第101話 書き直された一行と、私が守りたい母の名前
ロシュフォール家の執務室で、アルフォンスが一通の書類を机の端へ移したのは、エレノアとの話し合いを終えた翌朝のことだった。
窓の外では、庭師たちが秋の剪定に取りかかっている。刈り取られた枝を集める音が、ときおり開け放した小窓から聞こえてきたが、アルフォンスはその音に気を取られることなく、昨日エレノアが指摘した文章へ目を落としていた。
ロシュフォール家から王宮へ提出する予定の説明書は、もともと家として把握している事情を伝えるために用意したものだった。ベルナール家から婚約受諾の返書が送られた経緯、エレノア本人がその返書を送る前に同意を示していなかったこと、そして本人の意思を別の書面で届ける準備を進めていることを、できるだけ正確に記している。
ところが、昨日の話し合いでエレノアが指摘した一文は、読み方によってはロシュフォール家が彼女の意思を確認し、家として判断しているようにも受け取れた。
アルフォンス自身に、そのような意図はなかった。むしろ、姪が自分の考えを言葉にできるよう、できる限り支えたいと思っていたからこそ、あの文章を書いたのだ。
しかし、書いた者の意図と、読む者が受け取る意味は必ずしも一致しない。
(エレノアは、そこを見逃さなかった。私が守ろうとしていたつもりの部分で、かえって彼女の意思を曖昧にしていたとはな)
アルフォンスは昨日の草案を脇へ置き、新しい用紙へ修正した文章を書き始めた。
本人は第二王子との婚約を望まない意思を書面で示すことを希望しており、その提出方法について、ロシュフォール家を通じて王宮の儀典担当部署へ問い合わせを行った。
そこまで書いたところで、彼は筆を止めた。
この表現なら、意思の主体はエレノアであり、ロシュフォール家は問い合わせを支援した立場だと分かる。ただし、これだけでは説明書の役割と本人の拒否声明の違いが、まだ十分に伝わらないかもしれない。
アルフォンスは少し考え、続く一文を書き加えた。
なお、本書はロシュフォール家が把握する事情を説明するものであり、本人による婚約についての意思表示を代行するものではない。
書き終えてから二つの文章を読み直すと、ようやく昨日感じていた曖昧さが薄れたように思えた。
それでも、これで完成とはしない。昨日、エレノアへ約束したとおり、修正後の全文をもう一度読んでもらう必要がある。
そのとき、扉が叩かれた。
「父上、セドリックです。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「入りなさい。ちょうど君にも確認してもらいたいものがある」
セドリックは入室すると、机の上に並ぶ書類へ視線を向けた。父が朝から説明書を修正していることは知っていたが、昨夜のうちに話し合った内容をここまで具体的に書き直しているとは思わなかったらしい。
「エレノアが気にしていた箇所ですね。昨日は、本人が言葉を選びながら話しているのがよく分かりました。あの子は、家の助けを拒みたいわけではないのでしょう」
「私もそう受け取ったよ。助けてもらうことと、自分の意思を誰かに預けてしまうことを、彼女はきちんと区別したいのだと思う」
アルフォンスは修正した文章を差し出した。
セドリックは父の机の向かいに立ったまま読み始めたが、途中で椅子を勧められると腰を下ろし、最初からもう一度丁寧に読み直した。窓辺から吹き込んだ風で用紙の端がわずかに浮き、彼は手のひらでそれを押さえた。
「こちらの方が、エレノアの希望に近いと思います。ただ、父上。ひとつ気になることがあります」
「どこだい」
「本人の意思を代行しないと明記するなら、説明書の末尾にも、本人の拒否声明とは別の書面であることを記しておいた方がよいのではありませんか。途中に書いてあるだけでは、受け取った側が一部分を抜き出して読む可能性もあります」
アルフォンスは息子の指摘を聞き、すぐには返事をしなかった。
王宮の担当者が書類をどのように回覧するか、ロシュフォール家には完全には分からない。昨日届いた返書にも、関係部署で取り扱われる可能性はあるが、閲覧者を厳密に限定する保証はできないと記されていた。
つまり、一通の書類が最初から最後まで同じ人物によって読まれるとは限らない。
「確かに、説明の中心になる部分は、冒頭と末尾の両方で誤解されないようにしておく必要があるね。ただし、同じ文章を繰り返すのではなく、末尾ではこの書面が何を求めるものではないのかを明確にしよう」
「婚約の可否について、ロシュフォール家が本人に代わって結論を求めているわけではない、ということですね」
「そうだ。もっとも、何も求めていないわけではない。ベルナール家の返書と本人の意思を同一視しないよう、事情を記録へ残すことは必要だからね」
セドリックは頷き、手元の紙へ短い覚え書きを残した。
父子の間には、以前から家の仕事について話し合う機会があった。しかし、エレノアに関する書類を扱うようになってからは、二人とも以前より言葉を慎重に選ぶようになっていた。
それは単に王宮が関係する問題だからではない。
家族のために何かをするつもりが、その本人の望みを押しのけてしまうこともあるのだと、エレノアが教えてくれたからだった。
◇ ◇ ◇
その頃、エレノアは自室でリディアとともに、机の上に置く書類の整理をしていた。
昨日の話し合いを終えたあと、王宮からの返書の写しと、自分が書いた拒否声明の控えを同じ書類立てへ戻していたが、今朝になって、用途の違う二つを一緒にしておくことが少し気になったのである。
リディアは薄い紙を挟むための台紙を用意し、エレノアが指示した順番に書類を置いていった。
「こちらが王宮からのお返事の写しで、こちらがエレノア様のお考えを記された控えでございますね。間に別の台紙を入れておけば、取り違えることも少なくなるかと存じます」
「ありがとう。見た目には似たような書類でも、意味はずいぶん違うものね。昨日、叔父様とお話ししていて、そのことを改めて感じたの」
エレノアは拒否声明の控えを手に取った。
そこに記されているのは、以前から変わらない三つの文章だった。
第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望んでいないこと。
ベルナール家から受諾の返書が送られたのはあとから知ったことであり、送付前に自分が受け入れる意思を示していないこと。
そして、父の返書と自分の意思を同じものとして扱わず、婚約を望んでいないことを記録の上でも明らかにしてほしいという願い。
何度も読み直してきた文章だったが、今朝は以前と少し違って見えた。
最初に書いたときには、言葉を間違えないようにすることだけで精いっぱいだった。けれど、王宮への問い合わせを重ね、叔父の説明書まで確認した今は、この三つの文章がどのような役割を持つのか、少しずつ理解できるようになっている。
「リディア。私、これを書いたときには、署名する日が来ることを考えるだけで、とても緊張していたの」
エレノアが控えを机へ戻すと、リディアは台紙を整えていた手を止めた。
「今も、緊張なさいますか」
「ええ。きっと署名するときには、また緊張すると思うわ。でも、何が書かれているのかを分からないまま名前を書くのと、自分で確かめてから書くのとでは、同じ緊張でも違う気がするの」
リディアは静かに頷いた。
「エレノア様は、これまで何度もお確かめになっていらっしゃいましたものね。私には書類の難しいことは分かりませんが、ご自身でお読みになったあとには、少しずつお顔が落ち着いていらっしゃるように見えます」
エレノアは思わず顔を上げた。
自分では、不安そうな表情ばかり見せていると思っていた。
けれど、いつもそばにいるリディアには、そうではない変化も見えていたらしい。
「そう見えるのなら、少し嬉しいわ。私、いつも同じことを考えているように見えていないかしらと、気になっていたの」
「同じことを大切に考えていらっしゃるのと、何も変わっていないのとは違うと思います。昨日もお戻りになったときには、疲れていらっしゃいましたけれど、ご自身で確かめられたことがあったのだろうと感じました」
その言葉に、エレノアはすぐには返事ができなかった。
リディアは書類の内容を詳しく知っているわけではない。それでも、日々の小さな変化を見つけ、言葉にしてくれる。
エレノアは控えの端を指でそっと押さえた。
「ありがとう、リディア。あなたがそう言ってくれると、私も自分の変化を信じられそうだわ」
「そのようにおっしゃっていただけるのでしたら、私も嬉しゅうございます」
書類の整理を終えると、リディアは台紙を二つに分けて書類立てへ収めた。
エレノアはその様子を見届けてから、机の下の引き出しへ一瞬だけ視線を向けた。
下段の右側には、以前確認したまま、まだ開いていない包みや小箱が残っている。左側の引き出しには鍵がかかっており、その鍵も見つかっていない。
気になるものはほかにもあったが、今朝は無理に調べるつもりはなかった。
(あの引き出しの中にも、いつか確かめたいことがある。でも、今は王宮へ届ける書類のことを、最後まで丁寧に考えたいわ)
エレノアは視線を戻し、机の上を片づけた。
そのとき、廊下から近づいてくる足音が聞こえた。ほどなく扉が叩かれ、アルフォンスの使いの者が、午前の仕事を終えたあとで説明書の修正版を確認してほしいという伝言を届けた。
エレノアは承知したことを伝え、使いの者を見送った。
昨日の話し合いが、もう次の形になろうとしている。
そう思うと、胸の奥に緊張と期待が入り混じった感覚が広がった。
◇ ◇ ◇
昼前、エレノアはセドリックに付き添われ、アルフォンスの執務室へ向かった。
廊下の窓からは、庭園の南側にある花壇が見えていた。雨のあとも花々は大きく傷んでおらず、風に揺れる細い茎の間を、庭師が慎重に歩いている。
エレノアは窓の外へ目を向けながら、隣を歩くセドリックへ話しかけた。
「お兄様。叔父様は、今朝から説明書を直してくださっていたのですね」
「そうだよ。僕も少し確認したけれど、昨日君が気にしていた部分は、かなり分かりやすくなったと思う。ただ、最終的にどう感じるかは、君自身に読んでもらわないと分からないからね」
セドリックの答えに、エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます。お兄様も、お手伝いしてくださったのですね」
「父上の仕事を少し手伝っただけだよ。君が昨日、きちんと理由を話してくれたから、どこを直せばよいのか分かったんだ」
エレノアはその言葉を聞き、足元へ視線を落とした。
以前なら、自分が意見を述べたことで相手に余計な仕事を増やしてしまったのではないかと、申し訳なく思っていたかもしれない。
今も、その気持ちがまったくないわけではない。
けれど、セドリックの声には面倒そうな響きがなく、むしろ一緒に考えられたことを喜んでいるような温かさがあった。
「私、昨日は少し言い過ぎてしまったのではないかと、あとから考えていたのです。叔父様が丁寧に作ってくださった文章なのに、あれこれお願いしてしまいましたから」
セドリックは歩調を緩め、エレノアの方へ顔を向けた。
「エレノア。父上が君に草案を見せたのは、ただ読んでもらうためではないよ。気になることがあれば教えてほしいと思ったからだ。君が黙って頷いてしまったら、父上は自分の書いた文章の問題に気づけなかったかもしれない」
彼は少し笑みを深めた。
「だから、遠慮しなくていい。もちろん、何でも思いつくままに言えばいいという意味ではないけれど、君は理由を考えて、丁寧に伝えていた。僕には、言い過ぎたようには見えなかったよ」
エレノアは胸の前で重ねていた手を緩めた。
「そうでしょうか。お兄様にそう言っていただけると、安心します」
「それならよかった。父上も、君が自分の考えを話してくれたことを喜んでいたと思うよ」
二人は再び歩き始めた。
執務室の前に着くと、セドリックが扉を叩き、アルフォンスの返事を待ってから入室した。
室内には新しい用紙が二組置かれていた。一組はアルフォンスの手元にあり、もう一組はエレノアの席に用意されている。
「エレノア、来てくれてありがとう。昨日の草案を修正したので、今日はその全文を確認してもらいたい」
アルフォンスは立ち上がって迎え、エレノアが席に着くのを待ってから、自分も椅子へ戻った。
「昨日君が指摘してくれた箇所については、本人の意思と家の支援を区別する表現に改めた。それから、説明書の末尾にも、この書面が君自身の拒否声明を代行するものではないことを明記している」
エレノアは頷き、用意された書類を手に取った。
紙の表面には、書き直された文章が整った文字で並んでいる。昨日の草案と比べると、冒頭の説明は大きく変わっていなかったが、中ほどの一文は確かに修正されていた。
エレノアはその箇所をゆっくりと読み、少しだけ息を吐いた。
「叔父様。こちらの文章、とても分かりやすくなったと思います。私が婚約を望んでいないことを、自分の意思として伝えようとしているのだと、きちんと書かれているのですね」
「そう受け取ってもらえたならよかった。だが、まだ最後まで読んでみてほしい。ほかにも気になるところがあるかもしれないからね」
エレノアは頷き、続きを読むことにした。
書面には、ロシュフォール家が現在把握している事実だけが記されていた。父ロベルトが送った返書についても、王宮側がそれをどのように扱っているのかまでは断定していない。
さらに、養子縁組については現在手続き中であり、エレノアの法的な姓がまだベルナールであることも、必要な範囲で明確にされていた。
そこまで読み進めたとき、エレノアの視線が一か所で止まった。
母アデラインの名前が、説明書の中に出てきたのである。
それは、エレノアが現在ロシュフォール家に滞在している理由を説明する部分だった。
亡き母アデラインがロシュフォール家の出身であること、現在は母方の親族のもとで生活していることが、簡潔に記されている。
事実としては何も間違っていない。
けれど、エレノアはその文章を読んだ瞬間、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
母の名前が、王宮へ提出する書類に記されている。
それは当然のことかもしれないが、彼女にとっては単なる家系上の説明ではなかった。
母が亡くなってから、ベルナール家で過ごした時間の中で、母について話す機会は決して多くなかった。だからこそ、ロシュフォール家へ来てから祖父母や叔父、セドリックが母のことを自然に話してくれる時間は、彼女にとって大切なものになっていた。
その名前が、今度は婚約拒否に関する説明書へ記されようとしている。
(お母様の名前が、こんな形で王宮へ届くのね。私がここで暮らしている理由を説明するためには必要なのかもしれないけれど、少し不思議な気持ちがするわ)
エレノアは紙を持つ指先に力が入っていることに気づき、そっと緩めた。
アルフォンスはその変化を見逃さなかった。
「エレノア。何か気になるところがあったかな」
エレノアは顔を上げた。
「叔父様。お母様のお名前が書かれている部分について、少し考えていました」
アルフォンスは彼女が指し示した箇所を確認し、静かに頷いた。
「君がロシュフォール家で暮らしている事情を説明するために、必要な範囲で記したんだ。ただ、母親の名前を出すことについて、君が気になるなら話し合おう」
エレノアはすぐには答えなかった。
母の名前を消してほしいわけではない。むしろ、母がロシュフォール家の一員だったことは、彼女にとって大切なつながりだった。
ただ、母の名前が、自分の婚約をめぐる問題の一部として扱われることに、少しだけ寂しさを感じたのだ。
「消していただきたいわけではないのです。お母様がロシュフォール家の方だったことは、私にとって大切なことですから。ただ、書類の中では、私がここへ来た理由を説明するためのお名前になるのだと思うと、少し寂しくなってしまって」
言葉にすると、思っていた以上に胸が詰まった。
エレノアは慌てて微笑もうとしたが、うまくできなかった。
アルフォンスはすぐに慰めの言葉を重ねず、姪が続きを話せるように待っていた。
セドリックも書類から顔を上げたものの、何も言わずにエレノアを見守っている。
「私、お母様のお名前を、こういう書類の中でしか見られなくなるのは嫌なのだと思います。もちろん、そんなことにはならないと分かっているのですけれど……。お祖母様がお話ししてくださるお母様や、お兄様が覚えていらっしゃるお母様は、もっと温かな方ですから」
アルフォンスは静かに息を吐いた。
「そうだね。書類には、必要な事実しか書けない。だが、そこに書かれた名前が、その人のすべてを表しているわけではないよ」
彼は机の上に置かれた書類へ目を落とした。
「アデラインは私の妹だった。こうして名前を書くとき、私にもいろいろなことが思い出される。けれど、王宮へ提出する説明書に、あの子がどんなふうに笑ったか、何を好きだったかまで書く必要はない。それは、この書類とは別のところで、私たちが大切にしていけばいいことだからね」
エレノアは叔父の顔を見つめた。
アルフォンスは穏やかな声で続けた。
「君がここで暮らしているのは、単に書類上のつながりがあるからではない。私たちが君を家族だと思っているからだよ。そのことを、王宮への説明書の一文だけで表そうとは思っていない」
エレノアの目元が、少し熱くなった。
叔父は、彼女が感じていた寂しさを否定しなかった。
書類には書類の役割があり、家族の記憶には別の役割がある。
その二つを分けて考えてよいのだと、静かに教えてくれた。
「ありがとうございます、叔父様。私、お母様のお名前は、このまま書いていただきたいです。ここで暮らしている理由を説明するうえで、大切なことですから」
アルフォンスは頷いた。
「分かった。では、この部分はそのままにしよう。ただし、君が望まない個人的な事情まで書き加えることはしない。必要なことだけを、正確に記すつもりだよ」
エレノアは微笑み、再び書類へ目を戻した。
今度は、母の名前を見ても、先ほどのような痛みは感じなかった。
紙の上にあるのは、アデラインという一人の女性の名前。
けれど、その名前の向こうには、祖母が語ってくれる母の笑顔や、セドリックが大切にしている刺繍の袋、そして自分が今作っている青い花がある。
そのすべてを、一通の説明書へ収める必要はないのだと思えた。
◇ ◇ ◇
説明書の確認を終える頃には、窓から差し込む光が少し傾き始めていた。
アルフォンスは修正後の文章について、エレノアが納得できたかどうかを最後に確かめた。
「今日読んでもらった内容について、ほかに気になるところはあるかな。今すぐ答えを出す必要はないから、部屋へ持ち帰って考えても構わないよ」
エレノアは手元の書類を見つめ、少し考えた。
昨日の草案と比べて、本人の意思と家の説明が区別されていることは、はっきり分かる。母の名前についても、叔父と話したことで納得できた。
ただ、王宮へ提出するという行為そのものへの緊張が、消えたわけではない。
「文章については、今のところ気になるところはありません。でも、できれば今日のうちに署名するかどうかを決めるのではなく、もう一晩考えさせていただきたいです」
アルフォンスは迷わず頷いた。
「もちろんだよ。今日確認したのは家の説明書であって、君の拒否声明に署名するための場ではないからね」
エレノアはほっとしたように息を吐いた。
セドリックはその様子を見ながら、机の上の書類を丁寧に揃えた。
「父上。説明書と本人の拒否声明を同じ日に提出するかどうかについては、まだ決めていないのですよね」
「そうだね。王宮からの回答では、二つの書面を区別する必要があることは分かったが、同日提出が必須なのか、別の日でもよいのかまでは明確ではなかった。だから、こちらの都合だけで決めてしまわず、必要なら提出時の扱いを改めて確認するつもりだ」
エレノアはその説明を聞き、静かに頷いた。
「私も、二つの書面がどのように扱われるのかは、できるだけ分かったうえで決めたいです」
「その点は私の方で整理しておこう。ただし、何度も問い合わせを重ねれば必ずすべてが分かるというものでもない。王宮が答えられる範囲と、実際に提出してみなければ分からない部分は、分けて考える必要があるだろうね」
アルフォンスの言葉には、慎重さと同時に、現実的な判断があった。
エレノアはそのことを理解しようとした。
すべての不安がなくなるまで待つことは、できないかもしれない。
王宮の中で誰が書類を読むのか、どのような反応が返ってくるのか、それを事前に知る方法はない。
けれど、だからといって、何も確かめずに進める必要もない。
今できる確認を行い、分からないことは分からないまま認識したうえで、自分がどうするかを決める。
その考え方なら、少しずつ受け入れられそうだった。
「叔父様。私、今日の説明書を読ませていただいて、ひとつ分かったことがあります」
エレノアがそう言うと、アルフォンスとセドリックが顔を向けた。
「自分の意思を伝えるためには、ただ強い言葉を書けばよいわけではないのですね。何が事実で、何がまだ分からないのかをきちんと分けておくことも、大切なのだと思いました」
アルフォンスは少し驚いたように目を細めた。
「そうだね。強い言葉が必要になる場面もあるだろうけれど、今回のように記録へ残す書面では、正確であることが何より大切だと思うよ」
セドリックも穏やかに微笑んだ。
「君の三つの文章も、だからこそ意味があるのだと思う。誰かを責めるためではなく、自分が何を望んでいないのかを、はっきり示しているからね」
エレノアは二人の言葉を聞き、静かに頷いた。
これまで何度も読み返してきた拒否声明が、少し違う意味を持ち始めたように感じられた。
それは、自分を守るための言葉であると同時に、自分が何を選ぼうとしているのかを示す言葉でもある。
そして、その言葉を届けるかどうかは、まだ自分で決めることができる。
◇ ◇ ◇
エレノアが執務室を出たあと、アルフォンスはセドリックとともに、書類の扱いについてもう少し話し合った。
机の上には、エレノアが確認した説明書の修正版が残されている。
アルフォンスはその末尾へ目を向けながら、静かに口を開いた。
「セドリック。今日のエレノアを見て、どう思った?」
突然の問いに、セドリックは少し考えた。
「以前より、自分が気になることを言葉にできるようになったと思います。最初の頃は、何かを尋ねるだけでも、相手に迷惑をかけるのではないかと気にしているようでしたから」
「私もそう思う。ただ、まだ遠慮がなくなったわけではないね」
「ええ。今日も、昨日の指摘について申し訳なく思っていたようです。僕は、そんなふうに考えなくてもよいと伝えましたが、すぐに気持ちが変わるものではないのでしょう」
アルフォンスは静かに頷いた。
エレノアがロシュフォール家へ来てから、少しずつ表情が変わってきたことは、家族の誰もが感じている。
最初は遠慮がちで、何かをしてもらうたびに申し訳なさそうにしていた少女が、今では祖母と刺繍の色を相談し、庭師へ感謝を伝え、王宮へ提出する書類について自分の意見を述べるようになった。
その変化は嬉しいものだった。
けれど、アルフォンスには、時折エレノアが年齢に似合わないほど慎重な表情を見せることが気になっていた。
婚約に関する話題になると、彼女はただ嫌がるだけではなく、何かを深く恐れているように見える。
その理由を、アルフォンスは知らない。
父の意思で婚約受諾の返書が送られたこと自体が、十五歳の少女にとって大きな不安なのだろうとは思う。しかし、それだけでは説明できないほど切実な様子を見せることもあった。
(何があったのかを、無理に聞き出すべきではないのだろう。あの子が今、話せることを話してくれているのなら、まずはそれを大切にしなければ)
アルフォンスは机の上の用紙を揃えた。
「エレノアが自分の意思を伝えようとしていることを、私たちが焦らせる理由にしてはいけないね。書類の準備が進むと、つい次の手続きへ進めたくなるが、本人の気持ちが追いついていなければ意味がない」
セドリックは父の言葉を聞き、深く頷いた。
「僕もそう思います。エレノアは、きっと自分で決めたいのでしょう。僕たちができるのは、その判断に必要なことを一緒に確かめるところまでなのだと思います」
「そうだね。君にも引き続き力を貸してもらうことになるだろう」
「もちろんです。エレノアは僕にとって、大切な従妹ですから」
セドリックはそう答え、少し照れたように笑った。
アルフォンスは息子の表情を見て、穏やかに微笑んだ。
家族として支えることと、本人の人生を代わりに決めることは違う。
その区別を忘れずにいようと、彼は改めて思った。
◇ ◇ ◇
午後の資料室では、エレーヌ・フォシェがマルタとともに、古い記録の保存についての問い合わせ文を最終確認していた。
傷みのある『エレノア衣類』と記された束は、引き続き保護された状態で保管されている。すでに確認できた頁の転記は整理されているものの、残りの頁については、紙の状態を考慮して無理に開かない方針が続いていた。
エレーヌは問い合わせ文を読み終えると、机の上へ置いた。
「内容については、これでよいと思うわ。まず、古い紙の束を安全に扱う方法について相談できるかどうかを尋ねる。資料そのものを送ることはせず、現物の状態をどのように伝えるべきか、助言を求める形ね」
マルタは頷いた。
「はい。書類の内容についても、必要以上に詳しく記しておりません。現物を見ていただくことになった場合には、改めてアルフォンス様のご判断を仰ぐ必要がございます」
「その通りよ。今は、問い合わせを送ることと、資料を誰かに見せることを同じにしてはいけないわ」
エレーヌは慎重に答えた。
資料に記された文字の中には、年月日が判然としないものや、数字の意味が分からないものがある。
『五』という数字が何を示すのか、『西側保管』が具体的にどの場所を指すのか、『ロラン』という姓が誰のどのような関与を意味するのかも、まだ分かっていない。
だからこそ、古い紙を傷めずに確認できる方法を探す必要があった。
「エレノア様も、きっと気になっていらっしゃるでしょうね」
マルタがそう呟くと、エレーヌは静かに頷いた。
「そうでしょう。でも、気になるからこそ、今は待つことが大切なのよ。資料を開けば何かが分かるかもしれないけれど、無理に開いて文字が失われてしまったら、取り返しがつかないもの」
エレーヌは問い合わせ文を封筒へ入れる前に、もう一度内容を確かめた。
そのあと、アルフォンスの確認を受けるため、必要な書類を揃えた。
まだ問い合わせは発送されていない。
けれど、これまで漠然と考えていた保存の相談が、実際に外部へ尋ねられる段階へ近づいていた。
マルタは資料の保管場所へ目を向け、静かに息を吐いた。
古い記録の向こうに何が残されているのかは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、今できることを一つずつ進めるしかなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは祖母マルグリットの部屋を訪れた。
昼間の話し合いで母アデラインの名前を見たことが、心に残っていたのである。
マルグリットは窓辺の椅子に腰を下ろし、以前から補修を考えている膝掛けを膝の上へ広げていた。今日は縫い始めるのではなく、傷んだ部分の周囲を指先で確かめているところだった。
「エレノア、いらっしゃい。今日は叔父様と書類のお話をしていたのでしょう。疲れていないかしら」
「少しだけ緊張しましたけれど、大丈夫です。叔父様が昨日の文章を直してくださって、今日はその全文を確認することができました」
エレノアがそう答えると、マルグリットは安心したように微笑んだ。
「それならよかったわ。難しい書類を読むのは疲れるでしょうから、ここでは少しゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます、お祖母様」
エレノアは勧められた椅子へ座り、祖母の膝の上にある布へ目を向けた。
傷んだ部分には、まだ針が入れられていない。昨日までに見比べた布の候補も、脇の小さな籠へ丁寧に収められていた。
マルグリットはその籠へ視線を向けながら、穏やかに話しかけた。
「今日は、補修に使う布をもう一度確かめていたの。昨日あなたと話したことを思い出して、傷んだところの周りも見ておこうと思ったのよ」
「私も、お祖母様に教えていただいたことを覚えています。目立つところだけでなく、その周りも確かめることが大切なのですよね」
「ええ。けれど、今日は縫い始めるつもりはないの。布の状態を見ているうちに、もう少し考えたいところが出てきたから」
マルグリットはそう言って、膝掛けを丁寧に畳んだ。
エレノアは祖母の動きを見つめながら、昼間の出来事を思い出していた。
書類に記された母の名前を見たとき、どうしてあんなに胸が苦しくなったのだろう。
母の名前が書かれていること自体は、嬉しいはずだった。
けれど、あの一文を読んだ瞬間、母が家系を説明するためだけの存在になってしまうように感じられたのだ。
エレノアは少し迷ってから、祖母へ話しかけた。
「お祖母様。今日、叔父様の説明書に、お母様のお名前が書かれていたのです」
マルグリットは手を止め、エレノアへ顔を向けた。
「アデラインの名前が?」
「はい。私がロシュフォール家で暮らしている事情を説明するために、お母様がこちらの家の方だったことが書かれていました。間違ったことではないのですけれど、それを読んだとき、少しだけ寂しくなってしまって」
エレノアは自分の気持ちを説明しようとしたが、うまく言葉が続かなかった。
マルグリットは急かすことなく、静かに待ってくれた。
「私、お母様のことをもっと知りたいと思っています。でも、書類の中にお名前があると、お母様が遠いところにいらっしゃる方のように感じられてしまったのです。お祖母様や叔父様が話してくださるお母様は、もっと近くに感じられるのに」
マルグリットはしばらくエレノアを見つめていた。
やがて、そっと手を伸ばし、彼女の手の甲へ自分の手を重ねた。
「そうね。書類の中では、どうしても名前や立場が先に書かれるものですもの。でも、アデラインは、わたくしたちにとって書類の中だけの人ではないわ」
祖母の声は穏やかだった。
「あなたのお母様は、子どもの頃から、好きなことを見つけると夢中になるところがあったの。刺繍もそうだったし、庭の花を眺めるのも好きだったわ。うまくできないことがあると悔しがることもあったけれど、少し時間を置いて、また挑戦する子だったのよ」
エレノアは祖母の手を見つめた。
以前にも母が刺繍を好んでいたことは聞いている。
けれど、うまくできずに悔しがったという話を聞くと、母が遠い記憶の中の美しい人ではなく、自分と同じように迷ったり、失敗したりする人だったのだと感じられた。
「お母様も、失敗すると悔しがっていらしたのですね」
「ええ。けれど、誰かに見せるためだけに作っていたわけではなかったの。自分が作りたいものを形にするのが好きだったのでしょうね」
マルグリットは微笑み、エレノアの手を軽く握った。
「あなたが今、青い花の刺繍を少しずつ進めているでしょう。わたくしは、その姿を見るたびに、アデラインが何かを作っていた頃を思い出すの。でも、あなたがあの子と同じものを作らなければならないとは思わないわ」
エレノアは顔を上げた。
「私も、そう思っています。お母様の青い花がどのようなものだったのか、まだ分かりませんから。今作っている花は、お母様のことを思いながら、私が作っているものなのだと思います」
「それでいいのよ。あなたが作る花は、あなたのものですもの」
その言葉に、エレノアは静かに微笑んだ。
母の名前を大切にすることと、自分の人生を自分で選ぶことは、矛盾しない。
むしろ、母がどんな人だったのかを知ることで、自分がどのように生きたいのかを考える手がかりが増えていくように感じられた。
「お祖母様。私、今日の説明書に書かれていたお母様のお名前は、そのまま残していただくことにしました」
マルグリットは優しく頷いた。
「そう。あなたが考えて決めたのなら、それでよいと思うわ」
「はい。書類には必要なことだけを書いて、お母様のことは、これからも皆様に教えていただきたいと思ったのです」
マルグリットは少しだけ目を潤ませた。
けれど、すぐに穏やかな笑顔を取り戻し、エレノアの手をもう一度包み込んだ。
「もちろんよ。わたくしが覚えていることなら、いつでも話してあげる。アデラインのことを、あなたが知りたいと思ってくれるのは、わたくしにとっても嬉しいことなのだから」
エレノアはその温かな手を握り返した。
窓の外では、夕方の光が庭園を柔らかく照らしていた。
祖母の部屋に流れる静かな時間の中で、エレノアは母の名前が、書類の上にあるだけではないことを改めて感じていた。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に置かれた手帳を開いた。
今日も多くのことを考えた一日だった。
叔父が修正してくれた説明書を読み、自分の意思と家の説明が区別されていることを確かめた。
母アデラインの名前について、叔父と話し合った。
そして夕方には、祖母から母の思い出を聞くことができた。
エレノアは筆を取り、今日の出来事を一つずつ書き留めていった。
書類については、まだ最終的な提出の判断をしていないことも記した。
王宮からの回答によって、提出先や署名の必要性は分かっている。
しかし、書面がどのように扱われるのかについては、まだ完全には分からない部分がある。
だからこそ、今後も叔父と相談しながら、必要な確認を進めるつもりだった。
エレノアはそこまで書き終えると、少しだけ筆を止めた。
机の上には、青い花の刺繍が置かれている。
まだ完成していない花びらには、青い糸が丁寧に縫い重ねられていた。紫の糸を使った試し縫いは別の布に残されており、本番の花へ加えるかどうかは、まだ決めていない。
エレノアはその刺繍を手に取り、しばらく眺めた。
(お母様も、何かを作りながら迷ったことがあったのね。私も、今はまだ決められないことがあるけれど、少しずつ考えていけばいいのだと思うわ)
彼女は刺繍を机へ戻し、手帳の最後に短い文章を書き加えた。
『お母様の名前を大切にしながら、私は私の名前で、自分の意思を届けたい。』
書き終えた文字を見つめると、胸の奥が静かに温かくなった。
今の自分は、まだエレノア・ベルナールという名前を持っている。
ロシュフォール家への養子縁組は、正式には完了していない。
そして、第二王子との婚約についても、まだ結論は出ていなかった。
それでも、今の自分が何を望んでいるのかは、少しずつはっきりしてきている。
父が送った返書と、自分の意思は違う。
家族が支えてくれることと、自分の代わりに決めてもらうことも違う。
その違いを大切にしながら、これからのことを選んでいきたい。
エレノアは手帳を閉じ、机の上を整えた。
王宮へ提出する書類について、明日すぐに何かが決まるとは限らない。
けれど、今日の話し合いによって、少なくとも一つの大切な文章は、以前より自分の気持ちに近いものになった。
それは、小さくても確かな前進だった。
やがて、廊下からリディアの足音が聞こえた。
エレノアは机の上の書類を丁寧に片づけ、扉の方へ顔を向けた。
今日という一日は、もうすぐ終わろうとしている。
それでも、彼女が選ぼうとしている未来は、まだ始まったばかりだった。




