忘れられた祠
第1話 忘れられた祠
五百年前。
世界は、一人の魔王によって滅亡の危機に瀕した。
魔族を率い、人間の国々を蹂躙し、数え切れないほどの命を奪った魔王――ベラトリクス。
その圧倒的な力の前に、いくつもの国が滅び、人々は絶望した。
だが、人類は最後まで希望を失わなかった。
勇者レグルス。
剣聖シリウス。
守護騎士アルデバラン。
賢者アークトゥルス。
聖女ルナ。
後に《五英雄》と呼ばれる五人が立ち上がり、長き戦いの末、ついに魔王を討ち滅ぼした。
五英雄は世界各地に封印の塔を築き、魔王の力が二度と世界へ災いをもたらさぬよう封じたという。
そして世界には、長い平和が訪れた。
――それから、五百年。
「ソルー!」
家の外から大きな声が聞こえた。
玄関で靴を履いていた僕は、思わず顔をしかめる。
「聞こえてるって!」
「忘れ物ないでしょうね!」
「ない!」
「お金は!?」
「持った!」
「着替えは!?」
「入れた!」
「お弁当は!?」
「……」
僕は動きを止めた。
ゆっくり後ろを振り返る。
机の上。
布に包まれた昼飯が、ものすごく分かりやすく置かれていた。
「……今、入れようと思ってた」
「忘れてたんじゃない!」
「忘れてないって」
「じゃあなんで机の上にあるのよ!」
「今入れる予定だったんだって!」
母さんのため息が聞こえる。
十五年一緒に暮らしてきたけど、あのため息にはいくつか種類がある。
今のはたぶん、
《この子、本当に一人で王都まで行けるのかしら》
ってやつだ。
僕は昼飯を鞄の一番上へ押し込み、肩に担いだ。
普段使っている鞄より、かなり重い。
着替え。
水筒。
食料。
財布。
簡単な地図。
それから父さんに持たされた、小さな短剣。
魔物に襲われた時のためらしいけど、これ一本で何ができるのかは分からない。
まあ、ないよりはマシだ。
玄関を開けると、朝の冷たい風が顔に当たった。
小さな村だった。
名前はフィル村。
アステリア王国の東の端にある、人口二百人にも満たない村。
これといって有名なものはない。
珍しい作物が採れるわけでもないし、腕のいい職人がいるわけでもない。
旅人だって、わざわざここを目的地にすることはほとんどない。
僕にとっては十五年間暮らしてきた故郷だけど、王国の地図で探そうとしたら、たぶん虫眼鏡が必要になる。
家の前には母さんと父さんが立っていた。
母さんは既に泣きそうな顔をしている。
「そんな顔しなくても」
「だって……」
「王都に行くだけだよ」
「王都に行くだけって、何日かかると思ってるの」
「三日?」
「ちゃんと街道を歩いて四日!」
父さんが横から訂正した。
「寄り道すんなよ」
「しないよ」
「知らない奴についていくな」
「僕、五歳じゃないから」
「怪しい商人から物を買うな」
「買わないって」
「安い宿には気をつけろ」
「分かったって」
「魔物を見つけても――」
「逃げる」
僕が先に答えると、父さんは満足そうに頷いた。
「よし」
「……本当に大丈夫?」
母さんはまだ心配そうだった。
僕は苦笑する。
「大丈夫だって。仕事見つけたら手紙送るから」
王都へ向かう理由なんて、大したものじゃない。
村には仕事が少ない。
畑を継ぐ家でもない僕が、このまま村に残っていてもできることは限られている。
十五歳。
この国ではもう、働き始めてもおかしくない年齢だ。
だから王都へ行く。
そこで仕事を探す。
ただ、それだけ。
勇者になるためでもなければ、冒険者として名を上げたいわけでもない。
世界を救うなんて、もちろん考えたこともない。
毎日ちゃんと飯が食えて、少しくらい家にお金を送れれば、それで十分だった。
「そういえば」
母さんが急に何かを思い出したように顔を上げる。
「王都、今すごいんでしょう?」
「何が?」
「五百周年のお祭りよ」
「ああ」
今年は、魔王ベラトリクスが討伐されてからちょうど五百年。
王都では一か月ほど前から、《魔王討伐五百周年記念祭》の準備が進められているらしい。
五英雄の像が飾られ、各国から使節団が訪れ、五百年前の戦いを再現した劇なんかも行われるとか。
「せっかくなんだから見てきなさいよ」
「仕事探しに行くんだけど」
「一日くらいいいじゃない」
「まあ、時間あったら」
正直、五英雄にそこまで興味があるわけじゃなかった。
もちろん名前は知っている。
この国で知らない人はいない。
特に勇者レグルスなんて、子供向けの絵本にだって出てくる。
『勇者レグルスと邪悪な魔王』
僕も小さい頃、何度も読んでもらった。
勇者が聖剣で魔王を倒し、世界に平和を取り戻す話。
誰もが知っている英雄譚だ。
学校でも同じ内容を習った。
《五英雄は命を賭して魔王ベラトリクスを討ち、我々の世界に永き平和をもたらした》
教科書にはそう書かれていた。
だから僕にとって魔王も五英雄も、昔話の登場人物とほとんど変わらない。
五百年前なんて、遠すぎる。
「ソル」
父さんが僕の肩を軽く叩いた。
「困ったら帰ってこい」
「……うん」
「別に王都で仕事が見つからなくたって死ぬわけじゃない」
「分かってるよ」
「あと」
「まだあるの?」
「母さんに毎週手紙を書け」
「毎週!?」
「当然でしょ!」
母さんが即答する。
「月一」
「毎週」
「二週に一回」
「毎週」
「……分かったよ」
たぶん無理だ。
そう思ったけど、口には出さなかった。
僕は二人に手を振る。
「じゃあ、行ってきます」
母さんが目元を拭いながら笑った。
「行ってらっしゃい」
「気をつけろよ」
「うん」
僕は村を出た。
朝の日差しが、遠く伸びる街道を照らしていた。
初めての一人旅。
少し怖い。
でも、それ以上に楽しみだった。
王都はどんな場所なんだろう。
どんな仕事があるんだろう。
どんな人たちが暮らしているんだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、自然と足取りが軽くなった。
何度か振り返った。
最初は家の屋根が見えていた。
次に振り返った時には、村を囲む柵しか見えなかった。
そして三度目には、それすら木々の向こうへ消えていた。
十五年間暮らした村が見えなくなる。
その瞬間だけ、胸の奥に小さな寂しさが残った。
「……よし」
前を向く。
帰れなくなるわけじゃない。
仕事が見つからなかったら帰ればいい。
父さんもそう言っていた。
それくらいでいい。
太陽は少しずつ高く昇っていった。
街道はやがて森の中へ続いていく。
整備された道だから迷うことはない。
途中、何台かの馬車とすれ違った。
荷物を満載にした商人。
家族連れ。
旅装の冒険者らしい人たち。
そのほとんどが僕と同じ王都方面へ向かっていた。
やっぱり五百周年の祭りを目当てにする人が多いらしい。
すれ違った商人の馬車には、五英雄を描いた大きな旗まで立てられていた。
中央には聖剣を掲げた勇者レグルス。
その左右に四人の英雄。
片手に刀を携えた剣聖シリウス。
巨大な盾を構える守護騎士アルデバラン。
杖を手にした賢者アークトゥルス。
両手を組み祈りを捧げる聖女ルナ。
子供の頃から何度も見てきた構図だ。
その五人の前には、巨大な黒い影が描かれている。
角を生やし、翼を広げ、人々を見下ろす魔王ベラトリクス。
もちろん、本当にそんな姿をしていたのか僕は知らない。
五百年前の人だ。
正確な肖像画すらほとんど残っていない。
それでも絵本でも教科書でも、魔王といえば大体こんな姿で描かれている。
「五百年か……」
思わず呟いた。
僕が生まれるよりずっと前。
父さんが生まれるより前。
そのまた父さんが生まれるより、さらにずっと昔。
それだけの時間が経っても、五人の名前は世界中に残っている。
英雄というのは、きっとそういうものなんだろう。
僕は特に気にすることもなく、そのまま歩き続けた。
昼を少し過ぎた頃。
さすがに腹が減ってきた。
朝からずっと歩きっぱなしだ。
「どこか座れるところ……」
周囲を見回す。
街道の脇に大きな木があった。
枝が大きく張り出し、ちょうどいい日陰になっている。
あそこでいいか。
そう思って近づいた時だった。
「……ん?」
木々の隙間。
街道から少し離れた場所に、何かが見えた。
最初はただの岩かと思った。
でも、妙に形が整っている。
「石……?」
目を凝らす。
いや。
石段だ。
草に覆われていて分かりにくいけど、確かに人の手で作られたものだった。
街道から外れ、森の奥へと続いている。
僕は立ち止まった。
父さんの言葉が頭をよぎる。
《寄り道すんなよ》
「……」
まだ村を出て半日。
その言いつけを破るには、少し早すぎる気がする。
僕は一度、街道の先を見る。
それから石段を見る。
「……ほんの少しだけなら」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
そう思った時点で、もう負けていた。
僕は街道から外れた。
草をかき分けながら石段を進む。
近くで見ると、かなり古い。
ところどころ崩れ、苔がびっしりと張り付いている。
誰かが使っているようには見えなかった。
少なくとも、ここ数年は人が歩いていないんじゃないだろうか。
「こんなのあったんだ……」
持ってきた地図には載っていない。
そもそも、街道から見つけられたこと自体が偶然だった。
石段は緩やかに上っている。
森の中は静かだった。
さっきまで聞こえていた馬車の車輪の音も、旅人たちの話し声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
聞こえるのは、自分の足音と木々の葉が揺れる音だけ。
「……ちょっと遠くない?」
ほんの少しのつもりだった。
戻ろうか。
そう思った頃だった。
森が開けた。
そしてそこに、それはあった。
「……祠?」
小さな石造りの祠。
屋根の半分は崩れ落ち、柱には無数のひびが入っている。
蔦が壁を覆い、入口の前には大量の落ち葉が積もっていた。
扉らしいものもない。
中を覗いても、何かが祀られているようには見えなかった。
少なくとも何十年も、人の手が入っていない。
いや。
もしかしたら、もっとかもしれない。
「なんの祠だろ」
祠の前には、一つの古びた石碑が立っていた。
その表面には文字らしきものが刻まれている。
僕は近づき、袖で苔を払った。
「……読めない」
見たことのない文字だった。
古代文字だろうか。
学校で少し習った古い文字とも違う。
いくつもの線と円が複雑に絡み合い、文字というより模様にも見える。
「先生なら分かるかな」
そんなことを考えながら、指先で石碑に触れた。
その瞬間。
「……?」
ほんの少しだけ。
指先が温かくなった気がした。
手を離す。
何もない。
「気のせいか」
そう思った。
だけど、不思議だった。
ここに来てからずっと、胸の奥が少しだけざわついている。
怖いわけじゃない。
嫌な感じもしない。
むしろ――
「……懐かしい?」
口にしてから、自分で首を傾げる。
そんなはずがない。
初めて来た場所だ。
この村の外へ一人で出たことだって今日が初めてなのに、この森の奥に来たことがあるはずもない。
「何言ってるんだ、僕」
小さく笑って首を振った。
もう戻ろう。
そう思って、祠を見る。
何を祀っていた場所なのかは分からない。
神様か。
昔の英雄か。
それとも、この辺りの土地を守る何かなのか。
ずっと昔には、ここへ足を運んで祈る人がいたのかもしれない。
それがいつからか忘れられて。
今では屋根も崩れ、名前すら読めなくなっている。
「……なんか、可哀想だな」
何となく、そう思った。
誰の祠か知らないけど。
ここまで来たんだし。
僕は祠の正面に立った。
両手を合わせる。
別に信心深いわけじゃない。
村の神殿にだって年に数回行く程度だ。
だから、本当に深い意味なんてなかった。
ただ――
誰にも祈られなくなった場所に、一度くらい祈ってもいいと思った。
目を閉じる。
「……」
数秒。
何も起きない。
当たり前だ。
僕は目を開けた。
「よし、戻ろ――」
――ドクン。
「……え?」
心臓が大きく鳴った。
一瞬、そう思った。
でも違う。
僕じゃない。
――ドクン。
地面の下。
祠の奥。
もっと深い場所から。
何かが脈打っている。
「な、なんだ……?」
一歩後ろへ下がる。
足元に積もっていた落ち葉が、ふわりと浮かび上がった。
「え?」
風は吹いていない。
なのに一枚、また一枚と葉が宙へ浮かんでいく。
やがて無数の落ち葉が、僕の周囲をゆっくりと回り始めた。
祠の石壁が淡く光る。
「……嘘だろ」
さっきまで何も見えなかったはずの壁に、青白い線が走っていた。
石碑に刻まれていた、あの読めない文字。
一つ。
また一つ。
文字が次々と光を灯し、崩れた祠全体へ広がっていく。
「ちょ、待って」
嫌な予感しかしない。
僕はすぐに街道へ戻ろうとした。
でも。
足が動かない。
「……は?」
力を入れる。
動かない。
まるで地面に縫い付けられたように、両足がびくともしない。
「な、なんで……!」
地面を見る。
そして、言葉を失った。
僕の足元。
いつの間にか巨大な魔法陣が広がっていた。
見たこともないほど複雑な紋様。
幾重にも重なった円。
その中を埋め尽くす、無数の古代文字。
光が脈打つたび、魔法陣が少しずつ回転している。
魔法なんて大して使えない僕でも分かった。
こんなもの――普通じゃない。
「いやいやいやいや!」
魔法陣の光が強くなる。
僕は必死に足を引き抜こうとする。
動かない。
短剣を抜こうとした。
でも、こんなものを斬ってどうなる。
「ちょっと待ってって!」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
祠が答えるはずもない。
光がさらに強くなる。
青白かった魔法陣が、今では直視できないほど眩しく輝いている。
「こんなの聞いてないって……!」
当たり前だ。
父さんだって、
《寄り道したら謎の祠に捕まって巨大な魔法陣に飲み込まれるから気をつけろ》
なんて言っていなかった。
――寄り道するなとは言われたけど。
「父さん、ごめん!」
今さら謝っても遅い。
光が視界を埋め尽くす。
身体が浮くような感覚。
足元が消える。
上下の感覚すら分からなくなる。
「うわっ……!」
その直前だった。
声が聞こえた。
ほんの一瞬。
遠い。
遠い。
遥か昔から、長い時間を越えて届いたような声。
男の声だった。
『――頼む』
「……え?」
次の瞬間。
世界が白く染まった。
僕の身体は、森から消えた。




