第91話 傷んだ頁を守るために、私たちが確かめた新しい手がかり
昨夜まで降り続いていた雨は、夜明け前には止んでいた。
ロシュフォール家の庭園には薄い霧が残り、濡れた石畳の上では、木々から落ちる雫が朝の光を受けて小さく輝いている。窓の外を眺めていたエレノアは、いつもより静かに感じられる庭園の様子に目を細めながら、肩へ掛けた薄手の布を少し引き寄せた。
雨が止んだからといって、すぐに地面が乾くわけではない。東側の園路には、以前から石の継ぎ目が持ち上がっている場所もあるため、今日は庭へ出るとしても屋敷に近い安全な道だけを歩くつもりだった。
(昨日、あれだけ雨が降ったのだもの。ギュスターヴたちも、朝から園路の様子を確かめているのかもしれないわ)
窓から少し離れた場所では、庭師らしい人影が植え込みの向こうを通り過ぎていった。エレノアはその姿を見送ったあと、机の上に置いてある手帳へ視線を移した。
手帳には、先日開いた衣類の記録について、確認できた文字と、まだ判断できない事柄が分けて記されている。頁をめくれば、何度も目にした短い言葉が並んでいたが、それらを一つの出来事として結びつけるには、まだ足りないものが多かった。
『衣類整理控』
『幼少時の衣類、保管分を別置』
『五』
『西側保管』
『ロラン』
十月という月の記載も確認できたものの、年は判明しておらず、日にちも十二日なのか十三日なのか確定していない。数字の「五」が衣類の数を示すのか、それとも別の整理番号なのかさえ、今の段階では判断できなかった。
エレノアは手帳を閉じず、そこへそっと指先を置いた。
(五着の衣装が分からなくなっていることと、この数字が関係していたら……そう考えてしまうのは自然なのかもしれない。でも、同じ数字だからというだけでは、何も確かめたことにならないわ)
自分の衣装のうち、所在が分からなくなっている五着については、以前から気にかけていた。母の木箱が西側の保管場所へ移されたという記録もあるため、似た言葉を見つけるたびに、別々の手がかりが一つにつながるような気がしてしまう。
けれど、エレーヌは資料を開く前から、読めた文字と、その文字から考えたことを分けるよう繰り返し説明してくれていた。昨日もセドリックと一緒に確認したばかりであり、エレノアはその約束を守りたいと思っていた。
扉の向こうから、控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お支度のお時間でございますが、お目覚めでいらっしゃいますか」
「おはよう、リディア。もう起きているわ。どうぞ入ってちょうだい」
リディアは衣装を抱えて入室すると、まず窓の方へ目を向けた。雨上がりの朝らしく室内の空気が少し冷えていることに気づいたらしく、寝台の近くに用意されていた肩掛けを確かめてから、エレノアへ穏やかに微笑んだ。
「今朝は雨が止みましたね。ただ、外はまだ湿っておりますので、今日は少し暖かいお召し物をご用意いたしました」
「ありがとう。今日はお部屋で過ごす時間が長くなると思うけれど、朝食のあとで少し歩きたい気持ちもあるの」
「それでしたら、屋敷の中の廊下を歩かれてはいかがでしょう。庭園は午後になってから様子を見ても遅くはございませんし、濡れた石畳でお足元を気にされるより、落ち着いてお過ごしいただけるかと存じます」
エレノアは窓の外を振り返り、まだ乾ききっていない園路を眺めた。花壇の様子を見たい気持ちはあったが、昨日の雨を思い出せば、リディアの提案はもっともだった。
「そうね。今日は無理に外へ出ないことにするわ。お庭の花は、明日になっても急になくなってしまうわけではないもの」
「はい。お嬢様が楽しみにしていらっしゃる青紫のお花も、今朝はまだ綺麗に咲いておりましたよ」
リディアの言葉に、エレノアは嬉しくなって微笑んだ。彼女が朝の仕事の途中で花壇を見てくれたのだと分かり、何気ない気遣いが胸に温かく残った。
身支度を整えてもらいながら、エレノアは今日の予定について尋ねた。
「叔父様は、昨日お話ししていた保存に詳しい方への相談を、今日から進められるのかしら」
「詳しいご予定までは伺っておりませんが、エレーヌ様とお話しになるお時間を設けられているそうです。資料を扱うお部屋へ、朝のうちに連絡が届いておりました」
「そうなのね。私も、何かお手伝いできることがあればよいのだけれど……」
エレノアが言いかけると、リディアは髪を整える手を止めずに、鏡越しに視線を合わせた。
「エレノア様が先日、ご覧になった文字を丁寧に書き留めてくださったことも、大切なお仕事だったと思います。今は、資料を傷めずに保管するための準備を、担当の方々へお任せする時間なのではございませんか」
エレノアはその言葉を聞き、しばらく考えた。
自分が何もしないでいる間にも、調査が進むことはある。誰かが専門家を探し、誰かが記録を整理し、誰かが資料を安全な場所で守ってくれているのだと思うと、待つことへの気持ちが少し変わった。
「……そうね。私が全部を確かめなければならないわけではないのよね」
「はい。ですが、お嬢様がお知りになりたいことを、皆様が大切にしてくださっているのも確かでございます」
リディアは最後の髪飾りを整え、鏡の中のエレノアへ柔らかく微笑んだ。
エレノアはその表情を見つめながら、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、雨上がりの庭園についてオーギュストが話していた。
ギュスターヴから届いた報告によれば、東側の曲がり角では石畳の下へ水が残りやすく、表面の状態だけを見て修繕を進めることは避けた方がよいという。庭師たちは周囲の通路を確認しながら、必要な場所への立ち入りを控えるよう、使用人たちにも知らせているそうだった。
「今のところ、屋敷の南側を通る道に問題はないそうだ。ただ、雨のあとの朝は滑りやすいところもあるから、今日の散歩は無理をしない方がいいね」
オーギュストがそう言うと、エレノアは頷いた。
「はい、お祖父様。リディアとも相談して、今日は屋敷の中を歩くことにしました。花壇へは、道が乾いてから行こうと思っています」
「それがいいわね。庭園の花は逃げませんもの」
マルグリットが微笑むと、エレノアもつられて笑った。
そのあと、話題は屋敷で使う冬物の布の準備へ移った。マルグリットは古くなった膝掛けの状態を確かめる予定があるらしく、必要ならエレノアにも布の色を見てもらいたいと話してくれた。
「刺繍をしていると、布の色にも興味が出てくるでしょう。新しいものを買うかどうかは別として、どんな色が合うか一緒に考えてくれたら嬉しいわ」
「ぜひ、見せてください。まだ詳しいことは分かりませんけれど、お祖母様と一緒に選べるなら楽しそうです」
エレノアはそう答えながら、少し前まで自分が衣類のことを考えるときには、失われたものや、勝手に扱われたものばかりを思い浮かべていたことに気づいた。
もちろん、それらを忘れたわけではない。しかし、これから使う布を選ぶという何でもない話題に、素直に楽しみを感じられるようになったことが、エレノアには嬉しかった。
朝食が終わりに近づいた頃、アルフォンスが静かに口を開いた。
「エレノア。今日、エレーヌとマルタに、先日確認した記録の保管について相談する予定なんだ。資料そのものをもう一度開くわけではないけれど、転記した内容と、これまでの帳簿をどのように照らし合わせるかも話すつもりでいる」
エレノアは手元の食器を置き、叔父へ顔を向けた。
「私も、そのお話を伺ってよろしいでしょうか。何か新しく分かったことがあれば、きちんと知っておきたいのです」
「もちろんだよ。ただし、午前中は資料の状態について担当者同士で確認することが中心になると思う。君には午後、整理した内容を伝える時間を取ろうと考えているんだが、それでもいいかな」
アルフォンスは急がせることなく、エレノアの返事を待った。
エレノアは少し考え、頷いた。
「はい。その方が、私も落ち着いてお話を聞けると思います。午前中は手帳を整理しておきますね」
「ありがとう。何かを新しく決める必要があれば、君にも相談するよ。少なくとも、君の知らないうちに資料を開き直すことはしない」
その言葉に、エレノアは安心したように息を吐いた。
セドリックが隣から穏やかに続けた。
「僕も午後には同席するつもりだよ。前に確認した文字について、どこまでが読み取れた内容なのか、もう一度一緒に整理しよう」
「ありがとうございます、お兄様。私、昨日も少し考えていたのですけれど、『五』という数字のことが、どうしても気になってしまって……」
言いかけたところで、エレノアは少し困ったように笑った。
「でも、今ここで考えても、答えが出るわけではありませんね」
「気になること自体は悪くないと思うよ。ただ、その数字を見たときに、何を連想したのかも別に書いておくと、あとで自分の考えを確かめやすくなるかもしれないね」
セドリックはそう言って、エレノアの手帳へ目を向けた。
「たとえば、五着の衣装を思い浮かべたのなら、そのことを隠さず書いてもいい。ただし、『記録にそう書かれていた』という欄とは、分けておく必要がある」
「……はい。そうしてみます」
エレノアは頷きながら、胸の奥にあった小さな引っかかりが、少し整理されたように感じた。
考えないようにするのではなく、考えたことを確定した事実と混ぜない。
それなら、自分にもできるかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
午前中、エレーヌ・フォシェは記録保管室の机に、二種類の紙を並べていた。
一方は、先日の開封でマルタが作成した転記の控え。もう一方は、開封作業の前後に確認した資料の状態を記した記録だった。
問題の原本は、作業を中断した際の状態を保ったまま、保護用の箱に収められている。エレーヌは今日、その箱を開けて紙面を確かめ直すつもりはなく、まずは手元に残された記録だけで相談に必要な情報を整えようとしていた。
「マルタ、こちらの記載について、もう一度確認してもらえますか」
エレーヌが指し示したのは、頁の下端に傷みが見られたという部分だった。
マルタは椅子を少し寄せ、記録用紙へ目を落とした。
「はい。開封を進めようとした際、紙の下側が弱くなっているように見えたため、それ以上動かさずに作業を止めました。実際にどの程度の傷みがあるのかは、専門の方に判断していただく必要があると思います」
「そうですね。私たちが見た範囲と、判断できなかった範囲を明確にしておきましょう。相談先の方へ伝えるときに、傷みの程度を断定してしまうのは避けたいですから」
エレーヌは静かに頷き、書類の端へ短い補足を加えた。
古い紙の状態を見慣れている彼女でも、すべての傷みを正確に判断できるわけではない。とりわけ今回のように、これまで長く封じられていた束については、紙同士がどのような状態で重なっているのか、外から見ただけでは分からない部分があった。
マルタはもう一枚の記録へ目を移した。
「相談の際には、表題や記載内容も伝えた方がよいのでしょうか。それとも、まずは紙の状態だけを説明した方がよろしいでしょうか」
「最初の問い合わせでは、資料の形状と傷みの状況、それから私たちがどのような作業をしたのかを中心に伝えるつもりです。内容の詳細については、必要になった範囲で相談することにしましょう」
エレーヌはそう答えたあと、机の上の転記用紙を丁寧に重ねた。
「この資料は、単に古い紙というだけではありません。記載されている人物や衣類について、まだ確認できていないことが多いのです。保存のために必要な情報と、調査のために扱う情報を、混同しないようにしたいと思っています」
マルタは頷き、開封時に立ち会った六人の名前が記された用紙を取り出した。
「エレノア様も、読み取れた内容と分からない内容を分けて書いていらっしゃいましたね。ご自身の衣類に関する資料なのに、あれほど慎重に確かめようとなさるのは、簡単なことではないと思います」
その言葉を聞き、エレーヌは少しだけ表情を和らげた。
十五歳の少女にとって、自分の幼少期の記録を開くことがどれほど大きな意味を持つのか、エレーヌにはすべてを理解できるわけではない。けれど、頁に書かれた文字を一つ確認するたび、エレノアが期待と不安の両方を抱いていることは、そばで見ていて分かった。
「だからこそ、私たちも急いではいけないのでしょうね。早く答えを見つけて差し上げたいという気持ちがあっても、資料を傷めてしまえば、あとから確かめられるはずだったことまで失われてしまいます」
エレーヌはそう言って、転記の控えをもう一度確認した。
そのとき、マルタが別の紙を取り出した。
「エレーヌ様、こちらも相談しておきたいのですが……以前の衣類帳簿と照らし合わせる場合、表題が似ている資料を先に探した方がよいのでしょうか」
エレーヌは差し出された紙を受け取り、内容を確かめた。
それは新しく見つかった原本ではなく、これまでに確認していた衣類関係の帳簿について、マルタが整理した一覧だった。記録が作られた時期や、表題の形式、確認できる署名欄の有無などが、簡潔に書き分けられている。
「なるほど。これは役に立ちそうですね。ただ、表題が似ているからといって、同じ目的で作られた資料とは限りません。まずは、どの帳簿に何が記載されているかを整理するところから始めましょう」
エレーヌは一覧の一箇所へ指を置いた。
「それから、記録者と確認者の欄が一緒になっている帳簿については、名前が書かれていても、その人物が何を担当したのか分からない場合があります。そこを明確にしないまま、今回の『ロラン』という記載と結びつけるのは避けるべきです」
「はい。以前の帳簿でも、その点はまだ確認できておりませんでした」
マルタは頷き、一覧の余白へ注意事項を書き加えた。
保管室の窓の外では、雨上がりの風が木々を揺らしている。エレーヌはその音を聞きながら、机の上に積み重なった紙を見つめた。
答えに近づくためには、新しい資料を開くことだけが必要なのではない。
すでに読めているものを、誤らずに扱うことも、同じくらい大切なのだと彼女は考えていた。
◇ ◇ ◇
昼前、エレノアは自室で手帳を整理していた。
窓から差し込む光は朝よりも明るくなり、机の上には木々の枝の影が細く伸びている。リディアが用意してくれた温かい飲み物からは、穏やかな香りが立ち上っていた。
エレノアは先日確認した文字を一つずつ読み返したあと、手帳の新しい頁に二つの見出しを書いた。
『確認できたこと』
『考えられること』
前者には、転記された文字と、その判読に関する留保だけを記す。後者には、自分が思い浮かべた疑問を書き加えることにした。
たとえば「五」という数字については、衣装の数を示す可能性を考えている。しかし、実際には何を数えているのか分からず、五着の不明衣装と一致するという証拠もない。
エレノアはそのことを丁寧に書き留めた。
(こうして書いてみると、私は思っていた以上に、数字の意味を決めつけそうになっていたのね)
文字を見た瞬間に何かを連想することは、止められない。けれど、その連想をそのまま答えにしてしまわないようにすることなら、意識してできるはずだった。
続いて、「西側保管」という記載について考える。
母の木箱が西側の保管場所へ移されたという以前の記録は、すでに確認されている。しかし、今回の資料に書かれた「西側」が同じ場所を指すのかどうかは、まだ分かっていなかった。
屋敷や家の中では、同じ方角を示す言葉が複数の場所に使われることもある。エレノアは、実際の場所を確かめるためには、資料が作られた時期や保管場所の名称を調べる必要があるのだろうと考えた。
そこまで書いたところで、リディアが静かに声をかけた。
「エレノア様、少しお休みになられてはいかがでしょう。先ほどから、ずっと同じ姿勢でいらっしゃいます」
エレノアは顔を上げ、窓の外へ目を向けた。
いつの間にか日差しの向きが変わっており、机の端まで伸びていた影が短くなっている。思っていたより長く手帳へ向かっていたことに気づき、エレノアは筆を置いた。
「そうね。ありがとう、リディア。書き始めたら、つい夢中になってしまったわ」
「お嬢様が熱心に取り組んでいらっしゃることは存じております。でも、午後にもお話を聞かれるのでしたら、少しお休みになった方がよろしいと思います」
リディアはそう言いながら、窓辺の椅子へ目を向けた。
エレノアは手帳を閉じ、椅子へ移ることにした。窓の近くには、昨日少し進めた青い花の刺繍が置かれており、淡い青の糸が日差しを受けて柔らかく見えている。
「刺繍も、今日は少しお休みした方がよさそうね。手帳を書いていたら、思ったより指が疲れてしまったみたい」
「それでしたら、お茶を飲みながらお庭を眺めてはいかがでしょう。何も作らずに過ごす時間があっても、よろしいと思いますよ」
エレノアはその提案に微笑んだ。
以前の自分なら、何もしない時間があると、何か役に立つことをしなければならないような気持ちになっていたかもしれない。けれど今は、誰かに認めてもらうためだけに時間を使わなくてもよいのだと、少しずつ思えるようになっていた。
椅子に腰を下ろし、温かい飲み物を手に取る。
窓の外では、雨に濡れた葉がゆっくりと乾き始めていた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアがアルフォンスの執務室を訪ねると、室内にはすでにセドリックがいた。
机の上には数枚の書類が整えられ、窓際の小さな卓には、茶器が用意されている。アルフォンスはエレノアの姿を見ると、手元の紙を置き、穏やかに椅子を勧めた。
「来てくれてありがとう、エレノア。午前中にエレーヌたちと話ができたので、今日はその内容を伝えようと思っているよ」
「はい、叔父様。よろしくお願いいたします」
エレノアが腰を下ろすと、リディアはその少し後ろへ控えた。
セドリックはエレノアの表情を確かめ、無理をしていない様子に安心したように微笑んだ。
「今日は、何か新しい頁を開いたわけではないからね。まずは資料を安全に保管するための話が中心になるよ」
「はい。原本を動かさないと決めたことは、私も大切だと思っています」
エレノアが答えると、アルフォンスは頷いた。
「エレーヌによれば、傷んだ部分を今の状態からさらに開こうとするのは避けるべきだそうだ。そこで、古い文書の保存について相談できる相手を探すことにした。ただし、まだ誰に依頼するか決まったわけではないし、資料を預けることも決めていない」
エレノアは真剣な表情で耳を傾けた。
「では、まずはどのような方に相談できるのかを調べるのですね」
「そうだよ。紙の状態を見ていただく必要があるのか、それとも保管方法について助言を受けるだけでよいのかも、今の段階では判断できない。エレーヌたちが確認した状況を整理して、適切な相談先を探すところから始めるつもりだ」
アルフォンスは机の上の書類を一枚取り上げた。
そこには、資料の形状や開封作業の経過について、簡潔にまとめられていた。エレノアは叔父から示された部分へ目を通し、紙の下端に傷みが見られたため作業を中断したという記載を確かめた。
「……ここに、作業を止めた理由も書いてあるのですね」
「ああ。何が起きたのかを正確に伝えるためには、そこが必要だからね。ただし、紙がどの程度傷んでいるかについては、私たちだけで断定しないようにしている」
エレノアはその説明を聞き、少し考えた。
あの日、エレーヌが手を止めたときには、続きが読めないことを残念に思う気持ちもあった。けれど、こうして記録を見返すと、無理に進めなかったからこそ、次の方法を考えられているのだと分かる。
「私は、あのとき止めていただいてよかったと思っています。もし無理に開いて、文字が読めなくなってしまったら……あとから何を確かめたくても、できなくなってしまいますもの」
エレノアは静かに言った。
アルフォンスはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「そうだね。今回の資料は、今すぐすべてを読まなければならないものではない。時間をかけてでも、確かめられる状態を守ることが大切だと思うよ」
セドリックも頷き、別の書類へ目を向けた。
「それから、エレーヌたちは既存の衣類帳簿との照合についても整理してくれたんだ。こちらは原本を新しく開かなくても進められる部分だから、今後の調査に役立つかもしれない」
エレノアは顔を上げた。
「以前確認した帳簿と、今回の記録を比べるのですね」
「そう。ただし、同じ言葉が出てきたからといって、すぐに同じものを指しているとは判断しない。どの資料がいつ、どのような目的で作られたのか、分かる範囲を整理するところから始めるんだ」
セドリックは机の上の一覧をエレノアへ示した。
そこには、以前確認した衣類関係の帳簿について、表題や記録の形式が書き分けられていた。エレノアは一つずつ目を通しながら、記録の種類によって、書かれている情報が異なることに気づいた。
「同じ衣類のことでも、帳簿によって記し方が違うのですね」
「うん。だから、表題だけで判断しない方がいいと思う。たとえば、受け渡しを記したものと、保管場所を整理したものでは、同じ衣装が載っていても意味が違うかもしれないからね」
エレノアはその説明に頷いた。
衣装の所在を知りたいという気持ちが強いと、どの記録も同じ答えを示してくれるように考えてしまう。しかし、記録にはそれぞれ作られた目的があり、何が書かれていないかにも理由があるのかもしれなかった。
「……私、今まで少し、帳簿というものを一つのまとまりとして考えすぎていたのかもしれません」
エレノアは手元の紙を見つめながら言った。
「衣装のことが書いてあれば、どの帳簿でも同じように調べられると思っていました。でも、記録した人が何を残そうとしていたのかによって、分かることも違うのですね」
セドリックはその言葉に微笑んだ。
「そうだと思うよ。だからこそ、今回の『衣類整理控』という表題も、まずはそのまま受け止めたい。何のために作られた控えなのかは、まだ分からないのだからね」
エレノアは頷き、持参した手帳を開いた。
午前中に書き分けた二つの見出しを見せると、セドリックは少し驚いたように目を細めた。
「これは、今日整理したのかい」
「はい。お兄様が昨日おっしゃっていたことを思い出して、確認できたことと、考えられることを分けてみました」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「まだ上手に整理できているか分かりませんけれど、書いているうちに、自分が何を決めつけそうになっているのか、少し見えるようになった気がします」
セドリックは手帳へ目を向け、エレノアが記した文章を静かに読んだ。
そのあと、彼はすぐに褒め言葉を口にするのではなく、少し考えてから答えた。
「いい整理の仕方だと思うよ。特に、五着の衣装との関係を『考えられること』の方へ書いているのが大切だね。気になったことを忘れずに残しながら、まだ分かっていないことも明確にできている」
エレノアは安心したように息を吐いた。
「ありがとうございます。『西側保管』についても、母の木箱の移動と関係があるのか気になりました。でも、同じ西側というだけでは、同じ場所かどうか分からないので……」
「そのとおりだよ。保管場所の呼び方が資料ごとに同じなのかも、確認する必要があるだろうね」
セドリックはそう答え、アルフォンスへ目を向けた。
「父上、以前の木箱の移動記録と、今回の衣類整理控については、別々の資料として整理しておいた方がよさそうですね」
「ああ。関連がある可能性は残しておいてもいいけれど、現時点では同一の出来事と扱わないようにしよう」
アルフォンスは頷いた。
エレノアは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥にあった期待が、静かに形を変えていくのを感じた。
何かがつながるかもしれないという気持ちは、今もある。けれど、そのつながりを急いで作らなくても、調べるべきことは少しずつ明らかになっているのだった。
◇ ◇ ◇
話し合いが一段落したところで、アルフォンスは机の端に置いていた別の書類を取り上げた。
「それから、王宮への文書についても一つ伝えておきたいことがある。今日は新しい返事が届いたわけではないけれど、提出用の形式について、こちらで整理できる部分を確認しているところなんだ」
エレノアは静かに顔を上げた。
第二王子との婚約に関わる話題になると、今も胸の奥に緊張が生まれる。けれど、アルフォンスが急に署名を求めたり、本人の知らないところで文書を送ったりしないことは、これまでのやり取りで確かめられていた。
「以前、王宮から届いた回答では、私自身の署名が必要になるとされていたのですよね」
「ああ。ロシュフォール家から事情を説明する書簡を送ることはできるけれど、君本人の意思を示す文書も添えることが望ましいという回答だった。ただし、その文書を誰が最終的に読むのかについては、保証を得られていない」
アルフォンスは以前の説明を確認するように答えた。
「そこで、今ある三文の声明をそのまま大切にしながら、日付や宛先など、提出する際に必要になる形式を別に整理しようと考えている。本文を書き換えるかどうかを決める話ではないし、今日署名してもらうつもりもないよ」
エレノアはその言葉を聞き、少し肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。私は、あの三つの文章で伝えたいことを、変えたくありません。必要な形式を整えることには賛成ですけれど、内容については、もう一度自分で確かめてから決めたいです」
「もちろんだよ。君の意思を伝えるための文書なのだから、その点は大切にしよう」
アルフォンスはそう答え、書類を机へ戻した。
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
自分の名前で、婚約を望んでいないことを伝える。
その行為がどれほど大きな意味を持つのか、考えれば考えるほど怖くなることもある。第二王子レオナードがその文章を読む可能性を、完全に否定できないという事実も変わっていなかった。
(あの人が読むかもしれないと思うと、今でも怖いわ。でも、だからといって、父の返書が私の意思だったことにされるのは、もっと嫌なの)
エレノアはゆっくりと息を整えた。
ここにいる叔父と従兄は、自分の言葉を聞いてくれている。かつての人生で何が起きたのかを知らないまま、それでも自分が望まない婚約を受け入れなくてよいように、できることを考えてくれていた。
「叔父様。正式な文書を提出するときには、今の私の姓で署名することになるのですよね」
「ああ。養子縁組の手続きはまだ完了していないから、現在の正式な姓はベルナールだ。その点については、誤りのないようにする必要がある」
アルフォンスは穏やかに答えた。
エレノアは頷いた。
ベルナールという姓には、複雑な思いがある。
父ロベルトが、自分の意思を確かめないまま婚約受諾の返書を送ったことは、今も忘れられない。けれど、正式な姓がベルナールだからといって、父の考えと自分の考えが同じになるわけではなかった。
「……分かりました。今の私の名前で、自分の意思を示したいと思います」
エレノアがそう言うと、アルフォンスは静かに頷いた。
セドリックも、すぐには言葉を挟まなかった。
窓の外では、雲の切れ間から差し込んだ光が庭園の木々を照らしている。エレノアはその明るさへ一度目を向け、胸の奥に残る不安を抱えたまま、もう一度叔父へ顔を向けた。
「ただ、署名する前には、王宮へ提出する文書の全体を見せてください。私の三つの文章が、どのような説明と一緒に送られるのかも、きちんと知っておきたいのです」
「もちろんだよ。ロシュフォール家から添える説明も、君が確認できるようにしよう。君の知らないうちに、意味が変わるような文章を付け加えることはしない」
アルフォンスの返事を聞き、エレノアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、叔父様」
その声には、先ほどまでより少しだけ確かな響きがあった。
◇ ◇ ◇
エレノアが執務室をあとにしたのは、午後の日差しが傾き始めた頃だった。
リディアとともに廊下を歩きながら、エレノアは窓の向こうに広がる庭園を眺めた。朝には濡れていた石畳も、日当たりのよい部分は少しずつ乾き始めている。
「今日は、いろいろなお話を伺えましたね」
リディアが穏やかに声をかけると、エレノアは頷いた。
「ええ。でも、不思議なの。新しい頁を開いたわけでも、王宮へ文書を送ったわけでもないのに、少し前へ進めたような気がするの」
エレノアはそう言ってから、手元の手帳を見つめた。
「以前の私は、何かを見つけたり、答えを聞いたりしなければ、調べている意味がないと思っていたのかもしれないわ。でも、今は違う気がするの」
リディアは歩く速さを合わせながら、静かに耳を傾けていた。
「資料を傷めないために相談先を探すことも、書かれている文字を正しく整理することも、次に進むためには必要なのね。私は、早く答えを知りたい気持ちばかりを大切にしていたのかもしれない」
「早くお知りになりたいと思うのは、当然のことだと存じます。お嬢様にとって、大切な記録なのですから」
リディアは柔らかく答えた。
「ですが、今日のお話を聞いて、待っている間にもできることがあると分かったのでしたら、それはよいことなのではございませんか」
エレノアはその言葉に微笑んだ。
「そうね。待つことと、諦めることは違うのだもの」
廊下の先には、午後の光を受けた窓が並んでいた。
エレノアはその明るさへ向かって歩きながら、ふと母アデラインのことを思い浮かべた。
母が残したものは、まだ見つかっていないものの方が多い。野薔薇の彫刻が施された木箱も、青い花の刺繍も、肖像画も、どこにあるのか分からないままだった。
けれど、母のことを知る手がかりが、何もないわけではない。
祖母が話してくれた思い出や、庭園の古い絵、残された短い言葉。どれも小さなものかもしれないが、エレノアにとっては大切なものだった。
(私は、お母様のことをもっと知りたい。でも、そのために、今あるものを壊してしまいたくはないわ)
エレノアは胸の中でそう思い、手帳を抱える腕に少しだけ力を込めた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、セドリックはアルフォンスの執務室に残り、先ほどの話し合いで使った書類を整理していた。
エレノアが退出したあと、室内には静かな時間が戻っている。アルフォンスは机の上に置かれた王宮への提出文書の控えを確かめながら、必要な記載事項について短い覚え書きを作っていた。
「父上。エレノアは、以前より自分の考えをはっきり伝えられるようになりましたね」
セドリックがそう言うと、アルフォンスは筆を止めた。
「ああ。最初の頃は、何かを尋ねるときにも、ずいぶん遠慮していたように思うよ。今は、自分が何を望んでいて、何が不安なのかを、少しずつ言葉にしてくれるようになった」
アルフォンスは静かに答えた。
セドリックは先ほどエレノアが見せた手帳を思い出した。
確認できたことと、考えられることを分けた頁。
あの小さな工夫には、彼女が何度も考え、迷いながら、自分なりの方法を見つけようとしていることが表れていた。
「衣類の記録についても、以前なら、何かが分かるかもしれないという期待の方が強かったのかもしれません。でも今日は、分からないことを分からないまま残すことにも、意味があると考えていました」
「そうだね。ただ、あの子が落ち着いて見えるからといって、負担がなくなったわけではないだろう。母親の遺品を探すことも、望まない婚約を拒むことも、簡単な問題ではないのだから」
アルフォンスはそう言って、書類を一枚重ねた。
セドリックは頷いた。
「僕も、できるだけ力になりたいと思っています。ただ、答えを急いで見つけようとするあまり、エレノア自身が考える時間を奪わないようにしたいです」
「それが大切だろうね。私たちは必要な手続きを整え、危険があれば止めることはできる。でも、あの子の代わりに何を望むか決めることはできない」
アルフォンスは息子へ穏やかな視線を向けた。
セドリックはその言葉を受け止め、しばらく考えた。
エレノアが第二王子との婚約を強く拒む理由について、彼はまだすべてを知らない。会ったことのない相手に対して、なぜあれほど深い不安を抱いているのか、気にならないわけではなかった。
けれど、理由が分からないことと、本人の意思を尊重しないことは別だった。
「父上。王宮へ提出する文書については、今後もエレノアが確認できるように進めましょう。あの子が自分で書いた言葉を、こちらの都合で曖昧にすることだけは避けたいです」
セドリックがそう言うと、アルフォンスは静かに頷いた。
「ああ。私も同じ考えだよ」
執務室の窓の外では、雲の影が庭園をゆっくりと横切っていた。
セドリックはその景色へ一度目を向け、幼い頃にアデラインからもらった刺繍入りの小さな布袋を思い出した。今も大切にしているその品を、エレノアが母の手仕事について考えるきっかけにしてくれたことは、彼にとっても嬉しい出来事だった。
ただ、母の遺品や幼少期の記録が、どこまでつながっているのかは分からない。
セドリックは、答えを急がずに調べていこうと考えながら、最後の書類を整えた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットの部屋で、冬に使う布を見せてもらっていた。
卓の上には、落ち着いた色合いの布が数種類並べられている。柔らかな灰色や淡い茶色、少し青みを含んだ布もあり、エレノアはそれぞれの色を見比べながら、祖母の説明を聞いていた。
「こちらは、以前使っていた膝掛けの布なのよ。まだ傷んでいない部分もあるから、全部を新しくする必要はないと思っているの」
マルグリットは一枚の布を手に取り、端の縫い目を見せてくれた。
「ただ、長く使っているものだから、縁の部分は少し直した方がよさそうね。新しい布を足すなら、どんな色がよいか考えていたところなの」
エレノアは布へ指先を添え、少し考えた。
「こちらの淡い灰色も綺麗ですけれど、青みのある布を合わせると、少し明るく見える気がします。お祖母様は、どちらがお好きですか」
マルグリットは二枚を並べ、窓から入る光の下で見比べた。
「そうね。私は落ち着いた色が好きだけれど、少し明るさがあってもよいかもしれないわ。エレノアが言うように、青みのある布も素敵ね」
エレノアは嬉しくなって微笑んだ。
誰かと一緒に布を選ぶ時間は、思っていたより楽しかった。
衣類の記録を調べるときには、布や衣装が過去の問題と結びついてしまうこともある。しかし、今目の前にある布は、これから祖母が使うものだった。
エレノアはその違いを感じながら、もう一枚の布を手に取った。
「お祖母様、この色も合わせてみてもよろしいでしょうか。少しだけ青が濃いので、縁に使うと綺麗かもしれません」
「もちろんよ。実際に並べてみましょう」
二人は布を重ねたり、少し離して眺めたりしながら、色の組み合わせを考えた。
マルグリットは時折、エレノアがどのような理由で色を選んだのか尋ねてくれた。エレノアは最初こそ少し迷ったが、自分が綺麗だと思った理由を、無理に難しい言葉へ変えずに伝えることにした。
しばらくして、祖母が穏やかに微笑んだ。
「エレノアは、青い色が好きなのね」
エレノアは少し驚き、それから自分が選んだ布を見つめた。
「……そうかもしれません。青い花の刺繍を始めてから、いろいろな青を見るのが楽しくなったのです」
「それは素敵なことね。好きなものが増えると、同じ景色でも違って見えることがありますもの」
マルグリットはそう言いながら、布を丁寧に畳んだ。
エレノアはその言葉を聞き、庭園の青紫の花を思い浮かべた。
母が好きだった色を知りたいという気持ちから始めた刺繍だったが、今は自分自身が青い色を好きになっている。母の残したものを探すことと、自分の好きなものを見つけることは、必ずしも同じではないのだと感じた。
「お祖母様。私、今作っている青い花の刺繍を、急いで完成させないことにしました」
エレノアは布を畳む祖母の手元を見ながら言った。
「最初は、お母様の青い花のことを知りたくて始めたのです。でも、今は自分がどんな花を作りたいのかも考えるようになりました。だから、好きな色が見つかるまで、少しずつ進めたいのです」
マルグリットは手を止め、エレノアへ優しく微笑んだ。
「それでよいと思いますよ。アデラインの刺繍を探すことと、あなた自身の刺繍を作ることは、別々に大切にしてよいのですから」
その言葉が、エレノアの胸へ静かに染み込んだ。
母の刺繍が見つからないことは、今も寂しい。
けれど、自分が作っている花を、失われたものの代わりにしなければならないわけではない。そう思えるようになったことが、エレノアには嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕食を終えて自室へ戻る頃には、屋敷の窓の外はすっかり暗くなっていた。
雨上がりの夜空には雲が残っていたが、ところどころに薄い星の光が見える。廊下の灯りを受けた壁には柔らかな影が揺れ、使用人たちが夜の仕事を進める気配が、遠くから静かに伝わってきた。
エレノアは自室へ入ると、まず机の上へ手帳を置いた。
今日の話し合いで分かったことを、忘れないうちに整理しておきたかった。
リディアが夜の支度を進める間、エレノアは手帳を開き、午後に聞いた内容を一つずつ書き留めていく。
原本の再開封は行っていないこと。
傷んだ紙について、保存に詳しい人物への相談先を探していること。
以前の衣類帳簿との照合は、記録の目的や形式を確認しながら進めること。
そして、「五」「西側保管」「ロラン」の意味は、まだ確定していないこと。
エレノアは最後の一行を書き終えると、筆を置いた。
文字にしてみれば、今日新しく判明した事実は多くない。けれど、調査を進めるために何を大切にするべきか、以前よりはっきりしたように感じられた。
(私は、答えが欲しいのね。お母様のことも、衣装のことも、どうして私の知らないところで物が動かされていたのかも……でも、答えが欲しいからこそ、確かめ方を間違えてはいけないのだわ)
エレノアは静かに息を吐き、手帳の余白へ短い言葉を書き加えた。
『分からないことを、急いで答えにしない。』
その一文を見つめているうちに、昼間のアルフォンスやセドリックの言葉が思い出された。
原本を守ること。
記録の目的を確かめること。
自分の意思を示す文書についても、何を提出するのか納得してから署名すること。
どれも、急がずに進める必要があるものだった。
エレノアは手帳を閉じ、机の上の文書入れへ目を向けた。
そこには、第二王子との婚約を望まないという三文の声明の控えが収められている。原本はアルフォンスが保管しており、今も署名されていない。
王宮へ送られたのは、手続きについての問い合わせだけだった。
その回答によって、本人の署名がある文書を提出する道筋は少し見えてきたものの、正式な拒否が認められたわけではない。自分の文章を誰が読むのかという不安も、まだ残っている。
エレノアは文書入れを開こうとして、手を止めた。
今日はすでに、叔父と必要な話をしている。
今夜もう一度声明を読み返しても、すぐに新しい答えが出るわけではないだろう。
(明日、また考えればいいわ。今日決めたことまで、夜のうちに疑い直す必要はないもの)
エレノアは文書入れへ触れず、代わりに机の端へ置いていた青い花の刺繍を手に取った。
淡い青と少し濃い青を重ねた花びらは、まだ完成していない。紫の糸を加えるかどうかも決めていないが、今日はそのことを急いで考えるつもりはなかった。
布の端を指先で支え、少し離して眺める。
窓辺の明るい光の下とは違い、夜の灯りでは青が落ち着いた色に見えた。
「……綺麗ね」
エレノアが小さく呟くと、夜の支度を整えていたリディアが振り返った。
「青いお花の刺繍でございますか」
「ええ。まだ途中だけれど、今日見たら、今の色も好きだと思えたの。紫を加えるかどうかは、もう少し考えてからにするわ」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「それがよろしいかと存じます。お嬢様がご自分で選ばれた色ですものね」
エレノアは頷き、刺繍を元の場所へ戻した。
そのあと、壁際の棚へ目を向けた。
そこには、完成した桃色の野薔薇の刺繍が、古い木枠に収められて飾られている。棚の上で安定するように置かれたその作品は、今もエレノアの部屋に穏やかな彩りを添えていた。
母が使っていた木枠に、自分が作った花を収めたもの。
その姿を見るたび、エレノアは少しだけ安心する。
母の残したものをすべて取り戻せなくても、今の自分が大切にできるものはある。過去を調べることと、これからの日々を生きることは、どちらか一方を選ばなければならないものではなかった。
リディアが寝台の支度を終えると、エレノアは椅子から立ち上がった。
「リディア、今日もありがとう。明日は、少しだけ刺繍を進めたいわ。それから、もしお天気がよければ、庭園の花も見に行きたいの」
「承知いたしました。朝になりましたら、お庭の様子を確かめてまいりますね。お足元が安全でしたら、暖かい時間にお出かけになりましょう」
リディアは丁寧に答えた。
エレノアは微笑み、寝台へ向かった。
横になると、窓の外から風に揺れる枝の音がかすかに聞こえてきた。雨のあとの庭園は、夜になってもどこか湿った空気を残しているらしく、いつもより静かな気配に包まれていた。
エレノアは目を閉じ、今日の出来事をゆっくりと思い返した。
傷んだ頁は、まだ開けない。
母の木箱も、失われた衣装も、所在は分からない。
王宮への正式な声明も、まだ送っていない。
それでも、今日一日を過ごした自分は、昨日までとまったく同じ場所に立っているわけではなかった。
分からないことを整理し、助けてくれる人々の話を聞き、自分が望むことを言葉にした。
そして、明日もまた、自分の意思で一日を過ごそうとしている。
(急がなくても、私は進んでいるのね。まだ答えが見つからなくても、今日確かめたことを大切にしていけば、いつか次の手がかりへたどり着けるかもしれない)
その思いを胸に、エレノアはゆっくりと息を吐いた。
明日になれば、また新しい疑問が生まれるかもしれない。調べても分からないことが増えたり、王宮からの知らせに不安を覚えたりする日もあるだろう。
けれど、今夜はそのすべてを考え続ける必要はなかった。
自分の言葉を大切にすることも、傷んだ記録を守ることも、誰かと相談しながら進めてよいのだと、今日のエレノアは知っている。
窓の外で木々が静かに揺れる音を聞きながら、エレノアは少しずつ眠りへ落ちていった。




