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大理石の床に響く、冷ややかな靴音が耳に障る。
会場を埋め尽くす何百という貴族たちの視線が、針のように私の肌を刺していた。香油の甘ったるい匂いと、高価なワインの香りが混じり合い、胃の奥がせり上がるような不快感を覚える。
「アウレリア・テレンティア・ルフィヌス。貴様との婚約を、たった今この場を持って破棄する!」
高らかな宣言。
演壇の上に立つ、帝国の第一皇子クラウディウス様は、勝ち誇ったような顔で私を見下ろしていた。その傍らには、可憐な、あまりにも可憐な男爵令嬢——ルキッラが、震える小鹿のような手で彼の腕に縋りついている。
私は、ゆっくりと膝をついた。
重厚な絹のドレスが床に広がり、頭上の巨大なシャンデリアが放つ光を反射して、まるで私が光の海に溺れているかのように見えたことだろう。
「……理由は、お伺いしてもよろしいでしょうか。クラウディウス殿下」
努めて冷静に、震えを殺して声を出す。
私の声は、広い大広間に凛として響いた。
「白々しい! 貴様がルキッラに対して行ってきた陰湿な嫌がらせの数々、すべて把握している。書物を破り、ドレスを汚し、挙句の果てには階段から突き落とそうとした。帝国の母となるべき女性が、これほどまでに嫉妬に狂った醜い心を持っているとは。私は心底失望したのだ!」
周囲から、さざなみのような囁き声が広がる。
憐れみ、蔑み、そして何より——娯楽を見つけたという下卑た喜び。
私は心の中で、深い溜息をついた。
書物を破った? 私が彼女に贈ったのは、稀少な羊皮紙に書かれた古語の魔導書だ。ドレスを汚した? 彼女が自分でワインをこぼした時、替えのショールを貸したのは私だ。階段から突き落とす? そんな効率の悪い暗殺紛いの真似を、テレンティア家の人間がすると本気で思っているのだろうか。
けれど、何を言っても無駄だということは分かっていた。
クラウディウス殿下の瞳には、真実など映っていない。彼はただ、自分を「か弱き乙女を救う英雄」として演じたいだけなのだ。そしてそのための悪役として、あまりに「完璧すぎた」婚約者である私を選んだに過ぎない。
「……左様でございますか。殿下のお心がすでに決まっているのであれば、私から申し上げることはございません」
私は静かに頭を下げた。
その瞬間、私の心から、何かがスッと消えていくのを感じた。
それは、幼い頃から叩き込まれてきた「皇妃としての義務」という名の重石だった。
「身の程を知れ。貴様のような女は、この帝都に居場所などない。即刻、領地へ引きこもるがいい!」
「承知いたしました。では、これにて失礼させていただきます」
私は立ち上がり、一度だけ優雅にカーテシーをした。
顔を上げた時、私の瞳には涙などなかった。むしろ、十年ぶりに肺の隅々まで新鮮な空気が行き渡るような、清々しい解放感があった。
私は振り返り、出口へと歩き出す。
背後で、クラウディウス殿下がルキッラを抱き寄せ、「もう大丈夫だ、愛しのルキッラ」と囁く声が聞こえる。野次馬たちの嘲笑が背中に突き刺さる。
だが、重厚な扉に手をかけようとしたその時。
「——お待ちください」
低く、地響きのように重厚な声が、会場の喧騒を切り裂いた。
歩みを止め、振り返る。
人混みを割り、一人の男がこちらへ歩いてくるのが見えた。
黒髪を短く刈り込み、鋼のような肉体を漆黒の軍礼服に包んだ男。その鋭い眼光は、まるで戦場を支配する鷹のようだった。
ヴァレリウス・カッシウス・アルビヌス伯爵。
帝国北方の辺境を守護する「北の壁」と謳われる、武門の誉れ高い男だ。
彼はクラウディウス殿下の前を素通りし、一直線に私の元へとやってきた。そして、驚愕に目を見開く私を前に、ごく自然に片膝をついた。
「アウレリア嬢。……いや、アウレリア様。お怪我はございませんか」
「ヴァレリウス……伯爵? なぜ、あなたが」
彼は私の手を取り、その指先に恭しく唇を寄せた。
軍人特有の硬いタコがある掌が、私の指を包み込む。その熱に、心臓が跳ねた。
「殿下、失礼ながら一言。この女性を手放されるというのであれば、私が彼女の身柄をすべて引き受けたく存じます」
静まり返る会場。クラウディウス殿下は顔を真っ赤にして叫んだ。
「カッシウス伯! 貴様、何を言っているか分かっているのか!? その女は、聖女のようなルキッラを虐げた罪人だぞ!」
「私が知るアウレリア様は、慈愛深く、誰よりも思慮深い女性です。彼女がそのような卑劣な真似をすることはあり得ない。もし仮に、彼女が誰かを階段から突き落としたというのであれば、それはその階段の作りが不当であったか、あるいは突き落とされるべき理由が相手にあったのでしょう」
……この人は、何を言っているのか。
あまりにも極端な擁護に、私は呆気にとられてしまった。
ヴァレリウス伯爵とは、何度か夜会で挨拶を交わし、公務の際に言葉を交わした程度のはずだ。なぜ、これほどまでに私を信じきっているのだろう。
「ふん、勝手にするがいい! 辺境の野蛮人にふさわしい、傲慢な女だ。共に北の果てで凍え死ぬがいい!」
「……寛大なお言葉、感謝いたします」
ヴァレリウス伯爵は冷徹に言い放つと、私の手を取ったまま立ち上がった。
彼はそのまま、私をエスコートするようにして大広間の扉を開けた。
外は、冷たい月光が降り注ぐ夜だった。
馬車が並ぶ宮殿の前庭で、彼はようやく足を止めた。
「アウレリア様。……怖くはありませんでしたか」
覗き込んでくる彼の瞳は、先ほどまでの氷のような冷徹さは消え、揺れる篝火のような、温かく切ない色を湛えていた。
「……怖く、はありませんでした。ただ、少しだけ疲れました」
「そうですね。十年間、あなたは一人で戦いすぎた」
彼の手が、私の頬に触れようとして、ためらうように止まった。
その指先の僅かな震えを見て、私は気づく。
この、帝国で最も強いと称される男が、私に対してこれほどまでに怯え、慈しむような視線を向けていることに。
「アウレリア様。私と共に、辺境へ来ていただけませんか。あそこには、帝都のような華やかさも、高価な香水もありません。あるのは、広大な大地と、騒がしい家畜の声と……そして、あなたを心から敬い、愛する私だけです」
「……私を愛する?」
「ええ。ずっと前から。あなたが殿下の隣で、どれほど寂しげに微笑んでいたか、私は見てきました」
彼は深く、深く頭を下げた。
「あなたを自由にするために、私の領地を使ってください。もしあなたが望むなら、ただの居候としてゆっくり過ごしていただいて構わない。けれど、もし許されるなら……いつか、私にあなたを幸せにさせてほしい」
夜風が私の髪を揺らす。
王城の喧騒はもう遠い。
私の目の前には、不器用で、ひたむきな、一人の男がいた。
私は、彼の手を優しく握り返した。
「……私、実は羊の世話をしてみたいと思っていたのです」
「……え?」
「それから、朝はゆっくり起きて、焼きたてのパンや、もぎたてのフルーツを食べて。……そんな、当たり前の生活がしてみたかった」
私の言葉に、ヴァレリウス伯爵の顔が、見たこともないほどパッと輝いた。
「では、決まりですね。明朝、出発しましょう。あなたの荷物は、私の部下たちがすでに屋敷から運び出させています」
「えっ、いつの間に!?」
「準備だけは……十年ほど前から進めておりました」
「……十年!?」
驚く私を、彼は愛おしそうに見つめると、軽々と抱き上げて馬車に乗せた。
帝都の灯りが遠ざかっていく。
私の、長すぎた「皇太子妃」としての人生が終わり、広大な辺境での、あまりにも甘やかで穏やかな日々が始まろうとしていた。




