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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第94話 署名の前に確かめたいことと、秋の窓辺で選ぶ言葉


 朝の光が薄い雲を透かして部屋へ差し込んだとき、エレノアは窓辺に置いた刺繍箱のことを思い出した。昨夜は青紫の糸を少なくした試し縫いを眺めながら眠りについたが、今朝になっても、どちらの色を選ぶべきか急いで決めたいとは思わなかった。寝台の上で体を起こすと、遠くの庭木から葉の擦れる音が聞こえ、秋が静かに深まっていることを感じた。


 衣類の記録を調べる話し合いから一夜が明けた。昨日は「五」「西側保管」「ロラン」という言葉が、それぞれ何を示すのかを区別して考えたが、確かな答えが増えたわけではない。それでも、思い込みで誰かを疑ったり、失われた衣装の行方を決めつけたりしないと、自分の言葉で伝えられたことが心に残っていた。


(昨日は、分からないものを分からないままにしておけた。だったら、王宮への文書についても、怖いからといって曖昧なまま進める必要はないのよね)


 そう考えた途端、胸の奥がかすかに縮んだ。第二王子レオナード・ヴァレンティアという名前を思い浮かべるだけで、冷たい記憶が呼吸の近くまで迫ってくる。今の時間ではまだ顔を合わせていない相手なのに、エレノアにとってその名前は、決して単なる婚約候補の名ではなかった。


 扉を叩く音がして、リディアが朝の支度を携えて入ってきた。彼女はエレノアの顔を一目見たものの、理由を尋ねる代わりに窓辺の光を確かめ、今日の衣装を広げて見せた。淡い色の布地は曇り空にもよくなじみ、袖口の控えめな飾りが、朝の静かな部屋にふさわしく思えた。


「おはようございます、エレノア様。今朝は少し冷えますので、外へお出になるようでしたら薄手の上着もご用意いたします」


「ありがとう、リディア。今日は庭へ出るかもしれないけれど、まずはお部屋で考えたいことがあるの。上着はあとでお願いしてもいいかしら」


「もちろんでございます。お考えごとでしたら、朝食のあとに温かいお茶をお持ちしましょうか。昨日のように長く机へ向かわれるのでしたら、窓を開けすぎない方がよろしいかと存じます」


 リディアの気遣いに、エレノアは頷いた。何を考えるつもりなのかを言わなくても、必要なものを整えてくれることがありがたい。けれど今日は、その優しさに甘えるだけでなく、自分から少し話してみたいと思った。


「王宮へ出すかもしれない文書のことを、もう一度考えたいの。まだ署名していないし、送ることを決めたわけでもないのだけれど……何が怖いのか、何を確かめたいのか、私自身でも整理しておきたくて」


 リディアは櫛を持つ手を止めず、鏡越しにエレノアを見た。驚いた様子はなく、返事を急ぐこともない。髪を結い終えてから、彼女は静かな声で答えた。


「でしたら、紙を何枚か分けてご用意いたしますね。お嬢様のお気持ちを書く紙と、叔父様へお尋ねしたいことを書く紙を別にすれば、少し見やすくなるかもしれません」


「……そうね。二つは同じではないもの。ありがとう、リディア」


 その提案に、エレノアはほっとした。自分の意思はすでに三つの文章に記してあるが、提出の方法を知らないまま署名することにはためらいがある。気持ちが変わったわけではないのに、手続きの不確かさが決断を妨げているのだと、少しずつ分かり始めていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の食堂には焼きたてのパンの香りが漂い、窓際の花瓶には淡い秋色の花が飾られていた。オーギュストは庭園の作業予定を記した小さな紙に目を通しており、マルグリットは温かな茶を注いでもらいながら、エレノアの顔を見て微笑んだ。アルフォンスとセドリックもすでに席についていて、いつもと変わらない朝の会話が交わされていた。


 エレノアは皆に挨拶をしてから席へ着き、食事が少し進んだところでアルフォンスへ目を向けた。王宮のことを食卓で詳しく話すのは避けたいが、相談の時間を頼むだけならできると思った。指先に緊張を感じながら、膝の上でそっと手を重ねる。


「叔父様、今日の午後、少しだけお時間をいただけますか。王宮への文書について、確かめておきたいことがあるのです」


 アルフォンスは手にしていた茶器を置き、すぐに頷いた。ただし、何を決めたのかと尋ねることはせず、エレノアの様子を静かに見守っていた。


「もちろんだよ。今日は午後の予定に余裕があるから、落ち着いて話せると思う。何かを今日中に決めなければならないわけではないから、聞きたいことを持ってきてくれればいい」


「ありがとうございます。まずは、どんな形で提出することになるのかを知りたいのです。文書を出すことと、誰に読まれるかということが、私の中ではまだうまく分けられていなくて」


 その言葉を聞いたマルグリットは、エレノアの前に置かれたパン皿へ視線を落とし、それから柔らかく声をかけた。心配そうではあったが、考えを止めさせようとする調子ではなかった。


「大切なことだものね。分からないまま急ぐより、納得できるところを一つずつ確かめた方がいいわ。お話のあとは、少し休む時間も取りなさいね」


「はい、お祖母様。午前中は刺繍も見ようと思っています。昨日の二枚を、今朝の光で比べてみたいのです」


 話題が刺繍へ移ると、オーギュストは安心したように目を細めた。セドリックも微笑み、昨日の試し縫いの続きを気にかけていたことを伝える。


「二枚とも違うよさがあると言っていたね。今日見て気持ちが変わることもあるだろうし、どちらも残しておくのもよさそうだ」


「ええ、お兄様。まだ本番の花には紫を入れていませんから、もう少し考えられます。選ぶのを急がなくていいと思うと、見比べるのも楽しくなってきました」


 エレノアはそう答え、パンを一口食べた。王宮の話をしたあとも、食堂の空気が急に重くならなかったことが嬉しかった。家族が問題を軽く見ているのではなく、彼女の一日をその問題だけで埋めないようにしてくれているのだと感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食後、自室へ戻ったエレノアは、まず刺繍箱を開いた。昨日作った二枚の試し縫いを窓辺へ並べると、青紫を少なくした方は明るい青がよく残り、もう一枚は中心に落ちる影が深く見えた。リディアが湯気の立つ茶器を卓へ置き、布の端が濡れないよう少し離してくれる。


「今朝は、こちらの方が好きだわ。昨日より紫を減らした方よ。でも、花びらの中心をもう少しだけ濃くしてもいいかもしれないわね」


「今のお色でも十分に綺麗ですが、お嬢様が考えていらっしゃる濃さも見てみたいですね。新しい布へ少しだけ試すのでしたら、今ある二枚もそのまま比べられます」


「そうね。今日は新しく縫うより、今の二枚をよく見ておくことにするわ。午後のお話の前に、手帳へ書いておきたいことがあるから」


 エレノアは刺繍を片づけず、窓辺に置いたまま机へ移動した。そこには、母の遺品や衣装について書き留めてきた手帳があり、別の書類立てには王宮への拒否の文書の控えを入れた封筒が収められている。アルフォンスが預かる原本とは違い、こちらはエレノア自身が言葉を確かめるための写しだった。


 封筒を開く前に、彼女はリディアが用意してくれた二枚の紙を取り出した。一枚の上には「私の意思」、もう一枚には「提出前に確かめたいこと」と書く。筆先を置くまでに少し時間がかかったが、いったん書き始めると、考えていたことが思いのほか明瞭になっていった。


 私の意思。第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約は望まない。父から受諾の返書が送られる前に、自分は承諾していない。父の返書と自分の意思を同じものとして扱わないでほしい。


 ここまでは、以前書いた三つの文章と変わらない。エレノアは書き終えてから一度筆を置き、胸の奥へ静かに息を送り込んだ。拒否したい理由のすべてを他人へ明かさなくても、自分が拒否しているという事実は示せるはずだった。


(あのときのことを誰かに説明しなければ、断る資格がないわけではない。私は、今の私として婚約を望んでいないのだもの)


 過去の処刑台の冷たさが、ほんの一瞬、指先へよみがえった。見覚えのある人々の声、逃げ道のない場所で告げられた裁き、どれほど言葉を尽くしても届かなかった思い。今の世界でその出来事を知るのは自分と時の精霊クロノアだけであり、家族へ話せる形にはまだなっていない。


 エレノアは視線を落とし、紙の上の文字をもう一度読んだ。そこには過去の秘密を暴く言葉も、レオナードを罪人だと訴える言葉もない。ただ、自分の意思を他人の意思と取り違えないでほしいと願う文章がある。


 次の紙には、問いを一つずつ書いた。署名する本人の文書は、誰を宛先として提出するのか。日付はいつ記すのか。家からの説明書と本人の声明は、同じ封筒に入れるのか、それとも別の扱いになるのか。受け取ったことを示す記録は残るのか。文書を閲覧する部署や人物について、分かる範囲を確認できるのか。


 最後の問いを書いたとき、筆先が止まった。自分の言葉がレオナードの目に触れる可能性を考えると、怖さが再び胸を締めつけた。王宮からの返答では、関係する部署へ文書が回る可能性は示されていたが、実際に誰が読むかまでは保証されていない。


(もし、あの方が読んだらどうなるのかしら。でも、読まれるのが怖いからといって、私の意思をなかったことにはしたくない)


 エレノアはその気持ちを「私の意思」の紙へ書き足そうとして、思い直した。これは提出する文章に加えるための言葉ではなく、自分の心を整理するための言葉だ。二枚を分けたことで、そこを混同せずに済んだ。


 リディアがそっと声をかけるまで、エレノアはしばらく紙を眺めていた。温かな茶はまだ飲める温度で、窓辺の刺繍布には淡い日差しが届き始めている。


「エレノア様、少しお休みになりませんか。考えることが多い日は、手を止める時間も必要でございます」


「ありがとう。そうするわ。書いてみたら、何を尋ねたいのかが少し分かった気がするの」


 エレノアは二枚の紙を重ねず、それぞれ別の場所へ置いた。控えの封筒も書類立てへ戻し、署名も修正も加えないまま、茶器を手に取る。紙の上に言葉を置けたことで、何かを今日中に送らなければならないという焦りが、少し薄らいでいた。


     ◇ ◇ ◇


 昼食後、エレノアは手帳と質問を書いた紙を持ち、リディアとともに小応接室へ向かった。廊下の窓から見える東側の庭園では、通行を避けるようにしている曲がり角の先に落ち葉が積もっていた。石畳の下の状態を確かめるまでは修繕方法が決まらないと聞いているため、そこを急いで歩こうとは思わなかった。


 小応接室にはアルフォンスが先に来ており、卓の上には王宮の儀典を扱う部署から届いた返答の控えと、筆記具が用意されていた。セドリックも窓際の椅子から立ち上がり、エレノアが入ると柔らかく挨拶した。二人とも、彼女が何を決めてきたのかと尋ねる前に、落ち着いて席へ着けるよう待ってくれた。


「今日は、まず私が分かっている範囲を説明するよ」とアルフォンスが言った。「王宮からの返答では、ロシュフォール家として事情を説明する文書を出すことができるとされている。それとは別に、エレノア本人が署名した意思表示の文書がある方が望ましい、という案内だったね」


「はい。そのことは覚えています。ですが、どなたへ宛てて書くのか、いつの日付を入れるのかまでは、まだ決まっていませんでした」


「そのとおりだ。こちらでも勝手に決めず、確認する必要がある。提出する順序や添付書類の扱いについても、先方の説明だけでは十分とは言えない」


 アルフォンスは返答の控えをエレノアの前へ置いた。彼女はそこに記された内容を慎重に読み、手元の質問用紙と照らし合わせる。以前も目を通した文書だったが、自分で問いを書いてから読むと、確かめたい部分がはっきり見えてきた。


「叔父様。私の署名がある文書は、ロシュフォール家からの説明書に添える形になるのでしょうか。それとも、別々に提出するのでしょうか」


「まだ確定していないよ。どちらが適切なのかを尋ねるつもりだ。家の説明と本人の意思を混同しないためにも、そこは大切な点だからね」


 エレノアは頷いた。父の返書と自分の意思を分けて扱ってほしいと求めているのに、今度は母方の家の説明へ自分の言葉が埋もれてしまうのでは意味がない。アルフォンスは彼女の表情を見て、その懸念を理解したようだった。


「家が支えることと、家が本人の代わりに意思を決めることは違う。私たちの説明は、エレノアの言葉を置き換えるためのものではないよ」


「ありがとうございます。私は、叔父様たちに助けていただきたいと思っています。でも、婚約を望まないと伝えるのは、私自身でありたいのです」


 声は小さかったが、エレノアは最後まで言い切った。アルフォンスはゆっくりと頷き、セドリックは何も言わず、彼女の前に置かれた質問用紙へ目を落とした。二人の沈黙には、答えを促す圧力ではなく、言葉を受け止める落ち着きがあった。


 次にエレノアが尋ねたのは、受領の記録についてだった。王宮へ届いたことを確認できるのか、誰が受け取ったかを記した控えが残るのか。アルフォンスは、一般的な文書の受け渡しには記録が伴う場合があるものの、今回どのような形式になるかは先方へ確かめるべきだと説明した。


「返答が届いたということと、こちらの希望が認められたということも、分けて考えなければならないのですね」


「そうだね。受領の確認が取れたとしても、それは受け取ったという事実を示すだけだ。婚約の扱いについて結論が出たことにはならない」


「分かりました。では、受け取られたかどうかと、どう判断されたかは、別に確認する必要があるのですね」


 アルフォンスは頷き、質問用紙の該当箇所へ印をつけた。エレノアはその様子を見ながら、昨日の衣類の記録についての話し合いを思い出した。「五」という数字を見つけたことと、失われた五着の衣装を確認したことは同じではない。王宮から返事が来たことと、自分の拒否が認められたことも、やはり同じではなかった。


 その違いに気づくと、書類を読む目が少し変わった。願いが強いほど、わずかな進展を結論のように感じたくなる。しかし、進展を正しく受け止めることは、希望を捨てることではない。


     ◇ ◇ ◇


 エレノアは最後の質問へ目を移した。そこには、文書を読む可能性のある人について、どこまで確認できるのかと書いてある。紙を持つ指先に力が入り、折り目のない端がわずかに曲がった。


「叔父様……私の文書を、実際にどなたが読むのかは、確認できるのでしょうか」


 アルフォンスはすぐに答えず、エレノアの表情を確かめた。セドリックも顔を上げたが、彼女の言葉を代わりに説明することはしなかった。室内の時計の音が、短い沈黙の間にはっきりと聞こえた。


「確認できる範囲は尋ねられると思う。ただ、最終的に誰の目に触れるかを、こちらが完全に指定できるとは限らない。前の返答でも、関係する部署へ回る可能性があると説明されていたからね」


「……はい。そのことが、ずっと気になっています」


 エレノアは答え、膝の上で手を重ねた。レオナードが文書を読む可能性を口にすれば、なぜそこまで恐れるのかと尋ねられるかもしれない。家族がそんなふうに責めるとは思っていないが、答えられない問いを向けられること自体が怖かった。


「私は、誰にでも読んでほしいと思っているわけではありません。でも、私の意思が必要なところへ届かなければ、書く意味がないことも分かっています。だから、どこまで確認できるのかを知りたいのです」


 アルフォンスは穏やかに頷いた。恐れの理由を追及する代わりに、彼女が実際に求めている確認事項へ話を戻した。


「それなら、文書の取扱部署と、閲覧の範囲について回答できることがあるかを尋ねよう。ただし、答えられないと言われる可能性もある。その場合にどうするかは、返答を見てから一緒に考えればいい」


「ありがとうございます。分からないまま送られるより、少なくとも尋ねたうえで考えたいです」


 セドリックはそこで初めて口を開いた。彼は父とエレノアの間に置かれた書類を見比べ、言葉を選ぶようにゆっくり話した。


「エレノア。誰が読むか分からないことを怖いと思うのは、不自然なことではないよ。大切な言葉を手放すのだから、届く先を知りたいと思うのは当然だと思う」


 その声を聞いて、エレノアは顔を上げた。セドリックは理由を知っているふりをせず、ただ彼女が口にした不安を、そのまま受け止めてくれていた。


「お兄様……ありがとうございます。私は、怖がっていると、いつまでも何もできないのではないかと思うことがあるのです」


「怖さが消えるまで待たなければ動けない、ということでもないと思うよ。どこまでなら自分で選べるかを確かめて、その範囲から進めればいい。今日だって、こうして質問を持ってきてくれただろう」


 エレノアは返事をしようとして、少しだけ唇を結んだ。質問をすることも前へ進む一つの方法だと、誰かに言ってもらえるとは思っていなかった。胸の奥に残る恐怖は消えなかったが、その隣へ別の感情が静かに生まれていた。


(私は、まだ署名する日を決めていない。それでも、自分で知りたいことを選んで、ここへ持ってこられたのね)


 エレノアは小さく頷いた。窓の外では、雲が流れ、木々の葉に当たる光が少しずつ変わっていた。


     ◇ ◇ ◇


 話し合いの終わりに、アルフォンスは確認事項を自分の紙へ整理し直した。宛先、日付、家の説明書との関係、受領記録の扱い、文書の取扱部署と閲覧範囲。どれもまだ王宮から正式な答えが出ていないため、エレノアの意思を示す文書とは別に、手続き上の質問としてまとめることになった。


「この質問を送る前に、内容をエレノアにも見てもらおうと思う。私の言葉で尋ねることになるけれど、君が心配している点を取り違えたくないからね」


「はい。ぜひ確認させてください。私の書いた三つの文章については、今のところ変えたいと思っていません」


「分かった。原本はそのまま預かっておくよ。署名も送付も、君が納得するまでは進めない」


 アルフォンスの返事に、エレノアは深く頭を下げた。彼は慌てて礼をやめさせることもなく、彼女が顔を上げるまで待ってから、書類を丁寧に揃えた。


 エレノアはふと、父ロベルトが返書を送ったときのことを思い出した。あのとき自分は、何がどこへ送られたのかさえ後から知らされた。今回は、書く前に尋ねることができ、送る前に内容を確かめられる。その違いが、胸の奥へゆっくりと染み込んできた。


「叔父様。今日、質問を整理していただけて安心しました。でも、私が何かを決めるのに時間がかかってしまって、皆様へご迷惑をおかけしていないでしょうか」


 アルフォンスは少し驚いたように眉を上げ、それから静かに首を横へ振った。


「迷惑だとは思っていないよ。これは君の将来に関わることだし、もともと君の意思を確かめずに返書が送られたことが問題なんだ。そこを正すための時間を、君が申し訳なく思う必要はない」


 その言葉は慰めとして軽く響くものではなかった。アルフォンスは文書を扱う立場として、確認を省いてよい部分と、本人の意思を尊重すべき部分を明確に分けていた。エレノアはその姿勢に支えられ、少しずつ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます。私も、ただ待っているだけではなく、考えたことを伝えていきたいです」


「それが一番ありがたいよ。分からないことがあれば、今日のように聞いてくれればいい」


 話し合いはそこで一区切りとなった。手続きについての追加質問は、アルフォンスが文案を作り、エレノアへ見せてから扱いを決める。王宮へ新たな文書が送られたわけではなく、婚約の扱いにもまだ変化はない。


 それでも、エレノアは部屋を出るとき、自分の足取りが少し軽くなっていることに気づいた。何も終わっていないのに、ただ立ち止まっていたわけでもない。自分の意思を守るための道筋を、今日は自分の言葉で確かめられたのだった。


     ◇ ◇ ◇


 小応接室を出たあと、セドリックはエレノアと廊下を少し歩いた。リディアは二人の後ろを適度な距離でついてきており、窓から差し込む午後の光が廊下の絨毯へ長い模様を落としていた。庭園へ通じる扉の近くで、セドリックは足を緩めた。


「少し疲れたかな。今日は考えることが多かっただろう」


「少しだけ。でも、思っていたより落ち着いて話せました。お兄様が、質問することも前へ進むことだとおっしゃってくださったからだと思います」


 セドリックは穏やかに微笑んだ。彼女が自分の言葉をどう受け取ったのかを知り、少し安心したようだった。


「そう言ってもらえるなら嬉しいよ。ただ、君が自分で質問を書いてきたことが何より大きかったと思う。僕たちは、そこに一緒に考えるための席を用意しただけだ」


「その席があることが、私にはとてもありがたいのです。以前なら、こんなことを尋ねてもよいのかと考えるだけで、言葉にできなかったかもしれません」


 エレノアは窓の向こうへ視線を向けた。南側の庭園には、まだ花を残した株が点々と見え、風に揺れる枝の間から石の小道がのぞいている。東側の傷んだ道を避けても、歩ける場所が残っていることが、今は少し象徴的に思えた。


「お兄様。庭園の南側を少し歩いてもよろしいでしょうか。お部屋へ戻る前に、外の空気を吸いたくなりました」


「もちろん。僕も少し歩こうと思っていたところだよ。東側の曲がり角には近づかず、南の道を回ろう」


 セドリックはそう答え、リディアへも目を向けた。リディアは用意していた薄手の上着をエレノアへ差し出し、風の強さを確かめてから庭園への扉を開いた。


 外へ出ると、室内よりも冷たい空気が頬に触れた。雨の気配はなく、湿った土と落ち葉の匂いが混じった風が、花壇の間をゆっくりと通り抜けている。エレノアは上着の前を整え、セドリックと並んで南側の小道を歩き始めた。


 道の脇には、先日観察した青紫の花が残っていた。エレノアはその前で立ち止まり、花びらの中心へ目を凝らす。朝の刺繍布とは違い、実際の花には一つとして同じ色の重なりがなく、光の当たる側と影になる側で微妙に表情が変わっていた。


「今日の試し縫いでは、紫を少なくした方が好きだと思ったのです。でも、こうして見ると、少し深い色も綺麗ですね」


 セドリックは隣から花を眺め、エレノアの手元に刺繍布がないことを確かめるように笑った。


「また試したい色が増えてしまいそうだね」


「ええ。けれど、今はそれも楽しいのです。選べる色がいくつもあることを、困ったことだと思わなくなりました」


 エレノアは花を見つめながら答えた。セドリックはその横顔に、昼間の話し合いとは違う柔らかな表情が浮かんでいるのを見た。彼女は不安を抱えたままでも、こうして自分の好きなものへ目を向けられるようになっている。


「完成したら、見せてもらえるかな。叔母上が残したものとは別に、君が作った花として」


 エレノアは少し驚いて彼を見た。母の青い花の刺繍はまだ見つかっておらず、残された覚え書きには青い花を作りたいという言葉があっただけだ。自分が縫っている花を母の作品の再現だと決めたことはないが、その違いをセドリックが自然に理解してくれていることが嬉しかった。


「はい、お兄様。お母様の花がどんなものだったのかは、まだ分かりません。でも、私の花は私の花として、きちんと完成させたいと思います」


 セドリックは頷き、二人は再び歩き始めた。庭園の端では庭師たちが落ち葉を集めていたが、通行を妨げないよう道の外側へ道具を寄せてくれた。エレノアが小さく会釈すると、彼らも丁寧に頭を下げ、作業へ戻っていった。


 南側の道を一巡した頃には、エレノアの頬へ少し赤みが戻っていた。セドリックは長く歩かせすぎないよう屋敷へ戻る道を選び、エレノアも無理をせずその提案に従った。庭園に出たことで、書類の文字ばかりを追っていた頭が少し軽くなったように感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、アルフォンスは執務室で今日の質問事項を見直していた。エレノアの手元にある紙をそのまま提出するつもりはなく、王宮の儀典を扱う部署へ尋ねるべき手続き上の点だけを、自分の言葉で整理する必要がある。机の脇には以前の返答の控えが置かれ、未署名の拒否声明の原本は別の文書入れに収められたままだった。


 セドリックが庭園から戻ったあと執務室へ顔を出すと、アルフォンスは書きかけの紙を裏返さず、ただ筆を置いて息子を迎えた。今日の話し合いで何が決まったのかは二人とも共有しているが、エレノアが怖さを抱えながら質問した姿は、それぞれの胸に違う重みを残していた。


「父上、エレノアは庭園で少し気分転換ができたようです。青紫の花を見ながら、刺繍の色のことを話していました」


「それはよかった。今日のような話をしたあとに、好きなことへ戻れる時間があるのは大切だろうね」


 アルフォンスは頷き、机の上の文案へ目を戻した。王宮への質問を丁寧に整えることは必要だが、娘のように思う姪の一日を、手続きだけで埋め尽くしたくはなかった。


「今日の彼女は、何を知りたいのかを自分で整理してきた。こちらが先回りして決めてしまうより、ずっと確かな進み方だったと思うよ」


「はい。僕もそう思います。本人が選べるところを残しておくことが、今は何より大切なのでしょうね」


 セドリックは父の文案を見て、宛先や閲覧範囲についての質問が含まれていることを確かめた。そこにはレオナードの名前を直接挙げる文章はなく、文書の扱いを確認するための中立的な問いが並んでいる。エレノアが望んでいない説明を、勝手に付け足してはいなかった。


「この文案は明日、エレノアに見てもらうつもりだよ。彼女が確認してから、送るかどうかを決めようと思っている」


「分かりました。僕も必要なら同席しますが、まずはエレノアが読みやすい形にしておくのがよさそうですね」


 アルフォンスは頷き、書類の端を揃えた。今日中に発送する予定はなく、王宮へ新しい問い合わせが届いたわけでもない。けれど、次に尋ねるべきことは、確かに形になり始めていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席では、庭園で見た花の話が自然に広がった。マルグリットは青い花の刺繍について、完成を急がずに試し縫いを重ねていることを喜び、オーギュストは庭師たちの作業が安全な道を確保しながら進められていると話した。東側の石畳はまだ修繕方法が決まっていないため、引き続き南側を使うようにと、念のため確認もあった。


 エレノアはその言葉に頷き、午後に歩いた道が気持ちよかったことを伝えた。セドリックが花の色を見比べる話を添えると、マルグリットは今度一緒に見に行きたいと微笑んだ。エレノアは、天気のよい日に南側の花壇を案内すると約束した。


 食事が終わる頃、アルフォンスはエレノアへ明日の予定を短く伝えた。今日の質問をもとに文案を整えているので、明日、都合のよい時間に確認してほしいという内容だった。エレノアはすぐに頷いたが、その場で文書を送ると約束することはしなかった。


「ありがとうございます、叔父様。明日、文案を拝見してから考えたいと思います。私が尋ねたいことがきちんと入っているか、確かめさせてください」


「もちろんだよ。読んで気になるところがあれば、遠慮なく言ってほしい」


 そのやり取りを聞いたマルグリットは、エレノアの手元へ温かな茶を勧めた。彼女は午後の話し合いについて詳しく尋ねず、ただ孫娘が自分の言葉で答えられたことに安堵しているようだった。エレノアは茶器を受け取り、家族と同じ卓を囲む穏やかな時間を味わった。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、リディアに手伝ってもらいながら髪をほどき、窓辺の卓へ座った。外では風が少し強まり、葉の揺れる音が昼間よりも近く聞こえる。卓には朝の二枚の試し縫いが並んでおり、灯りの下ではどちらの青紫も、日中とは違う深さを帯びていた。


 エレノアは手帳を開き、今日確かめたことを書き留めた。王宮への文書について、署名する前に宛先や日付、添付書類の扱い、受領の確認、閲覧の範囲を尋ねたいこと。アルフォンスが質問文案を整え、明日それを自分で確認する予定であること。そして、未署名の三つの文章は変更しておらず、送付もされていないこと。


 文字を書き終えたあと、エレノアは手帳を閉じず、しばらくその頁を見つめた。以前の自分なら、何かが決まっていない状態を恐れ、早く結論を出そうとしていたかもしれない。けれど今日は、決める前に知ることができると分かっただけで、胸の奥の緊張が少し和らいでいた。


(私の言葉は、私のものだわ。誰かが代わりに承諾したからといって、私の気持ちまで同じになるわけではない。だからこそ、今度は私自身が確かめてから、次の一歩を選びたい)


 レオナードの名を思い浮かべると、まだ冷たいものが胸へ広がった。あの処刑の記憶を忘れることはできず、今の自分が彼と会っていないという事実だけで恐怖が消えるわけでもない。それでも、怖さに押されて自分の言葉を曖昧にしてしまうことは、もう望んでいなかった。


 エレノアは書類立てに収めた封筒へ目を向けた。中にある控えには、婚約を望まないという意思が、すでに自分の言葉で記されている。今日はその文章を変えなかったが、何を確かめたうえで扱いたいのかを、以前よりも明確にできた。


「エレノア様、そろそろお休みになられますか」


 リディアが声をかけると、エレノアは顔を上げた。寝台の支度は整っており、窓辺の冷気を避けるために厚手の掛け布も用意されている。


「ええ、ありがとう。今日は話し合いのあとにお庭も歩けて、気持ちが少し軽くなったわ。明日は叔父様の文案を読んでみようと思うの」


「かしこまりました。明日も、落ち着いてお読みになれるようにお支度いたします。お疲れになったら、途中でお茶をお持ちしますね」


 エレノアは微笑み、手帳を閉じた。刺繍箱へ二枚の試し縫いを戻すとき、どちらかを選んで片方を捨てる必要はないのだと思い、布を傷めないようにそっと重ねる。母の花がどのような姿だったのかはまだ分からないが、自分の花は少しずつ、自分の選んだ色へ近づいていた。


 寝台へ入ると、窓の外の風は次第に穏やかになった。母の木箱も、失われた五着の衣装も、傷んだ記録の続きも、まだ答えを待っている。王宮への拒否声明も署名されていないままだが、明日には手続きについての質問文案を自分で確かめることになっていた。


 エレノアは目を閉じ、今日の小応接室で交わした言葉を思い返した。誰かに決めてもらうためではなく、自分で決めるために尋ねることができた。その小さな事実を胸に抱きながら、彼女は静かに眠りへ落ちていった。


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