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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第99話 秋の午後に届いた知らせと、私の名前で残したい言葉



 翌朝、エレノアが目を覚ますと、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日のような明るい日差しはないものの、空は穏やかで、庭園の木々も静かに枝を揺らしている。夜のあいだに少し雨が降ったらしく、窓から見える石畳にはところどころ濃い色が残り、落ち葉が湿った地面に張りついていた。


 寝台の上で身体を起こしたエレノアは、しばらくその景色を眺めていた。王宮へ送った問い合わせが受領されてから、まだそれほど日数は経っていない。すぐに返答が届くとは考えていなかったが、朝を迎えるたびに、何か知らせがあるのではないかと気にしてしまう自分がいた。


(待つと決めたのだから、落ち着いて過ごしたいと思っているのに。やっぱり、少し気になってしまうのね)


 胸の奥に生まれた小さな緊張を感じながら、エレノアは掛け布を整えた。


 自分の意思を正式に届けるための手続きは、まだ途中だった。拒否声明の三つの文章は変えていないし、署名もしていない。叔父のアルフォンスが準備しているロシュフォール家の説明書についても、最終的な提出方法が明らかになるまでは、内容を確認したうえで判断する約束になっている。


 それでも、何も進んでいないわけではなかった。


 王宮の儀典を担当する部署へ問い合わせを送り、受領されたことを確認できた。これから必要になる手続きについて、曖昧なまま進めないための質問も伝えてある。


 以前の自分なら、誰かが決めたことを知らされるまで、ただ待っていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


(私は、私が望んでいないことを、きちんと伝えたい。そのために必要なことなら、これからも一つずつ確かめていこう)


 そう考えたところで、扉が控えめに叩かれた。


「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」


 リディアの声に、エレノアは自然と表情を和らげた。


「おはよう、リディア。どうぞ入って」


 扉が開き、リディアが衣装を抱えて入室する。今朝は少し肌寒いため、淡い灰青色の衣装に、薄手の上着を合わせる準備をしてくれていた。


「昨夜は少し雨が降ったようでございます。庭園の南側も、朝のうちは足元が湿っているかもしれません」


「そうなのね。昨日はお祖母様と膝掛けのお話をしていたから、今日はまた庭園を歩けたらと思っていたのだけれど」


「午後には乾く場所もあるかもしれませんが、ギュスターヴさんへ確認してからの方がよろしいかと存じます。東側の通路は、引き続き立ち入りを控えるよう申し送りがございます」


「ええ、そうするわ。安全だと分かっている場所だけを歩くことにしましょう」


 エレノアは頷き、寝台から降りた。


 支度を進めてもらうあいだ、リディアは昨日の膝掛けの話を尋ねてくれた。エレノアが布の厚みや手触りについて教わったことを話すと、リディアは嬉しそうに耳を傾けていた。


「同じような色の布でも、使う場所によって向いているものが違うのね。お祖母様のお話を聞くまで、そこまで考えたことがなかったわ」


「マルグリット様は、長く使うものほど丁寧に選ばれる方でございますから。きっとエレノア様にも、いろいろなお話をしてくださると思います」


「ええ。私、もう少し教えていただきたいと思っているの」


 そう答えたあと、エレノアは鏡の中の自分を見つめた。


 王宮からの返答を待っているあいだにも、こうして新しいことを学べる。自分の望みを言葉にし、誰かと相談しながら進められる。


 その時間があることを、彼女は今朝も嬉しく感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、オーギュストが庭園の石畳について新しい報告をしていた。


 東側の通路では、表面の石だけでなく、その下にある地面の状態を調べるための準備が進められているという。昨日の雨で湿り方の違いが見えやすくなった場所もあるらしいが、それだけで原因を決めることはできないため、引き続き慎重に確認することになっていた。


「ギュスターヴの話では、雨が降ったあとに水が残りやすい場所と、比較的早く乾く場所があるそうだ。もっとも、それが石の浮き上がりと直接関係しているかどうかは、まだ分からないらしい」


 オーギュストが説明すると、マルグリットは窓の外へ目を向けた。


「今朝も少し湿っているようですものね。見た目だけで判断してしまわないよう、皆にも気をつけてもらいましょう」


「そのつもりだよ。原因が分かるまでは、東側を通らなくても済むようにしておくのが一番だろう」


 エレノアは二人の話を聞きながら、庭園の南側にある花壇を思い浮かべた。


 青紫の花は、秋の空気の中でも静かに咲いている。


 以前セドリックと歩いたときには、花びらの色を見比べながら、自分の刺繍について話した。あの花をそのまま写したいわけではないけれど、光によって変わる青と紫の色合いは、今も心に残っている。


「お祖父様。もし午後になって南側の道が乾いていたら、少しだけ庭園を歩いてもよろしいでしょうか」


 エレノアが尋ねると、オーギュストは穏やかに頷いた。


「もちろんだよ。ただ、ギュスターヴに足元の状態を確かめてもらってからにしよう。今日は風も強くなさそうだし、歩ける場所があれば気持ちがいいだろうね」


「ありがとうございます」


 エレノアは微笑み、茶器へ手を伸ばした。


 そのとき、アルフォンスが食卓の端に置いていた書類を整えながら口を開いた。


「エレノア。王宮への問い合わせについては、今朝の時点で新しい返答は届いていない。受領の確認は取れているから、こちらから重ねて急かす必要はないと思っているが、何か知らせがあればすぐに伝えるよ」


「はい、叔父様。ありがとうございます」


 エレノアは落ち着いた声で答えたものの、胸の奥がわずかに強張るのを感じた。


 返答がないこと自体は、予想していた。


 それでも、アルフォンスの口から王宮という言葉を聞くと、どうしても意識がそちらへ向いてしまう。


 アルフォンスは彼女の表情を見て、少しだけ声を和らげた。


「返答を待っているあいだに、君が何か決めなければならないことはないよ。届いた内容を一緒に確認して、それから考えればいい」


「はい。私も、そうしたいと思っています」


 エレノアは頷いた。


 その言葉に嘘はなかった。


 ただ、返答が届いたときに何が書かれているのかを想像すると、やはり不安は残る。


 王宮の担当部署が、自分の意思をどのように受け止めるのか。


 父の返書と自分の拒否声明が、どのように扱われるのか。


 そして、その書類が誰の目に触れる可能性があるのか。


 まだ答えの出ていないことは多かった。


 けれど、エレノアは食卓の上にある温かな料理へ目を戻した。


 今は朝食の時間だった。


 家族と同じ席に座り、穏やかな会話を交わしている。


 その時間まで、不安に明け渡したくはなかった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食後、エレノアはマルグリットと約束していた膝掛けの補修について、もう一度話を聞くことになった。


 小さな居間には、昨日見比べた布が用意されていた。窓辺の小卓には糸や針、布を留めるための道具も置かれていたが、マルグリットはまだ縫い始めるつもりはないようだった。


「今日は、どこを直すのかをもう少し詳しく見てみましょう。昨日は布の手触りを比べたけれど、実際に補修するときには、傷んでいる場所の広さも大切になるのよ」


 マルグリットは膝掛けを広げ、縁の一部分をエレノアへ示した。


 そこには、長く使われてきたために糸が緩み、布の端が少し浮いている場所があった。


 エレノアは祖母の隣へ座り、慎重に目を凝らした。


「昨日見たときより、傷んでいるところがよく分かります。ここだけを直せばよいのでしょうか」


「そうね。けれど、周りの糸も少し弱くなっているでしょう。傷んだところだけを狭く直すと、すぐ隣からまた緩んでしまうこともあるの。だから、どこまで補強するかを考える必要があるわ」


 エレノアは頷き、布の縁を指先でそっと持ち上げた。


 確かに、目立って傷んでいる部分の隣にも、少し緩んだ糸がある。


 見た目だけでは分からないことがあるのだと、改めて感じられた。


「では、直す場所を決める前に、周りも確かめるのですね」


「ええ。もちろん、必要以上に広く直してしまうと、元の布の柔らかさが変わってしまうこともあるわ。だから、少しずつ状態を見ながら決めるのよ」


 マルグリットはそう言って、補修に使う候補の布を重ねてみせた。


 昨日エレノアが触れた二枚のうち、柔らかい方は元の膝掛けによく馴染んでいた。一方、少し厚みのある布は丈夫そうだったが、重ねた部分がわずかに硬くなる。


 エレノアは二枚を見比べながら、しばらく考えた。


「お祖母様。こちらの柔らかい布を使う方が、膝掛けとしては心地よいのでしょうか。でも、丈夫さも必要なのですよね」


「そうね。だから、布だけで決めるのではなく、どのように縫い留めるかも考えるの。柔らかい布でも、縫い方を工夫すれば十分に使えることがあるわ」


 マルグリットは優しく微笑んだ。


「何かを選ぶときには、一つのことだけを見て決めなくてもいいのよ。いくつかの条件を比べながら、そのものに合う方法を探していけばいいの」


 エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。


 自分が今向き合っている王宮への手続きも、似たところがあるのかもしれない。


 ただ婚約を拒否したいと伝えるだけでは、父の返書がすでに送られているという事情を十分に整理できない。


 だからこそ、正式な宛先や提出方法、記録の扱いについて確かめようとしている。


 もっとも、膝掛けの補修と王宮の手続きを同じものとして考えるつもりはなかった。


 布には布の扱い方があり、書類には書類の決まりがある。


 それでも、何かを大切にしようとするとき、目の前の一部分だけではなく、その周りにある事情も確かめる必要があるということは、どちらにも通じるように思えた。


「お祖母様。私、昨日は早く覚えたいと思っていたのですが、今日は少し考えが変わりました」


「あら、どんなふうに?」


「すぐに上手にできるようになることより、どうしてその方法を選ぶのかを知りたいと思ったのです。そうすれば、いつか自分で考えられるようになるかもしれませんから」


 マルグリットは一瞬目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。


「それは、とても大切なことに気づいたわね。わたくしも、最初から何でも知っていたわけではないのよ。若い頃には、教えていただいた通りにしても上手くいかず、何度もやり直したことがあったわ」


「お祖母様にも、そのようなことがあったのですか」


「もちろんよ。むしろ、今でも新しく学ぶことはあるの。長く暮らしているからといって、すべてを知っているわけではないもの」


 祖母の言葉に、エレノアは思わず笑みをこぼした。


 マルグリットはいつも落ち着いていて、何でも優しく教えてくれる。


 そんな祖母にも、分からないことや失敗したことがあるのだと知ると、少しだけ親しみが増したように感じられた。


 そのあと二人は、補修する範囲を小さな印で確かめ、どの布を使うかを相談した。


 最終的には、元の膝掛けの柔らかさに近い布を候補として残し、縫い方についてはもう一度確認してから決めることになった。


 エレノアはまだ針を持たなかったが、不思議と物足りなさは感じなかった。


 今日も一つ、新しいことを知ることができたからだった。


     ◇ ◇ ◇


 昼食を終えた頃、空に広がっていた雲が少しずつ薄くなり、庭園には穏やかな光が戻り始めていた。


 エレノアは自室で刺繍を進めようとしていたが、窓から見える南側の花壇が気になり、リディアへ声をかけた。


「リディア。午後の庭園は、歩けそうかしら」


「先ほど確認いたしましたところ、南側の通路は足元の状態に問題がないとのことでございました。ただし、濡れた落ち葉が残っている場所もございますので、ゆっくり歩くようにとのことです」


「ありがとう。それなら、少しだけ外へ出てみたいわ」


 エレノアは微笑み、上着を羽織った。


 庭園へ向かう途中、廊下の窓からは使用人たちが冬支度を進めている様子が見えた。鉢植えを風の当たりにくい場所へ移したり、落ち葉を集めたりと、それぞれが静かに仕事をしている。


 エレノアはその姿を見ながら、昨日から考えていたことを思い出した。


 屋敷の中には、自分がまだ知らない仕事がたくさんある。


 それらをすぐに覚えることはできなくても、少しずつ知っていくことはできるだろう。


 庭園へ出ると、湿った土の匂いが風に混じっていた。


 雨上がりの空気は少し冷たかったが、雲の切れ間から差し込む光は柔らかく、秋の午後らしい穏やかさがあった。


 南側の通路には、落ち葉がところどころ残っていた。


 リディアとともに足元を確かめながら歩いていると、少し離れた場所でギュスターヴが庭師たちへ指示を出している姿が見えた。


 エレノアが近づくと、彼は作業の手を止め、丁寧に一礼した。


「エレノア様。今日は南側をご覧になるのでございますか」


「ええ。お天気が少しよくなったので、花壇を見てみたいと思ったのです。こちらの道は歩いても大丈夫だと伺いました」


「はい。こちらは今朝のうちに確認しております。ただ、落ち葉の下に湿りが残っている場所もございますので、どうぞ足元にはお気をつけください」


「ありがとうございます。東側の道は、まだ調べていらっしゃるのですよね」


 ギュスターヴは頷いた。


「はい。石の下の状態を確かめる準備を進めております。表面だけを直しても、原因が残っていては再び同じことが起こるかもしれませんので」


 エレノアはその説明を聞き、庭園の東側へ視線を向けた。


 ここからでは問題のある場所を詳しく見ることはできない。


 けれど、見えない場所で作業が進められていることは分かる。


「いつもありがとうございます。私たちが安心して庭園を歩けるのも、皆さんが気を配ってくださっているからなのですね」


 エレノアがそう伝えると、ギュスターヴは少し驚いたような表情を見せた。


 それから、深く頭を下げた。


「もったいないお言葉でございます。庭園を安全に保つことも、私どもの大切な仕事でございますから」


「それでも、お礼をお伝えしたかったのです。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします」


 ギュスターヴは穏やかに微笑み、再び作業へ戻っていった。


 エレノアはその背中を見送りながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 今まで自分が当たり前のように歩いていた道も、誰かが日々確かめ、整えてくれている。


 そのことを知るだけでも、庭園の見え方が少し変わったように思えた。


 やがて南側の花壇へ到着すると、青紫の花が風に揺れていた。


 以前見たときよりも花の数は少なくなっていたが、残った花びらは秋の光を受けて静かに色づいている。


 エレノアは花壇の前で足を止め、しばらく眺めていた。


(やっぱり、きれいな色ね。でも、私が作っている花は、ここに咲いている花と同じでなくてもいいのよね)


 自分の刺繍には、まだ青い糸しか使っていない。


 紫を加えるかどうかも、最終的には決めていなかった。


 けれど、最近はそれを焦る気持ちが少なくなっている。


 完成まで時間がかかっても構わない。


 自分がどんな花を作りたいのかを考えながら、少しずつ進めていけばよいのだ。


「エレノア様。今日は、以前よりも少し花が少なくなりましたね」


 リディアが隣から声をかけた。


「ええ。でも、残っている花もとてもきれいだわ。季節が進んでいるのね」


「そうでございますね。もう少しすれば、庭園も冬の景色へ変わっていくのでしょう」


 エレノアは頷き、風に揺れる花を見つめた。


 季節は、誰かの返答を待っているあいだにも進んでいく。


 それは少し寂しくもあり、同時に穏やかなことのようにも感じられた。


 自分が立ち止まっているつもりでも、世界は少しずつ変わっていく。


 だからこそ、その変化を怖がるだけではなく、自分の目で確かめながら歩いていきたい。


 エレノアはそう思いながら、リディアとともにゆっくりと屋敷へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 その日の午後、アルフォンスの執務室には、王宮から届けられた一通の書簡が運ばれてきた。


 書簡を受け取ったアルフォンスは、封に記された差出元を確認し、机の上へ静かに置いた。


 王宮の儀典を担当する部署からのものだった。


 彼はすぐに封を開けることはせず、まず受領の記録を確かめた。先に送った問い合わせと関係する書簡である可能性が高い以上、いつ届き、どのように扱われたのかを明確にしておきたかった。


 確認を終えてから封を開くと、中には整った筆跡で書かれた返書が収められていた。


 アルフォンスは一度目を通し、続いて内容を確かめるように、ゆっくりと読み直した。


 返書には、問い合わせへの回答が記されていた。


 正式な提出先については、王宮の儀典担当部署を通じて受け付けること。


 本人の意思を示す書面には、本人の署名が必要であり、署名した日付も明記すること。


 ロシュフォール家からの説明書については、本人の書面とは区別できる形で提出することが望ましいこと。


 受領の記録は残されるが、それは書面の内容について何らかの判断が下されたことを意味しないこと。


 そして、提出された書面は、必要な手続きに関わる部署で取り扱われる可能性があり、閲覧する者の範囲をあらかじめ完全に限定することはできないこと。


 アルフォンスは最後の部分を読み、わずかに眉を寄せた。


 想定していた内容ではあった。


 それでも、実際に王宮から示された言葉として読むと、慎重に扱う必要があると感じられた。


 エレノアは、誰が自分の拒否声明を読む可能性があるのかを気にしている。


 その理由をすべて話してくれているわけではないが、彼女が強い不安を抱いていることは分かっていた。


 アルフォンスは返書を机へ置き、しばらく考えた。


 王宮の回答は、提出のための道筋を以前より明確にしている。


 しかし、これでエレノアがすぐに署名しなければならないわけではない。


 むしろ、彼女自身がこの内容を読み、納得したうえで次の判断をすることが大切だった。


 アルフォンスは呼び鈴を鳴らし、セドリックを呼ぶよう伝えた。


 ほどなくして執務室へ入ってきたセドリックは、父の表情を見て何かを察したらしく、静かに扉を閉めた。


「父上。何かございましたか」


「ああ。王宮から問い合わせへの返書が届いた。内容を確認したところだが、エレノアにも見せる必要がある」


 アルフォンスは書簡を示し、要点を説明した。


 セドリックは真剣な表情で耳を傾けていたが、閲覧範囲についての説明に差しかかると、わずかに表情を引き締めた。


「完全には限定できない、ということですね」


「そうだ。もっとも、誰でも自由に読めるという意味ではない。必要な手続きに関わる者が扱う可能性を、現段階では狭く断定できないということだろう」


「エレノアは、その点を特に気にしていましたね」


「ああ。だからこそ、こちらで都合よく解釈して伝えるべきではない。返書の文章をそのまま読んでもらい、分からないところがあれば一緒に確認する必要がある」


 セドリックは頷いた。


 彼はエレノアが何を恐れているのか、すべてを知っているわけではない。


 けれど、彼女が自分の意思を記録へ残すことを大切にしていることは、これまでの話し合いを通じて理解していた。


「父上。エレノアには、今日のうちにお知らせしますか」


「そうするつもりだ。ただ、突然書簡を渡して一人で読ませるより、落ち着いて話せる場所を用意した方がいいだろう。本人が望むなら、明日改めて詳しく確認しても構わない」


「分かりました。僕も同席した方がよければ、そうします」


 アルフォンスは息子を見つめ、静かに頷いた。


「ありがとう。まずはエレノアに、誰と確認したいかを尋ねよう。彼女自身の書面についてのことだからね」


 そう言って、アルフォンスは返書を丁寧に折り直した。


 王宮からの回答は届いた。


 けれど、それは結論ではなかった。


 エレノアが自分の意思をどのように届けるか、その判断のための新しい情報が一つ増えたのだった。


     ◇ ◇ ◇


 エレノアが庭園から戻り、自室で温かな茶を飲んでいた頃、リディアがアルフォンスからの伝言を届けた。


「エレノア様。アルフォンス様より、王宮から書簡が届いたとのことでございます。ご都合がよろしければ、少しお話をしたいとおっしゃっております」


 その言葉を聞いた瞬間、エレノアの手がわずかに止まった。


 茶器の中で、淡い色の茶が小さく揺れる。


 彼女はすぐに返事をしようとしたが、思ったよりも喉が乾いていることに気づき、静かに茶器を置いた。


(王宮から、お返事が届いたのね。思っていたよりも早かったけれど……何が書かれているのかしら)


 胸の奥で緊張が広がっていく。


 それでも、逃げたいとは思わなかった。


 自分で質問を考え、内容を確認して送った問い合わせだった。


 返答を読むことも、その先の判断をすることも、自分が望んだことの続きなのだ。


「ありがとう、リディア。叔父様には、これから伺うと伝えていただけるかしら」


「かしこまりました。お茶はこのままお下げいたしましょうか」


「ええ、お願い。少しだけ身支度を整えてから向かうわ」


 リディアは頷き、静かに部屋を出た。


 エレノアは椅子から立ち上がり、鏡の前へ向かった。


 庭園から戻ったばかりで、髪には少し風の名残があった。彼女は指先で髪を整え、深く息を吸った。


 鏡に映るのは、十五歳の自分だった。


 かつて、十八歳で処刑された自分とは違う。


 けれど、あのときの記憶は今も胸の奥に残っている。


 第二王子レオナードとの婚約。


 自分の意思を置き去りにしたまま進んでいった出来事。


 そして、誰にも届かなかった言葉。


 その記憶を思い出すと、身体の奥が冷たくなるような感覚があった。


(私は、もうあの場所へ戻りたくない。だからこそ、今度は自分の意思を、きちんと残したいの)


 エレノアは鏡の中の自分を見つめ、静かに頷いた。


 すべてを知っているのは、自分とクロノアだけだ。


 叔父も、セドリックも、祖父母も、あの未来を知らない。


 だから、彼らが自分の不安をすべて理解できないのは当然だった。


 それでも、彼らはエレノアの言葉を聞き、望みを尊重してくれている。


 そのことを思い出すと、少しだけ呼吸が楽になった。


 エレノアは扉へ向かい、リディアとともにアルフォンスの執務室へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 執務室へ入ると、アルフォンスとセドリックが待っていた。


 窓から差し込む午後の光は柔らかく、机の上には数枚の書類が整えられている。アルフォンスはエレノアの姿を見ると立ち上がり、穏やかな表情で迎えた。


「来てくれてありがとう、エレノア。王宮から、先日の問い合わせへの返書が届いたよ」


「はい、叔父様。リディアから伺いました」


 エレノアは静かに答えた。


 アルフォンスは彼女へ椅子を勧め、書簡を手元へ寄せた。


「まず伝えておきたいのだが、今回届いたのは手続きについての回答だ。婚約について何か決定が下されたという知らせではないし、君が今すぐ署名しなければならないという内容でもない」


 エレノアはその言葉を聞き、わずかに肩の力を抜いた。


「ありがとうございます。では、私たちが送った質問について、お答えいただけたのですね」


「ああ。すべてが完全に明確になったわけではないが、提出の方法については以前より具体的になった。君が望むなら、返書をそのまま読んでもらいたいと思っている」


「はい。ぜひ、読ませてください」


 アルフォンスは頷き、書簡をエレノアの前へ差し出した。


 エレノアは両手で受け取り、ゆっくりと文章を読み始めた。


 王宮の儀典担当部署を通じて提出すること。


 本人の署名と日付が必要であること。


 ロシュフォール家の説明書と本人の書面は、区別できる形で提出することが望ましいこと。


 受領の記録と、内容についての判断は別であること。


 そして、書類を取り扱う部署や閲覧する者の範囲を、あらかじめ完全に限定することはできないこと。


 最後の部分へ目を通したとき、エレノアの指先がわずかに強張った。


 文字は静かに並んでいる。


 そこには誰かを脅すような言葉も、彼女の意思を否定するような表現もない。


 けれど、書類が誰の目に触れるかを完全には決められないという事実は、彼女にとって簡単に受け入れられるものではなかった。


(レオナード殿下が、これを読む可能性もあるということなのかしら。でも、ここには具体的な名前は書かれていない。誰が読むのか、まだ分からないのね)


 エレノアはゆっくりと息を吸い、もう一度その部分を読み直した。


 返書には、第二王子本人が必ず読むとも、絶対に読まないとも書かれていない。


 分からないことを、勝手にどちらかへ決めつけてはいけない。


 そう考えながらも、胸の奥に残る不安は消えなかった。


 アルフォンスは彼女が読み終えるまで、何も言わずに待っていた。


 セドリックも向かい側の椅子へ座り、エレノアの表情を静かに見守っている。


 やがてエレノアは書簡を机へ置き、顔を上げた。


「叔父様。いくつか、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろんだよ。分からないことがあれば、何でも聞いてほしい」


 エレノアは一度頷き、書簡の一部分を指先で示した。


「こちらに、本人の書面とロシュフォール家の説明書は、区別できる形で提出することが望ましいと書かれています。これは、同じ日に提出しても、それぞれ別の書類として扱われるという意味でしょうか」


 アルフォンスは返書へ目を向け、慎重に答えた。


「少なくとも、本人の意思を示す書面と、家として事情を説明する書面を混同しないように、という意味だと考えられる。ただ、同じ日に提出することが必須なのか、別々でもよいのかについては、この文章だけで断定しない方がいいだろう」


「そうなのですね」


 エレノアは考え込むように視線を落とした。


「私は、叔父様が用意してくださる説明書も、提出前に確認したいと思っています。そのお約束は、今も変わりませんでしょうか」


「もちろんだ。君に見せずに提出するつもりはないよ」


 アルフォンスは迷わず答えた。


「説明書には、ベルナール家から受諾の返書が送られた経緯と、ロシュフォール家が把握している事情を整理することになる。君自身の意思を代わりに決めるものではないし、君が読んで気になる部分があれば、提出前に話し合おう」


 エレノアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


「ありがとうございます。私、そのことをとても大切にしたいのです」


「分かっているよ」


 アルフォンスは穏やかに頷いた。


 エレノアは続いて、受領記録について尋ねた。


「こちらには、受領されたことと、内容について判断が下されることは別だと書かれていますね。では、私の拒否声明を提出して受け取っていただけたとしても、それだけで婚約について何かが決まるわけではないのですね」


「そうだね。今回の回答から言えるのは、提出された書面が受領されたことを記録できる、というところまでだ。その先の扱いについては、別の判断や手続きが必要になる可能性がある」


 エレノアは静かに頷いた。


 自分の意思を記録へ残すこと。


 そして、その意思が婚約の扱いへどのように反映されるのか。


 その二つは、同じではない。


 分かっていたつもりだったが、改めて説明を受けると、まだ越えなければならない段階があるのだと感じられた。


「それでも、私は提出したいと思っています」


 エレノアは書簡へ目を落としながら、静かに言った。


「今すぐ署名するという意味ではありません。まだ確認したいこともありますし、叔父様の説明書も読ませていただきたいです。でも、私が婚約を望んでいないということを、正式な記録として残したい気持ちは変わっていません」


 その言葉に、アルフォンスは深く頷いた。


「君の意思は、きちんと受け止めているよ。だからこそ、次の手順も急がずに考えよう」


 セドリックも穏やかな声で続けた。


「エレノア。今日の返書で分かったことは増えたけれど、まだ分からないこともある。だから、今日すべてを決めなくてもいいんだよ」


 エレノアは二人を見つめ、小さく微笑んだ。


「はい。ありがとうございます、お兄様」


 けれど、そのあと彼女は少し迷いながら、もう一度書簡へ目を向けた。


 閲覧範囲についての文章が、どうしても気になっていた。


「叔父様。最後に、もう一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろんだよ」


「書類を取り扱う方の範囲を、あらかじめ完全に限定することはできないとあります。では、私が提出した書面を、どなたが読むことになるのかは、今の段階では分からないのですね」


 アルフォンスは少し間を置いてから答えた。


「そうだね。必要な手続きに関わる部署で扱われる可能性がある、というところまでしか示されていない。具体的に誰が閲覧するかについては、この返書だけでは分からない」


 エレノアは頷いた。


 予想していた答えだった。


 それでも、実際に聞くと胸の奥が少し冷たくなった。


(分からないことは、分からないままなのね。でも、だからといって、私の意思を届けることを諦めたくはないわ)


 彼女は膝の上で手を重ね、静かに呼吸を整えた。


 アルフォンスはその様子を見守りながら、無理に言葉を重ねなかった。


 エレノアが何を恐れているのか、彼にはすべては分からない。


 けれど、彼女が不安を抱えながらも、自分の意思を伝えようとしていることは分かっていた。


 その姿を前にして、軽々しく大丈夫だと言うことはできなかった。


 だからこそ、彼は確かに言えることだけを伝えようとした。


「エレノア。閲覧する人の範囲を完全に限定できないという点について、君が不安に思うのは自然なことだと思う。私たちも、必要な手続きの範囲をできるだけ確かめたい。ただ、今の時点で分からないことを、分かったように伝えるつもりはないよ」


 エレノアは顔を上げた。


 叔父の表情は真剣だった。


「ありがとうございます、叔父様。私も、分からないことを勝手に決めつけたくはありません」


 彼女は少し考えたあと、続けた。


「今日の返書は、もう一度ゆっくり読みたいです。それから、私が何を確認できたのか、何がまだ分からないのかを、自分でも整理してみたいと思います」


「それがいいだろう。写しを用意するから、君の部屋で読めるようにしよう。ただし、原本はこちらで保管しておくよ」


「はい。お願いいたします」


 アルフォンスは頷き、書簡を丁寧に手元へ戻した。


 エレノアは椅子から立ち上がる前に、もう一度二人へ頭を下げた。


「叔父様、お兄様。今日も一緒に考えてくださって、ありがとうございました」


 セドリックは穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ、エレノア。君が何を大切にしたいのか、きちんと話してくれて嬉しいよ」


 アルフォンスも静かに頷いた。


「次のことは、返書を読み直してから考えよう。君の署名を急がせるつもりはないからね」


 エレノアはその言葉を胸に留め、執務室をあとにした。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアの自室へ、王宮からの返書の写しが届けられた。


 リディアが机の上を整え、書類を置く場所を用意してくれる。


 エレノアは礼を言い、椅子へ腰を下ろした。


 机の上には、以前から保管している拒否声明の控えがある。


 その文章は、今も変わっていない。


『私は、第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約を望んでおりません。』


『ベルナール家から婚約受諾の返書が送られたことは、あとから知らされました。しかし、私はその返書が送られる前に、婚約を受け入れる意思を示しておりません。』


『どうか、ベルナール家からの返書と、私自身の意思を同じものとして扱わず、私が婚約を望んでいないことを、記録の上でも明らかにしていただきたく存じます。』


 エレノアは三つの文章を読み返し、静かに息を吐いた。


 何度読んでも、そこに込めた意思は変わらない。


 彼女は第二王子との婚約を望んでいない。


 父が返書を送ったことは、自分の意思ではない。


 その違いを、正式な記録の上でも明らかにしてほしい。


 それだけは、どうしても譲れなかった。


 けれど、今日届いた王宮の返書によって、その意思を届けるための方法が少し具体的になった。


 正式な提出先。


 署名と日付。


 ロシュフォール家の説明書との区別。


 受領記録の意味。


 そして、閲覧範囲についての限界。


 エレノアは手帳を開き、今日分かったことを一つずつ書き留めていった。


 その途中で、ふと筆が止まった。


(私は、今もベルナール家の娘なのよね)


 ロシュフォール家への養子縁組については、すでに必要な書類への署名を済ませている。


 けれど、正式な手続きはまだ完了していない。


 今の自分の姓は、ベルナールのままだった。


 エレノアはその事実を改めて確かめるように、手帳の端へ自分の名前を書いた。


 エレノア・ベルナール。


 その文字を見つめると、胸の奥に複雑な感情が広がった。


 ベルナール家で過ごした日々には、忘れたくても忘れられないことがある。


 父の返書。


 母の遺品の行方。


 自分の意思を聞いてもらえなかった記憶。


 けれど、今の名前を嫌うだけでは、自分の過去そのものを否定してしまうような気もした。


 母アデラインが、自分を大切にしてくれた時間も、その名前とともにあったのだから。


(この名前で過ごしてきた時間のすべてが、嫌なことばかりだったわけではないのよね)


 エレノアは筆を置き、しばらく文字を見つめた。


 いつか正式にロシュフォール家の一員となり、姓が変わる日が来るかもしれない。


 けれど、今はまだその途中にいる。


 だからこそ、今の自分の名前で、自分の意思を残すことには意味があるように思えた。


 誰かが代わりに決めた言葉ではなく、自分で考え、自分で選んだ言葉を。


 エレノアは手帳の頁をめくり、今日の最後の一文を書き加えた。


『私の意思は、私自身の名前で届けたい。』


 その文字を書き終えると、彼女はしばらく筆先を見つめていた。


 王宮からの返書が届いたことで、次の手続きへ進むための道筋は少し見えてきた。


 けれど、まだ署名はしていない。


 ロシュフォール家の説明書も、最終的な内容を確認する必要がある。


 閲覧範囲についての不安も、完全には消えていない。


 それでも、エレノアは今日、自分が何を大切にしたいのかを改めて確かめることができた。


 彼女は手帳を閉じ、机の上にある刺繍箱へ目を向けた。


 未完成の青い花は、今日もそこにある。


 少しずつ形を整えながら、いつか自分の望む花へ近づけていくもの。


 その姿が、今の自分と少し似ているように感じられた。


 エレノアは刺繍箱の蓋へそっと手を置き、静かに微笑んだ。


 王宮からの返答は届いた。


 けれど、物語はまだ終わっていない。


 自分の意思を正式に届けるために、これからも考えなければならないことがある。


 そして、その先には、まだ自分でも知らない未来が続いている。


 エレノアは窓の外へ目を向けた。


 秋の夕暮れが庭園を柔らかな色に染め、遠くの木々の向こうへ日が沈もうとしていた。


 その景色を眺めながら、彼女は静かに思った。


(私は、もう誰かに決められた未来を、ただ受け入れるだけではいたくない。これからも、私自身の言葉で、私が望む道を選んでいきたい)


 胸の奥には、まだ不安が残っている。


 けれど、その不安だけが彼女のすべてではなかった。


 祖母と学んだ布のこと。


 庭園で見た青紫の花。


 叔父とセドリックが、彼女の言葉を待ってくれた時間。


 そうした一つ一つが、今のエレノアを支えていた。


 やがて夕暮れの光が薄くなると、彼女は書類を丁寧に整え、机の上の書類立てへ戻した。


 明日、もう一度読み返そう。


 そして、必要なら叔父へ相談しよう。


 そう決めて、エレノアは静かに椅子から立ち上がった。


 窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。


 まだ答えの出ていないことは多い。


 それでも、彼女は今日、自分の名前で残したい言葉を、以前よりもはっきりと見つめることができたのだった。

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