ただいま
第106話 ただいま
「……着いた」
僕は久しぶりに、その景色を見ていた。
見慣れた道。見慣れた家々。少し離れた場所から聞こえる子どもたちの声。風に揺れる木々。
何も変わっていない。
「……帰ってきただけなのに」
思わず笑う。
セレフィアを出て、馬車を乗り継ぎ、途中からは《星装》も使った。
ベラはついてきていない。
『家族水入らずで過ごせ』
そう言って、セレフィアに残った。
珍しく気を遣ったらしい。
いや。
『妾にも予定がある』
とか言っていたから、本当に気を遣ったのかは分からない。
「まあ、いいか」
僕は歩き出した。
何度も歩いた道。昔なら何も考えずに歩いていたはずなのに、今は妙に懐かしく感じる。
「あ」
向こうから歩いてきた人が、僕を見て足を止めた。
「……ソル?」
「はい」
「ソルじゃないか! 帰ってきてたのか?」
「今、帰ってきました」
近所の人だ。昔から知っている。
「随分見なかったから、どこまで行ってたんだ?」
「えっと……」
僕は考える。
ローディア。樹海。ヴァルガルド。セレフィア。アルカディア。魔族領。アウレストラ。
「……色々?」
「なんだそれ」
笑われた。
そりゃそうだ。全部説明していたら、たぶんここで日が暮れる。
「まあ、元気そうでよかった。家の人も喜ぶぞ」
「そうだといいです」
手を振って別れ、また歩き出す。
そして、見えてきた。
僕の家。
何度も出入りした、当たり前だった場所。
なのに、何故か足が止まった。
「……何してるんだろ」
自分で呟く。
天使の前には立てる。魔王軍軍隊長とも戦える。聖騎士長とも剣を交えた。
なのに、自分の家の扉を開けるだけで少し緊張している。
「……よし」
扉の前に立ち、手をかける。
開く。
懐かしい匂いがした。
「ただいま」
声が家の中へ響く。
少しの間。
奥から物音が聞こえた。
そして、慌ただしい足音。
「ソル!?」
「……うん」
姿が見える。
僕を見た瞬間、その足が止まった。
「ただいま」
もう一度言った。
次の瞬間。
「遅い!」
「え?」
いきなり怒られた。
「どれだけ帰ってこないつもりだったの!」
「いや、色々あって……」
「連絡くらいできるでしょう!」
「……はい」
何も言い返せない。
「怪我は!?」
「え?」
「怪我してない!?」
「今はしてない」
「今は!?」
しまった。
「違う、そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味なの!」
「昔ちょっと……」
「昔!?」
どんどん墓穴を掘っている。
「……」
僕は黙った。
「とにかく入りなさい!」
「はい」
家へ入る。
扉が閉まった。
それだけで、外の世界が少し遠くなった気がした。
荷物を置いて椅子に座る。
「……」
落ち着かない。
自分の家なのに。
「何してるの?」
「いや、なんか変な感じで」
「自分の家でしょう」
「そうなんだけど」
僕は周囲を見る。
机。椅子。棚。昔から使っているもの。
何も変わっていない。
たぶん、変わったのは僕の方だ。
「お腹は?」
「空いてる」
即答した。
「なら待ってなさい」
「うん」
奥へ向かっていく。
僕は一人になった。
静かだ。
魔王城みたいに兵士が歩いているわけでもない。セレフィアみたいに聖騎士がいるわけでもない。
誰も天使について話していない。
六星同盟も、アウレストラも、《天核》も関係ない。
ただの家。
それだけ。
「……帰ってきたんだ」
今になって、ようやく実感した。
少しして、食事が並べられた。
見覚えのある料理。
「食べなさい」
「いただきます」
一口。
「……」
手が止まった。
「どうしたの?」
「いや」
もう一口。
味わう。
「……美味しい」
「何よ、急に」
「いや、本当に」
豪華な料理なら何度も食べた。
王都でも。
セレフィアでも。
魔王城でも。
宴では、見たこともない料理が山ほど並んでいた。
でも。
これとは違う。
「やっぱり、これだな」
「?」
「なんでもない」
僕は食べ続けた。
気づけば、いつもよりずっと食べていた。
「そんなにお腹空いてたの?」
「たぶん」
「ちゃんと食べてた?」
「食べてたよ」
「本当に?」
「魔王城でもいっぱい食べたし」
「……魔王城?」
箸が止まった。
僕も止まる。
「……」
「……」
まずい。
「今、魔王城って言った?」
「言ってない」
「言った」
「気のせい」
「ソル」
「……はい」
結局。
食事をしながら、僕はこれまでの旅について話すことになった。
もちろん全部じゃない。
樹海へ行ったこと。
色々な国を回ったこと。
たくさんの人と出会ったこと。
魔族領へ行ったこと。
ベラが五百年前の魔王だったこと。
アンが今の魔王だったこと。
六星同盟が結ばれたこと。
話せば話すほど、目の前の表情が固まっていく。
「ちょっと待って」
「うん」
「あなた、何してたの?」
「……旅?」
「旅の規模じゃないでしょう!」
「僕も途中からそう思ってた」
怒られた。
かなり怒られた。
特に怪我をした話を少しでも出すと、その度に話を止められた。
だから途中から、危なかった部分についてはかなりぼかした。
たぶん正解だったと思う。
食事を終える頃には、外は少し暗くなり始めていた。
「今日はもう出かけないでしょうね?」
「出かけないよ」
「本当に?」
「本当」
「急に魔王に呼ばれたりしない?」
「アンも僕に帰れって言ってたから大丈夫」
「魔王と普通に話してるの?」
「……うん」
また説明が増えた。
ようやく解放された頃には、すっかり日が暮れていた。
僕は自分の部屋へ向かう。
扉を開ける。
「……うわ」
変わっていない。
ベッド。
机。
棚。
昔使っていたもの。
そのまま残っている。
僕は荷物を床へ置き、ベッドへ倒れ込んだ。
「……柔らかい」
魔王城のベッドだって十分すぎるほど良かった。
セレフィアの客室も綺麗だった。
でも。
「やっぱり自分のベッドだ」
天井を見る。
何度も見た天井。
昔はここで、明日は何をしようとか、そんなことばかり考えていた。
今は違う。
天使。
六星同盟。
アウレストラ。
《天曜》。
星の声。
考えることが増えた。
背負うものも増えた。
「……」
僕は身体を起こした。
窓を開ける。
夜風が入ってくる。
空。
星。
昔から見ていた星空。
でも、今はその星が以前とは違って見える。
僕は星の声を聞く。
僕の中には、千百年前から続く血が流れている。
そして、これから来る敵と戦わなければならない。
「……なんか」
窓枠へ腕を置く。
「ずいぶん遠くまで行ったな」
距離だけじゃない。
少し前まで。
僕は世界の本当の歴史なんて知らなかった。
魔王ベラトリクスが本当は英雄だったことも。
天使が災厄の正体だったことも。
アウレストラのことも。
自分自身のことさえ。
知らなかった。
それでも。
ここは何も変わらない。
僕が何者でも。
どんな力を持っていても。
扉を開ければ怒られて。
ご飯を食べて。
自分の部屋へ戻る。
それだけ。
「……そっか」
ようやく少し分かった。
ベラが。
アンが。
教皇が。
みんなが僕を帰そうとした理由。
僕はずっと。
世界を守らないと。
強くならないと。
次に進まないと。
そう思っていた。
でも。
守る世界って。
どこか遠くにあるものじゃない。
この家も。
あの道も。
今日会った近所の人も。
食卓も。
全部。
僕が守ろうとしている世界の一部なんだ。
「……帰ってきてよかった」
小さく呟く。
星空を見上げる。
今日は。
修行しなくていい。
剣も振らない。
《星装》も使わない。
天使のことも。
少しだけ忘れる。
僕は窓を閉めた。
ベッドへ入る。
「……おやすみ」
誰に言ったわけでもない。
目を閉じる。
静かだった。
魔力の気配も。
剣の音も。
誰かの指示もない。
ただ。
自分の家で。
眠る。
それだけの夜。
そして僕は。
旅に出てから初めてと言っていいほど。
何も考えず。
深く眠った。




