第100話 私の名前で未来を選ぶために、今日確かめた大切なこと
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には秋らしい澄んだ青空が広がっていた。昨日の雨で湿っていた庭園の石畳も、朝の光を受けて少しずつ乾き始めているらしく、窓辺から見える木々の葉には、金色に近い柔らかな色が混じっていた。
寝台の上で身体を起こしたエレノアは、しばらくその景色を眺めていた。昨日、王宮の儀典を担当する部署から届いた返書について考えていたためか、眠りは浅かったように感じられたが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
(昨日は、返書を読むだけで精いっぱいだったけれど、今日はもう少し落ち着いて考えられそうだわ)
王宮からの回答によって、正式な提出先や署名の必要性、ロシュフォール家の説明書との関係について、以前より具体的なことが分かった。しかし、書面が誰の目に触れる可能性があるのかについては、依然として不明な部分が残っている。
エレノアは膝の上で両手を重ね、ゆっくりと息を吐いた。
第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望まないという気持ちは、何も変わっていない。父ロベルトが受諾の返書を送ったことも、その返書が自分の意思を示すものではないという事実も、変わることはなかった。
けれど、その意思を正式に届けるためには、まだ確認しなければならないことがある。
彼女はそれを、以前ほどもどかしく感じなくなっていた。
急いで署名をしてしまえば、何かが進んだように思えるかもしれない。しかし、書面の内容や提出の方法を理解しないまま進めば、結局は自分の意思を置き去りにすることになりかねない。
(今度こそ、誰かに決めてもらうのではなく、自分で考えて選びたい。そのために必要な時間なら、私は大切にしたいわ)
そう考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」
「おはよう、リディア。どうぞ入って」
入室したリディアは、いつものように穏やかな笑顔で一礼した。腕には淡い青色の衣装を抱えており、朝の冷え込みに備えて薄手の上着も用意してくれている。
「今日はよいお天気になりそうでございますね。朝のうちは少し冷えますが、昼頃には暖かくなるとのことでございます」
「そうなのね。昨日は雨上がりの庭園を少し歩けたけれど、今日はもっと明るい景色が見られそうだわ」
「はい。ギュスターヴさんのお話では、南側の通路は引き続き問題なく歩けるそうです。ただし、東側については調査が終わるまで立ち入らないようにとのことでございました」
「ええ、分かっているわ。安全を確かめてくださっている方々のお仕事を、邪魔してはいけないものね」
エレノアがそう答えると、リディアは嬉しそうに微笑んだ。
支度を進めてもらいながら、エレノアは昨日の王宮からの返書について少しだけ話した。ただし、詳しい内容をすべて説明するのではなく、問い合わせへの回答が届き、今後の手続きについて考える材料が増えたことを伝えるにとどめた。
リディアは余計な質問をせず、静かに耳を傾けていた。
「エレノア様が、ご自身で確かめたいとおっしゃっていたことについて、お返事があったのでございますね」
「ええ。まだ分からないこともあるけれど、以前よりは少し見通しが立ったと思うの」
「それは何よりでございます。ですが、どうぞ無理はなさらないでくださいませ。昨日も書類をお読みになったあと、長く机に向かっていらっしゃいましたから」
エレノアは鏡越しにリディアを見つめ、少し照れたように微笑んだ。
「心配をかけてしまったのね。ありがとう。今日は、考える時間と休む時間をきちんと分けるようにするわ」
「はい。それでしたら、私も安心でございます」
リディアはそう言いながら、最後に髪飾りの位置を整えた。
鏡の中には、十五歳の少女が映っている。
以前の自分なら、王宮から届いた書簡を前にして、ただ怖がるばかりだったかもしれない。
けれど、今は少し違う。
不安がなくなったわけではないが、その不安を抱えたままでも、自分の意思を確かめ、必要な言葉を選ぶことができる。
エレノアは鏡の中の自分へ小さく頷き、朝食のために部屋を出た。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、マルグリットが昨日の膝掛けの補修について話題にしていた。
「エレノアと一緒に布を見比べていたら、わたくしまで昔のことを思い出してしまいました。若い頃には、布の厚みを考えずに縫い合わせて、仕上がりが硬くなってしまったこともあったのですよ」
マルグリットが懐かしそうに微笑むと、オーギュストは楽しげに目を細めた。
「君にも、そんな失敗があったのかい。私はてっきり、昔から何でも器用にこなしていたのだと思っていたよ」
「そんなことはありませんわ。上手にできるようになるまでには、何度もやり直したものです」
祖父母のやり取りを聞いていたエレノアは、思わず笑みをこぼした。
マルグリットが失敗したときのことを、こうして自然に話してくれるのが嬉しかった。何でも完璧にできるように見える祖母にも、学びながら過ごした時間があったのだと思うと、自分も焦らずに進めばよいのだと感じられる。
「お祖母様。昨日教えていただいた、補修する範囲の決め方について、もう少し考えてみたのです」
「あら、どんなことを考えたのかしら」
「傷んだところだけを直すのではなく、その周りの状態も確かめる必要があるというお話です。私、今まで目立つところばかり見てしまうことが多かったように思うのですが、これからはもう少し広く見られるようになりたいと思いました」
マルグリットは優しく頷いた。
「そうね。けれど、何もかも一度に見ようとしなくてもよいのよ。気づいたことから、少しずつ確かめていけばいいのですから」
エレノアはその言葉を胸に留めた。
食卓の向かい側では、アルフォンスが静かに茶器を置いていた。
「エレノア。昨日の王宮からの返書についてだが、今日の午後、少し時間をもらえるだろうか」
その言葉に、エレノアは姿勢を正した。
「はい、叔父様。何か新しいことが分かったのでしょうか」
「新しい返答が届いたわけではないよ。ただ、ロシュフォール家から提出する説明書について、現在の草案を一度見てもらいたいと思っている。まだ完成したものではないが、君が気にしていた部分を確認するには、今の段階で読んでもらった方がよいだろう」
エレノアは驚いたように目を見開いた。
説明書については、提出前に必ず確認したいと伝えていた。
その約束を叔父が覚えてくれていたことが、嬉しかった。
「ありがとうございます。ぜひ、読ませていただきたいです」
「分かった。午後に落ち着いて話せるようにしておこう。セドリックにも同席してもらうつもりだが、君が望むなら、私と二人だけでも構わないよ」
エレノアは少し考えてから答えた。
「お兄様にも、ご一緒していただきたいです。これまでも何度も相談に乗っていただきましたし、私が気づかないことにも気づいてくださると思いますから」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「もちろんだよ、エレノア。僕でよければ、いつでも一緒に考える」
「ありがとうございます、お兄様」
エレノアはそう答え、温かな茶へ口をつけた。
午後には、また一つ大切な確認が待っている。
けれど、それまでの時間を不安だけで過ごす必要はなかった。
朝食の席には家族の穏やかな声があり、窓の外には明るい秋の空が広がっている。
エレノアはその時間を、ゆっくりと味わうことにした。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で刺繍を進めることにした。
机の上には、未完成の青い花の刺繍と、これまでに試した小さな布片が並んでいる。紫の糸を多く使ったもの、控えめに加えたもの、花の中心にほんの少しだけ色を置いたもの。それぞれを見比べると、同じ青い花でも印象がずいぶん違って見えた。
エレノアは一番新しい試し縫いを手に取り、窓辺へ近づけた。
朝の光を受けると、青い糸のあいだに入れた紫が、室内で見るよりも柔らかく感じられる。
(このくらいなら、青い花の印象を変えすぎずに済むかもしれないわ。でも、まだ本番の布へ縫うのは少し待ちたい)
彼女はそう考え、試し縫いを元の場所へ戻した。
母アデラインが残した『青い花を作りたい』という言葉は、今も大切にしている。
けれど、母が実際にどのような青い花を刺繍したのか、その失われた作品の姿を正確に知っているわけではない。祖母と見た花の図案や、セドリックが持っている小さな袋に残る刺繍も、母の手仕事を知るための大切な手がかりではあるが、同じ作品ではなかった。
だから、今作っている花を母の刺繍の再現だと考えることはできない。
それでも、母のことを思いながら、自分の手で新しい花を作ることはできる。
エレノアは針を持ち、青い糸を一針ずつ進めた。
布へ針を通すときには、糸の張り具合に気をつける。
強く引きすぎれば布が寄ってしまうし、緩すぎれば形が整わない。
少しずつ感覚を確かめながら縫っていると、扉が叩かれた。
「エレノア様。マルグリット様がお見えでございます」
リディアの声に、エレノアは顔を上げた。
「お祖母様が? どうぞ、お通しして」
ほどなくしてマルグリットが入室した。
エレノアは針を安全な場所へ置いて立ち上がり、祖母を迎えた。
「お祖母様。いらしてくださって嬉しいです」
「少し時間ができたので、あなたの様子を見に来たのよ。刺繍をしていたのね」
「はい。青い花を少し進めていました。よろしければ、以前から試していた布も見ていただけますか」
「もちろんよ。ぜひ見せてちょうだい」
マルグリットは窓辺の椅子へ腰を下ろし、エレノアが並べた試し縫いを一つずつ見つめた。
エレノアは、紫を多く使った布と控えめに使った布を並べ、色の違いについて説明した。
「こちらは紫を少し多く使ったものです。最初はきれいだと思ったのですが、青い花というより、紫の印象が強くなってしまうように感じました」
「そうね。色そのものは美しいけれど、あなたが作りたい花の印象とは少し違うのかもしれないわね」
「はい。それで、こちらでは紫を減らしてみたのです。さらに、この布では花の中心にほんの少しだけ加えてみました」
マルグリットは最後の布を手に取り、光の当たる角度を変えながら眺めた。
「とても繊細な色合いね。青い花びらの中に、少しだけ別の色があることで、奥行きが生まれているように見えるわ」
エレノアは祖母の言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
「私も、そう感じたのです。でも、まだ本番の布には使っていません。もう少し考えてから決めたいと思っています」
「それでいいと思うわ。試し縫いは、決めるためだけではなく、自分が何を好きだと感じるのかを知るためにも役立つものですから」
マルグリットはそう言って、布を丁寧に戻した。
その指先の動きを見つめながら、エレノアはふと尋ねた。
「お祖母様。お母様も、刺繍をするときには、こうして何度も色を試していらしたのでしょうか」
マルグリットは少しだけ目を細めた。
「アデラインは、色を選ぶ時間が好きな子だったわ。すぐに決めることもあれば、何日も迷っていることもあったのよ。ただ、今あなたが作っている花について、あの子がどのような色を選んだかまでは、わたくしにも分からないわ」
エレノアは静かに頷いた。
「はい。私も、同じものを作れるとは思っていません。でも、お母様がどんなふうに刺繍を楽しんでいらしたのか、少しでも知ることができたら嬉しいです」
マルグリットは彼女を見つめ、優しく微笑んだ。
「それなら、いつでも聞いてちょうだい。覚えていることなら、いくらでもお話しするわ」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
母について知らないことは、まだたくさんある。
失われた遺品の行方も、幼い頃の衣類について残された記録の意味も、今は分からない。
けれど、祖母が覚えている母の姿を聞くことはできる。
それは、失われたものを探すこととは別の形で、母とのつながりを確かめる時間だった。
「ありがとうございます、お祖母様。私、またお母様のお話を聞かせていただきたいです」
「ええ。いつでもいらっしゃい」
マルグリットはそう答え、エレノアの手元にある未完成の青い花を見つめた。
「この花も、完成するのが楽しみね。でも、急がなくていいのよ。あなたが納得できる花にしてちょうだい」
エレノアは微笑み、静かに頷いた。
自分の花を、自分の手で作る。
その当たり前のようなことが、今の彼女にはとても大切に思えた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはアルフォンスの執務室を訪れた。
室内にはすでにセドリックが来ており、机の上には数枚の書類が整えられている。窓から差し込む光は午前よりも少し柔らかくなっていて、書類の端に淡い影を落としていた。
アルフォンスはエレノアを迎えると、椅子へ座るよう勧めた。
「来てくれてありがとう。今日は、ロシュフォール家から提出する説明書の草案を読んでもらいたいと思っている」
「はい、叔父様。よろしくお願いいたします」
エレノアは椅子へ腰を下ろし、差し出された書類を受け取った。
そこには、ベルナール家から第二王子との婚約受諾の返書が送られたこと、エレノア自身がその返書の送付前に婚約を受け入れる意思を示していなかったこと、そして現在、本人の意思を別途正式に示すための準備を進めていることが記されていた。
文章は落ち着いた表現でまとめられており、誰かを一方的に非難する内容にはなっていない。
しかし、エレノアは読み進めるうちに、一か所だけ気になる部分を見つけた。
「叔父様。こちらの文章について、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。どの部分かな」
エレノアは書類の中ほどを指し示した。
「『本人の意思を確認するため、ロシュフォール家において必要な準備を進めている』という部分です。これは、私の意思をロシュフォール家が確認してくださっているという意味でしょうか」
アルフォンスは文章を読み直し、静かに頷いた。
「そのつもりで書いたのだが、確かに少し曖昧かもしれないね。君自身が意思を示そうとしていることより、家が君の意思を確認していることが中心に見えてしまう可能性がある」
エレノアは少し迷いながら続けた。
「私、ロシュフォール家の皆様が助けてくださっていることには、とても感謝しています。でも、婚約を望んでいないという気持ちは、私自身のものです。ですから、できれば、そのことがもう少し分かる文章にしていただけたらと思うのです」
アルフォンスは彼女の言葉を聞き、すぐに頷いた。
「その通りだね。ここは書き直そう。ロシュフォール家が君の意思を決めているのではなく、君自身が意思を示すための手続きを確認している、と分かる表現にした方がよい」
セドリックも書類へ目を落としながら口を開いた。
「父上。たとえば、本人が婚約についての意思を書面で示すことを希望しており、その提出方法について問い合わせを行った、と記すのはどうでしょうか。そうすれば、家が代わりに判断したようには読まれにくいと思います」
アルフォンスはしばらく考え、頷いた。
「そうだね。事実関係としても、その方が正確だろう」
エレノアは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分が気になったことを伝えると、二人はそれを軽く扱わず、文章の意味を確かめてくれる。
そのことが、彼女には何より嬉しかった。
「ありがとうございます。私、今のご説明の方が、自分の気持ちに近いと思います」
アルフォンスは微笑み、修正する箇所へ印をつけた。
「ほかにも気になる部分があれば、遠慮なく言ってほしい。今日は完成させるために君を呼んだのではなく、草案の段階で確認してもらうために時間を取ったのだから」
エレノアは頷き、再び書類へ目を戻した。
次に気になったのは、ベルナール家からの返書について記した部分だった。
そこには、父ロベルトが婚約受諾の返書を送ったという事実が書かれていたが、その返書が現在どのように扱われているかについては、何も断定されていなかった。
エレノアはそのことを確かめるように尋ねた。
「叔父様。ベルナール家からの返書が、今も正式な受諾として扱われているのかどうかは、まだ分からないのですよね」
「そうだね。王宮から届いた回答は、提出の手続きについてのものだった。婚約の扱いそのものについて、何か決定が示されたわけではない」
「では、この説明書でも、婚約がすでに成立していると決めつけるような書き方は避けた方がよいのですね」
「その通りだよ。現時点で確かに言えることと、まだ確認できていないことを分けて書く必要がある」
エレノアは静かに頷いた。
自分は、まだ第二王子と正式に婚約したわけではない。
けれど、父が返書を送ったという事実は存在している。
その二つを混同してしまえば、自分が何を拒否し、何を記録へ残したいのかが曖昧になってしまう。
(私は、婚約を望んでいない。それを伝えるために、今の状況を正確に書いていただきたいのね)
エレノアはその考えを言葉にし、叔父へ伝えた。
アルフォンスは真剣に耳を傾け、必要な部分へ印をつけていった。
そのあとも、三人は文章を一つずつ確認した。
ロシュフォール家が把握している事情と、エレノア本人が知っていることを混同しないこと。
まだ正式に完了していない養子縁組について、すでに家名が変わったように書かないこと。
本人の拒否声明と、家の説明書が別の書面であることを明確にすること。
そして、王宮へ提出する前には、修正後の全文をもう一度エレノアへ見せること。
アルフォンスは最後の点について、改めて確認した。
「今日の草案は、これから修正する。清書ができたら、君にもう一度読んでもらうよ。その時点で気になることがあれば、また話し合おう」
「はい。お願いいたします」
エレノアは書類を丁寧に机へ戻した。
最初に草案を受け取ったときには、少し緊張していた。
けれど、今は違う。
自分の言葉が、実際に書類の内容へ反映されていく。
そのことが、彼女に確かな手応えを与えていた。
◇ ◇ ◇
説明書の確認が一段落すると、アルフォンスは王宮から届いた返書の写しを机へ置いた。
「もう一つ、確認しておきたいことがある。昨日の返書について、君が特に気にしていた閲覧範囲のことだ」
エレノアは静かに顔を上げた。
アルフォンスは彼女の表情を見ながら、慎重に言葉を選んだ。
「王宮の回答では、書面を取り扱う部署や閲覧する者の範囲を、あらかじめ完全に限定することはできないとされていた。だから、提出した書面が誰にも知られずに保管されるとは約束できない」
「はい。そのことは、昨日も確認しました」
エレノアは頷いた。
胸の奥には、まだ不安が残っている。
レオナードがその書面を読む可能性があるのかどうか、今も分からない。
彼女はその名前を口にしなかったが、過去の記憶が静かに胸を締めつけた。
かつて、自分の意思を伝えようとしても届かなかった時間。
婚約者として扱われながら、自分の言葉が何も変えられなかった日々。
そして、最後には処刑台へ立たされた記憶。
それらは、今も簡単には消えてくれない。
(もし殿下が私の拒否声明を読んだら、何を思われるのかしら。怒るかもしれないし、理由を尋ねてくるかもしれない。でも、今の私は、まだ殿下とお会いしていないのよね)
今の時間では、エレノアは第二王子と直接会っていない。
だから、現在のレオナードが何を考えているのか、彼女には分からない。
過去の記憶だけで、今の相手の行動をすべて決めつけることはできなかった。
それでも、再び同じ未来へ進むことだけは避けたい。
エレノアは膝の上で指先を重ね、静かに口を開いた。
「叔父様。私は、書面が誰の目に触れるか分からないことを、やはり少し怖いと思っています」
アルフォンスもセドリックも、何も言わずに彼女の言葉を待っていた。
「けれど、それでも自分の意思を届けたい気持ちは変わりません。私が婚約を望んでいないことを、何も伝えないままにしておく方が、もっと怖いのです」
言葉にした途端、エレノアは胸の奥がわずかに震えるのを感じた。
自分でも、こんなふうに伝えることができるとは思っていなかった。
アルフォンスは深く頷いた。
「分かったよ。君がその不安を抱えながらも、意思を届けたいと考えていることは、きちんと受け止めた」
セドリックも穏やかに続けた。
「エレノア。僕たちは君の代わりに怖さをなくしてあげることはできないかもしれない。でも、書類を確認したり、必要な手続きを調べたりすることなら、一緒にできる。君が一人で全部を抱える必要はないんだよ」
エレノアは二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。私、そのことがとても心強いです」
しばらくして、アルフォンスは机の上の書類を整えた。
「では、次の手順について確認しよう。まず説明書の草案を修正し、清書を用意する。そのうえで君に全文を読んでもらう。君自身の拒否声明については、署名するかどうかも含めて、最終的に君が判断する。それでいいだろうか」
「はい。私も、その順番がよいと思います」
エレノアは頷いた。
拒否声明の原本は、今も署名されていない。
叔父が保管している三つの文章も、変更されていない。
今日の話し合いによって、提出が決まったわけではなかった。
けれど、提出する前に何を確認する必要があるのかは、以前よりはっきりした。
エレノアはそのことに、小さな安心を覚えた。
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、屋敷の資料室では、エレーヌ・フォシェとマルタが古い記録の整理を進めていた。
机の上には、これまでに確認できた衣類の記録や、筆跡を比較するための写しが並べられている。傷みのある原本は無理に開かず、すでに読める範囲で作成した転記を中心に、情報の整理が続けられていた。
エレーヌは一枚の転記を手に取り、慎重に目を通した。
「この『衣類整理控』については、まだ分からないことが多いわね。月は十月と読めるけれど、年は判然としないし、日付も十二日なのか十三日なのか確定できない」
マルタは頷き、別の記録と見比べた。
「『幼少時の衣類、保管分を別置』という記載もございますが、その下の『五』が何を数えたものなのかは分かりません。衣類の点数と考えるには、根拠が足りないと思います」
「そうね。エレノア様の行方が分からなくなっている衣装と、安易に結びつけるべきではないわ」
エレーヌは静かに答えた。
さらに、『西側保管』という記載についても、具体的にどの場所を指しているのかは不明だった。
ベルナール家の西側にあった保管場所を意味している可能性はあるが、それが母アデラインの木箱の移動先と同じであるとは確認できない。
また、記録に残る『ロラン』という姓についても、誰がどのような立場で記したものなのかは分かっていなかった。
「分からないことが多いからこそ、今は記録を傷めないことが大切ね」
エレーヌはそう言って、原本を保管している場所へ目を向けた。
傷みのある束は、必要以上に触れないようにしてある。
すでに読めた頁の内容は転記されているが、残りの頁を開くことについては、紙の保存に詳しい者の助言を受けるまで控える方針だった。
マルタは机の端に置かれた問い合わせ文の草案を手に取った。
「保存について相談できる専門家への問い合わせですが、こちらの文面でよろしいでしょうか」
エレーヌは受け取り、ゆっくりと読み進めた。
そこには、古い書類の束に傷みがあり、無理に開くことを避けていること、現物を移動させずに状態を確認できる方法について助言を求めたいことが記されていた。
書類の内容そのものを詳しく明かすのではなく、まず保存状態と相談方法について尋ねる文章になっている。
「ええ。これなら、必要なことを伝えられると思うわ。ただ、現物を見ていない段階で、どのような処置が必要かを決めてもらうことはできないでしょう。まずは相談を受けてもらえるかどうか、その確認から始めるべきね」
「承知いたしました。アルフォンス様へご確認いただけるよう、整えておきます」
マルタは頷き、文面を丁寧に机へ戻した。
エレーヌは窓の外へ目を向けた。
秋の光が庭園を照らし、遠くの木々が静かに揺れている。
古い記録には、まだ多くの謎が残されていた。
けれど、答えを急ぐあまり、残された手がかりを傷めてしまっては意味がない。
今できることを慎重に進める。
それが、資料を預かる者としての責任だった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室へ戻り、机の上に置かれた手帳を開いた。
今日の話し合いについて、忘れないうちに書き留めておきたかった。
ロシュフォール家の説明書の草案を読んだこと。
自分の意思を家が代わりに決めたように見える表現について、修正をお願いしたこと。
ベルナール家からの返書が送られたという事実と、婚約が正式に成立したかどうかは、分けて考える必要があること。
そして、王宮へ提出する前には、説明書の清書と自分の拒否声明をもう一度確認すること。
エレノアは一つずつ書き終えると、筆を置いた。
机の上には、王宮からの返書の写しがある。
その隣には、以前から保管している拒否声明の控えが置かれていた。
どちらも、彼女にとって大切な書類だった。
けれど、その意味は違う。
王宮からの返書は、手続きについての回答。
拒否声明は、エレノア自身が婚約を望んでいないという意思を示すためのもの。
そして、ロシュフォール家の説明書は、家として把握している事情を整理し、彼女の書面とは区別して提出するために準備されている。
エレノアはその違いを、もう一度手帳へ書き留めた。
(こうして整理してみると、少しずつ分かってきた気がするわ。最初は、何を確かめればよいのかも分からなかったのに)
彼女は静かに微笑んだ。
父ロベルトが受諾の返書を送ったと知ったとき、自分の意思がどこにも存在しないように感じた。
すでに何かが決まってしまい、自分にはそれを変えることができないのではないかと恐れた。
けれど、今は違う。
自分の意思を示すための書面を作り、必要な手続きを確認し、提出方法についての回答を受け取った。
まだ結果が出たわけではない。
それでも、自分の言葉が少しずつ形になっている。
そのことが、彼女には何より大切だった。
エレノアは手帳を閉じ、窓辺へ向かった。
庭園には夕暮れの光が広がり、南側の花壇に咲く青紫の花が、遠くからかすかに見えている。
季節は少しずつ進んでいた。
自分の刺繍も、まだ完成していない。
母の遺品の行方も、すべて分かったわけではない。
養子縁組の手続きも、正式には終わっていない。
そして、第二王子との婚約についても、まだ何も結論は出ていなかった。
それでも、エレノアは今の自分が、以前より少しだけ前へ進めていることを感じていた。
誰かに決められた未来を、ただ受け入れるのではなく、自分で考えて選ぼうとしている。
そのために必要なことを、一つずつ確かめている。
彼女は窓辺に立ったまま、静かに息を吸った。
(私は、まだ十五歳なのよね。あの未来では、十八歳になるまでに、たくさんのことを失ってしまった。でも、今はまだ、これからの時間がある)
胸の奥に、かつての記憶がよみがえる。
冷たい処刑台。
自分へ向けられた視線。
最後まで届かなかった言葉。
その記憶は、今も消えない。
けれど、エレノアはゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。
今、彼女が立っているのは、ロシュフォール家の自室だった。
窓の外には穏やかな庭園があり、屋敷の中には彼女を大切に思ってくれる人たちがいる。
祖父オーギュスト。
祖母マルグリット。
叔父アルフォンス。
セドリック。
そして、いつもそばで支えてくれるリディア。
彼らは、未来で何が起きたのかを知らない。
それでも、今のエレノアの言葉を聞き、彼女が望む道を選べるように力を貸してくれている。
そのことが、胸の奥へ静かな温かさを広げていった。
(私は、もう一人ではないのね。でも、だからといって、誰かにすべてを任せてしまうのではなく、自分の意思を大切にしていきたい)
エレノアは窓辺から離れ、机へ戻った。
手帳を開き、今日の最後の頁へ筆を走らせる。
『私は、第二王子との婚約を望んでいない。』
『その意思は、誰かに代わって決めてもらったものではない。』
『私は、自分の名前で、自分の意思を届けたい。』
書き終えた文字を見つめると、エレノアは静かに頷いた。
今の自分の名前は、エレノア・ベルナール。
養子縁組の手続きが完了すれば、いつかロシュフォールの名を名乗る日が来るかもしれない。
けれど、今はまだその途中にいる。
だからこそ、今の自分の名前で、自分の意思を残すことには意味がある。
父の返書と、自分の言葉は違う。
家の説明書と、自分の拒否声明も違う。
その違いを、曖昧にしたくはなかった。
エレノアは筆を置き、手帳を丁寧に閉じた。
明日になれば、また新しい確認が必要になるかもしれない。
説明書の修正が進むかもしれないし、王宮の手続きについて、さらに考えなければならないことが見つかるかもしれない。
それでも、彼女は焦らずに向き合おうと思った。
自分の未来を選ぶことは、一度の決断だけで終わるものではない。
小さな選択を重ね、そのたびに自分の意思を確かめていくことなのだと、今は少しずつ分かり始めていた。
やがて扉が叩かれ、リディアが夕食の時間を知らせに来た。
「エレノア様。そろそろお食事のお時間でございます」
「ありがとう、リディア。今、行くわ」
エレノアは微笑み、机の上の書類を整えた。
拒否声明の控えは、いつもの書類立てへ戻しておく。
王宮からの返書の写しも、折れたり汚れたりしないように丁寧に重ねた。
そして、未完成の青い花の刺繍へ目を向けた。
まだ花の中心には、紫の糸を加えていない。
どのような色にするかは、もう少し考えてから決めるつもりだった。
エレノアは刺繍箱の蓋をそっと閉じ、静かに微笑んだ。
自分の花を、自分の手で作る。
自分の言葉を、自分の名前で届ける。
その二つは、彼女の中で少しずつ同じ方向へつながり始めていた。
扉へ向かうと、リディアが穏やかな表情で待っている。
エレノアは彼女とともに廊下へ出た。
夕暮れの光が窓から差し込み、長い廊下を柔らかく照らしている。
その先には、家族の待つ食堂があった。
まだ何も終わっていない。
けれど、エレノアは今日も、自分の意思を確かめながら一日を過ごすことができた。
そして明日もまた、自分が望む未来へ向かって、必要なことを一つずつ選んでいくつもりだった。




