魔王ベラトリクス
第116話 魔王ベラトリクス
旧魔王城。
五百年前。
魔王ベラトリクスが暮らしていた城。
その奥を。
僕たちは歩いていた。
「……懐かしいですか?」
カイルが聞く。
「多少はの」
ベラは前を向いたまま答える。
迷いはない。
五百年ぶりのはずなのに。
右。
左。
階段を下り。
さらに奥へ。
まるで昨日までここで暮らしていたみたいに。
ベラは城の中を進んでいく。
「覚えてるんだ」
「自分の城じゃぞ」
「五百年経ってるけど」
「五百年程度で忘れるか」
「五百年程度……」
カイルが苦笑する。
僕も周囲を見る。
崩れた壁。
割れた窓。
天井が落ちている場所もある。
それでも。
城としての形は残っていた。
五百年間。
ここに。
ずっと。
やがて。
ベラが足を止めた。
目の前。
巨大な黒い扉。
表面には無数の傷が刻まれている。
剣。
爪。
魔法。
いろんなものがぶつかったような跡。
「ここじゃ」
「ここ?」
「修練場じゃ」
ベラが扉へ手をかける。
ギィィィ……。
重い音。
五百年分の埃が落ちる。
扉の向こう。
広大な空間があった。
「広……」
思わず声が出る。
王城の訓練場より。
ずっと広い。
床も。
壁も。
黒い石。
そして。
傷だらけだった。
大きく抉れた壁。
割れた床。
一部。
溶けたようになっている場所まである。
カイルが壁を見る。
「これ、戦闘の跡ですか?」
「修行じゃ」
「……誰の?」
「妾の」
「一人でここまで壊したんですか?」
「昔の話じゃ」
ベラは気にした様子もなく中央へ歩いていく。
僕とカイルも続こうとして。
「そこで待て」
止められた。
「え?」
「入口から動くでない」
「なんで?」
ベラが振り返る。
「巻き込まれたくなければな」
「……」
僕。
カイル。
同時に止まる。
「そんな危ないことするの?」
「さあの」
「さあの?」
「妾も初めてじゃ」
嫌な言葉が聞こえた。
「ベラ様」
カイルが一歩下がる。
「ちなみに何をするんです?」
ベラは修練場の中央へ立つ。
そして。
自分の右手を見る。
握る。
開く。
「制限を外す」
「制限?」
「うむ」
聞いたことがない。
僕は首を傾げる。
「ベラにそんなのあるの?」
「ある」
「誰にかけられたの?」
「妾じゃ」
「自分で?」
「そうじゃ」
ベラが胸元へ手を置く。
「まだ幼かった頃。妾は自分の魔力を封じた」
「なんで?」
「多すぎたからじゃ」
短い答え。
でも。
ベラの表情は真剣だった。
「生まれた時から、妾の魔力は他の魔族とは比べものにならなかった」
「制御できなかった?」
「できぬというより。幼い妾には持て余した、と言った方が近いかの」
だから。
封じた。
自分自身で。
「どれくらい?」
僕が聞く。
「七割五分」
「……え?」
「七割五分じゃ」
「ちょっと待って」
聞き間違いじゃない。
「じゃあ今までのベラって」
「基本的には二割五分じゃな」
「……」
隣を見る。
カイルも固まっている。
「二十五パーセント……?」
「そうじゃ」
「ベラ様」
「何じゃ」
「それ、先に言ってくださいよ」
「何故じゃ」
「心の準備が必要なんですよ」
「意味が分からぬ」
僕も意味が分からない。
今まで。
何度もベラの力を見た。
あれで。
二十五パーセント。
「じゃあ……」
僕はベラを見る。
「残り全部、今から解放するの?」
「そのつもりじゃ」
「いきなり?」
「うむ」
「少しずつとかは?」
「面倒じゃ」
「面倒で済ませていい話じゃないでしょ!」
ベラが笑う。
いつもの。
ベラ。
でも。
すぐに。
その笑みが消えた。
「五百年前の妾は」
静かな声。
「これでよいと思っておった」
僕は黙る。
「扱いきれぬほどの力なら封じればよい。必要な分だけ使えれば、それでよいとな」
それでも。
ベラは魔王になった。
五英雄と戦った。
大天使とも戦った。
二十五パーセントで。
「じゃが」
ベラが目を閉じる。
「それでは五百年前と同じじゃ」
「……」
「妾は過去へ戻るために、ここへ来たのではない」
その言葉。
さっきも聞いた。
「五百年前の自分を超える」
僕が言う。
ベラが。
小さく笑った。
「そうじゃ」
そして。
目を開く。
赤い瞳。
迷いはない。
「五百年前に扱えなかったのなら」
一拍。
「今、扱えばよい」
単純。
ベラらしい。
でも。
僕は笑えなかった。
「失敗したら?」
「知らぬ」
「知らないの!?」
「じゃから、お主らは離れておれ」
「どれくらい?」
「遠ければ遠いほどよい」
「そんなに!?」
カイルが僕を見る。
「ソル」
「うん」
「俺、外まで行っていいと思う」
「奇遇だね。僕も」
「まだじゃ」
ベラが言った。
「え?」
「まだ離れんでよい」
そして。
目を閉じる。
空気が。
変わった。
僕は反射的に《心眼》を使う。
見える。
ベラの魔力。
黒。
赤。
いつも感じる。
圧倒的な魔力。
でも。
「……?」
おかしい。
「どうした?」
カイルが聞く。
「魔力が」
ベラの魔力が。
動いている。
外じゃない。
内側。
身体の中心へ。
集まっている。
「小さくなってる」
「弱くなってるのか?」
「違う」
凝縮されている。
黒と赤。
巨大な魔力が。
少しずつ。
ベラの身体の中心へ。
押し込められていく。
ぎゅっと。
さらに。
小さく。
小さく。
「……」
僕は息を止める。
こんな魔力操作。
見たことがない。
今まで身体中を流れていた魔力が。
一点へ。
集まっていく。
「ベラ?」
返事はない。
さらに。
魔力が小さくなる。
「……ソル」
「うん」
「俺でも分かる」
カイルの表情が変わる。
「ベラ様の魔力が……」
消えていく。
違う。
消えているように感じるだけ。
圧縮されすぎて。
存在そのものが。
分からなくなっていく。
そして。
「……え?」
消えた。
完全に。
《心眼》を使っている。
それでも。
何も感じない。
「ベラ?」
返事はない。
「ベラ!」
静寂。
魔力が。
ない。
さっきまで目の前にいた。
あのベラトリクスの魔力が。
完全に。
消えている。
「おい……」
カイルが剣へ手を伸ばす。
その時。
ベラの身体が。
ゆっくり。
浮いた。
「……え?」
足が。
床から離れる。
何もしていない。
翼もない。
魔力すら感じない。
ただ。
ベラの身体だけが。
静かに。
宙へ浮かんでいく。
一メートル。
二メートル。
髪が。
ふわりと広がる。
服が揺れる。
なのに。
風はない。
「ベラ……?」
僕が呼ぶ。
ゆっくり。
ベラが目を開いた。
赤い瞳。
その瞬間。
《心眼》が。
警告した。
「カイル!!」
「っ!?」
「逃げる!!」
考えるより先に走った。
カイルも。
僕の声だけで動いた。
修練場を飛び出す。
廊下。
走る。
「何があった!?」
「分からない!」
「またそれかよ!」
「でも来る!!」
「何が!?」
答える前に。
世界から。
音が消えた。
一瞬。
ほんの一瞬。
そして。
弾けた。
ドッ――――!!!!!
音。
衝撃。
魔力。
全部。
同時だった。
「っ!!」
背中を殴られる。
僕とカイルの身体が前へ吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
黄金。
星装。
反射的に纏う。
床へ手をつく。
振り返る。
その瞬間。
修練場が。
吹き飛んだ。
黒。
赤。
二色の魔力。
天井が砕ける。
壁が弾ける。
巨大な石材が空へ舞う。
旧魔王城そのものが。
内側から。
破裂したみたいに。
「嘘だろ……」
カイルの声。
でも。
まだ。
始まりだった。
黒赤い魔力が。
空へ噴き上がる。
まるで。
物語の中。
子供の頃に聞かされる。
おとぎ話。
世界を滅ぼす魔王。
人間が恐れ。
勇者が倒す。
そんな。
誰かが想像した。
魔王そのもの。
黒い魔力。
赤い魔力。
二つが絡み合い。
空を貫く。
「ソル!!」
「もっと離れる!」
走る。
城門。
外へ。
その瞬間。
ドォォォォォン!!
さらに。
魔力が膨れ上がった。
旧魔王城の中心部。
修練場。
その周囲が。
完全に吹き飛ぶ。
瓦礫。
土煙。
黒赤い魔力。
何も見えない。
城門が軋む。
廊下が崩れる。
塔の一部が折れる。
それでも。
城の外周は残っている。
五百年間残り続けた城が。
たった一人の魔力で。
半壊していく。
そして。
大地が。
揺れた。
「っ!」
立っていられない。
地面へ手をつく。
「地震!?」
「違う!」
分かる。
地面の下じゃない。
中心は。
目の前。
「ベラだ!」
魔力。
ただ。
それだけ。
一人の魔族が。
自分の魔力を解放した。
それだけで。
魔族領が。
揺れている。
森。
山。
街。
魔王城。
魔族領の各地で。
人々が空を見る。
黒と赤。
遠く離れた場所からでも分かる。
巨大な魔力の柱。
「……まだ広がってる」
僕は空を見る。
黒赤い魔力。
上だけじゃない。
波のように。
外へ。
外へ。
広がっていく。
魔族領を越える。
国境を越える。
――アステリア王国。
王城。
窓が。
カタカタと震える。
兵士が足を止める。
空を見る。
遠く。
西。
そこから。
感じたことのない魔力。
――セレフィア神聖国。
教皇が。
椅子から立ち上がる。
「……これは」
側近。
アルヴィスも。
同じ方向を見る。
――ヴァルガルド。
訓練中の兵士たちが。
一斉に動きを止める。
武器が震える。
地面が。
僅かに。
揺れている。
――アルカディア。
観測室。
魔力を測る器具。
針が。
一気に振り切れる。
「なんだ、これは……」
一つ。
二つ。
次々に。
異常を知らせる。
世界が。
気づいた。
何かが。
起きている。
そして。
その中心。
魔族領西部。
旧魔王城。
僕とカイルは。
ただ。
見ていた。
「……」
言葉が出ない。
空を貫く。
黒と赤。
大地を揺らす。
圧倒的な魔力。
その中心に。
一人。
いる。
ベラ。
宙に浮いたまま。
両腕を下ろし。
目を閉じている。
暴れているようには見えない。
苦しんでいるようにも。
見えない。
ただ。
そこにいる。
それだけ。
なのに。
世界が揺れている。
「これ……」
カイルが呟く。
「本当に全部、ベラ様の魔力なのか?」
「……うん」
「こんなの」
続きが出てこない。
分かる。
僕も。
同じだから。
今まで。
ベラは強いと思っていた。
誰よりも。
圧倒的に。
でも。
違った。
僕たちが知っていたベラは。
これの。
一部だった。
「……二十五パーセント」
僕が呟く。
カイルが笑う。
乾いた笑い。
「冗談だろ」
黒赤い魔力が。
また膨れ上がる。
空が震える。
雲が割れる。
遠く。
雷みたいな音。
大地。
もう一度。
大きく揺れる。
でも。
次の瞬間。
変化が起きた。
「……?」
黒赤い魔力。
その一部が。
動きを変えた。
上へ。
外へ。
広がっていた魔力が。
止まる。
そして。
逆へ。
「戻ってる……?」
カイルが聞く。
僕は答えない。
分からない。
でも。
見える。
空に広がった。
黒と赤。
その残滓が。
ゆっくり。
中心へ。
向かっている。
一つ。
また一つ。
黒い光。
赤い光。
空を漂っていた魔力が。
ベラへ。
吸い込まれていく。
「……」
僕は《心眼》を使ったまま。
見続ける。
巨大な魔力の柱。
少しずつ。
細くなる。
空を覆っていた黒が消える。
赤が消える。
雲の隙間から。
光が戻る。
揺れも。
少しずつ。
弱くなっていく。
そして。
残ったのは。
旧魔王城周辺を漂う。
無数の。
黒と赤の残滓。
それすら。
ベラへ向かっていく。
一つ。
二つ。
十。
百。
数えられない。
光が。
全て。
ベラの身体へ。
吸い込まれていく。
「ソル」
カイルが呼ぶ。
でも。
返事ができない。
僕は。
見ていた。
最後の。
赤い光。
小さな。
魔力の残滓。
それが。
ゆっくり。
ベラへ近づく。
触れる。
消えた。
その瞬間。
全てが。
止まった。
風。
揺れ。
魔力。
何もない。
静寂。
そして。
宙に浮いていたベラの身体が。
ゆっくり。
降りていく。
瓦礫と化した修練場。
その中心へ。
足が。
触れる。
立つ。
ただ。
それだけ。
「……」
僕は《心眼》を使う。
でも。
遠い。
瓦礫。
残った城壁。
魔力の名残。
うまく見えない。
それ以上に。
分からない。
ベラの魔力が。
さっきまで。
世界を揺らしていたはずの魔力が。
感じられない。
「……ベラ?」
返事はない。
距離がある。
聞こえるはずもない。
カイルが。
隣で息を吐く。
「終わった……のか?」
僕は。
答えられなかった。
ただ。
旧魔王城を見る。
崩れた城。
砕けた塔。
吹き飛んだ修練場。
周囲には。
まだ僅かに。
黒と赤の光が漂っている。
それも。
一つずつ。
消えていく。
そして。
完全に。
何もなくなった。
世界を揺らした。
魔王ベラトリクスの魔力が。
収まった。




