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ヴェスペラの領主館にある私の自室。そのクローゼットの中身を初めて見たとき、私は自分の目を疑った。
そこには、刺繍の一つ一つに魔力が込められた最高級のドレスが並んでいるだけでなく、部屋の隅にある重厚な黒檀の箱に、一際異彩を放つ「道具」が収められていたからだ。
「……ヴァレリウス様。これは、何かしら?」
私が指差したのは、白銀の鞘に収められた一振りの短剣だった。
柄には大粒の魔石が埋め込まれ、抜いてみれば刃は鏡のように美しく、それでいて恐ろしいほどに冷たい光を放っている。
「ああ、それは。……アウレリア、この辺境では野生の獣も出ますからね。護身用に用意させました。龍の牙を削り出し、神代の鍛造術で打ち直したものです。……ええ、軽く振るだけで城門の閂くらいなら一突きで粉砕できますよ。もし万が一、気に食わない男があなたの前に現れたら、躊躇わずにその男ごと空間を切り裂いてください」
「……私、城門を壊す予定も、空間を切り裂く予定もございませんわ。それに、野生の獣が相手なら、もう少し普通のナイフで良いのではなくて?」
「いけません。あなたの白く美しい指先を汚すかもしれない不届きな存在は、その存在ごと『概念的』に消滅させるべきです」
ヴァレリウス様は至極真面目な顔で、私の腰にその「対消滅兵器」のような短剣を装着しようとした。私は丁重にお断りし、代わりに彼の手を握って落ち着かせた。
この人は、私の安全のためなら、この領地一帯を不可視の結界で包み込みかねない勢いなのだ。
そんなやり取りをしていた日の午後。
ついに、ヴェスペラ領の入り口である「北の断崖門」に、帝都からの「お迎え」が到着したという知らせが入った。
「アウレリア様、どうかお顔を上げてください! 皇太子殿下は深く反省しておられます!」
門の向こう側から響くのは、かつて私の側近だった騎士、マルクスの声だ。
彼はクラウディウス殿下の忠実な部下であり、今回の「連れ戻し作戦」の責任者なのだろう。
門の向こうには、帝都が誇る精鋭「黄金鷲騎士団」が五十騎ほど控えているのが見える。
対して、こちら側。
ヴェスペラの門を守るのは、麦わら帽子を被り、鍬を手にした「農夫」たちだった。
「……あの、ヴァレリウス様。なぜ門番が農夫の方々なのですか?」
私が隣で見守るヴァレリウス様に尋ねると、彼は優雅に紅茶を啜りながら答えた。
「ああ、彼らですか。彼らは現在、新種小麦『アウレリア・ゴールド』の試験栽培に従事している農学部隊ですが……。元を辿れば、大陸全土を震え上がらせた傭兵団『黒い死神』の生き残りです」
「……黒い、何ですって?」
「彼らは引退後、静かな生活を望んで私の領地へやってきました。今はアウレリア、あなたのパンのための小麦を守ることに命を懸けています。……見ていなさい。あのような着飾っただけの帝都の騎士では、彼らの『農作業』の邪魔にもなりません」
門の向こうで、マルクスが痺れを切らしたように叫んだ。
「どけ! 辺境の分際で、皇太子の命に背くつもりか! 強行突破するぞ!」
騎士たちが一斉に馬を走らせようとした、その時。
先頭にいた農夫——いえ、元伝説の傭兵であるおじ様が、面倒くさそうに鍬を地面に突き立てた。
ズドン!!
轟音と共に、騎士団の目の前の地面が大きく裂け、巨大な土の壁が立ち上がった。
ただの土魔法ではない。そこには複雑な陣が刻まれ、触れようものなら雷撃が走る仕組みになっている。
「悪いな、帝都の坊ちゃん方。ここから先は『アウレリア様御用達』の神聖なる農地だ。泥をつけた靴で踏み入る奴は、堆肥の材料にするのがここの掟なんでね」
「なっ……なんだ、この圧倒的な魔力は!? 農夫だと!? 貴様ら、正体は何だ!」
「見ての通りだ。……趣味でパンも焼くし、趣味で国も守る、ただの善良な領民だよ」
圧倒的な威圧感の前に、精鋭騎士団の馬たちが泡を吹いて倒れ始めた。
それだけではない。
館の屋上からは、巨大な「石臼」のような物体が門の方を向いているのが見えた。
「……ヴァレリウス様。あの石臼から、なんだか凄まじい光線のようなものが見えるのですけれど」
「おや、気づかれましたか。あれは対城塞用の魔導砲を石臼の形に偽装したものです。小麦を挽くエネルギーを転用して、最大出力なら帝都の王城を消滅させることも可能ですが……今日はあくまで威嚇程度にしておくよう命じてあります」
「威嚇で消滅しなくて良かったですわ……」
結局、帝都の騎士団は、私の顔を見るどころか、ヴェスペラの第一門の敷居を一歩も跨ぐことができずに撤退していった。
彼らが去り際に見せた、絶望に満ちた表情。
「辺境で凍え死ぬがいい」と呪いのような言葉を吐いて私を捨てたクラウディウス殿下は、まさか自分が送った騎士団が、農夫の鍬一本で追い返されるとは夢にも思っていないだろう。
夕暮れ時。
騒がしかった門の辺りも静かになり、私はヴァレリウス様と一緒に庭園のベンチに座っていた。
彼の手は、相変わらず私の手を大切そうに包み込んでいる。
「アウレリア。不快な思いをさせました。……やはり、一度帝都へ戻り、私が軍を率いて殿下の首を——」
「いけませんわ、ヴァレリウス様。そんな物騒なことは」
私は彼の肩に、そっと頭を預けた。
帝都にいた頃の私は、常に背筋を伸ばし、周囲の顔色を窺い、誰からも愛されない「完璧な操り人形」であろうとしていた。
けれど今はどうだろう。
過保護すぎる伯爵様と、異常なほど戦闘力の高い領民たち。
そして、自分が捏ねた不格好なパンを、涙を流して喜んでくれる人がいる。
「……私、今が一番幸せですわ。ヴァレリウス様、あなたが守ってくださるこの場所が、私の本当の居場所なのだと感じます」
「アウレリア……」
ヴァレリウス様の声が、熱く湿った色を帯びる。
彼がゆっくりと顔を近づけてくる。
夕闇の中、彼の銀色の瞳が私だけを映して揺れている。
あ、これ、接吻をされる流れかしら。
私はそっと目を閉じた。
ところが。
「——閣下!! 報告です! 撤退した騎士団が、帰り道に我が領の特産品である『金色の林檎』を無断で一房盗んでいきました! これはアウレリア様のデザート用に厳選していた最高個体です!!」
遠くからカトの声が響き渡り、ヴァレリウス様は瞬時に立ち上がった。
「何だと!? ……許せん。アウレリアのデザートを盗むとは、帝国に対する宣戦布告と同義だ。カト、すぐに飛行船部隊を出せ! 国境を越える前に一粒残らず回収し、犯人は厳罰に処す!」
「承知いたしました!」
「……ヴァレリウス様、林檎一房で戦争を始めないでくださいませ……!」
私は、空へ飛び立とうとするヴァレリウス様の裾を慌てて掴んだ。
どうやら、私の「ゆっくりとした辺境生活」が訪れるには、まずこの伯爵様の「激しすぎる愛」をどうにか手懐ける必要があるようだった。
けれど、そんなドタバタとした日常さえ、今の私には宝石よりも輝いて見えていた。
数日後。
帝都では、ボロボロになって帰還した騎士団の報告を聞き、クラウディウス皇太子が驚愕で椅子から転げ落ちたという噂が届いた。
さらに、ルキッラ嬢が王宮の地下倉庫で高価な宝飾品を盗もうとして捕まったという続報も。
「自業自得、ですわね」
私は、ヴァレリウス様が「アウレリアの歩く道が痛くないように」と、わざわざ毛足の長い絨毯を敷き詰めた草原を歩きながら、小さく呟いた。
目の前には、のんびりと草を食む羊たち。
そして、その羊を一頭一頭、ブラッシングの強度を計器で測りながら手入れする二十人の侍従たち。
私の辺境スローライフは、今日も最高に贅沢で最高に騒がしい。




