第93話 重ならない数字の意味と、私が守りたい記録の境界
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日のような澄んだ青空ではなかったものの、雨が降りそうな暗さはなく、庭園の木々は穏やかな秋の風に揺れている。寝台の上でゆっくりと身を起こしたエレノアは、窓辺の卓に置かれた二枚の刺繍布へ目を向けた。
昨日、青い花びらの中心へ少しだけ青紫の糸を重ねた試し縫いは、まだ本番の刺繍とは別にしてある。夜の灯りの下では柔らかな影のように見えた色が、今朝の曇った光ではどのように見えるのか、エレノアは少し気になった。
(昨日は、明日もう一度見てから決めようと思ったのよね。でも、今すぐ決めなくてもいいのだわ)
そう考えながら寝台を降りると、廊下から控えめな足音が近づいてきた。間もなく扉が叩かれ、リディアの声が聞こえる。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「おはよう、リディア。ちょうど起きたところよ。どうぞ入ってちょうだい」
リディアは衣装を抱えて部屋へ入り、窓の外を一度確かめてから微笑んだ。
「今日は少し雲がございますね。昨日とはまた違ったお色に見えるかもしれません」
その視線が卓の刺繍布へ向けられていることに気づき、エレノアは思わず笑みを浮かべた。
「私も同じことを考えていたの。昨日の試し縫いを、今朝の光で見てみたいと思って」
「でしたら、お支度のあとに少しお時間を取りましょうか。朝食まではまだ余裕がございます」
「ありがとう。そうしてもらえると嬉しいわ」
リディアは頷き、朝の身支度を始めた。
髪を整えてもらっている間、エレノアは鏡の中に映る自分の表情を見つめた。以前は朝を迎えるたびに、今日こそ何か恐ろしい知らせが届くのではないかと身構えることがあった。
第二王子レオナードとの婚約を望んでいないという気持ちは、今も変わっていない。父ロベルトが自分の意思を確かめずに受諾の返書を送ったことも、王宮がその返書をどのように扱うのか分からないことも、胸の奥に重く残っている。
それでも、最近は朝の光や庭園の花を見て、純粋に綺麗だと思える時間が増えていた。
(怖いことがなくなったわけではないけれど、それだけを考えて一日を終える必要はないのよね)
エレノアは鏡の中の自分へ小さく頷き、リディアが差し出した髪飾りを受け取った。
身支度が終わると、二人は窓辺の卓へ移動した。
昨日の試し縫いを明るい場所へ置くと、青紫の糸は夜よりも少し灰色がかった印象になった。しかし、青い花びらの中心に重ねた部分は不自然に浮き上がることなく、周囲の糸となじんでいる。
「昨日の朝より、落ち着いた色に見えるわね」
エレノアが呟くと、リディアは布を少し離れた位置から眺めた。
「そうでございますね。濃い紫の糸をお試しになったときよりも、青い花びらの形が自然に見えるように思います」
「私もそう思うわ。でも、中心の色をもう少し少なくしてもよいかもしれないわね」
エレノアは試し縫いの布を持ち上げ、角度を変えながら眺めた。
青紫を加えたことで、花びらの奥行きは確かに増している。けれど、実際の庭園の花を思い浮かべると、もう少し青い部分を残した方が、自分の好きな印象に近づく気がした。
「今日は、昨日より少しだけ紫を減らしたものも試してみようかしら」
「よろしいと思います。お嬢様が納得できるまで、いくつか並べてみるのも楽しそうでございますね」
リディアの言葉に、エレノアは微笑んだ。
今日のうちに完成させなければならないものではない。自分で選んだ花なのだから、自分の気持ちに合う色を、ゆっくり探してもよいのだ。
そう考えると、朝から少し楽しい気持ちになった。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、オーギュスト、マルグリット、アルフォンス、セドリックが揃っていた。
窓の外は薄曇りだったが、食堂には十分な明るさがあり、卓の上には温かな料理が並んでいる。エレノアが席に着くと、マルグリットが昨日の刺繍について尋ねてきた。
「エレノア、昨日の青紫の糸はどうだったかしら。夜にも見比べてみると言っていたでしょう」
「はい、お祖母様。夜は少し深い色に見えましたけれど、今朝はまた違った印象でした。今日は紫の部分を少なくしたものも試してみようと思っています」
「まあ、それは楽しみね。今度見せてもらえるかしら」
「もちろんです。まだ小さな試し縫いですけれど、いくつか並べると違いが分かって面白いのです」
マルグリットは嬉しそうに頷いた。
そのやり取りを聞いていたセドリックが、穏やかな表情で口を開く。
「昨日は庭園でも花を観察していたそうだね。リディアから、ずいぶん熱心に描いていたと聞いたよ」
「お兄様、そんなに大げさなものではありません。花びらの形を少し描いていただけですもの」
エレノアは照れたように答えたが、セドリックは笑みを深めた。
「大げさに言ったつもりはないよ。好きなものをよく見ようとするのは、よいことだと思っただけなんだ」
その言葉に、エレノアは少しだけ頬を緩めた。
セドリックは以前から、彼女が刺繍や庭園のことを話すと、急かさずに耳を傾けてくれる。母アデラインの遺品を探すことにも協力してくれているが、最近は調査と関係のない日常の話も、自然にできるようになっていた。
その変化が、エレノアには嬉しかった。
食事が少し進んだ頃、アルフォンスが手元の茶器を置いた。
「エレノア。昨日、エレーヌから記録の整理について報告が届いたんだ。急いで決める必要のある内容ではないけれど、今日の午後、都合がよければ少し話をしておきたいと思っている」
エレノアは顔を上げた。
「衣類の記録についてでしょうか」
「ああ。先日確認した頁と、以前からある帳簿を照らし合わせる際の注意点だよ。新しい頁が開けたわけではないし、何かの答えが確定したわけでもない。その点は先に伝えておこうと思ってね」
アルフォンスは落ち着いた声で説明した。
エレノアは胸の奥に小さな緊張を感じたものの、すぐに頷いた。
「ありがとうございます、叔父様。午後でしたら大丈夫です。私も、確認したことを整理しておきたいと思っていました」
「それなら、昼食のあとに小応接室で話そう。セドリックにも同席してもらうつもりだよ」
セドリックは父へ頷き、それからエレノアへ目を向けた。
「難しいことを一度に決める必要はないからね。分からないところがあれば、途中で確認しながら進めよう」
「はい、お兄様。ありがとうございます」
エレノアは微笑んだ。
先日開いた衣類の束には、これまで知らなかった言葉が残されていた。
「衣類整理控」「幼少時の衣類、保管分を別置」「五」「西側保管」「ロラン」。
十月と読める日付もあったが、年は分からず、日付の数字も十二日なのか十三日なのか、判然としなかった。
それらが自分の失われた衣装や、母の木箱の行方に関わっているのかどうかは、まだ分からない。
ただ、記録の中に新しい手がかりがあるかもしれないと思うと、どうしても気になってしまう。
(今日は、何が分かったのかを聞くのではなく、何をまだ決められないのかも確かめよう)
エレノアはそう考え、食事を続けた。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で刺繍の試し縫いを進めた。
窓辺の卓には、昨日庭園で描いた花の紙と、青い糸を重ねた小さな布が並んでいる。リディアは糸巻きを色の近いもの同士で整え、必要な道具を手の届く位置へ置いてくれた。
エレノアは昨日とは別の小さな布へ、青い花びらを縫い始めた。
今回は、中心に近い部分へ青紫の糸を加える量を少なくするつもりだった。
最初に淡い青で輪郭を作り、その内側へ少し濃い青を重ねていく。糸が布を強く引かないように気をつけながら、花びらの向きに合わせて針を進めた。
刺繍をしている間、エレノアは何度か手を止めて、昨日の試し縫いと見比べた。
同じ色の糸を使っていても、重ねる位置が少し違うだけで、花の印象は変わる。
「……こうすると、青い部分がよく見えるわね」
エレノアが呟くと、リディアは隣から布を覗き込んだ。
「昨日のものよりも、明るい印象でございますね。紫の糸が少ない分、花びらの中心だけに色が残っているように見えます」
「ええ。お庭で見た花に近いのは、こちらかもしれないわ」
エレノアは嬉しそうに答えた。
けれど、二枚を並べてみると、昨日のものにも別のよさがあった。
青紫が少し多い方は、落ち着いた印象になる。今日のものは明るく、柔らかな色合いに見えた。
どちらが正しいというわけではない。
自分がどんな花を作りたいのかによって、選ぶ色が変わるのだろう。
(お母様も、こうして迷うことがあったのかしら。どちらの色も綺麗だと思って、なかなか決められないことがあったのかもしれないわ)
そんな想像が浮かび、エレノアは小さく微笑んだ。
もちろん、それが本当に母の姿だったのかは分からない。祖母から聞いた思い出だけで、母がいつも同じように考えていたと決めることはできなかった。
それでも、今の自分が楽しんでいる時間を通して、母も刺繍を楽しんでいたのだろうかと思うことは、以前よりも温かな想像になっていた。
しばらくして、エレノアは針を置いた。
「今日はここまでにするわ。午後は叔父様たちとお話をするから、少し休んでおきたいの」
「かしこまりました。お道具はこちらで整えておきますね」
リディアはそう答え、針と糸を丁寧に片づけ始めた。
エレノアは二枚の試し縫いを並べたまま、少し離れた位置から眺めた。
どちらも小さな花びらの一部にすぎないが、自分で選んだ色が形になっている。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
午後には、また過去の記録と向き合うことになる。
けれど、今の自分が作った小さな花は、その記録とは別の場所で、少しずつ育っていた。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、エレノアはリディアとともに小応接室へ向かった。
廊下の窓からは薄い日差しが差し込み、壁に飾られた絵の額を柔らかく照らしている。エレノアは歩きながら、手帳に書いておいた確認事項を思い出していた。
新しい記録にあった数字の意味。
「西側保管」が示す場所。
「ロラン」という文字が、誰を、あるいはどのような役割を示しているのか。
そして、十月の日付が、何の作業に結びついているのか。
どれも、すぐに答えが出るとは限らない。
それでも、何が分からないのかを整理することには意味があるはずだった。
小応接室へ入ると、アルフォンスとセドリックがすでに席についていた。卓の上には数枚の書類が整然と並べられ、その脇には記録を取るための紙と筆記具が用意されている。
「エレノア、来てくれてありがとう。今日は少し細かな話になるかもしれないけれど、疲れたら遠慮なく言ってほしい」
アルフォンスが穏やかに迎えると、エレノアは頷いた。
「ありがとうございます、叔父様。私も、分からないところはそのままにせず、お尋ねしたいと思っています」
リディアはエレノアの椅子を整え、本人が落ち着いて座ったことを確かめてから、少し後ろへ控えた。
セドリックは卓の上の書類を一枚取り上げ、エレノアへ見えるように置いた。
「これは、エレーヌとマルタが整理してくれた注意点なんだ。原本を新しく開いたわけではなく、すでに確認した文字と、以前からある帳簿の形式を比べるためのものだよ」
エレノアは書類へ目を落とした。
そこには、衣類の数を記す欄、保管場所を示す欄、名前が記された位置などについて、簡潔な説明が並んでいた。
特に目を引いたのは、数字の扱いについての注意だった。
「『五』という数字は、衣類の数量を示すとは限らない……」
エレノアが静かに読み上げると、アルフォンスは頷いた。
「そうなんだ。私たちが気にしている五着の衣装と、記録にある『五』が結びついている可能性はある。ただし、整理番号や別の区分を示している可能性も残っている」
「……そうですよね」
エレノアは小さく息を吐いた。
衣装の帳簿を調べたとき、二十七着のうち八着の行方が問題になっていた。そのうち三着はミレーヌのために作り直されていたことが分かったが、残る五着については、今も確かな行方が分かっていない。
だからこそ、新しい頁に「五」という数字を見つけたとき、胸の奥で何かがつながるような気がした。
しかし、数字が同じであることと、同じ五着を指していることは別だった。
「私は、五という数字を見たとき、すぐにあの五着のことを考えました。でも、それだけでは同じものだとは言えないのですね」
エレノアが言うと、セドリックは静かに頷いた。
「そうだね。ただ、そう考えたこと自体が間違いというわけではないよ。確認すべき可能性の一つとして残しておけばいいんだ」
セドリックは書類の余白を指し示した。
「エレーヌたちは、ほかの帳簿で数字がどのように使われているかを比べようとしている。数量の欄に書かれる場合と、整理番号として使われる場合とでは、書き方に違いがあるかもしれないからね」
「その違いが分かれば、今回の数字についても考えやすくなるのでしょうか」
「考える材料にはなると思う。ただ、記録の形式が似ていても、それだけで意味を確定できるとは限らないよ」
エレノアは頷き、手帳へ短く書き込んだ。
数字の意味は未確定。
数量の可能性も、整理番号の可能性も残る。
そう記すと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
自分が期待していた答えではなかったが、何を確かめなければならないのかは、以前よりもはっきりしたように思えた。
アルフォンスはエレノアが筆を置くのを待ち、次の書類へ目を向けた。
「それから、『西側保管』についても注意が必要なんだ。以前、お母様の木箱が東側の衣装部屋から西側の保管場所へ移された記録があったね」
「はい。五年ほど前の記録でした。ベアトリス・ロランの署名と、ヴァレリア様の承認があったものです」
エレノアは答えながら、母の木箱を思い浮かべた。
暗い色の木に野薔薇の彫刻が施された箱。
母の品が入っていたかもしれないその箱は、いったん西側へ移されたあと、本館へ運ばれたという説明が残っている。しかし、その先の行方はまだ分かっていない。
エレノアは手元の書類を見つめた。
「今回の『西側保管』も、同じ場所を指しているのでしょうか」
問いかけたあと、エレノアは自分で少し首を横に振った。
「……いいえ。まだ、そうとは限らないのですよね」
アルフォンスは優しく頷いた。
「そのとおりだよ。西側という言葉が同じでも、建物の西側なのか、別の保管室なのか、あるいは帳簿上の区分なのか、今の情報だけでは決められない」
「木箱の記録と同じ場所だと考えたくなりますけれど、それを確かめるには、もう少し資料が必要なのですね」
「そうだね。特に、記録が作られた時期や、当時の保管場所の呼び方を確認できれば、考える材料が増えるかもしれない」
アルフォンスはそう答えた。
エレノアは手帳に、同じ言葉でも同じ場所とは限らない、と記した。
それから少し考え、顔を上げた。
「叔父様。もし、今回の記録と木箱の移動記録が同じ場所を指していたとしても、それだけでは衣装と木箱が一緒に保管されていたとは言えないのでしょうか」
アルフォンスはその質問に、少しだけ目を細めた。
「よいところに気づいたね。仮に場所が同じだったとしても、保管された時期や棚、管理した人物が違う可能性はある。同じ場所にあったことと、同じ理由で移されたことも別なんだ」
エレノアは静かに頷いた。
その説明を聞きながら、胸の奥に残っていた期待が、少しずつ形を変えていくのを感じた。
何かがつながっているかもしれないという思いは、今も消えていない。
けれど、つながっていてほしいという願いだけで、記録の意味を決めてはいけない。
(私は、見つけたいのだわ。五着の衣装も、お母様の木箱も。でも、見つけたい気持ちが強いからこそ、確かめることを大切にしなければいけないのね)
エレノアは手帳を閉じず、次の説明を待った。
◇ ◇ ◇
しばらくして、セドリックが別の紙を取り上げた。
「次は『ロラン』という文字についてだね。これは、少し慎重に考えた方がよいところだと思う」
エレノアは顔を上げた。
ベアトリス・ロラン。
その名前は、これまでの調査で何度も目にしてきた。
衣装の受け渡しや、母の木箱の移動記録に関わる人物として名前が残っている。しかし、記録に名前があるからといって、その人物がすべての作業を直接行ったとは限らなかった。
「今回の記録には、姓だけが書かれているのですよね」
エレノアが尋ねると、セドリックは頷いた。
「ああ。しかも、その文字が記録者を示しているのか、確認した人物を示しているのか、それとも別の役割なのかが分からない」
「以前の帳簿でも、記録した人と確認した人の欄がはっきり分かれていないものがありましたね」
「そうなんだ。だから、名前があるというだけで、誰が何をしたのかを決めることはできない」
セドリックはそう説明し、書類をエレノアの方へ寄せた。
エレノアは文字を追いながら、以前見た署名のことを思い出した。
母の木箱が移された記録には、ベアトリスの署名が残っていた。
しかし、署名があることと、箱を実際に運んだことは同じではない。
その違いを、以前の自分は十分に考えられていなかったかもしれない。
「……私は、ベアトリス・ロランという名前を見ると、どうしてもその方が何かを知っているのではないかと思ってしまいます」
エレノアは少し迷ってから、正直に口を開いた。
「でも、今回の『ロラン』が同じ方だと分かったわけでもありませんし、仮に同じ方だったとしても、何を担当したのかは別に確かめなければならないのですよね」
アルフォンスは静かに頷いた。
「そのとおりだよ。名前が残っている以上、確認する意味はある。ただし、疑うために名前を追うのではなく、記録にどのような役割で現れているのかを確かめる必要がある」
その言葉に、エレノアは胸の奥が少し痛むのを感じた。
父の屋敷で過ごしていた頃、自分の衣装や母の品について、十分に説明してもらえなかったことがある。
その記憶は今も苦い。
だからこそ、当時の使用人たちの名前を見ると、何かを隠されていたのではないかという不安が浮かぶことがあった。
けれど、その不安を根拠にして、誰かの行動を決めつけることはしたくなかった。
「叔父様。もし、ベアトリス・ロランという方が何かをご存じだったとしても、私が知りたいのは、その方を責めるための理由ではありません」
エレノアは手元の紙を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「私の衣装がどこへ行ったのか、お母様の箱がどうなったのか、それを確かめたいのです。もし誰かが間違ったことをしていたのなら、その事実は知る必要があると思います。でも、分からないうちから、誰かが悪いと決めることはしたくありません」
アルフォンスはすぐには答えなかった。
セドリックも、エレノアの言葉を遮らずに聞いている。
小応接室の窓の向こうでは、風に揺れた木の枝が、淡い影を床へ落としていた。
しばらくして、アルフォンスが静かに口を開いた。
「エレノア。その考えを大切にしてほしい。事実を確かめることと、誰かを責めることは、必ずしも同じではないからね」
エレノアは顔を上げた。
「はい、叔父様」
「もちろん、調べた結果として責任を考えなければならないこともあるだろう。ただ、そのときにも、何が実際に起きたのかを確かめることが先になる」
アルフォンスの声は穏やかだったが、言葉にははっきりとした重みがあった。
エレノアはその意味を受け止め、ゆっくりと頷いた。
セドリックは二人のやり取りを見守りながら、以前よりもエレノアが自分の考えを言葉にするようになったことを感じていた。
彼女は、最初から何も恐れていなかったわけではない。
むしろ、怖さを抱えたまま、それでも自分がどうしたいのかを伝えようとしている。
その姿を見ていると、セドリックは彼女の代わりに答えを決めるのではなく、彼女が自分の意思で選べるように支えたいと思った。
「エレノア。これから先、調査の途中で気になる名前が出てくることもあると思う。でも、僕たちも一緒に確認するから、何かを一人で抱え込む必要はないよ」
セドリックがそう言うと、エレノアは少し驚いたように彼を見つめた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。私も、分からないことを一人で決めつけないようにしたいと思います」
セドリックは頷き、卓の上の書類を整えた。
話し合いはまだ終わっていなかったが、エレノアの表情は、始まったときよりも落ち着いていた。
◇ ◇ ◇
次に確認したのは、十月と読める日付についてだった。
エレノアは手帳を開き、以前書き留めた数字を確かめた。
十月という部分は比較的読み取りやすかったが、その後ろの日付は十二日とも十三日とも見える。年を示す文字は確認できず、記録が作られた時期を正確に決めることはできなかった。
「この日付も、衣装が移された日なのか、記録を書いた日なのかは分からないのですね」
エレノアが言うと、アルフォンスは頷いた。
「そうだね。記録によっては、実際に品を移した日と、あとから帳簿へ書き込んだ日が違うこともある。今回の文字が何の日付なのかは、周囲の記載を確かめなければ判断できない」
「もし十月十二日だったとしても、十三日だったとしても、年が分からなければ、ほかの出来事と結びつけるのは難しいですね」
「そのとおりだよ。だから、今は日付の候補を両方残しておく方がよいと思う」
エレノアは頷き、手帳に二つの日付を書き並べた。
十二日、または十三日。
年は不明。
何の日付かも未確定。
そう記すと、曖昧な文字を無理に一つの答えへ変えずに済むような気がした。
アルフォンスはその様子を見守り、少し表情を和らげた。
「今日の話は、分からないことばかり増えたように感じるかもしれないね」
エレノアは顔を上げ、少し考えてから首を横に振った。
「いいえ、叔父様。確かに、答えが増えたわけではありません。でも、どこを確かめなければならないのかは、以前よりも分かったように思います」
エレノアは手帳へ視線を落とした。
「『五』という数字が五着の衣装を指すのかどうか。『西側保管』がどの場所なのか。『ロラン』という文字が誰の、どのような役割を示しているのか。十月の日付が何の日なのか……。それぞれを別に考えなければならないのですね」
「そうだね。今の段階では、それが大切だと思う」
アルフォンスは頷いた。
エレノアは手帳の余白へ、もう一つ短い言葉を書き加えた。
似ていることと、同じであることは違う。
その言葉を見つめているうちに、胸の奥に残っていた焦りが、少しずつ静まっていくのを感じた。
母の木箱も、失われた衣装も、今すぐ見つかるわけではない。
けれど、急いで答えを作ってしまえば、本当に確かめるべきことを見落とすかもしれない。
エレノアは筆を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「叔父様。今日のお話を聞けてよかったです。まだ分からないことが多いのは少し残念ですけれど、私は、きちんと確かめていきたいと思います」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「それでよいと思うよ。保存についての相談先が決まったら、また伝えるからね」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは頷いた。
話し合いが終わる頃には、窓の外の雲が少し薄くなり、庭園の木々へ柔らかな日差しが届き始めていた。
◇ ◇ ◇
小応接室を出たあと、エレノアはリディアとともに廊下を歩いた。
午後の光が窓から差し込み、磨かれた床へ淡い模様を作っている。エレノアは手帳を胸元へ抱えながら、先ほどの話し合いを思い返していた。
新しい答えは見つからなかった。
それでも、何かを失ったような気持ちにはならなかった。
むしろ、自分の中で曖昧になっていたことを、一つずつ分けて置けたような感覚があった。
「リディア。今日は、少し難しいお話だったわね」
エレノアが言うと、リディアは穏やかに頷いた。
「はい。けれど、エレノア様はご自身のお考えを、しっかりお伝えになっていたと思います」
「そうかしら。私は、まだ分からないことばかりで……」
エレノアは言いかけて、少しだけ笑った。
「でも、分からないことを分からないと言うのも、大切なのよね」
「ええ。私も、そのように思います」
リディアはそう答えた。
エレノアは歩く速度を少し緩め、窓の外へ目を向けた。
庭園の南側では、昨日見た青紫の花が、午後の光を受けて咲いている。
朝とは違う色に見えるのだろうか。
そう考えたとき、エレノアはふと微笑んだ。
「リディア。お部屋へ戻ったら、今日の試し縫いをもう一度見てみたいわ。午後の光では、どんな色に見えるのか気になってしまって」
「かしこまりました。お茶の支度もいたしましょうか」
「ええ、お願い。今日は少し頭を使ったから、温かいお茶を飲みながら休みたいわ」
リディアは微笑み、二人は自室へ向かった。
部屋へ戻ると、エレノアは卓の上へ手帳を置き、刺繍道具の入った箱を開いた。
昨日と今日の試し縫いを並べると、午後の光では、今朝よりも青紫の糸が柔らかく見えた。
エレノアは二枚を見比べ、少し考えた。
「……今日の方が、今の私には好きかもしれないわ」
リディアが茶器を整えながら、微笑んだ。
「青い部分が多い方でございますね」
「ええ。でも、昨日のものも綺麗だと思うの。だから、どちらかを間違いだとは思わないわ」
エレノアはそう言って、二枚の布を丁寧に並べた。
今日の話し合いを思い出すと、少し不思議な気持ちになった。
刺繍の色は、自分が好きだと思う方を選んでよい。
けれど、記録の意味は、自分がそうであってほしいと思う方を選ぶわけにはいかない。
どちらも迷うことはあるが、迷い方は違うのだ。
(私の花の色は、私が決められる。でも、過去に何が起きたのかは、私の願いだけでは決められないのね)
エレノアはその違いを考えながら、未完成の青い花の刺繍を手に取った。
今の花びらには、まだ紫の糸を加えていない。
今日は試し縫いを二つ並べ、好きな色の方向を確かめるところまでにしようと思った。
急いで完成させる必要はない。
自分の手で作る花だからこそ、納得できるまで考えたい。
エレノアは刺繍を箱へ戻し、温かな茶器へ手を伸ばした。
窓の外では、雲の切れ間から差し込んだ光が、庭園の石畳を静かに照らしていた。
◇ ◇ ◇
夕方、セドリックはアルフォンスの執務室を訪ねていた。
昼間の話し合いで使った書類は、すでに整理されている。アルフォンスは記録保管室へ返すものと、家族の確認用に残すものを分け、文書入れへ収めていた。
「父上。今日のエレノアは、以前よりも落ち着いて話を聞いていたように思います」
セドリックがそう言うと、アルフォンスは手を止めて顔を上げた。
「私もそう感じたよ。もちろん、不安がなくなったわけではないだろうけれどね」
「はい。五着の衣装や叔母上の木箱については、今も気にしていると思います。ただ、分からないことを急いで一つの答えにしようとはしていませんでした」
セドリックは昼間のエレノアの表情を思い返した。
彼女は、記録に残された数字が五着の衣装を示しているとは限らないと聞いたとき、確かに少し残念そうだった。
それでも、その感情を隠して無理に納得したふりをするのではなく、自分がどう考えていたのかを言葉にしていた。
その姿が、セドリックの印象に残っていた。
「エレノアは、自分の気持ちを話すことに少しずつ慣れてきたのかもしれませんね」
セドリックが言うと、アルフォンスは穏やかに頷いた。
「そうだと嬉しいね。あの子は、長い間、自分の意思を十分に聞いてもらえなかったのだろうから」
アルフォンスの声には、わずかな苦さが混じっていた。
父ロベルトが婚約の受諾を勝手に進めたことは、今も解決していない。
王宮から届いた手続き上の回答によって、エレノア本人の意思を別の文書として示す道筋は見えてきた。しかし、提出した文書が誰に読まれるのか、どのような判断につながるのかは分からなかった。
そして何より、エレノアは第二王子レオナードの名を聞くと、説明しきれないほど強い恐怖を見せることがある。
その理由を、アルフォンスもセドリックも知らない。
無理に尋ねれば、彼女をさらに追い詰めるかもしれない。
だからこそ、今は本人が話せる範囲を尊重することにしていた。
「父上。王宮への文書については、まだ何も送っていないのですよね」
セドリックが確認すると、アルフォンスは頷いた。
「ああ。手続きについての問い合わせと、それに対する回答があるだけだよ。エレノアの拒否の声明は署名されていないし、送付もしていない」
「形式についての追加確認は、今後進めるのでしょうか」
「必要だと思っている。ただ、エレノア本人がどのような形で提出することを望むのか、改めて確認しなければならない。王宮からの回答では、本人の署名がある別の文書が望ましいとされていたけれど、日付や宛先、添付の扱いなどには、まだ確認すべき点があるからね」
アルフォンスは文書入れへ目を向けた。
そこには、エレノアが自分の意思を記した三つの文章の原本が保管されている。
婚約を望んでいないこと。
父が受諾の返書を送る前に、自分は受け入れる意思を示していないこと。
そして、父の返書と自分の意思を同じものとして扱わないでほしいという願い。
その言葉は、まだ誰の手によっても勝手に書き換えられていない。
「エレノアが自分の言葉で書いたものだからね。私たちは、それを本人の許可なく変えたり送ったりしない。その約束は守るつもりだよ」
アルフォンスが言うと、セドリックは静かに頷いた。
「僕も、そう思います」
二人はしばらく、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの庭園には、薄い金色の光が差し込んでいる。
エレノアが今日、刺繍の色を選んでいたことを、セドリックは思い出した。
自分の好きな色を自分で選ぶこと。
自分の意思を、自分の言葉で示すこと。
扱うものは違っていても、彼女にとっては、どちらも大切なことなのかもしれない。
セドリックはその思いを胸に、父とともに残りの書類を整理した。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、昼間の記録について詳しい話を繰り返すことはなかった。
オーギュストは庭園の修繕について、ギュスターヴから追加の報告があったことを伝えた。東側の曲がり角は、石畳の下の状態を確かめる必要があり、まだ通行を再開できる段階ではないという。
「南側の道は引き続き使えるけれど、東側へは近づかないようにしてほしい。修繕の方法が決まったら、また知らせるよ」
オーギュストの言葉に、エレノアは頷いた。
「はい、お祖父様。今日も東側へは行っていません。お庭の花を見るときも、南側だけにするつもりです」
「それなら安心だね」
オーギュストは穏やかに微笑んだ。
マルグリットはエレノアの表情を見つめ、昼間の話し合いで疲れていないかと尋ねた。
「少し難しいお話だったのでしょう。無理はしていないかしら」
「大丈夫です、お祖母様。分からないことはまだ多いですけれど、今日は何を確かめなければならないのか、少し整理できました」
エレノアはそう答え、続けて微笑んだ。
「それに、午前中は刺繍もできました。青紫の糸を少なくした試し縫いが、思っていたより綺麗にできたのです」
「まあ、それはよかったわ。今度ぜひ見せてちょうだい」
「はい。明日、もう一度明るいところで見てから、お持ちしますね」
マルグリットは嬉しそうに頷いた。
エレノアは家族の会話を聞きながら、今日一日を思い返した。
午前中は自分の好きな色を考え、午後は記録の意味を確かめるための話をした。
どちらも、すぐに結論を出したわけではない。
けれど、考える時間そのものが無駄だったとは思わなかった。
自分の気持ちを急いで決める必要がないことも、過去の事実を急いで決めつけてはいけないことも、少しずつ理解できるようになっていた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の卓へ向かい、今日の出来事を手帳へ書き留めた。
窓の外では、秋の風が木々の葉を揺らしている。部屋の中には温かな灯りがともされ、卓の上には二枚の試し縫いが並んでいた。
エレノアはまず、昼間の話し合いについて整理した。
「五」という数字は、五着の衣装を示しているとは限らない。
「西側保管」は、母の木箱が移された場所と同じとは限らない。
「ロラン」という文字は、ベアトリス・ロランを示しているかどうかも、どのような役割で記されたのかも、まだ分からない。
十月の日付についても、年と日付の読み取り、何の日付なのかという点が未確定のままだった。
エレノアは一つずつ書き終えると、筆を置いて手帳を見つめた。
分からないことが多い。
それは、昨日までと変わらなかった。
しかし、何も分からないという状態ではなくなっている。
少なくとも、どの部分を確かめる必要があるのかは、以前よりも明確になっていた。
(私は、早く答えを知りたい。でも、答えを急いで作ってしまったら、本当に起きたことを見失ってしまうかもしれないのね)
エレノアは静かに息を吐いた。
母の木箱を見つけたい。
失われた五着の衣装がどこへ行ったのかを知りたい。
父の屋敷で、自分の知らないうちに何が行われていたのかを確かめたい。
その気持ちは今も強い。
けれど、誰かを責めるための答えを探したいわけではなかった。
自分の過去を、自分のものとして理解したい。
そして、分からないことがあっても、これからの自分の生き方まで誰かに決められたくはなかった。
エレノアは手帳の次の頁へ、今日の刺繍について書き始めた。
昨日よりも青紫の糸を少なくした試し縫いを作ったこと。
朝と午後では、色の見え方が少し違っていたこと。
どちらの試し縫いにも、それぞれ好きなところがあったこと。
そして、まだ本番の刺繍へ紫の糸は加えていないこと。
書き終えると、エレノアは二枚の布を手に取った。
明日、また違う光の下で見てみよう。
そのときに好きだと思う色を、もう一度確かめればよい。
そう考えながら布を重ね、刺繍箱へ収めた。
リディアが夜の支度を整え終えると、エレノアは手帳を閉じた。
「リディア。今日は、少し頭を使ったけれど、よい一日だったわ」
エレノアが言うと、リディアは穏やかに微笑んだ。
「それは何よりでございます。お話し合いのあとも、お顔色が落ち着いていらっしゃったので、少し安心しておりました」
「ありがとう。分からないことが多いのは、やっぱり少し残念だけれど……今日は、分からないことをそのまま残しておくのも大切なのだと思えたの」
エレノアはそう言って、窓の外へ目を向けた。
「刺繍の色は、私が好きだと思うものを選べるでしょう。でも、記録に書かれたことは、私がそうであってほしいと思うだけでは決められないのね」
リディアはその言葉を聞き、少し考えてから頷いた。
「そうでございますね。けれど、どちらもエレノア様が大切になさっていることなのだと思います」
「ええ。どちらも、私にとって大切なことだわ」
エレノアは微笑んだ。
リディアは灯りを少し落とし、寝台の支度を整えた。
エレノアはゆっくりと横になり、柔らかな寝具へ身を預けた。
今日も、母の木箱は見つからなかった。
失われた衣装の行方も、まだ分からない。
傷んだ記録の頁については、保存に詳しい人物への相談が進むのを待つ必要がある。
王宮への拒否の声明も、まだ署名されず、送られていない。
解決していないことは、たくさん残っていた。
それでも、エレノアは以前ほど、すべてを一度に解決しなければならないとは思わなくなっていた。
(私が選べることは、私が選んでいこう。分からないことは、確かめられるまで大切に残しておこう。そして、今日のような穏やかな時間も、ちゃんと私のものとして覚えていたいわ)
エレノアは静かに目を閉じた。
まぶたの裏には、青い花びらへ少しだけ青紫を重ねた刺繍が浮かんでいる。
その花は、まだ完成していない。
けれど、未完成だからこそ、これから自分で選べる色が残っている。
エレノアはそのことを思いながら、穏やかな眠りへ落ちていった。




