導きの鳥
庭の前栽を眺めている雅の姿を垣間見て、替えの衣を運んできた弓弦羽は、途端に足が竦んで動けなくなってしまった。
まだ御帳台で眠っているであろう加代子のために用意された花の模様を散らした生絹の几帳に透けて、白絹の単衣を申し訳程度に纏った男が遠くを見ている。
ただそれだけの事なのに、弓弦羽はまるでその場に縫い止められたかのように動けず、ゴクリと喉を鳴らした。
高皇産霊神と違い、豪奢な衣を纏っているわけでも、傍に侍るものもない。それにこの庵自体も権威付けするような華美な装飾もない。
しかし、それが余計に静かに佇む主の姿を、他のものと一線を画するように際立たせ、弓弦羽に不思議と膝を折らせた。
新しい着替えの入った乱れ箱を脇に置き、深々と礼をする。そして、ぶるりと武者震いをすると覚悟を決めて声を掛けた。
「主様、お召し物をお持ち致しました。」
最後の方は声が緊張で掠れる。そして、彫刻のように佇んでいた雅と目が合うと、主従の契りを交わしたわけでもないのに、自然と恭順を示したい心地になってうち伏せた。
「そのように伏せずとも構わない。お入り。」
苦笑するような気配に面を上げれば、人ならざるものの瞳の雅の眼差しは、高皇産霊神が向けてきたような侮蔑の眼差しではなく、温かで威厳あるものに見える。
弓弦羽は覚悟を決めると「御前に失礼致します」と声を掛け、口を真一文字引き結び雅の傍へ侍ると着替えを手伝った。
細身ながら引き締まった背中、黒く艶のある髪、そこに黒に近い青鈍色の衣を着付ければ、綾織で文様が浮き上がるように見えるのもあって、黒豹のような猛獣を相手にしている気になってくる。
着付けを終え、そのまま、自分の羽根よりも柔らかで光沢ある黒い鬢を整えれば、ますますその思いは強まって、弓弦羽は唇がいつになく渇いていくのを感じた。
聞こえるのは衣擦れの音ばかり。
鬢を整え終えると、弓弦羽は沈黙に耐え兼ねるようにして道具を片付け、雅の脱いだ単衣を拾う。
そして、それを見計らってか、雅はぽつりと「戦況はいかがですか?」と弓弦羽に訊ねた。
弓弦羽の手が止まる。そして、ちらりと自分を見てくる雅の様子に、弓弦羽は急ぎ乱れ箱に衣を入れると「若干、こちらが劣勢なのではないかと存じます」と答えた。
「劣勢、ですか?」
「はい、あちらは二万の兵で日の出とともにこちらを攻めたてております。対してこちらは八岐大蛇の攻撃と、天狐殿の守備のみ。私が討って出ても多勢に無勢かと存じます。」
しかも、高皇産霊神が率いる二万の兵は単なる兵ではない。いずれも屈強な猛禽の類だ。
「こちらは狙われたら逃げられぬのに対し、あちらは上空へ逃げられます。射程距離を取られてしまえば攻撃が当たりますまい。」
その言葉に雅はふっと笑みをこぼし、「そうですね、陸ならば、あるいは、そうだったでしょう」と答える。
「陸ならば・・・・・・?」
「ええ。」
雅はそう言うと外を指差す。そこには満々と満ちた水の世界が広がっている。弓弦羽は目を疑った。
「これは水にございますか?」
「ええ、弓弦羽は伏せていたから、気が付かなかったのでしょうが、今や外は至る所、水ですよ?」
現状、水に浸かっていないとすれば、それは高皇産霊神の生み出した心の太柱の上方と、大洋に浮かぶ神皇産霊神の方舟だけだろうと話す。
「陸はなく、羽根を休める枝もない。ただ広がる水の世界。そんな中、一日中、空を飛んでいれば苦しいのではないでしょうか?」
弓弦羽はそれを聞くと、手にしていた単衣を取り落としそうになった。
「あの、では・・・・・・。」
「ええ、初めは文句のひとつでも付けようかと思いましたよ?」
ふふっと笑う様子は穏やかながら、加代子との時間を邪魔された事を非難する。
その言葉に弓弦羽が恐縮して「出過ぎた真似を致しました」といえば、雅は「いいえ、弓弦羽はちゃんとちょうど良い頃合いに声を掛けてくださったようですよ?」と柔らかく笑った。
「ちょうど良い頃合いですか?」
「ええ、ほら、あちらに。」
雅の視線の先を追えば、折り鶴が風もないのにこちらに向かって飛んできており、ちょうど部屋に舞い込んできたところだった。
「天狐、如何しましたか?」
雅が訊ねれば、どこからともなく「お休み中、失礼致します」と天狐の声が聞こえてくる。
「いいえ、少し前に起きていましたから、大丈夫ですよ。 それより式を飛ばしてくるなど、火急の用なのでしょう?」
《はい、神皇産霊神から至急伝えて欲しいことがあると一報がございました。》
そして、天狐は「高天原に天之御中主神の気配あり」との告げる。
「高天原に天之御中主神の気配? それは何とも厄介なお話ですね。」
《天之御中主神とは、主様が手こずるような相手ですか?》
「いいえ、そういう次元の話ではありません。その方は私の主なのですよ。」
天狐と弓弦羽の声が「主様の主?」とハモる。雅はクッと喉を鳴らすようにすると、「二人とも息がピッタリですね」と笑った。
「私がこの地に降り立てたのも、偏に天之御中主神のお許しがあればこそ。彼の方こそ、この大宇宙原始の神です。」
《そのように尊き方が何故、敵地の高天原に?》
「さあ? その辺りは私にも分かりません。ただ、こうなってくると神皇産霊神にご相談して、お力添えを頂くよりほかありませんね。」
《いかがなさいますか?》
「これより方舟に向かいます。天狐は引き続きこの庵と速佐須良比売の守護を引き受けてくださいませんか?」
天狐が「御意」と答えると紙はぶわりと青い狐火に包まれて消える。
「さて、弓弦羽。行きましょうか。」
「折角のお話ですが、水の中は飛ぶ自信が・・・・・・。」
「何をおっしゃいます。私もせっかく着替えたのに、濡れる気はありませんよ?」
そう言ってくすくす笑う雅に「では、どうするのだ」と弓弦羽は訝しんだが、一瞬で傷を癒してみせた目の前の男の異能ぶりを思って、「何か手立てがあるのだろう」と思い直す。
「失礼いたしました。何かお考えがあるのですね。お供致します。」
「ええ、そうしてくださる助かります。」
「先にお召し物を片付けて参ります。」
「はい、分かりました。待っていますね。」
自分を近侍の者として遇してくれる雅の様子に、いつの間にか緊張は解け、弓弦羽は恭しく一礼し、急ぎ乱れ箱を片付けに行く。
主従の契りは結んでいない。
結んでいないが、それでも構わない。
この方こそ、自分の主だ――。
弓弦羽はそう思った。
◇
ところは同じく「弓弦羽の庵」の一室。
少彦名命は車酔いに似た心地のまま、床にゴロンと大の字に転がっていた。
この「弓弦羽の庵」はかつて国常立尊を助けて怪我をおった腹心「八咫烏の弓弦羽」が、国常立尊にその手柄を認められて下賜された庵らしい。
場所は心星の玉座のすぐ近く。
正直、二度も魔縁の者の口に咥えられて餌のようにして運ばれるとは思っていなかったが、八咫烏の方が幾ばくかマシだったなと評してしまう自分の性格が憎い。
「失礼致します。」
少彦名命は起き上がって口を利くのも面倒で、寝転んだまま「おう」と答えた。
「お加減はいかがでしょうか?」
「ああ。幾分マシにはなったが、なんだ?」
そりゃ、実の母親の神皇産霊神に「指の先から零れた子だね」と冷たく言われるほど、放蕩の限りは尽くしてきたけれど、仮にも天津神の端くれの自分を、こうして誘拐するかのようにして連れてきたのだ、これくらい乱暴に答えてもバチは当たるまい。
しかし、相手は落ち着き払った声のまま、寝転がった少彦名命を助け起こすようにして名乗りした。
「私はこの庵を預かっております、八咫烏の弓弦羽と申します。」
「八咫烏・・・・・・? お前、さっきの八咫烏か?」
「はい、あのようにお連れしたこと、平にご容赦くださいませ。」
「俺が許したところで、他が許すまい?」
「そう思って、天狐殿に先んじて許しを得てございます。」
それを聞くと少彦名命は僅かに驚き、続いて目を据わらせると「天狐の奴」と歯噛みする。
しかし、弓弦羽はそれでも落ち着きを払っていて「こちらへは、古の主様からのご依頼を果たして頂きたくお呼び立てしました」と言い出す。
「古の主様?」
「はい、かつて《国常立尊》と呼ばれた方にございます。いつの世か大峠の時が来て、我が邸に客人の神が現れる。名は少彦名命と言い、禁厭の神であり、酒の御魂であらっしゃるとお伺いしております。」
「それで? 古の国常立尊はなんだって?」
「神皇産霊神を呼んでもらうように、と。」
「母上を?」
「はい。少彦名命はそれを出来る術をお持ちだと仰っていました。」
それは大己貴命にしか知らせていないことであり、ここで知らぬ存ぜぬを通しても何ら問題は無いことだったが、生来の旺盛な好奇心が邪魔をする。少彦名命は「そんな事は出来ない」とは言わずに弓弦羽を見つめた。
「母上をお呼びして、何をさせる気だ?」
「大峠を起こし、時の歪みを縫って、そちらに戻るゆえ、道を開けてもらえ、と。その開け方は遠い過去に伝えてあるそうです。」
それを聞くと、少彦名命は大袈裟にため息を吐き「産霊の神である母上に、そんな事を言うのは彼奴くらいだよ」とぼやく。
「だが、ここでそんな大事をしでかせば、心の太柱は崩れてしまうだろう?」
「はい、それゆえ、少彦名命には入れ替わるついでに、竜穴を全て開くように伝えよとも仰せでした。」
それを聞くと、少彦名命は顔を引き攣らせ、「あいつ、解呪を丸投げするつもりかッ!」と毒吐く。すると、弓弦羽はそれまで淡々と話していたのから、くすりと「そうしていらっしゃると、神皇産霊神とよく似ておいでですね」と笑った。
「笑い事じゃないぞ。俺の人生、いいや、神としての生き筋はあいつには振り回されっぱなしなんだ。」
そして悠々自適に旅をしていたのに、少しばかりの親切心がきっかけで、大己貴命に捕まってしまったことや、手酷い仕打ちとして幽世に三千年ほど閉じ込められていた話をする。
「別に俺が来たくて来たわけじゃないのにさ! 現世の書物では俺が途中で仕事を放り出したみたいに書いてあるんだぞ? 俺はあいつの相棒であって、主従の関係ではないと言うのに、添え物みたいに書いてあるのも納得がいかない。」
すると、弓弦羽は一層目を細くして「それでも貴方も彼の方に心酔しておいででしょう?」と微笑む。
「私も主従の契りを結ばぬまま、主様に心酔し、この地におりますゆえ。」
その言葉には少彦名命は驚いた表情で弓弦羽を見た。
「主従の契りを結んでない、のか?」
「ええ。何度か結ぼうとは思ったのですが、結局、そのまま、こうして無為に時を過ごしてきてしまいました。」
天狐のように産霊されたわけでも、八岐大蛇のように神威が暴走したわけでもない。また、国常立尊に名を与えられ御神使いとなったわけでもない。
それでも、弓弦羽にとっての「国常立尊」は、自らの身を捧げても敬い護りたいと思った存在だったと話す。
「主様は、少彦名命だからこそ甘えている節を感じますよ? 契りなどなくとも受け入れてくださると。」
すると、少彦名命は「あいつの横暴っぷりに付いてこられる奴が少ないだけだよ」とふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。しかし、その耳が赤く染まっているから、弓弦羽はにこにこ顔を崩さなかった。
「俺と母上が場を入れ替わるには、母上の方もそれ相応の準備がいる話だ。だが、伝達手段がない。その辺りは何か言っていたか?」
「はい、そのために主様は龍の鱗をこちらに遺しておいでです。」
「龍の鱗?」
「はい、龍翁の鱗と聞いております。」
そう言って渡された薄いガラス板のような鱗を少彦名命は受け取ると、日に翳すようにして確かめる。
「確かに塩土老翁の鱗に違いないな。」
龍の鱗なら、なるほど時も場所も異世界かどうかも選ばない。
この鱗は龍にとっては分身のひとつであり、これに神威を使って連絡すれば、直接話しかけるホットラインが完成する。しかし、少彦名命は、はたとその神威が使えない事に気が付いた。
「妙案とも思ったが、ダメだな。今の俺は神威が使えない。」
すると、弓弦羽は首を傾げ「ならば魔法をお使いになれば宜しいのでは?」と答える。
「貴方もこの地でお生まれになった方。魔法をお使いになれますでしょう?」
「は? 今、なんて言った?」
「魔法をお使いになれますでしょう?」
「いや、その前ッ!」
自分が幽世の生まれだと言われて、少彦名命は目を丸くする。一方、弓弦羽は「よもやお忘れですか?」と訊ねた。
「俺が幽世の生まれ?」
「はい、左様でございます。」
しかし、そう考えれば、神威が使えなくなっている自分が、幽世で消えなかった事や、自我を保てている事が、そもそもこの地の生まれの為だと考えるとすんなりと腑に落ちる。
「貴方は神皇産霊神の神威を核に、産霊されたこの常世の神。」
やがて高皇産霊神に幽閉されて、自由に動けなくなる将来の世を先見した神皇産霊神によって生み出された神だと言う。
「貴方様は来る世で大己貴命を助けよと命じられたのですが、肝心の貴方も国常立尊の開いた時の歪みに引き摺られてしまいまして。」
「・・・・・・で、気がついたら葦原中国で槐の木に引っかかっていたというわけか。」
自分の生い立ちを知り、驚きつつも「久延毘古が自分を知っていたのは何故だろう?」と口にする。
すると、弓弦羽は「久延毘古は、元々、国常立尊の邸の裏の田畑を管理していた田人の男。貴方の生い立ちを知っていたのでしょう」と話す。
「貴方がその姿を維持していらっしゃるのは、この地の魔力を自然とお使いになられている証拠。貴方が魔法を使いこなしてくだされば、大峠は無事に越え、必ずや主様はこちらに戻られるでしょう。それまで、私にてお力添え致します。奇魂の少彦名命。」
そう言って差し出された弓弦羽の手に、少彦名命は顔を引き攣らせる。
八咫烏は導きの鳥――。
少彦名命はこれも命運なのだろうと受け入れつつ、弓弦羽の手を掴み、立ち上がった。




