第92話 青い花に重ねる私の色と、まだ名前のない記録の行方
翌朝、エレノアが目を覚ますと、窓の向こうには久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。
昨日まで庭園に残っていた雨の気配は薄れ、朝日を受けた木々の葉が、秋らしい柔らかな色を浮かべている。寝台から身を起こしたエレノアは、窓辺に置かれた青い花の刺繍へ目を向け、昨夜リディアと交わした約束を思い出した。
(今日は、お庭へ行けるかしら。あの青紫の花を、もう一度明るいところで見てみたいわ)
昨日は衣類の記録について多くの話を聞き、夜には自分の考えを手帳へ整理した。新しい資料が開かれたわけではなかったが、分からないことを無理に答えへ変えずに残しておく大切さを、以前よりもはっきり理解できたように思う。
窓の外では、庭師たちが朝の仕事を始めていた。エレノアは東側の園路へ視線を向けかけたものの、石畳の継ぎ目が持ち上がっている場所は、まだ修繕が終わっていないことを思い出す。
天気がよいからといって、安全が確認されたわけではない。
そう考えたところで、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「おはよう、リディア。もう起きているわ。どうぞ入ってちょうだい」
リディアは朝の衣装を抱えて入室すると、窓の外を見て微笑んだ。
「今日はよいお天気になりましたね。朝のうちに庭園の様子を確かめてまいりましたが、南側の園路は昨日より乾いているようでした。ただ、ギュスターヴ様から正式にお話を伺ってから、お出かけになった方がよろしいかと存じます」
「ありがとう。私も、今日は南側だけを歩こうと思っていたの。東側の道は、まだ直っていないものね」
「はい。昨日の雨で状態が変わっている可能性もございますので、確認が済むまでは近づかない方が安心でございます」
リディアはそう答えながら、衣装を椅子の背へ丁寧に掛けた。
エレノアは身支度を整えてもらいながら、今日の予定を思い浮かべた。
午前中は、できれば庭園で花を観察したい。そのあと、部屋へ戻って刺繍を少し進めるつもりだった。
衣類の記録についても気になることはあるが、昨日アルフォンスたちと確認したばかりである。保存に詳しい人物への相談先を探すには時間が必要だろうし、今朝になって急に新しい答えが届くとは思っていなかった。
「リディア。今日は、刺繍の色をもう一度考えてみようと思うの」
「青いお花の刺繍でございますね」
「ええ。紫の糸を加えるかどうか、まだ決められなくて。でも、昨日お祖母様と布の色を選んでいたら、急いで決めなくてもよいのだと思えたの」
リディアは髪を整える手を少し緩め、鏡越しにエレノアへ微笑んだ。
「それでしたら、今日は色を選ぶこと自体を楽しまれてはいかがでしょう。お嬢様が以前お作りになった試し縫いの布もございますし、見比べながら考えることができますもの」
「そうね。お母様の青い花を探すことと、私が自分の花を作ることは別なのだと、お祖母様もおっしゃっていたわ」
エレノアは鏡の中の自分を見つめながら、小さく頷いた。
母アデラインが作ったという青い花の刺繍は、今も見つかっていない。残された短い言葉と、祖母の記憶を手がかりに想像することはできても、どのような色や形だったのかを確かめる資料は足りなかった。
それでも、自分が作る花まで、分からない過去に合わせなければならないわけではない。
エレノアはそのことを思い出しながら、今日の衣装に袖を通した。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の状況について話していた。
ギュスターヴからの報告によれば、南側の園路は歩行に支障がない状態まで乾いているという。ただし、東側の曲がり角については石畳の下に水が残っている可能性があり、修繕方法を決めるための確認が続いていた。
「南側なら、今日は散歩をしてもよいそうだよ。ただし、花壇の縁にはまだ湿っている場所があるから、無理に近づかないようにね」
オーギュストが穏やかに言うと、エレノアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます、お祖父様。今日はリディアと一緒に、南側の花壇を見てこようと思っています」
「それはよかったわね。昨日はお部屋で過ごす時間が長かったでしょうから、外の空気を吸うのもよいと思うわ」
マルグリットはそう言って微笑んだ。
エレノアは祖母へ顔を向け、昨日一緒に選んだ布のことを思い出した。
「お祖母様。昨日見せていただいた膝掛けの布ですけれど、あの青みのある色が、やっぱり素敵だと思います。もしよろしければ、あとで刺繍の糸と並べて見てみたいです」
「まあ、それは楽しそうね。布と糸では色の見え方が違うでしょうし、きっと面白いわ」
マルグリットは嬉しそうに答えた。
その様子を見ていたセドリックが、少し笑みを浮かべた。
「エレノアは、最近ますます色を選ぶのが上手になっているようだね」
「まだ上手かどうかは分かりません。でも、以前よりも、どんな色が好きなのか考えるのが楽しくなりました」
エレノアは少し照れながら答えた。
「同じ青でも、明るいところと曇っているときでは違って見えるでしょう。お庭の花を見ていると、それがとても不思議なのです」
「確かに、光によって印象は変わるね。絵を描く人たちも、そうした違いを大切にするのだろうと思うよ」
セドリックはそう言って、窓の外へ目を向けた。
庭園の古い絵に描かれた母と幼い自分の姿を、エレノアはふと思い出した。
あの絵の裏には、アデラインとエレノアが庭園にいたことを示す言葉が残されていた。しかし、描かれた場所が南側の石の腰掛けなのかどうかは、まだ確かめられていない。
色や光を見つめることが、いつか絵のことを考える手がかりになるかもしれない。
そんな思いが浮かんだものの、エレノアは今すぐ何かを結びつけようとはしなかった。
朝食が終わりに近づいた頃、アルフォンスが静かに口を開いた。
「エレノア。昨日話した古い文書の保存についてだけれど、エレーヌが相談先の候補を調べ始めてくれているよ。まだ正式に依頼する段階ではないから、今日は特に何かを決めてもらう必要はない」
エレノアは頷いた。
「はい、叔父様。資料を安全に扱える方法が分かるまで、待とうと思っています」
「ありがとう。何か進展があれば、必ず伝えるよ」
アルフォンスの言葉に、エレノアは安心したように微笑んだ。
以前なら、調査が進まない時間に焦りを感じていたかもしれない。
けれど、今は誰かが慎重に準備を進めてくれていることも、調査の一部なのだと思えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、エレノアはリディアとともに庭園へ向かった。
屋敷の南側へ続く扉を開けると、雨上がりの土と草の匂いが、穏やかな風に乗って漂ってきた。空は明るく、木々の間から差し込む日差しが、石畳の上へ細かな模様を描いている。
エレノアは足元を確かめながら、ゆっくりと歩き始めた。
少し離れた場所では、庭師たちが植え込みの手入れをしていた。ギュスターヴ・メルシエもその近くにおり、エレノアたちの姿に気づくと、作業の手を止めて一礼した。
「エレノア様、おはようございます。今日はよいお天気になりましたね」
「おはようございます、ギュスターヴ。昨日の雨で、お庭のお仕事も大変だったのではありませんか」
「多少手間は増えましたが、南側は大きな問題もございません。東側の曲がり角については、まだ確認が必要ですので、引き続き近づかれないようお願いいたします」
ギュスターヴはそう答え、園路の向こうへ視線を向けた。
エレノアは頷いた。
「分かりました。今日は南側の花壇だけを見て帰ります。あの青紫の花が、まだ咲いているとリディアから聞いたので、少し楽しみにしていたのです」
「ええ。雨のあとは花びらが重くなることもございますが、あちらの花は今朝も綺麗に咲いておりましたよ。日が当たる時間には、昨日とはまた違った色に見えるかもしれません」
ギュスターヴの言葉に、エレノアは嬉しくなって微笑んだ。
「ありがとうございます。よく見てみますね」
庭師たちの仕事を妨げないように挨拶を終えると、エレノアはリディアとともに花壇へ向かった。
青紫の花は、低い植え込みの手前にまとまって咲いていた。
雨の雫はほとんど乾いていたが、葉の付け根にはまだ小さな水滴が残っている。花びらは朝日を受けて明るく見え、以前曇り空の下で眺めたときよりも、青い色がはっきりしているように感じられた。
「……本当に、違って見えるのね」
エレノアは花壇の縁から少し離れた場所で立ち止まり、花を見つめた。
「前に見たときは、もっと紫が強いと思ったの。でも、今日は青い部分が明るく見えるわ」
リディアも隣に立ち、同じ花へ目を向けた。
「そうでございますね。日差しが当たっているところと、葉の影になっているところでも、少し色が違って見えます」
「ええ。もし刺繍でこの花を作るなら、全部を同じ色にするより、少しずつ変えた方が自然なのかもしれないわ」
エレノアはそう言いながら、持参した小さな紙へ視線を落とした。
今日は花の形と色を簡単に記しておこうと思い、リディアに手帳とは別の紙を用意してもらっていた。エレノアは花壇へ近づきすぎない位置で紙を支え、花びらの向きや、光の当たり方を確かめながら線を引いていく。
細かな絵を描くのは得意というほどではない。
それでも、目の前にあるものをよく見て描こうとすると、普段は気づかない部分が見えてくる。
花びらの先端は、思っていたより丸みを帯びていた。中心に近いところでは色が少し濃く、外側へ向かうほど明るく見える。
エレノアは何度か紙と花を見比べ、ゆっくりと筆を動かした。
(お母様の青い花が、どんな形だったのかは分からない。でも、私が今見ている花は、こういう形をしているのね)
母の刺繍を探すことと、自分の花を作ること。
その二つを分けて考えられるようになったからこそ、目の前の花を素直に美しいと思えるのかもしれなかった。
しばらくして、リディアが穏やかに声をかけた。
「エレノア様、少し日差しが強くなってまいりました。あちらの木陰でお休みになってはいかがでしょう」
エレノアは顔を上げ、空を見た。
朝よりも日が高くなっており、庭園の石畳も明るく照らされている。涼しい風は吹いていたが、同じ場所に立ち続けていたため、少しだけ肩が疲れていた。
「そうね。ありがとう、リディア。もう少し描きたい気持ちもあるけれど、今日はこのくらいにしておくわ」
エレノアは紙を丁寧に重ね、リディアとともに木陰へ移動した。
そこから振り返ると、先ほどまで近くで見ていた花壇が、今度は庭園の景色の一部として見える。
青紫の花だけでなく、周囲の緑や石畳の淡い色が重なり、全体が落ち着いた印象になっていた。
「近くで見るのと、少し離れて見るのでも違うのね」
エレノアが呟くと、リディアは微笑んだ。
「刺繍も、近くで糸を選んでいるときと、完成したものを少し離れて眺めるときでは、印象が違いますものね」
「……本当ね。今日は、そのことも覚えておきたいわ」
エレノアはそう答え、描いた紙をもう一度見つめた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、屋敷の記録保管室では、エレーヌ・フォシェとマルタが古い帳簿の整理を進めていた。
問題の衣類の束は、傷んだ部分を動かさないように保管されたままである。二人はその原本に触れず、以前から確認されている帳簿の控えと、先日の開封時に作成した転記記録を机の上へ並べていた。
「こちらの帳簿は、記録者と確認者の欄が分かれていないものですね」
マルタが一枚の紙を指し示すと、エレーヌは頷いた。
「ええ。以前から、その点が問題になっていました。名前が記されていても、その人物が実際に何を担当したのか、欄だけでは判断できないのです」
エレーヌは机の上の一覧を確かめながら、静かに続けた。
「今回の記録にある『ロラン』という文字についても同じです。ベアトリス・ロランという人物の名は、以前の記録に出てきています。しかし、今回の文字がその人物を示しているのか、また何の役割で記されたのかは、まだ確かめられていません」
「はい。姓だけで判断してしまうのは危険ですね」
マルタは頷き、転記用紙の余白へ注意事項を書き加えた。
資料を調べていると、同じ名前や似た表現を見つけた瞬間に、何かがつながったように感じることがある。
けれど、その印象を事実として扱ってしまえば、あとから別の可能性が見つかったときに、記録全体の解釈を誤ることにもなりかねない。
エレーヌはそのことをよく理解していた。
「それから、『西側保管』についても、以前の木箱の移動記録とは別に整理しておきましょう。どちらも西側という言葉を含んでいますが、同じ保管場所を指しているとは限りません」
マルタは頷き、二つの資料の表題を別々の欄へ書き込んだ。
「エレノア様も、その点を気にされていましたね」
「ええ。ご自身の衣類やお母様の品に関わることですから、気になるのは当然でしょう。ただ、エレノア様は昨日、確認できたことと考えられることを分けていらっしゃったそうです」
エレーヌは少し表情を和らげた。
「私たちも、同じ姿勢で進めなければなりませんね」
マルタはその言葉を聞き、机の上の紙を丁寧に揃えた。
窓の外では、庭園の木々が穏やかな風に揺れている。明るい日差しが差し込む保管室の中で、二人は一つずつ記録を確かめていった。
しばらくして、マルタが小さく首を傾げた。
「エレーヌ様。こちらの一覧を見ていると、衣類の数を記している資料と、保管場所を記している資料では、書き方がかなり違うように思います」
「そうですね。数を示す欄があるものもあれば、場所の名称だけを記したものもあります。だからこそ、今回の『五』という数字を、すぐに衣類の数だと決めることはできません」
エレーヌはそう答え、マルタが示した箇所を確認した。
「ただ、今後ほかの資料を調べる際には、数字がどのような位置に書かれているかを比べることが役立つかもしれません。数量なのか、整理番号なのか、あるいは別の意味なのか、記録の形式から考えられることもあるでしょう」
マルタはその説明を聞き、一覧へ新しい欄を加えることにした。
数字の意味を決めるためではなく、数字がどのように使われているのかを確かめるための欄だった。
エレーヌはその作業を見守りながら、今後の調査について考えていた。
新しい頁を開くことができなくても、すでに確認した資料の扱い方を整えることで、次に必要なことが見えてくる場合はある。
ただし、そこから何かを断定するには、まだ十分な根拠がない。
エレーヌはその線引きを守りながら、午後にアルフォンスへ伝える内容を整理した。
◇ ◇ ◇
庭園から戻ったエレノアは、昼食までの時間を自室で過ごすことにした。
リディアが窓辺の卓を整えてくれたため、エレノアはそこへ刺繍道具と、以前作った試し縫いの布を並べた。
濃い青、淡い青、青紫。
それぞれの色は、糸巻きの状態で見ると少し似ているようにも感じられる。しかし、布へ縫い込んでみると、糸の重なり方や光の当たり方によって、印象が変わっていた。
エレノアは一枚ずつ手に取り、窓から差し込む光の下で見比べた。
「……この青紫は、思っていたよりも落ち着いた色なのね」
エレノアが呟くと、リディアは隣から覗き込んだ。
「先日お試しになった、少し柔らかい色の糸でございますね。濃い紫よりも、青い花びらになじみやすいように見えます」
「ええ。でも、全部の花びらへ使うと、少し印象が変わりすぎるかもしれないわ」
エレノアはそう言いながら、未完成の刺繍を試し縫いの布の隣へ置いた。
今の花びらには、淡い青と少し濃い青が重ねられている。紫の糸はまだ加えておらず、全体としては柔らかな青い花になりつつあった。
エレノアは庭園で描いた紙を取り出し、花の中心に近い部分へ目を向けた。
朝日を受けた花びらの外側は明るかったが、中心へ近づくほど青紫が深く見えていた。
「リディア。もし紫を使うなら、花びらの全部ではなくて、中心に近いところだけにしたらどうかしら」
リディアは少し考え、刺繍と試し縫いの布を見比べた。
「それでしたら、今の青い色を残しながら、少しだけ深みを加えられるかもしれません。ただ、実際に縫ってみると、思っていた印象と違うこともございますから……」
「そうね。まずは別の布で試してみるわ」
エレノアは頷き、新しい小さな布を用意した。
これまでの試し縫いとは違い、今回は青い糸で作った小さな花びらの一部へ、青紫の糸を少しだけ重ねることにする。
針を通す位置を確かめ、糸が強く引かれすぎないように気をつけながら、ゆっくりと縫い進めた。
細かな作業を続けているうちに、エレノアの呼吸は自然と落ち着いていった。
衣類の記録を調べるときには、どうしても過去の出来事を考えてしまう。
王宮への文書について考えるときには、まだ起きていないことへの不安が胸に広がる。
けれど、今は目の前の布と糸だけを見ていればよかった。
(この色を選ぶのは、私なのね。誰かが決めた色に合わせる必要も、失われた刺繍と同じものを作る必要もないのだわ)
エレノアは針を動かしながら、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。
しばらくして、試し縫いが一段落した。
エレノアは針を安全な場所へ置き、布を少し離して眺めた。
青い花びらの中心に、ほんの少しだけ青紫が重なっている。
大きな変化ではない。
けれど、光の当たり方によっては、花びらに奥行きが生まれたようにも見えた。
「……好きかもしれないわ」
エレノアは思わず微笑んだ。
リディアも布を眺め、穏やかに頷いた。
「綺麗でございますね。青い色を大切にしながら、少しだけ違う色が加わっているように見えます」
「ええ。今の花にも合うかもしれない。でも、今日はまだ本番の布には縫わないことにするわ」
エレノアはそう言って、試し縫いの布を丁寧に置いた。
「少し離れて眺めたり、夕方の光でも見てみたりしてから決めたいの。今朝のお庭で、光によって色が変わって見えることを、改めて感じたから」
リディアは微笑んだ。
「それがよろしいと思います。お嬢様が納得してから進められるのが、一番でございますものね」
エレノアは頷き、未完成の青い花の刺繍を手に取った。
今日は本番の布へ新しい色を加えなかったが、それでも自分の花について、少し考えが進んだように感じられた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。
昨日見せてもらった冬用の布について、刺繍の糸と色を比べてみたいと伝えると、マルグリットは嬉しそうに迎えてくれた。
卓の上には、昨日選んだ淡い灰色と青みのある布が並べられている。
エレノアは持参した試し縫いの布を取り出し、祖母へ見せた。
「お祖母様。今日は、お庭の花を見てから、少しだけ新しい色を試してみたのです」
マルグリットは布へ目を向け、柔らかく微笑んだ。
「まあ、綺麗ね。青い花びらの中に、少しだけ紫が入っているのかしら」
「はい。でも、まだ本番の刺繍には加えていません。明るいところと夕方では、色の見え方が違うので、もう少し考えてからにしようと思っています」
エレノアはそう答え、試し縫いの布を卓へ置いた。
マルグリットはその隣へ、青みのある冬用の布を並べた。
「こうして見ると、同じ青でもずいぶん違うものね。こちらの布は少し灰色がかっているけれど、刺繍の糸はもっと明るく見えるわ」
「本当ですね。糸だけで見ていたときには、もう少し似ていると思っていました」
二人は布を少し離して眺めたり、重ねてみたりしながら、色の違いを楽しんだ。
エレノアは祖母が布を扱う手つきを見つめているうちに、母のことを思い出した。
アデラインも、こうして糸や布を選んでいたのだろうか。
祖母から聞いた話によれば、母は自分で色を選ぶことを楽しんでいたという。
けれど、今のエレノアが知っているのは、そのような思い出の一部だけだった。
「お祖母様。お母様も、こうして色を並べて考えることがあったのでしょうか」
エレノアが尋ねると、マルグリットは少し懐かしそうに目を細めた。
「ええ。アデラインは、糸を選ぶときにずいぶん時間をかけることがあったわ。どの色がよいか迷っているというより、並べて眺めること自体が好きだったのかもしれないわね」
マルグリットはそう言って、手元の布を見つめた。
「ただ、どんな色を一番好んでいたかと聞かれると、簡単には答えられないの。作るものによって選ぶ色も違っていたし、その日の気分で変わることもあったでしょうから」
エレノアは静かに頷いた。
母が青い花を作りたいと書き残していたからといって、いつも青だけを好んでいたとは限らない。
それは、考えてみれば当然のことだった。
「……そうですよね。私も、青い花を作っているからといって、ほかの色が嫌いなわけではありませんもの」
「そのとおりよ。好きなものは、一つだけでなくてもよいのですから」
マルグリットは微笑んだ。
エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
母のことを知りたいと思うあまり、残された一つの言葉から、母のすべてを理解しようとしていたのかもしれない。
けれど、人の好きなものや考え方は、一つの記録だけで決まるものではない。
それは、衣類の帳簿を調べるときにも似ていた。
記録に書かれた一つの言葉を大切にしながらも、そこに書かれていないことまで決めつけない。
エレノアはそのことを思い出し、祖母へ微笑んだ。
「お祖母様。私、お母様のことを知りたい気持ちは変わりません。でも、分からないところは、分からないまま大切にしておこうと思います」
マルグリットは少し驚いたようにエレノアを見つめ、それから穏やかに頷いた。
「ええ。それでよいと思うわ。いつか新しいことが分かるかもしれないし、分からないまま残ることもあるでしょう。でも、アデラインを大切に思う気持ちまで、答えが見つかるかどうかで変わるものではないものね」
エレノアはその言葉を聞き、静かに息を吐いた。
祖母の声は、いつもより少し柔らかく感じられた。
卓の上では、青い糸と冬用の布が、午後の光を受けて穏やかな色を浮かべている。
エレノアはその景色を眺めながら、今この時間を大切にしたいと思った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、アルフォンスは記録保管室から届いた報告に目を通していた。
エレーヌたちは、以前の衣類帳簿と先日開いた記録について、照合する際の注意点を整理してくれたらしい。
報告には、表題の違い、記録欄の形式、数字の使われ方、名前が記された位置などを確認する必要があると書かれていた。
アルフォンスはその内容を読みながら、机の向かいに座るセドリックへ声をかけた。
「エレーヌたちは、かなり慎重に整理してくれているようだね」
セドリックは書類へ目を向け、頷いた。
「はい。今回の『五』という数字についても、数量なのか整理番号なのか、まだ判断できないことを明確にしてあります」
「そうだね。エレノアは五着の衣装を思い浮かべていたけれど、その考えをすぐに否定する必要も、正しいと決める必要もない。調べるべき可能性として残しておけばよいのだろう」
アルフォンスはそう言いながら、書類を一枚重ねた。
セドリックは静かに頷いた。
エレノアが自分の衣類について調べたいと望んでいることは、よく理解している。
ただ、衣装がどこへ行ったのかという問題と、母の木箱が見つからない問題を、同じ出来事として扱ってしまうのは危険だった。
記録に似た言葉があるからといって、同じ人物が関わっていたとも限らない。
「父上。保存に詳しい方への相談については、何か進展がありましたか」
セドリックが尋ねると、アルフォンスは首を横に振った。
「まだ候補を調べている段階だよ。エレーヌから、相談の際に伝えるべき情報を整理したいという話は聞いているけれど、正式な依頼先は決まっていない」
「そうですか。では、原本については引き続き今の状態を保つことになりますね」
「ああ。無理に動かす必要はないからね」
アルフォンスは穏やかに答えた。
セドリックはその言葉を聞き、少し安心したように息を吐いた。
あの日、エレノアが傷んだ頁を前にしていたときの表情を、彼は覚えている。
続きを読むことができない残念さと、資料を傷めたくないという気持ちが、同時に表れていた。
それでも、彼女は作業を止めることを受け入れた。
その判断を無駄にしないためにも、今は慎重に進める必要があるのだろう。
「エレノアには、今日の整理についても伝えた方がよいでしょうか」
セドリックが尋ねると、アルフォンスは少し考えた。
「急ぎの内容ではないから、明日でもよいと思うよ。ただ、本人が気にしていることだから、長く知らせずにおく必要もない。明日の都合を見て、落ち着いて話せる時間を作ろう」
「分かりました。僕も同席できるようにします」
セドリックは頷いた。
アルフォンスは書類を整えながら、もう一つの問題へ思いを向けた。
王宮へ提出する予定の文書についても、形式の確認を進めなければならない。
しかし、エレノア本人の署名はまだなく、拒否の声明も送られていない。
王宮から届いた回答は、あくまで手続きについての説明であり、婚約の問題が解決したことを意味するものではなかった。
アルフォンスはそのことを改めて意識し、書類を別の文書入れへ収めた。
エレノアの意思を示すための文書だからこそ、本人が納得できる形に整える必要がある。
その考えは、これまでと変わらなかった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の窓辺で、昼間作った試し縫いの布を眺めていた。
朝の光の下では明るく見えた青紫の糸が、今は少し落ち着いた色に見える。
リディアが用意してくれた灯りの近くへ布を寄せると、青い花びらの中心に加えた色が、柔らかな影のように浮かび上がった。
「……やっぱり、好きだわ」
エレノアは小さく微笑んだ。
朝に見たときとは違う印象だったが、嫌だとは思わなかった。
むしろ、光によって表情が変わるところが、庭園の花に似ているような気がした。
エレノアは未完成の刺繍を取り出し、試し縫いの布の隣へ置いた。
今すぐ紫の糸を加えたくなる気持ちもあった。
けれど、今日はまだ本番の布へ針を通さないと決めていた。
その約束を守り、エレノアは二枚の布を丁寧に重ねた。
(明日、もう一度見てから決めましょう。今日好きだと思った気持ちも、明日また確かめてみればいいのだもの)
エレノアはそう考え、刺繍道具を片づけた。
机の上には、庭園で描いた花の紙と、衣類の記録について整理した手帳が並んでいる。
片方は、今の自分が見つけた美しいものを残すための記録。
もう片方は、過去に何が起きたのかを確かめるための記録。
どちらも、エレノアにとって大切なものだった。
エレノアは手帳を開き、今日の出来事を書き留めた。
南側の園路は安全が確認され、久しぶりに庭園を歩けたこと。
青紫の花を観察し、光によって色が違って見えることを改めて感じたこと。
試し縫いの布で、青い花びらへ少しだけ青紫の糸を重ねたこと。
そして、祖母と話す中で、母のことを知りたい気持ちと、自分の好きなものを見つける気持ちは、どちらも大切にしてよいのだと思えたこと。
書き終えると、エレノアは筆を置いた。
今日も、衣類の記録について新しい答えが見つかったわけではない。
母の木箱も、青い花の刺繍も、まだ見つかっていない。
王宮へ提出する声明についても、正式な署名や送付は行われていなかった。
それでも、エレノアは今日一日を無駄だったとは思わなかった。
自分が何を好きなのかを考え、誰かとその気持ちを分かち合い、これから作るものを自分で選ぶ。
その時間は、失われたものを探す時間と同じくらい、大切にしてよいものだった。
リディアが夜の支度を整え終えると、エレノアは手帳を閉じた。
「リディア。今日は、お庭へ行けてよかったわ。明日もお天気がよければ、また花を見に行きたいけれど……まずは今日描いた紙を見ながら、刺繍の続きを考えてみることにするわ」
「それがよろしいかと存じます。お嬢様が楽しみにしていらっしゃることが増えて、私も嬉しく思います」
リディアは穏やかに答えた。
エレノアはその言葉を聞き、少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう。私も、こんなふうに毎日の小さなことを楽しみにできるようになるなんて、少し前までは思っていなかったの」
リディアはすぐには答えず、エレノアの表情を見つめた。
そのあと、静かに微笑んだ。
「これからも、そうした時間が増えていくとよろしいですね」
「ええ。私も、そう思うわ」
エレノアは頷き、寝台へ向かった。
横になると、窓の外から秋の風が木々を揺らす音が聞こえてきた。
今日見た青紫の花の色が、まぶたの裏に浮かぶ。
朝の光を受けた明るい青と、花びらの中心に残る柔らかな紫。
その色を思い浮かべながら、エレノアは静かに目を閉じた。
(お母様。私は、まだあなたの青い花を見つけられていません。でも、今は私自身の花を作ろうと思っています。いつかあなたの刺繍が見つかったら、そのときは、二つの花を並べて眺めてみたいです)
胸の中でそう語りかけると、不思議と穏やかな気持ちになった。
母のことを忘れたわけではない。
過去に起きたことを、諦めたわけでもない。
ただ、今の自分が生きる時間を、失われたものだけで満たさなくてもよいのだと、少しずつ思えるようになっていた。
エレノアは静かに息を吐き、柔らかな寝具へ身を預けた。
明日になれば、また調べるべきことがあるだろう。
傷んだ頁の保存について、新しい相談が進むかもしれない。
衣類の記録を照らし合わせる中で、これまで気づかなかった疑問が生まれることもあるだろう。
王宮への文書についても、いつか自分で署名する日が来るのかもしれない。
けれど、今夜はそのすべてを考え続ける必要はなかった。
エレノアは今日選んだ青紫の色を思い浮かべながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




