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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第9話 ただいまを言える場所

 ロシュフォール公爵家を訪れる朝、エレノアはいつもより早く目を覚ました。


 厚いカーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、部屋の中には夜の冷たさがわずかに残っている。枕元へ置かれた時計を確かめれば、起床するには少し早い時刻だった。


 もう一度眠ろうとは思えなかった。


 二日間、待っていた。


 長かったようにも感じるし、あっという間だったようにも感じる。


(今日、会える)


 叔父に。


 祖父と祖母に。


 セドリックに。


 そう考えるだけで胸が温かくなるのに、そのすぐ隣には不安があった。


(ちゃんと話せるかな)


 この二日間、何度も考えた。


 何を話すのか。


 どこまで話すのか。


 父が自分の拒絶を無視して婚姻を進めたことは、すでに手紙で伝えている。


 外出と書簡を制限されたことも。


 けれど、それより前のことはほとんど何も伝えていない。


 食事のこと。


 母の形見のこと。


 使用人のように仕事をさせられていたこと。


 身体に残っている痣。


 そして、自分自身でさえ、まだはっきりと思い出せないこと。


 すべてを話す必要はない。


 クロノアにもそう言われ、自分でもそう決めた。


 それでも実際に顔を合わせたら、「大丈夫」と言ってしまう気がした。


 長い間、そうしてきたから。


 痛くても。


 怖くても。


 お腹が空いていても。


 何かを聞かれれば、大丈夫だと答えた。


(今日は、それだけで終わらせない)


 エレノアは布団の中で指を握った。


 全部でなくていい。


 一つでいい。


 自分に起きたことを、自分の言葉で話す。


 そのために行くのだから。


 扉が静かに叩かれたのは、それからしばらく経ってからだった。


「お嬢様。お目覚めでしょうか」


「起きています」


 返事をすると、若い侍女が入ってくる。


「本日はロシュフォール公爵家へお出かけですので、少し早めにご準備をとのことでございます」


「分かりました」


 侍女が衣装棚へ向かう。


 その背中を見ながら、エレノアは一瞬迷った。


 着替えを手伝われれば、腕や背中を見られるかもしれない。


 この前は一人で着替えたいと言った。


 今日もそうすることはできる。


 けれど公爵家を訪問するための衣装は、一人で整えるには難しい。


 侍女が振り返った。


「こちらのお召し物でよろしいでしょうか」


「はい」


 淡いクリーム色のドレス。


 華美ではないが、親族の家を訪れるには十分なものだった。


 エレノアは寝台から降りる。


 胸が少し速くなる。


「お嬢様?」


「……お願いがあるの」


「はい」


「着替えを手伝ってほしいのだけれど」


「もちろんでございます」


「その……」


 言葉が止まる。


 侍女は急かさなかった。


「腕に、少し痣があるの」


 初めてだった。


 自分から誰かへ言った。


 それだけなのに喉が渇く。


「驚くかもしれないけれど、今は何も聞かないでもらえる?」


 侍女が僅かに目を見開いた。


 しかし、すぐに頭を下げる。


「承知いたしました」


「……それだけ?」


 思わず聞いてしまった。


「はい?」


「怒らないの?」


 侍女が困惑した。


「私が、でしょうか」


「うん」


「なぜ私がお嬢様を怒るのでしょう」


 あまりにも自然な反応だった。


 エレノアは答えられなかった。


 侍女もそれ以上尋ねず、着替えの準備を始める。


「では、お袖を通す際に痛むようでしたら仰ってくださいませ。なるべく触れないようにいたします」


「……ありがとう」


 寝間着を脱ぐ。


 肌が空気へ晒される。


 侍女の手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 右の上腕。


 脇腹に近いところ。


 古いものと新しいものが混じった痣。


 背中にも、衣服で隠れる位置に薄い痕がある。


 見られた。


 身体が強張る。


 侍女が何か言う。


 そう思った。


 けれど。


「右のお袖から通しましょうか。それとも左からの方が楽でしょうか」


 尋ねられたのは、それだけだった。


「……左から」


「かしこまりました」


 ドレスが肌を覆っていく。


 侍女は本当に何も聞かなかった。


 痣へ触れないよう、普段よりゆっくり袖を通してくれる。


(見られても、怒られなかった)


 当たり前のことなのかもしれない。


 でも、エレノアには当たり前ではなかった。


 着替えが終わり、鏡台の前へ座る。


 侍女が髪を整え始めたところで、エレノアは机の上へ置いていた淡い青のリボンを見た。


「あの」


「はい」


「今日は、あれを使ってほしいの」


 侍女が視線を向ける。


「青いリボンでございますか?」


「ええ」


「昨日、公爵家から届いたお品ですね」


「私が選んだの」


 口にしたとき、少しだけ誇らしい気持ちになった。


「とても綺麗なお色です」


「……そうでしょう?」


 鏡の中の自分が笑った。


 侍女も微笑み、髪へリボンを結ぶ。


 淡い青が、茶色の髪に映えた。


 誰かが決めた色ではない。


 自分で選んだ色。


 エレノアは鏡の中のリボンを何度も見た。


        ◇ ◇ ◇


 昼食を終えると、玄関前にはベルナール家の馬車が用意されていた。


 空は薄い雲に覆われているものの雨の気配はなく、秋へ向かう風が庭木の葉を揺らしている。


 ヴァレリアは濃い葡萄色の外出着をまとい、すでに玄関ホールで待っていた。


「準備できたのね」


「はい」


 ヴァレリアの視線がエレノアの髪へ向かう。


「そのリボン」


 エレノアの肩が僅かに強張る。


「公爵家からいただいたものです」


「そう」


 ヴァレリアは近づき、リボンを確かめるように見る。


 エレノアは逃げなかった。


「綺麗な色ね」


「ありがとうございます」


「自分で選んだの?」


「はい」


 一瞬だけ、ヴァレリアが黙った。


「そう」


 それ以上は何も言わなかった。


 ロベルトが階段を降りてくる。


「遅くならないようにしろ」


「分かっています」


 ヴァレリアが答える。


「エレノア」


「はい」


「ロシュフォール家で余計なことはするな」


 胸の奥がざわついた。


「余計なこと、とは何でしょうか」


 ロベルトが眉をひそめる。


「言葉通りだ」


「……分かりました」


 本当は分かっていない。


 何を余計と呼ぶのか。


 父にとって都合の悪いことを話すなという意味なのか。


 勝手に一人で動くなという意味なのか。


 それとも両方なのか。


 けれど、ここで問い続けても答えは得られないだろう。


 馬車へ乗り込む。


 向かいにヴァレリアが座った。


 扉が閉じる。


 車輪が動き出し、ベルナール伯爵邸がゆっくり遠ざかっていく。


 エレノアは窓の外を見た。


 門を出る。


 ただそれだけのことなのに、胸がいっぱいになった。


(外に出た)


 父の許可がある。


 ヴァレリアも一緒。


 自由になったわけではない。


 それでも、数日前には屋敷から出ることすら禁じられた。


 その門を今、自分は越えている。


「嬉しそうね」


 向かいから声がした。


 エレノアは窓から視線を戻した。


「はい」


 誤魔化さなかった。


「お祖父様たちに会えるので」


「そう」


 ヴァレリアは微笑む。


「そんなに会いたかったの?」


「長くお会いしていませんでしたから」


「以前は、あまり会いたがっているようには見えなかったけれど」


 エレノアの指先が膝の上で動く。


「そうだったかもしれません」


「何かきっかけがあったの?」


 柔らかい声。


 世間話のような問い。


 けれどエレノアは警戒した。


「お母様のことを思い出したからです」


 嘘ではない。


「アデライン様を?」


「はい」


「そう……」


 ヴァレリアは窓の外へ視線を向けた。


「あなたのお母様は、ロシュフォール家でとても大切にされていたそうね」


「そう聞いています」


「あなたも小さいころは、よく遊びに行っていたのでしょう?」


「はい」


 記憶が少しずつ蘇る。


 大きな庭。


 セドリックと走った道。


 祖母の焼いた菓子ではなく、祖母が厨房へ頼んで作らせてくれた甘い菓子。


 叔父に高く抱き上げられ、母が怒っていたこと。


 父方の屋敷とは違う空気。


 あのころは、どちらも自分の家族だと思っていた。


「楽しみ?」


「はい」


 今度は迷わなかった。


 ヴァレリアはその答えを聞きながら、静かにエレノアを観察していた。


        ◇ ◇ ◇


 ロシュフォール公爵邸では、朝から妙な緊張が漂っていた。


 客を迎えること自体は珍しくない。


 帝国有数の公爵家である以上、日常的に貴族や役人、商人が訪れる。


 けれど今日は違った。


 来るのは、長くこの家から遠ざかっていた娘の忘れ形見だった。


「母上」


 応接室へ入ったアルフォンスは、すでに三度目になる言葉を口にした。


「まだ時間があります」


「分かっているわ」


 マルグリットは答えた。


 答えながら、窓の外を見る。


「でしたら、少し座っていてください」


「座っているでしょう」


「今、立っています」


 マルグリットは自分の姿を見下ろした。


「……いつ立ったのかしら」


「俺が聞きたいです」


 少し離れたところで、セドリックが笑いを堪えている。


「セドリック」


「何も言っていません」


「顔が笑っているぞ」


「祖母上が朝から落ち着かないので」


「あなたもでしょう?」


 マルグリットに言われ、セドリックは口を閉じた。


 実際、彼も朝から何度も時計を見ていた。


「父上は?」


 セドリックが話題を変える。


「庭だ」


「またですか?」


「朝から四回目だ」


「五回目よ」


 マルグリットが訂正する。


「さっきも行ったわ」


 アルフォンスが額へ手を当てた。


「父上まで……」


「あなたも人のことを言えないでしょう」


「俺は仕事をしています」


「同じ書類を十分くらい見ていたと家令が言っていたわ」


「……あいつは余計なことを」


 家族全員が落ち着いていない。


 それが分かると、セドリックの表情から少し笑みが消えた。


「エレノア、覚えているでしょうか」


 アルフォンスが息子を見る。


「何をだ」


「ここを」


「さあな」


「僕たちのことも」


「覚えているだろう」


「そうですかね」


 セドリックは窓へ目を向ける。


「最後にまともに会ったころ、あの子はまだ小さかった」


「それでも、お前とはよく遊んでいた」


「だからこそです」


 声が少し低くなる。


「僕は、ずっと会いに行かなかった」


「それは俺も同じだ」


「でも」


「セドリック」


 アルフォンスが止める。


「後悔なら、俺もしている」


 部屋が静かになる。


「ロベルトから距離を置いてほしいと言われた。エレノア自身も新しい家族との生活を望んでいると聞かされた。こちらから贈った手紙への返事も減った」


「はい」


「それを信じた」


 アルフォンスは唇を噛む。


「正しかったかどうかは、これから確かめる」


 過去の自分を責めても、今のエレノアは助からない。


 分かっている。


 それでも簡単には割り切れない。


「だから今日は」


 アルフォンスが続ける。


「俺たちが何を言いたいかより、エレノアが何を言いたいかを聞く」


「はい」


 セドリックが頷く。


「怖がらせないようにします」


「お前は昔から距離が近すぎるから気をつけろ」


「それ、父上に言われたくありません」


「俺は大人だ」


「姪を見ると抱き上げていた人が何を言っているんですか」


「あれは小さいころだ」


「僕も小さかったですよ」


「二人とも」


 マルグリットの声。


「喧嘩するなら別の部屋でしてちょうだい」


「していません」


 親子の声が重なった。


 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。


 三人が一斉に扉を見る。


 家令が入室する。


「ベルナール伯爵家の馬車が正門へ到着いたしました」


 空気が変わった。


 マルグリットが立ち上がる。


 今度は誰も座れとは言わなかった。


        ◇ ◇ ◇


 馬車が大きな門をくぐったとき、エレノアは息を呑んだ。


 灰白色の石造りの屋敷。


 派手な装飾は少ない。


 けれど長い年月を重ねた建物には、ベルナール伯爵邸とは違う重みがあった。


 庭木は丁寧に整えられ、季節の花が道沿いに咲いている。


(覚えてる)


 胸が締めつけられる。


 玄関前の広い階段。


 横へ続く回廊。


 遠くに見える木々。


 幼いころ、何度もここへ来た。


 記憶は薄れていたはずなのに、実際に目にすると次々と戻ってくる。


「エレノア?」


 ヴァレリアに呼ばれ、エレノアは我に返った。


「ごめんなさい」


 言ってから気づく。


「……いえ」


 謝る必要はなかった。


「懐かしくて」


 言い直した。


「そう」


 馬車が止まる。


 外から扉が開かれた。


 先にヴァレリアが降りる。


 続いてエレノアが足を踏み出した。


 靴底が石畳へ触れる。


 顔を上げる。


 玄関前に、四人の人影があった。


 アルフォンス。


 セドリック。


 オーギュスト。


 マルグリット。


 エレノアの足が止まった。


 誰も、すぐには動かなかった。


 何年も会っていなかった。


 けれど分かる。


 祖父は少し髪が白くなった。


 祖母も記憶より年を重ねている。


 叔父は以前よりずっと公爵らしい威厳を身につけていた。


 セドリックは、もう少年ではない。


 それでも。


(みんな、いる)


 生きている。


 自分を見ている。


 処刑台から見えた人たちとは違う。


 目を逸らさない。


「……エレノア」


 最初に名前を呼んだのは、マルグリットだった。


 その声だけで。


 胸の奥に閉じ込めていた何かが、ひどく揺れた。


「お祖母……様」


 声が掠れる。


 マルグリットが一歩進む。


 しかし、そこで止まった。


 両手を伸ばしかけて、下ろす。


 エレノアはそれを見た。


 抱きしめたいのに、勝手に触れないようにしてくれた。


 なぜか分かった。


「大きくなったわね」


 マルグリットは泣きそうに笑った。


「本当に……大きくなった」


 エレノアの目の奥が熱くなる。


「ご無沙汰しております」


 礼をしようとする。


「そんな挨拶はあとでいい」


 低い声。


 祖父だった。


「顔を見せろ」


 エレノアはゆっくり顔を上げる。


 オーギュストは厳しい表情をしていた。


 昔からそうだった。


 笑うことが少なく、幼いエレノアは少し怖いと思ったこともある。


 けれど。


「……痩せたか」


 その声は震えていた。


「お祖父様」


「元気だったか」


 聞かれた。


 いつもの言葉が出そうになる。


 大丈夫です。


 元気です。


 何も問題ありません。


 けれど。


 今日は、それだけで終わらせないと決めた。


「……分かりません」


 エレノアは答えた。


 四人の表情が変わる。


「自分が元気なのか、今はまだ……よく分からないんです」


 声が震える。


 それでも言えた。


 大丈夫ではない。


 そのことを。


 マルグリットの目から涙が零れた。


 けれど祖母は近づかなかった。


「そう」


 ただ、頷いた。


「なら、一緒に確かめましょう」


 その言葉に、エレノアは唇を噛んだ。


 泣きたくなかった。


 ヴァレリアが隣にいる。


 ここで泣けば、何を思われるか分からない。


 必死に堪える。


「エレノア」


 今度はアルフォンスだった。


 叔父を見る。


「……叔父様」


「ああ」


 それだけ。


 アルフォンスは何も聞かなかった。


 手紙のことも。


 助けてほしいと書いた理由も。


 ただ。


「よく来たな」


 言われた。


 エレノアの呼吸が止まる。


 幼いころにも、聞いたことがある気がした。


 母と一緒にこの屋敷へ来たとき。


 叔父が玄関まで迎えに来て。


 同じように。


 よく来たな、と。


「……はい」


 それしか返せなかった。


 最後にセドリックと目が合う。


 従兄は笑っていた。


 でも、目が少し赤い。


「久しぶり、エレノア」


「セドリック兄様」


「覚えてた?」


「もちろんです」


「よかった」


 セドリックが笑みを深くする。


「忘れられてたら、しばらく立ち直れなかった」


 昔と同じような軽い口調。


 それが嬉しかった。


「忘れません」


「本当に?」


「はい」


「なら安心した」


 そこで初めて、エレノアも少し笑えた。


 ほんの小さな笑み。


 けれど、ロシュフォール家の四人はそれを見逃さなかった。


「ロシュフォール公爵閣下」


 ヴァレリアの声で、空気が現実へ戻る。


 アルフォンスがそちらを見る。


「ベルナール伯爵夫人。遠いところをありがとうございます」


「こちらこそ、本日はお招きいただきありがとうございます」


 ヴァレリアは完璧な礼をする。


「エレノアも、今日をとても楽しみにしておりました」


 エレノアの胸に小さな違和感が生まれる。


 自分が言う前に、ヴァレリアが自分の気持ちを代弁する。


 以前なら何も感じなかったかもしれない。


 今は気づく。


「はい」


 エレノアは自分で言った。


「私自身、とても楽しみにしていました」


 ヴァレリアが一瞬だけエレノアを見る。


 アルフォンスの目にも、僅かな変化があった。


「そうか」


 それ以上は何も言わない。


「立ち話も何です。中へどうぞ」


        ◇ ◇ ◇


 応接室へ通されるまでの廊下さえ、エレノアには懐かしかった。


 壁に並ぶ絵。


 窓から見える中庭。


 磨かれた床。


 昔とまったく同じではない。


 調度品が変わっている場所もある。


 それでも、自分の中に残っていた記憶と重なる。


「ここ……」


 思わず足を緩める。


「覚えている?」


 マルグリットが隣から尋ねる。


「はい」


 エレノアは壁に掛けられた一枚の絵を見る。


 若い女性の肖像画。


 柔らかな栗色の髪。


 優しい目。


 母。


 アデライン。


 足が完全に止まった。


「お母様……」


 声が震えた。


 ベルナール家にも母の肖像画はあった。


 少なくとも、昔は。


 けれどヴァレリアが入ってきてから、少しずつ人目につかない場所へ移された。


 気づけば、自分が日常的に目にする場所から消えていた。


 ここにはある。


 廊下の、誰もが通る場所に。


「その絵は、あの子が十八のころよ」


 マルグリットが言う。


「十八……」


 エレノアの胸が痛んだ。


 自分が処刑された年齢。


 母が十八だったころの姿。


 肖像画の中の母は笑っている。


 自分は、同じ十八歳で死んだ。


(お母様)


 もし母が生きていたら。


 そんなことを考えかけて、やめた。


 答えはない。


「あとで、ゆっくり見ましょう」


 マルグリットが言った。


「はい」


 エレノアは頷く。


 応接室へ入る。


 茶と菓子が用意されていた。


 ヴァレリアもいる。


 だから、まだ何も話せない。


 けれど不思議と焦りはなかった。


 叔父がいる。


 祖父母がいる。


 セドリックもいる。


 誰かが方法を考えてくれている。


 自分だけで隙を作らなければならないわけではない。


 そう思えるだけで、少し呼吸が楽だった。


        ◇ ◇ ◇


 茶会は、驚くほど普通に始まった。


 マルグリットは誕生日が近いことを話し、昨日贈った品について尋ねた。


「気に入ったものはあった?」


「はい」


 エレノアは髪へ触れる。


「このリボンを選びました」


「まあ」


 マルグリットの顔が明るくなる。


「青にしたのね」


「はい」


「よく似合っているわ」


「ありがとうございます」


「他の色も好きに使ってちょうだい。全部あなたのものなのだから」


 全部あなたのもの。


 その言葉に、エレノアは少しだけ戸惑った。


「……全部、ですか?」


「もちろん」


「誰かに分けなくても?」


 聞いてから、しまったと思った。


 マルグリットが目を瞬く。


「分けたいの?」


「いえ……」


 エレノアは視線を落とす。


「分けなければいけないのかと思って」


「どうして?」


 答えられない。


 ヴァレリアの気配を感じる。


「エレノアは昔から優しい子ですから」


 ヴァレリアが笑った。


「妹へ何でも分けてあげるのです。ミレーヌとも仲がよくて」


 また。


 自分の言葉が別の意味へ変えられる。


 エレノアは膝の上で手を握った。


「……違います」


 小さな声だった。


 全員の視線が集まる。


 怖い。


 でも。


「私が分けたいから、いつも分けていたわけではありません」


 言った。


 ヴァレリアの笑みが僅かに固まる。


「エレノア?」


「お義母様に言われたこともありました」


「まあ」


 ヴァレリアは驚いたように笑う。


「姉妹なのだから仲良く分け合いなさい、と言ったことならあるかもしれないわ。でも、それは――」


「母上」


 セドリックではない。


 アルフォンスがマルグリットへ声をかけた。


「例の庭を見せたいと言っていただろう」


 唐突ではあった。


 けれどマルグリットはすぐ意図を理解した。


「ああ、そうだったわ」


 エレノアを見る。


「覚えているかしら。東の庭」


「東の……」


 記憶を探す。


 噴水。


 花壇。


 セドリックと走った道。


「覚えています」


「久しぶりに見に行かない?」


 胸が跳ねる。


「はい」


「では私も」


 ヴァレリアが立ち上がろうとする。


 予想していた通りだった。


 マルグリットは穏やかに笑う。


「ベルナール伯爵夫人」


「はい」


「少しだけ、孫娘を貸してくださらない?」


 ヴァレリアの動きが止まる。


「長く会っていなかったものだから、二人で昔の話をしたいの」


「もちろん、私は邪魔をするつもりなど――」


「分かっていますわ」


 マルグリットは柔らかく言葉を重ねる。


「ただ、亡くなった娘の話もしたいのです」


 アデライン。


 その名前を直接出さなくても、意味は明白だった。


 ヴァレリアが断れば、亡き母について祖母と孫が話す時間さえ認めないことになる。


 しかもここはロシュフォール公爵邸。


 マルグリットは先代公爵夫人。


 ヴァレリアは笑みを崩さなかった。


「……そういうことでしたら」


「ありがとう」


 マルグリットが立ち上がる。


 エレノアも続いた。


「行きましょう、エレノア」


「はい」


 数歩進む。


 背中へヴァレリアの視線を感じる。


 怖い。


 帰ったあと、何か言われるかもしれない。


 何を話したのか聞かれるだろう。


 それでも。


 扉を出る。


 閉じる。


 ヴァレリアの姿が見えなくなった。


 その瞬間。


 エレノアの足から力が抜けかけた。


「エレノア?」


 マルグリットが振り返る。


「ごめんなさい」


 反射的に言う。


「少し……安心して」


 マルグリットの表情が変わった。


 しかし何も聞かなかった。


「庭まで歩けそう?」


「はい」


「ゆっくり行きましょう」


 手を差し出さない。


 腕も掴まない。


 ただ、エレノアの歩調へ合わせて歩く。


 そのことが、今は何よりありがたかった。


        ◇ ◇ ◇


 東の庭は、記憶より小さく見えた。


 幼いころは果てしなく広いと思っていた道も、今なら端まで見渡せる。


 中央には小さな噴水。


 周囲には季節の花。


 風が吹くたび、葉が擦れ合う音がする。


「変わってない……」


「少しは変えたのよ」


 マルグリットが笑う。


「でも、大きくは変えていないわ」


 二人でゆっくり歩く。


 噴水の近くへ来たところで、マルグリットが足を止めた。


「ここで、よくセドリックと遊んでいたわね」


「覚えています」


「あなたはあの子の後ろをずっと追いかけて」


「セドリック兄様が速かったんです」


「あなたが小さかったのよ」


 エレノアは少し笑った。


 懐かしい。


 本当に。


「エレノア」


「はい」


「手紙をありがとう」


 笑みが消えた。


 身体が強張る。


 来た。


 この話をするために、自分はここへ来た。


「叔父様から……?」


「見せてもらったわ」


 マルグリットは少し離れた位置にある長椅子を見る。


「座る?」


「はい」


 二人で座る。


 間には少し距離がある。


 マルグリットは、その距離を詰めなかった。


「最初に一つだけ言わせて」


 エレノアは膝の上で手を握る。


「はい」


「助けてほしいと書いてくれて、ありがとう」


 予想していなかった。


「……え?」


「謝ることじゃないわ。迷惑でもない。困らせたとも思っていない」


 エレノアの喉が詰まる。


「でも……突然」


「突然でもいいの」


「ずっと連絡もしていなかったのに」


「それでもいい」


「私……」


 言葉が続かない。


 マルグリットは待った。


「私、叔父様が困ると思っていました」


「どうして?」


「分かりません」


 エレノアは俯く。


「助けてって言ったら、困るんじゃないかって。私のことで面倒なことになるし……」


「面倒になったら、助けを求めてはいけないの?」


「……」


 答えられない。


「エレノア」


 祖母の声は優しい。


「あなたが困っているなら、私たちも一緒に困るわ」


 エレノアが顔を上げる。


「家族って、そういうものでしょう?」


 視界が滲んだ。


「でも」


「うん」


「私……お父様に、ロシュフォール家にはロシュフォール家の事情があるって言われて」


 マルグリットの表情が僅かに変わる。


「いつ?」


「お母様が亡くなってから……何度か」


「そう」


「いつまでも頼るものじゃないって。私はベルナール家の娘だからって」


「……そう」


 マルグリットは怒りを飲み込むように、一度ゆっくり息を吐いた。


「それで、私もそうなんだと思っていました」


「私たちからの手紙は?」


 エレノアは瞬きをする。


「最初は届いていました」


「最初は?」


「はい。でも、少しずつ減って……」


「私たちは、ずっと書いていたわ」


 エレノアが動きを止めた。


「え?」


「毎月ではないけれど、誕生日や季節の節目には必ず。アルフォンスも、セドリックも」


「……届いていません」


 風が吹く。


 木の葉が音を立てる。


「全部ではないのかもしれません。でも、私が覚えている限り……途中からほとんど」


 マルグリットの手が膝の上で強く握られる。


 だが、声は変わらない。


「そう」


「お祖母様?」


「今は、それ以上考えなくていいわ」


 まだ何も証明されていない。


 誰が止めたのか。


 本当にすべて送られていたのか。


 途中で何が起きたのか。


 ここで決めつけるべきではない。


 マルグリットはそれを理解していた。


「今日は、あなたの話を聞かせて」


 エレノアの胸が再び速くなる。


「……何から話せばいいですか」


「話したいことから」


「分からないです」


「なら、私から一つだけ聞いてもいい?」


「はい」


「ベルナール家へ帰りたい?」


 息が止まった。


 あまりにも真っ直ぐな問いだった。


 今日ここへ来てから、何度も安心した。


 懐かしかった。


 嬉しかった。


 けれど帰る時間になれば、あの馬車へ乗る。


 ヴァレリアと一緒に。


 父のいる屋敷へ。


 また手紙を確認される。


 外出を制限される。


 第二王子との縁談が進められる。


 そして。


 まだ思い出せない何かがある。


(帰りたい?)


 答えは。


「……帰りたくない」


 小さな声だった。


 でも。


 確かに言った。


 マルグリットの目が揺れる。


 エレノア自身も驚いていた。


「私……」


 涙が頬を伝った。


「帰りたく、ないです」


 もう一度。


 今度は少し強く。


「怖いんです」


「何が?」


「分かりません」


 涙が止まらない。


「何が怖いのか、ちゃんと分からない。でも、帰るって考えると……怖くて」


 身体が震える。


「お父様が怒るのも怖い。お義母様が近づくときも……時々、怖くて」


 そこまで言ったところで。


 袖の下に隠れている右腕が疼いた。


 エレノアは無意識にそこを押さえる。


 マルグリットの視線が動いた。


 けれど、問い詰めない。


「エレノア」


「はい」


「今日は、帰らなくてもいいと言ったら?」


 エレノアが顔を上げた。


「……え?」


「あなたが本当に帰りたくないなら」


 マルグリットの声は静かだった。


「ここにいたい?」


 答えようとする。


 けれど怖い。


 そんなことを言っていいのか。


 父に逆らう。


 伯爵家の娘なのに。


 迷惑をかける。


 大きな問題になる。


 それでも。


 今朝、鏡の前で選んだ青いリボン。


 自分で決めた。


 会いたいと言った。


 ここまで来た。


(私は、どうしたい?)


 誰が怒るかではない。


 何が正しいと教えられたかでもない。


 自分は。


「……いたい」


 声が震える。


「ここに、いたいです」


 マルグリットの目から涙が落ちた。


「分かったわ」


 エレノアは息を呑む。


「でも、お父様が」


「それは大人たちが話すことよ」


「迷惑を――」


「エレノア」


 優しく止められる。


「あなたがここにいたいと言ったことを、迷惑だなんて思わない」


 マルグリットはそこで初めて、ゆっくり手を差し出した。


 触れない。


 ただ、手のひらを上へ向けて待つ。


「手を握ってもいい?」


 聞かれた。


 エレノアはその手を見る。


 逃げてもいい。


 断ってもいい。


 選べる。


 そう分かった。


 だから。


「……はい」


 自分から手を伸ばした。


 祖母の手は温かかった。


 強く握らない。


 逃げられないように掴むこともしない。


 ただ、包む。


「お祖母様」


「なあに」


「私……」


 言わなければ。


 一つでいい。


 今日、話すと決めたこと。


「痣が、あります」


 マルグリットの指が僅かに震えた。


 それでも手は強くならなかった。


「身体に」


「……そう」


「見えないところに」


「うん」


「私が、失敗したから」


 マルグリットの顔から血の気が引いた。


 エレノアはそれに気づき、不安になる。


「でも、私が悪くて。お皿を割ったり、言われたことをちゃんとできなかったり――」


「エレノア」


 祖母の声が震えた。


「はい」


「一つだけ、今ここで言ってもいい?」


 エレノアは頷く。


 マルグリットは涙を堪えながら、ゆっくり言った。


「失敗した子供を殴っていい理由なんて、この世のどこにもないわ」


 エレノアは動けなかった。


 意味は分かる。


 言葉も難しくない。


 けれど、自分の中にある常識と噛み合わない。


「……でも」


「ないの」


「私が悪くても?」


「悪いことをしたなら、教える。叱ることだってあるでしょう。でも、殴っていい理由にはならない」


「……」


「お皿を割ったなら、一緒に片づければいい。怪我をしていないか確かめればいい。どうして割ったのか聞けばいい」


 祖母の手が震えている。


「殴る必要なんてない」


 エレノアの唇が震えた。


(殴られなくても、よかったの?)


 その考えが初めて、はっきりした言葉になる。


 皿を割っても。


 失敗しても。


 誰かを怒らせても。


 殴られなくてよかった。


 涙が溢れた。


「私……」


「うん」


「悪い子じゃ、なかったの?」


 マルグリットはとうとう堪えきれず、涙を流した。


「違うわ」


「でも」


「違う」


 はっきりと。


 それでも優しく。


「あなたは、悪い子なんかじゃない」


 エレノアは俯いた。


 泣き声を抑えられなかった。


 マルグリットは抱きしめなかった。


 ただ手を握っていた。


 エレノアが自分から近づくまで。


 しばらくして。


 エレノアの身体が、ほんの少し祖母の方へ傾いた。


 マルグリットは動かない。


 もう少し。


 エレノアが肩を寄せる。


「……抱きしめても、いいですか」


 尋ねたのは、エレノアだった。


「もちろん」


 その瞬間。


 エレノアは祖母の胸へ顔を埋めた。


 マルグリットの腕が、ゆっくり背中へ回る。


 強くない。


 痛くない。


 逃げようと思えば、いつでも逃げられる。


 なのに。


 逃げたくなかった。


「お祖母様……」


「うん」


「帰りたくない……」


「うん」


「ここにいたい……」


「分かった」


 マルグリットは何度でも答えた。


「分かったわ、エレノア」


 東の庭に、少女の泣き声が小さく響く。


 長い間、自分が耐えればいいと思っていた。


 助けを求めることさえ迷惑だと思っていた。


 そんな少女が初めて、自分から家族の腕の中へ入った。


        ◇ ◇ ◇


 そのころ応接室では。


 ヴァレリアがティーカップを置いた。


「随分長いですね」


 穏やかな声だった。


 アルフォンスは表情を変えない。


「母は姪を……いや、孫を長く待っていましたから」


「そうですか」


「積もる話もあるのでしょう」


「私もそろそろ様子を――」


「伯爵夫人」


 セドリックが口を開く。


 ヴァレリアが見る。


「先ほど、母上……祖母から聞いたのですが」


「はい?」


「ミレーヌ嬢はエレノアと同い年なのですよね」


 唐突な話題だった。


「ええ」


「社交界へのお披露目も近いのでしょうか」


「来年には」


「それなら、準備も大変ですね」


 ヴァレリアは一瞬だけセドリックを見つめた。


 時間を稼いでいる。


 そう感じた。


 けれど、確証はない。


「そうですね」


 微笑む。


「ですが、エレノアも同じですから」


「もちろん」


 セドリックも笑う。


「エレノアはどんな色を好むのでしょう。昨日贈る品を選ぶとき、僕たちには分からなくて」


「エレノアはあまり我が儘を言わない子ですから」


「好みを聞いたことは?」


「ええ、もちろん」


「何色が?」


 ヴァレリアが一瞬止まる。


 ほんの短い間。


「淡い色を好みます」


「そうですか」


 セドリックは笑みを崩さない。


 髪に結ばれていたのは淡い青。


 だが、それが以前からの好みなのか、今回初めて選んだのかは分からない。


 勝手な結論は出さない。


「今度、本人にも聞いてみます」


「……ええ」


 ヴァレリアはカップへ手を伸ばした。


 そのとき。


 応接室の扉が開いた。


 全員が見る。


 入ってきたのは家令だった。


 アルフォンスのそばへ近づき、低い声で告げる。


「公爵閣下。先代公爵夫人より、お話がございます」


 アルフォンスの目が変わる。


「分かった」


 立ち上がる。


 ヴァレリアも立とうとした。


「私も参ります」


「申し訳ありません」


 家令が丁寧に頭を下げた。


「先代公爵夫人は、公爵閣下お一人をと」


「エレノアは?」


 ヴァレリアが尋ねる。


「先代公爵夫人とご一緒です」


「でしたら、私も――」


「伯爵夫人」


 アルフォンスが呼ぶ。


 声は穏やかだった。


 だが、公爵としての響きがあった。


「少しだけ、お待ちいただけますか」


「ですが、私はあの子の母親として付き添っております」


 母親。


 セドリックの表情が一瞬だけ硬くなる。


 アルフォンスは変わらない。


「承知しています」


「なら」


「俺の母が、俺と話したいと言っているだけです」


 ヴァレリアが黙る。


「エレノアを連れて帰るという話ではありません」


 その言葉。


 ほんの僅かに。


 ヴァレリアの目が動いた。


「……分かりました」


 アルフォンスは一礼し、部屋を出る。


 廊下へ出た瞬間、家令へ尋ねる。


「何があった」


「詳しくは伺っておりません。ただ」


「ただ?」


「先代公爵夫人が、医師を呼ぶようにと」


 アルフォンスの足が止まった。


「医師?」


「はい」


「エレノアが具合を?」


「それも分かりません」


 胸の奥が冷える。


「急げ」


 歩き出す。


「医師を呼べ。屋敷内にいる者でいい。エレノアのことだとは外へ漏らすな」


「承知いたしました」


 アルフォンスは東の庭へ向かった。


        ◇ ◇ ◇


 祖母の腕の中で泣いたあと。


 エレノアは長椅子に座り直していた。


 目元は赤い。


 マルグリットは隣にいる。


「ごめんなさい」


「何が?」


「泣いてしまって」


「泣いたら謝らなければならないの?」


 エレノアは口を閉じた。


「……またですね」


「少しずつでいいのよ」


「はい」


 マルグリットは微笑んだ。


 その目も赤い。


「エレノア」


「はい」


「痣を、医師に診てもらってもいい?」


 身体が固まる。


「医師……」


「嫌なら、今はしなくてもいい」


「でも」


「あなたが決めていいの」


 エレノアは袖の上から右腕を押さえる。


 見せる。


 怖い。


 知られる。


 何を言われるか。


(でも)


 今朝の侍女は怒らなかった。


 祖母も怒らなかった。


 失敗した子供を殴っていい理由はないと言ってくれた。


「……診てもらいます」


「本当に?」


「はい」


 エレノアは頷く。


「自分の身体が、どうなっているのか……知りたいです」


「分かったわ」


 マルグリットはそれ以上確認しなかった。


「女性の医師を呼べるわ。私も一緒にいる?」


「……いてほしいです」


「ええ」


 そこへ足音が近づく。


 エレノアの身体が強張った。


 マルグリットが気づく。


「大丈夫。たぶんアルフォンスよ」


 その言葉通り、庭へ現れたのはアルフォンスだった。


 叔父は二人を見つけると、足を速めかけた。


 しかし。


 エレノアが一瞬身を固くしたのを見て、途中で速度を落とした。


 数歩離れたところで止まる。


「母上」


「アルフォンス」


 マルグリットが立ち上がる。


「エレノアが話してくれたわ」


 アルフォンスは姪を見る。


 何も聞かない。


「そうですか」


「ええ」


 マルグリットは息を整える。


「この子は、ベルナール家へ帰りたくないそうよ」


 アルフォンスの目が僅かに揺れる。


 エレノアは俯きそうになった。


 怒られる。


 そんな考えが反射的に浮かぶ。


 でも。


「エレノア」


 呼ばれた。


 顔を上げる。


「それは、お前自身が決めたことか?」


 声は穏やかだった。


 エレノアは祖母を見る。


 マルグリットは何も言わない。


 代わりに答えない。


 エレノアへ任せている。


「……はい」


 叔父を見る。


「帰りたくありません」


 言った。


「ここに、いたいです」


 アルフォンスは目を閉じた。


 ほんの一瞬。


 それから開く。


「分かった」


 それだけだった。


「でも」


 エレノアは不安になる。


「お父様が許さないと思います」


「そうだろうな」


「私、ベルナール家の娘で」


「ああ」


「だから」


「エレノア」


 アルフォンスが静かに止める。


「難しいことはある」


 嘘をつかない。


「お前がここにいたいと言ったから、何もかもすぐに解決するわけじゃない。ロベルトとも話す必要がある。場合によっては、もっと多くの人間が関わる」


 エレノアの顔に不安が浮かぶ。


「でも」


 アルフォンスは続けた。


「それは、お前が一人で背負うことじゃない」


「……」


「十五歳の姪が助けてほしいと手紙を書いてきた。その姪が、帰りたくないと言っている」


 アルフォンスの拳が静かに握られる。


「なら、今度は大人が働く番だ」


 エレノアの目に、また涙が浮かんだ。


「叔父様」


「ああ」


「私……迷惑じゃ」


「その言葉を言ったら、母上に怒られるぞ」


「アルフォンス」


 マルグリットが睨む。


「私は怒りません」


「ほら、俺が怒られた」


 エレノアは泣きながら。


 少し笑った。


 アルフォンスも、ほんの少しだけ笑う。


 けれど。


「それと」


 マルグリットの声が変わった。


 アルフォンスが母を見る。


「エレノアには、身体に痣があるそうよ」


 笑みが消えた。


 完全に。


 アルフォンスの顔から。


 エレノアは反射的に肩を縮めた。


 叔父はそれを見た。


 怒りを表に出してはいけない。


 怒りの向きが自分ではなくても、今のエレノアには区別できないかもしれない。


 アルフォンスはゆっくり息を吸った。


「……そうか」


 それだけを言う。


「医師に診てもらうことになったわ」


「エレノアが望んだのですか」


「ええ」


 アルフォンスは姪を見る。


「なら、そうしよう」


「怒らないんですか」


 エレノアが尋ねた。


「誰に?」


「私に」


 アルフォンスは答えられなかった。


 胸の中で何かが壊れそうになる。


 けれど声を荒らげない。


「どうして俺がお前に怒る」


「痣があるから」


「お前が自分でつけたのか?」


「違います」


「なら、なおさらだ」


 アルフォンスはそこで言葉を止めた。


 誰が。


 なぜ。


 何度。


 聞きたい。


 今すぐ全部。


 けれど、それは自分のための質問だ。


 今のエレノアに必要なものではない。


「今は、医師に診てもらおう」


「はい」


「話したくなったら、そのあとでいい」


「……はい」


 エレノアの肩から、少し力が抜けた。


 アルフォンスはそれを確認してから、家令へ医師の手配を急がせるため踵を返した。


 数歩進んで。


 止まる。


「エレノア」


 振り返らずに呼ぶ。


「はい」


「よく話してくれた」


 それだけ言って、歩き出した。


 エレノアはその背中を見送った。


 怒鳴られなかった。


 責められなかった。


 どうして今まで黙っていた、とも言われなかった。


 ただ。


 よく話してくれた。


 そう言われた。


        ◇ ◇ ◇


 東の庭から屋敷へ戻る途中。


 エレノアは玄関近くの広いホールを通った。


 ここも覚えている。


 幼いころ、母と帰るとき。


 何度も振り返った場所。


 叔父が手を振っていた。


 祖母がまた来なさいと言った。


 セドリックが次はもっと遊ぼうと叫んでいた。


 そのとき。


 ふいに言葉が浮かんだ。


 昔。


 この屋敷へ来たとき、幼い自分は何と言っていたのだろう。


 母に連れられて。


 祖父母の顔を見て。


 確か。


「……ただいま」


 声が漏れた。


 マルグリットが足を止める。


「エレノア?」


「あ……」


 エレノアは自分でも驚いていた。


「昔、ここに来たとき……私、そう言っていた気がして」


 マルグリットの目が潤む。


「言っていたわ」


「本当ですか?」


「ええ」


 祖母が笑う。


「アデラインが何度直しても、あなたは『ただいま』って」


「お母様は?」


「『ここはあなたのお家じゃないでしょう』って困っていたわ」


「そうだったんですね」


「でも、お祖父様は毎回『おかえり』って答えていた」


 エレノアは目を閉じた。


 記憶の奥。


 大きな玄関。


 小さな自分。


 低い祖父の声。


 おかえり。


 胸が温かくなる。


「お祖母様」


「なあに?」


「もう一回、言ってもいいですか」


 マルグリットは泣きながら笑った。


「もちろんよ」


 エレノアは屋敷の中を見回した。


 まだ正式にここへ住めると決まったわけではない。


 父との話し合いもこれから。


 何が起きるか分からない。


 それでも。


 今だけは。


 自分が帰りたいと思った場所へ。


 自分の意思で言う。


「ただいま」


 マルグリットは迷わなかった。


「おかえりなさい、エレノア」


 その言葉は。


 処刑台から三年前へ戻って以来、ずっと居場所を探していた少女の胸へ、ゆっくりと染み込んでいった。

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