第90話 まだ結ばれない記録の糸と、私が選ぶ次の一歩
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。
昨日まで庭園を明るく照らしていた秋の日差しは、今朝は少し控えめだった。色づいた木々の向こうには灰色がかった空が見え、夜の間に落ちた葉が、石畳の端へ寄り集まっている。
エレノアは寝台の上でゆっくりと身を起こし、枕元に置かれた小さな時計へ目を向けた。
いつもと大きく変わらない時間だった。
けれど、昨日の朝とは気持ちが違っていた。
昨日は、封じられた衣類の記録を開く日だった。
何が書かれているのか分からないまま午後を待ち、ようやく確認できたのは、最初の二枚に続く一枚だけだった。
その一枚には、いくつもの気になる言葉が残されていた。
衣類整理控。
幼少時の衣類。
西側保管。
ロラン。
そして、何を数えているのか分からない「五」という数字。
(昨日は、あんなに気持ちが揺れたのに……朝になると、少し違って見えるわ)
エレノアは寝台から降り、窓辺へ歩み寄った。
昨日、記録管理室で文字を聞いたときには、すべてがつながりそうに思えた。
行方の分からない五着の衣装。
母の木箱が一度移された西側の保管場所。
以前の帳簿にも現れたロランという姓。
けれど、どれもまだ同じものを示していると確かめられたわけではない。
エレノアは窓枠に触れないよう手を重ね、静かに息を吐いた。
(気になることと、分かったことは違う。昨日はそれを何度も確かめたわ。今日も忘れないようにしなくては)
そう思ったところで、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「おはよう、リディア。もう起きているわ。どうぞ入ってちょうだい」
リディアが入室すると、エレノアは窓辺から振り返った。
彼女はいつものように丁寧に礼をし、用意してきた衣装を広げた。
「今朝は少し冷えておりますので、厚手のものをご用意いたしました。午後には雨になるかもしれないそうです」
「そうなのね。昨日のうちに庭園を歩いておけばよかったかしら」
エレノアが微笑むと、リディアも柔らかな表情になった。
「昨日は大切な記録の確認がございましたから。お庭は、またお天気のよい日にお楽しみいただけます」
「ええ、そうね」
エレノアは頷いた。
支度を始めながら、ふと昨日のことを思い出した。
「リディア。昨日、私が作業を止めてほしいと言ったとき、少し驚いた?」
リディアは髪を整える手を止めず、穏やかに答えた。
「驚いたというより、エレノア様がご自身でお決めになったのだと思いました」
「本当は、もっと読みたかったの。次の頁に何が書かれているのか、今でも気になっているわ」
「はい。それは、昨日のお嬢様のお顔を拝見していても伝わってまいりました」
リディアは少しだけ微笑んだ。
「ですが、続きを読みたいというお気持ちと、資料を傷めたくないというお気持ちの両方を、大切になさったのだと思います」
エレノアは鏡の中の自分を見つめた。
昨日、エレーヌが紙の傷みについて説明したとき、胸の奥では強い迷いが生まれていた。
あと少しだけなら、読めるかもしれない。
そんな考えが浮かばなかったわけではない。
けれど、無理に頁を開いてしまえば、残されている文字そのものを失うかもしれなかった。
「……私、以前なら、もっと焦っていたかもしれないわ」
エレノアは小さく呟いた。
リディアはその言葉を急いで問い返さなかった。
エレノアも、それ以上は続けなかった。
以前の人生について、リディアは知らない。
自分が一度処刑され、十五歳の時間へ戻ってきたことも。
その秘密を話すつもりは、今のところなかった。
けれど、今の自分が何を大切にしたいのかは、少しずつ伝えられる。
「今日は、昨日の記録を整理したいと思っているの。新しいことを調べる前に、何が分かって、何がまだ分からないのかを確かめたいわ」
「それがよろしいと存じます。必要でしたら、机の上を整えておきますね」
「ありがとう。でも、午前中は叔父様たちのお話も聞きたいから、まずは朝食へ行きましょう」
リディアは頷き、最後に髪飾りの位置を整えた。
鏡の中には、落ち着いた色の衣装を身につけた十五歳の少女が映っている。
エレノアはその姿をしばらく見つめてから、静かに立ち上がった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の修繕について話していた。
東寄りの園路にある石畳の曲がり角は、まだ通行を控えるようにしている。
石の継ぎ目が持ち上がっているだけでなく、下の土の状態を調べる必要があるため、修繕方法は決まっていなかった。
「表面だけを整えても、また同じことが起きるかもしれないからね。ギュスターヴには、急いで結論を出さなくてよいと伝えてあるよ」
オーギュストの言葉に、エレノアは頷いた。
「はい。南側の道は安全に歩けますから、困ってはいません」
「それならよかった。雨が降れば、石畳も滑りやすくなる。今日は屋内で過ごした方がよさそうだね」
「そういたします、お祖父様」
エレノアが答えると、マルグリットが微笑んだ。
「昨日は長い時間、記録を確認していたのでしょう。今日は少しゆっくり過ごしてくださいね」
「はい、お祖母様。でも、昨日分かったことを、忘れないうちに整理しておきたいと思っています」
「それもよいでしょう。ただし、疲れたら休むことを忘れないでくださいね」
祖母の声には、穏やかな気遣いが込められていた。
やがてアルフォンスが食堂へ入り、セドリックも席に着いた。
朝食が始まってしばらくすると、アルフォンスが昨日の資料について口を開いた。
「エレノア。昨日の作業記録について、エレーヌとマルタが整理を進めているよ。今日は、確認できた文字と、まだ判断できない部分を分けた一覧を作る予定だ」
「ありがとうございます、叔父様」
「それから、傷みのある頁については、専門家への相談方法を調べ始めてもらうことにした。まだ相談先も、実際に資料を見てもらえるかどうかも決まっていないけれどね」
エレノアは静かに頷いた。
「昨日の続きを、すぐに開くわけではないのですね」
「ああ。紙の状態を確かめずに進めるつもりはないよ。専門家の助言を得られるとしても、資料を動かしてよいかどうかから考える必要がある」
「分かりました。私も、その方が安心です」
エレノアは答えた。
セドリックが穏やかに続けた。
「昨日の頁については、ほかの記録と照らし合わせられるところもありそうだね。ただし、元の資料を何度も動かす必要はないようにしたい」
「はい、お兄様。私も、昨日の文字を確かめるために、何度も頁を開いていただくのは避けたいです」
アルフォンスは頷いた。
「その点はエレーヌたちとも相談している。昨日作成した記録を基に照合できる範囲を整理し、原本の再確認が必要な場合だけ、保存状態を考慮して判断するつもりだ」
エレノアは少し安心した。
新しい手がかりを得たからといって、古い資料を繰り返し扱うことが正しいとは限らない。
昨日、自分で作業を止めた意味を、今日も大切にしたかった。
そのとき、アルフォンスが話題を変えた。
「もう一つ、王宮への文書についても伝えておくよ。昨日は資料の確認を優先したから、こちらの手続きは進めていない。今日も、君に署名を求める予定はない」
エレノアは顔を上げた。
「はい。ありがとうございます」
「ただ、王宮からの回答で分かったことを踏まえて、提出用の文書に必要な項目を整理することはできる。本文を勝手に変えるのではなく、宛先や日付、署名欄など、形式上の部分を確認する作業だよ」
エレノアは少し考えた。
昨日まで、王宮のことは一度脇へ置こうと思っていた。
けれど、記録の確認が終わった今、いつまでも考えないままでいるわけにはいかない。
自分は第二王子との婚約を望んでいない。
その意思は変わらなかった。
「叔父様。今日、提出用の文書を整えるために必要なことを、少しだけ教えていただけますか」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「もちろんだよ。ただし、今日中に結論を出す必要はない。君が内容を理解するための時間にしよう」
「はい。そのようにしたいです」
エレノアは答えた。
マルグリットが静かに微笑んだ。
「昨日は記録を確かめ、今日はその内容を整理する。そして、王宮のことも少しずつ考えていく。何もかも一度に決めなくてよいのですよ」
「ありがとうございます、お祖母様」
エレノアは微笑んだ。
朝食の席には、再び穏やかな会話が戻った。
けれど、エレノアの胸の奥には、今日取り組みたいことが少しずつ形になっていた。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、エレノアはセドリックとともに小さな談話室へ向かった。
机の上には、昨日自分で書き留めた手帳が置かれている。
セドリックは向かいの椅子へ座り、エレノアが手帳を開くのを待っていた。
「お兄様、今日は昨日の記録を、三つに分けて考えたいと思っています」
「三つ?」
「はい。実際に読めたことと、まだ読めないこと。それから、ほかの記録と関係があるかもしれないことです」
セドリックは少し考え、穏やかに頷いた。
「いい整理の仕方だと思うよ。ただ、読めた文字でも、その意味が確定していない場合があるから、そこは分けておこうか」
「……そうですね。文字が読めることと、何を示しているか分かることは、違いますものね」
エレノアは頷き、手帳の余白へ線を引いた。
まず、実際に確認できた文字を書き出していく。
『衣類整理控』
『幼少時の衣類、保管分を別置』
『五』
『西側保管』
『ロラン』
その下へ、日付についても記した。
『十月。年は判読できず。日は十二日または十三日の可能性があるが、未確定。』
エレノアは書き終えた文字を見つめた。
昨日、エレーヌが読み上げたときには、一つ一つの言葉が強く胸へ響いた。
けれど、こうして並べてみると、分からない部分が多いこともよく分かる。
「お兄様。この『幼少時の衣類』という言葉は、私の幼い頃の衣装を指していると考えてよいのでしょうか」
セドリックは少し考えてから答えた。
「資料の束に『エレノア衣類』という表題があるから、君に関係する可能性は高いと思う。ただし、その表題を誰がいつ書いたのかも、まだ分かっていないからね。本文が具体的にどの衣類を指しているかは、慎重に考えた方がいい」
「そうですね。私の名前があるからといって、すべての記載が同じ時期のものとは限りませんものね」
エレノアは頷いた。
次に、「五」という数字へ目を向ける。
「これが、やっぱり一番気になります」
「行方の分からない衣装の数と同じだからね」
「はい。でも、昨日エレーヌがおっしゃっていたように、何を数えているのか分かっていません」
エレノアは少し迷ったあと、数字の横へ小さく書き加えた。
『対象不明。衣装五着とは断定しない。』
それから、「西側保管」の文字へ目を移した。
「こちらは、お母様の木箱が移された場所と関係しているかもしれません。でも、同じ場所かどうかは分かりませんね」
「そうだね。以前の木箱の移動記録には、東側の衣装棚から西側の保管場所へ移されたことが残っていた。でも、昨日の記録は年が分からない。場所の呼び方も、同じ意味で使われているとは限らない」
セドリックは静かに続けた。
「それに、衣類の保管場所と木箱の保管場所が同じだったとしても、それだけで二つの移動が同時に行われたことにはならないよ」
エレノアはゆっくりと頷いた。
「……はい。そこも分けておきます」
最後に、ロランという姓。
エレノアは筆を持つ手を止めた。
「お兄様。以前の帳簿にも、この姓がありましたよね」
「ああ。ただ、あちらも記録した人と確認した人の役割が明確ではなかった。昨日の頁も、姓だけでは誰を指しているか分からない」
「ベアトリス・ロランと同じ姓ですけれど、同じ人物だとは決まっていないのですね」
「そのとおりだよ」
セドリックは落ち着いた声で答えた。
「もし同じ人物だったとしても、名前が記されている理由まで分かるわけではない。何かを受け取ったのか、確認したのか、書き留めたのか。そこを確かめずに責任を決めることはできないからね」
エレノアは静かに頷いた。
以前の人生では、誰かが言ったことが、いつの間にか確かな事実のように扱われることがあった。
自分に向けられた疑いも、そうして大きくなっていった。
だからこそ、同じことを誰かにしてはいけない。
(私がされたことを、別の誰かに繰り返したくはないわ)
エレノアは手帳へ書き加えた。
『同じ姓があることは事実。ただし、人物・役割・責任は未確認。』
その文字を書き終えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
セドリックは手帳を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「ずいぶん整理できたね」
「はい。でも、こうして見ると、まだ分からないことばかりです」
「それでも、何を確かめればよいのかは、前より分かりやすくなったと思うよ」
エレノアは顔を上げた。
確かに、昨日は気になる言葉が一度に現れ、何から考えればよいのか分からなくなりかけた。
今は違う。
文字の意味。
日付。
場所。
人物。
それぞれを別々に確かめていけばよい。
「お兄様、ありがとうございます。昨日は、全部がつながっているように思えてしまいました。でも、今日は一つずつ考えられそうです」
セドリックは穏やかに頷いた。
「それならよかった。僕も、君と一緒に整理できて助かったよ」
エレノアは小さく微笑んだ。
窓の外では、灰色の雲が少しずつ厚くなっていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、アルフォンスは記録管理室でエレーヌと話していた。
机の上には、昨日作成された作業記録が置かれている。
マルタはその隣で、判読できた文字と不明な部分を区別した一覧を整えていた。
「昨日の頁について、原本を再び開かずに整理できるところは、ここまででございます」
エレーヌはそう言って、一枚の紙をアルフォンスへ示した。
そこには、確認できた文字が記載され、その横に判読上の注意点が書き添えられている。
アルフォンスは最初から目を通した。
「日付の年は不明。日の数字も確定していない。『五』は数量の対象が不明。『ロラン』は姓のみで役割不明……」
彼は静かに読み上げ、頷いた。
「この形なら、分かったことと分からないことを混同せずに済みそうですね」
「はい。ただし、昨日の記録をもとに整理したものであり、原本そのものの代わりになるわけではございません」
エレーヌは慎重に答えた。
「今後、専門家の助言によって新しい判読方法が示された場合には、読み取りが変わる可能性もございます」
「分かりました。その点も明記しておきましょう」
アルフォンスは頷いた。
マルタが記録用紙へ注意書きを加える。
そのあと、アルフォンスは別の資料を取り上げた。
以前、ベルナール家から得られた帳簿の写しだった。
そこには、記録者と確認者の欄がまとめられた部分があり、「ロラン」という姓が記されている。
アルフォンスは昨日の一覧と見比べた。
同じ姓。
しかし、それ以上のことはまだ分からない。
「この二つの記録について、書式が似ているかどうかは確認できますか」
アルフォンスが尋ねると、エレーヌは少し考えた。
「文字の配置や、記録欄の使い方を比較することはできます。ただし、昨日の頁には不鮮明な部分がございますので、同じ書式だと断定できるかどうかは分かりません」
「それで構いません。似ている部分があれば記録し、違う部分があればそれも残してください。無理に同じ形式へ当てはめる必要はありません」
「承知いたしました」
エレーヌは答えた。
アルフォンスはさらに、専門家への相談について尋ねた。
「資料の保存状態について、相談できそうな相手は見つかりましたか」
「まだ候補を調べている段階でございます。古い紙の扱いに詳しい方へ相談する必要がありますが、実際にどのような方法で確認していただけるかは、先方の条件も確かめなければなりません」
「では、まず相談先と、資料を動かさずに助言を得られる可能性を調べてください」
「承知いたしました」
エレーヌは頷いた。
アルフォンスは少し考えてから続けた。
「それから、以前から相談を検討している庭園の絵については、今回の衣類の記録とは別に扱いましょう。同じ専門家へ相談できるとは限りませんし、資料の性質も異なりますから」
「はい。庭園の絵につきましては、現時点で専門家による確認も修復も行っておりません。相談方法の検討を続けます」
エレーヌは答えた。
アルフォンスは静かに頷いた。
庭園の絵の裏には、アデラインとエレノアの名前が記されている。
けれど、描かれた場所や時期、文字を書いた人物は分かっていない。
衣類の記録も同じだった。
残されている文字がある。
しかし、その意味を確かめるには、まだ多くの手順が必要になる。
アルフォンスは資料を丁寧に閉じた。
「急ぐ必要はありません。確かなことを一つずつ増やしていきましょう」
エレーヌとマルタは、静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、エレノアはアルフォンスの執務室を訪ねた。
今日は、王宮へ提出する文書について、形式上の確認をすることになっている。
リディアが付き添い、セドリックも同席していた。
エレノアが挨拶すると、アルフォンスは穏やかな表情で椅子を勧めた。
「来てくれてありがとう、エレノア。昨日の疲れは残っていないかい?」
「少しだけ疲れていますけれど、大丈夫です。午前中にお兄様と記録を整理したので、気持ちも落ち着きました」
「それならよかった。今日は長くならないようにしよう」
アルフォンスは机の上へ一枚の紙を置いた。
そこには、王宮から届いた回答を踏まえ、提出用の文書に必要と思われる項目が整理されていた。
エレノアは身を乗り出さず、静かに目を向けた。
「まず確認しておきたいのは、君が書いた三文の声明そのものと、正式な提出文書の形式は、分けて考えられるということだよ」
アルフォンスは落ち着いた声で説明した。
「王宮からは、本人の意思を示す文書に署名が必要になると回答されている。ただし、君が書いた三文の文面について、個別に承認されたわけではない」
「はい。昨日も、そのように伺いました」
「だから、本文を勝手に変更することはしない。まず、宛先や日付、署名の位置、ロシュフォール家から添える説明文との関係を整理したいと思っている」
エレノアは頷いた。
机の上の紙には、本文の内容そのものではなく、形式上の項目が並んでいる。
そのことに、少し安心した。
「叔父様。私の三つの文章は、今のまま残しておいていただけますか」
「もちろんだよ。原本は引き続き私が保管する。今日ここで書き換えたり、署名を求めたりするつもりはない」
「ありがとうございます」
エレノアは小さく息を吐いた。
そのあと、彼女は少し考えてから尋ねた。
「もし正式な文書を作る場合、私が書いた文章の前に、宛先や日付を加えることになるのでしょうか」
「その可能性はあるね。ただ、どの形式が適切かは、もう少し確認したい。君の意思を明確にすることと、王宮が受理できる形式に整えることの両方が必要だから」
アルフォンスは答えた。
エレノアは静かに頷いた。
そして、以前から気になっていたことを口にした。
「叔父様。正式な文書を提出するとき、私の名前は、やはりエレノア・ベルナールになるのですね」
「ああ。ロシュフォール家への養子縁組は、まだ正式に完了していないからね。現在の法的な姓を使う必要があるだろう」
「……はい」
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
ベルナール。
その姓を聞くたびに、複雑な思いが生まれる。
父ロベルトは、自分の意思を確かめないまま第二王子との婚約受諾の返書を送った。
その返書は、今も王宮側に存在している。
自分はまだ、正式な婚約拒否の文書を提出していない。
そして、法的には今もベルナール家の娘だった。
(私の名前なのに、私の気持ちが置き去りにされているように感じることがあるわ)
エレノアは静かに息を吸った。
けれど、今は違う。
少なくとも、自分の名前で何を伝えるのかを、自分で考えることができる。
「叔父様。私は、ベルナールという姓を使うこと自体が嫌なのではありません」
エレノアは慎重に言葉を選んだ。
「ただ、その名前で送られた返書が、私自身の意思だと思われることが嫌なのです」
アルフォンスは静かに頷いた。
「うん。君が大切にしているのは、そこだね」
「はい。私が署名するなら、それは私自身が考えて、納得して書いたものだと分かる形にしたいです」
セドリックが穏やかに口を開いた。
「エレノアが以前書いた三文には、その考えがはっきり表れていると思うよ。ベルナール家から受諾の返書が送られたことと、君自身が婚約を望んでいないことを、別々に示しているからね」
エレノアは頷いた。
「はい。だから、あの三文を大切にしたいのです」
アルフォンスは机の上の紙へ目を落とした。
「分かったよ。では、今の三文を基本として、形式上必要な部分だけを整理する方向で考えよう。ただし、実際に提出する前には、君自身に全文を確認してもらう」
「ありがとうございます」
エレノアは静かに答えた。
そのとき、ふと別の疑問が浮かんだ。
「叔父様。もし私が署名したあとで、提出する前に考え直したくなった場合は、どうなるのでしょうか」
アルフォンスは少し考えた。
「署名した文書を、まだこちらで保管している段階なら、提出するかどうかを改めて相談することはできるだろう。ただし、王宮へ提出したあとの扱いについては、こちらだけで決められるものではない」
「……そうなのですね」
「だからこそ、署名する前に内容を十分確認しよう。君が不安を抱えたまま、急いで署名する必要はない」
エレノアは頷いた。
第二王子が自分の文章を読む可能性については、まだ保証がない。
その不安が消えたわけではなかった。
けれど、提出前に何を確認すべきかは、少しずつ分かってきた。
「叔父様。私は、正式な文書を作る準備を進めたいと思っています」
エレノアは顔を上げた。
「ただ、署名する日は、まだ決めたくありません。文書の形を整えていただいたあと、もう一度読んで、自分で判断したいです」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「それでいいよ。今日決めるのは、準備を進めるということだけにしよう」
「はい。お願いいたします」
エレノアは答えた。
セドリックも静かに頷いた。
その場で署名することはなかった。
王宮へ新しい書簡が送られることもなかった。
けれど、エレノアは自分の意思で、次の準備へ進むことを選んだ。
◇ ◇ ◇
執務室を出たあと、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。
窓の外では、細かな雨が降り始めていた。
庭園の石畳が少しずつ濡れ、木々の葉が雨粒を受けて揺れている。
エレノアは窓辺の椅子へ腰を下ろし、しばらくその景色を眺めた。
今日は、昨日の記録を整理した。
王宮へ提出する文書についても、少しだけ前へ進んだ。
けれど、どちらもまだ終わっていない。
(私、前へ進むということは、何かを終わらせることだと思っていたのかもしれないわ)
エレノアは静かに考えた。
母の遺品を見つけること。
衣装の行方を明らかにすること。
第二王子との婚約を拒否すること。
どれも、今すぐ答えが欲しいことだった。
けれど、実際には、一つずつ確かめるしかない。
そして、その途中で立ち止まることもある。
昨日、傷んだ頁を開かなかったように。
今日、三文の声明へ署名しなかったように。
エレノアは机の上の青い花の刺繍へ目を向けた。
まだ完成していない。
青い糸の部分は少しずつ増えているが、紫の糸を加えるかどうかは決めていなかった。
昨日までなら、何か一つでも完成させたいと思ったかもしれない。
けれど、今日は少し違った。
「リディア。刺繍道具を持ってきてもらえるかしら」
「はい。青い花の刺繍でございますね」
「ええ。今日は、少しだけ続きを進めたいの」
リディアは微笑み、道具を整えてくれた。
エレノアは窓辺の明るさを確かめ、青い糸を選んだ。
雨のため、光はいつもより柔らかい。
昨日まで試していた紫の糸は、今日は使わないことにした。
今の青い花に必要だと思う部分だけを、丁寧に縫っていく。
針を布へ通すたびに、小さな花びらの輪郭が少しずつ整っていった。
その時間は、静かだった。
王宮からの返事も、衣類の記録も、頭から完全に消えたわけではない。
けれど、針を動かしている間は、今自分がしていることへ意識を向けられた。
しばらくして、エレノアは手を止めた。
花びらの一部が、以前よりも自然につながっている。
まだ完成ではない。
それでも、自分の手で少し進めたことが分かる。
「……今日は、ここまでにするわ」
エレノアがそう言うと、リディアが穏やかに微笑んだ。
「綺麗に整ってまいりましたね」
「ありがとう。でも、まだ少し迷っているところがあるの。紫を加えるかどうかは、もう少し考えたいわ」
「それも楽しみの一つでございますね」
「ええ。今は、急いで完成させるより、好きな色を選ぶ時間を楽しみたいの」
エレノアは微笑んだ。
そして、ふと母のことを思い出した。
祖母は、アデラインも刺繍の糸を何度も並べ直していたと話してくれた。
人の意見を聞きながらも、最後には自分の好きな色を選んでいたという。
(お母様も、こんなふうに迷っていたのかしら)
そう考えると、少し嬉しくなった。
母の青い花の刺繍は、まだ見つかっていない。
けれど、母が楽しんでいた時間を想像しながら、自分も針を動かすことはできる。
エレノアは刺繍を丁寧に置いた。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。
祖母は窓際の椅子に腰掛け、読みかけの本を閉じたところだった。
エレノアが挨拶すると、マルグリットは柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、エレノア。今日は雨になってしまいましたね」
「はい。でも、お部屋でゆっくり過ごせました」
「それならよかったわ。昨日の疲れは、少し取れましたか」
「ええ。午前中にお兄様と記録を整理して、午後は叔父様と王宮への文書についてお話ししました」
エレノアは椅子へ腰を下ろした。
マルグリットは静かに耳を傾けている。
「昨日の記録には、気になる言葉がいくつもありました。でも、今日整理してみると、まだ分からないことが多いのだと改めて感じました」
「そうでしたか」
「はい。五という数字も、西側保管という文字も、ロランという姓も……今までの調査と関係しているように思えます。でも、そうだと決まったわけではありません」
マルグリットはゆっくりと頷いた。
「気になることがあると、そこから先を考えたくなるものですね」
「ええ。でも、今は急いで結論を出したくないのです」
エレノアは静かに答えた。
「私、昨日の記録を見て、何かが分かることばかり考えていました。でも、実際には、分からないことをそのまま残しておくのも大切なのですね」
マルグリットは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「そうですね。人は、分からないことがあると、不安になるものです。けれど、分からないからといって、急いで答えを作ってしまえば、本当のことから遠ざかる場合もあります」
エレノアは顔を上げた。
祖母の言葉は、静かに胸へ届いた。
「お祖母様。私は、お母様のことを知りたいと思っています。でも、もし何も分からないままだったら、どうしたらよいのでしょう」
思わず口にした問いだった。
マルグリットはすぐには答えなかった。
しばらくエレノアを見つめ、それから静かに口を開いた。
「分からないことが残ったとしても、アデラインがあなたを大切に思っていたことまで、なくなるわけではありませんよ」
エレノアは息を止めた。
マルグリットは穏やかに続けた。
「もちろん、記録を調べることには意味があります。あなたが知りたいと思う気持ちも、大切です。でも、見つからないものがあるからといって、残っている思い出まで失われるわけではないのです」
「……はい」
エレノアは小さく答えた。
母のことを知りたい。
その気持ちは、これからも変わらないだろう。
けれど、すべての答えが記録の中に残されているとは限らない。
それでも、祖母の記憶の中には、母の姿がある。
セドリックが持っている小さな刺繍の袋にも、母が過ごした時間の一部が残っている。
そして、自分の記憶の中にも、わずかながら母の温もりが残っていた。
「お祖母様。私、これからも調べたいと思っています。でも、見つからなかったことばかり考えないようにしたいです」
エレノアは静かに言った。
「今、ここに残っているものも、大切にしたいので」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「それがよいと思いますよ」
エレノアは小さく頷いた。
そのあと、二人は母が好んでいた花や、昔の庭園の様子について穏やかに話した。
マルグリットは、アデラインが庭園の色の変化を楽しんでいたことを話してくれた。
春には柔らかな色の花を眺め、夏には木陰で過ごし、秋には落ち葉の色を見比べていたという。
エレノアはその話を聞きながら、母の姿を想像した。
庭園のどの場所に立っていたのか、正確には分からない。
古い絵に描かれた場所も、まだ確定していない。
けれど、母が季節の変化を楽しんでいたという話を聞くだけで、庭園が少し違って見える気がした。
◇ ◇ ◇
その頃、ベルナール家では、別の時間が流れていた。
ミレーヌは自室の机に向かい、以前から整理している小さな覚え書きを見つめていた。
そこには、所在の分からなくなった四つの品について記されている。
ブローチ。
銀の櫛。
刺繍の施されたハンカチ。
細い鎖の首飾り。
どれも、今のところ行方が分かっていない。
ミレーヌは紙の端へ指先を添え、小さく息を吐いた。
以前、元使用人エリーズ・ダルモンの居場所を調べ、連絡を取った。
けれど、返事はまだ確認できていなかった。
(手紙が届いていないのかもしれないし、届いていても返事を書けないのかもしれないわ)
ミレーヌは静かに考えた。
エリーズが何かを知っているとは限らない。
そもそも、四つの品について記憶しているかどうかも分からなかった。
それでも、以前屋敷で働いていた人物に尋ねることには、意味があるかもしれないと思っていた。
ミレーヌは机の上の紙を丁寧に畳んだ。
誰かに見せるためではなく、自分が忘れないために書いている覚え書きだった。
エレノアがロシュフォール家で衣類の記録を調べていることも、ミレーヌは詳しく知らない。
まして、昨日封じられた頁が開かれたことなど、知るはずもなかった。
それぞれの場所で、別々の疑問が残されている。
ミレーヌは窓の外へ目を向けた。
雨が降っている。
エリーズから返事が来るかどうかは分からない。
けれど、今はもう少し待とうと思った。
何も分からないまま、次々と別の人へ疑いを向けることはしたくなかった。
ミレーヌは覚え書きを引き出しへ戻し、静かに閉じた。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、アルフォンスから今日の進捗について簡単な報告があった。
衣類の記録については、昨日確認した一枚の内容を整理し、判読できた文字と不明な部分を分けた一覧を作成したという。
ただし、原本を再び開いて確認したわけではない。
次の頁についても、まだ手をつけていなかった。
「専門家への相談先は、引き続き調べてもらっているよ。資料を動かさずに助言を得られるかどうかも含めて、確認するつもりだ」
アルフォンスの説明に、エレノアは頷いた。
「ありがとうございます、叔父様。私も、今は無理に続きを開かず、待ちたいと思っています」
オーギュストが穏やかに微笑んだ。
「それがよいだろうね。昨日の記録だけでも、照合すべきことは増えたのだから」
「はい、お祖父様」
エレノアは答えた。
そのあと、王宮への文書についても、今日の話し合いの内容が共有された。
正式な提出用の形式を整理する準備は進める。
ただし、三文の声明の本文は勝手に変更しない。
エレノア本人の署名も、まだ行わない。
王宮へ新たな書簡を送ることも、今日はしていない。
マルグリットはその説明を聞き、静かに頷いた。
「エレノアが納得できる形を、丁寧に考えていきましょう」
「はい、お祖母様」
エレノアは微笑んだ。
セドリックも穏やかに続けた。
「昨日の記録も、王宮への文書も、急いで答えを出すことが大切なのではないと思うよ。何を確かめる必要があるのか、少しずつ明確になってきたのだから」
エレノアは頷いた。
その言葉は、今日一日を通して考えていたことと重なっていた。
まだ終わっていないことがある。
それでも、何も進んでいないわけではない。
エレノアは食事を終え、家族へ挨拶をして自室へ戻った。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは机の上に二冊の手帳を並べた。
一冊は、衣類の記録について書き留めているもの。
もう一冊は、日々の出来事を残す日記帳だった。
まず、衣類の記録用の手帳を開く。
昨日確認した一枚について、今日整理した内容が記されている。
エレノアはその文字をゆっくりと読み返した。
衣類整理控。
十月の日付。
幼少時の衣類を別に保管したと思われる記載。
意味の分からない五という数字。
西側保管。
ロラン。
どれも、気になる言葉だった。
けれど、今日の手帳には、それぞれの横に「未確認」や「判読保留」という言葉が書き加えられている。
エレノアはその文字を見つめ、静かに息を吐いた。
(分からないことを、分からないまま残しておくのは、少し勇気がいるのね)
そう思った。
答えを出してしまえば、気持ちは一時的に落ち着くかもしれない。
けれど、間違った答えを信じてしまえば、その先で大切なものを見失う可能性がある。
自分は、もうそれを繰り返したくなかった。
エレノアは手帳の余白へ、今日考えたことを書き加えた。
『同じ数字や姓が見つかっても、すぐに同じものと決めない。読めた文字と、その意味についての考えは分けておく。資料を傷めないことを優先し、次の頁は専門的な確認ができるまで開かない。』
書き終えると、少しだけ安心した。
次に、日記帳を開いた。
今日の出来事を書き留めるため、筆を取る。
『今日は、昨日開いた衣類の記録を整理しました。気になる言葉が多く、すべてが関係しているように思えてしまいましたが、まだ分からないことも多いと改めて感じました。』
エレノアは一度筆を止めた。
窓の外では、雨が静かに降り続いている。
灯りに照らされた窓硝子には、小さな水滴がいくつも流れていた。
エレノアは再び筆を取り、続きを書いた。
『王宮への文書についても、少し話し合いました。正式な提出用の形式を整える準備を進めることにしましたが、まだ署名はしていません。私が書いた三つの文章を大切にしながら、納得できる形を考えたいと思っています。』
そこまで書いたところで、胸の奥に小さな緊張が生まれた。
第二王子レオナード。
その名前を思い浮かべるだけで、以前の人生の記憶が揺れる。
自分の言葉が届かなかった時間。
誰も信じてくれなかった恐怖。
そして、最後に待っていた処刑。
エレノアは筆を置き、静かに目を閉じた。
(私は、あの人との婚約を望んでいない。それだけは、何があっても変わらないわ)
胸の奥で、はっきりと思った。
けれど、今の自分はまだ十五歳だ。
以前の人生とは違う場所にいる。
ロシュフォール家には、自分の話を聞いてくれる人々がいる。
そして、今はまだ、正式な婚約が成立したわけではない。
エレノアはゆっくりと目を開けた。
机の上の文書入れには、三文の声明の照合済みの控えが収められている。
原本はアルフォンスが保管している。
その文章は、まだ署名されていない。
王宮へ正式な拒否の返書も送っていない。
けれど、自分の意思は、すでに言葉になっている。
エレノアは静かに息を吐いた。
「……私は、私の言葉を大切にしたいわ」
小さく呟いた。
その言葉は、静かな部屋に溶けていった。
エレノアは日記帳へ最後の一文を書き加えた。
『まだ決まっていないことは多いけれど、私は自分の意思で次の一歩を選びたいと思います。』
筆を置くと、少しだけ肩の力が抜けた。
今日一日を振り返ると、何か大きな出来事が起きたわけではない。
封じられた記録の続きを開いたわけでもない。
王宮へ正式な文書を送ったわけでもない。
けれど、昨日得た情報を整理し、次に何を確かめるべきかを考えた。
そして、王宮への文書についても、準備を進めることを自分で選んだ。
それは、確かな前進だった。
エレノアは日記帳を閉じ、壁際の棚へ目を向けた。
そこには、桃色の野薔薇の刺繍が飾られている。
母が使っていた古い木枠に、自分で作った花を収めたものだ。
エレノアは椅子から立ち上がり、その前へ歩み寄った。
灯りの下で見る野薔薇は、昼間よりも少し落ち着いた色に見える。
「お母様。昨日、記録を一枚だけ開くことができました」
エレノアは小さな声で呟いた。
「まだ分からないことばかりです。でも、私はこれからも調べていきたいと思っています」
静かな部屋には、返事はない。
それでも、エレノアはしばらく刺繍を眺めていた。
母の遺品を探すこと。
自分の衣類について確かめること。
第二王子との婚約を拒否すること。
どれも、今の自分にとって大切なことだった。
そして、それぞれを進めるためには、違う時間と手順が必要になる。
(私は、全部を一度に解決しなくてもいいのよね)
エレノアは静かに微笑んだ。
そのとき、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。
「エレノア様、就寝のお支度を整えに参りました」
「ええ、どうぞ入ってちょうだい」
リディアが入室すると、エレノアは机へ戻った。
手帳を閉じ、筆記具を整える。
リディアはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「今日は、いろいろと整理なさったのですね」
「ええ。昨日は新しいことが分かって、少し気持ちが揺れてしまったけれど、今日は落ち着いて考えられたと思うわ」
「それはよろしゅうございました」
リディアは丁寧に頷いた。
エレノアは少し考えてから続けた。
「でも、まだ気になることはたくさんあるの。次の頁も読みたいし、お母様の木箱のことも知りたい。王宮への文書も、きちんと整えたいわ」
「はい。どれも、お嬢様にとって大切なことでございますね」
「ええ。でも、今日は全部を進めようとしなくてよかったと思っているの」
エレノアは微笑んだ。
「明日になったら、また明日できることを考えるわ」
リディアは嬉しそうに頷いた。
「それがよろしいと存じます。今夜はどうぞ、ゆっくりお休みくださいませ」
「ありがとう、リディア」
就寝の支度を終えると、部屋の灯りが少し落とされた。
エレノアは寝台へ腰を下ろし、窓の外へ目を向けた。
雨はまだ降っている。
庭園の木々は暗闇の中で静かに揺れ、遠くの石畳には淡い光が反射していた。
封じられた記録の続きは、まだ開かれていない。
王宮への正式な婚約拒否の返書も、まだ送っていない。
母の遺品についても、解決していないことが数多く残っている。
それでも、エレノアは以前ほど焦っていなかった。
分からないことがある。
怖いこともある。
けれど、今の自分には、考える時間がある。
そして、自分の意思を伝えることができる。
(私は、もう誰かに決められた道を、そのまま歩くつもりはない)
エレノアは静かに思った。
それは、第二王子との婚約を拒否するという決意だけではなかった。
母の残したものを、自分の目で確かめたい。
知らないうちに失われたものについて、何が起きたのか知りたい。
そして、これからの人生で何を大切にするのか、自分で選びたい。
そのすべてが、今のエレノアの中で少しずつ形になっていた。
エレノアは寝台へ身を横たえ、ゆっくりと目を閉じた。
明日、何が起きるのかは分からない。
けれど、今日までに確かめたことを忘れず、まだ分からないことを急いで決めつけずに進んでいきたい。
その思いを胸に抱きながら、エレノアは静かな秋の夜へ、少しずつ意識を沈めていった。




