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ヴェスペラの朝は、帝都のそれよりもずっと鮮やかだった。
窓の外には、朝露に濡れた草原が銀色に輝き、万年雪を抱いた山々の峰が、夜明けの光を受けて淡い珊瑚色に染まっている。
私は、信じられないほど柔らかい雲のようなベッドの中で目を覚ました。
帝都の自邸にあったベッドも一級品だったけれど、このヴェスペラの館のものは、おそらく中身に「飛龍の産毛」でも詰まっているのではないかしら。一度沈み込んだら最後、抗いがたい安らぎに包まれて、二度と現世に戻ってこれなくなりそうな魔力がある。
「……ふわぁ。よく眠れた……」
大きく伸びをして、私はふと隣の気配に気づいた。
寝台のすぐ傍らに置かれた一人掛けの椅子に、誰かが座っている。
「……おはようございます。アウレリア。……いや、アウレリア。よく眠れただろうか」
「ヴァレリウス様!?」
私は慌ててシーツを首元まで引き上げた。
そこには、すでに完璧に身なりを整えたヴァレリウス様が、柔らかな微笑みを浮かべて座っていた。その瞳は心なしか、少し充血しているようにも見える。
「ええ、とてもよく眠れましたけれど。……あの、まさか、ずっとそこにいらしたのですか?」
「……。あなたが環境の変化で眠れぬのではないかと、万が一のことがあればすぐに駆けつけられるようにと控えていただけだ。……気にする必要はない。私は軍人だ、三日三晩不眠不休で戦場を駆けるなど造作もないことだ」
……気にしますわ。
最強の辺境伯が、私の寝顔を夜通し見守っていたなんて。そんな贅沢を通り越して、もはや一種の「監視」に近い過保護ぶりに、私の心臓は朝から忙しく跳ねる。
「さて、アウレリア。朝食は何がいい? 料理長には帝都の三ツ星シェフを引き抜いて、さらにこの地の滋味深い食材を研究させてある。何でも注文してくれ」
私は、昨夜から心に決めていたことを切り出した。
「ヴァレリウス様。私、今日こそ『自分で』パンを焼いてみたいのですわ。焼きたての香ばしいパンを、あなたと一緒に食べるのが、私の辺境での一番の夢だったのです」
ヴァレリウス様は、一瞬だけ呆けたように目を見開いた。
そして、その強靭な胸板を熱く震わせ、感動に打ち震えるような声を漏らした。
「……私のために、あなたがパンを? 私のような武骨な男のために、至高の乙女であるあなたが、自らの手を汚してまで……?」
「汚すだなんて、大げさですわ。ただの家事ですもの」
「分かった。すぐに準備をさせよう」
彼は立ち上がると、風のような速さで部屋を出ていった。
私は「良かった、通じたわ」と胸をなでおろしたのだった。……この時の私は、ヴァレリウス様の「準備」という言葉の重さを、まだ正しく理解していなかった。
一時間後。
私はエプロンを締め、意気揚々と厨房に向かった。
けれど、厨房の扉を開けた瞬間、私はそこに広がる異様な光景に足を止めた。
「……え?」
広い厨房には、白いローブをまとった「学者」のような男たちが十数人、机の上に並べられた無数の小瓶や天秤を囲んで、血走った目で議論を交わしていた。
「——違う! タンパク質の含有量が0.5%足りん! これではアウレリア様の求める『理想のモチモチ感』は出せないぞ!」
「この品種と、東方の冷害に強い品種を交配させた『ヴェスペラ一号』ならどうだ? 糖度は上がるが、香りがわずかに劣るか……?」
「馬鹿者が! 香りこそがパンの命だ! アウレリア様の御鼻を満足させられん小麦など、この世に存在する価値はない!」
「……あの、皆様? 何をなさっているのかしら」
私が恐る恐る声をかけると、学者たちは一斉に振り返り、その場に平伏した。
そこへ、ヴァレリウス様が満足げな顔で現れた。
「アウレリア。紹介しよう。彼らは帝立アカデミーから特別招聘した農学と錬金術の権威たちだ。あなたの焼くパンに最も相応しい小麦を開発するために、三年前からこの地の土壌を改良し、最高の品種を掛け合わせてきた」
「……三年前から?」
「ああ。あなたがいつかパンを焼きたいと言い出す可能性を考慮してな。現在、彼らが開発した『アウレリア・ゴールド』という品種が最終段階に入っている。石臼の回転速度も、摩擦熱が風味を損なわないよう、魔導回路でミリ単位の調整が可能だ」
私は、目の前の石臼を見た。
そこには、複雑な魔法陣が刻まれ、宝石のような魔石がいくつも埋め込まれている。
「……ヴァレリウス様。私、ただ、その……小麦粉を捏ねて、丸めて、焼きたかっただけなのですけれど。品種改良や魔導石臼は、必須工程ではありませんわよね?」
「何を言うのだ、アウレリア。あなたが食べるものだぞ。この世で最高の、究極の、至高の素材でなければ、私の気が済まない」
ヴァレリウス様は真剣だった。その瞳には一点の曇りもない。
彼は、私が「素朴な生活」をしたいと言ったのを、「最高品質の素材を使った素朴風の贅沢」と脳内で変換してしまったらしい。
「さあ、生地を捏ねよう。……カト、例のものを」
執事のカトが恭しく差し出したのは、絹のように滑らかな、けれど驚くほど丈夫そうな革の手袋だった。
「アウレリア、これを。小麦粉の粒子があなたの白魚のような指先を傷つけぬよう、ドラゴンの皮膚を加工して作った特製の防護手袋だ」
「……パンを捏ねるのに、ドラゴンの皮は要りませんわ」
私は手袋を優しく押し返し、素手のまま、用意されたボウルの中に手を入れた。
学者たちが「ああ! 女神の御手が粉に!」と悲鳴を上げたけれど、私は無視することにした。
ひんやりとして、どこか温かみのある粉の感触。
水を足し、塩を加え、ゆっくりと捏ねていく。
ヴァレリウス様は、私の隣で食い入るようにその作業を見守っていた。
「……アウレリア。そんなに力を入れて、腕を痛めないか? 私が代わろう。私の握力なら、一瞬で完璧な均一性を保った生地に仕上げられる」
「いいえ。これは、私がやりたいのです。ヴァレリウス様、あなたはそこのボウルで、ドライフルーツの準備を手伝ってくださる?」
「……私が? あなたの聖なる作業の、補助を……?」
ヴァレリウス様は、まるで聖遺物を授かった騎士のような敬虔な顔で、レーズンの選別に取り掛かった。
最強の辺境伯が、真剣な顔でレーズンの「形が整っていないもの」を一粒ずつ弾いていく光景は、なかなかにシュールだったけれど、私はあえて何も言わなかった。
数時間後。
厨房の特注石釜(これも、火の精霊が宿る伝説の煉瓦で作られているらしい)から、香ばしい匂いが漂ってきた。
こんがりと黄金色に焼き上がった、不格好だけれど愛らしいパン。
私はそれを切り分け、バター(これも、一頭ずつ名前をつけて育てられた特級牛のミルクから作られたものだ)を添えて、ヴァレリウス様の前に差し出した。
「どうぞ、ヴァレリウス様。私の初めてのパンですわ」
ヴァレリウス様は、震える手でその一切れを口に運んだ。
咀嚼し、飲み込み……。
そのまま、彼は沈黙した。
「……ヴァレリウス様? お口に合いませんでしたか?」
不安になって覗き込むと、彼の目からは、大粒の涙が溢れ落ちていた。
「——至高だ。この世にこれ以上の奇跡が存在するだろうか。あなたが捏ね、あなたが焼き、あなたの愛が詰まったこのパン……。ああ、私は、この瞬間のために生まれてきたのかもしれない」
「大げさすぎますわ……!」
私は真っ赤になって笑ったけれど、ヴァレリウス様は本気で感動していた。
彼はその後、残りのパンを「家宝として永久凍土に保存する」と言い出し、私はそれを止めるのにさらに一時間を費やすことになった。
その日の午後。
食後のティータイムを庭園で楽しんでいた私たちの元に、一羽の伝書鷹が舞い降りた。
ヴァレリウス様の顔から、甘い「溺愛モード」が瞬時に消え、冷徹な北の猛禽の顔が戻る。
「……アウレリア。帝都からだ」
短い手紙を読み終えたヴァレリウス様が、低い声で言った。
「クラウディウス皇太子が、あなたの婚約破棄を無効だと言い出している。どうやら、ルキッラという娘を聖女として祀り上げる計画が、彼女の素行不良で頓挫したらしい。……殿下は、あなたの『貴族としての責任』を盾に、帝都へ戻るよう命じてきている」
私は、手元の紅茶を見つめた。
あんなにひどい断罪劇を演じておいて、都合が悪くなれば戻れという。
かつての私なら、絶望しながらも「義務」のために立ち上がったかもしれない。
けれど、今の私の隣には。
「……ヴァレリウス様。私、戻りたくありません。ここで、あなたの焼いたパン(の補助をしたパン)を食べて、羊の世話をしていたいのです」
「……分かっている」
ヴァレリウス様は、私の手を力強く握りしめた。
その掌は、驚くほど熱かった。
「カト、準備を。帝都へ向けて、ヴェスペラからの公式回答を送る。内容はこうだ。——『アウレリア様は、現在ヴェスペラの土壌改良および新種小麦の開発における最高責任者として公務に従事されている。よって、一歩たりともこの地を離れることはできない。……文句があるなら、我が軍を率いてこの山脈を越えてみせよ』と」
「……あの、ヴァレリウス様? 私、いつの間に新種小麦の最高責任者に?」
「今、私が決めた。……アウレリア、あなたは何も心配しなくていい。たとえ皇帝陛下が直々に来られようとも、あなたをあの鳥籠へ返すことは、この私が、この命に代えても許さない」
彼は私の手の甲に、誓いを立てるような深いキスをした。
その瞳に宿る、狂おしいほどの独占欲。
冷徹な「北の壁」が、私のためだけに築いた、絶対的な守護の城壁。
帝都での争いなど、もうどうでも良かった。
私は、この少しだけ……いや、かなり変わった愛を向けてくれる伯爵様と共に、どこまでも甘やかされた辺境の日々を歩んでいこうと、心に決めたのだった。




