虎嘯(うそぶ)きて風生ず
自分以外の誰かを恋うる気持ちは、磁力に似ている。惹かれ合う極なら離れていても傍にいたくなるところも、反発する極ならどんなに近付いても触れられないところも。
雅は周りにそれと知られぬようにして、加代子かもしれない女の元へと急いだ。
案内されたのは慎ましやかな庵で、出迎えてくれた屋敷神の童子にへろへろとしている弓弦羽を任せた後、急ぎ足で八岐大蛇が助けたという女の元へと向かった。
初めこそ、雅の姿を見てギョッとした様子の屋敷神だったが、話してみると以前の国常立尊の通りで、普通に会話が出来ることがわかると、若干のぎごちなさは残ったが、人の姿をした八咫烏を手助けし、その場で二手に分かれた。
しばらくすると、別の童子に出迎えられ「ご案内するように申し付けられました」と話した。雅は童子の先導に従って邸内を進む。案内された先の局には御簾の向こうで人影がゆらゆらと揺らいでいた。
「ここで良いですよ。案内をありがとう。」
雅の声に気がついたのだろう。人影は衣擦れの音をさせて立ち上がり、急いでこちらに向かって来たと思うと、勢いよくパッと御簾が跳ね上がる。
しかし、嬉しそうに現れたそれは、雅と目が合うと恐怖の色を露わにし、ひゅうと息を飲んで立ち尽くした。
「その・・・・・・姿は・・・・・・?」
顔色はみるみる悪くなり、「なんて事」と口にすると、ふらふらと倒れ込むようにして雅の胸元に触れる。
「兄様は消え、貴方は異形の者と化してしまったの・・・・・・?」
上目遣いに見上げてきたのは、瑠璃の宮の姫だった。
生地の薄い青い布を何枚も重ねた、唐風の服装は、髪を結い上げている彼女の首元を一層際立たせて、憂い顔をされると余計に儚げに見える。
甘えるように自分に凭れて来る彼女は、榛摺色の髪も、琥珀色に見える瞳も、雅のよく知る「加代子」と変わらない。
いや、「加代子が彼女に似ている」のが正しいのだろうか?
しかし、彼女の肩に伸び掛けた手は彼女が発した一言によって止まった。
「可哀想に。」
たった、一言。
しかし、そのたった一言の言葉によって押し寄せていた感情が、一気に引いていくのを感じる。
「・・・・・・可哀想?」
そっと頬に触れてきた彼女の手を取ると、雅はゆっくりと噛み締めるように繰り返した。
「ええ、貴方をこんな姿にした八狐九曜を許せないわ。主である貴方の神威を喰らうだなんて。」
「彼等は忠実に私の指示に従ったまでですよ。」
雅が無機質に答えると、彼女は抱き付くようにして首を横に振る。
「いいえ、たとえ貴方がそう言ったとしても、諌めるのもまた従者の役目。」
そして、彼女は胸元から翡翠色の琴軋を取り出すと「今こそ、これで貴方の力を内外に示すべき」と話す。
(これは、誰だ――?)
瑠璃の宮の姫のような姿をしているが、目の前にいるのは「別物」だと強く感じる。
「兄様に頂いたこの琴は、貴方が奏れば、虎嘯きて風を生ず。一掻きすれば蛇は従い、二掻きすれば魔を率いましょう?」
「魔を率いて何とします?」
「この地を一掃なさるのです。」
「一掃する・・・・・・?」
「ええ、あらゆるものを打ち壊し、全てを飲み込むの。」
そう話す彼女の声には僅かに喜色が篭もり、ゆらりと彼女の影が蠢く。
彼女は「瑠璃の宮の姫」でも「加代子」でもない。
雅の中の疑惑は確信に変わった。
「三掻きすれば八雲を祓い、四掻きすれば大峠を引き起こす。この琴は天意を知らしめる《天詔琴》となりましょう。」
「天意を知らしめる、ですか・・・・・・。」
雅は独り言ちるように呟き、考え事をするかのようにみせかけて、それから、思わせぶりににこりとし「それは良いですね」と答える。
「そちらをもう少しよく見せていただいても?」
雅が訊ねれば、女は「ええ、構わないわ」と首から翡翠色の琴軋を外し、あっさりと手渡してきた。
「ですが、この琴軋を私に渡してしまってよろしいのですか?」
「ええ、兄様が居なくなった今、私にこれは扱えません。貴方ならばあるいはと思ってお渡し致します。」
「では、お言葉に甘えて。ですが、これは龍の君が生み出された宝具。今の私に扱いこなせるかどうか・・・・・・。」
そう言いながらも、雅は翡翠色の琴軋を懐にしまうと、今度は女の身に付けている肩巾に目を向けた。
「もしお借り出来るなら、貴女のお召しになっている、その肩巾もお貸しいただけないでしょうか。」
すると、女は警戒の色を滲ませ、「これは兄様に肌身離さず身に付けておけと言われたもの」と返事する。
彼女はおそらくこの肩巾のもつ効力を知っているのだろう。もしくは、その大蛇の肩巾を使って八岐大蛇を大人しくさせたのかもしれない。
「その肩巾をお借りするのは、貴女の守りを固くするため。少しお貸し下されば、種々の蟲や妖も防げるように致しましょう。」
耳元で「そちらも龍の君が下賜した宝具だと、教えてくださったのをお忘れですか?」と囁く。すると、女は声をうわずらせ「ええ、そうだったわね」と肩巾を外し、名残惜しそうに雅に手渡した。
手にした肩巾は軽く、「天女の羽衣」とはこういうものではないかというくらいに美しい。
なぜ目の前の女が、琴軋といい、大蛇の肩巾といい、瑠璃の宮の姫の持ち物を持っているのかは気にかかるところではあるが、雅は受け取った肩巾を丁寧に畳むと「では、お預かりしますね」と、ごく自然に女から大蛇の肩巾も取り上げることに成功した。
あとはこのまま女から離れ、仕留めれば良い。
「主様、失礼致します。」
不意に掛けられた声に振り返れば、先程の童子が伏せている。
「如何した?」
「屋敷神より、八咫烏の御仁が姿を消したと一報がございました。」
それを聞くと女は忌々しげに「あの異形の者がこの邸にいるのですか?」と話した。
「おや、八咫烏をご存じですか?」
「ええ、あれは不吉な鳥。」
その姿は夜の闇よりも黒く、その声は遥か遠くまで届き、不幸を連れてくる。
「不吉な鳥、ですか。」
「ええ、あの鳥めは射殺すのがよろしいでしょう。」
女の返事を聞くと、雅はその手に生弓矢を生み出す。女は突如として現れた弓矢に驚きの声を上げた。
「一体、どこから弓矢を・・・・・・?」
「これですか? これは生弓矢。私の魂を糧にして生み出している武具です。」
それから雅は握りを確かめるようにすると、「弓弦羽、隠れていないで出ていらっしゃい」と告げた。
その言葉に反応するようにして、庭にどさりと屋根から弓弦羽が落ちてくる。
「盗み聞きとは感心致しませんね。」
そして、矢を番え、ギリッと弓を引くと、警告するかのように八咫烏の足元を射る。その様子に女はニタリと笑う。
《主様、お止め下さいッ! その女はッ!!》
「弁明は要りません。」
女からの拘束が緩んだ瞬間、雅は勾欄を飛び降りるようにして越え、名を縛った弓弦羽の近くへ行く。そして、もう一本、矢を番えながら「まだ八岐大蛇に受けた傷が癒えていないのに動き回ってはダメでしょう」と告げた。
そして、目を眇めて狙った先は瑠璃の宮の姫の姿。
「な・・・・・・ッ! 何故・・・・・・ッ?!」
「そろそろ正体を現しなさい。」
「正体・・・・・・?」
「惚けても無駄です。彼の方が八咫烏を射殺せなど、言うはずがないですから。」
すると、女は「気が付かねば、幸せなままに消してやったものを」と結っていた髪を解く。その姿はゆらゆらと蜃気楼のように揺れて黒い影を纏った。
「禍津日神・・・・・・。」
《ああ、そうだ。やはり一緒にこの世を治めないか? お前の抱く悲しみ、苦しみ、そして、その底なしの絶望はとても心地よい。》
あの時は完璧に高皇産霊神の姿を保っていた禍津日神は、今は本体から離れると、うまく形取ることは出来ないようで、声も変声機を介したような物に変わっている。
「そのお申し出はキッパリお断りしているはずですよ?」
《そう邪険にするなよ。お前もその姿、清濁併せ呑む事を覚えたのであろう?》
辺りに禍々しい気配が立ち込めていく。しかし、矢を放とうとした瞬間、「お待ちください」と告げる声がして、不意に青白い稲妻で目眩しが炸裂する。
《主様、彼奴は上ですッ!》
その言葉に上を見上げると、大鷲と共にある禍津日神の姿がある。雅は矢継ぎ早に矢を放ったが、大鷲は錐揉みに避けたり、羽風を起こしたりして、さらに上空に逃げる。
と、大きな影が雅の視界を遮り、それが隣にいた八咫烏の姿だと気付いた次の瞬間、青い稲妻が天狐の咆哮と共に二羽に直撃した。
「弓弦羽ッ!」
大鷲に飛び掛かる八咫烏もどうかと思うが、それらに纏めて雷を落とす天狐もどうかと思う。
雅は慌てて落ちてくる弓弦羽を風を起こして落ちるスピードを殺す。
ドーンと音を立てて、先に落ちた大鷲は、地面に激突した際に事切れたのだろう。ぴくりとも動かない。
一方、雅に助けられた八咫烏は瀕死の重症ではあったが、治癒の呪を唱えると何とか息を吹き返した。
《主様、何故、その八咫烏を助けるのです?》
「麾下の者を助けるのは、主として当然でしょう?」
《麾下?》
天狐は姿は変われど、以前の国常立尊と変わらぬ物言いの雅の様子に、呆気に取られながらも童子の姿に戻り、下に降りてくる。
一方、雅はそっと下ろした弓弦羽に、もう一度、治癒の呪を重ねがけし、八咫烏が翼を僅かに震わせた事に安堵する。
「主様、八咫烏が《麾下の者》とは一体?」
「言葉の通りですよ。ところで、気にはなっていたんですが、その姿、一体どうしたんです?」
「禍津日神に制御のために頂いていた神威の一部を奪われたんですよ。おかげで妖力が暴走し掛けたので、溢れ出た分を神鏡に吸ってもらったらこの状態です。」
「お前が神威を奪われるなんて、珍しい事ですね。」
「仕方ないでしょう? 手負いな上、姫様の保護が優先でしたから、隙を見て姫様をお助けしようと思って控えていたのです。先程、お止めしなかったら、主様は姫様を射抜いておりましたよ?」
すると雅は弓弦羽を治療する手を止め、「あとは頼みます」と告げて、天狐の前からふっと姿を消す。
「主様?!」
天狐は空を仰ぎ、大鷲の亡骸の上で佇む雅の姿が再びふっと消えたのを見ると、諦めたように首を横に振り、ひとまず八咫烏の治療に専念する事にした。
◇
一体、何が起こったのだろう――。
天狐に連れられて心星の玉座とやらに着いたところで、その玉座には自分そっくりの女が座っていた。
そして、にたりとその女が笑ったと思った途端、天狐が苦しみだし、助けようと手を伸ばした所までは覚えてる。でも、その手が届く前に黒い靄に身体が包まれて、視界が閉ざされた。
あとはどこまでも続く「闇」。
上下左右の感覚はなく、音もしない世界。
気が狂いそうになりながら、それでもなんとか正気を保っていたのは、きっと天狐や雅が助けてくれると念じていたからに他ならない。
《何かあったら、僕の名を呼んでください。》
(鷹司 雅でしょ、時任 雅でしょ、それから源 雅信は・・・・・・。)
鷹司大臣、一条大臣。
大己貴命に大国主神、大物主神、それから――。
一体、幾つの名を呼んだだろう。最後に「伊吹」と願った途端、不意に光が差し込んで、視界が晴れたと思ったら、目の前には庭があり、ドーンと鈍い音と砂埃を立てて何かが落ちてきたから腰が抜けてしまった。
今まで何も感じない世界にいた所から、急に激しい風が御簾を打ち鳴らし、吹き飛ばされそうな風圧に思わず袖で顔を覆う。
加代子は半ばパニックになりながら、後退りし、近場の柱に捕まった。
怖い。
一体、何が起こっているというのだろうか。
「加代子さんッ!」
不意に聞こえてきた雅の声に、加代子は思わずキョロキョロと辺りを探す。
「こちらです。」
声のする方を見上げれば、漆黒の髪の鬼がこちらを見ている。
額には二本の角。眼は赤く、虹彩は不思議と金と銀の色合い。丈の長い黒の衣は死神のローブのようで、でも、少し違う服装だ。
「大丈夫でしたか?」
鋭い爪が勾欄の手摺り部分を掴んだかと思うと、加代子のすぐ傍にひらりと飛び越えて来る。
加代子はそんな彼が誰なのか分かって、息を詰まらせた。
怖かった。
会いたかった。
淋しかった。
そんなに長い期間離れたわけではないのに、色んな感情が押し寄せてきて、胸の奥が焦げ付きそうになる。
「み、やび・・・・・・?」
涙腺崩壊してしまいそうなのを、柱を握り締める事で堪えたのに、雅は「ええ、そうですよ。こんな姿ですけどね」と軽口を叩くから、加代子は半分泣き顔、半分笑みを作って「ハロウィンにはまだ早いと思うよ?」と答えた。
ああ、彼女だ――。
着ている服も髪形も違うけれど、目の前で半泣きの彼女は加代子だ。
「私が怖いですか?」
「ううん、違うの。さっきまで真っ暗な世界に閉じ込められてたから、これが夢なんじゃないかって怖くて。何かに捕まってないと不安なの。」
震える声で話す加代子の様子に、雅は「それは柱に妬けてしまいますね」とふふっと笑った。
「どうせ捕まるなら、僕に捕まっていれば良いじゃないですか?」
「へ? あ、ちょっと?!」
そう言うと、加代子を引き寄せ、お膝抱っこの状態にすると、柱から離れて所在なげな加代子の腕を自分の首に巻き付ける。
加代子は雅の肩に頭を乗せるような体勢になると、「あ、あの?!」とまだ戸惑いの声を上げていたものの、雅が「よく頑張りましたね」と髪を梳くと緊張の糸がぷつりと切れて、「うぅ・・・・・・ッ」と呻くようにして泣き始めた。
押し留めていたはずの感情が溢れ出てきてしまう。
加代子が「堪えていたのに」と文句を言えば、雅はしれっと「こういうのは半分こにする約束でしょう?」と答えて、咽び泣く加代子の背をポンポンと叩いてくれた。
「主様、お取り込み中、失礼致します。」
天狐の冷ややかな声が二人の甘やかな空気をぶった斬る。天狐と目の合った雅は邪魔くさそうに「そこ、空気を読んでください」と冷ややかに返した。
「そうも言っておれぬ状態なのです。あと数刻もすれば、瀬織津姫と速秋津比売が大津波を起こしてこの世の大洗濯をする予定です。」
それを聞いた加代子も「あ」と声を上げ、「そうなの! それで雅に助けてもらいに来たの!」と耳元で騒いだ。
「助けてもらいにって、僕にですか?」
「うん、罔象女神や少彦名命に教えてもらった《ノアの方舟》は作ったんだけど、この後、私もどうしたらいいか分からなくて。」
「《ノアの方舟》を作った?」
「うん。」
「でも、それは遠い昔の出来事の事でしょう?」
うまく話の噛み合わない雅の様子に、加代子は雅の肩に手を掛けたまま顔を離すと「今、いつだか分かってる?」と首を傾げてみせた。




