March Story28
運命の歯車が、逆方向に回りだす───。
重い足を引きずりながら、一人きりで、坂道を上がり、辿り着いた家の玄関の引き戸を開けた瞬間───
「ちょっと待ってよ!!」
耳に飛び込んできたのは、母が叫ぶ声だった。
勇人は、はっと身体を強張らせた。
「話が違う!この家から出ようとしなければ、ある程度の自由は保障するって……子どもたちを学校に通わせることもできるって、そう言ったじゃないっ!」
それは、家じゅうに響き渡るほどの声量だった。
勇人は、その声に突き動かされるように、居間へと近付いた。
「事情が変わったんだよ」
淡々とした声が、勇人の動きを止めた。勇人が、その声を聞くのは、いつ以来か思い出せないほど───思い出したくないほど、前のことだった。
「そんなに騒ぐな。蒼太に聞こえる」
「父親ずらしないでよ!私の家族は、あんたのものじゃない!」
母の荒い息遣いが、勇人の耳にまで届いた。
心臓が、ゾクリ、と嫌な音をたてて、溶けていくような気がした。
母が───”父”と、言い争っている───。
「あんたたちの狙いは、私なんでしょ……子供たちは関係ない!」
母の声に、必死な熱さが加わった。
───だが、相手は、動じなかった。
「それを決めるのはお前じゃない。最初から、お前に選択権はないんだよ」
冷たい声が、母の想いを消し去る。
「子供を守りたいんだろ?」
母を追い詰めるように、”父”は、言葉を重ねた。
「だったら、大人しく従うことだ。さっさと、荷物をまとめろ」
床に、何かが落ちる音が聴こえた。───それが、母が、膝から崩れ落ちた音だと気付いても、勇人は、その場から動くことができなかった。
室内を歩き回る足音と、気配が、ゆっくりと、勇人の方に近付いてきた。
"父"が、勇人の目の前に、姿を現した。
冷えきった真っ黒な瞳が、勇人を見下ろす。
「後1時間後に出発する。この先の生活で必要なものだけ、バッグに詰めろ。余計なものは置いて行け」
そう言い残して、"父"は、姿を消した。
※
よろめくように部屋に入り、勇人は、机に手をついた。
子供部屋に、蒼太の姿はなかった。どこにいるのか、考える余裕を、勇人は失っていた。
出発まで、後1時間───今後の生活で必要なものしか、持っていっちゃいけない。───それが、何を意味するのか。頭の中を埋め尽くすのは、それだけだった。
無我夢中で押し入れを開き、旅行鞄を取り出す。その中に、入る分だけの衣類を、詰めていく。
必死だった。自分が今、何をしているのか、体に頭が追い付いていなかった。
(あとは……あとは……)
"この家から出ようとしなければ、ある程度の自由は保障するって……子どもたちを学校に通わせることもできるって、そう言ったじゃないっ!"
母の声が蘇る。
学校に行くときに使っているリュックのファスナーを開き、教科書を片っ端から入れた。
そうしながら、反射的に、机の引き出しを開く。
そこには、2冊のノートが、入っていた。
1冊は、勇人が、誰にも見せたことがない、自分だけが知る、自分だけの言葉が書かれた───日記だった。
その中には、この家で積み重ねてきた───昨晩、母にぶつけた思いのすべてが、詰まっている。
勇人は、僅かに躊躇った後───そっと、教科書と一緒に、リュックの中に入れた。
もう1冊のノート───それは、勇人が、何より大事に保管していた、あのノートだった。
輝葉とつくった、秘密結社のルールを書いたページ。母に見つけられてしまった、殺し屋と暗殺者の違いを記したページ。そして───”ASSASSIN”のことを書いたページ。
勇人は迷うことなく、そのノートを入れて、ファスナーを閉じた。
※
車が発進して30分───隣の席にいる蒼太は、眠ってしまった。
勇人が学校から帰ってきた時、蒼太は、庭で遊んでいたらしい。
───だから、"父"と母の喧嘩のことを、蒼太は知らない。もう、この町には帰って来られないことも、きっと、知らない。
自分の肩に寄りかかる蒼太の体から伝わる体温があっても、勇人の指先の震えは、治まらなかった。
窓の外を通過していく、見慣れた町の風景を、勇人は見つめた。
───あのスーパーも、コンビニも、もう、行けないのかな……。昔、蒼太と遊びにいった空き地。もう一回、行っておけばよかった。あんなに行くのが嫌だった学校。でも、今は、クラスのみんなや、先生に会いたい。優樹菜は、俺がいなくなったこと、心配してくれるかな。それとも、いなくなって、せいせいしてるかな。
窓はやがて、枯れ葉の落ちた木々を映した。
そこは───夏休みに、輝葉と共に訪れた、あの公園の入り口だった。
"無理して、我慢しなくていいんだよ。勇人が、本当に思ってること───それが、綺麗なものじゃなかったとしても、私は、勇人のそばから、離れたりしないから"
"勇人と出会えて、それまで、知らなかったものを、たくさん知れた"
"もし……この先、勇人と、今みたいに会えなくなっても、勇人が、私のことを忘れても、私は、それでも、いい。私が、勇人のことを覚えていられたら……それで、いいから"
輝葉がくれた言葉たち。
思えば、輝葉はいつも、自分の気持ちを、真っ直ぐに伝えてくれていた。
───本当のことを言うのを怖がっていたのは、自分の方だった。
自分が、輝葉のことをどう思っているのか───それを言ってしまったら、あの関係は、終わってしまうのではないかと、恐れていた。
───伝えておけばよかった。
こうやって、いつか会えなくなるって分かってたら───ちゃんと伝えてた。
目から、涙が零れ落ちても、それを拭ってくれる人は、誰もいなかった。
助手席に座る母の姿は、カーテンで仕切られて見ることができない。運転席に座っているのは、勇人が待ち望んでいる、父ではない。
車は、北山を抜け、勇人の知らない道を、走り出す。自分の人生が分断された瞬間を見たような気がした。
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