第9話 ただいまを言える場所
ロシュフォール公爵家を訪れる朝、エレノアはいつもより早く目を覚ました。
厚いカーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、部屋の中には夜の冷たさがわずかに残っている。枕元へ置かれた時計を確かめれば、起床するには少し早い時刻だった。
もう一度眠ろうとは思えなかった。
二日間、待っていた。
長かったようにも感じるし、あっという間だったようにも感じる。
(今日、会える)
叔父に。
祖父と祖母に。
セドリックに。
そう考えるだけで胸が温かくなるのに、そのすぐ隣には不安があった。
(ちゃんと話せるかな)
この二日間、何度も考えた。
何を話すのか。
どこまで話すのか。
父が自分の拒絶を無視して婚姻を進めたことは、すでに手紙で伝えている。
外出と書簡を制限されたことも。
けれど、それより前のことはほとんど何も伝えていない。
食事のこと。
母の形見のこと。
使用人のように仕事をさせられていたこと。
身体に残っている痣。
そして、自分自身でさえ、まだはっきりと思い出せないこと。
すべてを話す必要はない。
クロノアにもそう言われ、自分でもそう決めた。
それでも実際に顔を合わせたら、「大丈夫」と言ってしまう気がした。
長い間、そうしてきたから。
痛くても。
怖くても。
お腹が空いていても。
何かを聞かれれば、大丈夫だと答えた。
(今日は、それだけで終わらせない)
エレノアは布団の中で指を握った。
全部でなくていい。
一つでいい。
自分に起きたことを、自分の言葉で話す。
そのために行くのだから。
扉が静かに叩かれたのは、それからしばらく経ってからだった。
「お嬢様。お目覚めでしょうか」
「起きています」
返事をすると、若い侍女が入ってくる。
「本日はロシュフォール公爵家へお出かけですので、少し早めにご準備をとのことでございます」
「分かりました」
侍女が衣装棚へ向かう。
その背中を見ながら、エレノアは一瞬迷った。
着替えを手伝われれば、腕や背中を見られるかもしれない。
この前は一人で着替えたいと言った。
今日もそうすることはできる。
けれど公爵家を訪問するための衣装は、一人で整えるには難しい。
侍女が振り返った。
「こちらのお召し物でよろしいでしょうか」
「はい」
淡いクリーム色のドレス。
華美ではないが、親族の家を訪れるには十分なものだった。
エレノアは寝台から降りる。
胸が少し速くなる。
「お嬢様?」
「……お願いがあるの」
「はい」
「着替えを手伝ってほしいのだけれど」
「もちろんでございます」
「その……」
言葉が止まる。
侍女は急かさなかった。
「腕に、少し痣があるの」
初めてだった。
自分から誰かへ言った。
それだけなのに喉が渇く。
「驚くかもしれないけれど、今は何も聞かないでもらえる?」
侍女が僅かに目を見開いた。
しかし、すぐに頭を下げる。
「承知いたしました」
「……それだけ?」
思わず聞いてしまった。
「はい?」
「怒らないの?」
侍女が困惑した。
「私が、でしょうか」
「うん」
「なぜ私がお嬢様を怒るのでしょう」
あまりにも自然な反応だった。
エレノアは答えられなかった。
侍女もそれ以上尋ねず、着替えの準備を始める。
「では、お袖を通す際に痛むようでしたら仰ってくださいませ。なるべく触れないようにいたします」
「……ありがとう」
寝間着を脱ぐ。
肌が空気へ晒される。
侍女の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
右の上腕。
脇腹に近いところ。
古いものと新しいものが混じった痣。
背中にも、衣服で隠れる位置に薄い痕がある。
見られた。
身体が強張る。
侍女が何か言う。
そう思った。
けれど。
「右のお袖から通しましょうか。それとも左からの方が楽でしょうか」
尋ねられたのは、それだけだった。
「……左から」
「かしこまりました」
ドレスが肌を覆っていく。
侍女は本当に何も聞かなかった。
痣へ触れないよう、普段よりゆっくり袖を通してくれる。
(見られても、怒られなかった)
当たり前のことなのかもしれない。
でも、エレノアには当たり前ではなかった。
着替えが終わり、鏡台の前へ座る。
侍女が髪を整え始めたところで、エレノアは机の上へ置いていた淡い青のリボンを見た。
「あの」
「はい」
「今日は、あれを使ってほしいの」
侍女が視線を向ける。
「青いリボンでございますか?」
「ええ」
「昨日、公爵家から届いたお品ですね」
「私が選んだの」
口にしたとき、少しだけ誇らしい気持ちになった。
「とても綺麗なお色です」
「……そうでしょう?」
鏡の中の自分が笑った。
侍女も微笑み、髪へリボンを結ぶ。
淡い青が、茶色の髪に映えた。
誰かが決めた色ではない。
自分で選んだ色。
エレノアは鏡の中のリボンを何度も見た。
◇ ◇ ◇
昼食を終えると、玄関前にはベルナール家の馬車が用意されていた。
空は薄い雲に覆われているものの雨の気配はなく、秋へ向かう風が庭木の葉を揺らしている。
ヴァレリアは濃い葡萄色の外出着をまとい、すでに玄関ホールで待っていた。
「準備できたのね」
「はい」
ヴァレリアの視線がエレノアの髪へ向かう。
「そのリボン」
エレノアの肩が僅かに強張る。
「公爵家からいただいたものです」
「そう」
ヴァレリアは近づき、リボンを確かめるように見る。
エレノアは逃げなかった。
「綺麗な色ね」
「ありがとうございます」
「自分で選んだの?」
「はい」
一瞬だけ、ヴァレリアが黙った。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
ロベルトが階段を降りてくる。
「遅くならないようにしろ」
「分かっています」
ヴァレリアが答える。
「エレノア」
「はい」
「ロシュフォール家で余計なことはするな」
胸の奥がざわついた。
「余計なこと、とは何でしょうか」
ロベルトが眉をひそめる。
「言葉通りだ」
「……分かりました」
本当は分かっていない。
何を余計と呼ぶのか。
父にとって都合の悪いことを話すなという意味なのか。
勝手に一人で動くなという意味なのか。
それとも両方なのか。
けれど、ここで問い続けても答えは得られないだろう。
馬車へ乗り込む。
向かいにヴァレリアが座った。
扉が閉じる。
車輪が動き出し、ベルナール伯爵邸がゆっくり遠ざかっていく。
エレノアは窓の外を見た。
門を出る。
ただそれだけのことなのに、胸がいっぱいになった。
(外に出た)
父の許可がある。
ヴァレリアも一緒。
自由になったわけではない。
それでも、数日前には屋敷から出ることすら禁じられた。
その門を今、自分は越えている。
「嬉しそうね」
向かいから声がした。
エレノアは窓から視線を戻した。
「はい」
誤魔化さなかった。
「お祖父様たちに会えるので」
「そう」
ヴァレリアは微笑む。
「そんなに会いたかったの?」
「長くお会いしていませんでしたから」
「以前は、あまり会いたがっているようには見えなかったけれど」
エレノアの指先が膝の上で動く。
「そうだったかもしれません」
「何かきっかけがあったの?」
柔らかい声。
世間話のような問い。
けれどエレノアは警戒した。
「お母様のことを思い出したからです」
嘘ではない。
「アデライン様を?」
「はい」
「そう……」
ヴァレリアは窓の外へ視線を向けた。
「あなたのお母様は、ロシュフォール家でとても大切にされていたそうね」
「そう聞いています」
「あなたも小さいころは、よく遊びに行っていたのでしょう?」
「はい」
記憶が少しずつ蘇る。
大きな庭。
セドリックと走った道。
祖母の焼いた菓子ではなく、祖母が厨房へ頼んで作らせてくれた甘い菓子。
叔父に高く抱き上げられ、母が怒っていたこと。
父方の屋敷とは違う空気。
あのころは、どちらも自分の家族だと思っていた。
「楽しみ?」
「はい」
今度は迷わなかった。
ヴァレリアはその答えを聞きながら、静かにエレノアを観察していた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸では、朝から妙な緊張が漂っていた。
客を迎えること自体は珍しくない。
帝国有数の公爵家である以上、日常的に貴族や役人、商人が訪れる。
けれど今日は違った。
来るのは、長くこの家から遠ざかっていた娘の忘れ形見だった。
「母上」
応接室へ入ったアルフォンスは、すでに三度目になる言葉を口にした。
「まだ時間があります」
「分かっているわ」
マルグリットは答えた。
答えながら、窓の外を見る。
「でしたら、少し座っていてください」
「座っているでしょう」
「今、立っています」
マルグリットは自分の姿を見下ろした。
「……いつ立ったのかしら」
「俺が聞きたいです」
少し離れたところで、セドリックが笑いを堪えている。
「セドリック」
「何も言っていません」
「顔が笑っているぞ」
「祖母上が朝から落ち着かないので」
「あなたもでしょう?」
マルグリットに言われ、セドリックは口を閉じた。
実際、彼も朝から何度も時計を見ていた。
「父上は?」
セドリックが話題を変える。
「庭だ」
「またですか?」
「朝から四回目だ」
「五回目よ」
マルグリットが訂正する。
「さっきも行ったわ」
アルフォンスが額へ手を当てた。
「父上まで……」
「あなたも人のことを言えないでしょう」
「俺は仕事をしています」
「同じ書類を十分くらい見ていたと家令が言っていたわ」
「……あいつは余計なことを」
家族全員が落ち着いていない。
それが分かると、セドリックの表情から少し笑みが消えた。
「エレノア、覚えているでしょうか」
アルフォンスが息子を見る。
「何をだ」
「ここを」
「さあな」
「僕たちのことも」
「覚えているだろう」
「そうですかね」
セドリックは窓へ目を向ける。
「最後にまともに会ったころ、あの子はまだ小さかった」
「それでも、お前とはよく遊んでいた」
「だからこそです」
声が少し低くなる。
「僕は、ずっと会いに行かなかった」
「それは俺も同じだ」
「でも」
「セドリック」
アルフォンスが止める。
「後悔なら、俺もしている」
部屋が静かになる。
「ロベルトから距離を置いてほしいと言われた。エレノア自身も新しい家族との生活を望んでいると聞かされた。こちらから贈った手紙への返事も減った」
「はい」
「それを信じた」
アルフォンスは唇を噛む。
「正しかったかどうかは、これから確かめる」
過去の自分を責めても、今のエレノアは助からない。
分かっている。
それでも簡単には割り切れない。
「だから今日は」
アルフォンスが続ける。
「俺たちが何を言いたいかより、エレノアが何を言いたいかを聞く」
「はい」
セドリックが頷く。
「怖がらせないようにします」
「お前は昔から距離が近すぎるから気をつけろ」
「それ、父上に言われたくありません」
「俺は大人だ」
「姪を見ると抱き上げていた人が何を言っているんですか」
「あれは小さいころだ」
「僕も小さかったですよ」
「二人とも」
マルグリットの声。
「喧嘩するなら別の部屋でしてちょうだい」
「していません」
親子の声が重なった。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
三人が一斉に扉を見る。
家令が入室する。
「ベルナール伯爵家の馬車が正門へ到着いたしました」
空気が変わった。
マルグリットが立ち上がる。
今度は誰も座れとは言わなかった。
◇ ◇ ◇
馬車が大きな門をくぐったとき、エレノアは息を呑んだ。
灰白色の石造りの屋敷。
派手な装飾は少ない。
けれど長い年月を重ねた建物には、ベルナール伯爵邸とは違う重みがあった。
庭木は丁寧に整えられ、季節の花が道沿いに咲いている。
(覚えてる)
胸が締めつけられる。
玄関前の広い階段。
横へ続く回廊。
遠くに見える木々。
幼いころ、何度もここへ来た。
記憶は薄れていたはずなのに、実際に目にすると次々と戻ってくる。
「エレノア?」
ヴァレリアに呼ばれ、エレノアは我に返った。
「ごめんなさい」
言ってから気づく。
「……いえ」
謝る必要はなかった。
「懐かしくて」
言い直した。
「そう」
馬車が止まる。
外から扉が開かれた。
先にヴァレリアが降りる。
続いてエレノアが足を踏み出した。
靴底が石畳へ触れる。
顔を上げる。
玄関前に、四人の人影があった。
アルフォンス。
セドリック。
オーギュスト。
マルグリット。
エレノアの足が止まった。
誰も、すぐには動かなかった。
何年も会っていなかった。
けれど分かる。
祖父は少し髪が白くなった。
祖母も記憶より年を重ねている。
叔父は以前よりずっと公爵らしい威厳を身につけていた。
セドリックは、もう少年ではない。
それでも。
(みんな、いる)
生きている。
自分を見ている。
処刑台から見えた人たちとは違う。
目を逸らさない。
「……エレノア」
最初に名前を呼んだのは、マルグリットだった。
その声だけで。
胸の奥に閉じ込めていた何かが、ひどく揺れた。
「お祖母……様」
声が掠れる。
マルグリットが一歩進む。
しかし、そこで止まった。
両手を伸ばしかけて、下ろす。
エレノアはそれを見た。
抱きしめたいのに、勝手に触れないようにしてくれた。
なぜか分かった。
「大きくなったわね」
マルグリットは泣きそうに笑った。
「本当に……大きくなった」
エレノアの目の奥が熱くなる。
「ご無沙汰しております」
礼をしようとする。
「そんな挨拶はあとでいい」
低い声。
祖父だった。
「顔を見せろ」
エレノアはゆっくり顔を上げる。
オーギュストは厳しい表情をしていた。
昔からそうだった。
笑うことが少なく、幼いエレノアは少し怖いと思ったこともある。
けれど。
「……痩せたか」
その声は震えていた。
「お祖父様」
「元気だったか」
聞かれた。
いつもの言葉が出そうになる。
大丈夫です。
元気です。
何も問題ありません。
けれど。
今日は、それだけで終わらせないと決めた。
「……分かりません」
エレノアは答えた。
四人の表情が変わる。
「自分が元気なのか、今はまだ……よく分からないんです」
声が震える。
それでも言えた。
大丈夫ではない。
そのことを。
マルグリットの目から涙が零れた。
けれど祖母は近づかなかった。
「そう」
ただ、頷いた。
「なら、一緒に確かめましょう」
その言葉に、エレノアは唇を噛んだ。
泣きたくなかった。
ヴァレリアが隣にいる。
ここで泣けば、何を思われるか分からない。
必死に堪える。
「エレノア」
今度はアルフォンスだった。
叔父を見る。
「……叔父様」
「ああ」
それだけ。
アルフォンスは何も聞かなかった。
手紙のことも。
助けてほしいと書いた理由も。
ただ。
「よく来たな」
言われた。
エレノアの呼吸が止まる。
幼いころにも、聞いたことがある気がした。
母と一緒にこの屋敷へ来たとき。
叔父が玄関まで迎えに来て。
同じように。
よく来たな、と。
「……はい」
それしか返せなかった。
最後にセドリックと目が合う。
従兄は笑っていた。
でも、目が少し赤い。
「久しぶり、エレノア」
「セドリック兄様」
「覚えてた?」
「もちろんです」
「よかった」
セドリックが笑みを深くする。
「忘れられてたら、しばらく立ち直れなかった」
昔と同じような軽い口調。
それが嬉しかった。
「忘れません」
「本当に?」
「はい」
「なら安心した」
そこで初めて、エレノアも少し笑えた。
ほんの小さな笑み。
けれど、ロシュフォール家の四人はそれを見逃さなかった。
「ロシュフォール公爵閣下」
ヴァレリアの声で、空気が現実へ戻る。
アルフォンスがそちらを見る。
「ベルナール伯爵夫人。遠いところをありがとうございます」
「こちらこそ、本日はお招きいただきありがとうございます」
ヴァレリアは完璧な礼をする。
「エレノアも、今日をとても楽しみにしておりました」
エレノアの胸に小さな違和感が生まれる。
自分が言う前に、ヴァレリアが自分の気持ちを代弁する。
以前なら何も感じなかったかもしれない。
今は気づく。
「はい」
エレノアは自分で言った。
「私自身、とても楽しみにしていました」
ヴァレリアが一瞬だけエレノアを見る。
アルフォンスの目にも、僅かな変化があった。
「そうか」
それ以上は何も言わない。
「立ち話も何です。中へどうぞ」
◇ ◇ ◇
応接室へ通されるまでの廊下さえ、エレノアには懐かしかった。
壁に並ぶ絵。
窓から見える中庭。
磨かれた床。
昔とまったく同じではない。
調度品が変わっている場所もある。
それでも、自分の中に残っていた記憶と重なる。
「ここ……」
思わず足を緩める。
「覚えている?」
マルグリットが隣から尋ねる。
「はい」
エレノアは壁に掛けられた一枚の絵を見る。
若い女性の肖像画。
柔らかな栗色の髪。
優しい目。
母。
アデライン。
足が完全に止まった。
「お母様……」
声が震えた。
ベルナール家にも母の肖像画はあった。
少なくとも、昔は。
けれどヴァレリアが入ってきてから、少しずつ人目につかない場所へ移された。
気づけば、自分が日常的に目にする場所から消えていた。
ここにはある。
廊下の、誰もが通る場所に。
「その絵は、あの子が十八のころよ」
マルグリットが言う。
「十八……」
エレノアの胸が痛んだ。
自分が処刑された年齢。
母が十八だったころの姿。
肖像画の中の母は笑っている。
自分は、同じ十八歳で死んだ。
(お母様)
もし母が生きていたら。
そんなことを考えかけて、やめた。
答えはない。
「あとで、ゆっくり見ましょう」
マルグリットが言った。
「はい」
エレノアは頷く。
応接室へ入る。
茶と菓子が用意されていた。
ヴァレリアもいる。
だから、まだ何も話せない。
けれど不思議と焦りはなかった。
叔父がいる。
祖父母がいる。
セドリックもいる。
誰かが方法を考えてくれている。
自分だけで隙を作らなければならないわけではない。
そう思えるだけで、少し呼吸が楽だった。
◇ ◇ ◇
茶会は、驚くほど普通に始まった。
マルグリットは誕生日が近いことを話し、昨日贈った品について尋ねた。
「気に入ったものはあった?」
「はい」
エレノアは髪へ触れる。
「このリボンを選びました」
「まあ」
マルグリットの顔が明るくなる。
「青にしたのね」
「はい」
「よく似合っているわ」
「ありがとうございます」
「他の色も好きに使ってちょうだい。全部あなたのものなのだから」
全部あなたのもの。
その言葉に、エレノアは少しだけ戸惑った。
「……全部、ですか?」
「もちろん」
「誰かに分けなくても?」
聞いてから、しまったと思った。
マルグリットが目を瞬く。
「分けたいの?」
「いえ……」
エレノアは視線を落とす。
「分けなければいけないのかと思って」
「どうして?」
答えられない。
ヴァレリアの気配を感じる。
「エレノアは昔から優しい子ですから」
ヴァレリアが笑った。
「妹へ何でも分けてあげるのです。ミレーヌとも仲がよくて」
また。
自分の言葉が別の意味へ変えられる。
エレノアは膝の上で手を握った。
「……違います」
小さな声だった。
全員の視線が集まる。
怖い。
でも。
「私が分けたいから、いつも分けていたわけではありません」
言った。
ヴァレリアの笑みが僅かに固まる。
「エレノア?」
「お義母様に言われたこともありました」
「まあ」
ヴァレリアは驚いたように笑う。
「姉妹なのだから仲良く分け合いなさい、と言ったことならあるかもしれないわ。でも、それは――」
「母上」
セドリックではない。
アルフォンスがマルグリットへ声をかけた。
「例の庭を見せたいと言っていただろう」
唐突ではあった。
けれどマルグリットはすぐ意図を理解した。
「ああ、そうだったわ」
エレノアを見る。
「覚えているかしら。東の庭」
「東の……」
記憶を探す。
噴水。
花壇。
セドリックと走った道。
「覚えています」
「久しぶりに見に行かない?」
胸が跳ねる。
「はい」
「では私も」
ヴァレリアが立ち上がろうとする。
予想していた通りだった。
マルグリットは穏やかに笑う。
「ベルナール伯爵夫人」
「はい」
「少しだけ、孫娘を貸してくださらない?」
ヴァレリアの動きが止まる。
「長く会っていなかったものだから、二人で昔の話をしたいの」
「もちろん、私は邪魔をするつもりなど――」
「分かっていますわ」
マルグリットは柔らかく言葉を重ねる。
「ただ、亡くなった娘の話もしたいのです」
アデライン。
その名前を直接出さなくても、意味は明白だった。
ヴァレリアが断れば、亡き母について祖母と孫が話す時間さえ認めないことになる。
しかもここはロシュフォール公爵邸。
マルグリットは先代公爵夫人。
ヴァレリアは笑みを崩さなかった。
「……そういうことでしたら」
「ありがとう」
マルグリットが立ち上がる。
エレノアも続いた。
「行きましょう、エレノア」
「はい」
数歩進む。
背中へヴァレリアの視線を感じる。
怖い。
帰ったあと、何か言われるかもしれない。
何を話したのか聞かれるだろう。
それでも。
扉を出る。
閉じる。
ヴァレリアの姿が見えなくなった。
その瞬間。
エレノアの足から力が抜けかけた。
「エレノア?」
マルグリットが振り返る。
「ごめんなさい」
反射的に言う。
「少し……安心して」
マルグリットの表情が変わった。
しかし何も聞かなかった。
「庭まで歩けそう?」
「はい」
「ゆっくり行きましょう」
手を差し出さない。
腕も掴まない。
ただ、エレノアの歩調へ合わせて歩く。
そのことが、今は何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
東の庭は、記憶より小さく見えた。
幼いころは果てしなく広いと思っていた道も、今なら端まで見渡せる。
中央には小さな噴水。
周囲には季節の花。
風が吹くたび、葉が擦れ合う音がする。
「変わってない……」
「少しは変えたのよ」
マルグリットが笑う。
「でも、大きくは変えていないわ」
二人でゆっくり歩く。
噴水の近くへ来たところで、マルグリットが足を止めた。
「ここで、よくセドリックと遊んでいたわね」
「覚えています」
「あなたはあの子の後ろをずっと追いかけて」
「セドリック兄様が速かったんです」
「あなたが小さかったのよ」
エレノアは少し笑った。
懐かしい。
本当に。
「エレノア」
「はい」
「手紙をありがとう」
笑みが消えた。
身体が強張る。
来た。
この話をするために、自分はここへ来た。
「叔父様から……?」
「見せてもらったわ」
マルグリットは少し離れた位置にある長椅子を見る。
「座る?」
「はい」
二人で座る。
間には少し距離がある。
マルグリットは、その距離を詰めなかった。
「最初に一つだけ言わせて」
エレノアは膝の上で手を握る。
「はい」
「助けてほしいと書いてくれて、ありがとう」
予想していなかった。
「……え?」
「謝ることじゃないわ。迷惑でもない。困らせたとも思っていない」
エレノアの喉が詰まる。
「でも……突然」
「突然でもいいの」
「ずっと連絡もしていなかったのに」
「それでもいい」
「私……」
言葉が続かない。
マルグリットは待った。
「私、叔父様が困ると思っていました」
「どうして?」
「分かりません」
エレノアは俯く。
「助けてって言ったら、困るんじゃないかって。私のことで面倒なことになるし……」
「面倒になったら、助けを求めてはいけないの?」
「……」
答えられない。
「エレノア」
祖母の声は優しい。
「あなたが困っているなら、私たちも一緒に困るわ」
エレノアが顔を上げる。
「家族って、そういうものでしょう?」
視界が滲んだ。
「でも」
「うん」
「私……お父様に、ロシュフォール家にはロシュフォール家の事情があるって言われて」
マルグリットの表情が僅かに変わる。
「いつ?」
「お母様が亡くなってから……何度か」
「そう」
「いつまでも頼るものじゃないって。私はベルナール家の娘だからって」
「……そう」
マルグリットは怒りを飲み込むように、一度ゆっくり息を吐いた。
「それで、私もそうなんだと思っていました」
「私たちからの手紙は?」
エレノアは瞬きをする。
「最初は届いていました」
「最初は?」
「はい。でも、少しずつ減って……」
「私たちは、ずっと書いていたわ」
エレノアが動きを止めた。
「え?」
「毎月ではないけれど、誕生日や季節の節目には必ず。アルフォンスも、セドリックも」
「……届いていません」
風が吹く。
木の葉が音を立てる。
「全部ではないのかもしれません。でも、私が覚えている限り……途中からほとんど」
マルグリットの手が膝の上で強く握られる。
だが、声は変わらない。
「そう」
「お祖母様?」
「今は、それ以上考えなくていいわ」
まだ何も証明されていない。
誰が止めたのか。
本当にすべて送られていたのか。
途中で何が起きたのか。
ここで決めつけるべきではない。
マルグリットはそれを理解していた。
「今日は、あなたの話を聞かせて」
エレノアの胸が再び速くなる。
「……何から話せばいいですか」
「話したいことから」
「分からないです」
「なら、私から一つだけ聞いてもいい?」
「はい」
「ベルナール家へ帰りたい?」
息が止まった。
あまりにも真っ直ぐな問いだった。
今日ここへ来てから、何度も安心した。
懐かしかった。
嬉しかった。
けれど帰る時間になれば、あの馬車へ乗る。
ヴァレリアと一緒に。
父のいる屋敷へ。
また手紙を確認される。
外出を制限される。
第二王子との縁談が進められる。
そして。
まだ思い出せない何かがある。
(帰りたい?)
答えは。
「……帰りたくない」
小さな声だった。
でも。
確かに言った。
マルグリットの目が揺れる。
エレノア自身も驚いていた。
「私……」
涙が頬を伝った。
「帰りたく、ないです」
もう一度。
今度は少し強く。
「怖いんです」
「何が?」
「分かりません」
涙が止まらない。
「何が怖いのか、ちゃんと分からない。でも、帰るって考えると……怖くて」
身体が震える。
「お父様が怒るのも怖い。お義母様が近づくときも……時々、怖くて」
そこまで言ったところで。
袖の下に隠れている右腕が疼いた。
エレノアは無意識にそこを押さえる。
マルグリットの視線が動いた。
けれど、問い詰めない。
「エレノア」
「はい」
「今日は、帰らなくてもいいと言ったら?」
エレノアが顔を上げた。
「……え?」
「あなたが本当に帰りたくないなら」
マルグリットの声は静かだった。
「ここにいたい?」
答えようとする。
けれど怖い。
そんなことを言っていいのか。
父に逆らう。
伯爵家の娘なのに。
迷惑をかける。
大きな問題になる。
それでも。
今朝、鏡の前で選んだ青いリボン。
自分で決めた。
会いたいと言った。
ここまで来た。
(私は、どうしたい?)
誰が怒るかではない。
何が正しいと教えられたかでもない。
自分は。
「……いたい」
声が震える。
「ここに、いたいです」
マルグリットの目から涙が落ちた。
「分かったわ」
エレノアは息を呑む。
「でも、お父様が」
「それは大人たちが話すことよ」
「迷惑を――」
「エレノア」
優しく止められる。
「あなたがここにいたいと言ったことを、迷惑だなんて思わない」
マルグリットはそこで初めて、ゆっくり手を差し出した。
触れない。
ただ、手のひらを上へ向けて待つ。
「手を握ってもいい?」
聞かれた。
エレノアはその手を見る。
逃げてもいい。
断ってもいい。
選べる。
そう分かった。
だから。
「……はい」
自分から手を伸ばした。
祖母の手は温かかった。
強く握らない。
逃げられないように掴むこともしない。
ただ、包む。
「お祖母様」
「なあに」
「私……」
言わなければ。
一つでいい。
今日、話すと決めたこと。
「痣が、あります」
マルグリットの指が僅かに震えた。
それでも手は強くならなかった。
「身体に」
「……そう」
「見えないところに」
「うん」
「私が、失敗したから」
マルグリットの顔から血の気が引いた。
エレノアはそれに気づき、不安になる。
「でも、私が悪くて。お皿を割ったり、言われたことをちゃんとできなかったり――」
「エレノア」
祖母の声が震えた。
「はい」
「一つだけ、今ここで言ってもいい?」
エレノアは頷く。
マルグリットは涙を堪えながら、ゆっくり言った。
「失敗した子供を殴っていい理由なんて、この世のどこにもないわ」
エレノアは動けなかった。
意味は分かる。
言葉も難しくない。
けれど、自分の中にある常識と噛み合わない。
「……でも」
「ないの」
「私が悪くても?」
「悪いことをしたなら、教える。叱ることだってあるでしょう。でも、殴っていい理由にはならない」
「……」
「お皿を割ったなら、一緒に片づければいい。怪我をしていないか確かめればいい。どうして割ったのか聞けばいい」
祖母の手が震えている。
「殴る必要なんてない」
エレノアの唇が震えた。
(殴られなくても、よかったの?)
その考えが初めて、はっきりした言葉になる。
皿を割っても。
失敗しても。
誰かを怒らせても。
殴られなくてよかった。
涙が溢れた。
「私……」
「うん」
「悪い子じゃ、なかったの?」
マルグリットはとうとう堪えきれず、涙を流した。
「違うわ」
「でも」
「違う」
はっきりと。
それでも優しく。
「あなたは、悪い子なんかじゃない」
エレノアは俯いた。
泣き声を抑えられなかった。
マルグリットは抱きしめなかった。
ただ手を握っていた。
エレノアが自分から近づくまで。
しばらくして。
エレノアの身体が、ほんの少し祖母の方へ傾いた。
マルグリットは動かない。
もう少し。
エレノアが肩を寄せる。
「……抱きしめても、いいですか」
尋ねたのは、エレノアだった。
「もちろん」
その瞬間。
エレノアは祖母の胸へ顔を埋めた。
マルグリットの腕が、ゆっくり背中へ回る。
強くない。
痛くない。
逃げようと思えば、いつでも逃げられる。
なのに。
逃げたくなかった。
「お祖母様……」
「うん」
「帰りたくない……」
「うん」
「ここにいたい……」
「分かった」
マルグリットは何度でも答えた。
「分かったわ、エレノア」
東の庭に、少女の泣き声が小さく響く。
長い間、自分が耐えればいいと思っていた。
助けを求めることさえ迷惑だと思っていた。
そんな少女が初めて、自分から家族の腕の中へ入った。
◇ ◇ ◇
そのころ応接室では。
ヴァレリアがティーカップを置いた。
「随分長いですね」
穏やかな声だった。
アルフォンスは表情を変えない。
「母は姪を……いや、孫を長く待っていましたから」
「そうですか」
「積もる話もあるのでしょう」
「私もそろそろ様子を――」
「伯爵夫人」
セドリックが口を開く。
ヴァレリアが見る。
「先ほど、母上……祖母から聞いたのですが」
「はい?」
「ミレーヌ嬢はエレノアと同い年なのですよね」
唐突な話題だった。
「ええ」
「社交界へのお披露目も近いのでしょうか」
「来年には」
「それなら、準備も大変ですね」
ヴァレリアは一瞬だけセドリックを見つめた。
時間を稼いでいる。
そう感じた。
けれど、確証はない。
「そうですね」
微笑む。
「ですが、エレノアも同じですから」
「もちろん」
セドリックも笑う。
「エレノアはどんな色を好むのでしょう。昨日贈る品を選ぶとき、僕たちには分からなくて」
「エレノアはあまり我が儘を言わない子ですから」
「好みを聞いたことは?」
「ええ、もちろん」
「何色が?」
ヴァレリアが一瞬止まる。
ほんの短い間。
「淡い色を好みます」
「そうですか」
セドリックは笑みを崩さない。
髪に結ばれていたのは淡い青。
だが、それが以前からの好みなのか、今回初めて選んだのかは分からない。
勝手な結論は出さない。
「今度、本人にも聞いてみます」
「……ええ」
ヴァレリアはカップへ手を伸ばした。
そのとき。
応接室の扉が開いた。
全員が見る。
入ってきたのは家令だった。
アルフォンスのそばへ近づき、低い声で告げる。
「公爵閣下。先代公爵夫人より、お話がございます」
アルフォンスの目が変わる。
「分かった」
立ち上がる。
ヴァレリアも立とうとした。
「私も参ります」
「申し訳ありません」
家令が丁寧に頭を下げた。
「先代公爵夫人は、公爵閣下お一人をと」
「エレノアは?」
ヴァレリアが尋ねる。
「先代公爵夫人とご一緒です」
「でしたら、私も――」
「伯爵夫人」
アルフォンスが呼ぶ。
声は穏やかだった。
だが、公爵としての響きがあった。
「少しだけ、お待ちいただけますか」
「ですが、私はあの子の母親として付き添っております」
母親。
セドリックの表情が一瞬だけ硬くなる。
アルフォンスは変わらない。
「承知しています」
「なら」
「俺の母が、俺と話したいと言っているだけです」
ヴァレリアが黙る。
「エレノアを連れて帰るという話ではありません」
その言葉。
ほんの僅かに。
ヴァレリアの目が動いた。
「……分かりました」
アルフォンスは一礼し、部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、家令へ尋ねる。
「何があった」
「詳しくは伺っておりません。ただ」
「ただ?」
「先代公爵夫人が、医師を呼ぶようにと」
アルフォンスの足が止まった。
「医師?」
「はい」
「エレノアが具合を?」
「それも分かりません」
胸の奥が冷える。
「急げ」
歩き出す。
「医師を呼べ。屋敷内にいる者でいい。エレノアのことだとは外へ漏らすな」
「承知いたしました」
アルフォンスは東の庭へ向かった。
◇ ◇ ◇
祖母の腕の中で泣いたあと。
エレノアは長椅子に座り直していた。
目元は赤い。
マルグリットは隣にいる。
「ごめんなさい」
「何が?」
「泣いてしまって」
「泣いたら謝らなければならないの?」
エレノアは口を閉じた。
「……またですね」
「少しずつでいいのよ」
「はい」
マルグリットは微笑んだ。
その目も赤い。
「エレノア」
「はい」
「痣を、医師に診てもらってもいい?」
身体が固まる。
「医師……」
「嫌なら、今はしなくてもいい」
「でも」
「あなたが決めていいの」
エレノアは袖の上から右腕を押さえる。
見せる。
怖い。
知られる。
何を言われるか。
(でも)
今朝の侍女は怒らなかった。
祖母も怒らなかった。
失敗した子供を殴っていい理由はないと言ってくれた。
「……診てもらいます」
「本当に?」
「はい」
エレノアは頷く。
「自分の身体が、どうなっているのか……知りたいです」
「分かったわ」
マルグリットはそれ以上確認しなかった。
「女性の医師を呼べるわ。私も一緒にいる?」
「……いてほしいです」
「ええ」
そこへ足音が近づく。
エレノアの身体が強張った。
マルグリットが気づく。
「大丈夫。たぶんアルフォンスよ」
その言葉通り、庭へ現れたのはアルフォンスだった。
叔父は二人を見つけると、足を速めかけた。
しかし。
エレノアが一瞬身を固くしたのを見て、途中で速度を落とした。
数歩離れたところで止まる。
「母上」
「アルフォンス」
マルグリットが立ち上がる。
「エレノアが話してくれたわ」
アルフォンスは姪を見る。
何も聞かない。
「そうですか」
「ええ」
マルグリットは息を整える。
「この子は、ベルナール家へ帰りたくないそうよ」
アルフォンスの目が僅かに揺れる。
エレノアは俯きそうになった。
怒られる。
そんな考えが反射的に浮かぶ。
でも。
「エレノア」
呼ばれた。
顔を上げる。
「それは、お前自身が決めたことか?」
声は穏やかだった。
エレノアは祖母を見る。
マルグリットは何も言わない。
代わりに答えない。
エレノアへ任せている。
「……はい」
叔父を見る。
「帰りたくありません」
言った。
「ここに、いたいです」
アルフォンスは目を閉じた。
ほんの一瞬。
それから開く。
「分かった」
それだけだった。
「でも」
エレノアは不安になる。
「お父様が許さないと思います」
「そうだろうな」
「私、ベルナール家の娘で」
「ああ」
「だから」
「エレノア」
アルフォンスが静かに止める。
「難しいことはある」
嘘をつかない。
「お前がここにいたいと言ったから、何もかもすぐに解決するわけじゃない。ロベルトとも話す必要がある。場合によっては、もっと多くの人間が関わる」
エレノアの顔に不安が浮かぶ。
「でも」
アルフォンスは続けた。
「それは、お前が一人で背負うことじゃない」
「……」
「十五歳の姪が助けてほしいと手紙を書いてきた。その姪が、帰りたくないと言っている」
アルフォンスの拳が静かに握られる。
「なら、今度は大人が働く番だ」
エレノアの目に、また涙が浮かんだ。
「叔父様」
「ああ」
「私……迷惑じゃ」
「その言葉を言ったら、母上に怒られるぞ」
「アルフォンス」
マルグリットが睨む。
「私は怒りません」
「ほら、俺が怒られた」
エレノアは泣きながら。
少し笑った。
アルフォンスも、ほんの少しだけ笑う。
けれど。
「それと」
マルグリットの声が変わった。
アルフォンスが母を見る。
「エレノアには、身体に痣があるそうよ」
笑みが消えた。
完全に。
アルフォンスの顔から。
エレノアは反射的に肩を縮めた。
叔父はそれを見た。
怒りを表に出してはいけない。
怒りの向きが自分ではなくても、今のエレノアには区別できないかもしれない。
アルフォンスはゆっくり息を吸った。
「……そうか」
それだけを言う。
「医師に診てもらうことになったわ」
「エレノアが望んだのですか」
「ええ」
アルフォンスは姪を見る。
「なら、そうしよう」
「怒らないんですか」
エレノアが尋ねた。
「誰に?」
「私に」
アルフォンスは答えられなかった。
胸の中で何かが壊れそうになる。
けれど声を荒らげない。
「どうして俺がお前に怒る」
「痣があるから」
「お前が自分でつけたのか?」
「違います」
「なら、なおさらだ」
アルフォンスはそこで言葉を止めた。
誰が。
なぜ。
何度。
聞きたい。
今すぐ全部。
けれど、それは自分のための質問だ。
今のエレノアに必要なものではない。
「今は、医師に診てもらおう」
「はい」
「話したくなったら、そのあとでいい」
「……はい」
エレノアの肩から、少し力が抜けた。
アルフォンスはそれを確認してから、家令へ医師の手配を急がせるため踵を返した。
数歩進んで。
止まる。
「エレノア」
振り返らずに呼ぶ。
「はい」
「よく話してくれた」
それだけ言って、歩き出した。
エレノアはその背中を見送った。
怒鳴られなかった。
責められなかった。
どうして今まで黙っていた、とも言われなかった。
ただ。
よく話してくれた。
そう言われた。
◇ ◇ ◇
東の庭から屋敷へ戻る途中。
エレノアは玄関近くの広いホールを通った。
ここも覚えている。
幼いころ、母と帰るとき。
何度も振り返った場所。
叔父が手を振っていた。
祖母がまた来なさいと言った。
セドリックが次はもっと遊ぼうと叫んでいた。
そのとき。
ふいに言葉が浮かんだ。
昔。
この屋敷へ来たとき、幼い自分は何と言っていたのだろう。
母に連れられて。
祖父母の顔を見て。
確か。
「……ただいま」
声が漏れた。
マルグリットが足を止める。
「エレノア?」
「あ……」
エレノアは自分でも驚いていた。
「昔、ここに来たとき……私、そう言っていた気がして」
マルグリットの目が潤む。
「言っていたわ」
「本当ですか?」
「ええ」
祖母が笑う。
「アデラインが何度直しても、あなたは『ただいま』って」
「お母様は?」
「『ここはあなたのお家じゃないでしょう』って困っていたわ」
「そうだったんですね」
「でも、お祖父様は毎回『おかえり』って答えていた」
エレノアは目を閉じた。
記憶の奥。
大きな玄関。
小さな自分。
低い祖父の声。
おかえり。
胸が温かくなる。
「お祖母様」
「なあに?」
「もう一回、言ってもいいですか」
マルグリットは泣きながら笑った。
「もちろんよ」
エレノアは屋敷の中を見回した。
まだ正式にここへ住めると決まったわけではない。
父との話し合いもこれから。
何が起きるか分からない。
それでも。
今だけは。
自分が帰りたいと思った場所へ。
自分の意思で言う。
「ただいま」
マルグリットは迷わなかった。
「おかえりなさい、エレノア」
その言葉は。
処刑台から三年前へ戻って以来、ずっと居場所を探していた少女の胸へ、ゆっくりと染み込んでいった。




