相応しき者(誤)
シンは、吹き飛ばされた距離を歩いて戻ってきた。
地面には、彼の踵が抉った跡が残っている。
石も、土も、均されたはずの大地も、圧倒的な衝撃の前では意味を持たない。
だが、シンの表情は変わらない。
顎を軽く鳴らし、首を回す。
「厄介だな」
それは、敗北を認める言葉ではなかった。
評価だ。
レイザーは肩で息をしながら、口元だけで笑う。
「理論上、どんな攻撃でも返せる」
「理論上、か」
シンが、ゆっくりと拳を握る。
「なら、理論の外から殴ればいい」
レイザーの笑みが深くなる。
「そういう雑な答え、嫌いじゃねぇよ」
二人の間に、また空気が張った。
ゼロカウンタ。
タイミングが合えば、衝撃をゼロの領域で受け止め、逆方向へ反射する。
シンの拳ですら、弾き返した。
けれど。
万能ではない。
レイザーの呼吸は乱れている。
集中力も、極限まで尖っている。
失敗した瞬間、無防備になる。
シンはそこを理解している。
そしてレイザーも、理解している。
だからこそ次の一手は、
互いに“終わらせるため”ではなく、
“さらに奥へ進むため”の形を取り始めていた。
私は影の奥で、じっと二人を見ていた。
塔は、沈黙している。
だが、もう十分だ。
見られている。
あの黒い窓の奥からではない。
塔そのものからでもない。
もっと遠く。
もっと奥。
こちらを“物語”として眺めている視線がある。
私は影の中から、短く告げる。
「奥へ」
それだけで、二人は理解した。
戦うための構えが、移動するための構えへ変わる。
シンがレイザーの襟首を掴んだ。
「投げるぞ」
「雑だな」
「速い」
「ならいい」
次の瞬間。
シンの膂力が、爆発した。
レイザーの身体が、矢のように空へ放り出される。
ただの投擲ではない。
身体強化。
走馬。
踏み込み。
全身の連動。
人間一人を、質量の弾丸として撃ち出す。
塔の横を、レイザーが飛ぶ。
その瞬間、レイザーが笑った。
相対入れ替え。
位置が、反転する。
空中にいたレイザーと、地上を駆け出したシンが入れ替わる。
シンは投げられた速度をそのまま受け継ぎ、
さらに空中で身体を捻る。
地面を蹴らずに加速する。
レイザーは地上へ戻るなり、また足場を作る。
安置テレポート。
相対入れ替え。
重力波の一瞬の反転。
そしてシンが、またレイザーを掴む。
「もう一回」
「分かってるよ!」
再び、投げる。
再び、入れ替える。
膂力による投擲。
相対入れ替えによる速度の引き継ぎ。
安全地点への補正。
重力のわずかな押し出し。
それは、移動ではなかった。
バグだ。
この世界の法則に対して、
“そう処理されてしまうなら利用する”という暴力。
二人の身体が、交互に弾丸になる。
空が裂ける。
塔の輪郭が、後方へ流れる。
景色が変わる。
塔の足元。
黒い壁。
捻れた階層。
禍々しい窓。
それらが、一瞬で背後へ消える。
私は影忍びのまま、二人の影に潜む。
影は伸び、切れ、重なり、また生まれる。
それでも私は離れない。
忍びは影に宿る。
影がある限り、私はそこにいる。
だが――
ここから先は、私の語りではない。
そう。
ここから先は、
私ではない誰かが、言葉を拾い始める。
面白い。
実に、面白い。
私は紅茶の表面に浮かぶ揺らぎを眺めながら、そう思った。
水面ではない。
湖でもない。
ただ、白磁のカップに注がれた琥珀色の液体。
そこに映るのは、塔を越えてくる三つの影。
いや、正確には二つだ。
一つは見えない。
見えないはずなのに、
見えないという結果そのものが、そこにいることを示している。
影忍び。
なるほど。
観測に対する対策としては、かなり原始的だ。
だが、原始的なものほど厄介な場合がある。
なにせ、こちらのシステムは“見えるもの”を優先して処理するよう設計されている。
見えないものを、見えないまま扱うためには、少しだけ手間がいる。
少しだけ。
本当に、少しだけだ。
私は椅子に背を預ける。
場所は、塔の奥。
と、彼らは認識するだろう。
実際には違う。
塔は入口ではない。
道標でもない。
あれは、ただの目印だ。
世界の中に、異物を置く。
すると、面白いほど人は寄ってくる。
登る者。
壊そうとする者。
祈る者。
飽きて去る者。
そして今回の彼女は――
登らない。
これがいい。
実にいい。
用意された階段を無視する。
提示された試練を迂回する。
目に見える餌に食いつかず、
その奥にいる釣り人を探しに来る。
まったく。
忍者という存在は、
物語の都合を嫌うらしい。
私は紅茶を一口含む。
温度は完璧。
香りもよい。
苦味も、甘味も、望んだ通り。
この世界では、望めば何でも作れる。
だからこそ、ほとんどの者は望むことをやめた。
完成品を手に入れる。
満たされる。
退屈する。
刺激を探す。
魔法大戦。
料理。
湖。
塔。
どれも、同じだ。
空白を埋めるために、人は遊ぶ。
だが、彼女は違う。
彼女は遊びを、武器に変える。
食事を、術に変える。
魔法を、忍術だと言い張る。
しかも本気で。
面白い。
ここまで面白いログは、久しぶりだ。
いや。
もしかすると、初めてかもしれない。
カップを置く。
その音が、空間に小さく響いた。
私の部屋は、広い。
白い床。
白い壁。
白い天井。
施設に似ている?
そう見えるようにしてある。
人は、始まりの場所に似た風景を見ると、
自分が物語の節目に立っていると錯覚する。
便利な演出だ。
もちろん、彼女には効きにくいだろう。
効きにくいから、面白い。
正面の空間が、歪み始めた。
遠くから、衝撃が近づいてくる。
一回。
二回。
三回。
投げる。
入れ替える。
加速する。
投げる。
入れ替える。
加速する。
ひどい処理だ。
力学としては乱暴。
アセット運用としては不安定。
だが、現象としては成立している。
成立してしまえば、この世界ではそれが答えだ。
私は少しだけ笑った。
「来るか」
次の瞬間。
壁が砕けた。
いや、壁ではない。
彼らが壁だと思うように置いていた境界面が、
派手に破られた。
まず飛び込んできたのはレイザー。
回転しながら床を削り、
片手をついて姿勢を立て直す。
続いてシン。
彼は着地というより、落下の勢いを踏み潰して止まった。
床が沈む。
最後に。
何もいない。
だが、影が揺れた。
二人の足元から、
薄く、静かに、彼女の気配が滲む。
私は、紅茶のカップを持ち上げる。
こぼれていない。
よかった。
これをこぼされるのは、少し不愉快だからね。
「ようこそ」
私は微笑む。
「塔には登らなかったんだね」
レイザーが息を整えながら、こちらを見る。
シンは拳を握ったまま、無言。
そして影の奥から、
少女が現れる。
小柄な身体。
濡れても、焼けても、裂けても、
また整え直せばいいだけの衣服。
だが、その目は違う。
アイズの奥に、
この世界の住人にはない記憶が沈んでいる。
彼女は私を見た。
警戒。
分析。
殺意。
そして、ほんの少しの好奇心。
いい。
とてもいい。
私はカップを置き、
両手を軽く広げた。
「初めまして、シノ」
いや。
そう呼ぶべきか。
それとも――
「霧隠れの途中で、世界から消えた子」
私は笑う。
「ずっと見ていたよ」
部屋の白が、静かに揺れる。
塔の奥。
あるいは世界の外側。
そこでようやく、
観察者と忍びは向かい合った。




