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【連載完結】王族との婚約を破棄した私は溺愛した伯爵様と一緒に辺境の地でゆっくりと過ごす事にしました  作者: 逆立ちハムスター


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帝都を囲む高い城壁が、夜闇の中に消えていく。

ガタゴトと揺れる馬車の振動が、不思議と心地よい子守唄のように感じられた。つい数時間前まで、私はあの冷たく光る大理石の宮殿で、大勢の貴族に嘲笑されていたはずなのに。


「……夢では、ないのですね」


ふと漏れた独り言に、向かいの席に座っていたヴァレリウス様が即座に反応した。

彼は軍務用の地図を膝に広げていたが、それを流れるような動作で畳むと、柔らかな、それでいてどこか熱を帯びた視線を私に向けた。


「ええ、夢ではありません。あなたは自由になったのです、アウレリア様。……いえ、これからはもっと親しみを込めて、アウレリア、とお呼びしても?」


「はい、もちろんです。……ヴァレリウス様」


彼の名前を呼ぶと、鋼のような彼の肩がわずかに跳ねた。

帝国最強の盾、北の猛禽、冷血なる辺境伯。

社交界で囁かれていた彼の二名は、どれも恐ろしいものばかりだった。けれど今、私の目の前にいる彼は、初めて宝物を手に入れた少年のような、危ういほどの歓喜を瞳に宿している。


「……喉は渇いていませんか? それとも、少し冷えますか? この馬車には魔導式の加温装置を組み込んでありますが、やはり帝都の夜とは風が違います」


「いいえ、とても快適です。こんなにふかふかの座席、王族専用の馬車でも見たことがありませんわ」


私が座っているのは、最高級の白銀羊アルビヌス・ラナの毛皮を幾重にも重ねたソファのような椅子だ。足元には、私の体温に合わせて温度を調節する魔石が敷き詰められ、小さなテーブルの上には、私が好むと以前一度だけ口にした「南方の稀少な果実の砂糖漬け」が、銀の器に山盛りになっている。


「快適……。そう言っていただけると、十年前から少しずつ馬車を改造してきた甲斐がありました」


「……あの、先ほどから気になっていたのですが。十年前から準備をしていたというのは、どういうことでしょうか? 私が殿下と婚約したのは、まだ私が七歳の頃でしたけれど」


ヴァレリウス様は、少しだけ視線を泳がせた。


「……あなたが、ある日の冬の夜会で、バルコニーの隅で一人、震えながら月を見ていたのを覚えていますか? 誰もいない場所で、あなたはほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をして『遠くへ行きたい』と呟かれた」


「……そんな昔のことを。私、自分でも忘れていましたわ」


「私は忘れません。あの日から、私の目的は一つになりました。あなたがいつか、あの黄金の鳥籠から逃げ出したくなった時、いつでもあなたを攫っていける準備をしておくこと。……そのために、ヴェスペラの領地を整え、家臣を教育し、あなたを迎え入れるための館を築いてきました」


彼の言葉は静かだが、その裏にある執念に近い愛情の重さに、私はめまいがした。

婚約破棄されることを前提に、十年間も待ち続けていたというの?

もし私がそのまま皇妃になっていたら、彼はどうするつもりだったのだろう。


「……もし、私が殿下と幸せになっていたら?」


「その時は、遠く北の地から、あなたの治める帝国が安泰であるよう、生涯剣を振るうつもりでした。……ですが、あの愚か者があなたを傷つけた。それは私にとって、この世で唯一許されない大罪です」


ヴァレリウス様の瞳に、一瞬だけ、戦場での彼を彷彿とさせる鋭い殺気が宿った。

けれど私と視線が合うと、それはすぐに春の陽だまりのような温かさに溶けてしまう。


「さあ、アウレリア。今はただ休んでください。ヴェスペラまではまだ数日かかりますが、この馬車の中はあなたの国です。誰にも邪魔はさせません」


彼は私の足元に膝をつくと、まるで壊れ物を扱うような手つきで、私の膝に毛皮のブランケットをかけ直した。

その指先が、ほんの少しだけ私の足首に触れる。

ドレス越しだというのに、そこから火がつくような熱が全身を駆け巡った。


私は逃げるように、夜の闇に沈む窓の外に目を向けた。

……辺境での、ゆっくりとした生活。

それはきっと、私が想像していたよりもずっと、激しい愛に包まれたものになる予感がしていた。


三日後。

私たちは帝国の北端、ヴェスペラ領へと足を踏み入れた。


窓の外に広がる景色は、帝都のそれとは一変していた。

天を突くような鋭い山脈、その頂には万年雪が白く輝いている。

けれど、山裾に広がる平原は驚くほど豊かな緑に覆われ、清らかな川が銀の帯のようにうねっていた。


「見えてきました。あそこが私の本拠、ヴェスペラの街です」


ヴァレリウス様が指差した先には、堅牢な石造りの城壁に囲まれた、活気ある街並みが広がっていた。

そして、その奥の一際高い丘の上に、白亜の美しい館が建っていた。


「……あれが、伯爵邸ですか? なんだか、想像していたよりもずっと……その、新しいですね」


「ええ。あなたが来ることを見越して、三年前から建て直しました。石材はすべて南方の最高級の大理石を運び込み、壁には断熱の魔法を付与した特注の煉瓦を使用しています。……アウレリア、気に入っていただけるでしょうか」


彼は不安そうに私を伺っているが、その館の規模は、帝都にある大臣たちの屋敷よりも遥かに豪華に見える。

「辺境の質素な生活」を覚悟していた私の予想は、到着した瞬間からガラガラと音を立てて崩れ去った。


馬車が館の正門をくぐると、そこには整然と並んだ使用人たちが、深々と頭を下げていた。


「お帰りなさいませ、閣下! そして、ようこそおいでくださいました、アウレリア様!」


その中の一人、白髪の老執事が一歩前に出た。


「私が家令を務めております、カトです。アウレリア様、閣下からは、あなたの髪の毛一本に至るまで、至高の奉仕をするよう厳命されております。何か不手際があれば、即座に私を処罰してください」


「ええっ!? い、いえ、そんな物騒なことは……」


私は慌てて手を振ったが、使用人たちの目は真剣そのものだった。

どうやら彼らにとって、私は「伯爵が十年の歳月をかけてようやく手に入れた女神」のような扱いらしい。


「アウレリア、まずは部屋へ。旅の疲れを癒やすための薬湯を用意させてあります。……ああ、移動は歩かなくても大丈夫ですよ」


「え?」


言うが早いか、ヴァレリウス様は私の膝裏と背中に腕を回し、軽々と抱き上げた。

いわゆる「お姫様抱っこ」という形だ。


「ヴァレリウス様! 人目がありますわ!」


「私の領地で、私の婚約者を抱いて何が悪いのです。……それとも、私の腕は不快ですか?」


捨てられた仔犬のような目で見つめられ、私は「いいえ」と言うしかなかった。

彼は満足そうに微笑むと、大股で館の中へと入っていく。


通された部屋は、私の好みの色である淡いブルーと白で統一されていた。

窓からは美しい庭園が見え、そこには色とりどりの花が咲き乱れている。

驚いたのは、その花の種類だ。


「これ……帝都でしか育たないはずの、ルナ・ローザではありませんか?」


「ええ。この地で咲かせるために、温泉の熱を利用した大規模な温室を作りました。アウレリア、あなたがこの花を愛していると知っていたので」


温室を、わざわざ花のために……?

私は呆然として、部屋の中を見渡した。

最高級のシルクのカーテン、柔らかそうなベッド、そして——。


「あ……! ヴァレリウス様、あれ!」


窓の外の少し離れた場所に、広い柵で囲まれた牧草地が見えた。

そこには、モコモコとした白い羊たちが、のんびりと草を食んでいる。


「羊……! 羊がいっぱいいますわ!」


私が歓喜の声を上げると、ヴァレリウス様はどこか誇らしげに頷いた。


「あなたが『羊の世話をしてみたい』とおっしゃったので、帝国中から最も毛質の良い、性格の穏やかな羊を選りすぐって集めました。……ちなみに、あの羊たち専用の侍従も二十名ほど雇ってあります」


「えっ、羊に、二十人も?」


「当然です。万が一にも、あなたの大切な羊が怪我をしたり、病気になったりしては、あなたの心を痛めてしまいますから。……それから、羊たちが歩く地面の石は、あなたが躓かないようにすべて手作業で取り除かせました。芝生も毎日、ミリ単位で整えさせています」


「……」


私は言葉を失った。

私が求めていたのは、泥にまみれて、羊と一緒に草の上を転げ回るような、そんな素朴な生活だったはずだ。

けれど、ヴァレリウス様の用意した「辺境ライフ」は、どうやら王宮生活よりも過保護で、贅を尽くしたものになりそうだった。


「アウレリア、どうかしましたか? まさか、羊が足りませんでしたか? 必要なら、隣領を買い取って牧場を広げますが」


「いいえ! 足りてます! 十二分に足りておりますわ、ヴァレリウス様!」


私は彼の胸元を押し返し、苦笑いしながら言った。

これから始まる私の辺境生活は、どうやら「ゆっくり」という言葉の意味を、辞書で引き直すところから始めなければならないらしい。


けれど、鏡に映った自分の顔を見ると、帝都にいた頃よりもずっと、頬が薔薇色に染まっていることに気づいた。


「……あ。そうだ、ヴァレリウス様。一つだけ、どうしてもお願いがあるのです」


「何なりと。私の命以外のすべてを捧げましょう」


「いえ、命は要りませんけれど。……明日から、私のことは『アウレリア』と呼び捨てにしてください。敬語も、少しずつでいいので崩していただけませんか?」


ヴァレリウス様は一瞬、硬直した。

そして、耳の付け根まで真っ赤に染め上げると、絞り出すような声で囁いた。


「……努力、します。アウレリア。……ああ、今の呼び方は不自然だっただろうか。もう一度、もう一度だけ練習させてくれ、アウレリア」


「ふふ、そんなに緊張なさらなくても」


鋼の伯爵様が、私の名前を呼ぶだけで、今にも溶けてしまいそうな顔をしている。

その様子が可笑しくて、愛おしくて。

私は、十数年ぶりに心の底から笑ったのだった。

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