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境界の異変

第28話 境界の異変

翌朝。

僕たちは昨日と同じ冒険者ギルドへ来ていた。

朝早いというのに、建物の中にはすでに多くの冒険者がいる。

樹海へ向かう者。

依頼書を確認する者。

受付で地図を広げて話し込んでいる一団もいた。

僕たちはその間を抜け、昨日と同じ受付へ向かう。

「おはようございます」

受付嬢は僕たちを見ると、すぐに机の下から一枚の依頼書を取り出した。

「昨日お話ししていた依頼ですが、正式に発行されました」

机の上へ置かれる。

『深緑樹海・ルクス村間における魔物活動調査』

右上に記されている推奨階級はD級。

昨日までなら受けられなかった依頼だ。

「内容をもう一度確認させてもらっていいですか?」

「もちろんです」

受付嬢が地図を広げる。

ローディアから北へ一時間ほどの位置にあるルクス村。

その東側には深緑樹海。

今回の調査範囲は、その二つの間に広がる境界付近だった。

「ここ数日、ルクス村から魔物の鳴き声が以前より近くなったという報告が届いています」

「昨日聞いた話だね」

「はい。現時点で村への直接的な被害は確認されていません。ただ、外縁部の魔物の活動が活発になっている可能性があります」

受付嬢の指が地図の上を動く。

「皆さんには、まずルクス村で聞き取りを行っていただきます。その後、この区域を巡回してください」

赤く囲まれた場所は、村から樹海までの境界。

かなり広い。

「確認するのは?」

アンが聞く。

「魔物の足跡、爪痕、糞、食べ残し、木々や地面の荒れ方。普段と違うものがあれば、できるだけ場所と状態を記録してください」

「討伐は?」

当然のようにベラが聞いた。

昨日から一番気にしていた部分だ。

受付嬢は少しだけ苦笑する。

「今回の主目的は調査ですので、不必要な戦闘は避けてください」

「やはりか」

「ただし」

ベラの顔が上がる。

「魔物が明確に村側へ向かっている場合は別です」

「ほう」

「村人や家畜へ危害を加える可能性が高い個体を確認した場合、お三方で対処できる範囲なら即時討伐して構いません」

「それを先に言わぬか」

ベラの機嫌が一瞬で直った。

分かりやすすぎる。

「ただし」

受付嬢の声が少し強くなる。

「D級で対応できないと判断した場合は、絶対に戦わないでください」

「判断基準は?」

僕が聞く。

「大型魔物、複数のD級相当個体、あるいは明らかに中層部以深に生息する魔物です。そういったものを確認した場合は位置だけ覚えて撤退してください」

「それで村へ向かっていたら?」

「可能なら村へ警告を。その上でギルドへ報告してください。こちらから上位冒険者を派遣します」

なるほど。

ただ見て帰るだけじゃない。

今の僕たちはD級。

村を守るために必要なら戦うことも、依頼の範囲に入っている。

「それなら問題なかろう」

ベラが腕を組む。

「妾が全て——」

「ベラ」

アンが静かに呼ぶ。

「なんじゃ」

「必要以上に倒してはいけません」

「まだ何も言っておらぬぞ」

「言おうとしていました」

「なぜ分かる」

「長い付き合いですから」

ベラが黙った。

僕は少し笑う。

「アンがいてよかった」

「ソル」

「何?」

「お主も余計なことを言うでない」

受付嬢が笑いを堪えながら、僕たちへ三枚の記録用紙を差し出した。

「最後に一つだけ」

表情が少し真剣になる。

「昨日もお話ししましたが、街道の崩落が確認されてから樹海周辺で魔物の目撃数が増えています」

「関係があるかもしれない?」

「現時点では分かりません」

受付嬢が首を横へ振る。

「だからこそ、今回のような調査を増やしています。もし少しでも異常だと思うものを発見したら、無理に答えを出そうとしないでください」

「報告するだけでいい?」

「はい。それが今回の依頼です」

依頼書に受付印が押される。

「それではお気をつけて」

「行ってきます」

ギルドを出る。

朝のローディアは、昨日の夕方とは違う騒がしさだった。

店が開き始め。

荷馬車が街道を通り。

樹海へ向かう冒険者たちが北門へ歩いている。

僕たちもその流れに混ざった。

「D級最初の依頼じゃな」

ベラが言う。

「そうなるね」

「ならば派手に——」

「調査依頼ですよ」

アンが遮った。

「分かっておる」

「本当に?」

「お主らは妾を信用しなさすぎではないか?」

「信用してるよ」

「では好きにさせよ」

「それは信用とは違うと思う」

「面倒な奴じゃな」

そんな話をしながら北門を抜ける。

街を離れると、右側に深緑樹海が見えてきた。

遠くから見るだけでも大きい。

どこまでも続く木々。

朝の光が当たっている外側とは対照的に、森の奥は暗い。

昨日より近くで見るせいか、余計にその大きさを感じた。

「やっぱりすごいな」

「また言っていますね」

アンが言う。

「だって昨日は町から見ただけだったし」

「明日も言いそうじゃな」

ベラまで言ってくる。

「初めて入るんだからいいでしょ」

「今日はまだ入るとは決まっておらぬぞ」

「あ」

そうだった。

今回の調査区域は、基本的に樹海と村の境界。

必要がなければ森の中へ深く入ることはない。

「残念じゃったな」

「ベラの方が残念そうだけど」

「妾は別に」

「顔に出ていますよ」

アンが言う。

「アンまで……」

一時間ほど歩くと、景色が変わり始めた。

街道の両脇に畑が増える。

遠くには家屋。

木製の柵。

その先に、小さな村が見えてきた。

「ルクス村ですね」

入口には簡素な看板が立っている。

人口百人ほどと聞いていた通り、大きな村ではない。

木造の家が二十数軒。

畑。

家畜小屋。

村の中央には小さな井戸がある。

子供たちが走り回り、その横で大人たちが朝の仕事をしていた。

一見すると。

何の問題もない普通の村だ。

「平和そうじゃな」

ベラが言う。

「今のところはね」

村へ入る。

最初に目についたのは、樹海側の柵だった。

他の場所より明らかに高い。

しかも。

「新しいですね」

アンが柵を見る。

所々、木の色が違う。

最近補強されたのだろう。

「昨日聞いていた話より警戒してるのかな」

「聞けば分かるじゃろ」

近くで薪を積んでいた男性へ声をかける。

「すみません」

男が振り返る。

五十代くらいだろうか。

日に焼けた顔。

僕たちの胸元にある冒険者証を見る。

「冒険者か?」

「ローディアのギルドから来ました。樹海周辺の調査です」

「ああ」

男の表情が少し緩む。

「やっと来てくれたか」

「何かあったんですか?」

「直接何かされたわけじゃねぇんだ。ただ……最近、森が妙でな」

男が樹海を見る。

「妙?」

「夜になると鳴き声が聞こえる」

「魔物の?」

「ああ」

「それまでは?」

アンが聞く。

「聞こえることはあったさ。ここは森のすぐそばだからな。ただ、もっと遠かった」

男が柵の向こうを指差す。

「ここ四、五日は違う。すぐそこの木々の向こうから聞こえるんだ」

確かに近い。

村から樹海の入口までは、それほど距離がない。

「村まで入ってきた魔物は?」

「今のところ見てない」

「家畜が襲われたとかは?」

「それもない」

なら。

まだ被害は出ていない。

「ただな」

男の表情が曇る。

「家畜がおかしい」

「おかしい?」

「馬も牛も、森に近い牧草地へ行きたがらなくなった」

僕とアンが顔を見合わせる。

「いつ頃からですか?」

「三、四日前だな。樹海が見えるところまで連れて行くと、急に止まる。無理に進ませようとすると暴れる奴までいる」

「魔物の匂いに反応している可能性はありますね」

アンが言う。

「俺たちもそう思ってる」

男が頷く。

「だから柵も補強した」

やっぱり。

「他に変わったことは?」

僕が聞く。

男はすぐには答えなかった。

少し迷ってから。

「……ガルドが帰ってきてない」

「ガルド?」

「村の狩人だ」

男が森を見る。

「二日前の朝、罠を確認しに樹海へ入った。それっきりだ」

空気が少し変わる。

「捜索は?」

「昨日、村の男たちで探した。だが入口から少し進んだところで魔物の足跡が大量に見つかってな」

「大量?」

「ああ。今まで見たことがないくらいだった」

男が険しい顔になる。

「それ以上は危険だってことで戻った。昨日のうちにギルドへも知らせてある」

今回の依頼とは別件か。

行方不明になって二日。

ギルドが把握しているなら、捜索依頼が準備されている可能性もある。

「ガルドさんは、普段どの辺りまで行くんですか?」

「北側だ」

男が指差す。

「森の縁から少し入った辺りに罠を仕掛けてる」

アンが地図を見る。

「今回の調査区域と近いですね」

「うん」

完全に重なってはいない。

でもかなり近い。

ベラが僕を見る。

「どうする?」

「まずは依頼通り調べよう」

「探さぬのか?」

「捜索依頼じゃないからね」

今の僕たちには、やるべきことがある。

感情だけで勝手に奥まで入るわけにはいかない。

「でも」

僕はガルドが入ったという方を見る。

「調査中に何か見つけたら、その時は助ける」

「そう言うと思いました」

アンが小さく笑う。

「何?」

「何でもありません」

「最近それ多くない?」

教えてくれなかった。

男に礼を言い、村の外へ出る。

ここからが本来の依頼だ。

村と深緑樹海の境界。

草地が徐々に狭くなり、その向こうから木々が密集し始めている。

僕は記録用紙を取り出した。

「北側から回ろう」

「はい」

「任せたぞ」

ベラが言う。

「ベラもやるんだよ」

「妾は周囲を警戒しておる」

「本当?」

「本当じゃ」

「ならいいけど」

三人で歩き始める。

最初のうちは大きな異常はなかった。

小型の獣の足跡。

鳥の羽。

古い糞。

木に残った小さな傷。

僕には何の動物か分からないものも多い。

「これは?」

地面を指差す。

アンがしゃがむ。

「角兎でしょう」

「こっちは?」

「鹿です」

「これは?」

「ソル」

アンが僕を見る。

「何?」

「少しは自分でも考えてください」

「分からないから聞いてるんだけど」

「三か月も冒険者証を持っているのですから、そろそろ覚えてください」

「身分証としてしか使ってなかったからなあ」

「言い訳になっていません」

厳しい。

横を見るとベラが笑っていた。

「何笑ってるの」

「お主、アンに怒られておるな」

「ベラは分かるの?」

「当然じゃ」

「じゃあこれは?」

別の足跡を指差す。

ベラが見る。

「……獣」

「僕と同じじゃん」

「細かい種類などどうでもよかろう」

「アン」

「二人とも覚えてください」

怒られた。

そんなやり取りをしながら、さらに北へ進む。

やがて。

先を歩いていたアンが突然止まった。

「……ソル」

声の調子が変わる。

僕とベラが近づく。

「何かあった?」

アンは地面を見ていた。

「これを」

足跡。

一目見ただけで、さっきまでのものと違うと分かった。

大きい。

僕の手よりも一回り以上ある。

四足獣。

犬か狼に似ている。

「魔物?」

「おそらく」

アンが地面へ触れる。

土がまだ湿っている。

「それほど古くありません」

「何匹?」

「少なくとも……」

アンが周囲を見渡す。

一つ。

二つ。

三つ。

離れた場所にもある。

「五匹以上ですね」

「群れ?」

僕が聞く。

「待ってください」

アンが少し移動する。

別の足跡を見る。

今度は形が違う。

三本指。

鳥に似ているけれど、大きさが普通じゃない。

「これは別種です」

「こっちは?」

さらに少し離れた場所。

蹄のような足跡。

それも大きい。

「これも違います」

僕は周囲を見る。

一種類じゃない。

何種類もの魔物。

「随分通っておるな」

ベラが言う。

「問題はそこではありません」

アンが立ち上がる。

「全部、方向が同じです」

「方向?」

足跡を追う。

樹海から。

村側へ。

僕の表情が変わる。

「村に向かってる?」

「そう見えます」

昨日聞いた話。

最近、魔物の目撃数が増えている。

村では鳴き声が近くなっている。

そして。

実際に大量の足跡が森から外へ続いている。

「追う?」

僕が聞く。

「村に近づいているのであれば、確認すべきでしょう」

アンが答える。

今回の依頼には、村へ危険が及ぶ可能性のある魔物なら討伐も含まれている。

「よし」

僕は足跡を追う。

ただ。

しばらく歩くと妙なことに気づいた。

「……変だな」

「何がじゃ?」

「足跡」

村へ一直線じゃない。

途中で東へ逸れているもの。

北へ向かうもの。

そのまま草原を走り抜けているもの。

方向は違う。

でも。

共通していることが一つ。

全部。

樹海から離れている。

「村を狙っているようには見えませんね」

アンも気づいた。

「うん」

村を襲いたいのなら。

もっとまとまるはずだ。

これではまるで。

「逃げておるようじゃな」

ベラが言った。

僕とアンが見る。

ベラは足跡ではなく、深緑樹海を見ていた。

「逃げてる?」

「獣が住処から出る理由など限られておる」

「餌とか?」

「それもある」

ベラが答える。

「じゃが、この数。この種類」

視線が細くなる。

「同時に餌がなくなるとは考えにくいのう」

アンが考え込む。

「環境変化」

「あるいは」

ベラが続ける。

「そこにおれなくなったか」

風が吹く。

木々がざわめく。

一瞬。

樹海そのものが揺れたように見えた。

「……記録しよう」

僕は紙へ書き込む。

複数種類の魔物。

多数。

全て樹海の外側へ移動している。

「この時点でギルドへ戻っても、依頼としては十分な報告になりますね」

アンが言う。

「うん。でもまだ調査区域が残ってる」

地図を見る。

北側。

あと三分の一ほど。

「村の近くに向かってる個体がいるかもしれない」

「続けるのですね」

「そのための依頼だから」

アンが頷く。

「分かりました」

ベラは少し笑う。

「やっと面白くなってきたのう」

「楽しそうにしない」

「妾は真剣じゃ」

「その顔で?」

三人で北へ進む。

少しずつ木々へ近づいていく。

注意して見ると。

痕跡は増えていた。

折れた枝。

踏み荒らされた草。

木の幹についた深い爪痕。

泥。

毛。

まるで大量の何かが一斉に通過した後みたいだ。

それなのに。

「魔物がいない」

僕が呟く。

これだけ痕跡がある。

一匹くらい遭遇してもおかしくない。

なのに。

何もいない。

それどころか。

「静かですね」

アンが言った。

足が止まる。

確かに。

鳥の声がない。

虫の音も。

さっきまで聞こえていたはずなのに。

風で揺れる葉の音だけ。

「……」

ベラが樹海を見る。

「ベラ?」

「何じゃ」

「何かいる?」

「分からぬ」

珍しい答えだった。

「ベラでも?」

「妾を何だと思っておる。全知全能ではないぞ」

「ちょっと意外」

「殴るぞ」

でも。

その顔は笑っていない。

ベラがしばらく森を見つめる。

「少なくとも」

「うん」

「妙ではある」

その時だった。

「——誰か!」

声。

僕たち三人が同時に振り返る。

「今の」

アンが北を見る。

「人ですね」

もう一度。

「誰かいないか!」

男の声。

近い。

「行こう」

走り出す。

「ソル」

アンもすぐについてくる。

「調査区域から少し外れます」

「分かってる」

地図では北へ数百メートル。

本来なら依頼区域外。

でも。

人が助けを求めている。

無視できるわけがない。

「お主は本当に迷わぬな」

ベラが後ろから言う。

「ベラも来てるじゃん!」

「妾は暇じゃからな」

「せめて助けたいって言ってよ!」

木々の間へ入る。

初めて深緑樹海の中へ足を踏み入れた。

一気に光が減る。

地面には落ち葉。

湿った土。

根があちこちから飛び出している。

「こっちです!」

アンが声の方向を指す。

枝を避ける。

茂みを抜ける。

そして。

「いた!」

大きな木の根元。

一人の男が座り込んでいた。

四十代くらい。

服は泥と血で汚れている。

右脚には自分で巻いたらしい布。

傍らには折れた弓。

「冒険者……か?」

男が僕たちを見る。

「ガルドさん?」

「何で俺の名前を」

「村で聞きました。二日前から戻ってないって」

ガルドの顔から力が抜けた。

「そうか……村まで行ったのか」

「立てます?」

「左脚なら動く。右は……」

その瞬間だった。

アンが振り返る。

「ソル」

低い声。

僕も剣へ手を伸ばす。

茂みの奥。

何かいる。

ガサッ。

枝が揺れる。

ガルドの顔が強張る。

「気をつけろ」

「何がいます?」

「あいつだ」

「あいつ?」

「戻ってきやがった……」

低い唸り声。

「グルルルル……」

茂みの奥から。

ゆっくり。

魔物が姿を現した。

狼。

最初はそう見えた。

ただし。

大きさが違う。

体長は二メートル近い。

黒に近い灰色の毛。

肩から背中にかけて、白い骨のような突起が並んでいる。

太い前脚。

鋭い牙。

赤い目。

「骨甲狼……」

アンが呟く。

「知ってる?」

「D級相当の魔物です。ただ」

アンの表情が険しくなる。

「本来、樹海の外縁部よりも少し奥に生息しているはずです」

やっぱり。

「一匹なら?」

「D級冒険者の討伐対象です」

「なら問題ないね」

剣を抜く。

「待て」

ガルドが言う。

「あいつ……変なんだ」

「変?」

「俺を追ってここまで来たわけじゃねぇ」

意味が分からない。

骨甲狼が低く唸る。

僕たちを見る。

でも。

一瞬。

その赤い目が僕たちを通り越した。

後ろ。

さらに深い森の方角へ向く。

「……?」

次の瞬間。

地面を蹴った。

速い。

「来ます!」

アンの声。

骨甲狼が一直線に向かってくる。

狙いは。

ガルド。

「させない!」

間へ入る。

剣を構える。

牙が迫る。

半歩ずれる。

横から剣を振る。

ガキンッ!

硬い。

刃が毛の下にある何かへ弾かれた。

「っ!」

骨甲狼が着地する。

すぐ距離を取る。

「骨みたいなの、背中だけじゃないの?」

「肩から前脚付近にも骨板があります!」

「先に知りたかった!」

「私も実物を見るのは初めてです!」

「じゃあ仕方ない!」

「ソル」

ベラが前へ出る。

「妾がやるか?」

「村に近づく可能性あるし、討伐でいい」

「なら任せよ」

ベラが笑う。

手を前へ出す。

魔法陣。

嫌な予感。

「ベラ」

「なんじゃ」

「森は残して」

「分かっておる!」

「村もね」

「妾を何だと思っておる!」

魔法陣が光る。

「炎弾」

小さな炎。

本当に小さい。

拳ほどしかない。

それが一直線に飛ぶ。

ドンッ!

骨甲狼の横腹で炸裂。

「グァッ!」

身体が地面を転がる。

「……あれで弱くしてる?」

「かなり抑えておるぞ」

「基準がおかしい」

でも。

まだ生きている。

骨甲狼が立ち上がった。

足元がふらついている。

それでも逃げない。

僕たちへ唸る。

そして。

また。

奥を見る。

「……変ですね」

アンが言う。

「うん」

この魔物。

僕たちと戦うことに集中していない。

敵が目の前にいるのに。

何度も。

森の奥を確認している。

骨甲狼が突然横へ走った。

逃げる?

そう思った瞬間。

方向を変える。

ガルドの方。

「アン!」

「はい」

アンがガルドの前へ出る。

右手を向ける。

風が集まる。

「風圧」

空気が弾けた。

骨甲狼の身体が僅かに横へ流れる。

軌道が変わる。

その先。

僕。

「ソル!」

「分かってる!」

踏み込む。

今度は背中を狙わない。

首。

骨板のない部分。

骨甲狼の牙が迫る。

剣を僅かに下げる。

直前まで待つ。

一歩。

横へ。

牙が肩のすぐ横を抜ける。

近い。

でも。

見える。

首筋。

「——っ!」

剣を振り抜く。

感触。

骨じゃない。

刃が通る。

骨甲狼が僕の横を通過した。

着地。

一歩。

二歩。

そして。

地面へ倒れた。

動かない。

「……終わった?」

「はい」

アンが答える。

僕は小さく息を吐く。

剣についた血を払い、鞘へ戻した。

「弱いのう」

ベラが言う。

「D級だからね」

「階級で強さを語るでない」

「ギルドの基準だから仕方ないでしょ」

アンはガルドへ近づく。

「他に怪我は?」

「脚だけだ」

「見せてください」

布を外す。

傷は深い。

でも。

命に関わるほどではなさそうだ。

僕は倒した骨甲狼を見る。

「ガルドさん」

「何だ?」

「これに襲われたんですよね?」

「ああ」

「いつから?」

ガルドが少し黙る。

「昨日だ」

「昨日?」

「正確には、昨日の夕方だ。ただ」

ガルドが首を横へ振る。

「最初は俺なんか見てなかった」

「どういうこと?」

「森の奥から走ってきたんだ」

ガルドの顔に恐怖が浮かぶ。

「こいつだけじゃねぇ」

僕たちの空気が変わる。

「何匹いました?」

アンが聞く。

「数なんて分からねぇ」

「種類は?」

「色々だ」

ガルドが息を整える。

「角の生えた猪。人間よりでかい蜥蜴。猿みたいなのもいた。全部、森の奥から外へ走ってた」

僕とアンが顔を見合わせる。

境界で見つけた足跡。

一致する。

「あなたを襲わなかった?」

「最初はな」

ガルドが頷く。

「俺のすぐ横を通った奴もいた。でも見向きもしなかった」

「じゃあ骨甲狼は?」

「こいつは途中で怪我したらしい。昨日の夜から、この辺りをうろついてた」

なるほど。

群れから離れ。

興奮して。

近くにいたガルドを襲った。

「魔物たちは何に追われていたんですか?」

アンが聞く。

ガルドが黙る。

「分からねぇ」

「何も見なかった?」

「見てない」

顔が強張る。

「でも」

ガルドが森の奥を見る。

「何かいた」

小さな声。

「そう思った理由は?」

僕が聞く。

「夜だ」

「夜?」

「ああ」

ガルドの手が僅かに震える。

「昨日の夜、森中から魔物の鳴き声がした」

「それだけ?」

「違う」

ガルドが首を横へ振る。

「地面が震えた」

「地面?」

「何度もだ」

ドン。

ドン。

何か巨大なものが歩くように。

ガルドはそう言った。

「それから急に静かになった」

鳥も。

虫も。

魔物の鳴き声さえ。

全部。

「今みたいに?」

僕が呟く。

誰も答えない。

今。

この辺りも静かだ。

アンが立ち上がる。

「ソル」

「うん」

「戻りましょう」

反対する理由はない。

「今回の依頼としても、十分すぎる異常を確認しました」

「そうだね」

これ以上進む必要はない。

むしろ。

進むべきじゃない。

受付嬢にも言われた。

異常を発見したら深入りせず、報告する。

今がまさにその時だ。

「ベラ」

「何じゃ」

「戻るよ」

珍しく。

ベラは反対しなかった。

「うむ」

ただ。

その目はずっと樹海の奥を見ている。

「何か分かる?」

「いや」

「ベラでも?」

「何度も言わせるな」

ベラが眉を寄せる。

「妾とて知らぬものはある」

「そっか」

「じゃが」

「何?」

「先ほどから魔力の流れが妙じゃ」

「魔力?」

アンの表情が変わる。

「どう妙なのです?」

「分からぬ」

ベラが手を上げ、僅かに指を動かす。

何かを探るように。

「樹海の奥で、魔力が乱れておる」

「何か大きな魔法が使われている?」

「それとも違う」

ベラが首を横へ振る。

「もっと広い」

一瞬。

誰も話さなかった。

「とりあえず」

僕はガルドを見る。

「今はこの人を村へ連れて帰ろう」

「そうですね」

アンが頷く。

「ガルドさん、立てます?」

「ああ。肩を貸してもらえれば」

「僕が運びます」

腕を肩へ回してもらう。

「アンは周りお願い」

「分かりました」

「ベラ」

「妾が先頭じゃな」

「話早いね」

「魔物が現れれば倒せばよいのであろう?」

「村に近づく危険があるならね」

「同じことじゃ」

「違うよ」

戻る。

帰り道では。

何度か新しい足跡を見つけた。

どれも。

外へ向かっている。

ただ幸いにも。

実際の魔物と遭遇することはなかった。

樹海を抜け。

草地へ出る。

遠くにルクス村が見えた。

「……帰れた」

ガルドが呟く。

その声には二日分の疲れが滲んでいた。

村へ近づく。

すると。

「ガルド!?」

一人の男性がこちらへ走ってきた。

先ほど話を聞いた男だ。

「生きてたのか!」

その声に村人たちが次々と集まってくる。

「ガルド!」

「誰か水を!」

「脚怪我してるぞ!」

僕の肩からガルドを受け取る。

村人たちが家へ運んでいく。

「ありがとう」

さっきの男が僕たちへ頭を下げた。

「本当にありがとう」

「偶然、声が聞こえただけなので」

「それでもだ」

男が何度も頭を下げる。

「助かった」

少しして。

ガルドが家の中へ運ばれた。

村の人たちも落ち着き始める。

僕たちは村の外れへ移動した。

そこから。

深緑樹海を見る。

「これ」

アンが記録用紙を見る。

「ただ魔物が活発になっているだけではありませんね」

「僕もそう思う」

魔物が村を狙っているなら分かる。

餌。

人。

家畜。

目的はいくらでも考えられる。

でも。

今回見つけた痕跡は違った。

種類の違う魔物が。

同時に。

樹海の外へ。

「逃げてる」

僕が言う。

「はい」

アンが頷く。

「村へ向かっているのではなく、結果として村の近くまで来ているだけなのかもしれません」

「ならば」

ベラが言う。

「村を守るだけでは解決せぬな」

「原因が樹海の中にあるから?」

「そういうことじゃ」

ベラが少し笑う。

「面白くなってきたのう」

「またそれ?」

「未知があるのじゃぞ。面白くないわけがなかろう」

「村の人たちは困ってるんだけど」

「分かっておる」

笑みが僅かに消える。

「だからこそ、何が起きているのか知る必要がある」

珍しくまともなことを言った。

「帰ろうか」

「はい」

「うむ」

ローディアへ戻る。

ギルドへ着いた頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。

扉を開ける。

中は朝よりも騒がしい。

依頼を終えた冒険者たち。

酒を飲む者。

受付へ報告する者。

その中を進む。

「お帰りなさい」

昨日から担当してくれている受付嬢が僕たちに気づいた。

「調査はいかがでしたか?」

「それが」

僕は記録用紙を机へ置く。

「結構、色々ありました」

「色々?」

「まず」

境界で見つけたものから話す。

複数種類の魔物の足跡。

少なくとも数匹では済まない数。

全て樹海から外側へ向かっていること。

爪痕。

毛。

荒らされた草。

そして。

「行方不明だったガルドさんを見つけました」

受付嬢の目が大きく開く。

「ガルドさんを!?」

「はい」

「無事なんですか?」

「脚を怪我してましたけど、村まで連れて帰りました」

受付嬢が大きく息を吐く。

「よかった……」

本当に安心したようだった。

「今日の午後から捜索依頼を出す予定だったんです」

「それと」

アンが続ける。

「ガルドさんの近くで骨甲狼を一体討伐しました」

その瞬間。

受付嬢の表情が変わった。

「骨甲狼?」

「はい」

「どこで?」

僕が地図の位置を指す。

「ここです。調査区域から少し北へ外れたところ」

受付嬢が黙る。

「やっぱり珍しいんですか?」

「珍しいどころか」

受付嬢が地図を見る。

「骨甲狼は、この位置まで出てくる魔物ではありません」

「普段は?」

「中層部に近い外縁部です」

僕たちがいた位置より。

かなり奥。

「それが一体だけなら、縄張り争いに負けた個体という可能性もあります」

「でも」

アンが言う。

「他にも多数の魔物が外へ移動しています」

ガルドから聞いた話も伝える。

角の生えた猪。

大型の蜥蜴。

別種の魔物。

人間へ見向きもせず。

ただ外へ走っていた。

夜には地面が震え。

森全体が騒がしくなった。

そして。

「骨甲狼も妙じゃった」

ベラが言う。

受付嬢が見る。

「妙?」

「戦っておる最中、何度も森の奥を見ておった」

「奥を?」

「うむ」

ベラの目が細くなる。

「妾たちを警戒するよりも、後ろを気にしておった」

受付嬢の顔から笑みが完全に消える。

アンが静かに続けた。

「恐らく、活性化ではありません」

「……では?」

僕が答える。

「魔物が森から逃げてる可能性があります」

一瞬。

受付嬢が黙った。

「逃げている……」

「はい」

「何からですか?」

「それは」

僕は首を横へ振る。

「分かりません」

ただ。

何かが起きている。

それだけは間違いない。

ベラが口を開く。

「樹海の奥で魔力の流れも乱れておった」

受付嬢がさらに表情を変えた。

「魔力が?」

「うむ。原因までは分からぬがな」

「……少々お待ちください」

受付嬢が突然立ち上がった。

「どうしたの?」

「責任者を呼んできます」

「そこまで?」

「骨甲狼の目撃だけなら、まだ偶然で処理できました」

受付嬢が地図を見る。

「ですが、複数種類の魔物が同時に外へ移動しているとなれば話が違います」

そう言い残し。

ギルドの奥へ消える。

僕たちはその場に残された。

「思ったより大事になったね」

「そうですね」

アンが記録用紙を見る。

「ただのD級調査依頼だったはずなのですが」

「妾は最初から何かあると思っておったぞ」

「本当に?」

「無論じゃ」

「昨日、調査はつまらないって顔してたけど」

「それとこれは別じゃ」

都合がいい。

少し待つ。

やがて。

奥の扉が開いた。

受付嬢が戻ってくる。

その隣に。

一人の男。

五十代くらい。

大柄。

短く刈られた灰色の髪。

左目から頬へ走る古い傷。

腰には大剣。

男が姿を見せた瞬間。

近くにいた冒険者たちの声が少しだけ小さくなった。

「あれ」

僕が小声で言う。

「偉い人?」

「恐らく」

アンが答える。

男は僕たちの前へ来る。

視線が。

僕。

ベラ。

アン。

順番に向けられる。

「お前たちがルクス村の境界を調べてきたD級冒険者か」

「はい」

「ソルです」

「ベラトリクスじゃ」

「アンです」

男が頷く。

「俺はこの支部を預かっている、ギルド長のガルムだ」

ギルド長。

なるほど。

周りの反応にも納得した。

「悪いが」

ガルムが机の上に置かれた地図を見る。

「今報告した内容を」

そして。

僕たちを見た。

「最初から全部、もう一度聞かせてくれ」

ただのD級調査依頼。

村の近くで。

魔物が活発になっていないかを確認するだけ。

必要なら。

村へ近づく魔物を討伐する。

それだけの依頼だった。

でも。

僕たちが見つけたのは。

村へ進む魔物じゃない。

深緑樹海から。

何かに追われるように逃げ出している魔物たち。

あの森の奥で。

一体何が起きているのか。

この時の僕には。

まだ。

想像することすらできなかった。


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