第98話 まだ答えのない手紙と、私が初めて選んだ小さな役割
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には柔らかな秋の日差しが広がっていた。昨日の朝に庭園を包んでいた霧は見られず、遠くの木々まで輪郭がはっきりと見えている。枝先に残った紅葉が風に揺れるたび、朝の光を受けた葉が小さく輝き、寝室の窓辺にも淡い金色の光が差し込んでいた。
エレノアは寝台の上でゆっくりと身体を起こし、しばらく庭園を眺めていた。昨日、王宮へ送った問い合わせが正式に受領されたと知らされてから、胸の奥にあった緊張は少しだけ形を変えている。手紙が届いたかどうかを心配する必要はなくなったものの、今度はその内容がどのように扱われるのかが気になっていた。
(受け取っていただけたのだから、次はお返事を待つことになるのよね。でも、王宮のお仕事にはいろいろな手続きがあるでしょうし、今日すぐに何か分かるとは限らないわ)
エレノアはそう考えながら、掛け布の上に置いた手をゆっくりと握った。自分の意思で送ることを決めた問い合わせであっても、その先にある王宮の動きまでは自分で決められない。かつての人生では、そうした自分の手の届かない場所で物事が進んでいくことが、取り返しのつかない結果へつながった。
けれど、今回は何も知らないまま待たされているわけではなかった。
どのような質問を送ったのか、エレノアは知っている。王宮で受領されたことも確認できている。そして、返答が届いたら内容を見せてもらい、そのうえで拒否声明の提出について改めて判断するという約束もある。
(私が知らないことは、まだたくさんある。でも、知らないままでいていいと決められているわけではないのよね)
その違いを確かめるように、エレノアは窓辺へ視線を向けた。
庭園の南側では、庭師たちが落ち葉を集めている姿が小さく見えた。風が吹くたびに新しい葉が舞い落ちるため、片づけた場所にもすぐに色づいた葉が散らばっていく。それでも庭師たちは慌てることなく、通路を塞がないように葉を寄せ、木々の根元に残すものと取り除くものを分けているようだった。
その様子を眺めているうちに、エレノアの心にふと別の考えが浮かんだ。
(王宮からのお返事を待っているあいだ、私は何をしていたいのかしら)
何もしないで過ごすことが悪いわけではない。刺繍をしたり、祖母と話したり、庭園を眺めたりする時間も、彼女にとっては大切なものだった。
けれど、今朝はそれだけではない何かを考えてみたい気持ちがあった。
ロシュフォール家で暮らし始めてから、エレノアは多くの人に支えられてきた。祖父母は彼女を温かく迎え、叔父は王宮とのやり取りや書類の確認に力を尽くしてくれている。セドリックは何かと気にかけてくれ、リディアは日々の暮らしを支えてくれていた。
書庫ではエレーヌやマルタが、傷んだ記録を守りながら調査を続けている。
庭園ではギュスターヴが、危険な石畳を確認し、安全に歩ける場所を知らせてくれていた。
その一つ一つを思い浮かべるうちに、エレノアは自分が何かを受け取るばかりではなく、この屋敷の中でできることを探してみたいと思った。
もちろん、まだ十五歳の彼女が、屋敷の仕事を急に引き受けられるわけではない。家政や領地の管理について十分な知識があるわけでもなく、今の立場も正式な養子縁組が完了したものではなかった。
それでも、自分にできる小さなことなら、きっとあるはずだった。
扉が控えめに叩かれ、リディアが朝の支度のために入室してきた。
「おはようございます、エレノア様。今朝はよいお天気でございますね。庭園の石畳も昨日より乾いているようですが、東側の道については引き続き立ち入りを控えるよう、ギュスターヴさんから申し送りがございました」
「おはよう、リディア。ありがとう。東側の道は、まだ調べていただいている途中なのよね」
「はい。表面だけでなく、石の下の状態も確かめる必要があるとのことでございます。見た目には乾いていても、安全と判断できるまでは通らない方がよろしいそうです」
エレノアは頷き、寝台から降りた。
リディアが用意してくれた衣装は、秋らしい落ち着いた色合いのものだった。薄い上着も添えられており、朝晩の冷え込みに合わせて調整できるようになっている。
支度を手伝ってもらいながら、エレノアは先ほど思いついたことを口にした。
「ねえ、リディア。少し相談してもいいかしら」
「もちろんでございます。何かお困りのことがございましたか」
「困っているというほどではないのだけれど……私、この屋敷で何かできることがないか、考えていたの」
リディアは髪を整えていた手を一度止め、鏡越しにエレノアの表情を見た。
「エレノア様が、何かお手伝いをなさりたいということでしょうか」
「ええ。でも、使用人の皆さんのお仕事を奪いたいわけではないのよ。私が勝手に何かを始めたら、かえってご迷惑になるかもしれないでしょう。それに、何ができるのかも、まだよく分からなくて」
エレノアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「だから、まずは皆さんがどんなことをしていらっしゃるのか、もう少し知りたいと思ったの。今までお世話になるばかりだったから、知らないことがたくさんあるのだと気づいてしまって」
リディアはしばらく考えてから、穏やかな声で答えた。
「それでしたら、まずはマルグリット様にご相談なさってはいかがでしょう。屋敷のお仕事には、それぞれ担当する方や手順がございますから、エレノア様がご興味をお持ちのことについて、きっとよいお話をしてくださると思います」
「そうね。お祖母様なら、私が何を学べるのかも教えてくださるかもしれないわ」
「はい。ただ、どうか無理をなさらないでくださいませ。何かをなさることだけが、こちらで過ごす意味ではございませんから」
リディアの言葉に、エレノアは静かに頷いた。
彼女は何かの役に立たなければ、ここにいてはいけないと思っているわけではなかった。
そうではなく、この場所をもっと知りたかった。
自分を迎えてくれた人たちが、どんな思いで日々を過ごしているのかを。
そして、いつか自分自身も、この屋敷で過ごす時間を誰かと分かち合えるようになりたかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の冬支度について話していた。
東側の通路は引き続き調査が必要で、石畳の一部については下の地面の状態を確かめる準備が進められているという。ギュスターヴからは、庭園全体を閉鎖する必要はないものの、安全が確認できていない場所へ近づかないよう、改めて使用人たちへ伝えているとの報告があったそうだ。
「今年は雨のあとに地面の湿りが残る場所があるからね。石を一枚直して終わり、というわけにはいかないかもしれない。原因を見てから、必要な範囲を決めるつもりだよ」
オーギュストがそう説明すると、マルグリットは頷いた。
「急いで直して、また同じことになっては困りますものね。庭園を楽しむためにも、まずは安全を確かめていただきたいわ」
エレノアは二人の話を聞きながら、窓の外の明るい庭園を思い浮かべた。
危険な場所があるからといって、庭園全体を使えなくする必要はない。けれど、見た目に問題がなさそうだからといって、確かめずに歩いてよいわけでもない。
何かを守るためには、見えないところまで考えなければならないのだと感じられた。
やがて食事が進み、話題が冬用の布や衣類の手入れへ移ったところで、エレノアは祖母へ声をかけた。
「お祖母様。朝食のあと、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。お尋ねしたいことがあるのです」
マルグリットはすぐに顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「もちろんよ、エレノア。何かしら」
「この屋敷のお仕事について、少し教えていただきたいと思っているのです。私にも学べることがあるのではないかと考えていて……」
その言葉に、食卓の空気がわずかに変わった。
オーギュストは意外そうに眉を上げ、アルフォンスは手にしていた茶器を静かに置いた。セドリックもエレノアへ視線を向けたが、誰もすぐには口を挟まなかった。
マルグリットは、エレノアの表情をしばらく見つめてから尋ねた。
「屋敷のお仕事に興味を持ったのね。何か、特にやってみたいことがあるのかしら」
「まだ、はっきりとは分かりません。皆さんがどのようなお仕事をしていらっしゃるのかも、十分には知らないので。ただ、何かを始める前に、まず知ることから始められたらと思ったのです」
エレノアは少し言葉を選びながら続けた。
「今の私には、難しいことを任せていただけるだけの知識はありません。でも、ここで暮らしているのですから、少しずつ覚えていきたいと思って……。もちろん、ご迷惑になるようなことはしたくありません」
マルグリットは目を細め、静かに頷いた。
「とてもよい考えだと思うわ。ただ、一つだけ先に伝えておきたいことがあるの。あなたがこの屋敷で何かをしなければならないから、ここにいるわけではないのよ」
その言葉に、エレノアは思わず祖母の顔を見つめた。
マルグリットの表情には、厳しさではなく、深い愛情があった。
「あなたが何かを学びたいと思うなら、わたくしたちは喜んで力になるわ。でも、それは義務ではなく、あなた自身が選ぶことなの。疲れた日には休んでいいし、興味が変わることがあっても構わないのよ」
「はい、お祖母様。ありがとうございます」
エレノアは小さく微笑んだ。
「私も、何かをしなければならないと思っているわけではないのです。ただ、皆さんのお仕事を知ることで、この屋敷のことをもっと好きになれるような気がして」
その言葉を聞いたオーギュストが、嬉しそうに笑った。
「それなら、ぜひいろいろ見てみるといい。もっとも、私が最初に案内すると、庭園や古い書類の話ばかりになってしまうかもしれないがね」
「あなた、それではエレノアが一日中お話を聞くことになってしまうでしょう」
マルグリットが穏やかにたしなめると、食卓に柔らかな笑いが広がった。
セドリックも笑みを浮かべながら、エレノアへ声をかけた。
「祖父上のお話は面白いけれど、確かに長くなることがあるからね。まずは祖母上に相談して、少しずつ見せてもらうのがいいと思うよ」
「まあ、セドリックまでそんなことを言うのかい」
オーギュストは困ったような顔をしたが、その声には楽しげな響きがあった。
アルフォンスは家族のやり取りを見守りながら、エレノアが自分から新しいことを望んだという事実を静かに受け止めていた。
王宮への問い合わせを送るまで、彼女は何度も自分の意思を確かめていた。
その一方で、最近は刺繍や庭園、祖母との時間についても、自分から希望を口にすることが増えている。
アルフォンスには、それが単なる気晴らしとは思えなかった。
エレノアは今、自分がどのように暮らしたいのかを、少しずつ考え始めているのだろう。
彼はその変化を嬉しく感じながらも、必要以上に意味づけることはせず、娘のように大切に思う姪の言葉をそのまま尊重したいと考えていた。
◇ ◇ ◇
朝食後、エレノアはマルグリットとともに小さな居間へ移った。
窓辺には秋の日差しが差し込み、昨日選んだ膝掛けの布が小卓の上に整えられている。マルグリットは椅子へ腰を下ろすと、向かい側の席をエレノアに勧めた。
「さて、エレノア。屋敷の仕事について知りたいということだったわね。最初に聞いておきたいのだけれど、あなたはどんなことに興味があるのかしら」
エレノアは少し考えた。
家政の仕事といっても、彼女が思い浮かべられるのは、食事の準備や衣類の管理、部屋の清掃、来客への対応といったことくらいだった。
それらがどのように分担され、誰が何を確認しているのかまでは知らない。
「そうですね……。衣類や布の管理について、少し興味があります。刺繍をしているからかもしれませんが、どんな布を選ぶのか、傷んだものをどう直すのかといったことを知ってみたいです」
「なるほど。それなら、昨日の膝掛けの話から始めるのもよさそうね」
マルグリットは小卓の上の布を手に取り、エレノアの前へ広げた。
「こうして家族が使うものを直す場合、見た目だけでなく、布の丈夫さや手触り、洗ったあとの状態なども考える必要があるの。使う人が心地よく過ごせることが、何より大切だからね」
エレノアは頷き、祖母が示した布へ指先を伸ばした。
昨日は色の違いばかりを見ていたが、改めて触れてみると、二枚の布には柔らかさにも違いがあった。
一枚は薄くしなやかで、もう一枚は少し厚みがあり、しっかりした手触りをしている。
「本当ですね。色だけでは分からないことがあるのですね」
「ええ。例えば、こちらの布は見た目にはよく合うけれど、元の膝掛けより少し硬いでしょう。縁に使うなら問題がないかもしれないけれど、身体に触れる部分へ使うと、気になる人もいるかもしれないわ」
マルグリットは布を重ねながら説明した。
「だから、何に使うのか、誰が使うのかを考えて選ぶのよ。屋敷の仕事には、こうした小さな判断がたくさんあるの」
エレノアは真剣な表情で話を聞いた。
美しい布を選ぶだけなら、自分の好みで決めることもできる。
けれど、誰かが使うものを選ぶなら、その人の気持ちや使い心地まで考えなければならない。
その違いは、彼女にとって新鮮だった。
「お祖母様。では、もし私がこの膝掛けの補修をお手伝いするなら、最初に何をすればよいのでしょう」
マルグリットは少し驚いたように瞬きをしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「そうね。まずは、傷んでいる場所を一緒に確かめてみましょうか。ただし、まだ縫い始める必要はないわ。どこを直すのか、どこはそのまま残せるのかを見て、それから方法を考えましょう」
「はい。ぜひ教えてください」
エレノアは身を乗り出しそうになったが、祖母の膝掛けを乱さないよう、そっと姿勢を整えた。
マルグリットはその様子を微笑ましく見守りながら、膝掛けの縁を少しずつ広げていった。
布の一部には糸が擦り切れ、縁の折り返しが緩んでいるところがあった。
しかし、全体が傷んでいるわけではない。
長く使われてきたものだからこそ、丈夫な部分も多く残っていた。
「ここを見てごらんなさい。縁の糸が少し弱くなっているでしょう。でも、その内側の布はまだしっかりしているの。だから、全部を取り替える必要はないと思うのよ」
エレノアは慎重に布を見つめた。
「本当ですね。傷んでいるところだけを直せば、まだ長く使えそうです」
「そうでしょう。大切なのは、何でも新しくすることではなく、今あるものの状態を知ることなの」
祖母の言葉を聞きながら、エレノアは母の遺品のことを思い浮かべた。
傷んだ衣類記録も、無理に開けば失われてしまうかもしれない。
だからこそ、エレーヌたちは保存について相談しようとしている。
古いものを大切にするという点では、膝掛けの補修と書庫の仕事にも、どこか通じるものがあるように思えた。
ただ、エレノアはその場で二つを結びつけて結論を出そうとはしなかった。
目の前にある膝掛けには、膝掛けとしての使い方がある。
傷んだ記録には、記録として守るべきものがある。
似た考え方が役立つことはあっても、それぞれに必要な知識や方法は違うのだろう。
「お祖母様。こういうことを学ぶには、やはり時間がかかるのでしょうね」
「そうね。けれど、最初から何もかも覚える必要はないのよ。今日は、この膝掛けの傷んだ場所を見つけられたでしょう。それだけでも、一つ新しいことを知ったのだから」
マルグリットはそう言って、エレノアの手を優しく包んだ。
「何かを学ぶときには、できないことを数えるより、今日分かったことを大切にするといいわ。そうして少しずつ覚えていけば、いつか自分で判断できることも増えていくものよ」
エレノアは祖母の手の温かさを感じながら、静かに頷いた。
王宮への手続きも、母の遺品の調査も、すぐにすべてが分かるわけではない。
けれど、今日こうして新しいことを学ぶ時間は、誰かから返事が届くのを待つだけの時間とは違っていた。
彼女は、自分で望んだことに向かって、小さな一歩を踏み出しているのだった。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアは祖母から教わったことを忘れないよう、自室の手帳へ書き留めていた。
布を選ぶときには、色だけでなく、厚みや手触り、使う場所を考えること。
傷んだ部分を確かめてから、どこまで補修するかを決めること。
まだ丈夫な部分を、必要もないのに取り替えないこと。
どれも当たり前のように聞こえるかもしれないが、実際に布を見ながら教わったことで、エレノアには新鮮な発見として感じられた。
彼女は筆を置き、机の上にある刺繍箱へ目を向けた。
未完成の青い花の刺繍は、まだ青い糸だけで形づくられている。
別の布で試した青紫の糸は、光の当たり方によって印象が変わるため、どの程度加えるか決めかねていた。
エレノアは刺繍箱を開き、試し布を取り出した。
今日は日差しが明るく、昨日の夕方とは色の見え方が違っていた。
青い花びらの中心近くへ、ほんの少しだけ紫を加えた布。
それよりも紫を多く使った布。
そして、青い糸だけで縫われた本番の刺繍。
三つを並べて眺めていると、エレノアはあることに気づいた。
(私は、どの色がいちばん美しいかを決めようとしていたのね。でも、私が作りたい花は、必ずしも一番華やかな花ではないのかもしれない)
彼女は試し布を手に取り、窓から差し込む光へかざした。
紫を多く使った方は、花の中心がはっきりと目立つ。
一方、少しだけ紫を加えた方は、青い花びらの柔らかさが残り、近くで見たときに初めて色の違いが分かるようだった。
どちらも好きだった。
けれど、今の自分が作りたい花に近いのは、後者のように思えた。
エレノアはしばらく迷ったあと、本番の刺繍へ目を戻した。
ここで紫を加えれば、もう青い糸だけの状態には戻せないかもしれない。
もちろん、糸をほどくことはできるだろうが、布に跡が残る可能性もある。
だからこそ、これまでは試し布だけで色を確かめてきた。
けれど、今日は少し違った気持ちになっていた。
(もう少しだけ、進めてみてもいいかもしれないわ)
エレノアはそう考えたものの、すぐに針を持つことはしなかった。
祖母から教わったばかりのことを思い出し、まずは布全体を広げて、花のどの部分へ紫を加えたいのかを確かめる。
青い花びらは、まだ完成していない。
中心の形も、これから少しずつ整えていくところだった。
今すぐ紫を加えるより、青い部分をもう少し縫い進めた方が、全体の形を見ながら判断できるかもしれない。
エレノアは小さく微笑み、青い糸を針へ通した。
今日は、色を決めるために急ぐのではなく、自分の花を少しだけ完成へ近づけよう。
そう思いながら、布へ針を落とした。
窓辺には柔らかな日差しが差し込み、庭園からは遠く鳥の声が聞こえていた。
リディアが用意してくれた茶は、小卓の上で温かな湯気を立てている。
エレノアは針を進めながら、花びらの輪郭を少しずつ整えていった。
糸を引く力が強すぎれば布が寄ってしまうため、手元の様子を確かめながら、ゆっくりと縫い進める。
青い糸が重なり、花びらの形がわずかに広がっていく。
それは誰かに命じられた仕事ではなかった。
自分で選び、自分の手で進めているものだった。
エレノアはそのことを、静かな喜びとして感じていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ロシュフォール邸の書庫では、エレーヌ・フォシェがアルフォンスから返された保存相談の資料を確認していた。
昨日提出した整理資料には、相談先へ伝える情報の範囲について、いくつか確認事項が加えられている。
傷んだ衣類記録の保存について相談すること自体は認められていたが、原本を屋敷の外へ持ち出すことや、内容を広く共有することについては、別途判断が必要とされていた。
エレーヌはその方針を読み、静かに頷いた。
「マルタ、こちらを見てください。アルフォンス様から、相談を進める際の確認事項が戻ってきました。まずは、紙の状態について助言をいただける方へ、どのような形で相談できるのかを確かめることになりそうです」
マルタは机の向かい側から身を乗り出し、資料へ目を向けた。
「では、すぐに原本をお見せするのではなく、最初は状態の説明と相談方法について尋ねるのですね」
「ええ。今の段階では、どなたにお願いするのが適切かも最終的には決まっていませんから。相談先を選ぶ際には、紙の保存について十分な知識があることだけでなく、古い記録をどのように扱う方なのかも確認したいと思っています」
エレーヌはそう答え、机の上に置かれた転記資料へ目を向けた。
傷んだ衣類記録には、まだ開かれていない頁が残っている。
その中に何が書かれているのかは分からない。
エレノアの行方不明の衣装に関係する記述があるかもしれないし、まったく別の衣類整理について記されている可能性もある。
けれど、記録を守ることができなければ、その答えを確かめる機会そのものが失われてしまう。
「マルタ。相談先へ送る説明文には、今のところ読めている内容を必要以上に詳しく書かないようにしましょう。まずは紙の傷み方と、これ以上開くことを控えている理由を中心にまとめたいと思います」
「承知いたしました。文字の内容については、保存方法を考えるうえで必要になったときに、改めて確認するのですね」
「そうです。記録の内容を調べることと、記録を安全に扱うことは、関係していても同じ仕事ではありませんから」
マルタは頷き、相談文案の最初の一文を書き始めた。
窓の外では、秋の風が木々の葉を揺らしている。
書庫の中は静かだったが、二人の仕事は少しずつ前へ進んでいた。
まだ新しい頁を開いたわけではない。
新しい証拠が見つかったわけでもない。
それでも、次に何を確かめるべきかは、以前よりも具体的になっていた。
エレーヌは、傷んだ記録を安全に扱える方法が見つかることを願いながら、マルタの書いた文案を丁寧に読み始めた。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、エレノアはセドリックと廊下で顔を合わせた。
彼はアルフォンスの執務室から戻る途中だったらしく、手には数枚の書類を収めた紙挟みを持っていた。
「エレノア。今日は祖母上と何か新しいことを始めたんだってね」
セドリックが微笑みながら声をかけると、エレノアは少し照れたように頷いた。
「はい、お兄様。お祖母様に、布の選び方や、傷んだものを直すときに考えることを教えていただきました。まだ本当に初歩的なことだけなのですが、とても面白かったです」
「それはよかった。祖母上は昔から、布や刺繍のことになると楽しそうに話すからね。君もきっと、いろいろ教えてもらえると思うよ」
エレノアは嬉しそうに微笑んだが、すぐに少し考えるような表情になった。
「お兄様。私、今まで何かを教えていただくとき、できるだけ早く覚えなければと思っていた気がするのです。でも、今日はお祖母様が、少しずつでよいとおっしゃってくださって……。それが、とても嬉しかったのです」
セドリックは彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。
「祖母上らしい言葉だね。僕も子どもの頃、何かを覚えようとして失敗すると、よく同じようなことを言われたよ」
「お兄様にも、そういうことがあったのですか」
「もちろん。今でも知らないことはたくさんあるし、父上に教えてもらうことも多いよ。僕だって、最初から何でもできたわけじゃない」
セドリックは少し笑い、紙挟みを持ち直した。
「それに、何かを覚えることは、誰かと競争することではないからね。エレノアが自分で興味を持ったことなら、自分の速さで進めればいいと思う」
その言葉に、エレノアはゆっくりと頷いた。
自分の速さで進める。
今の彼女には、その言葉がとても大切なものに思えた。
「ありがとうございます、お兄様。私、今日は刺繍も少し進めたのです。まだ紫の糸は加えていないのですが、青い花びらの形を整えてみました」
「それなら、また見せてもらえる日を楽しみにしているよ。以前よりも、少しずつ花の形が変わっているんだろうね」
「はい。完成まではまだ時間がかかりそうですが、今はその時間も楽しみたいと思っています」
セドリックは微笑み、エレノアの表情を見つめた。
彼女は以前よりも、自分が何をしたいのかを自然に話すようになっている。
それは、彼にとって嬉しい変化だった。
ただ、彼はその変化を急いで大きな意味へ結びつけようとはしなかった。
エレノアが自分の望みを言葉にできるようになったこと。
そして、その望みを周囲の人たちが大切に受け止めていること。
今は、それだけで十分だと思えた。
「そうだ、エレノア。王宮からの返答については、今日のところ新しい報告はないよ。父上も、何か分かれば君に伝えるつもりでいるから、心配しすぎなくて大丈夫だと思う」
セドリックがそう付け加えると、エレノアは少しだけ表情を引き締めた。
けれど、すぐに落ち着いた声で答えた。
「ありがとうございます。昨日、王宮へ届いたことは確認できましたものね。今は、お返事を待つ時間なのだと思っています」
「うん。それでいいと思うよ」
セドリックは頷き、彼女と別れた。
エレノアはその背中を見送りながら、胸の奥に残る緊張を確かめた。
王宮からの返答は、まだない。
けれど、今日は新しいことを学び、自分の刺繍を少し進めることができた。
その二つは、どちらも確かな出来事だった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、マルグリットがエレノアと一緒に膝掛けの補修について考えたことを、嬉しそうに家族へ話していた。
「エレノアは、布の色だけでなく、手触りや厚みにもよく気づいてくれたのよ。わたくしも一緒に考えていて、とても楽しかったわ」
その言葉に、エレノアは少し恥ずかしくなり、茶器へ視線を落とした。
「お祖母様が丁寧に教えてくださったからです。私はまだ、知らないことばかりで……」
「知らないことがあるのは当然だよ」
オーギュストが穏やかに言った。
「何かを知りたいと思ったなら、それはよい始まりだ。庭園のことでも、書類のことでも、興味があるものがあれば、いつでも尋ねてくれて構わないからね」
「ありがとうございます、お祖父様」
エレノアは微笑み、祖父へ頷いた。
アルフォンスも、そのやり取りを見守りながら口を開いた。
「ただし、書類については扱い方に決まりがあるものも多いから、何かを見たいときには必ず相談してほしい。特に古い記録は、傷みが進んでいる場合もあるからね」
「はい、叔父様。勝手に触れたりはいたしません」
エレノアは真剣に答えた。
傷んだ衣類記録については、まだ専門家の助言を待つための準備が進められている段階だ。
そこに何が書かれているのかを知りたい気持ちはある。
けれど、知りたいという気持ちだけで原本を傷つけてしまっては、取り返しがつかない。
そのことは、彼女自身もよく理解していた。
夕食後、エレノアは祖母と少しだけ居間で過ごし、膝掛けの補修について次に何をするか相談した。
まずは、傷んでいる部分をもう一度確かめ、補修に使う布を必要な大きさに合わせてみることになった。
実際に縫い始めるかどうかは、そのあとで決める。
エレノアは、その進め方が気に入った。
何かを始めるとき、最初から最後まで決めてしまう必要はない。
今分かっていることをもとに、次にできることを考えればよいのだ。
祖母と別れたあと、エレノアは自室へ戻り、今日の出来事を手帳へ書き留めた。
王宮からの新しい返答はなかったこと。
祖母から布の選び方を教わったこと。
膝掛けの補修について、まず傷んだ場所を確かめることになったこと。
そして、青い花の刺繍を少しだけ進めたこと。
それらを書き終えると、彼女は筆を置き、しばらく頁を眺めていた。
(今日は、何か大きな出来事があったわけではないのね。でも、私が自分で望んだことを、一つ始めることができたわ)
その事実が、胸の奥を静かに温めた。
王宮からの返答を待つ時間は、まだ続いている。
婚約を望まないという自分の意思を、正式な記録として届けるためには、これからも確かめなければならないことがある。
父の返書がどのように扱われるのかも、まだ分からない。
母の遺品の行方についても、答えは出ていなかった。
けれど、エレノアの暮らしは、その答えが出るまで止まっているわけではなかった。
今日、祖母と並んで布を見比べた時間も。
セドリックと廊下で話した時間も。
窓辺で青い糸を縫い進めた時間も。
どれも、彼女自身が過ごした大切な一日の一部だった。
エレノアは手帳を閉じ、机の上にある書類立てへ目を向けた。
そこには、まだ署名していない拒否声明の控えが収められている。
彼女はそれを取り出さず、静かに見つめた。
その文章に込めた意思は、今も変わっていない。
けれど、その意思を守ることと、自分の毎日を大切にすることは、どちらか一方を選ぶものではない。
エレノアはそう考えながら、寝台へ向かった。
リディアが整えてくれた掛け布は柔らかく、秋の夜の冷え込みから身体を守ってくれる。
窓の外では、風に揺れる木々の音が静かに響いていた。
明日、王宮から返答が届くかどうかは分からない。
傷んだ記録について、新しい相談先が決まるかどうかも分からない。
けれど、明日には明日の時間がある。
祖母と膝掛けの布を見比べてもいい。
刺繍をもう少し進めてもいい。
あるいは、今日学んだことを思い返しながら、また別のことを知りたいと思うかもしれない。
エレノアは目を閉じ、静かに息を整えた。
かつての人生で、彼女は自分の未来を選ぶことができなかった。
けれど、今は違う。
大きな決断だけでなく、日々の小さな選択も、自分の手の中にある。
そのことを確かめながら、エレノアは穏やかな眠りへと落ちていった。




