第96話 私の名前で確かめたいことと、王宮へ向かう一通の手紙
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には秋らしい薄い雲が広がっていた。夜のあいだに雨が降った様子はなく、庭園の木々は穏やかな朝の光を受けているものの、枝先に残った葉の色は、数日前よりも少し深まっているように見えた。
寝台の上で身を起こしたエレノアは、枕元の時計を確かめてから、昨日の午後にアルフォンスたちと話し合ったことを思い返した。王宮の儀典を扱う部署へ送る質問文案は、彼女が気になった表現を一箇所修正したところまで進んでおり、今日は清書された文章をもう一度読むことになっている。
(昨日は、自分の疑問をきちんと伝えられたわ。今日は、その言葉が本当に私の尋ねたいことになっているか、もう一度確かめたい)
そう考えていると、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。入室の許可を得て現れたリディアは、温かい湯を用意した盆を小卓へ置き、いつもと変わらない穏やかな表情で朝の挨拶をした。
「おはようございます、エレノア様。今朝は昨日よりも少し冷え込んでおりますので、お召し物を一枚厚くしてはいかがでしょうか。午後には日差しが戻るそうですが、朝のうちは窓辺に長くいらっしゃると冷えるかもしれません」
「おはよう、リディア。そうね、今日は書類を読む時間もあるでしょうから、あまり寒くない方がいいわ。昨日の衣装より少し暖かいものをお願いできるかしら」
「かしこまりました。柔らかな灰青色の上着でしたら、袖口も広すぎませんし、書類を扱う際にも邪魔にならないかと存じます」
リディアが衣装棚へ向かうあいだ、エレノアは寝台から降り、窓の近くへ歩み寄った。庭園の南側には朝の光が届き始めていたが、東側の石畳が続く場所は建物の陰になっており、まだ少し暗く見える。
あの道は、石の下に水が残っている可能性があるため、修繕方法が決まるまでは無理に通らないことになっていた。危険な場所を避けるという判断は、誰かが庭園を歩く楽しみを奪うためではなく、安心して歩ける日を取り戻すためのものだった。
エレノアはそのことを考えながら、窓から少し離れた。
王宮への問い合わせも、どこか似ている。
婚約を望まないという意思を届けたいからこそ、まだ分からない手続きについて尋ねている。急いで書類を送ることだけが、自分の未来を守る方法ではない。
けれど、確かめることばかりを続けて、いつまでも何も伝えないままでいることにも不安があった。
(私は、怖いから何もしたくないわけではないのよね。怖いけれど、それでも自分の意思をきちんと届けたいから、確かめているのだわ)
その違いを胸の中で言葉にすると、エレノアは少しだけ肩の力を抜くことができた。
支度を終える頃には、窓辺の光が先ほどよりも明るくなっていた。リディアが上着の留め具を整えると、エレノアは鏡に映った自分の姿を確かめ、今日も落ち着いて話を聞けそうだと小さく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭師から届いた報告について話していた。
東側の石畳は、表面が乾いて見える場所でも、石の継ぎ目に湿り気が残っているという。ギュスターヴは周囲の土の状態をもう少し調べたいと申し出ており、修繕の方法を決めるまでには、まだ時間が必要になりそうだった。
「見た目だけで判断できないというのは、なかなか厄介なものだね。もっとも、今すぐ通らなければ困る場所ではないのだから、慎重に調べてもらう方がよいだろう」
オーギュストはそう言いながら、手元の茶器を静かに置いた。
向かい側に座っていたマルグリットは、庭園の花が終わる前に南側の道を歩きたいと話していたが、危険な場所を避けられるなら急ぐ必要はないと頷いた。
「お天気のよい日に、エレノアと一緒に歩ければそれで十分ですもの。青紫のお花も、まだしばらくは楽しめるでしょうし、落ち葉が増えてきたら、それはそれで秋らしい景色になるわ」
「お祖母様、私もご一緒するのが楽しみです。昨日、刺繍の試し布に少しだけ紫を加えてみたのですが、庭園で見たお花の色を思い出しながら縫うと、前よりも好きな色になった気がするのです」
エレノアが答えると、マルグリットは嬉しそうに目を細めた。
「まあ、それは素敵ね。今度見せてもらえるかしら。あなたがどんな色を選んだのか、わたくしも知りたいわ」
「はい。まだ本番の刺繍には使っていないのですが、試し布でしたら今日にでもお持ちできます」
二人の会話を聞いていたセドリックは、エレノアの前に置かれた小皿がほとんど減っていないことに気づいた。彼女は楽しそうに祖母と話しているものの、時折、食堂の入口へ視線を向けており、今日の文書確認を気にしているようにも見えた。
セドリックはその様子を見て、話題を急に王宮のことへ変えるのではなく、食事が落ち着くまで待つことにした。
やがて、アルフォンスが温かな茶を飲み終えたところで、エレノアへ声をかけた。
「昨日の質問文案だけれど、今朝、修正した部分を含めて清書を整えてもらっているところだよ。午前中には確認できると思うけれど、エレノアの都合はどうかな」
「はい、叔父様。今日は特に外へ出る予定もありませんので、午前中でも大丈夫です。ただ、できましたら、一度自分の部屋で落ち着いて読んでから、叔父様にお返事してもよろしいでしょうか」
アルフォンスはすぐに頷いた。
「もちろんだよ。私たちの前で読んで、その場で答えを出さなくても構わない。清書を渡すから、時間をかけて確かめてほしい」
「ありがとうございます。昨日は皆様と一緒に読みましたけれど、一人でもう一度読んだら、違うところが気になるかもしれないと思ったのです」
エレノアは少し遠慮がちにそう説明したが、アルフォンスの表情に困惑はなかった。
「それは自然なことだと思うよ。人と話しているときには気づかなかったことが、あとから見えてくる場合もあるからね」
その言葉に、エレノアは安心した。
書類を受け取ったら、すぐに返事をしなければならないわけではない。
自分の部屋で考える時間を求めても、誰も不機嫌にならない。
そんな当たり前のことが、今の彼女には少しずつ新しい経験として積み重なっていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアは自室へ戻り、昨日使った手帳を開いた。
机の上には、王宮への問い合わせについてまとめた紙と、拒否声明の控えを収めた書類立てがある。二つは同じ問題に関わっているものの、今の段階では別々の役割を持っていた。
問い合わせは、本人の意思表示をどのように届ければよいかを確かめるためのもの。
拒否声明は、エレノア自身が婚約を望んでいないことを明らかにするためのもの。
彼女はその違いを手帳へ書き添え、少し離れたところから文字を眺めた。
父ロベルトが送った受諾の返書について、王宮がどのように扱っているのかは、まだ十分に分かっていない。そもそも、父の返書だけで正式な婚約が成立したと確認されたわけでもなかった。
だからこそ、エレノアは自分の意思がどのように記録されるのかを確かめたかった。
(父様の返書があるからといって、私が婚約を望んだことにはならないわ。そこだけは、どんな手続きをすることになっても、曖昧にしたくない)
エレノアは手帳を閉じ、書類立てに手を伸ばしかけた。
けれど、拒否声明の控えを取り出す前に、指先を止めた。
あの三つの文章は、すでに何度も読み返している。今のところ内容を変えたいと思っていないのなら、今日の清書を確認するときまで、無理に読み直す必要はないのかもしれない。
彼女は書類立てを元の位置へ戻し、代わりに刺繍箱を開いた。
未完成の青い花の刺繍と、昨日紫を加えた試し布が収められている。
母アデラインが残した「青い花を作りたい」という言葉を思い出すたび、エレノアは母がどのような花を思い描いていたのか知りたくなる。しかし、母の刺繍そのものはまだ見つかっておらず、残された言葉だけで完成形を決めることはできなかった。
それでも、母の思いを大切にしながら、自分の好きな花を作ることはできる。
エレノアは試し布を窓辺へ持っていき、青紫の糸が朝の光の中でどのように見えるのかを確かめた。
昨日の夕方には少し落ち着いた色に見えた紫が、朝の光では青い糸の間に柔らかな陰影を作っている。庭園で見た花とは完全には同じではないものの、その違いも悪くないと思えた。
「リディア。この色、昨日よりも少し明るく見えるわね」
衣装の整理をしていたリディアが、窓辺へ近づいてきた。
「本当でございますね。昨日は夕方の光でしたから、少し濃く見えていたのかもしれません。今朝は青い糸との境目が柔らかく見えます」
「ええ。私、この色が好きだわ。でも、本番に入れるのはもう少し考えてからにするつもりなの」
リディアは微笑み、試し布を丁寧に受け取った。
「お嬢様が納得されてからでよろしいと思います。試し縫いでしたら、色を変えて比べることもできますし、今のものを残しておくこともできますから」
エレノアは頷いた。
刺繍は、選び直せる。
王宮へ送る文書は、そう簡単ではないかもしれない。
けれど、だからこそ、送る前に確かめることが大切なのだと思えた。
◇ ◇ ◇
その頃、アルフォンスの執務室では、清書された質問文案が机の上に置かれていた。
書類を整えたのは屋敷の文書係だったが、文章の内容についてはアルフォンス自身が確認している。昨日エレノアが気にした箇所も修正されており、本人の意思表示とロシュフォール家の説明書を、それぞれどのように提出し、どのような関係で扱うのが適切かを尋ねる形になっていた。
セドリックは父の隣で文面を読み、清書の過程で意味が変わっていないことを確かめていた。
「昨日の修正は、この表現で反映されていますね。本人の意思表示が家の説明書に含まれると決めつける書き方にはなっていません」
「そうだね。ほかの四つの質問も残っているし、今のところ私から直したいところはないよ。ただ、最終的にはエレノアに読んでもらわなければならない」
アルフォンスは文案を手に取り、署名欄の位置を確かめた。
今回の問い合わせは、ロシュフォール家から王宮へ手続きを尋ねる文書であり、エレノア自身の拒否声明ではない。そのため、問い合わせに添える署名と、将来エレノアが拒否声明へ記すことになる署名を混同しないよう、書式も分けていた。
「父上。今回の文書を送ることについて、エレノアが同意したとしても、それは拒否声明の提出に同意したことにはなりませんよね」
「もちろんだよ。今回確認するのは、あくまで手続きについて尋ねることだ。拒否声明そのものを送る段階になれば、改めて本人の意思を確かめる必要がある」
セドリックは頷いたものの、すぐには次の言葉を続けなかった。
昨日のエレノアは、自分の質問を伝えられたことを嬉しそうに話していた。しかし、閲覧範囲の項目を読むときだけは、紙を持つ指先がわずかに強張っていた。
彼女が何を恐れているのか、セドリックにはすべて分かっているわけではない。
ただ、王宮へ自分の意思が伝わることを望みながら、その文書が誰に読まれるのかを気にしているのは確かだった。
「父上。もし今回の問い合わせに対して、閲覧範囲については回答できないという返事が来た場合、エレノアがまた不安になるかもしれません」
アルフォンスは息子へ視線を向けた。
「そうだね。けれど、その可能性を理由に、今のうちから質問を削る必要はないと思う。答えてもらえないことも含めて、確認する意味はあるからね」
「はい。僕も、そう思います。ただ、返事が来たときに、分からなかった部分を曖昧なままにしないようにしたいんです」
セドリックの言葉を聞き、アルフォンスは少しだけ表情を和らげた。
「それは私も同じだよ。分かったことを伝えるのと同じくらい、分からなかったことを正しく伝えるのも大切だからね」
父子はそれ以上、エレノアの気持ちを推測して話し続けることはしなかった。
本人が何を考えているのかは、本人の言葉を聞かなければ分からない。
アルフォンスは清書を封筒へ入れず、確認用の薄い紙挟みに収めた。
「それでは、これをエレノアへ届けてもらおう。返事は急がなくていいと伝えてほしい」
◇ ◇ ◇
午前の半ばを過ぎた頃、リディアが清書の入った紙挟みを受け取って戻ってきた。
エレノアは刺繍道具を片づけ、机の上を整えてから、両手でそれを受け取った。昨日見た下書きよりも文字の並びが揃っており、余白も広く取られているため、一つ一つの質問を確かめやすくなっていた。
「叔父様から、ゆっくりお読みくださいとのことでございます。お返事を急がれる必要はないそうです」
「ありがとう、リディア。では、少し時間をもらってもいいかしら。読み終えたら、叔父様にお返事したいの」
「もちろんでございます。私は隣の部屋で針仕事をしておりますので、何かございましたらお呼びください」
リディアが退出すると、室内は静かになった。
エレノアは椅子へ腰を下ろし、清書の最初の行へ目を向けた。
文章の冒頭には、王宮の儀典を扱う部署へ、本人の意思表示に関する手続きについて確認したい旨が記されている。
そこに、婚約を受け入れるという言葉はない。
また、拒否声明をすでに提出することが決まっているかのような表現も使われていなかった。
エレノアはそのことを確かめ、次の行へ視線を移した。
正式な宛先。
署名日と提出日。
本人の意思表示と家の説明書の関係。
受領記録。
文書の取扱部署と閲覧範囲。
昨日、自分が確かめたいと伝えた五つのことが、順序よく並んでいる。
彼女は一度最後まで読み終えたあと、すぐに紙を置かなかった。
もう一度、今度は文章を声に出さず、ゆっくりと目で追った。
最初に読んだときには内容が理解できていても、二度目には言葉の細かな違いが気になることがある。昨日の話し合いでも、まさにそうして一箇所の表現を修正してもらったのだった。
けれど、今日の清書には、今のエレノアが直してほしいと思う部分は見当たらなかった。
彼女は紙を机へ置き、しばらく窓の外を眺めた。
(この文章なら、私が何を知りたいのか伝わると思うわ。でも、送ると決めたら、王宮から返事が来るまで待つことになるのよね)
返事がいつ届くのかは分からない。
五つの質問すべてに答えてもらえる保証もない。
そして、王宮へ問い合わせを送ったという事実そのものは、ロシュフォール家の手元だけに留めておけるものではなくなる。
エレノアは膝の上で指を組み、静かに息を整えた。
怖くないと言えば、嘘になる。
しかし、送らなければ、確かめたいことの答えも得られない。
父が自分の意思を確かめずに受諾の返書を送ったと知ったとき、エレノアは何も知らされないまま、自分の未来が決められていくような恐怖を感じた。
今回は、違う形で進めたい。
何が書かれているのかを自分で読み、どのような目的で送るのかを理解し、そのうえで判断したい。
エレノアは清書をもう一度手に取った。
最後の項目には、文書の取扱部署と閲覧範囲について、回答できる範囲で教えてほしいという趣旨が記されていた。
レオナードがその文書を目にする可能性があるのか。
その問いへの答えを、今のエレノアは持っていない。
そもそも、問い合わせの段階で具体的な閲覧者を教えてもらえるのかどうかも分からなかった。
それでも、尋ねることはできる。
(私は、何も知らないまま怖がっていたくない。全部を知ることができなくても、確かめられることは確かめたい)
そう考えると、胸の奥に残っていた緊張が、少し違ったものに変わった。
不安が消えたわけではない。
けれど、今、自分が何をするべきかについては、昨日よりもはっきりしていた。
エレノアは手帳を開き、清書について気づいたことを書き留めた。
五つの質問がすべて残っていること。
本人の意思表示と家の説明書の関係について、決めつけた表現になっていないこと。
今回の問い合わせは、拒否声明の提出ではないこと。
そして、自分が清書の内容を理解し、送付することに同意できると思っていること。
最後の一行を書いたところで、エレノアは筆を止めた。
文字にすると、少しだけ実感が湧いた。
これは誰かに命じられた返事ではない。
自分で読んで、自分で考えて決めたことだった。
◇ ◇ ◇
昼食の前、エレノアはリディアに付き添ってもらい、アルフォンスの執務室を訪ねた。
扉を叩くと、室内から穏やかな返事があり、エレノアは紙挟みを胸元へ抱えたまま入室した。執務机には別の書類も並んでいたが、アルフォンスは彼女の姿を見ると、すぐに手元の仕事を止めた。
「エレノア、清書は読めたかな。もしまだ考えたいことがあるなら、今日中に答えを出す必要はないよ」
「はい、叔父様。二度読み返して、手帳にも気になったことを書きました。そのうえで、今日はお返事したいと思って伺いました」
エレノアは机の前へ進み、清書を丁寧に差し出した。
アルフォンスはそれを受け取りながら、彼女の表情を確かめた。緊張している様子はあったものの、昨日のように質問の言葉を探しているわけではなく、何を伝えたいのかを自分の中で整理してきたことがうかがえた。
「叔父様。私は、この問い合わせを王宮へ送っていただきたいと思います」
言い終えたあと、エレノアは一度だけ息を整えた。
自分の声が思っていたよりも落ち着いて聞こえたことに、少し驚いた。
「五つの質問について、今の私が確かめたいことが書かれていました。昨日修正していただいた部分も、私が望んでいた意味になっていると思います。ですから、これ以上直していただきたいところはありません」
アルフォンスは静かに頷いた。
「分かったよ。では、今回の問い合わせについては、君の確認を得たものとして送付の準備を進めよう。ただ、念のためにもう一つ確かめさせてほしい」
「はい、何でしょうか」
「この問い合わせを送っても、君の拒否声明を同時に提出することにはならない。そのことは、昨日説明したとおりだよ」
エレノアは頷いた。
「はい。拒否声明の三つの文章は、まだ叔父様に預かっていただいています。署名もしていませんし、正式な形については王宮からの返答を見てから、改めて確認することになると理解しています」
「そのとおりだよ。今回の文書と、君自身の意思表示を混同しないように進めるからね」
アルフォンスの答えを聞き、エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
そのとき、彼女はもう一つ、確かめておきたいことを思い出した。
「叔父様。今回の問い合わせを送ったあと、王宮から返事が届いたら、私もその文章を最初から最後まで読ませていただけますか。難しい表現があったら、説明をお願いするかもしれませんが……」
アルフォンスは柔らかく微笑んだ。
「もちろんだよ。君に関わる手続きについての返答なのだから、内容を確認してもらうつもりでいる。分からない表現があれば、一緒に確かめよう」
「ありがとうございます。私、返事が来たということだけではなく、何が分かって、何がまだ分からないのかを、自分でも知っておきたいのです」
エレノアはそう言って、胸元へ手を添えた。
アルフォンスはその姿を見ながら、以前よりも彼女が自分の希望を言葉にするようになったことを感じていた。
しかし、その変化を必要以上に褒め立てることはしなかった。
彼女が自分の意思を伝えることは、本来、特別な勇気を示さなければ認められないものではないはずだからだ。
「そうしていこう。返答が来たら、まず内容を整理して、君が確認できるようにするよ」
その言葉に、エレノアは深く頷いた。
執務室を出るとき、彼女はもう一度アルフォンスへ礼を述べた。
廊下へ戻ったあとも、胸の奥には緊張が残っていたが、後悔はなかった。
自分で送ると決めた。
その事実を、エレノアは静かに受け止めていた。
◇ ◇ ◇
昼食後、セドリックは小応接室へ向かう途中でエレノアと顔を合わせた。
彼女はリディアとともに南側の廊下を歩いており、窓の外に見える庭園へ時折目を向けていた。セドリックが声をかけると、エレノアは足を止め、少し照れくさそうに微笑んだ。
「お兄様。先ほど、叔父様に清書のお返事をしてきました」
「父上から聞いたよ。君が自分で確かめて、問い合わせを送ることに決めたんだね」
「はい。少し怖い気持ちはありますけれど、今は送っていただきたいと思っています。昨日までは、まだ分からないことが多いから迷っていましたが、今日は、その分からないことを尋ねるための手紙なのだと思えたのです」
セドリックは彼女の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「それなら、よかった。怖さがなくなってからでなければ決められない、ということではないんだろうね。もちろん、無理をして決める必要もないけれど、君が納得しているなら、僕も安心できるよ」
エレノアは窓辺へ視線を移した。
庭園の南側では、庭師が落ち葉を集めている。風が吹くたびに枝から新しい葉が落ち、集め終えたばかりの場所へまた少しずつ積もっていた。
その様子を眺めているうちに、エレノアは小さく笑った。
「お兄様。落ち葉って、集めてもまた落ちてくるのですね。庭師の方たちは大変そうです」
「そうだね。でも、全部の葉が落ち終わるまで何もしないわけにもいかないだろうし、季節に合わせて少しずつ手入れをするしかないんだろうね」
セドリックは彼女の隣へ立ち、庭園を見下ろした。
エレノアはその言葉を聞き、しばらく考えてから口を開いた。
「何だか、私も同じようなことをしている気がします。何かを一つ確かめると、また別の疑問が出てきますもの」
「それは、悪いことではないと思うよ。何も知らなかったときには、疑問に思うことさえできなかったのかもしれないからね」
エレノアはゆっくりと頷いた。
父の返書が送られたことを知ったとき、彼女はただ恐ろしかった。
その後、ロシュフォール家の人々と話し合う中で、何を確かめればよいのか、少しずつ考えられるようになった。
まだ分からないことは多い。
けれど、それを理由に何もできないと思わなくなったことは、彼女自身にも感じられる変化だった。
「お兄様。もし王宮からの返事を読んで、また分からないことが増えたら、そのときも相談してよろしいでしょうか」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「もちろんだよ。僕に分かることなら一緒に考えるし、分からないことなら、父上たちにも相談しよう。ただ、最後にどうしたいかを決めるのは、君自身でいいんだ」
その答えに、エレノアは安心したように微笑み返した。
誰かに判断を任せきりにしなくても、相談することはできる。
自分で決めることと、一人で抱え込むことは違うのだと、彼女は改めて感じていた。
◇ ◇ ◇
午後の早い時間、アルフォンスは送付する問い合わせ文書の最終確認を行っていた。
執務机には、エレノアが読んだ清書と、王宮へ送るために整えた正式な文書が並べられている。どちらも内容は同じだが、送付用の文書にはロシュフォール家からの問い合わせであることを示す形式が整えられ、宛先もこれまで返答を受けていた王宮の儀典担当部署へ向けられていた。
アルフォンスは文章を最初から読み直し、五つの質問が欠けていないことを確認した。
正式な宛先を尋ねる項目。
署名日と提出日の扱いを尋ねる項目。
本人の意思表示と家の説明書を、それぞれどのように扱うべきか尋ねる項目。
受領記録についての項目。
そして、文書の取扱部署と閲覧範囲についての項目。
どれも、エレノアが自分で確かめたいと望んだ内容だった。
文書係が封筒と送付記録の用紙を用意すると、アルフォンスは一度だけ手を止めた。
今回の問い合わせを送ったところで、王宮がすぐに明確な答えを返してくれるとは限らない。
それでも、必要なことを尋ねるための文書としては、今の段階で整えられるところまで整っていた。
「送付先は、前回の返答を寄越した儀典担当部署で間違いないね」
アルフォンスが確認すると、文書係は手元の記録を見ながら頷いた。
「はい。これまでの往復書簡と同じ宛先でございます。送付記録にも、そのように記載しております」
「分かった。では、今回の文書を送ろう。ただし、エレノア本人の拒否声明は同封しない。別の書類と取り違えないよう、封入前にもう一度確認してほしい」
「承知いたしました。問い合わせ文書のみを封入し、送付記録を残します」
文書係は丁寧に頭を下げた。
アルフォンスは署名を済ませ、封入される紙を最後に確認した。
エレノアの拒否声明の原本は、別の場所で保管したままだ。
彼女の署名もない。
王宮へ送るのは、あくまで手続きについての質問である。
その区別を守ることが、アルフォンスには何より重要だった。
封筒が整えられると、文書係は送付記録へ必要事項を書き込み、屋敷の使者へ渡すために退出した。
アルフォンスはしばらく閉じられた扉を見つめ、それから机の上に残った控えへ視線を戻した。
今後、王宮からどのような返答が届くのかは分からない。
けれど、少なくとも今回の文書は、エレノアが自分で内容を確認し、送ることを望んだものだった。
その事実を、アルフォンスは大切にしたかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、屋敷の書庫では、エレーヌ・フォシェとマルタが傷んだ衣類記録の保存方法について整理を進めていた。
封印されていた衣類の束は、以前確認したときの状態を維持したまま保管されており、追加の頁は開かれていない。二人が机に広げているのは、すでに読めた部分の転記と、紙の傷みについて記した観察記録だけだった。
「この部分については、紙の下端が弱くなっていたことを、もう少し詳しく書いておきましょう。実際にどの程度の処置が必要なのかは、専門家の判断を仰がなければ分かりませんから」
エレーヌは記録用紙の一箇所を示し、マルタへ説明した。
マルタは頷き、以前の観察記録を見比べながら、確認できた状態と推測にすぎない部分を分けて書き直した。
「原本を動かさずに相談できる方法があるかどうかも、確認した方がよろしいでしょうか」
「ええ。ただし、こちらだけで可能だと決めつけることはできません。まずは、どのような情報を伝えれば適切な助言を受けられるのか、その点から整理しましょう」
エレーヌは慎重に答えた。
傷んだ紙を開きたいという気持ちは、彼女にもあった。
まだ読めていない部分に、衣装の行方へつながる情報が残っている可能性はある。
しかし、可能性があるというだけで紙を傷めてしまえば、あとから確かめることすら難しくなるかもしれない。
そのため、今は急いで続きを読むよりも、残された記録を守る方法を考えることが優先されていた。
マルタは転記の一部へ目を向けた。
そこには「衣類整理控」という表題と、「幼少時の衣類、保管分を別置」という記述が残されている。
さらに「五」「西側保管」「ロラン」という文字も読み取れていたが、それぞれが何を指すのかは分からない。
「『五』という数字について、何か新しい考えが浮かんだとしても、今のところは記録へ加えない方がよろしいですね」
マルタが尋ねると、エレーヌは静かに頷いた。
「そうですね。数字が何を数えているのか分からない以上、特定の衣装の数と結びつけることはできません。『西側保管』も、どの場所を指すのか確かめられていませんし、『ロラン』という姓だけで人物の役割を決めることもできません」
エレーヌは少し間を置き、机の上の転記を丁寧に揃えた。
「分からないことを分からないまま残すのは、時にはもどかしいものです。でも、その曖昧さを勝手に埋めてしまうと、あとから本当のことを確かめる妨げになります」
マルタはその言葉を聞き、静かに頷いた。
書庫の窓からは午後の光が差し込み、机の上に置かれた紙の端を柔らかく照らしている。
新しい頁が読めたわけではない。
誰かの行動が判明したわけでもない。
それでも、記録を守りながら調査を続けるための準備は、少しずつ進められていた。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。
祖母は窓辺の椅子に腰を下ろし、以前から手入れを考えていた冬用の膝掛けを広げていた。布の縁には長年使われてきたことが分かる柔らかな擦れがあり、傷んだ部分をどのように補えばよいか、布地を見比べながら考えているところだった。
「お祖母様、お邪魔してもよろしいでしょうか。今朝お話しした刺繍の試し布を、お持ちしました」
「まあ、エレノア。もちろんよ。ちょうど膝掛けの布を見ていたところなのだけれど、あなたの刺繍もぜひ見せてちょうだい」
エレノアは祖母の隣へ座り、持参した試し布を広げた。
青い糸の間に控えめに加えた紫は、窓から差し込む午後の光を受け、朝とはまた少し違う色合いに見える。
マルグリットはすぐに感想を口にするのではなく、布を少し傾けながら、糸の重なりを丁寧に眺めた。
「綺麗ね。青い部分が中心に残っているから、紫を加えても花全体が暗くならないのね。あなたは、こういう柔らかな色の重なりが好きなのかしら」
「はい。最初は青だけで縫おうと思っていたのですが、庭園のお花を見ているうちに、少し紫を加えてみたくなったのです。でも、母様がどんな色を選ぼうとしていたのかは分かりませんから、これは私の花として考えたいと思っています」
マルグリットはその言葉を聞き、優しく微笑んだ。
「それでいいと思うわ。アデラインが青い花を作りたいと思っていたことと、あなたが青い花を作りたいと思うことは、重なるところがあっても同じではないもの。あなたが選んだ色を、大切にしてほしいわ」
エレノアは祖母の顔を見つめた。
母のことを思い出すと、今でも胸が締めつけられる。
失われた木箱や刺繍が見つからないことも、母の姿を描いた肖像画が行方不明になっていることも、簡単に受け入れられるものではなかった。
それでも、母の遺したものを探すことと、自分の手で新しいものを作ることは、両方大切にしてよいのだと感じられた。
「お祖母様。母様が作ったものを、いつか見つけられたら嬉しいです。でも、見つかるまで自分の刺繍を完成させてはいけないわけではないのですよね」
マルグリットは少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頷いた。
「もちろんよ。アデラインのものが見つかるかどうかと、あなたが何を作るかは別のことですもの。もしあの子が今ここにいたなら、あなたが自分の好きな色を選んだことを、きっと興味深そうに聞いたでしょうね」
その言葉に、エレノアは目を伏せた。
母がどのような反応をしたのか、確かめることはできない。
けれど、祖母が語る母の姿には、エレノアが幼い頃に感じていた温かさと重なるものがあった。
「……そうだったら、嬉しいです」
エレノアは小さく答え、試し布をそっと撫でた。
マルグリットはそれ以上、母の思い出を無理に語り続けることはしなかった。
代わりに、膝掛けの縁へ置いていた布を手に取り、エレノアへ見せた。
「こちらも、まだ色を決めかねているのよ。冬になる前には直したいのだけれど、元の布に近い色を使うか、少し違う色を合わせるかで迷っていてね」
「お祖母様でも、迷われることがあるのですね」
「もちろんあるわ。長く使ってきたものほど、どこを残して、どこを新しくするか悩むものよ」
マルグリットは微笑みながら、二枚の布を膝掛けの上へ並べた。
エレノアも一緒に色を見比べ、どちらが元の布になじむかを考えた。
すぐに答えを出す必要のない、穏やかな時間だった。
窓の外では、秋の陽が少しずつ傾いている。
祖母と並んで布を眺めながら、エレノアは自分が今、この屋敷で暮らしていることの温かさを改めて感じていた。
◇ ◇ ◇
夕方になり、王宮への問い合わせを託された使者が屋敷を出発した。
アルフォンスは執務室で送付記録を受け取り、封筒が正式に使者へ渡されたことを確認した。文書係からの報告によれば、封入されたのは手続き確認のための問い合わせ文書のみであり、エレノアの拒否声明や衣類調査に関する記録は含まれていない。
使者が屋敷を出たことは確認できた。
しかし、王宮で文書が受領されたことまで確認できたわけではない。
アルフォンスはその区別を意識しながら、送付記録を所定の場所へ収めた。
その後、エレノアへ伝えるため、セドリックを伴って小応接室へ向かった。
エレノアはちょうど祖母の部屋から戻る途中で、リディアとともに廊下を歩いていた。アルフォンスの姿に気づくと足を止め、何か話があるのだと察したように姿勢を正した。
「エレノア。少しだけ時間をもらってもいいかな。今日の問い合わせについて、伝えておきたいことがあるんだ」
「はい、叔父様。もちろんです」
小応接室へ入ると、アルフォンスはエレノアが腰を下ろすのを待ってから、穏やかに口を開いた。
「君が確認した質問文案を、今日、王宮の儀典担当部署へ向けて送付したよ。屋敷の使者へ渡したところまで確認できている。ただし、王宮で受け取られたかどうかは、まだ分からない」
エレノアはその言葉を聞き、膝の上で手を重ねた。
午前中、自分で送ってほしいと伝えた手紙。
その手紙が、今はもう屋敷の外へ向かっている。
そう思うと、胸の奥へ緊張が広がった。
けれど、以前のように、何も知らないまま出来事が進んでいるわけではなかった。
「ありがとうございます、叔父様。私が読んだ文章のまま、送っていただけたのですね」
「そうだよ。昨日修正した部分も含めて、君が確認した内容になっている。拒否声明の原本は、これまでどおり私が預かっているから安心してほしい」
エレノアは静かに頷いた。
自分の意思を届けるための準備が、一つ進んだ。
その事実は嬉しかったが、同時に、もう手紙を取り戻して読み直すことはできないのだという感覚もあった。
アルフォンスは彼女の表情を見ながら、言葉を続けた。
「今後は王宮からの返答を待つことになる。ただ、いつ返事が届くのか、どこまで答えてもらえるのかは分からない。返答が来たら、君にも全文を確認してもらうつもりだよ」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは一度言葉を切り、それから自分の気持ちを確かめるように続けた。
「叔父様。手紙を送ったと聞いて、少し怖くなりました。でも、送ってほしいとお願いしたことを後悔しているわけではありません。私が何を尋ねたいのか、自分で確かめてから決められたことが、嬉しかったのです」
アルフォンスはその言葉を静かに受け止めた。
「そう言ってもらえてよかったよ。怖さが残っていることも、無理に隠さなくていい。返答が来るまでのあいだも、気になることがあれば話してほしい」
セドリックも隣で頷いた。
「待っているあいだ、ずっとそのことだけを考えていなくてもいいんだよ。庭園を歩いたり、刺繍をしたり、いつもの時間を過ごしていても、問い合わせを取り消したことにはならないんだから」
エレノアは少し驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「そうですね。お兄様に言われるまで、返事が来るまで何かを考え続けていなければならないような気持ちになっていました」
セドリックは穏やかに笑った。
「考えたいときには考えればいいし、疲れたら別のことをしてもいいと思うよ。返事が届いたら、そのときにまた一緒に確認しよう」
エレノアは二人へ深く頭を下げた。
手紙は、王宮へ向かっている。
けれど、彼女自身が今日これ以上何かを決めなければならないわけではない。
そのことを確かめられたおかげで、胸の奥に広がっていた緊張は、少しずつ落ち着いていった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、アルフォンスから問い合わせの送付について簡単な報告があった。
オーギュストは、王宮での受領がまだ確認できていないことを聞くと、送付記録を残しているなら、今は使者の報告を待つのがよいだろうと頷いた。マルグリットはエレノアの様子を気にしていたが、彼女が自分から今日の出来事を話し始めると、途中で遮ることなく耳を傾けた。
「お祖母様。今日、私は清書を二度読んでから、叔父様に送っていただきたいとお願いしました。まだ返事がどうなるのかは分かりませんけれど、自分で決められたことは嬉しく思っています」
「そうだったのね。大切なことを、自分で確かめて決められたのなら、それはよかったわ」
マルグリットは優しく微笑み、エレノアの前へ温かな料理を勧めた。
「ただ、今日は少し疲れたでしょう。難しいことを考えた日ほど、食事をきちんと取って、夜はゆっくり休まなくてはね」
「はい。午後にはお祖母様と布の色を選ぶこともできましたし、今は落ち着いています」
エレノアはそう答え、料理へ手を伸ばした。
オーギュストは孫娘の様子を見守りながら、穏やかな声で言った。
「これから王宮から返事が来るまで、少し時間がかかるかもしれないね。けれど、返答を待つあいだも、ここでの暮らしは続いていく。エレノアが安心して過ごせるよう、私たちもできることを考えていこう」
「ありがとうございます、お祖父様」
エレノアは微笑んだ。
その後、食卓の話題は庭園の秋支度へ移った。
ギュスターヴたちが落ち葉を集めていることや、冬へ向けて花壇の手入れを進める必要があること、東側の石畳については調査を続けることなど、屋敷の日常に関わる話が続いた。
エレノアは家族の会話を聞きながら、少しずつ食事を進めた。
王宮へ手紙を送った日であっても、屋敷の暮らしが突然変わるわけではない。
祖母は膝掛けの布を選び、祖父は庭園の安全を気にかけ、叔父は屋敷の仕事を進め、セドリックはいつものように彼女へ穏やかな言葉をかけてくれる。
その変わらない時間が、エレノアにはありがたかった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の前に腰を下ろした。
リディアが寝台の支度を整えているあいだ、彼女は手帳を開き、今日の出来事を一つずつ書き留めた。
清書を二度読み返したこと。
五つの質問が、自分の望んだ形で残されていたこと。
アルフォンスへ問い合わせの送付をお願いしたこと。
そして、夕方には使者が屋敷を出発したと聞いたこと。
最後に、王宮での受領はまだ確認できていないと書き添えた。
エレノアは筆を置き、しばらく文字を眺めた。
以前なら、何かが動き始めたと知るだけで、その先に起きることをすべて悪い方向へ考えてしまっていたかもしれない。
今も、レオナードの名を思い浮かべれば、胸の奥が冷たくなる。
かつての時間で経験した恐怖は、手紙を一通送ったからといって消えるものではなかった。
それでも、今の時間ではまだ彼に会っていない。
そして、今日送ったのは婚約を受け入れる返事でも、拒否声明そのものでもない。
自分の意思を正式に届けるため、必要な手続きを確かめる問い合わせだった。
(私は、あの方との婚約を望んでいない。その気持ちは変わらないわ。でも、だからこそ、私の言葉をどう届けるのか、自分で確かめながら進みたい)
エレノアは手帳を閉じ、書類立てへ目を向けた。
そこには、以前書いた拒否声明の控えが収められている。
三つの文章は変えていない。
原本はアルフォンスが預かっており、署名もまだしていない。
王宮から返答が届いたら、また新しく考えることが出てくるかもしれない。
それでも、今夜のうちに答えを出す必要はなかった。
エレノアは椅子から立ち上がり、窓辺の刺繍箱へ歩み寄った。
箱の中には、未完成の青い花と、昨日紫を加えた試し布が並んでいる。彼女は試し布を取り出し、灯りの下で色を確かめたが、今夜は針を持たず、そのまま丁寧に戻すことにした。
今日の自分は、十分に考えた。
そう思えたからだった。
「エレノア様。お休みのご用意が整いました」
リディアの声に振り返ると、寝台には柔らかな掛け布が整えられ、部屋の灯りも少し落とされていた。
「ありがとう、リディア。今日は、少しだけ安心して眠れそうだわ」
「それは何よりでございます。明日も、いつもどおりお過ごしいただけるようにいたしますね」
エレノアは微笑み、寝台へ向かった。
窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしている。
王宮へ向かった手紙が、今どこにあるのかは分からない。
明日届くのか、もう少し時間がかかるのかも分からなかった。
けれど、エレノアは今日、自分で読んだ文章を、自分の判断で送ることができた。
その事実は、誰かに決められた未来をただ待っていた頃の自分とは、確かに違っていた。
彼女は掛け布を胸元まで引き寄せ、ゆっくりと目を閉じた。
まだ、婚約を断るための手続きが終わったわけではない。
失われた母の遺品も、衣装の行方も、傷んだ記録の続きも、答えは見つかっていない。
それでも、すべてを一度に解決しなければ、自分の人生を歩き始められないわけではない。
明日は、明日の時間を過ごせばいい。
王宮から返答が届いたときには、その内容を確かめてから、また自分で考えればいい。
そう思いながら眠りへ落ちていくエレノアの胸には、まだ小さな不安が残っていた。
けれど、その不安の隣には、自分の意思で一通の手紙を送り出したという、静かな確かさも生まれていた。




