天の裂け目
第122話 天の裂け目
世界連合軍による緊急会議が続く中。
その頃。
カグラ皇国隠密機動部隊を母体とした先鋭部隊は、一体の天使を追い続けていた。
追尾開始から、既に六時間以上。
天使は一度も人里へ近づいていない。
街を避け、村を避け、時には大きく進路を変えながら、人の気配がない場所だけを選ぶように飛んでいる。
「隊長」
「何だ」
「対象、速度を落としています」
シノブが前方を見る。
遠く。
木々の隙間から、白い翼が見える。
「全員停止」
声は小さい。
それでも、隊員たちは一斉に止まった。
気配を消す。
音を消す。
魔力すら限界まで抑える。
「距離を維持。絶対に近づくな」
「了解」
天使が森を抜ける。
その先。
人里から大きく離れた荒れ地。
周囲に建物はない。
街道からも外れている。
天使が降下した。
「……止まった」
隊員の一人が呟く。
シノブが片手を上げる。
「観測を続けろ」
「了解」
天使は地上へ降り立った。
動かない。
何かを探している様子もない。
「何をしている……?」
次の瞬間。
天使が両手を地面へ向けた。
「……!」
シノブの目が細くなる。
「魔力反応!」
探知役が小さく叫ぶ。
「対象を中心に魔力が動いています!」
「攻撃か?」
「違います」
一拍。
隊員の顔色が変わる。
「周囲の魔力が……吸われています」
「何?」
空気中。
地面。
草木。
周囲に存在する魔力が、天使へ向かって流れ始めた。
目には見えない。
だが、魔力を扱える者なら分かる。
異常な勢いで、この土地から何かが失われていく。
「周辺魔力濃度、低下!」
「まだ下がります!」
「地中からも反応!」
「地脈か?」
「はい! 地脈の魔力まで吸収しています!」
シノブは天使を見る。
天使は動かない。
ただ、吸い続ける。
土地そのものから。
魔力を。
その時。
「隊長」
「何だ」
「地面が……」
シノブが視線を下げる。
「……!」
天使の足元。
大地の色が変わり始めていた。
茶色だった土。
緑の草。
それが少しずつ黒へ。
焦げたわけではない。
炎もない。
煙もない。
ただ、色が失われるように黒く変色していく。
範囲が広がる。
一メートル。
十メートル。
さらに。
「記録しろ」
「はい」
「魔力濃度、地脈、変色範囲。全てだ」
「了解」
やがて天使が顔を上げた。
「……?」
空。
何もない。
青い空。
雲。
そのはずだった。
ピシッ。
小さな音。
シノブが空を見る。
ピシッ。
一本。
黒い線。
「何だ……?」
空に亀裂。
ピシッ。
ピシッ。
広がる。
「全員警戒」
シノブの声。
隊員たちが武器へ手をかける。
そして。
バキッ――。
空が裂けた。
「……!」
青空が割れる。
その向こう。
黒。
夜ではない。
暗闇でもない。
そこには明らかに別の空間が存在していた。
「……何だ、あれは」
誰かが呟く。
黒い世界。
光がない。
どこまで続いているのか。
何が存在しているのか。
ここからでは分からない。
ただ、世界そのものが違う。
そんな感覚。
天使が翼を広げた。
「隊長」
「動くな」
「しかし」
「追うな」
シノブが即座に命じる。
天使が浮かぶ。
そして、黒い裂け目へ向かう。
「向こう側の情報が一切ない」
「……」
「我々の役割は情報を持ち帰ることだ」
天使が裂け目の中へ消えた。
数秒。
何も起きない。
そして裂け目が閉じ始める。
ゆっくり。
黒い世界が消えていく。
最後に一本の線となり、消えた。
「……」
空。
元通り。
青い空。
まるで最初から何もなかったように。
「……隊長」
「ああ」
シノブが立ち上がる。
「対象の追尾を終了する」
「はい」
「周辺調査へ移行」
先鋭部隊が動く。
天使がいた場所。
そこだけ黒い。
草も。
土も。
全て。
「魔力濃度は?」
「極端に低下しています」
「回復傾向は?」
「……ありません」
隊員が地面へ手を当てる。
「ほとんど魔力を感じません」
「地脈は?」
「こちらも同様です」
シノブが黒い大地を見る。
天使は土地の魔力を吸収した。
そして天を裂いた。
その先にあった黒い世界へ消えた。
「記録を本隊へ送れ」
「了解」
「過去の記録とも照合しろ。同様の土地が存在していないか調べる」
「はい」
しばらくして。
「隊長!」
「どうした」
一人の隊員が地図を持ってくる。
「ありました」
「何?」
「同様の報告です」
地図。
一点。
「原因不明の魔力枯渇地帯」
別の地点。
「こちらも」
さらに。
「ここにもあります」
一つ。
二つ。
三つ。
それだけじゃない。
各国から共有された記録。
人里離れた森。
岩山。
谷。
荒野。
大地が黒く変色し、周辺の魔力が極端に薄い。
原因不明。
これまで別々の現象として記録されていた。
「……同じか」
「断定はできません」
「だが」
シノブが地図を見る。
「調べる価値はある」
「はい」
最も近い地点。
現在地から、それほど遠くない。
「移動する」
「了解」
先鋭部隊は再び動いた。
数時間後。
「ここです」
森を抜けた先。
隊員たちが止まる。
シノブが地面を見る。
黒い。
先ほどと同じ。
大地が黒く変色している。
その範囲は、先ほど見た場所より広い。
「調査開始」
「了解」
隊員たちが散開する。
魔力測定。
地脈。
残留魔力。
周辺環境。
「魔力濃度、低」
「地脈もほとんど回復していません」
「記録では?」
「この場所が最初に確認されたのは、十年以上前です」
「十年……」
シノブが地面へ触れる。
十年以上。
それでも土地の魔力は戻っていない。
「隊長」
別の隊員。
「こちらへ」
地面。
微かな異質な魔力。
「残留魔力?」
「はい」
「天使か?」
「恐らく」
「量は?」
隊員が黙る。
「どうした」
「一体分とは思えません」
「何?」
「複数です」
シノブが立ち上がる。
その瞬間。
探知役が勢いよく顔を上げた。
「隊長!」
「どうした!」
「魔力反応!」
「位置!」
「上空!」
全員が空を見る。
何もない。
「数は?」
「……」
「報告しろ」
「……増えています」
「何?」
「一」
「二」
「五」
「十……」
探知役の声が震える。
「まだ増えます」
「数は!?」
「……」
一拍。
「数え切れません」
「全員、調査中止!」
シノブが叫ぶ。
「撤退準備!」
ピシッ。
空。
黒い線。
「……来るぞ」
一本。
二本。
三本。
次々。
空に亀裂が走る。
「全員集まれ!」
「了解!」
先鋭部隊が一箇所へ集まる。
空が裂ける。
バキッ――!!
黒い世界。
先ほど見たものと同じ。
でも違う。
「……」
裂け目の向こう。
何かがいる。
白。
一つじゃない。
二つでもない。
大量の白い影。
翼。
「……天使」
一体。
裂け目から出てくる。
続いて二体。
三体。
五体。
十体。
「まだ来ます!」
「交戦するな!」
シノブが即座に命令する。
「撤退を最優先!」
「了解!」
天使が増える。
二十。
三十。
その先は、もう数えられない。
白い翼が空を埋め始める。
「魔道通信を!」
「はい!」
隊員が通信魔道具を起動する。
「世界連合軍へ緊急通信!」
魔力が繋がる。
「接続!」
「こちらカグラ皇国先鋭部隊隊長、シノブ・カゲツ!」
その声が世界連合軍へ飛んだ。
セレフィア神聖国。
世界会議場。
緊急会議はまだ続いていた。
その時。
魔道通信が激しく光った。
「教皇猊下!」
アルヴィスが立ち上がる。
「シノブ隊長から緊急通信!」
「繋いでください!」
「はい!」
映像。
乱れている。
森。
黒い大地。
そして。
『緊急……報告……!』
「シノブ隊長!」
教皇が立ち上がる。
『黒変色地点にて……天使を確認……!』
アンタレスがすぐに聞く。
『数は?』
一瞬。
シノブが後ろを見る。
映像が揺れる。
その奥。
白。
翼。
大量。
『……多数』
「具体的な数を!」
『……』
一拍。
『数え切れません』
「……」
会議場から音が消えた。
数え切れない。
今まで。
一体。
多くても三体。
それが。
数え切れない。
『現在、先鋭部隊は撤退を開始しています!』
「現在地は?」
『位置情報を送信します!』
アルヴィスが地図を見る。
「受信しました!」
『それと……もう一つ!』
「何です?」
『天使がどこから現れるのか……判明した可能性があります!』
「……!」
教皇の目が見開かれる。
『奴らは土地の魔力を吸収し――』
ドンッ!!
映像が激しく揺れた。
「シノブ隊長!」
『っ……!』
「何が起きています!?」
『天使側に……発見されました!』
「……!」
『撤退します!』
戦闘音。
『隊長! 右から来ます!』
『避けろ!』
『世界連合軍へ!』
シノブの声。
『我々が確認した情報を――』
ザザッ。
映像が乱れる。
『必ず――』
「シノブ隊長?」
『黒い……世界が――』
ザッ。
「シノブ隊長!」
『天使は――』
ブツッ。
映像。
消失。
「……」
誰も喋らない。
「……通信は?」
教皇が聞く。
アルヴィスが何度も魔道具を操作する。
「再接続を試みています」
「……」
「駄目です」
一拍。
「通信、完全に途絶しました」
沈黙。
僕は拳を握っていた。
「シノブ……」
カイルも立ち上がっている。
ベラは何も言わない。
ただ、消えた魔道通信を見ている。
教皇が口を開こうとした。
その時。
『全員、聞いてください』
声。
アンタレス。
静か。
でも、その一言で会議場の空気が変わった。
現魔王。
そして世界連合軍最高指揮者。
アンタレス。
その顔から迷いは消えていた。
『ただちに救出作戦へ移行します』
「……!」
『目的は天使の殲滅ではありません』
一拍。
『カグラ皇国先鋭部隊の救出』
全員がアンタレスを見る。
『情報を持ち帰るために命を懸けた者たちを』
一拍。
『必ず連れ戻します』
「はい!」
教皇が頷く。
アンタレスが次々と指示を飛ばす。
『ガレス』
魔道通信。
『はっ!』
『魔王軍から救出部隊を選抜』
『了解!』
『飛行能力を持つ者を中心に編成。ただし、通常飛行による移動とします』
『承知!』
『現地到着後は戦闘より生存者の確保を優先』
『はっ!』
次。
『レオンハルト』
「はっ!」
『聖騎士団から機動力、防御能力、治癒能力に優れた者を選抜してください』
「直ちに!」
『現地で負傷者を発見した場合、その場で治療を開始』
「承知しました!」
そして。
アンタレスが僕を見る。
『ソル』
「うん!」
『カイル』
「おう!」
『世界連合軍特別部隊として』
一拍。
『出撃を命じます』
「了解!」
カイルも槍を取る。
「任せろ」
『先鋭部隊の救出を最優先』
「分かった!」
『決して天使の数に惑わされないでください』
「うん」
『救出できれば、それで我々の勝ちです』
「……分かった」
僕は立ち上がる。
行く。
シノブたちを。
助ける。
その時。
アンタレスが最後に一人を見る。
『ベラ』
「何じゃ」
アンタレスが少しだけ黙った。
ベラも、その意味を察したように目を細める。
『現魔王として』
一拍。
『魔族の掟を、一時的に解除します』
「……!」
ベラの赤い瞳が僅かに見開かれた。
僕は首を傾げる。
「掟?」
カイルも。
「何の話だ?」
ベラが少しだけ笑う。
「魔族には古くからの掟がある」
「?」
「人間の生活圏では」
一拍。
「高速飛行を行わぬ」
「……飛ぶのが禁止なの?」
「正確には、周囲へ影響を及ぼすほどの速度で飛ぶことが禁じられておる」
「何で?」
「危ないからじゃ」
「……飛ぶだけで?」
「飛ぶだけでじゃ」
「……」
僕とカイル。
同時に黙る。
ベラやアン。
そして強大な魔力を持つ上位魔族。
その者たちが本気で空を飛べば、大気が乱れる。
衝撃波が地上へ届く。
魔力圧が周囲へ撒き散らされる。
人間の街の上などを飛べば、移動するだけで被害が出る可能性がある。
だから魔族は、人間の領域では高速飛行を行わない。
遥か昔から。
そう決められていた。
アンタレスがベラを見る。
そして告げる。
『ベラトリクス』
「うむ」
一拍。
『飛ぶことを許可します』
「……」
会議場。
静かになる。
ベラの口元が僅かに上がった。
「本当によいのじゃな?」
『構いません』
「現地までの途中に街があるぞ」
『避けてください』
「山は?」
『壊さないでください』
「努力しよう」
『努力ではなく守ってください』
「注文が多いの」
『あなたの場合、念を押さなければ危険なのです』
「妾を何だと思っておる」
『先日、気合いを入れただけで地震を起こした方です』
「……」
ベラが黙った。
カイルが小声で。
「何も言い返せてねえ」
「聞こえておるぞ」
「すみません」
僕は一つ気になった。
「ベラ」
「何じゃ」
「どれくらい速いの?」
「知らぬ」
「……え?」
「全力で移動したのは五百年以上前じゃからな」
「待って」
嫌な予感。
ものすごく嫌な予感。
カイルも同じだったらしい。
「……なあ」
「何じゃ」
「俺たちも一緒に行くんだよな?」
「当然じゃ」
「どうやって?」
ベラが僕とカイルを見る。
「安心せい」
魔力。
僕とカイルの身体を包む。
赤黒い魔力。
「妾が運んでやる」
「それが一番怖い!」
「暴れるでないぞ」
「暴れるって何!?」
「舌も噛むでないぞ」
「そんな速度なの!?」
アンタレスが通信越しに言う。
『ベラ』
「分かっておる」
『座標を送ります』
「受け取った」
『魔王軍と聖騎士団もすぐに向かわせます』
「うむ」
『ですが』
一拍。
『あなた方が最速です』
ベラの表情から笑みが消える。
『可能な限り被害を出さず』
一拍。
『最速でお願いします』
「……相変わらず」
ベラが立ち上がる。
「無茶を言う魔王じゃ」
『あなたにだけは言われたくありません』
「ふっ」
僕たちは大聖堂の外へ出た。
後ろ。
レオンハルトが聖騎士団へ指示を飛ばしている。
魔族領でも、ガレスが部隊を動かしているはず。
でも。
僕たちは待たない。
一秒。
一秒がシノブたちの命に繋がる。
ベラが空を見る。
「ソル」
「何?」
「カイル」
「……何です?」
「妾から離れるでないぞ」
「離れるも何も、魔力で捕まってるんだけど」
「なら問題ない」
「問題しかない!」
ベラの身体がゆっくり浮かぶ。
僕とカイルも同時に浮かび上がる。
「うわっ」
「マジでこのまま行くのか……」
十メートル。
二十メートル。
高度が上がる。
ベラが止まった。
風。
赤黒い髪が揺れる。
静か。
あまりにも静か。
「ベラ?」
返事はない。
魔力。
収束。
ベラの周囲へ一気に。
大気が歪んだ。
「……待って」
カイルが呟く。
「これ、本当に飛ぶだけだよな?」
「知らない」
「お前、仲間だろ!?」
「僕も初めて見るんだよ!」
下。
教皇。
レオンハルト。
聖騎士たち。
全員が空を見ている。
アンタレスの魔道通信もまだ繋がっている。
『ベラ』
「何じゃ」
『お願いします』
「……うむ」
ベラの赤い瞳。
前方。
遠く。
シノブたちがいる方角。
「誰に物を言っておる」
一拍。
「妾は」
魔力。
さらに凝縮。
「魔王ベラトリクスじゃぞ」
次の瞬間。
空が爆発した。
――ドンッ!!!!!!
「うわああああああ!?」
「速っ――!!」
身体が一気に持っていかれる。
景色が消えた。
空。
雲。
大地。
何も見えない。
ただ、ベラの魔力だけが僕たちを完全に包んでいる。
地上。
大聖堂の窓が一斉に揺れた。
大気が震える。
空に一直線。
雲が割れた。
その中心を三つの影が一瞬で駆け抜けていく。
レオンハルトが空を見上げたまま呟いた。
「……あれを」
一拍。
「飛行と呼ぶのですか?」
教皇もしばらく空を見ていた。
「……おそらく」
魔道通信。
アンタレスだけが小さくため息をついた。
『だから』
一拍。
『魔族には、あの掟があるのです』
遥か遠く。
天使の大群。
通信の途絶えたカグラ皇国先鋭部隊。
そこへ。
五百年前の魔王が向かっていた。




