18 川岸
稲氷国の中ほどには、大井川という川が南北に流れている。須佐国と稲氷国の間には山々が連なり、そこから北の海へ向けて雪解け水が流れる。
早朝、その上流で、椿山派、菊丸派の両軍は川を挟んで対峙していた。梅蔵へ向かう椿山軍と、菊丸宗勝らの軍勢だ。敵の進軍速度を考え、防衛戦の地として宗勝が選んだのが、この大井川だった。
大井川は数多の山々からくる支流が合わさり、一つの大きな川になる。河口にいくほどに川幅は広くなり、椿山軍の歩兵は渡れない。上流の橋は、宗勝が命じて全て落とした。
「そろそろ仕掛けてくるか。」
陣中で菊丸宗勝が呟く。白い軍幕に、黒で円形に上に半菊、下に雲が描いてある。まるで雲から昇る朝日のようだ。これは菊丸家の家紋だ。陣旗にも、同じ家紋が入っている。
布陣してから時間が経つばかりで、相手も渡河を始めない。宗勝の周囲では、早くももどかしい空気が流れている。
対岸は遠く、煙を焚かれている。敵がどう動いているのかも分かりにくい。しかし、敵が目指すのは梅蔵の都。川の他の場所は流れが急な所や険しい所がある。一番渡りやすそうなここを突破しないことには、先に進めない。宗勝らは、限られた兵力を使って守りの一途だ。
「何かおかしい気がする。」
宗勝は首を捻った。そして、光春を呼んだ。
「私の騎馬隊と足軽隊を一つずつ貸す。ここよりも河口へ行ってくれないだろうか。」
宗勝は思案した。対岸の敵は陽動ではないか。
昼下がり、光春らについて河口付近へ行っていた者が、慌ただしく陣中に駆け込んできた。
大井川の水量がわずかに減りつつあるというのだ。おそらく、上流の支流を堰き止めてられたのだ。今から上流に向かっても、もう間に合わないだろう。
宗勝は立ち上がった。
「敵が川を渡るぞ!準備しろ!」
宗勝は兜をかぶり、馬に乗った。足軽たちが慌ただしく走る音がする。宗勝は兵を引き連れ、大井川へ向かった。
川に着くと、たしかに水量が減っていた。見張りの話では、報告したときよりも減っているという。このまま減り続ければ、もう少しで川を渡ることができる。点々とある中州伝いに川を渡ると考えれば、兵たちも心理的に動きやすくなる。
対岸は緑が生い茂り、様子はうかがえない。
光春は実清を伴い、大井川河口にほど近い丘に布陣していた。宗勝から借りた部隊も使い、川から丘まで三段の構えを敷いた。
「若様、大丈夫ですか。」
半ば呆れた様子で、実清が問う。視線の先には光春がいる。まだ何も始まっていないのに、額には玉のような汗が光る。
「大丈夫なわけあるか!」
周りに大きく聞こえないよう、光春が答えた。光春の眉間に皺がよっている。なにせ武芸事は下手なのだ。今まで、木刀でもろくに勝てた試しがないのに、いざ真剣で臨むとなると勝手も違う。一本とって試合終了、ではないのだ。初陣で最期など、笑い話にもならない。
その時、陣内がざわめくのを光春は感じた。
「若!あれ、川を渡る軍勢が!」
見張の者が叫ぶ。遠目に見れば、水量の減った大井川を、騎馬と歩兵の軍勢が渡り始めたところだった。
ざっと見ても、光春たちよりも数が多い。正面きって戦えば、不利になることは間違いない。
上陸までには弓矢で数を減らすが、それでも岸にたどり着く者はいる。上陸されれば白兵戦だ。
光春はすぐさま伝令を送り、宗勝に急を報せた。
敵のものか味方のものか、雄叫びが光春のもとまで聞こえた。直後に、敵が第一陣に迫っているという報告があった。
第一陣には、信頼できる須佐の者を置いた。あっさりとやられることはないだろう。
宗勝が陣取る所の対岸には、煙が焚かれていた。おそらく、そこには人はいないのだろう。こちら側を渡るための目眩しとでも言おうか。
伝令が着けば、宗勝もこちらに来るだろう。しかし、手は先に打つに限る。側面から襲いかかり、渡河の先で出足をくじくのだ。
つと、実清が進み出た。私が出ますと静かに言う。
他に出せる者もいない。頼んだと光春が応えた。実清は表情にこそ出さないが、興奮しているのが分かる。日焼けした頬が紅くなり、目はいつもより輝いている。気負って変に力が入って、それが災いしないかが心配だ。
実清は、自身の騎馬隊と共に、宗勝から借り受けた騎馬隊を連れ、丘を下っていった。重苦しい馬の蹄の音が遠ざかるのを、光春は目を閉じて聞いていた。
宗勝率いる軍勢は、皆が赤い甲冑を纏う。それは、菊丸家の伝統であり、強さの誇示に他ならない。その先頭にいる実清たちの紺の甲冑は、一際目立った。
目を閉じたまま、光春は膝の上で手を握りしめた。
実清は帰ってくる。今や数多の男を差し置いて、水穂国一の剣士と噂される実力だ。必ず帰ってくる。渡河を終えたばかりの、すでに弱っている敵を不意打ちするのだ。何の心配があろうか。
共に行けたら良かった。しかし、光春はこの第三陣を離れるわけにはいかない。
それに、行ったとて何の役に立とうか。木刀でのやり合いですら勝てないのだ。実清の足手まといになるに決まっている。
何もできなくとも、実清が光春を責めることはないだろう。他の者からは、情け無いだの、やはり荒事には向かぬなどと言われるに決まっており、今に始まったことではない。だが、己が許せない。ぬくぬくとした安寧に気を許していたのだ。
それに、実清に従う宗勝の騎馬隊には、実清のことを良く思わない者もいるだろう。なにしろ御前試合で、実清は宗勝を負かしたのだ。宗勝自身は気にしていない様子だが、だからといって皆がそうだとは限らない。
けれど、きっと実清なら帰ってくるはず。水穂国一の剣士なのだから。
不安と焦燥に呑まれながら、光春はただ安堵する方法を探る他なかった。




