巻けない撥条(ぜんまい)
国常立尊の邸で過ごす事、早五日。
何が凄いって、見上げるほど大きな船が、ろくな工具やクレーンもないのに短期間に出来たことだった。
「主様がいらっしゃれば、もうちょっと早かったんだろうけど。」
年端もいかないような水干姿の地狐が、大量の食料を指先一つ、指揮をするかのような仕草で次々積み込んでいくのを見ながら、加代子は文字通り「神業」を見せ付けられていた。
「板には杉板を、水漏れ防止には槇の皮と水漏れに強い漆を採用。構造は姫様が言っていた《水密構造》とやらで細かく区切ったから、強度も十分なはずだ。」
得意げに話す赤狐の横で、二十メートル近くはありそうな方舟の側面を見上げる。
加代子が「でも、これ、どうやって乗るの?」と訊ねると、「気になるか?」と言われる。
そして、赤い炎のような光に包まれたかと思えば大きな赤毛の狐姿に変わり、加代子は一瞬のうちにかぷりと口に咥えられた。
「はい?」
思わず変な声が出たところで、目を丸くした地狐と目が合う。そして、それも、次の瞬間、掻き消えるように下に消えていき、一気に視線が高くなり、地表が酷く遠くなる。
「い、やあぁぁぁぁぁ――ッ?!」
気吹戸主神は急に翳った天を仰ぎ、赤狐が咥えているものが加代子だと気が付くと、手にしていた製図をばざばさと取り落とし「赤狐ッ!」と怒鳴った。
赤狐は悪びれた様子もなく、加代子を咥えた時と同じようにして、するりと下ろす。
《どうだ、あっという間だろう?》
目を白黒させている加代子に赤狐が得意げに話す。加代子はその場にへたりこんだまま、動けなかった。
(そりゃ、あっという間、だったけど・・・・・・。)
まだ膝ががくがくしていて上手く立ち上がれない。赤狐は青い顔をしている加代子の様子に「ありゃ、刺激が強すぎたか?」と人の身に戻った。
「おーい、大丈夫かぁ?」
ひらひらと目の前で手を振る赤狐を見上げたところで、気吹戸主神が姿を現す。
「赤狐ッ! 何しているのですかッ!?」
「んーと、姫様がどうやって乗るんだって言うから・・・・・・。」
加代子はまだ惚けたまま、二人の様子をしばらく眺めていた。
「だからって、口に咥えて登ってくるなんて狼藉を。きちんと入口を作って、あそこから入れるようにしているでしょう?」
気吹戸主神の指差した先を見れば、なるほど登ってきた所と反対の辺りに櫓が建っていて、そこから丈夫そうな橋が渡してあった。
「あちらに回るのが少しばかり面倒だったんで、それにこうしてきた方が梯子を登らずに楽でしょう?」
楽は楽だったが、胃の辺りがひっくり返ったような心地になっているところで、気吹戸主神が目を据わらせたまま、にっこりと美麗な笑みを浮かべる。
途端、赤狐と加代子は青ざめた。
「も、もう大丈夫だよ!」
加代子はそう言ったが、声が震えていたからだろう、気吹戸主神は赤狐を叱る事から、加代子を労ることの方に頭を切り替えてくれたようで、その場にしゃがむと心配そうな表情になった。
「大丈夫と仰せですが、とてもそのようには見えませんよ? 少しお休みなさいませ。」
気吹戸主神は「食料の選定と積込みはひと段落着いたと地狐より聞きました」と話す。そして、産霊された日と同じようにして、加代子をひょいと抱きかかえるから、加代子は顔を赤くした。
「な、なんで!?」
「なんで、と申されましても、腰が抜けてしまっているのでしょう?」
くすくすと面白がって笑う気吹戸主神の様子に「歩けるッ!」と赤面して口を尖らせれば、目を細めて「そうして膨れている姿は須勢理によく似てますね」と笑う。
加代子は大仰にため息を吐いた。
「何か不服ですか?」
「いや、不服じゃないんだけど、こう自然と・・・・・・。」
「自然と?」
低く甘く響く声に、顔がますます赤くなる。加代子が顔を背けると追い詰めるように「何です」と耳元で囁かれる。耳に手を当てて、それ以上をブロックする。
「だから、そういうの止めて。」
いつも余裕綽々で、百戦錬磨な様子に「いつまで経っても敵わない」とぼやくと、それは「こちらの台詞ですよ」と気吹戸主神は淋しそうに呟いた。
「心開いて下さるようでいて、貴女の心はいつだって他の人のものだ。」
「そんな事ッ?!」
すると、気吹戸主神は「ないと言いきれますか?」と囁く。
「私が幽世に閉じ込められた後、須勢理は黄泉に下ったと貴女は仰った。」
辛そうな、苦しげな声色で「婉曲に《黄泉に下った》とおっしゃいましたが、その実、淤加美神の元へ向かわれたのですよね?」と言うから加代子は答えに戸惑う。一方、気吹戸主神は自嘲的な笑みを漏らし「沈黙は肯定も同じ、ですよ?」と続けた。
「淤加代美神から須勢理宛に季節の折々に文が届いていたのを私が知らぬとでも?」
漆黒の瞳の向こうに、ゆらりと嫉妬の炎が揺らぐ。加代子は身に覚えのない事なのに、思わず狼狽してしまった。
「いつもそうです。こんなにも近くにいるのに貴女は手に入らない。今の貴女ならと期待していましたが、今の貴女は将来の世を救いたいだけでしょう?」
ふわりと休憩用の長椅子の所に下ろされると、気吹戸主神は踵を返す。加代子はその背に向かって手を伸ばして止めた。
引き止めてどうなるものでもない。
過去が覆らないのは分かっている。
須勢理が淤加美神の元に向かった事も否定できないと言うのに、今の彼に弁明を図ることは出来なかった。
(雅も同じこと、思ってるんだろうか・・・・・・。)
亨との日々は雅と出会う前の出来事なのだと、自分に言い聞かせていたけれど、一度、腹を割って話さないと駄目だなと思う。
でも、そのタイミングを逸してこんな所にまで流れて来てしまった。
(淤加美神の文って何それ。私、知らないんだけど・・・・・・。)
それに須勢理の元にきちんとそんな文が届いたなら、須勢理は大己貴命の前で断ってみせるくらいの気概がありそうなものだが。
「はあ・・・・・・。」
大きくため息を吐いていると、「ああ、やめだ、やめだッ!」と、赤狐が面倒くさそうにやって来て、首に巻いていた手拭いを投げ捨てる。
「一体、何だってんだッ! たくッ!」
そう言うとやや乱雑に加代子の隣にどっかりと座り、不機嫌を露わに「姫様、宥めるの失敗しました?」と訊ねてくる。
「早めに仲直りなさってくださいよ。」
「じゃないと、仕事もままならん」と赤狐がぼやくから、加代子も「そんな事、言われても」と肩を竦めた。
「私、身に覚えのない事で怒られてるんだもの。」
拗れに拗れて、これ以上、巻けない撥条のような関係。
「私が須勢理だったら、良かったのかな・・・・・・?」
そしたら、こんな風に彼の心を掻き乱さずに済んだかもしれない。
「なんだ? 姫様も煮え切らないな?」
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
「あ・・・・・・れ・・・・・・?」
ぽろぽろと涙を零す加代子に赤狐は「お、おいッ?!」と狼狽する。
雅に会いたい――。
会って、ちゃんと話をしなきゃいけないのに――。
声を堪えようとすればするほど、涙が溢れてきて嗚咽が漏れる。拭っても拭っても、一度、堰を切った涙は止まらない。
「帰り・・・・・・たい・・・・・・ッ。」
今すぐに――。
目の前が翳り、白金色の大狐が姿を現す。
「天・・・・・・狐・・・・・・?」
《赤狐、姫様をこちらに。》
ばさりと尻尾を揺らして、目を丸くして固まっている赤狐に「早く」と急き立てる。
「お、おう。」
赤狐に加代子を乗せてもらうと、天狐は「お捕まり下さいませ」と促して、天高く舞い上がった。
トントンと空を蹴り、上へ上へと昇っていき、結界の限界高度まで上がると天狐が「それでどこに向かわれます?」と訊ねてきた。
「な・・・・・・んで・・・・・・?」
《なんでって、お呼びになったでしょう?》
悲痛な声で――。
聞いていられなかったと言うのが正直なところだが、「帰りたい」と言う願いが叶えられない状態なことを考えると、こうして誰も干渉出来ないところに連れてくる他なかった。
《あいにく結界の外には逃げられませんが、逃げ足は早いので追っ手は上手く巻きますよ。》
赤狐とは違って甘やかしてくれるような天狐の口調に、加代子は天狐の白金色の毛並みに身体を預ける。
「心の太柱の見えるところへ向かって。」
天狐は無言のまま、ふぁさりと尻尾を揺らすと空を蹴った。
◇
「気吹戸主神は居るかい?」
神皇産霊神が地狐を連れて方舟を訪れたのは、加代子が上空へ逃げ出して十分程した頃だった。深緑色の目を三角にし、気吹戸主神を見つけるや否や「一体、全体、どうなってるんだい」と文句を言う。気吹戸主神はにこりとした。
「お久しゅうございます。」
「何が《お久しゅう》だ。人を寝かしつけておいて。それにこんな巨大な物を拵えて、今度は何をしでかす気だい?」
文句半分、呆れ半分と言った感じで訊ねれば
「何って、大禊をしようと思いまして」と答える。
「大禊?」
「ええ、瀬織津姫、速秋津比売、私、速佐須良比売。この星を助けるなら、この地に溢れる水や大気の力を借りて、流し去り吹き飛ばし去るのがよろしいでしょう?」
とはいえ、その威力は測りしえない事も確かなので、実際にやるとなれば「方舟」の存在が欠かせない。
「国常立尊の組み込んだ大峠は威力が強過ぎますでしょう?」
あのまま大峠が起これば、八狐は国常立尊の神威を取り込み、この星を死の星にしただろう。
「幸い、貴女が留めて下さったことで真の意味の大峠は止まってます。ですが、このままではこの地は八岐大蛇の毒気に蝕まれましょう。それで各方面に助力を願い、方舟を作っていたのですよ。」
横幅はざっと見積もって六十間はあろうか、高さも十間程度ありそうだ。気吹戸主神は「これが出来れば、大禊で一切合切を浄化しても残したいものは守れるでしょうから」という。
「逆に言えば、大事なものはこの大きさに収まってしまうと言うのは皮肉ですよね。」
こんなに広い宇宙で、大事なものはここに収まるだけ――。
「助けてくれる気になったのかい?」
「ええ、速佐須良比売が将来の世に約束が果たされると仰るので、その言葉を信じてみようかと思いまして。」
三穂津姫の輿入れが正式に決まり、正妃の座を譲り宮を辞すことになった須勢理は、周りがさめざめと泣く中で、泣き腫らした目元を隠すことも無く、健気にも「もう一度、お会い出来たことが嬉しい」と笑みを浮かべていた。
高皇産霊神の直轄地、杵築に建てられた大宮に入れば、二度と会えなくなることは自分も須勢理も分かっていて、高皇産霊神の条件のうち「三穂津姫の輿入れ」が須勢理を正妃の位から追い落とす為の仕打ちなのだとも分かっている。
互いにそれには触れず、昔と同じように人払いをして寝所に篭る。そして、「済まない」と言い掛けた自分の唇に彼女は人差し指で触れて「雲隠り去方をなみと我が恋ふる月をや」と囁いた。
いつもは気丈な彼女が囁く声は途中で震えていく。
雲に隠れて行方知れずとなる愛しい月影。
離れたくなどない――。
離れれば、きっともう会えない――。
それが分かっているから聞きたいのは謝罪じゃなくて、再会の約束だと言う。
「必ず帰っていらして、月影の君。」
そして、約束したのだ。
同じ月を再び共に見よう、と。
気吹戸主神が神妙な面持ちで黙り込むと、神皇産霊神は「はあ」と溜息を吐いて、「それで?」と訊ねてくる。
「肝心の速佐須良比売が見当たらないんだが、あの子はどこにいるんだい?」
途端に気吹戸主神はバツの悪そうな顔になり、「行方まで分かりかねますが、天狐が付いています故、落ち着かれたらお戻りになるでしょう」と答える。そして、製図を見ると、赤狐に「あそこの部分、漆での防水をもう少ししておいて下さい」等も指示を出す。
神皇産霊神は気吹戸主神の様子に眉間に皺を寄せた。
「なんだい、喧嘩でもしたのかい?」
「むしろ喧嘩をしてくだされば、よかったのでしょうが・・・・・・。」
「あの子は元のあの子ではないと教えただろう?」
「ええ、そう理解はしていたんですけどね・・・・・・。」
理解はしている。
彼女は須勢理ではない。
須勢理の記憶はあれど、また別の次元の彼女だ。
彼女は淤加美神なんて知らないかもしれないし、彼女も驚いた顔をしていたから、その記憶さえないのかもしれない。
それなのに須勢理と同じ表情、同じ姿で、自分との触れ合いを拒絶する彼女の様子に苛立ちを覚えてしまった。
「言わんこっちゃない。一体、何を話したんだい?」
「そこまではお話致しかねます。ですが、全面的に私が悪い話なので謝りたいのですが、心乱れているご様子でしたので、少し様子を見ようかと思っておりました。」
しかし、神皇産霊神は首を横に振る。
「あいにくその時間はないよ。高皇産霊神があの子の気配に気がついたようだ。」
「なぜ、それを?」
「高皇産霊神は私の双子神だよ? 意識は別でも感情の揺れは感じる。」
気吹戸主神は神皇産霊神の言葉に、表情を強ばらせる。
「こちらに向かっているのですか?」
「それは分からない。あの子が神威を使ったのは一瞬だったからね。 」
「ですが、不味い事態には変わりないですね。」
「ああ。今のうちに準備を急いだ方がいい。」
神皇産霊神は「あの子の迎えは私が行こう」と言い「地狐を借りていくよ」と答える。
傍で聞き耳を立てていた赤狐は「地狐ばかり外に散歩とか、狡い」と聞こえよがしに文句を言った。




