
机の上の地図。
ガルムの指が。
南東。
北。
ルクス村。
順番に触れる。
「だが」
その指が。
深緑樹海へ向く。
「全部、森から外へ向かっているなら話が変わる」
すぐに受付嬢が戻ってきた。
何枚もの紙を抱えている。
「こちらです」
「置け」
机へ広げられる。
報告書。
討伐記録。
目撃情報。
ガルムが一枚ずつ確認する。
僕たちも横から見る。
『角猪三体。通常生息域より西で確認』
『大型蜥蜴の足跡を街道付近で発見』
『外縁部北側にて角兎の群れが草原側へ移動』
『夜間、樹海より複数の魔物の鳴き声』
「……多いね」
「はい」
アンが紙を見る。
「単独なら珍しくなくても」
「重なると妙じゃな」
ベラが言う。
ガルムが一枚の報告書を持ったまま黙る。
そして。
「決まりだ」
「何が?」
僕が聞く。
「ギルドとして調査を一段階上げる」
ガルムが立ち上がった。
「受付」
「はい」
「今ローディアにいるC級以上を確認しろ」
「現在ですと、C級が十一名。B級が三名です」
「動ける奴は?」
「依頼中を除けば、C級六名。B級二名です」
「明日の朝」
ガルムが壁の地図へ近づく。
「C級二組を外縁部北側と南東側へ出す」
「はい」
「ただし奥へ入りすぎるな。中層部の境界までだ」
「中層部は?」
「B級を出す」
ベラの目が動いた。
「二名とも?」
「一人は残す。何かあった時、町が空になる」
ガルムが地図の中層部へ印をつける。
「B級一名と、経験のあるC級三名。四人でここまで入らせる」
「少なくない?」
僕が聞く。
「未知の状況で人数を増やしすぎる方が危険だ」
「どうして?」
「逃げる判断が遅れる」
なるほど。
人数が多ければ強い。
単純にそういう話でもないのか。
「目的は討伐じゃない」
ガルムが続ける。
「確認だ。何が起きているのか。どこから異常が始まっているのか。それだけを調べる」
ベラが少し笑う。
「ならば妾たちも——」
「行かんぞ」
「まだ何も言っておらぬ!」
「顔を見れば分かる」
「皆して妾を何だと思っておるのじゃ」
「自覚ないの?」
「ソルは黙れ」
ガルムがベラを見る。
「お前が強いのは聞いている」
「ならば問題なかろう」
「問題はそこじゃない」
「またそれか」
「昨日D級になったばかりだ」
ガルムの声は淡々としている。
「今回の仕事はよくやった。判断も悪くない。だからこそ言う」
少しだけ。
声が強くなる。
「未知の場所に突っ込むな」
ベラが黙る。
「強い奴ほど、自分なら何とかできると思う」
「妾ならできる」
「そういう奴から死ぬ」
一瞬。
空気が張り詰めた。
ベラの目が細くなる。
でも。
ガルムは視線を逸らさない。
「お前がどれだけ強かろうが関係ない。何がいるか分からない場所へ、情報もなく入るのは強さじゃない」
ベラが何か言おうとする。
「ベラ」
アンが静かに呼んだ。
「……」
「私は、ギルド長の判断が正しいと思います」
「アンまでか」
「はい」
僕も頷く。
「僕も」
「三対一ではないか」
「仕方ないね」
「気に入らぬ」
そう言いながらも。
今回は引いた。
ガルムが僕を見る。
「お前たちには別の仕事を頼む」
「僕たちにも?」
「ああ」
ガルムの指が地図の外側へ移動する。
ルクス村。
そこからローディアへ伸びる道。
「今回、お前たちが調べた範囲だ」
「また境界?」
「それだけじゃない」
ガルムが村の周囲を指で囲む。
「明日から、ルクス村周辺の警戒を強化する」
「魔物が来るかもしれないから?」
「そうだ」
森から魔物が逃げ続けているなら。
当然。
村へ近づく個体も増える。
「C級を出すんじゃなかった?」
「出す」
ガルムが答える。
「だが村一つを二人で一日中見張るわけにはいかん」
「じゃあ僕たちは?」
「ローディアとルクス村の間。それと、村の北側を巡回してもらう」
「討伐は?」
またベラ。
「村へ近づく魔物は即時討伐で構わん」
「よし」
「ただし」
「何じゃ」
「D級で対処できる範囲だ」
「またか」
「当然だ」
ガルムが地図を叩く。
「お前たちの役目は、村を守ることと異変を早く知らせること。森の奥を調べることじゃない」
「分かりました」
僕が答える。
アンも頷く。
「承知しました」
残る一人。
視線が集まる。
「……分かった」
ベラが不満そうに答えた。
「よし」
ガルムが頷く。
「それと」
机に置かれていた僕たちの冒険者証を見る。
「今回の依頼については、通常のD級調査より高く評価しておく」
「高く?」
「異常の発見。状況判断。村への警告。それから」
僕を見る。
「ガルドの救助」
ガルムが一瞬だけ。
ギルド長ではなく。
兄の顔になった気がした。
「全部記録する」
「じゃあ」
ベラが身を乗り出す。
「C級に近づいたか?」
「お前は本当にそればかりだな」
ガルムが呆れた顔をする。
「重要じゃ」
「近づいた」
「おお」
ベラの機嫌が戻った。
「ただし、まだ上げん」
「なぜじゃ!」
「昨日D級になったばかりだと言ってるだろうが!」
初めて。
ガルムが少し大きな声を出した。
「日数など関係なかろう!」
「関係ある!」
「実力を見よ!」
「実力だけで上げないと昨日説明されただろうが!」
「妾をそこらの冒険者と一緒にするでない!」
「冒険者証にはD級と書いてある!」
「ぐぬぬ……」
負けた。
ベラが。
言い返せなくなっている。
「強い」
僕が呟く。
「何がじゃ」
「いや、ガルムさん」
「ソル」
「はい」
アンが口元を押さえている。
多分。
笑ってる。
ガルムが大きく息を吐いた。
「とにかく」
机の紙をまとめる。
「明日は朝一で来い。正式な依頼書を用意しておく」
「分かりました」
「今日は休め」
「まだ動けるぞ」
「お前に言ってる」
「妾だけ!?」
「一番奥へ行きそうだからな」
「失礼な男じゃ」
ガルムが無視する。
「それから」
少し考え。
僕を見る。
「明日、ルクス村へ行ったら」
「はい」
「ガルドに伝えてくれ」
「何を?」
ガルムが一瞬だけ黙る。
「……いや」
やめた。
「何?」
「何でもない」
「気になるんだけど」
「自分で言う」
「村へ行くんですか?」
「状況が落ち着けばな」
そう言って。
また地図を見る。
ギルド長。
この町を預かる人間。
弟が行方不明になっても。
自分だけ森へ探しに行くわけにはいかなかった。
多分。
色々あるんだろう。
「じゃあ」
僕は立ち上がる。
「今日は帰ります」
「ああ」
「失礼します」
アンも立つ。
ベラだけは壁の地図をまだ見ていた。
「ベラ?」
「……」
「どうしたの?」
「いや」
赤い目が。
深緑樹海の奥。
ほとんど何も描かれていない深層部へ向いている。
「妾の時代にも」
「うん?」
「この森そのものはあった」
ベラが静かに言う。
「今ほど広くはなかったがな」
僕は黙って聞く。
「じゃが」
指が地図の中心近くへ触れる。
「この辺りは、当時から妙に魔力が濃い場所ではあった」
「昨日はそんなこと言ってなかったじゃん」
「思い出しただけじゃ」
アンがベラを見る。
「何か心当たりが?」
「ない」
「本当に?」
「うむ」
ベラが手を離す。
「だからこそ気になる」
それだけ言って。
扉へ向かう。
「行くぞ、ソル」
「はいはい」
「置いていきますよ」
アンも続く。
部屋を出る直前。
僕は一度だけ振り返った。
ガルムは。
まだ地図を見ていた。
机には。
ルクス村。
外縁部。
中層部。
そこから届いた大量の報告書。
今日まで。
一つ一つなら。
大した異常ではなかったもの。
魔物が一匹。
いつもより外へ出た。
家畜が森を嫌がった。
鳴き声が近くなった。
狩人が帰らなかった。
でも。
全部を繋げると。
一つの方向を向いている。
深緑樹海。
その奥。
ギルドを出る頃には。
外はもう暗くなっていた。
「腹が減ったのう」
ベラが言う。
「さっきまであんな真剣だったのに?」
「真剣でも腹は減る」
「それはそうだけど」
「何を食べます?」
アンが聞く。
「肉じゃ」
「即答だね」
三人で宿へ向かう。
街はいつも通りだった。
酒場から聞こえる笑い声。
店を片付ける商人。
宿へ戻る冒険者。
誰も。
深緑樹海の異変なんて知らない。
知らなくていいのかもしれない。
少なくとも。
今は。
ギルドが動き始めた。
明日。
C級冒険者たちが外縁部へ。
B級を含む調査隊が中層部へ入る。
そして僕たちは。
ルクス村周辺を守る。
それぞれが。
少しずつ。
森の奥で起きている何かへ近づいていく。
ただ。
一つだけ。
頭から離れないものがあった。
骨甲狼が最後まで気にしていた。
森の奥。
ガルドが聞いた。
地面を揺らす音。
そして。
ベラですら知らないという。
広範囲の魔力の乱れ。
明日になれば。
何か分かるんだろうか。
それとも。
もっと分からなくなるんだろうか。
僕は歩きながら。
暗い空の向こうにあるはずの深緑樹海を思い浮かべた。
あの森の奥で。
何かが動き始めている。
それだけは。
もう間違いなかった。




