真玉手
加代子は帳の隙間から覗く水中の景色を見ながら思った。
彼は間違いなく魔王だ――。
雅に組み敷かれてから早三日。大禊が終わるまではあと四日と少しだと言うのに、加代子の意識は途切れ途切れになってきていた。
というのも、この三日、雅は加代子が起きている間、片時も傍から離してくれなかった。
初めの日は欲望のままに、二日目はその疲れを労わるように、そして、今日は焦らすようにして求められていたが、今は神皇産霊神からの連絡が来たこともあり、ちょうど一時休憩中といった状態だった。
正直、腰も立たないし、もう、ろくに声も出ない。ただ、漏れ聞こえてくる神皇産霊神と雅のやり取りに、加代子は伏せったまま、耳を澄ませていた。
《こちらが必死に方舟を作り、持ち回りで保護の結界をしているというのに、そちらはあっさり邸ごと《魔法》とやらで賄っているというのか? どこにそんな力を残していた? いっその方舟ごと、囲ってくれれば良かったのに。》
神皇産霊神が文句をいえば、雅はくつくつと笑う気配がする。
「あいにく方舟までは難しいですよ。そこまでしたら、加代子さん、いえ、速佐須良比売の身が持ちません。」
《どういう意味だ?》
「私は目を覚まして直ぐに、力を暴走させてしまいましたでしょう? ですので、ご協力いただいて、英気を養っているんですよ。」
《それは気吹戸主神には聞かせられぬ話だな・・・・・・。》
「彼も私なんですけどね?」
《国常立尊が気吹戸主神だとして許せるのか?》
「いいえ、許さないでしょう。八つ裂きにします。」
《やはり聞かせられぬではないか。》
一体、何の話をしているのだ、と問いたかったが、身体はまだ重く、口を開くまえに眠気が襲ってくる。
ああ、眠い――。
雅の低い声は心地よく、その内容はともあれ、深い安寧と微睡みを連れてくる。その後もしばらく、雅は神皇産霊神と話し込んでいる様子だったが、加代子の意識は飛び飛びだった。
記憶に残ったのは「八岐大蛇は龍の荒御魂」と言う雅の声と「こちらの兵は八千と言ったところでしょうか」という声。
それらが何を意味するかなど、加代子の霞掛かった頭では判別できなくて、話し終わった雅に「お目覚めですか?」と聞かれても、瞬きだけで返事したくらいだった。
「随分と無理をさせていますが、お加減はいかがでしょうか?」
「まだ、眠いし、無理させてると寝かせておいて。」
頭の芯がぼんやりとしたまま、掠れた声で、不機嫌なままに答えれば、雅は「おやおや」と微笑む。
それから、うっそりとした様子の加代子を雅は助け起こすと「そうは言っても喉もかわいたでしょう? 何か飲まれますか?」と甘やかすように訊ねてきた。
まるで飴と鞭。
完熟した果物のようにぐずぐずに甘やかされると、自分の存在意義さえ崩れかかってしまって全部を雅に預けたくなる。
そして、そのまま、彼好みに都合よく組み替えられていく、そんな感覚。
加代子がこくりと頷けば、雅はいつの間にか用意されてる水差しから器に水を移す。そして、にこりとすると自ら水を口に含み、手を差し伸べてきた加代子を引き寄せた。
「んんッ?! ん・・・・・・ッ。」
喉を通る水は冷たくて、コクリと喉を通っていく。
普通に飲ませればいいのに。
そう思う一方で、別に嫌じゃないと感じている自分に当惑する。
「物足りなそうですね。 もう一口、飲みます?」
雅の声がすぐ傍で話すから、加代子は頭の中を探られるような、それでいて意識を蝕ばまれるような心地になる。
それでも、ぐっと堪えて何とか理性を引っ張り戻すと、加代子は僅かに雅と距離をとった。
「自分で飲む・・・・・・。」
「そんな事を仰って、まだお疲れなのでしょう? 起き上がれますか?」
「誰のせいだと・・・・・・?」
「さあ? 煽り上手な加代子さんのせいじゃないですか?」
鬼。
悪魔。
人でなし。
頭の中に過ぎる言葉を口にしても、雅は「言い得て妙ですね」と笑うだけだろう。
雅は言い淀む加代子の様子に、何も言わなくても満足そうに目を細めて笑った。
「神皇産霊神と何の話をしていたの? 兵が八千とか聞こえてたけど。」
「ああ、そんな辺りから起きていらっしゃったのですね。」
「ううん、寝てた。ただ途切れ途切れに聞こえてきていただけだよ。」
とはいえ、物騒な話をしている雰囲気は伝わってきたから、ちゃんと内容把握をしておきたい。痛む身体をおして上体を起こせば、雅は加代子に水の入った器に手渡した。
「あまり耳触りの良いお話ではないですよ?」
「そう言ってはぐらかさないで?」
「はいはい、半分こですよね・・・・・・。」
加代子がコクリと頷き返せば、雅は肩を竦めて「高天原が攻めてきそうなんです」と答えた。
「高天原が?」
「ええ、しかも、兵力的には分も悪いと来ています。」
雅にとっては二回目の《大禊の刻》だったが、「何千年も前過ぎてどうやって退けたのかよく覚えてないんですよね」と苦笑いを浮かべる。
「黄泉の国の時のように急襲してくるの?」
「似ていますが、前回は陸軍同士でしたが、今回は空軍対海軍といったところでしょうか?」
「空軍対海軍?」
「ええ、高皇産霊神の所は、天之御中主神の禁軍、天津鳥一同も従っているようですしね。」
それを聞くと、加代子は頬を引き攣らせる。
「禁軍って、王様直属の軍じゃなかったっけ?」
「ええ、そして、高皇産霊神はあろう事か、主上に反旗を翻しクーデターを起こしたんですよ。」
「クーデター?」
「まあ、それはともかく。」
雅に引き寄せられ「そんな無粋な話、今、なさるんですか?」と拗ねた口調で耳元で囁かれる。加代子は雅の不意打ちに「ひゃッ」と声を上げると耳を塞いだ。
ああ、もう。
そんな声で囁かないで欲しい。
擦り寄る感覚が、擦り寄って甘えてくる猫に似て見えるだなんてどうかしている。
異形の姿と化したと言ったって、眉目秀麗さは変わらないわけで。
美人に迫られてる自分の身にもなって欲しい。
その癖、見つめてくる眼差しは射るようで、一瞬たりとも息が抜けない。
しなやかな、黒い猛獣――。
丁度、手負いの黒豹にでも狙われている感覚に、追い詰められていく。
「それとも、まだ私を傷付けるのが嫌だからなんて言って、私から離れるおつもりですか?」
少し低くベルベットのように滑らかながら、切実に訴えてくる声は威嚇するようで、それでいて酷く悲しげだ。
《こんなにも近くにいるのに貴女は手に入らない。》
そう告げてきた気吹戸主神と、目の前に居る彼が重なって見える。加代子は小さく狼狽の声を上げた。
「身を滅ぼすのが分かっていても、恋わたることを許してくださることを《許す》と仰って下さったではないですか?」
相手を不幸にしてしまうと知りながら、それでも欲してしまう、浅ましいまでの恋情。
それはどんな罪よりも重く、また、どんな罪よりも甘く自分を誘惑する。
「一度、許したというのに、やっと手にしたと思った途端、逃げようとなさるなんて酷いと思いませんか?」
雅の見据えられた眼の内に、橙色の灯明に揺れ、そこに仄暗い執念にも似た心の揺らぎを見るようで、加代子は息を飲む。
(ちゃんと、話さなきゃ・・・・・・。)
そう思って「あのね、雅」と口にしたものの、上手く言葉に出来ない。
「何でしょう? 何か、弁明なさりたいことでも?」
「ううん、そうじゃないの。そうじゃなくて。」
加代子が「まだ答えを貰ってなかったから」と言えば、雅は意表を突かれたように「答え?」と尋ね返す。
「うん。雅は助けてって言ったでしょう? でも、助けどころか、こうして足を引っ張ってるし。」
少しも役に立っている心地はなく、逆に迷惑をかけ通しだ。
「私は逃げる気はないよ。でも、雅が思うところがあるなら、私はそれも受け入れなきゃって思ったの。」
それが愛情に端を発していると言っても、不可抗力とはいえ相手を傷付けたなら、甘んじて罰を受けるべきだ。
「雅になら、喰らい尽くされてもいいって言ったのは嘘じゃない。」
今の「島崎 加代子」という存在は、彼によって助け出され、彼の為にあると言っても過言ではない。
「それで僕に恨んでいるのか訊ねたのですか?」
「うん。私に出会わなければ、雅はこんな風に幽世に来ることは無かったでしょう?」
あの時、人恋しさに電話なんて掛けなければ。そしたら、雅は交通事故に巻き込まれた自分を輪廻の輪に送り、それで全てが終わったはずだ。
「気に病まれていたのは、その事ですか?」
加代子がコクリと頷くと、雅は威嚇するような眼光の鋭さは緩み、その分、切なげな雰囲気が増した。
「貴女は僕の願い、僕の祈りそのものですよ。」
この苦界にあって、まだ幸せを望むきっかけになるたった一つの希望。
「今の私は貴女を手放すまいと躍起でも、貴女を恨もうなどという心は持ち合わせていません。」
「そんな大層な事を聞きたいんじゃなくて・・・・・・。」
「ですが、本当の事ですよ?」
水底の、深淵に住まう姫神。
その姫神は、どんな濁流も、どんな渦潮も、やがて澄んだものに変え、ただ静謐な、それでいて心落ち着く世界を連れて来る。
「どうやら加代子さんはもう少し思い知った方が良いようですね。」
「思い知る・・・・・・?」
「ええ、どれほど僕が貴女を求めているのかを。」
荒波に巻き込まれ苦しんできた雅にとって、安寧と静謐は至上の神にほかならない。
そして、それをもたらす加代子は何よりも掛け替えのないものだった。
「もう離さない、とお伝えしましたでしょう?」
「な・・・・・・ッ。」
逃げたがりの加代子を捕らえ、両腕で抱き締めていても、確かにこうして不安な時もある。
けれど、自分の求めに応じて、一心不乱に応えようとする加代子を見ていると愛おしさも募ってくる。
なんて浅はかで、なんて愚かなのだろう。
こんな些細なこと、一つだけで、他の苦しく辛い出来事全てを許してしまえる自分は。
「分かった・・・・・・ッ、分かったから・・・・・・ッ!」
「いいえ、もう少しお付き合いください。」
そう言い含められて唇を奪われると、それが自然な事と言わんばかりに四肢を捕らえられて縫い止められる。
「雅・・・・・・ッ。もう、や・・・・・・め・・・・・・ッ。」
食べられる――。
やがて上り詰めて、互いに息を合わせて、峠を越える。
雅はぐったりと倒れ込んでくる加代子の頬に口付けし「少しは思い知りましたか?」と訊ねる。加代子はまだ苦しそうな表情のままこくりと頷く。
「だから、もう、休ませて・・・・・・?」
「ギブアップですか?」
くすくす笑う雅の声が耳に心地よく、また、肌を滑る手の動きが擽ったくて、呼気が乱れて「あッ」と甘い声が漏れる。
しかし、雅は不意に加代子の口を塞ぐようにすると「まったく無粋な」と悪態を吐いた。
「何用です?」
「申し訳ございません。高天原に動きがあり、至急、ご判断を仰ぎたく参上致しました。」
「状況は?」
「鳥どもの影、その数二万。大蛇らが応戦中、天狐殿が結界で護りを固めております。」
声色から判断するに二、三十代の男性だろう。自分のあられもない声を聞かれていたのかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。
思わず加代子は雅を睨み上げたが、次の瞬間、その形相と殺気に恐怖して息を飲んだ。
「始まったか――。」
雅は煩わしそうに「支度せよ、出陣する」と告げる。
男の「御意」という声に、ようやく雅の手は口から外れ、脱ぎ捨てた単衣を肩に引っ掛けると、怯えたような、それでいて気遣わしげな表情の加代子の額に口付けた。
「心配はいりません。この後、何が起こるかご説明致しましたでしょう?」
「あと四日、祓いの水で浄め、最後にその澱を雅と私が祓う。」
「ええ、そうです。よく出来ました。」
髪を撫でてくる雅は、変わらず厳しい表情のままだったが、先程の心臓を凍てつかせそうな殺気は薄れ、その気配は加代子を優しく宥めるものに変わっていた。
「少し狩りをして参ります。おそらく丸一日、留守に致しますが、この庵より出てはいけませんよ。貴女が連れ去られたら、助け出すのに、また一苦労ですからね。」
そして「これは貴女が持っていたが良いでしょう」と言うと、乱れ箱を引き寄せて、龍吟の琴の琴軋を手のひらに起き、オーガンジーのように薄い大蛇の肩巾をふわりと肩に纏わせる。雅は自分でそうしておいて、加代子の色めいた様子に困った顔をした。
「ああ、《真玉手 玉手さしまき》と仰ってくださった時のようですね。」
薄い衣から透けて見える加代子の姿は、肩巾を纏っていない時より艶めかしい。雅は「本当に、離れ難い」と耳打ちして苦笑した。
「でも、引き止めても行くんでしょう?」
加代子は戦場に赴く雅に「行かないで」と言いたかったが、そんな我が儘も言えなくて「行ってらっしゃい」と口にする。
雅は「行って参ります」と抱き締め、外から御帳台の中が見えないように気をつけて、帳を上げると外へ出ていった。




