第97話 返事を待つ朝に見つけた、私が知っておきたいもう一つのこと
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、ロシュフォール邸の庭園には薄い朝霧が漂っていた。窓の向こうに見える木々は輪郭を柔らかくぼかされ、枝先に残った赤や黄色の葉が、白い霧の中で淡く浮かび上がっている。
昨夜は比較的穏やかな気持ちで眠ることができたものの、目覚めてすぐ、エレノアの意識は昨日送り出した手紙へ向かった。王宮の儀典担当部署に宛てた問い合わせは、屋敷の使者へ託されたところまで確認できているが、王宮で受領されたという報告はまだ届いていない。
(もう王宮へ着いたのかしら。それとも、まだ途中なのかしら。受け取っていただけたとしても、すぐにお返事が来るわけではないのよね)
胸の奥に小さな緊張が生まれたが、エレノアはすぐに寝台から起き上がることはしなかった。窓の外を眺めながら、昨日アルフォンスに伝えた自分の言葉を思い返す。
手紙を送ってほしいと、自分でお願いした。
そこには後悔がなかった。
けれど、何かを自分で決めたからといって、その結果を待つことまで簡単になるわけではないらしい。
エレノアは掛け布の上へ両手を置き、ゆっくりと息を整えた。かつての時間で、知らないうちに物事が決められていった記憶は、今も彼女の心に深く残っている。
誰かが自分の名前を使って何かを決めてしまうこと。
自分の知らない場所で、自分に関わる書類が扱われること。
そして、何も知らされないまま、取り返しのつかないところまで進んでしまうこと。
その恐ろしさを知っているからこそ、今回の問い合わせについても、どうしても気になってしまうのだった。
しかし、昨日送った文書は、父ロベルトが勝手に送った婚約受諾の返書とは違う。エレノア自身が文章を読み、疑問を伝え、修正を確認したうえで送付を望んだものだった。
(同じように王宮へ向かう手紙でも、今回は違うのだわ。何が書かれているのか、私は知っている。どうして送ったのかも、自分で説明できる)
その違いを確かめるように、エレノアは胸元へ手を添えた。
やがて扉の向こうから控えめなノックが聞こえ、リディアが朝の支度を整えるために入室してきた。彼女は寝台の上で目を覚ましているエレノアを見ると、柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、エレノア様。今朝は庭園に霧が出ておりますが、昼頃には晴れる見込みだそうです。昨日よりも少し冷えますので、お召し物は暖かいものをご用意いたしました」
「おはよう、リディア。ありがとう。窓から庭園を見ていたのだけれど、今朝はいつもと少し違って見えるわね」
「ええ。木々の向こうが霞んでおりますから、庭園が普段よりも広く感じられますね。ただ、石畳が湿っている可能性もございますので、お散歩をなさる場合は、ギュスターヴさんに確認してからの方がよろしいかと存じます」
リディアの言葉に、エレノアは頷いた。
東側の石畳には、まだ修繕されていない危険な箇所がある。南側の道についても、朝霧で湿っているなら、普段と同じように歩けるとは限らなかった。
「そうね。今日は無理に外へ出なくてもいいわ。霧が晴れたら、窓からお花を見るだけでも楽しそうですもの」
「それでしたら、午後に日差しが戻ってから、窓辺で刺繍をなさるのもよろしいかもしれません。昨日の試し布も、また違った色に見えるでしょう」
エレノアは微笑み、寝台から降りた。
昨日は、王宮へ手紙を送るという大きな決断をした。
だからといって、今日も何か重大なことを決めなければならないわけではない。
そんなことを考えながら支度を進めていると、朝の冷たい空気の中にも、少しずつ穏やかな時間が戻ってくるように感じられた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、庭園の霧と、冬支度の話題が中心になっていた。
オーギュストは、朝のうちにギュスターヴから報告を受けたらしく、南側の道も霧が晴れて石の表面が乾くまでは、散歩を控えた方がよいと話していた。
「昨日までは歩けた道でも、今朝は条件が違うからね。ギュスターヴも、午前中にもう一度確かめると言っていたよ。急いで外へ出る必要はないだろう」
「そうですわね。エレノア、今日は暖かい部屋で過ごしましょう。わたくしも膝掛けの布をもう少し見比べたいと思っていたところですし、よろしければ午後にでも一緒に考えてくれるかしら」
マルグリットが微笑みかけると、エレノアは嬉しそうに頷いた。
「はい、お祖母様。昨日見せていただいた二枚の布、どちらも素敵でしたから、私ももう一度見てみたいです。今朝のように少し寒いと、冬の膝掛けが必要になる日も近いのだと感じますね」
「そうなのよ。まだ本格的な冬ではないけれど、寒くなってから慌てて直すより、今のうちに準備しておいた方がいいでしょう」
二人の会話を聞きながら、セドリックはエレノアの表情を確かめた。
昨日、問い合わせの送付を聞いたときには、彼女の指先が少し強張っていた。しかし今朝は、祖母との会話に自然な笑顔を見せている。
それでも、手紙のことを忘れているわけではないだろう。
セドリックは、彼女が自分から尋ねるまでは、王宮の話を持ち出さないことにした。
一方、アルフォンスは食事がひと段落したところで、昨日の送付記録について簡単に触れた。
「エレノア、問い合わせの件だけれど、今朝の時点では、まだ王宮で受領されたという報告は届いていないよ。使者からの確認が戻れば伝えるつもりだから、君が何度も尋ねに来る必要はない」
エレノアは少し驚いたように顔を上げた。
まさに気になっていたことだったが、自分から尋ねるべきか迷っていたところだった。
「ありがとうございます、叔父様。実は、朝から少し気になっていたのです。でも、何度もお尋ねしたら、お仕事の邪魔になってしまうかもしれないと思って……」
アルフォンスは穏やかに首を振った。
「気になるのは当然だよ。だから、こちらで確認できたことは伝えるようにしよう。ただし、報告がないことを、何か問題が起きた証拠だと考える必要もない。今は、まだ分からないというだけだからね」
その言葉に、エレノアはゆっくりと頷いた。
報告がない。
それは、届かなかったという意味ではない。
まして、王宮が問い合わせを拒んだという意味でもない。
彼女はその違いを胸の中で確かめ、少しだけ肩の力を抜いた。
「はい。では、報告が届くまでは、いつもどおり過ごすようにいたします」
「そうしてくれると嬉しいよ。返答を待つあいだも、君の時間は君のものだからね」
アルフォンスの言葉に、エレノアは微笑んだ。
食卓では再び冬支度の話題が続き、オーギュストが庭園の落ち葉をどう片づけるかについて話し始めた。マルグリットは、庭園の景色を楽しむために、すべての落ち葉を急いで取り除く必要はないのではないかと意見を述べている。
その穏やかなやり取りを聞きながら、エレノアは温かな茶を口にした。
今日という一日を、手紙の返事だけで埋め尽くさなくてもよい。
そのことを、彼女は少しずつ受け入れ始めていた。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室の机で、これまでに書き留めた手帳の内容を整理していた。
王宮への問い合わせについては、昨日の出来事をすでに記している。今日は新しい事実が増えていないため、同じことを書き直す必要はなかった。
代わりに、彼女は別の頁を開いた。
そこには、母アデラインの遺品や、自分の衣装に関する疑問が書き留められている。
行方の分からない五点の衣装。
母の野薔薇模様が彫られた木箱。
姿を消した肖像画。
幼い頃にセドリックから贈られた青い石の髪飾り。
そして、母が作った青い花の刺繍。
どれも、まだ見つかっていない。
エレノアは一つずつ目を通しながら、以前よりも自分が知っていることが増えた一方で、分からないこともはっきりしてきたと感じていた。
衣装については、もともと二十七着あったうち、八着が手元にないことが分かっている。そのうち三着は、本人の同意なくミレーヌのために仕立て直されたことが確認されているが、残る五着の行方は分かっていない。
傷んだ衣類記録には「五」という数字があった。
けれど、その数字が五着の衣装を指していると確かめられたわけではない。
エレノアはその部分に目を留め、筆を持ち直した。
(同じ数字だから、つながっているように思えてしまうのよね。でも、数字が同じだけでは、何も分かったことにはならないわ)
彼女は以前書いた「確認できたこと」と「考えられること」の区別を見直した。
傷んだ記録の一部に「西側保管」という文字があったことも、母の木箱がかつて西側の保管場所へ移されたことと、すぐに結びつけられるものではない。
木箱については、東側の衣装棚から西側の保管場所へ移されたという過去の記録がある。その後、本館へ運ばれたとヴァレリアが述べているものの、現在どこにあるのかは分かっていなかった。
一方、衣類整理控に書かれた「西側保管」が、同じ場所を指しているという証拠はない。
エレノアは二つの記述を見比べ、手帳の余白へ小さく書き添えた。
『場所の名前が似ていても、同じ場所とは限らない』
書き終えると、彼女は少しだけ息を吐いた。
以前なら、何かがつながりそうだと感じるだけで、すぐに答えを見つけたような気持ちになっていたかもしれない。
けれど、今は違う。
確かめられていないことを、確かめられたこととして扱いたくなかった。
そのとき、机の上に置かれた刺繍箱が目に入った。
エレノアは筆を置き、箱の蓋を開いた。
中には、未完成の青い花の刺繍と、色を試した小さな布が丁寧に収められている。
母の青い花がどのようなものだったのかは分からない。
けれど、エレノア自身の花は、少しずつ形になり始めていた。
彼女は試し布を取り出し、青と紫の糸の重なりを眺めた。
母の遺品を探すこと。
自分の手で新しいものを作ること。
その二つは、どちらか一方を選ばなければならないものではない。
そう思うと、胸の奥にあった小さな焦りが和らいだ。
「エレノア様、お茶をお持ちいたしました」
リディアの声が聞こえ、エレノアは顔を上げた。
「ありがとう、リディア。ちょうど少し休もうと思っていたところなの。手帳を見ていたら、思っていたよりも時間が経ってしまったわ」
リディアは盆を小卓へ置き、机の上に広げられた手帳と刺繍を見た。
「いろいろとお考えになっていらしたのですね。お疲れではございませんか」
「大丈夫よ。ただ、分からないことがたくさんあるのだと、改めて思っていたの。でも、今日は答えを出そうとしていたわけではないから」
エレノアはそう答え、手帳を閉じた。
リディアは安心したように微笑み、温かな茶を差し出した。
湯気とともに柔らかな香りが広がり、室内の冷たい空気が少し和らぐ。
エレノアは茶器を両手で包みながら、窓の外へ目を向けた。
朝の霧はすっかり晴れ、庭園には明るい日差しが戻っていた。
◇ ◇ ◇
その頃、屋敷の書庫では、エレーヌ・フォシェとマルタが保存相談に向けた資料の整理を進めていた。
机の上には、すでに確認した衣類記録の転記と、紙の傷みについて記した観察記録が並んでいる。原本の束は保管場所から取り出しておらず、追加の頁を開く作業も行っていなかった。
エレーヌは、昨日まとめた観察記録を読み返しながら、相談先へ伝えるべき内容を確認していた。
「まずは、紙の状態について分かっていることを整理しましょう。下端に傷みがあること、文字の一部が読みにくいこと、これ以上無理に開くと損傷するおそれがあること。この三点は、少なくとも伝えておく必要があります」
マルタは頷き、手元の紙へ丁寧に書き留めた。
「原本を動かさずに相談できるかどうかも、確認したいところですね。もし専門家の方に実物を見ていただく必要がある場合でも、こちらで勝手に移動させるわけにはまいりませんし」
「ええ。その点は特に慎重に考えたいと思っています。私たちは記録を読むために保存方法を知りたいのであって、読むために記録を傷めてしまっては意味がありませんから」
エレーヌはそう言い、観察記録の一箇所へ目を向けた。
以前読めた部分には「衣類整理控」という表題があり、「幼少時の衣類、保管分を別置」という記述が残されていた。
さらに「五」「西側保管」「ロラン」という文字も確認できている。
しかし、それらの意味はまだ分かっていない。
エレーヌは、読めている文字と、その文字から推測できることを混同しないよう、記録の欄を分けていた。
「マルタ。この『ロラン』という部分について、相談資料には姓だけが読めると記しておきましょう。人物の役割や、誰を指しているかについては、今の段階では書かない方がよさそうです」
「承知いたしました。ベルナール家の帳簿にも同じ姓が出ておりますが、記録者と確認者の区別が曖昧でしたものね」
「そうです。こちらの記録でも、名前が書かれている位置だけでは、どの役割だったのか分かりません。もし同じ人物だったとしても、何をしたのかまで決めることはできませんから」
マルタは静かに頷いた。
彼女は以前、記録の中に見つかった数字や姓が、行方不明の衣装につながるのではないかと考えたことがあった。
けれど、エレーヌと一緒に資料を整理するうちに、似た情報があることと、それらが同じ出来事を示していることは違うのだと理解し始めていた。
書庫の窓から差し込む光が、机の上の紙を照らしている。
マルタは筆を置き、少し考えてから口を開いた。
「エレーヌ様。もし保存について相談できる方が見つかったとして、その方には、衣装の行方についてもお話しするのでしょうか」
エレーヌはすぐには答えず、手元の記録を見つめた。
紙を安全に扱うための相談と、衣装の行方を調べるための調査は、目的が異なる。
もちろん、記録の内容が保存方法に関係する場合もあるかもしれない。しかし、専門家へ最初から屋敷の事情をすべて伝える必要があるとは限らなかった。
「まずは、紙の状態と、どのような扱いを希望しているかを伝えるのがよいと思います。衣装の調査については、相談の目的に必要な範囲で説明することになるでしょう。ただ、その範囲を私たちだけで決めるのではなく、アルフォンス様にも確認した方がよさそうですね」
「はい。確かに、保存の相談だからといって、屋敷の記録をどこまでお見せしてよいかは、別に考える必要がありますね」
マルタはそう言い、相談事項の末尾へ新しい項目を書き加えた。
『資料の取扱範囲について、事前に確認すること』
エレーヌはその文字を見て、小さく頷いた。
保存のために必要な情報を伝えることと、屋敷の事情を無制限に明かすことは同じではない。
その区別を明確にしておけば、相談を進める際にも判断しやすくなるだろう。
「よいと思います。では、この内容をアルフォンス様へお渡ししましょう。相談先の候補についても、正式に依頼する前に確認していただく必要がありますから」
二人は資料を揃え、確認用の紙挟みに収めた。
傷んだ原本は、今日も開かれていない。
新しい文字が読めたわけでも、行方不明の衣装について新たな証拠が見つかったわけでもなかった。
それでも、記録を守りながら調査を続けるための準備は、少しずつ具体的になっていた。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。
祖母は窓辺の椅子に腰を下ろし、冬用の膝掛けと、補修に使う布を並べていた。昨日も見比べた二枚の布は、どちらも落ち着いた色合いだったが、光の当たり方によって少しずつ印象が変わって見える。
「いらっしゃい、エレノア。ちょうどあなたに相談したいと思っていたところなのよ。こちらの布、朝の光では少し明るく見えたのだけれど、午後になると元の膝掛けによくなじむように思えてね」
マルグリットはそう言い、二枚の布を膝掛けの縁へ重ねた。
エレノアは祖母の隣へ座り、布の色をゆっくりと見比べた。
一枚は元の膝掛けに近い灰青色で、もう一枚は少しだけ温かみのある青灰色だった。
どちらを選んでも、大きく印象が変わるわけではない。
けれど、長く使ってきたものだからこそ、祖母は丁寧に考えたいのだろう。
「お祖母様、こちらの少し温かい色の方が、冬には柔らかく見える気がします。でも、元の布に近い方も落ち着いていて素敵ですね」
「そうでしょう。わたくしも同じところで迷っているのよ。直した部分が目立たない方がいいのか、それとも少し違う色を合わせて、新しく手を加えたことが分かるようにするのか」
マルグリットは楽しそうに微笑んだ。
エレノアはその言葉を聞き、少し考え込んだ。
母の青い花の刺繍を探しながら、自分の青い花を作っていること。
古いものを大切にしながら、新しい色を加えようとしていること。
その二つが、祖母の膝掛けの話とどこか重なって感じられた。
「お祖母様。新しい布を使ったことが分かっても、悪いことではないと思います。長く使ってきたものを、これからも大切にしたいから直すのですもの」
マルグリットは、エレノアの言葉を聞いて目を細めた。
「そうね。確かに、そのとおりだわ。傷んだところを隠すことだけが、手入れではないものね」
祖母は二枚の布をもう一度並べ、少し温かみのある方を手に取った。
「では、今日はこの布を使う方向で考えてみましょうか。ただ、縫い始める前に、もう一度全体へ合わせてみたいわ」
「はい。私も、それがよいと思います」
二人はしばらく布を見比べながら、縁のどの部分を補修するかについて話し合った。
マルグリットは、傷んだ部分をすべて取り替えるのではなく、まだ丈夫なところは残したいと考えていた。エレノアも、長年使われてきた布の柔らかさが好きだったため、必要なところだけを直す方がよいのではないかと意見を述べた。
やがて話題は、エレノアの刺繍へ移った。
「そういえば、昨日見せてくれた青紫のお花、あれから本番の布へ縫い始めたのかしら」
祖母に尋ねられ、エレノアは首を振った。
「いいえ、まだです。試し布の色は気に入っているのですが、もう少し見比べてから決めたいと思っています。青い糸だけの部分も好きなので、どのくらい紫を加えるか迷っているのです」
「それなら、無理に決めなくてもいいわね。色を選ぶ時間も、刺繍の楽しみの一つですもの」
マルグリットはそう言い、膝掛けの上へ手を置いた。
「アデラインも、糸を並べている時間が好きだったわ。すぐに縫い始める日もあれば、色を選ぶだけで長い時間を過ごす日もあったのよ」
エレノアは祖母の顔を見つめた。
「母様も、迷われることがあったのですか」
「ええ、もちろん。あの子は自分の好きな色をよく知っていたけれど、それでも布に合わせてみると違って見えることがあったのでしょうね。何度も糸を並べ直して、ようやく決めることもあったわ」
その話を聞き、エレノアは小さく微笑んだ。
母は、いつでも迷わず美しいものを作っていたわけではなかったのだ。
色を選び、考え直し、ときには時間をかけて決めていた。
その姿を想像すると、遠い記憶の中にいる母が、少しだけ身近に感じられた。
「何だか、嬉しいです。母様も、私と同じように迷われることがあったのですね」
マルグリットは優しく頷いた。
「そうよ。迷うことは、決して悪いことではないわ。大切にしたいからこそ、すぐには決められないこともあるもの」
エレノアはその言葉を胸の中で繰り返した。
刺繍の色。
母の遺品。
王宮へ送る書類。
それぞれの重さは違うけれど、大切にしたいからこそ、考える時間が必要なのだろう。
そして、考えた末に自分で決められたなら、その選択を少しずつ信じていけばよいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、アルフォンスの執務室へ、屋敷の使者からの報告が届けられた。
王宮の儀典担当部署に宛てた問い合わせ文書は、所定の受付へ渡され、受領の記録が残されたという。報告には、受け渡しが行われたことを確認するための情報が記されていたが、文書の内容がすでに担当者によって検討されたかどうかまでは分からなかった。
アルフォンスは報告を最後まで読み、机の上へ静かに置いた。
これで、問い合わせが王宮へ届いたことは確認できた。
しかし、それは質問への回答が得られたことを意味しない。
まして、エレノアの婚約拒否が受理されたということでもなかった。
アルフォンスは送付記録と照らし合わせ、受領確認の情報を整理した。
その後、セドリックを呼び、報告の内容を共有した。
「問い合わせは、王宮の受付へ渡されたそうだよ。受領の記録も残っている。ただ、担当部署でどのように扱われるかについては、まだ分からない」
セドリックは父の説明を聞き、静かに頷いた。
「では、エレノアには、王宮で受け取られたことだけを伝えるのですね」
「そうだね。受領が確認できたことは知らせたいけれど、それ以上のことは推測で話さない方がいい。彼女は、分かったことと分からないことを区別したいと言っていたからね」
アルフォンスはそう答え、報告書を紙挟みに収めた。
セドリックは少し考えてから、父へ尋ねた。
「父上。王宮で受け取られたと聞けば、エレノアは安心するでしょうか。それとも、かえって緊張するでしょうか」
アルフォンスはすぐには答えなかった。
エレノアが何を感じるかは、本人にしか分からない。
ただ、昨日の彼女は、手紙を送ったことを後悔していないと言っていた。
「どちらもあるかもしれないね。安心する部分もあれば、いよいよ王宮へ届いたのだと実感して、怖くなる部分もあるだろう。だからこそ、私たちが勝手に彼女の気持ちを決めないことが大切だと思うよ」
セドリックは父の言葉を聞き、頷いた。
「分かりました。僕も、必要以上に安心させようとするのではなく、まずはエレノアの話を聞くようにします」
「それでいいと思うよ」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
そのとき、執務室の扉が叩かれ、文書係が新しい紙挟みを届けに来た。
それは、書庫のエレーヌから提出された保存相談に関する整理資料だった。
アルフォンスは受け取り、表紙に記された内容へ目を通した。
傷んだ衣類記録の状態。
追加開封を控えている理由。
専門家へ相談する際に確認したい事項。
そして、資料の取扱範囲について事前に判断する必要があること。
アルフォンスは最後の項目に目を留めた。
「なるほど。エレーヌたちは、保存の相談に必要な情報と、屋敷の事情として慎重に扱うべき情報を分けようとしているようだね」
セドリックも資料を覗き込み、頷いた。
「確かに、紙の状態を相談するために、衣装の行方についての事情をすべて説明する必要があるとは限りませんね」
「そうだね。まずは相談の目的を明確にして、どこまで資料を示す必要があるのかを考えよう。正式な依頼を出す前に、エレーヌとも話しておきたい」
アルフォンスは資料を閉じた。
王宮への問い合わせと、傷んだ記録の保存相談。
二つは別々の問題だったが、どちらにも共通していることがあった。
必要な情報を、必要な相手へ、適切な形で伝えること。
そのためには、何を知っていて、何をまだ知らないのかを整理しなければならない。
アルフォンスはそのことを考えながら、夕方までにエレーヌと短い打ち合わせを行うことにした。
◇ ◇ ◇
夕食の少し前、エレノアはアルフォンスから呼ばれ、小応接室へ向かった。
室内にはアルフォンスとセドリックが待っており、窓の外には夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。エレノアが入室すると、二人は穏やかに迎え、彼女が椅子へ腰を下ろすのを待った。
「エレノア。昨日送った問い合わせについて、使者から報告が届いたよ」
アルフォンスの言葉に、エレノアは思わず背筋を伸ばした。
胸の奥が少し強張ったが、彼女は落ち着いて続きを待った。
「王宮の受付へ文書が渡され、受領の記録が残されたことを確認できた。つまり、問い合わせが王宮へ届いたことは分かったんだ。ただし、担当部署で内容が検討されたかどうかや、いつ返答があるのかについては、まだ分からない」
エレノアは静かに頷いた。
王宮へ届いた。
その事実が、胸の中へゆっくりと広がっていく。
昨日までは、手紙が屋敷を出たところまでしか分かっていなかった。
今は、王宮で受け取られたことが確認できた。
それだけの違いなのに、彼女には大きな一歩のように感じられた。
「ありがとうございます、叔父様。きちんと届いたのですね」
「そうだよ。ただ、今回届いたのは手続きについての問い合わせであって、君の拒否声明ではない。その区別は、今後も変わらないからね」
「はい。分かっています」
エレノアはそう答え、膝の上で重ねた手を見つめた。
少し安心した。
けれど、同時に、王宮の中で自分に関する文書が扱われ始めるのだという緊張も生まれていた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「叔父様。私は、手紙が届いたと聞いて安心しました。でも、少し怖くもあります。王宮のどなたが読むのか、まだ分からないからだと思います」
アルフォンスは静かに頷いた。
「そうだね。閲覧範囲についても質問しているけれど、今の段階では答えがない。だから、誰が読むのかについては、私たちも分からないんだ」
エレノアはその言葉を聞き、ゆっくりと息を整えた。
分からないことを、分からないと伝えてもらえる。
それは、以前の彼女が思っていた以上に、大切なことだった。
「はい。では、今は返答を待ちます。もし何か分かったら、また教えていただけますか」
「もちろんだよ。返答が届いたら、君にも確認してもらうつもりでいる」
アルフォンスの答えに、エレノアは微笑んだ。
セドリックはその様子を見守っていたが、彼女の表情が少し和らいだところで、穏やかに声をかけた。
「エレノア。今日は祖母上と膝掛けの布を選んでいたんだってね。祖母上が、君と相談できて嬉しかったと話していたよ」
突然話題が変わり、エレノアは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「はい。二枚の布を見比べていたのですが、少し温かみのある色が素敵だと思いました。お祖母様も気に入ってくださったようで、今日はその布を使う方向で考えることになったのです」
「それはよかった。祖母上は、昔から布の色を選ぶときには時間をかけるからね。君と一緒に考えられたなら、きっと楽しかったと思うよ」
セドリックの言葉に、エレノアは嬉しそうに頷いた。
王宮への手紙が届いたという知らせを聞いたあとでも、こうして日常の話ができる。
そのことが、彼女にはありがたかった。
小応接室を出る頃には、窓の外の光が少しずつ薄くなり、庭園の木々が夕暮れの色に染まり始めていた。
エレノアは廊下を歩きながら、胸の奥に残る緊張を確かめた。
怖さは消えていない。
けれど、今はその怖さだけが、彼女のすべてではなかった。
◇ ◇ ◇
夕食後、エレノアは自室へ戻り、今日の出来事を手帳へ書き留めた。
王宮への問い合わせが受領されたこと。
ただし、担当部署での検討状況や返答の時期は分からないこと。
そして、拒否声明はまだ提出していないこと。
彼女はその三つを分けて記し、しばらく文字を眺めた。
手紙が届いた。
それは、確かに一つの進展だった。
けれど、婚約を断るための手続きが終わったわけではない。
父の返書がどのように扱われているのかも、まだ分からない。
レオナードが自分の意思を知ることになるのかどうかも、答えは出ていなかった。
(私は、まだ何もかもを知っているわけではない。でも、昨日より一つ、確かめられたことが増えたのね)
エレノアは筆を置き、机の上にある書類立てへ目を向けた。
そこには、三つの文章からなる拒否声明の控えが収められている。
原本はアルフォンスが預かっており、署名も提出もまだしていない。
けれど、いつかその文章を正式に届けるために、今は必要なことを確かめている。
エレノアは書類立てに触れず、代わりに刺繍箱を開いた。
未完成の青い花の刺繍と、青紫の糸を使った試し布が並んでいる。
彼女は試し布を取り出し、灯りの下で色を眺めた。
昨日よりも、少しだけ紫が柔らかく見える気がした。
けれど、それは糸の色が変わったからではなく、今日の自分の気持ちが少し落ち着いているからかもしれない。
エレノアは小さく微笑み、試し布を元の場所へ戻した。
今夜も、本番の刺繍へ紫を加えることはしなかった。
もう少し考えてから決めたい。
その気持ちは変わっていなかった。
「エレノア様。お休みのご用意が整いました」
リディアの声に振り返ると、寝台には柔らかな掛け布が整えられ、部屋の灯りも少し落とされていた。
「ありがとう、リディア。今日は、王宮へ手紙が届いたと分かったの。少し緊張したけれど、今は落ち着いているわ」
「それは何よりでございます。大切なことが一つ確認できたのですね」
「ええ。でも、まだ分からないこともたくさんあるの。だから、返事が届いたら、またきちんと読もうと思っているわ」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「そのときは、私もお側におります。難しいことを考える日も、少し休みたい日も、どうぞ遠慮なくお申し付けくださいませ」
エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かに守られていることと、自分で決めること。
その二つは、決して反対のものではない。
彼女は寝台へ入り、掛け布を胸元まで引き寄せた。
窓の外では、秋の夜風が木々を静かに揺らしている。
王宮へ届いた一通の手紙が、これからどのような返答をもたらすのかは分からない。
けれど、今日のエレノアは、分からないことが残っているからといって、自分の時間まで止める必要はないのだと感じていた。
明日も、屋敷の暮らしは続いていく。
祖母と選んだ布のことを考えてもいい。
庭園の花を眺めてもいい。
母の遺品について、分かっていることを整理してもいい。
そして、青い花の刺繍にどんな色を加えたいのか、ゆっくり考えてもいい。
エレノアは目を閉じ、今日確かめられたことを静かに胸へ収めた。
自分の意思で送り出した手紙は、王宮へ届いた。
その事実だけを、今夜は大切にしておこうと思った。




