魔縁の王
少彦名命は天狐達の話を聞いて唖然とした。
こんな所で「神隠し」とはどういう事なのだろう?
「須勢理の姿が忽然と消えたって、んな、馬鹿な。」
「そう仰るお気持ちもよく分かるのですが、あいにく事実でございまして・・・・・・。」
目を泣きら晴らした紫蘭と紫苑に両脇を抱えられて、邸の中に引きずり込まれると、途方に暮れた天狐がいた。それで事情を聞いた結果、冒頭のやり取りに至った訳だが、今度は少彦名命が途方にくれてしまった。
「少彦名命、如何なさいましたか?」
連れ去られるようにして邸に入っていった少彦名命を追って地狐が姿を現す。他の二人は庭に待機させているようで一人だけで追ってきたようだ。
「須勢理が消えた。」
ただ消え方は《魂の消滅》の時とは違い、魔法陣が展開し、何者かに召喚されたかのようだったという。
「御方様が?」
「ああ、しかも、天狐でさえ行方を掴めてない。」
その言葉に地狐は少し驚いた表情になり、「それは弱りましたね」と相槌を打つ。
「主様が知ったら、どんなに悲しむ事か。」
「・・・・・・悲しむ? いや、それどころの騒ぎじゃないぞ?」
その言葉に天狐も頷き「リスク管理は常に最悪の事を考えるべきですよ」と青い顔をして地狐に返事をする。まして、怒髪、天を衝いた大己貴命に何度か対峙したことのある少彦名命は這い上がってくる悪寒に身震いをした。
大己貴命が須勢理毘売命を失ったなら、この世は間違いなく滅ぼされる。
計画的な話だと思って「せめて罔象女神を逃がすだけの時間をくれ」と言ったけれど、こう突然、須勢理が居なくなってしまったと知ったなら、そんな時間を与えてくれるかどうかは分からない。
「あー。ひとまず、だ。この事は他言無用だ。特に大己貴命には絶対に言うなよ?」
「しかし、そんな悠長な事も言っていられないのでは? 高皇産霊神の元に御方様が召喚されていらっしゃいましたら・・・・・・。」
紫蘭がそう言い刺したが、それには天狐が「そうなったら、目も当てられない状況になりますよ」と告げる。少彦名命も大きく頷いた。
「まず間違いなく全滅フラグは立つ。だから、大己貴命にはこの状態で話す内容じゃない。とはいえ、今の須勢理は《加代子》という人魑魅に過ぎないのも事実だ。探すとしたら四半刻以内。それでも分からなければ、全滅フラグの覚悟をもって報告しないとまずいことなるだろうよ。」
しかし、横で話を聞いていた地狐は、少彦名命の話にピクリとすると「加代子?」と呟く。
「どうかしたか?」
「あ、あの、今の御方様の御名は《加代子》と仰るのですか?」
「ああ、そうだが、それが何か?」
「ならば、姫様は《過去》に飛ばされたのではないでしょうか?」
「過去?」
「ええ、そうです。祓戸大神が一人、速佐須良比売は《将来の世から来た》と仰せで、その名を《加代子》と言うと仰っていましたから・・・・・・。」
天狐は訳知り顔に話す地狐に「それはどういう意味か、こちらにも分かるように説明してくださいませんか?」とお願いする。それには地狐が首を傾げた。
「あれ? 天狐は覚えていないのか? 速佐須良比売と誰より長い時間過ごしていたと言うのに。」
「あいにく、その御名が祓戸大神が一人だとは分かりますが、その当時の記憶は朧気なんです。」
「そうか、そいつは難儀だな。」
なかなか本題に進まない地狐の様子に横で聞いていた少彦名命が「悪いが、あまり時間を掛けたくない。もう少し簡潔に説明してくれないか」と急かすから、地狐は一つ大きく頷いた。
そして、告げられたことは大きく三つ。
ひとつは国常立尊が産霊直しの際に魔縁の者と化したこと。
ひとつはそれを封じ込めんと、神皇産霊神が祓戸大神を産霊した事。
そして、その際に産霊された気吹戸主神と速佐須良比売は共に別々の将来の世から来たと話した事だった。
「速佐須良比売と方舟に積み込む五穀を集める際に、色々とお話をする機会がございまして、その時に本当の名が《加代子》である事や、他にも実に多くの事を教えてくださいました。」
速佐須良比売として産霊される前は「加代子」と言う名であったこと。
始めは過去の世の記憶を遡っているのかと思っていたが、どうやら違うようであること。
他の神のように水や風を操れるわけではなく、持っている知識くらいしか役に立てそうにないと話していたこと。
「持っている知識?」
「はい、高波を受けても沈みにくい方舟の比率、保存のきく穀物の見分け方やその煮炊きの仕方、それから、治療の為の呪など、その当時は知られていない事を、それはもう多数ご存知でした。」
一見して、奇想天外な話。しかし、共に産霊された気吹戸主神も驚きをもって加代子の話を聞いていたが、こちらはこちらで加代子の話を次々と実現可能な物へと具体化させて、八尋な方舟を短期間で作らせてしまったのだという。
「それらを総合すると、今の世の加代子と国譲り後の大己貴命が過去の世界に飛ばされて、速佐須良比売や気吹戸主神として産霊されて、この世を救った、と?」
「はい、左様にございます。」
少彦名命は天狐に「どう思う」と訊ねれば、「考えられなくはない話かと」と答える。
「私が主様と姫様を見つけた時、お二人は時じくの香くの木のたもとにいらっしゃいました。もし、お二人が時じくの香くの木の実を口にしていらっしゃれば、それを媒介にして二つの世が繋がった可能性はございます。」
時じくの香くの木の実は、常世の木の実。
季節に関わらず常緑の葉を茂らせ、永久の生命を与えるとさえ言われる木の実だ。
「そうなると、だ。当時の国常立尊にも、時を越えた何かが影響している可能性はないか?」
「と、おっしゃいますと?」
「ああ、何でもいいんだ。当時、国常立尊が国常立尊らしからぬ行動をとった、とか・・・・・・。」
「そうですねえ、主様は当時から色々型破りな方でしたからねえ。」
そもそも一介の神にしては、国常立尊は多くの力を操れた。当時から神威だけでなく、魔法も扱えた。
「ん・・・・・・?」
「何か思い出したか?」
「はい、あの時、主様は確かに治癒の呪をお使いになられたな、と・・・・・・。」
「あの時?」
「はい、どうしてそうなったのかは、残念ながらよく覚えていないのですが、私が放った雷が八咫烏に直撃しまして・・・・・・。その時、主様は治癒の呪を自然とかけてらっしゃったなと思ったのです。」
あの時、国常立尊は神威や魔法ではなく、治癒の呪を重ねがけした。
そして、その判断はあの場合は適切な処置だったと分かるのだが、なぜあの時の国常立尊が使えたのかが分からない。
「魔法陣とは違う紋でしたので、不思議とよく覚えているんです。」
今となれば霊符の一種だと分かるのだが、それはあの当時にはない、新しい考えだったはずだ。
「神威の残りがほとんどなく、下手な魔法を掛けて傷を悪化させるリスクを考えれば、治癒の呪の重ねがけ一択になるのは分かるのですが、あの呪を私が思い付いたのは、ずっと後世になってからですので・・・・・・。」
一方、少彦名命はその話を聞き終えると、疑惑が確信に変わり、重く溜息を吐いた。
「俺の勘が当たっていれば、その当時の国常立尊は、今の大己貴命、つまり《時任 雅》が産霊されているのではないか?」
その言葉に天狐と地狐は顔を見合わせる。
「いや、それですと総指揮の居ないまま、大峠を迎える事になりませんか?」
「ああ、最悪、そうなるな。」
腹を括った少彦名命に対して、天狐と地狐はますます顔色が悪くなる。
「総指揮の居ないまま、大峠を迎えたら、この世の終わり所の騒ぎじゃなくなりそうですね。」
「ああ、推して測るべしだ。」
先に覚悟を決めたのだろう、天狐はすくりと立ち上がると「紫蘭、紫苑はこのまま邸の守りをお二人が戻られるまで強化せよ」と言い、地狐も諦めがついたのか、少彦名命に「少しばかり御前を離れるご許可を頂けませんか?」と訊ねる。
そして「野狐に伝達でいい?」と地狐が訊ね「その方がよろしいでしょう」と天狐が答えると言った具合で、少彦名命の前を二人は慌ただしくやり取りする。
「私は九曜に指示を出してから向かいます。」
「了解! 伴に付けてきてた二人はこっちの守りに使って。」
パタパタと走り出すようにして地狐は黒狐の姿に変わって、空へと駆けていく。
少彦名命は二人の姿を眺めながら、「本当、大己貴命の下で働くと毎日がびっくり箱だよな」と深い溜息を吐いた。
◇
その頃、時を大きく遡り、当人である雅も目を丸くしていた。加代子によれば「ここは数千年前であり、自分は国常立尊である」らしい。
「俄には信じ難い話ですけど、加代子さんを玉置きしましたからねえ・・・・・・。」
「ちょっと、雅もそろそろ、自分も規格外だって認めてよ。」
唇を尖らせて、不服そうにした加代子の様子に、禍津日神と対峙し緊迫していた心は不思議と凪いでいく。
「そうですね、こう何度もこの《大禊の刻》を迎えているのは、僕だけでしょうしね。」
「《大禊の刻》?」
八狐に神威を喰らって最期の命令を下してから、幽世と他の世界が隔てられる瞬間までの間、ある時は国常立尊として、またある時は気吹戸主神として、雅はこのときを迎えた。
雅はくつくつと可笑しそうに思い出し笑いをして、「ええ、勝手にそう呼ばせて貰ってますけど。でも、なるほど、あの時、国常立尊に《加代子さんを気吹戸主神にお渡しするわけにはいかないのです》と言われたわけはこういう事でしたか」と独り言ちる。
そして、加代子を抱え込んだまま、全く手離す気配のない雅の様子に、童子姿の天狐は半ば諦めたように「ここでお話もなんでしょうから、別のお部屋を用意させます」と告げる。雅はそれを聞くと「ええ、お願いしますね」と話した。
「さて、人払いは完了です。それで? 加代子さんは何を助けて貰いたいんですか?」
異形の者と化した雅と二人、真っ直ぐに見つめられると、加代子は「あのね」と声にして口篭る。
そう口にしてから、加代子は葛藤した。
二本の角に、赤く一目で鬼と分かる姿。
加代子はそっとその角に触れると「これ、痛くない?」と訊ねる。一方、雅は優しく触れる加代子の手の柔らかさと温もりに、ビクリとしすっと目を細めた。
「ええ、痛くないですよ。」
しかし、憂い顔の加代子は「ごめんね」と呟く。そして、意を決したように目を伏せると、「神皇産霊神達を助けて欲しいの」と答えた。
今のままだと方舟を作っても、神皇産霊神の結界が解けたら、八岐大蛇の瘴気や高天原の天之麻迦古弓でみんな消されてしまう。
しかし、それを聞くと雅の抱き締めてくる腕の力が強まり、眉間に深く皺が寄った。
「お助けしたところで、神皇産霊神にとっても苦しい世界が待っています。長きに渡り、幽閉されますし、運命の輪を調整する竜頭の役目として、何千年立った私たちのいた世界でも、未だ完全なる自由を得られていません。」
「それはそうだけど・・・・・・。」
「ならば、今、彼の方だけ逃がして差し上げて他を切り捨てる選択肢もある。それに貴女も同じだ。この場を切り抜けたとて、須勢理毘売命の貴女も、琴子の貴女も、加代子さん自身も苦しむ世界が待ってるだけですよ?」
見つめてくる目は昏い焔のようなのに、頬に触れられた手は氷のように冷たく、その声は苦悩に満ちている。
「ならば、ここは何もせず、この滅びを受け入れて、別の世界で二人生きるという選択肢もある。」
素戔嗚尊との賭射の時に願ったのと同じように、いっそこのまま「全てを捨てて、自分と一緒に地の果てまで逃げて欲しい」と願ってしまう。
しかし、加代子は首を横に振ると、雅の手を温めるように手を重ねた。
彼はその身を持って、この後、何が起こるのかを知っている。彼は国常立尊としてだけでなく、大己貴命としても、源 雅信としても、そして、時任 雅としても傷付いてきた。
だから、そんな彼にこんなことを言うのは卑怯だと分かっている。
それでも、加代子は今、このタイミングで、残酷な取捨選択をしてしまいそうな雅の様子に、何とか踏みとどまって欲しくて彼の手に頬擦りをする。
「これから将来、私は大己貴命の貴方にも、源 雅信の貴方にも、時任 雅の貴方にも会える、そんな世界が来るの。」
加代子の言葉に雅はゆっくりと目を伏せる。
「今の僕だけでは、足りませんか?」
ツキンと胸に刺さるような痛みが走る。
ダメじゃない――。
雅がそれを望み、一切後悔しないのなら、それだけでいい。
だけど――。
「悲しい事は沢山あったけど、ここで消してしまったら、嬉しかった事も、楽しかった事も、全ては幻になっちゃうよ?」
神皇産霊神だけでなく、少彦名命や八嶋士奴美神らを筆頭に、「これから訪れる将来の世に、自分たちを助けようとしてくれる人達も確かにいたし、大切な人達のいる世界を雅は切り捨てられるの?」と言えば、雅は再びゆっくりと目を開けた。
「私、欲張りなの。どの貴方も幻にしたくない。例えこの先に困難が待ち構えていても、みんなに囲まれて幸せそうにしてる雅も知ってるから、諦めて欲しくないの。」
こう言えば、雅はきっと引き受けてくれる。
だけど、自分でも思う。
なんて、卑怯な言い方だろうって――。
「幸せになる事を諦めないで?」
震え始めた声と指先を誤魔化すように加代子は重ねていた手を離そうとする。しかし、その手は完全に離れてしまう前に、雅によって指を絡め取られ、逃すまいと握り返された。
雅は今にも泣き出してしまいそうな加代子の額にそっと唇を寄せる。
「東京タワーでも貴女の願いは《大切な人達のいる世界を守る事》でしたね。」
鬼の姿でも、雅の笑みはとても優しくて、幼い子をあやす様にして「少しばかり意地悪な事を言いましたね」と加代子を宥める。
そして、柱の影に式神の符が貼られているのを見つけると「天狐、式で聞いているのでしょう?」と声を掛けた。
「あとは屋敷神に任せて、お前は、急ぎ、神皇産霊神の元へお戻り。そして、速佐須良比売の願いは聞き届けられた、と伝えなさい。」
すると符はひらりと剥がれ、「確かに承りました」と声と共に青い狐火と化して消える。
雅は加代子を抱えて、御簾の内に入った。
「で? 説得に応じて、加代子さんの願いを引き受ける気になったというのに、なんでそんな顔をなさるんです?」
「ああ、言われたら、雅は断れないでしょう・・・・・・?」
「断って欲しかったんですか?」
「そうじゃないけど・・・・・・。」
加代子は唇をきつく噛み締めると、まるで願いを聞き入れた事が気に食わないように、雅の胸元を小さくひとつ叩いた。
「私の願いが叶ったからって、雅が幾度となく傷付くと思うと、自分で自分が嫌になるのよ・・・・・・。」
この将来に待っているのは、雅の言う通り、碌でもない世界だ。
大己貴命は幸せの絶頂で全てを奪われるし、源 雅信としては一千年近く高天原に留められ、挙句、加代子を助けたために死神としての立場も追われてしまった。
ましてや今は額には二本の角、その目は赤酸漿のように赤く、片方は金、片方は銀の眼を持つ鬼神の姿となるまで、彼を苦しめているというのに。
「貴方を苦しめてしまうのは、いつも私なのに。雅は私を恨まないの?」
「恨む?」
「うん、私は非力で、何かの役に立ってるとは思えないし・・・・・・。その癖、《みんな、幸せに》だなんて、自分でも理想論だって思うもの。」
言葉を詰まらせ、苦しそうな表情で――。
「私の一番の願いはいつも叶わない。貴方に幸せでいてほしいだけなのに。」
すると、話を聞いていた雅は目を細め、ゴクリと喉を鳴らすと、噛み付くような、それでいて深い口付けで加代子の口を塞ぎ、抗議しようとしてきた手を床に縫い止める。
息をする余裕なんてない。
このまま食べられてしまいそうな口付け。
上手く息が出来なくて、その癖、雅から与えられる心地良さに飲まれそうになる。
「加代子さんは、本当に僕を煽るのが上手いですよね?」
くったりとした加代子の様子を見下ろしながら、首筋、鎖骨と、優しく指先で撫でる。吐息混じりの喘ぎを加代子が漏らせば、雅は愉しそうに笑った。
「加代子さんの言うことはいつだって理想論ですよ。ですが、貴女はどんなに絶望的な状況でも諦めないでしょう。そして、今の私は魔縁の王。貴女がその身をもって六根一筋に私を言祝ぐなら、貴女の十種の御宝と化して、一番の願いを叶えますよ。」
「魔縁の王・・・・・・?」
「ええ、八狐九曜、七星二十八宿。この星の万物は私の味方。魔法の源は生への執着心と信ずる心。それから・・・・・・。」
雅は「快楽の声もまた、力の源です」と加代子の耳元で囁く。
「加代子さんの我が儘を聞いてあげますから、今度は僕の我が儘を聞いてくださいませんか?」
悪いようにしませんから、と、いたずらめいた表情をする雅の様子に、加代子は嬉しいような困ったような心地になって眉根を寄せた。




