第95話 私の意思を届けるために、確かめておきたい五つのこと
秋の朝は、昨夜よりも少しだけ冷たく感じられた。
エレノアが目を覚ましたとき、寝室の窓には淡い朝の光が差し込み、薄い雲の向こうから昇った太陽が、庭園の木々を柔らかく照らしていた。夜のあいだに強まっていた風はすでに落ち着いているらしく、枝先に残った葉がときおり揺れるほかは、屋敷の外から大きな音が聞こえてくることもなかった。
寝台の上でゆっくりと身を起こしたエレノアは、枕元に置かれた小さな時計へ目を向けた。いつもと大きく変わらない時間だったが、今日は目覚めた瞬間から、昨日アルフォンスと交わした約束が頭に浮かんでいた。
王宮へ送ることになるかもしれない、手続きについての質問文案。
その内容を自分で確かめ、必要であれば修正をお願いすることになっている。
(今日は、署名をする日ではないわ。婚約を断るという私の意思を、どのような形で届けるのか、そのために必要なことを確認する日なのよ)
心の中でそう整理すると、胸の奥に生まれかけた緊張が少しだけ和らいだ。
以前のエレノアなら、王宮という言葉を聞くだけで、すべてを急いで終わらせなければならないような気持ちになっていたかもしれない。けれど、今の彼女には、結論を急がないことも、自分の意思を守るための大切な選択なのだと分かり始めていた。
扉を叩く控えめな音が響き、リディアが朝の支度を整えて入ってきた。
「おはようございます、エレノア様。今朝は風が落ち着いておりますが、少し冷え込んでおります。今日は温かいお茶を先にお持ちいたしました」
「おはよう、リディア。ありがとう。ちょうど、少し喉が渇いていたところなの」
リディアは寝台の近くへ茶器を置き、エレノアが起き上がりやすいように掛け布の端を整えた。その手つきはいつもどおり落ち着いていたが、彼女は主人の表情を確かめるように、さりげなく視線を向けていた。
「昨夜はよくお休みになれましたか。昨日は大切なお話をなさっておりましたので、少し気になっておりました」
「ええ。眠る前にはいろいろ考えていたけれど、思っていたよりよく眠れたわ。昨日、叔父様やお兄様とお話しできたからかもしれないわね」
エレノアがそう答えると、リディアの表情にも安堵が浮かんだ。
彼女は必要以上に事情を尋ねることなく、今日着る衣装を選び始めた。淡い青灰色の布地に控えめな刺繍が施された衣装を広げ、窓から差し込む光の下で色合いを確かめる。
「本日は、こちらはいかがでしょう。お部屋で書類をお読みになる時間が長いようでしたら、袖口が邪魔にならないものを選んでおります」
「素敵ね。それにするわ。今日は叔父様の文案を読む予定だから、確かに袖が広すぎない方がよさそう」
エレノアは微笑みながら答え、茶器を手に取った。
温かな茶の香りが鼻先へ届く。
昨日の庭園で見た青紫の花と、窓辺に残した試し縫いのことも思い出したが、今日はまず、王宮への文書について考える時間を大切にしたかった。
それでも、朝から一日中そのことだけを考えるつもりはなかった。
ロシュフォール家で過ごす日々には、家族との食事があり、庭園の季節の移ろいがあり、少しずつ形になっていく刺繍がある。
自分の未来を守ることと、今の暮らしを大切にすることは、決して別々のものではないのだと思えた。
◇ ◇ ◇
朝食の食堂では、マルグリットが窓辺の花瓶に飾られた花を眺めていた。
昨夜の風で庭園の枝が少し揺れたらしく、庭師たちが朝から落ち葉を集めているという。オーギュストはその報告を聞きながら、東側の石畳については引き続き慎重に扱うよう伝えたと話していた。
「傷んだ場所を表面だけ直しても、下の状態が分からなければ同じことを繰り返しかねん。ギュスターヴにも、作業を急がず確認を優先するよう伝えてある」
オーギュストの言葉に、アルフォンスが頷いた。
「そうですね。通行できる道はほかにもありますし、今すぐ無理をして直す必要はありません。まずは石の下の状態を確かめてから判断するべきでしょう」
エレノアは二人の話を聞きながら、昨日セドリックと歩いた南側の小道を思い出した。
東側の道が使えなくても、庭園を歩くことはできる。危険な場所を無理に通らず、別の道を選ぶことができるのだ。
(何だか、今の私の状況にも少し似ているわね。進みたい場所があるからといって、確かめていない道を急いで通る必要はないのだもの)
そんなことを考えていると、マルグリットが柔らかく声をかけた。
「エレノア、昨日はセドリックとお庭を歩いたのでしょう。青紫のお花は、まだ綺麗に咲いていたかしら」
「はい、お祖母様。花びらの中心が少し濃くなっていて、朝に見た刺繍の色とはまた違って見えました。今度、お天気のよい日にご一緒できたら嬉しいです」
「まあ、それは楽しみね。わたくしも、秋の花が終わってしまう前に見ておきたいわ」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
セドリックもその会話に加わり、昨日の花壇では光の当たり方によって色が違って見えたことを話した。エレノアが試し縫いを重ねていると知ると、オーギュストも完成を楽しみにしていると穏やかに告げた。
その言葉に、エレノアは少し照れくさくなった。
「まだ完成までは時間がかかると思います。でも、今度は自分で選んだ色を大切にして、最後まで縫ってみたいのです」
「それでいいとも。誰かに見せるためだけに急ぐものではないのだからね」
祖父の返事は、いつものように穏やかだった。
食事が進んだところで、アルフォンスがエレノアへ視線を向けた。
「エレノア。昨日話した質問文案だけれど、午前中にもう一度整えておくつもりだ。午後の早い時間に見てもらうことはできるかな」
「はい、叔父様。ありがとうございます。私も昨日の質問を書いた紙を持って伺います」
「それなら、昼食のあとに小応接室で話そう。急いで読み終える必要はないから、気になるところがあれば遠慮なく止めてほしい」
エレノアは頷いた。
アルフォンスが決定を急がせていないことは、言葉だけでなく、時間の取り方からも伝わってきた。
彼女が読むための時間を確保し、質問する余地を残してくれている。
そのことが、今のエレノアには何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室の机へ向かった。
昨日書いた二枚の紙は、別々の場所へ置いたままになっていた。
一枚には、自分の意思。
もう一枚には、提出前に確かめたいこと。
エレノアはまず後者を取り出し、昨日の話し合いで分かったことを小さく書き添えた。
宛先については、まだ正式な確認が必要。
日付についても、実際に署名する日と提出する日をどのように扱うか確認する。
ロシュフォール家からの説明書と本人の意思表示を、どのような関係で提出するかは未確定。
受領の記録が残るかどうかも、確認が必要。
閲覧する部署や人物については、回答できる範囲を尋ねる。
書き終えたあと、エレノアは紙を少し離して眺めた。
昨日は五つの質問を並べただけだったが、今日はその一つ一つについて、何が分かっていて、何がまだ分かっていないのかを整理できていた。
それだけでも、胸の奥の不安が少し違った形に変わっている。
(分からないことが多いのは、昨日と同じだわ。でも、何を知らないのかが分かるだけで、こんなにも考えやすくなるのね)
エレノアは筆を置き、窓辺へ目を向けた。
刺繍箱の中には、昨日の試し縫いが収められている。
青を中心にした花びらへ、どれほど紫を加えるのか。
その答えも、まだ決まっていなかった。
けれど、刺繍については、決まっていないことを楽しめている。
王宮への文書についても、いつか同じように穏やかな気持ちで考えられる日が来るのだろうか。
そう思いかけた瞬間、レオナードの名が心に浮かんだ。
胸の奥へ冷たいものが広がり、エレノアは無意識に手を握りしめた。
かつての時間で、自分を処刑へ追い込んだ第二王子。
彼がどのような顔で自分を見ていたのか、どのような声で言葉を告げたのか。
忘れたいと思っても、簡単には消えてくれない記憶がある。
今の時間では、まだ彼と会っていない。
それでも、エレノアの恐怖は、誰かに説明できるほど単純なものではなかった。
(私は、あの方に会いたくない。もう二度と、あの方の婚約者にはなりたくないの)
心の中でそう言葉にすると、指先に込めていた力が少し緩んだ。
その意思は、何度確かめても変わらない。
だからこそ、提出する文書の扱いについて、納得できるまで確認したかった。
エレノアは書類立てから封筒を取り出し、中に収めていた拒否声明の控えを開いた。
『私は、第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約を望んでおりません。』
『ベルナール家から婚約受諾の返書が送られたことは、あとから知らされました。しかし、私はその返書が送られる前に、婚約を受け入れる意思を示しておりません。』
『どうか、ベルナール家からの返書と、私自身の意思を同じものとして扱わず、私が婚約を望んでいないことを、記録の上でも明らかにしていただきたく存じます。』
三つの文章を、エレノアはゆっくりと読み返した。
以前、何度も考えながら書いた言葉だった。
今日読み返しても、変えたいところはなかった。
ただ、これを王宮へ届けることになれば、紙は自分の手元を離れる。
その先で誰が読むのか、どのような判断に使われるのか、すべてを自分で決められるわけではない。
だからといって、何も伝えなければ、父ロベルトの送った受諾の返書だけが、自分の意思であるかのように扱われ続ける可能性がある。
そのことも、エレノアには耐えがたかった。
彼女は控えを丁寧に封筒へ戻した。
原本はアルフォンスが預かっている。
そこにはまだ署名がなく、日付も確定していない。
今のところ、拒否声明は王宮へ送られていない。
その状態を確かめることは、不思議と安心につながった。
まだ、自分で選べる時間が残っている。
◇ ◇ ◇
一方、屋敷の執務室では、アルフォンスが質問文案の最終的な整理を進めていた。
机の上には王宮の儀典を扱う部署から届いた返答の控えと、昨日エレノアが示した五つの質問をもとにした下書きが並んでいる。
セドリックは父の向かいに座り、文章の順序を確かめていた。
「父上。こちらの『本人の意思表示の提出方法について』という表現なら、エレノアの拒否声明そのものを送るのではなく、手続きを確認するための問い合わせだと分かりやすいと思います」
「そうだね。まだ署名を受けていない文書を、提出する前提で扱っているように読まれないことが大切だ」
アルフォンスは頷き、文案の冒頭をもう一度読み直した。
今回の問い合わせは、エレノアが婚約を受け入れる意思を示していないという事情を前提に、本人の意思を記録へ反映するための手続きについて尋ねるものだった。
拒否声明そのものではない。
また、ロシュフォール家がエレノアに代わって婚約の可否を決定する文書でもない。
その区別を明確にするため、アルフォンスは慎重に言葉を選んでいた。
「本人の意思を尊重するための問い合わせである以上、こちらの都合で結論を先に置くわけにはいかない。王宮へ何かを尋ねることと、エレノアが署名することは、別の段階として扱いたい」
「はい。昨日も、エレノアはその違いを確かめようとしていました」
セドリックはそう答え、少し考えてから言葉を続けた。
「父上。閲覧の範囲について尋ねる部分ですが、どこまで答えてもらえるかは分かりませんよね」
「分からないね。王宮の内部で文書がどのように回されるのか、こちらが完全に把握できるとは限らない。ただ、確認できる範囲があるのなら、それを尋ねる意味はあると思う」
アルフォンスは筆を置いた。
昨日、エレノアがその質問をするとき、わずかに手を強く握っていたことを思い出す。
彼女が第二王子との婚約を拒んでいることは知っている。
父親が本人の意思を確かめずに受諾の返書を送ったことも、すでに把握している。
しかし、なぜ彼女がレオナードの名にあれほど強い恐怖を示すのか、そのすべてを理解しているわけではなかった。
知らないことを、知っているつもりで扱うべきではない。
アルフォンスはそう考えていた。
「エレノアが話していないことを、こちらが勝手に理由として書き加えることはできない。今、確かなのは、彼女自身が婚約を望んでいないということだ」
「僕も同じ考えです。理由を詳しく話さなければ意思として認められない、ということにはしたくありません」
セドリックの返事を聞き、アルフォンスは静かに頷いた。
彼は文案の最後に、回答可能な範囲で手続きの詳細を示してほしいという一文を加えた。
王宮へ強く要求する形ではなく、必要な確認を丁寧に求める文章。
ただし、質問の内容を曖昧にしてしまわないよう、五つの項目はそれぞれ独立させてある。
書き終えたアルフォンスは、文書をすぐに封筒へ入れることはしなかった。
「午後、エレノアに見てもらおう。本人が尋ねたいことと違っていたら、直す必要があるからね」
セドリックは頷き、父とともに文案を揃えた。
◇ ◇ ◇
昼食後、小応接室には穏やかな午後の光が差し込んでいた。
窓辺の小卓には花瓶が置かれ、淡い色の花が風もない室内で静かに咲いている。大きな卓の中央にはアルフォンスが用意した質問文案が置かれ、その隣には筆記具と、必要に応じて書き込める余白のある紙が揃えられていた。
エレノアはリディアとともに入室し、アルフォンスとセドリックへ挨拶した。
「叔父様、お兄様。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。文案は整えたけれど、まだ送るものとして確定させてはいないよ。まずは読んでみてほしい」
アルフォンスはそう言って、エレノアの前へ紙を差し出した。
エレノアは椅子へ腰を下ろし、手元に置いた質問用紙と見比べながら読み始めた。
文案には、王宮の儀典を扱う部署へ、本人の意思表示を提出する際の手続きについて確認したい旨が記されていた。
続いて、宛先の正式な指定、署名と日付の扱い、家からの説明書との関係、受領記録の有無、文書の取扱部署と閲覧範囲について、回答できる範囲で教えてほしいという内容が並んでいる。
エレノアは一度読み終えたあと、すぐに顔を上げなかった。
もう一度、最初から読み返す。
自分の質問が、どのような文章になっているのか。
何かが抜けていないか。
自分が望んでいないことまで、含まれていないか。
それを確かめたかった。
アルフォンスもセドリックも、彼女が読み終えるのを急がせなかった。
窓の外では、風に揺れた枝の影がゆっくりと動いている。
エレノアは最後の行まで読み終えてから、顔を上げた。
「叔父様。私が尋ねたいと思っていたことが、すべて入っています。ありがとうございます」
「それならよかった。何か気になる表現はあるかな」
「一つだけ、確認してもよろしいでしょうか」
エレノアは文案の中ほどを指さした。
そこには、本人の意思表示の提出方法について、家からの説明書と併せて扱う場合の手続きを尋ねる文章があった。
「ここに『併せて扱う場合』とありますが、これは必ず一緒に提出するという意味ではないのですよね」
「そのとおりだよ。別々に扱う方が適切なのか、一緒に提出する必要があるのか、まだ分からないから尋ねている。こちらで先に決めたという意味ではない」
アルフォンスの説明を聞き、エレノアは頷いた。
「それでしたら、安心しました。私の言葉が、ロシュフォール家の説明の一部としてだけ扱われてしまうのではないかと、少し気になったのです」
「大切な確認だね。そう読まれる可能性をできるだけ避けるために、表現を少し変えようか」
アルフォンスは紙を手元へ引き寄せ、該当箇所の横へ修正案を書き込んだ。
本人の意思表示と家からの説明書を、それぞれどのように提出し、どのような関係で扱うのが適切か。
そのように尋ねる形へ改めると、エレノアが心配していた曖昧さは少し薄れた。
「こちらの方が、私には分かりやすいです」
「では、この表現にしよう。ほかにも気になるところがあれば、遠慮なく言ってほしい」
エレノアは再び文案を読み進めた。
自分が疑問を伝え、その場で文章が変わる。
それは、ごく小さな出来事だったかもしれない。
しかし、彼女にとっては決して小さなことではなかった。
父ロベルトから婚約受諾の返書が送られたとき、自分には文章を読む機会も、意見を伝える機会もなかった。
今回は違う。
自分が尋ねたことを、叔父が聞き、文章へ反映してくれる。
その違いを、エレノアは紙の上にはっきりと見ていた。
◇ ◇ ◇
文案の最後にある閲覧範囲の質問へ目を向けたとき、エレノアの手がわずかに止まった。
昨日も考えたことだったが、実際の文書に書かれているのを見ると、胸の奥へ再び緊張が広がった。
自分の意思表示が、どの部署へ回されるのか。
誰が読む可能性があるのか。
そのすべてを事前に知ることができないかもしれない。
エレノアはしばらく紙を見つめ、それからアルフォンスへ目を向けた。
「叔父様。この質問について、王宮から回答できないと言われる可能性もあるのですよね」
「あると思う。部署の名称や一般的な取扱方法は説明してもらえるかもしれないけれど、実際に誰が読むかまで確約してもらえるとは限らない」
「その場合は……どうなるのでしょう」
アルフォンスは、彼女の問いを急いで結論へ結びつけなかった。
「回答できないという返事が来たとしても、その時点でエレノアが必ず署名しなければならないわけではないよ。分かったことと分からなかったことを整理して、それからどうするか考えればいい」
エレノアはゆっくりと息を吸った。
その答えを聞くまで、自分の中では、問い合わせを送ることと、その先へ進むことが一本の道のようにつながっていた。
質問を送ったら、返答を受け取り、次には署名しなければならない。
そんなふうに、知らず知らずのうちに考えていたのかもしれない。
(違うのね。問い合わせを送ることは、私がすべてを承諾したという意味ではない。返答を読んでから、また考えていいのだわ)
エレノアは胸元へ添えかけた手を膝へ戻し、静かに頷いた。
「分かりました。では、今はこの質問を残しておきたいです。どこまで教えていただけるのか、確かめたいと思います」
「そうしよう」
アルフォンスは穏やかに答えた。
セドリックも隣から文案を見つめ、少し考えたあとで口を開いた。
「エレノア。もし回答を読んでから新しい疑問が出てきたとしても、それを尋ねてはいけないわけではないと思うよ。もちろん、先方がすべてに答えてくれるとは限らないけれど、今の段階で全部を予想しておく必要もない」
「……そうですね。私は、今分かることを全部確かめなければ、次へ進めないのだと思っていたのかもしれません」
エレノアは小さく微笑んだ。
何もかもを知ることはできない。
それでも、知らないことを一つずつ確かめることはできる。
その違いを受け入れるのは簡単ではなかったが、今の彼女には必要な考え方だった。
◇ ◇ ◇
話し合いは、さらに少し続いた。
エレノアは、文案に自分の名前がどのように記されるのかを確かめた。
母方のロシュフォール家で暮らしていても、養子縁組の手続きはまだ完了していない。
現在の正式な名は、エレノア・ベルナールのままだ。
「叔父様。問い合わせの中で私の名前を記す場合も、今の正式な姓を使うのですよね」
「そうだよ。養子縁組が完了していない以上、正式な文書では現在の身分を正しく記す必要がある。ロシュフォール家との関係は、必要なら説明として添えられるけれど、姓そのものを変えて扱うことはできない」
エレノアは頷いた。
ベルナールという姓を目にすると、どうしても複雑な気持ちになる。
父が自分の意思を確かめずに返書を送ったこと。
継母ヴァレリアや異母妹ミレーヌとの間に残された距離。
失われた衣装や母の遺品をめぐる、まだ答えの出ていない問題。
そのすべてが、同じ姓の向こうに重なっているように感じられる。
けれど、今の自分の名を正しく記すことは、父の判断を受け入れることではない。
エレノアはそのことを、もう一度心の中で確かめた。
「ありがとうございます。私も、今の正式な名前で記していただきたいです。事情を曖昧にしたくありませんから」
アルフォンスは頷き、文案の該当部分を確認した。
そのあと、エレノアは署名のない拒否声明についても改めて尋ねた。
「叔父様。私が以前書いた三つの文章は、今も原本を預かっていただいているのですよね」
「もちろんだよ。変更もしていないし、王宮へ送ってもいない。今日確認しているのは、あくまで手続きについての問い合わせ文案だ」
「はい。ありがとうございます。あの文章は、今のところ変えたいと思っていません。ただ、実際に署名することになったときには、日付や宛先を含めて、完成した形をもう一度読みたいのです」
「そのつもりだよ。本文の三つの文章は君の意思として大切にしながら、形式上必要な部分を整えることになるだろう。その際には、必ず君自身に確認してもらう」
エレノアは安心したように息を吐いた。
文書の形式を整えることと、自分の意思を勝手に書き換えられることは違う。
それをアルフォンスが明確に分けてくれているからこそ、彼女は落ち着いて相談を続けられた。
やがて、質問文案の確認は終わった。
エレノアが気になった表現は一箇所修正され、ほかの項目については、そのまま残すことになった。
ただし、まだ発送はしない。
アルフォンスが清書を整え、エレノアが修正後の文面をもう一度確認してから、正式に送るかどうかを決めることになった。
「今日も、たくさんお時間をいただいてしまいました」
エレノアがそう言うと、アルフォンスは柔らかく首を振った。
「必要な時間だったと思うよ。君が納得できるように進めることが、今回の手続きでは何より大切だからね」
「ありがとうございます、叔父様。今日、私の言葉で確認できてよかったです」
エレノアは丁寧に頭を下げた。
まだ署名はしていない。
拒否声明も送っていない。
婚約の扱いが変わったわけでもない。
それでも、彼女は今日、自分の意思を届けるための方法について、一歩だけ確かな理解を得ることができた。
◇ ◇ ◇
小応接室を出たあと、エレノアはすぐに自室へ戻らず、廊下の窓辺で足を止めた。
午後の光は朝よりも柔らかくなり、庭園の木々には金色に近い色が混じり始めている。
リディアは少し離れたところで待ち、エレノアが景色を眺める時間を邪魔しなかった。
しばらくして、セドリックが隣へやってきた。
「疲れたかな。今日は昨日よりも具体的な文章を読んだから、考えることも多かっただろう」
「少し疲れました。でも、不思議と嫌な疲れ方ではないのです。自分で考えて、気になったことを尋ねられたからでしょうか」
エレノアは窓の外へ目を向けたまま答えた。
セドリックはその横顔を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「昨日、君が自分で質問をまとめてきたときも思ったけれど、少しずつ話し方が変わってきたね」
「話し方、ですか」
「うん。以前は、何かを尋ねる前に、相手へ迷惑をかけないかと気にしていることが多かった。でも今日は、気になった部分を自分から指さして、どういう意味なのか確かめていた」
エレノアは少し驚いた。
自分では、それほど大きな変化があったとは思っていなかった。
むしろ、話し合いの最中も何度か緊張していたし、質問を口にするまでに時間がかかった場面もあった。
「私は、まだ怖いと思うことがたくさんあります。今日も、最後の質問を読むときには、少し手が震えてしまいました」
「それでも、質問をやめなかっただろう。僕は、そこが大切だと思うよ」
セドリックは静かに答えた。
エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
彼は、自分が怖がっていないと言っているわけではない。
怖さがあっても、自分で選んだことを認めてくれている。
それが嬉しかった。
「お兄様。私、以前は、何かを断ることは誰かを困らせることなのだと思っていました。自分の希望を伝えると、周りの人に迷惑をかけてしまうのではないかと……」
エレノアは言葉を探しながら続けた。
「でも、今回のことは、私の将来に関わることです。私が望んでいないのに、望んでいることにされてしまうのは、やはり違うと思うのです」
セドリックはすぐに答えず、彼女の言葉が終わるのを待った。
「そうだね。自分の意思を伝えることと、誰かを困らせようとすることは同じではない。君が望んでいないことを、望んでいると扱わせないために話すのは、自然なことだと思う」
エレノアはゆっくりと頷いた。
その言葉を聞いているうちに、胸の奥で長く固まっていたものが、少しずつほどけていくようだった。
(私は、断ってもいいのね。誰かに嫌われるかもしれないと思っても、自分の人生に関わることなら、望まないと伝えていいのだわ)
エレノアは窓辺から離れ、セドリックへ微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。今日はもう少し、自分の好きなことをして過ごそうと思います」
「それがいいね。刺繍の色は、また変わりそうかな」
「ふふっ。今日はまだ分かりません。でも、昨日の二枚を見比べて、少しだけ続きを考えてみたいです」
セドリックも笑みを返した。
エレノアはリディアとともに自室へ戻り、午後の残りの時間を穏やかに過ごすことにした。
◇ ◇ ◇
自室へ戻ると、エレノアは刺繍箱を開いた。
未完成の青い花の刺繍と、色の違う試し縫いを取り出し、窓辺の卓へ並べる。
母アデラインが残した「青い花を作りたい」という言葉は、今も彼女の心に残っている。
けれど、母が実際にどのような青い花を縫おうとしていたのかは分からない。
母の元の刺繍も、まだ見つかっていない。
エレノアはその違いを大切にしながら、自分の花を少しずつ形にしていた。
今日、選んだのは、青紫を控えめにした試し縫いだった。
ただし、それをそのまま本番へ移すのではなく、花びらの中心へ加える色の量を、もう一度確かめてみることにした。
「リディア。こちらの糸を少しだけ使ってみてもいいかしら。昨日は青が多い方が好きだと思ったのだけれど、中心にほんの少し紫を入れると、花びらの重なりが分かりやすくなる気がするの」
「よろしいと思います。今の試し縫いでしたら、少し色を加えても全体の明るさは残りそうですね」
リディアは糸を整えながら答えた。
エレノアは小さな試し布へ針を通し、青の間へごくわずかに紫を加えた。
針先が布を抜けるたび、糸の色が少しずつ重なっていく。
急いで仕上げようとは思わなかった。
どの色をどこへ置くのか、自分で確かめながら進める時間が心地よかった。
やがて、試し縫いの中心へ柔らかな影が生まれた。
エレノアは布を少し離して眺め、それから窓の光へ向けてみた。
「……このくらいなら、好きかもしれないわ」
思わずこぼれた言葉に、リディアが微笑んだ。
「とても綺麗でございます。青い部分が明るく見えますし、紫も強すぎません」
「ありがとう。まだ本番へ入れるかどうかは決めないけれど、今日の色は残しておきたいわ」
エレノアは試し布を丁寧に置いた。
自分で選んだ色が、少しずつ形になっている。
そのことが嬉しかった。
王宮への文書について考えるときのような緊張は、今はない。
けれど、どちらも、自分で確かめながら選ぶという点では同じだった。
エレノアは未完成の青い花を見つめ、まだ紫を入れていない花びらへそっと指を近づけた。
今日は本番へ針を入れず、試し縫いを残すことにした。
選べる時間があるのなら、急いで決めなくてもいい。
そのことを、刺繍もまた教えてくれているようだった。
◇ ◇ ◇
夕方、屋敷の書庫では、エレーヌ・フォシェが古い記録の整理を続けていた。
机の上には、以前確認した衣類の記録についての転記と、傷んだ紙を扱う際の注意点をまとめた覚え書きが置かれている。
封印されていた衣類の束は、傷みのある頁を無理に開かず、引き続き保管されていた。
新たな頁が読まれたわけではない。
また、紙の保存修復について専門家が実物を確認したわけでもなかった。
エレーヌは、相談できる方法を調べながら、原本を動かさずに済む可能性があるかを慎重に検討していた。
そこへ、記録係のマルタが整理済みの紙を持ってきた。
「フォシェ様。先日まとめた転記の控えを、こちらへ分けておきました。読めた文字と、読み取れなかった部分は、区別したままにしてあります」
「ありがとう、マルタ。曖昧なところを無理に埋めないことが大切です。今の段階では、書かれていること以上の意味を与えないようにしましょう」
エレーヌは紙を受け取り、転記の記号を確かめた。
衣類整理控。
幼少時の衣類、保管分を別置。
五。
西側保管。
ロラン。
そして、十月という月の記載。
日付の一部は十二日とも十三日とも読める状態で、年は判別できない。
どの文字も、今のところ確かな結論へ直接つながるものではなかった。
「『五』が何を数えているのかも、まだ分かりませんね」
マルタが静かに言うと、エレーヌは頷いた。
「ええ。衣類の数かもしれませんし、別の分類や記録上の番号かもしれません。今はどれか一つに決める根拠がありません」
エレーヌは続けて、別の記録にある「ロラン」という姓についても触れた。
同じ姓が記されているからといって、同一人物であるとは限らない。
仮に同一人物だったとしても、何をしたのかまでは分からない。
そうした区別を守ることが、記録を扱う者の責任だと考えていた。
「次の頁を開くことについても、専門的な助言が得られるまでは控えましょう。文字を知りたいという気持ちだけで、紙そのものを傷めてしまっては取り返しがつきません」
「承知しました。原本には触れず、今ある転記の整理を進めます」
マルタは頷き、紙を丁寧に揃えた。
エレーヌは書庫の窓へ目を向けた。
秋の夕暮れが近づき、室内の光は少しずつ柔らかくなっている。
調査は進んでいる。
けれど、分からないことが残っている。
その状態を正しく記録することも、今は大切な仕事だった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、エレノアが午後の話し合いについて簡単に報告した。
質問文案を読み、一箇所の表現を修正してもらったこと。
五つの確認事項は残し、清書をもう一度読んでから送るかどうかを決めること。
そして、拒否声明そのものには署名しておらず、王宮へ送っていないこと。
オーギュストは最後まで話を聞き、静かに頷いた。
「自分で読んで、気になるところを確かめられたのなら、それはよかった。正式な文書ほど、意味の取り違えがないようにする必要があるからね」
「はい、お祖父様。今日は、叔父様が私の質問をきちんと文章にしてくださったことが、とても嬉しかったです」
エレノアが答えると、アルフォンスは少し照れくさそうに微笑んだ。
「エレノア自身が、何を尋ねたいのか整理してくれたからだよ。こちらも考えやすかった」
マルグリットはそのやり取りを見守りながら、エレノアの皿へ温かな料理を勧めた。
「今日はたくさん頭を使ったでしょう。夕食くらいは、ゆっくり楽しみなさいね」
「はい、お祖母様。午後には刺繍もできました。試し縫いの色が、少しだけ気に入った形になったのです」
「まあ、それはぜひ見せてもらいたいわ」
マルグリットの表情が明るくなり、食卓には刺繍の話題が広がった。
エレノアは今日加えた青紫の量について話し、まだ本番へ移していないことも伝えた。
セドリックは庭園で見た花の色に近づいたのかと尋ね、エレノアは少し考えてから、似ているところもあるけれど同じではないと答えた。
「本物のお花は、光によって色が変わって見えますもの。刺繍では、私が綺麗だと思った色を選んでみたいのです」
「それなら、完成したときには、エレノアが見つけた花になるのね」
マルグリットの言葉に、エレノアは嬉しそうに頷いた。
母の花を探すことと、自分の花を作ること。
その二つを混同せずにいられるのが、今は心地よかった。
夕食が終わる頃には、外の空がすっかり暗くなっていた。
エレノアは家族へ挨拶をし、リディアとともに自室へ戻った。
◇ ◇ ◇
夜の部屋には、暖かな灯りがともっていた。
エレノアは机へ向かい、今日の出来事を手帳へ書き留めた。
王宮への手続きについての質問文案を確認したこと。
本人の意思表示とロシュフォール家の説明書を、どのような関係で扱うのかという表現を修正したこと。
五つの質問はすべて残っていること。
清書をもう一度読んでから、問い合わせを送るかどうか判断すること。
そして、拒否声明の原本は未署名のままアルフォンスが預かっており、王宮へはまだ送られていないこと。
エレノアは書き終えたあと、しばらく手帳を見つめた。
昨日までは、質問をまとめることそのものが一つの目標だった。
今日は、その質問が実際の文案になり、自分の言葉で確認できた。
明日は、清書を読むことになるかもしれない。
けれど、その先を今夜のうちに決める必要はない。
(少しずつでいいのね。私は、誰かが決めた道を急いで歩くのではなく、自分で確かめながら進んでいきたい)
エレノアは手帳を閉じ、窓辺へ目を向けた。
昼間の青紫の試し縫いは、刺繍箱の中へ丁寧に収めてある。
未完成の青い花も、まだ途中のままだ。
母の木箱も、失われた衣装も、傷んだ記録の続きも、答えは見つかっていない。
王宮への拒否声明についても、結論はまだ出ていない。
それでも、今日という一日には、確かに意味があった。
自分が何を知りたいのかを伝え、その言葉が文章へ反映されるところを、自分の目で確かめられた。
その経験は、エレノアの中に小さな安心として残っていた。
リディアが寝台の支度を整え終え、静かに声をかけた。
「エレノア様。そろそろお休みになられますか」
「ええ、ありがとう。今日は少し疲れたけれど、落ち着いた気持ちで眠れそうだわ」
「それは何よりでございます。明日も、お嬢様のご都合に合わせてお支度いたしますね」
エレノアは微笑み、椅子から立ち上がった。
窓の外では、秋の夜風が木々の葉を揺らしている。
以前なら、その音を聞きながら、まだ起きていない出来事を恐れて眠れなくなっていたかもしれない。
今も、怖さが消えたわけではない。
けれど、その怖さを抱えたままでも、今日のように自分で質問し、自分の言葉を守ることができる。
エレノアは寝台へ入り、掛け布を胸元まで引き寄せた。
明日、清書を読んだとき、自分がどのように感じるのかは分からない。
そのときになって、また考えればいい。
そう思いながら目を閉じると、昼間の窓辺で見た柔らかな光と、青紫の花びらの色が静かによみがえった。
自分の意思を届けるための道は、まだ途中にある。
けれど、その道を選ぶのは、ほかの誰でもない自分なのだと、エレノアは少しずつ信じられるようになっていた。




