始まりの地
ひょう、と風が吹く。涙はすっかり乾き、頬は塩気でベタついていたが、加代子の心はだいぶすっきりとしていた。
加代子を乗せて、空を駆けていた天狐は結界の境界近くにつくとスピードを落とし、やがて止まる。
眼下には瓦礫が散乱していて、少し先には重く垂れ込めた暗雲が渦巻いていた。
《着きましたよ。こちらでよろしいですか?》
「うん、連れてきてくれてありがとう。」
邸の辺りの緑溢れる景色とは打って変わって、満目荒涼たる景色だ。加代子は静かにその景色を眺めた。
《今は見る影もございませんが、この辺りは花の離宮として様々な花々を植えておりました。きっと、元の様子をご覧なったら、姫様も感嘆なさったでしょう。》
そう話しながらも声を詰まらせる天狐の様子に、加代子は何と答えたらいいか分からなくて「そう」とだけ応えた。
元を知らない自分だって心痛む景色だ。ましてや、百花繚乱の景色を知っている天狐の心中は推して測るべしだ。
下手な慰めは天狐を傷付ける。
加代子は天狐の首筋に捕まったまま、優しくその毛並みを撫でた。
《何も聞かれないのですか?》
天狐の問いに「聞かれたくない時もあるでしょう?」と加代子は答える。
「辛くなるところに連れてきてしまってごめんね・・・・・・。だけど、どうしても自分の目で見ておきたかったの。」
哀しい宿命の始まりの地。
そこには暗雲が結界の外の世界に重く垂れ込めている。
「私には《龍の珠姫》としての記憶は残ってないの。それに須勢理毘売命や琴子としての記憶も継ぎ接ぎの記憶。」
何度も転生した結果だろう。
須勢理毘売命の記憶は、自発的に思い出したものでは無く、あくまでジグソーパズルを組み合わせるようにして生み出された記憶だ。
だから、記憶の見せ手によって都合の良い記憶しか戻ってきていない。
「でも、今は違う。今は私自身が見て、感じて、判断してる。」
たとえこれがいつかと同じように、一時的なものだとして。
たとえこの先が決まっているものだとして。
今は加代子としての意識があり、加代子としての判断が求められている。
宛ら、タイムスリップしているような状態。
そして、それ故に「何かしなければならない」と心が急き立てられる。
「私は見なくちゃならないんだと思う。」
《見なくちゃならない――?》
「ええ、これから何が起こっても、この始まりの地で何が起こったのかを。」
目の前の景色は凄惨で、事の成り行きを知らない人が見たって胸が締め付けられる思いになる。ましてや、一部始終を見てきた天狐がこの景色を見て辛くないわけがない。
自分の心を宥めるように、加代子は天狐の毛を撫でた。
《将来の世はどのようなところなのですか?》
「完全に綺麗な世界ではないよ。戦争もあれば貧富の差もあるし、小さな子が飢えて武器を手にしてるところもある。花咲き乱れているところを切り崩し、環境破壊になっているところもあるし、正直に言えば問題だらけ。」
加代子がふふっと笑みを漏らすから、天狐は「それなのに将来の世に帰りたいのですか?」と不思議そうに訊ねる。
加代子は「帰りたいよ」と答えた。再びひょうと風が吹き、泣いたところがひやりとする。
「私ね、雅に幸せになってもらいたいだけなの。でも、それは気吹戸主神に傷付けって言ってるようなもの。」
罔象女神から話を聞いて、自分はこの後の行く末を知っている。
きっかけはよく分からないが、国常立尊は速佐須良比売の呼び掛けに答えてこの地を浄め、気吹戸主神は国常立尊に何かを告げられて、大岩で心の太柱とそれ以外の世界を区分けする。そして、世界を言祝ぎし、その産霊は解け、風と共に去る。
(気吹戸主神が、大己貴命だったなんて・・・・・・。)
なんて残酷な話だろう――。
同じ表情、同じ姿で求められて、心揺れないわけじゃない。
けれど、彼が求めているのは自分ではなくて、あくまで須勢理毘売命だ。
自分は彼の心を助けてあげられない。
《ああ、姫様も私と同じ、二律背反に苦しんでおいでだったのですね。》
「二律背反?」
《ええ、主様を助けているはずなのに、それは同時に主様を傷付ける。》
天狐はゆっくりと降り始めると「私めも、主様をお救い申し上げたかったのです」と告解し始める。
《しかし、結果はこの通り。私の願いは主様を異質のものに変え、苦しめてしまっている。》
断末魔の叫びと共に、黒く唐草のような妖気が国常立尊の神威を喰らい尽くし、紫の雷は何人も近づけまいと拒絶した。
《最後に目にした主様は酷く苦しまれていて、黒い唐草の妖気は蛇のように収斂し、敵味方関係なく妖気や神威を喰らわんと襲ってきました。》
天狐に出来たのは、神皇産霊神を逃がすことだけ。
《八狐の内、空狐、白狐、風狐、艶狐はその身を飲み込まれ、この星に縫い止めた龍の君をも飲み込んでしまいました。》
やがてその瞳は熟れた鬼灯のように赤くなり、その腹は同胞の血に濡れ、襲い来る八岐大蛇と化していく。
《我らは何とかこの地に逃げ込みましたが、あとは為す術もなく、滅びを待つばかりです。》
天狐はそこまで言うとしばらく押し黙る。再び、ひょうと風が吹き抜け加代子の髪を乱した。
《姫様は約束は果たされると仰せになり、気吹戸主神はこの世界を救う気になられた。》
それは決まっている事だとして、加代子はその先を話していない。
《主様の最後の願いは己を喰らい、消え掛けた龍の君をお救いする事にございました。それは天之御中主神との約束に報いる為の願いと思うて、主様を助けようとしてきましたが・・・・・・。》
自らの力を渡した結果、魔縁の者へと変じた国常立尊は、余計な事をした自分たちを恨んでいるのではないか。
その疑念は自分たちの身を護るための方舟を作りながら、どんどんと膨れていき、天狐を追い詰めていた。
《姫様、貴女は将来の世に帰りたいと思し召しになった。将来の世で主様は我々を恨んでおいででしたか?》
辛そうに話す天狐に、加代子はその毛並みを撫でながら「私もね、それを聞きに帰りたいの」と呟いた。
嫉妬に揺らぐ気吹戸主神の漆黒の瞳に、加代子は余裕なく自分を求める雅の仄暗い瞳を重ねていた。
「雅は私を恨んでるんじゃないかって・・・・・・。」
《未来の主様が貴女を恨む?》
天狐は「そのような事」と驚きの声を上げる。
「恨むわけないって言いたいの?」
《ええ、元の貴女を救けるために兄星との繋がりを断った方ですよ?》
「それで、結果がこれでしょう?」
自らの星を自ら壊そうとするような状態を見れば、加代子はこの出会いが良かったとは言えないと口にした。
「須勢理毘売命としても、琴子としても。私は彼に苦しさを与えてしまう。」
そして、今も――。
「きっと龍の珠姫に出会ってなければ、国常立尊はこの星で幸せに暮らしていたんじゃないかな。」
天狐達と過ごしている気吹戸主神は、方舟作りを介して、屈託なく笑う時も増えてきている。
(あの姿が彼の素の姿なら、自分はきっと彼の心の負担になってる。)
そう思うと胸がツキンッと刺すように痛んで苦しくなる。
《姫様が願うなら、このままどこまでも逃げましょうか?》
「え?」
《今は気吹戸主神にお会いになりたくないのでしょう? このように姫様を苦悩させるなど、少し懲らしめて差し上げれば良いのです。》
天狐が自分を甘やかすように言うから、加代子は「貴方がそんな事を言うだなんて思わなかった」と言えば、天狐はふぁさりとその尾を揺らした。
《そうですね、私自身、不思議です。》
国常立尊に抱くような尊崇の気持ちとはまた違う。この姫に感じるのは、どちらかと言えば親狐が子狐を心配するのに似た感覚だ。
《数日前ならこのように連れ出すことも、貴女をどこかへ遠くへ連れて行って差し上げたいだなんてことも思わなかったでしょう。》
だが、この数日過ごす中で、誰よりも加代子は実直だった。
東に病気の子供があれば行って護符で治療してやり、西に疲れた様子の母親がいれば、「一緒に運ぶよ」と稲の束を負い、南に怖気づき籠っている者がいれば「丈夫な方舟で篭れば心配ないよ」と言い、北に喧嘩や争い事があれば「大変な時なのだから力を合わせよう」と言う日々。
《作物が被害にあって差し出すものがないもの達には方舟での仕事を斡旋し、寒さに震えるもの達がいれば邸を避難所にして衣を分け与えて暖を取らせるなど。我らの到底思いつかないあれこれをしてくださいましたでしょう?》
悪人ならつけ入り放題な危うさながら、本当に窮地に立たされていたもの達にとって、速佐須良比売の心の籠った施しはとても心に染みるものだった。
「私、そんな聖人君子じゃないよ?」
加代子はそう言葉を濁したが、天狐はそれすら加代子の美徳に思えた。
「方舟作りには人手がいるし、あんなに広い部屋なんだもの、家が壊れてしまった人には少しでも寒くないようにしてもらうのにちょうど良いと思っただけだし。」
天狐は「そういう事にしておきましょうか」とふふっと笑う。
《ああ、どうやらお迎えが来たようですね。》
「お迎え?」
《ええ、地狐が心配して付いてたのでしょう。》
と、キラリと心の太柱の方で何かが輝く。
加代子が気がついて振り向くと、レーザー光線のように真っ直ぐな光の筋が幾筋も自分に向かって放たれていた。
「く、蜘蛛の網ッ!」
加代子が直径四、五メートル程の円状の青白い防護壁を複数個展開したのと、天狐が攻撃を避けようと身を捻ったのはほぼ一緒で、振り落とされないように必死に天狐の首筋にしがみつく。
光の矢が防御壁に触れ、爆風が起きる。
「天狐、こっちだッ!」
後ろから声が聞こえたと思うと、一面、薄緑色の光に包まれて、蜘蛛の網として張った防御壁が強化された為か、爆発と共に光の矢が逸れたのが見える。
「さっさと戻ろう。高皇産霊神が速佐須良比売の気配に気が付いた。」
《高皇産霊神めが、邪魔だてしに来ると言うのですか?》
「ああ、きっと今の爆発で八岐大蛇も動き出す。ここは危険だ。」
《不味いですね。方舟はまだ完成していないでしょう?》
「戻る頃にはギリギリ全員乗れるだろうよ。」
《では、二手に別れましょう。地狐、姫様を頼む。》
加代子が「なんで」と問う前に、地狐はカプリと口に咥えて後退する。
「ちょっと! 天狐は?!」
《殿を勤めます。地狐は神皇産霊神と姫様を方舟まで。》
そう言っている間にも、天狐は防御壁の陰から飛び出して結界の外へと抜け出る。
「天狐――ッ!!」
あっという間に小さくなっていく天狐の様子に加代子は手を伸ばした。
連続する爆発と、爆音、爆風。
天狐の姿は最早無く、地狐がその身を反転させると、赤狐に咥えられた時と同じようにぐらりと目が回わる。加代子は後ろ髪を引かれる思いのまま、地狐に運ばれた。




