44 ディテール大森林
…3年以上の時を経て、氷柱…戻ってまいりました。
気まぐれ投稿ですが、どうか暇つぶし程度にお付き合いくださいませ。
自らの足に絶対の自信を持つ男は走っていた。ただただ一心不乱に走っていた。
自分の激しい息づかいと、草を掻き分け巨木をくぐり落ち葉を蹴り上げ撒き散らす疾走音しか聞こえない。それ以外は聞こえない。聞いてはいけない。
殺意の篭った咆哮と突風の捲き起こりそうなほど重々しい羽音など、自分には一切聞こえない。聞いてはいけない。振り向いてもいけない。
振り返れば、死ぬ。
男は形振り構わず、けれど脇に抱えた白と黒の混じった斑ら模様の大きな卵だけは離すまいと心に決め、逃げ果せることだけを考え走っている。ここでこの卵を手放せば、ただ無駄死にするためにこの大樹林に来たことになる。
そんな馬鹿げた結末を迎えるなどまっぴら御免である。男は走ることだけに意識を向けつつも、そんなことをいつの間にか考えていた自分をあざ笑うかのように苦笑した。
これを目的の場所まで届けることができれば、男は億万長者。一生遊んで暮らすことが約束されている。今男を追っているアレは、きっとこの卵を取り返すまで地の果てまでも追いかけてくるだろう。
けれど、そんなことで屈する男ではない。これは一生に一度の人生の岐路、そのままの意味で天国か地獄かへの分かれ道を賭けた大勝負である。負ける気はしない。それが男の取り柄でもあるから。
人間様を舐めるなよ、トカゲモドキが!
男は決して振り向くことなく、自分を抹殺し卵を奪還するべく追跡している空飛ぶトカゲモドキに悪態をつく。
その瞬間であった。
「あ」
足が何かに躓き、運動力学の法則により卵が男の腕をすっぽ抜けて宙を舞った。男はその光景をどこか他人事のようにスローモーションの世界の中で見つめ、そしてさらに、
「え」
目の前に舞った卵はそのままゆっくりと目の前の開けた空間へと進んでいき、その先には今の状況に不釣りあいなほどの美しい青と緑のコントラストが広がっている。そのコントラストはもちろん、空と地上に広がる巨大樹林なわけで。
「う、あ、」
瞬時に状況を理解した男は、スローモーションの中必死に手を伸ばすが時すでに遅く。
億万長者の夢の卵は、そのまま男の手の遥か先にある美しい虚空の先へ落ちていった。
男は、腹の底からせり上がってくる絶叫を抑えることができなかった。
「お二人共すいません、こんなことに付き合わせちまって」
ガウディの申し訳なさそうな声に、しげしげと植物を眺めていたアズは顔を上げた。
「気にしないで。むしろ来れてよかったよ」
「そう言ってもらえると俺も嬉しいです。姐さん」
アズがいるここは、ルディアナ大陸の最北端にある、ディティール大森林。ガウディとその妹、メアの故郷がある世界屈指の大森林で、同時にブラックドラゴンの生息地でもある危険地帯だ。
ディティール大森林は、その面積の広さと自生している植物自体の巨大さにちなんで大森林と呼ばれている。よって、この森の植物はそのままの意味で大きい。アズの知っている普通の木が、この森では約5倍ほどの大きさでそこかしこに自生している。背も高いので木に登って周囲を見渡すにも、まるで10階建てのビルを登っているかのようで一苦労だ。
ところどころ知っている植物とも少しだけ違ったり、見たこともないようなものであったりと、飽きることなく観察できる。アズは時間も忘れてあちこち見て回っていたが、本当にこの森は面白い。
アズとジークとともにメアの治療費を稼いでいたガイディは、今日の午前中に終わった任務の報酬金を持ってついに目標金額を手に入れることができた。アズらが手伝ったとはいえ、かかった日数は5日。初心者のクェイターにしてはなかなかハードな仕事であったはずだが、当のガウディは疲れた様子など微塵も見せずに涙を浮かべて2人に頭を下げていた。
「本当に……本当にありがとうございます。お二人に出会えたおかげで、踏み外した道を正してもらうどころか、妹の治療費まで……。本当に、このご恩は一生忘れません」
大きな巨体を小さく丸めて、泣きながら何度もなんども感謝の言葉を繰り返すガウディに、アズもほんの少しだけもらい泣きをした。
「正式に稼いだ金でメアの治療費を稼げたとしても、俺のしたことは無くなりません。俺はもう一度生まれ変わるために、胸を張って生きていけるように、きちんと償って行きたいんです」
「会いに行くの?あの女性に」
そう問いかけるアズに向き直り、まっすぐと目を見つめ、ガウディは力強く頷いた。
「はい。精一杯謝って、きちんと償います。たとえ許してもらえなくても、俺は一生償い続けます。……今の俺には、その覚悟があるから」
港でガウディがしてしまった、薬の窃盗未遂事件の被害者である女性に、ガウディは会いに行くという。聞けばあの事件以来本人には合っていないようで、ガウディとしてもこのままでは良くないと思っているようだ。けれどアズは、実はその女性と一度会って話をしている。
事情を説明すると、罵倒するなり泣くなり怒るなりすると思っていた被害者女性は、次の瞬間大粒の涙をボロボロと溢れさせてその場に崩れ落ちた。驚いて支えるアズにしがみつき、女性はこう言った。
——……なんて家族想いの優しい方なのでしょう。
その言葉を聞いて、安堵したアズも思わずもらい泣きをしてしまった。
しばらく涙を流していた女性は、落ち着いた後自分の胸のうちを語ってくれた。
女性——セルフィは、友人に頼まれて薬を買いに来ていただけであって自分の家族が病に臥せっているわけではないということ。
襲われた後は恐ろしかったが、日が経つにつれ、ガウディのことを考えるようになったこと。
そして、今の話を聞いて、改めて自分の中ではもう許していること。
そんな彼女に改めて謝ると言うのなら、きっと結果は目に見えている。許してもらえない気でいるガウディの手前アズは何も言うつもりはないが、喜んで背中を押すつもりだ。
これできっと、ガウディは何にも縛られず自由に生きていけるだろう。
「その前に、一つだけお願いがあります。俺の故郷の、ディティール大森林を最後に一目見ておきたいんです。連れて行ってくれませんか?」
ガウディとしては、きっと二度と戻るつもりはないのだろう。そんな覚悟を瞳に込め、強く、真っすぐな眼差しで懇願した彼に、アズは快く同行を了承した。
アズの他にも、アズのパートナーであるヴェール、そして、なんだかんだと最後まで一緒に面倒を見てくれたジークが付いてくることになり、パートナーのギルネを引き連れていつものメンバーでディティール大森林を訪れていた。
「見たことのない植物がいっぱいで、本当にすごいね!どんな生き物が生息してるんだろう?」
ワクワクと胸を高鳴らせるアズをよそに、美少女(に見えて実は美少年)に化けている人型のヴェールが、長い薄紫色のポニーテールを揺らして呆れたように大きなため息をついた。
「遠足に来てるんじゃないよ、アズ」
「わかってるよ。でもこんなにいろんな植物が生えてるんだよ?ワクワクしない方がおかしいよ」
「俺はワクワクしない」
「あ、俺も~」
ふん、と鼻をならすヴェールに、挙手をしながらジークも続く。アズは思わず顔をしかめた。
「あたしにとっては初めて見るものばっかりなんだもん。ちょっとくらいはしゃいでもいいじゃない」
「別にはしゃいでもらって構わないけど、ここがどこだか忘れてないよね?」
「もちろん忘れてないよ!ここはかの有名な…わーー!あれなにー!?何あれーー!!!」
突如として目をキラキラと輝かせ、アズはダッとその場から駆け出す。
アズが駆け出した方を目で追えば、何やら得体の知れない生き物が残像を残して茂みに消えるところだった。…一瞬だったからはっきりとは見えなかったけれど、目がたくさんある猪のような生き物に見えたが…きっと気のせいだろう。うん。
ヴェールは無理やり納得した。
「ねー!見た?今の見た!?すっごい変な猪!…いや、ブタ?がいたの!目がいっぱいあって足も多くて…ねえガウディ、あれってなんて生き物?」
「あぁ。あれはっすね…」
律儀に答え始めるガウディを横目に「あぁもう…」とヴェールはため息を吐きつつ天を仰いだ。隣のジークが同情するようにヴェールの肩をポンポンと叩く。
ここはディティール大森林。何度も言うが、この世界ですべての種族から最も恐れられている最強最悪の竜が住まう、大陸一危険な場所である。
それを本当にわかっているのか、アズはきゃいきゃいとそれは楽しそうに目をキラキラと輝かせはしゃぎ回っている。まったく…本当に…、
「可愛いんだから」
「おい」
そっちかよ、とすかさずジークの突っ込みが入るが、ヴェールは気にせずアズを温かい眼差しで見守った。アズは楽しいならそれでいいや。うん、いい。なんでもいい。
半顔でヴェールを見やるジークは呆れたようにため息をつき、
「お前は本当にアズに甘いよなぁ。別にダメって言うわけじゃねえけどーー」
そこでふいに言葉を切る。訝しんでジークを見上げると、彼はしばらくの間の後緊張を含んだ声で「何か聞こえる。…悲鳴?」と空を見上げた。
ヴェールも顔を上げて耳を澄ませるーーが、今のところ何も聞こえない。さすがはダークウルフの遺伝子を持つ人間。五感がヴェールよりも鋭いとは恐れ入る。
とは言え、ヴェールもセブンスドラゴンである。上空に目を凝らすと何か見えた。小さな丸い黒い影ーー。
それが何かうっすらと確認した途端、視界の端を何かが空めがけて矢の如く飛んでいった。
地を蹴ったアズだ。
「なんだあれ。…丸いな」
目を凝らしているジークの横ですかさず人型を解き、竜の姿に戻る。その間にもアズは戦場の女神を具現化した際に使える「大気凝固"固定"」の力を使い、空気を固めて足場にし、それを蹴って空を上がっていく。
正直、嫌な予感しかしない。
『アズ!ちょっと待って!』
翼を広げて地を蹴り、螺旋状に空へ上がる。なんだなんだと寄ってきた獣人のガウディとこちらを見上げているジークに『2人はそこで待ってろ!』と指示を出してアズを追う。
ヴェールのカンはよく当たるのだ。
本当にもう、嫌な予感しかしない。