19 川岸 2
馬の蹄の音が、太鼓の音のように身体に響く。夏の風が頬を掠める。草の青い匂いが重く立ち込める。
ずしりとした甲冑を身につけ、実清は馬の腹を蹴った。重みと馬の揺れに耐えるため、足を踏ん張る。甲冑の金属音が幾重にも重なる。
心臓が自然と早鐘を打つのが分かる。
椿山軍がこちらに気づいたようだ。敵だ、と叫ぶ声が聞こえる。気づいたところで防ぎきれないはずだ。進路の前にも敵がおり、実清たちは進路の真横から攻めているのだ。
実清たちに気づいた第一陣の兵たちは活気づき、椿山軍を一気に押し返した。勢いに押され、溢れた者が実清たちの方に転がり出た。
いささかも怯むことなく、実清は騎馬を率い、軍勢の横腹を突いた。雄叫びと馬のいななきが混ざり、刀のぶつかり合う音と悲鳴が重なる。
混戦の最中、第一陣の兵たちは、巻き込まれないよう後退した。
椿山方の軍勢は、ほとんどが足軽だった。その中で、馬に乗った者が二人いた。そのうちの一人、兜飾りが派手な方に目をつけ、実清が近づいた。
何奴、と男が低い声で唸る。声だけだが、歳の頃は三十といったところか。
男から目を逸らさないよう、実清が馬を近づけながら答えた。
「須佐国家老、葉山実信が嫡男、葉山実清と申す。」
ほう、と男は低く笑う。嘲笑だった。どうやら信じていない様子だ。
「菊丸宗勝殿を負かしたという、あの。それにしてはいささか細くござるな。葉山実清なる者は、筋骨隆々の若武者と聞き及ぶが。」
なんということか。きっと様々な噂から人々が想像した姿が、尾鰭をつけて広まっているのだろう。もはや訂正のしようもないくらいだ。
誰であろうとも構わぬ、と男は付け加えた。
「我が名は雨城国物頭、竹田貞盛。そなたが何人であろうと、ここは押し通る。」
渡河を終え、一戦交え、すでに疲弊した身体で立ち向かってくる。侮れば、実清も命はない。
馬ははや興奮し、今にも駆けり出しそうな勢いだ。鼻息も荒く、背後で尾を振る音がする。
参る、と竹田貞盛が呟いた。刀の切先を実清に向ける。陽の光が、青白く反射した。
実清も大きく深呼吸し、刀を握る。
分かる。実清は確信した。
竹田貞盛なる男は、すでに疲れている。だが、それゆえ実清を相手にして、体格で侮った。自分よりも小柄で細く見えるから、勝てると思ったのだ。人は知らぬうちに加減をする。楽ができると思えば、知らぬうちに手を抜く。
どちらが先ともなく、馬が駆け出す。
刃を交えると、まるで火の粉が散るような激しさだった。二度三度と繰り返すうち、竹田貞盛の顔から余裕が消えた。かわりに焦燥が現れる。対する実清は、最初から常に真剣な面持ちだ。
数度目、両名がぶつかり合ったときだ。
実清が大きく身を屈めた。そのすぐ頭上を、竹田貞盛の刀が空を振り切る。その彼の横腹を、実清が突いた。筋肉が収縮し、刃が挟まれる。
力任せに刀を引き抜けば、男の嗚咽のような声と共に、血飛沫が飛んだ。実清の頬が赤く染まる。
馬を反転させると、右の脇腹を押さえた竹田貞盛が、馬上でぐらりと傾いたところだった。
宗勝の騎馬隊の者と共に首を獲ると、言いようのない高揚感が身を包んだ。安堵か興奮か。とりあえずは死なずに済んだと思ったのは、やはりどこかで死ぬことに怯えていたからだろう。情け無いことよと思うが、今は全ての感情が興奮にかき消される。なんだか、覚えてはならないような、知ってはならないような興奮だ。
そして、なんとも言えぬ罪悪感があった。この手で一人の命を絶ったのだ。もう戻れない。ただ修練に励んでいた自分とはもはや違うものになってしまった。気持ちのいいものではない。
安堵と興奮、そして罪悪感が混じり、吐き気に変わりそうだ。
ふと振り返って見れば、決着はついていた。椿山軍で立つ者はなく、実清が率いていた騎馬隊も何騎かは地に伏していた。
実清は足元を見た。血だ。どこを見ても血と死体で、まるで血の池だ。
水っぽいような、薄く生臭い不快な香りが充満する。これは、血と人間の臓物の臭いだ。
倒れ伏す者の切り傷から、皮下の薄い脂肪が見える。粒々として、一粒一粒が鮮やかな黄色だ。
早いものには、もうハエがたかっている。
肩で息をし、実清は竹田貞盛の首を見た。なんとかこの興奮を抑えねば、人であり続けられない気がした。
これは、もしかしたら私だったかもしれないのだ。実力の差であったかもしれない。たまたま運が良かっただけかもしれない。少しでも切先が狂っていれば、もう二度と若様に会うことは叶わなかったのだ。
椿山方との大井川の戦いは、菊丸方の勝利に終わった。
丘の上に陣取っていた光春が、川岸まで下りてきた。実清を見つけ、駆け寄ってきた。
「怪我はないか。」
実清の頬の乾いた血痕を見て、光春が問う。大事ありませんと返ってくる。
獲った首を差し出せば、光春と共にいた兵が、手際よく木桶を持ってきた。実清が竹田何某を討ち取ったことは、首がなくとも宗勝の騎馬隊が保証するだろう。
初陣にして、首取りだ。また実清の名が上がるのは間違いない。
「もう会えぬかと思った。」
他の者に聞こえないよう、光春が語りかけた。
まさか、と実清は笑いとばした。そうしなければ、何かに呑まれそうだった。
光春は、地面に倒れ伏している兵を見ている。皆、口を少し開き、目が閉じきっていない。頬に血飛沫の痕があり、赤黒く乾き始めている。
若様、と実清がまた声をかけた。
よもや主人は、この者たちを埋葬し、怪我人を敵味方なく助けようとしているのではあるまいな。
きっとそうだろう。なにしろ、幼い頃からそばにいるのだ。砂糖菓子より甘いと噂されるほどなのだ。けれど今は。
「こればかりはなりません、若様。この世は地獄に変わりました。我らはこの先も数多の死人に出会いましょう。それこそ、我らの手には余るほどに。」
亡骸を埋葬する暇などない。
分かっている、と光春が答えた。やりきれなさと、不甲斐なさが入り混じった声色だ。光春の眉間に皺がよっている。
それを見て、実清は眉尻を下げた。
本当は若様の思い通りにしてやりたい。だが、この場にとどまることはできない。
それでも、光春は死者たちを見捨てられないのだろう。現実と理想の狭間において、光春は胸を痛めている。
すがるような思いで、実清はもう一度、若様と呼んだ。
「分かっている。戻るぞ。宗勝様と合流する。」
悔しそうに光春は答えた。
戦とは、こんなものだったのか。
宗勝は戦いの跡を見て回りながら、そう思った。
幼い頃に読み聞かせてもらった軍記物や、絵巻とは違う。泥と血と汗の臭いが咽せかえるようだ。怪我人のうめき声が耳に残る。だが、大将軍の跡目であれば、それすらも踏み越えていかねばならないのだろう。
「宗勝様、ようございましたな。このまま雨城国まで攻め込み、椿山の首をとりましょう。」
家臣が言う。
攻め込んだとしても、椿山軍は形勢を見て籠城するだろう。雨城城は堅牢だ。国力もあるから、当分崩れないだろう。城が落ちるまでに、こちらの気力が続くとも限らない。
宗勝が考え込んでいると、背後から宗勝を呼ぶ声がした。
「ご壮健で何よりです。」
頬に返り血を浴びた実清がいた。その顔を見て、宗勝はほっとした。ふわふわと宙を舞う足が、すとんと地についた感覚だ。
「葉山殿、ご苦労だった。将を一人討ちとったそうだな。初陣とは思えぬ働きだ。」
実清がぎこちなく微笑む。
やはり腕の立つ者でも緊張したか。宗勝は少しほっとした。
内心、宗勝は感嘆していた。光春に貸した騎馬の兵から聞いた。実清の戦いぶりを直に見たいとさえ思った。周りの者は知らないが、これで女だというのだから、感嘆もさらに増す。
「ますますそなたを手に入れたくなった。そこらの女子とは違って、面白い限りだ。」
お戯れを、と実清が笑い流す。
「光春殿はいかがした。」
宗勝が尋ねた。実清が言いにくそうにする。さらに尋ねると、実清は河口の方を振り返った。
「あちらで、することがあると。」
河口近くの林の前に光春はいた。手に数珠を持ち、経をあげている。よく響く声だ。光春の声に混じると、蝉の声までも経のように聞こえる。
あたりには、馬や人の亡骸が散っていた。血溜まりになっている所もある。目ざといカラスが、死肉をついばみに来ている。
経が一通り終わるのを待って、宗勝が光春の前に立った。
「何をしているのだ。」
眉間に皺を寄せ、宗勝が問う。経を読むのなら、軍僧がいる。光春は申し訳なさそうな顔をした。
「戦がどのようなものか、私は分かっていませんでした。幼い時分に楽しく読んだ軍記物の世界とは違いました。」
敵味方なく、死せばただの骸となる。誰にも葬られることなく、ここで朽ちていく。せめて魂だけでも、帰るべき所へ帰られるように。
彷徨える魂を導くという、須佐の海竜神に光春は祈っていた。
しかしそれは、死者のためではない。故国と離れた場所で朽ち果てることを仕方ないと割り切れない、光春自身のためだ。
「この先、全ての戦場でそうする気か。」
光春はかぶりを振った。
「全てできるとは到底思っていません。ですが、これからも折があれば経はあげるつもりです。戦がこのように悲しいものだったとは、恥ずかしながら知りませんでした。」
甘い、と宗勝は言った。
宗勝の叱咤に、光春は申し訳なさそうにした。
「私には見えるぞ。」
光春をまっすぐに見据え、宗勝は言った。
「光春殿が哀れんだ魂が、おぬし自身をも連れて行こうとする未来が。おぬしのその優しさは、ある者から見れば救いだが、別の者からすれば隙でしかない。」
光春が死者を哀れに思えば思うほど、光春は死者に捕らわれていく。目の前が見えなくなれば、光春こそが死者となる。
生きていなくては意味がない。まずは生者に目を向けよ、と宗勝は言い残し、その場を離れた。
あとには光春と実清が残された。
「すまなかった。」
小さく光春が言った。
「あの時お前が叱ってくれなければ、私は目の前の現実を見ずに、亡骸を埋葬していただろう。一人で出来るはずもないのに。」
なんだか情けないな、と光春は付け加えた。
実清や他の者に守られているのも情けない。戦だと割り切れないのも情けない。
しばらく黙った後、実清は口を開いた。
「もし、先程宗勝様が言ったことが本当であれば、私が若様に絡みつく魂を斬り伏せましょう。喰らいついて、我が身と共に地獄へ連れて行きましょう。若様は何も心配せず、やりたいようになさってください。」
「恐ろしいことだな、それは。」
いくばくか元気を取り戻し、光春が笑った。空を見上げ、実清も笑った。
きっと、誰しも同じような心持ちだった。死の恐怖から逃れるため、安堵を確かなものにするため、笑うしかなかった。
だから誰も気づけなかったのだ。すでにここを通り過ぎた軍勢のことには。




