第10話 今日は、帰さない
ロシュフォール公爵邸の二階、その奥まった場所にある客室へ案内されたあとも、エレノアの耳には祖母の声が残っていた。
――おかえりなさい、エレノア。
窓から差し込む午後の光は柔らかく、淡い色の壁紙と白い寝台を明るく照らしている。庭に面した窓が少しだけ開けられているらしく、薄いカーテンが風に揺れるたび、花と土の匂いがかすかに室内へ入り込んできた。
知らない部屋のはずなのに、不思議と息苦しくなかった。
むしろ、ベルナール伯爵邸にある自室よりも肩の力を抜ける気がする。
(ただいま、って言った)
思い返すだけで、胸の奥が熱くなった。
自分から言った。
誰かに言わされたのではない。
相手が喜びそうだからでもない。
そう言いたいと思ったから言った。
そして祖母は、迷うことなく「おかえり」と返してくれた。
けれど、その温かさへいつまでも浸っていることはできなかった。
これから医師に身体を診てもらう。
そう考えた瞬間、エレノアは膝の上に置いていた両手へ力を込めた。
怖い。
自分から診てもらうと決めたのに、今になって逃げ出したくなっている。
「エレノア」
向かい側の椅子に座っていたマルグリットが、静かに名前を呼んだ。
エレノアは顔を上げる。
「嫌になった?」
「……少しだけ」
「診てもらうのが?」
「はい」
正直に答えると、祖母は責めることも困った顔をすることもなく、小さく頷いた。
「なら、やめてもいいのよ」
「でも、さっき診てもらうって決めました」
「決めたあとで、やっぱり嫌だと思うことだってあるわ」
「そんなことをしてもいいんですか?」
思わず聞いてしまった。
マルグリットの目が少し悲しそうに細められる。
「いいのよ」
「でも、先生にも来てもらっているのに」
「それでもよ。来てもらったから診察を受けなければならない、なんてことにはならないわ」
エレノアは視線を落とした。
呼んでもらった。
時間を使わせた。
だから受けなければならない。
それが当然だと思った。
(断っても、いいんだ)
まだ、その感覚には慣れない。
「……診てもらいます」
しばらく考えてから、エレノアは改めて言った。
「今度は、来てもらったからではなく?」
「はい」
右腕へ視線を落とす。
「自分の身体がどうなっているのか、知りたいからです」
「分かったわ」
マルグリットはそれ以上確認せず、穏やかに頷いた。
その直後、扉が控えめに叩かれた。
エレノアの肩が跳ねる。
「私よ」
扉の向こうから聞こえたのは、落ち着いた女性の声だった。
マルグリットがエレノアを見る。
「入ってもらっていい?」
「……はい」
「どうぞ」
扉が開き、四十代半ばほどに見える女性が入室した。濃い灰色の髪を後ろでまとめ、華美ではない濃紺の衣服を身につけている。片手には革製の鞄を持っていた。
「失礼いたします」
女性は部屋へ入ると、まずマルグリットへ礼をしたあと、エレノアへ向き直った。
「ロシュフォール家で診療をしております、医師のクラリス・ベルモンと申します」
柔らかな声だった。
「エレノア・ベルナールです」
「存じております」
クラリスは微笑む。
「ですが、今日はお名前より先に、一つ確認させてください」
「はい」
「私が診察をしてもよろしいですか?」
エレノアは少し驚いた。
祖母から話を聞いて来たのだから、そのまま診察が始まると思っていた。
「……はい」
「腕や背中などを拝見する必要があるかもしれません。痛む場所があれば、触れることもあります。その都度、声をかけます」
「はい」
「嫌だと思ったら、途中でも止めます。理由は言わなくて構いません」
エレノアはクラリスを見る。
医師は急かさない。
ただ返事を待っている。
「お願いします」
「承知しました」
そこで初めてクラリスは鞄を机へ置いた。
「先代公爵夫人は、こちらにいらっしゃいますか?」
その問いはマルグリットではなく、エレノアへ向けられた。
「……いてほしいです」
「分かりました」
マルグリットも何も言わず、少し離れた椅子へ座る。
エレノアはゆっくり息を吐いた。
◇ ◇ ◇
診察は、いきなり服を脱ぐところから始まったわけではなかった。
クラリスはまず、エレノアの顔色を見た。
「最近、よく眠れていますか?」
「……あまり」
「眠れないのですか。それとも、途中で目が覚めますか?」
「両方あります」
「怖い夢を見ることは?」
エレノアの喉が詰まる。
処刑台。
群衆。
父の顔。
レオナードの腕の中にいるミレーヌ。
それは今の自分に起きたことではない。
少なくとも、この世界では。
「……あります」
「分かりました。夢の内容は、今は話さなくて構いません」
クラリスは紙へ何かを書き留めた。
「食欲は?」
「あります」
答えてから、少し迷う。
「たぶん」
「たぶん?」
「食べていいのか分からなくなることがあります」
マルグリットが僅かに息を呑んだ。
クラリスは表情を変えない。
「食事を前にしたときに?」
「はい」
「食べることを止められた経験がありますか?」
胸の中に何かが浮かびかける。
厨房の端。
冷えた皿。
誰かが先に食べ終えるまで待っていた時間。
空腹。
けれど、形にならない。
「……分かりません」
「では、それで大丈夫です」
「分からないのに?」
「分からないことを、無理に分かったことにする必要はありません」
クラリスは淡々と言った。
「今は『食べていいのか分からなくなることがある』。それだけ記録します」
「……はい」
少しだけ安心した。
思い出さなければならないのだと思っていた。
何があったのか。
誰がしたのか。
いつからなのか。
すべてを説明できなければ、自分の話を信じてもらえないと思っていた。
けれど、この人は「分からない」をそのまま受け取ってくれる。
「身体で、今一番痛むところはありますか?」
「今は……右腕です」
「見ても?」
「はい」
クラリスが椅子を少し近づける。
「袖を上げられますか?」
エレノアは左手で右袖へ触れた。
途中で止まる。
指が震えている。
クラリスは待つ。
マルグリットも待つ。
誰も「早く」と言わない。
エレノアは少しずつ袖を上げた。
右の上腕が露わになる。
紫色が薄れ、黄色へ変わり始めている痣。
その近くには、さらに古い色の痕もある。
クラリスの目が細くなった。
けれど声は変わらない。
「触れる前に、まず見ますね」
「はい」
医師が角度を変えながら確認する。
「これは、いつできたものか覚えていますか?」
「……はっきりとは」
「何かにぶつけましたか?」
「たぶん、違います」
「誰かに掴まれた?」
その言葉に。
腕が急に熱くなった。
指。
強く食い込む感覚。
逃げようとして。
『動かないで』
声。
誰の声なのか。
「っ……」
エレノアの呼吸が乱れた。
「止めます」
クラリスは即座に身体を離した。
まだ触れてさえいない。
「エレノア」
マルグリットが名前を呼ぶ。
近づいてはこない。
「今はここよ」
祖母の声。
「ロシュフォール家にいるわ」
エレノアは目を閉じる。
呼吸をする。
窓から風が入る。
カーテンが揺れる音。
花の匂い。
椅子の布地。
祖母の声。
少しずつ、今いる場所が戻ってくる。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ」
クラリスが言う。
「今の反応も、診察に必要な情報です」
「情報?」
「ええ」
クラリスは少し離れたまま答えた。
「身体の傷だけが、診察の対象ではありませんから」
エレノアは自分の腕を見る。
「もう一度続けますか。それとも、少し休みますか?」
「……続けます」
「分かりました。ただ、今度は私が触れる前に、どこへ触れるか必ず言います」
「はい」
クラリスはまず右上腕の痣の周囲を確認した。
痛む位置。
腫れ。
熱。
動かしたときの違和感。
一つずつ尋ね、必要なときだけ触れる。
その後、エレノアの許可を取りながら、他の箇所も診ていった。
衣服を緩める必要があると告げられたとき、エレノアの身体は再び強張った。
それでも、祖母がそばにいる。
クラリスも急かさない。
自分で決めた。
だから、ゆっくり服を緩めた。
上腕だけではなかった。
脇腹。
背中。
肩甲骨の近く。
太腿。
衣服を着ていれば、外からはほとんど見えない場所に痕が残っている。
比較的新しいもの。
薄くなりかけているもの。
すでに色は消えているのに、皮膚に古い傷跡だけが残っているもの。
クラリスの表情は、診察を進めるほど静かになっていった。
マルグリットは何も言わない。
けれど膝の上で組んだ手が、白くなるほど強く握られていた。
「こちらは?」
クラリスが背中の古い痕を指す。
「分かりません」
「これは?」
「……覚えていません」
「太腿の痣は?」
「それも……」
エレノアの声が小さくなる。
「ごめんなさい。全然覚えてなくて」
「謝る必要はありません」
「でも、これでは何も分からないですよね」
「いいえ」
クラリスは首を振った。
「分かることはあります」
診察を終え、衣服を整える時間を取る。
エレノアが再び椅子へ座ると、クラリスも向かいへ腰を下ろした。
「まず、今すぐ命に関わるような怪我は見当たりません」
その言葉に、マルグリットが小さく息を吐く。
「右上腕の痣も、骨に問題がある可能性は低いと思います。ただ、痛みが強くなったり腕が動かしにくくなったりした場合は、もう一度診ます」
「はい」
「それから」
クラリスの声が少し慎重になる。
「すべてが同じ時期にできたものではありません」
エレノアは医師を見る。
「どういうことですか?」
「新しい痣と、治りかけの痣があります。それより以前の傷と思われる痕も複数あります」
「……はい」
「正確な日時や原因までは、傷だけを見て断定できません」
クラリスはそこで言葉を区切った。
「ですから、誰が何をしたのかを、私から決めつけることはできません」
マルグリットが黙って聞いている。
「ただし、少なくとも一度どこかへぶつけただけで、今見たすべての痕ができたとは考えにくいです」
エレノアの指が震える。
「何度も……ということですか」
「異なる時期に負傷した可能性が高い、という意味です」
「私が、よく失敗したから」
またその言葉が出た。
クラリスはすぐに否定しなかった。
「エレノア様」
「はい」
「失敗したことと、怪我を負わされたことは別の話です」
祖母と同じだった。
「でも、お皿を割ったり」
「皿を割れば、手を切ることはあるでしょう」
「はい」
「その場合、怪我の原因は割れた皿です」
「……」
「皿を割った罰として誰かに殴られたのなら、怪我の原因は殴った人です」
エレノアは息を止めた。
単純な言葉だった。
けれど、自分の中ではずっと一つになっていた。
失敗した。
怒られた。
殴られた。
だから自分が悪い。
それが、クラリスの言葉によって切り分けられていく。
(原因は、殴った人)
自分ではない。
そう考えた途端、胸の奥が怖くなる。
これまで信じていたものが崩れるような怖さだった。
「今、無理に納得しなくて構いません」
クラリスが言う。
「……分かるんですか」
「表情を見れば、少しは」
エレノアは俯く。
「今日は、身体を休ませてください。食事も、食べられる範囲で構いません。ただし、長い間十分に食べられていなかった可能性も考えて、急に量を増やしすぎない方がいいでしょう」
マルグリットの目が鋭くなる。
「先生」
「はい」
「この子は、痩せすぎていますか」
クラリスはエレノアを見てから答える。
「年齢と体格を考えると、私は栄養状態についても確認を続けたいと思います。ただし、一度の診察だけで原因を断定するつもりはありません」
「分かりました」
「食事量、体重の変化、疲れやすさ、月ごとの体調なども含め、落ち着いた環境で様子を見る必要があります」
「落ち着いた環境……」
エレノアが呟く。
クラリスは頷いた。
「少なくとも今のエレノア様には、安心して眠り、食べ、嫌なことを嫌だと言える環境が必要だと私は考えます」
その言葉が胸に残った。
嫌なことを嫌だと言える。
そんな場所が、自分には必要なのだという。
「診察はここまでにしましょう」
クラリスが立ち上がる。
「また診てもいいと思ったら呼んでください。今日はもう十分です」
「……ありがとうございました」
「こちらこそ、診せてくださってありがとうございます」
医師に礼を言われた。
それも不思議だった。
クラリスはマルグリットへ目配せをする。
「あとで、診察した範囲について公爵閣下へ報告してもよろしいですか?」
またエレノアへ聞いた。
「叔父様に?」
「はい。傷の状態と、今後注意した方がいいことだけです。話したくないことまで伝える必要はありません」
少し考える。
「……お願いします」
「承知しました」
クラリスは一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
エレノアは長く息を吐いた。
「疲れた?」
マルグリットが聞く。
「はい」
「横になる?」
「少しだけ」
寝台へ移動する。
横になると、自分が思っていた以上に身体が重かった。
マルグリットが薄い掛け布をかける。
「お祖母様」
「なあに?」
「先生、怒りませんでした」
「ええ」
「痣を見ても」
「ええ」
「私が覚えていなくても」
「怒る理由がないもの」
やはり同じ答えだった。
エレノアは目を閉じる。
(怒られないんだ)
その事実を、何度も確かめるように胸の中で繰り返した。
◇ ◇ ◇
クラリスから話を聞いたアルフォンスは、最後まで一度も口を挟まなかった。
場所は執務室だった。
窓の外では午後の日差しが少しずつ傾き始めている。机を挟んでアルフォンスが座り、その隣にはセドリック、少し離れたところにはオーギュストが立っていた。
本来ならマルグリットも同席するはずだったが、今はエレノアのそばに残っている。
「以上が、エレノア様の許可をいただいてお伝えできる範囲です」
クラリスが話を終える。
沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはオーギュストだった。
「つまり」
低い声だった。
「何度も傷つけられている可能性が高い、と」
「異なる時期に負傷した痕が複数ある、というのが私から申し上げられる事実です」
「誰にやられた」
「それは分かりません」
「エレノアは何と」
「それ以上は、ご本人からお聞きください」
オーギュストの眉が動く。
「儂は祖父だぞ」
「ですからこそです」
クラリスは退かなかった。
「ご本人が話すと決めたことを、ご本人から聞いてください」
しばらく睨むように医師を見ていたオーギュストは、やがて深く息を吐いた。
「……分かった」
アルフォンスは机の上で手を組んでいた。
表面上は静かだった。
だが、爪が手の甲へ食い込むほど力が入っている。
(痣がある)
母から聞いたときから覚悟はしていた。
それでも、医師から異なる時期の傷が複数あると聞くのは別だった。
一度ではない。
偶然とも言い切れない。
しかも、エレノア自身はそれを「自分が失敗したから」と説明している。
「先生」
「はい」
「今日、ベルナール家へ戻しても問題ないと考えますか」
クラリスはすぐには答えなかった。
「医師として、家同士の判断をすることはできません」
「それは承知しています」
「ただ」
クラリスは慎重に言葉を選ぶ。
「ご本人が帰宅を強く恐れているのであれば、その恐怖を無視して戻すことが心身の安定に良いとは申し上げられません」
アルフォンスの目が細くなる。
「分かりました」
クラリスが退室したあと。
扉が閉まった瞬間、オーギュストが机を叩きそうになった。
だが、途中で止める。
「ロベルトを呼べ」
「父上」
「今すぐだ」
「呼ぶ必要はあります」
「なら――」
「ただし、怒鳴りつけるためではありません」
オーギュストが息子を見る。
「お前は平気なのか」
「平気に見えますか」
アルフォンスの声が低くなる。
その一言で、オーギュストは黙った。
「俺だって今すぐベルナール家へ行って、何があったのか全部吐かせたい」
アルフォンスは握っていた手を開いた。
掌に爪の跡が残っている。
「ですが、俺たちが怒りをぶつけて、それでエレノアが安全になるわけではない」
「……」
「今、一番やってはいけないのは、エレノアの意思を無視して大人同士で奪い合うことです」
セドリックが静かに頷く。
「父上の言う通りだと思います」
オーギュストが孫を見る。
「お前まで冷静だな」
「冷静じゃありません」
セドリックは笑わなかった。
「さっきから、ベルナール伯爵家へ乗り込む場面を何度も想像しています」
「なら儂と――」
「でも、それをやったらエレノアが怖がるでしょう」
オーギュストが口を閉じる。
「僕たちが怒っている理由を理解できる状態ならまだいい。でも今のエレノアは、誰かが怒っただけで自分が悪いと思うかもしれない」
セドリックは一度目を伏せた。
「だから、今はやりません」
静かな言葉だった。
アルフォンスは息子を見る。
十八歳。
昔なら、妹のように可愛がっていた従妹に何かあれば真っ先に飛び出していただろう。
それでも止まっている。
エレノアのために。
「問題はヴァレリアです」
セドリックが言う。
「もう帰る時間が近づいています」
「ああ」
「エレノアが帰りたくないと言ったことを、まだ知りません」
「知らない。痣のこともな」
「どう伝えますか」
アルフォンスは窓へ目を向ける。
日が傾いている。
時間は多くない。
「まず、エレノアに確認する」
「何をです?」
「本当に今日、帰りたくないのか」
「さっき本人が――」
「気持ちが変わっているかもしれない」
アルフォンスは息子を見る。
「一度言ったからといって、それを絶対の決定にするつもりはない」
セドリックが少し目を見開いたあと、頷く。
「そうですね」
「それから、本人が望むなら今日はここへ泊める」
オーギュストの目が鋭くなる。
「ロベルトが認めなくてもか」
「その場合は、俺が公爵として話します」
「法的にはどうする」
「ベルナール家の娘である以上、こちらが勝手に身柄を奪う形にはできません。ただし、本人が負傷していて医師の診察を受け、帰宅を恐れているという事情がある。少なくとも今夜一晩、親族宅で休養させる理由にはなる」
「それでロベルトが引くと思うか?」
「思いません」
アルフォンスは即答した。
「だから、今日ですべて終わらせるつもりもありません」
婚姻の問題。
親権に近い家長権の問題。
エレノアの身分。
ベルナール家で何が行われていたのか。
ロシュフォール家との接触がなぜ減ったのか。
調べることはいくらでもある。
何より、エレノア本人がこれからどうしたいのか。
今の一言だけで、未来のすべてを決めるべきではない。
「まず今夜だ」
アルフォンスが言う。
「今日、あの子が怖い場所へ戻らずに眠れるようにする」
◇ ◇ ◇
「そろそろ、帰る時間ではないでしょうか」
応接室に残されたヴァレリアがそう口にしたのは、エレノアが庭へ出てからかなりの時間が経ったころだった。
向かいに座るセドリックは、穏やかな表情を崩さない。
「そうですね」
「エレノアを呼んでいただけます?」
「今、休んでいます」
「休んで?」
「少し疲れたようです」
ヴァレリアの目が細くなる。
「どちらで?」
「客室です」
「でしたら、私が迎えに参ります」
立ち上がる。
「伯爵夫人」
セドリックも立った。
「もう少しだけお待ちください」
「なぜです?」
初めて、ヴァレリアの声から柔らかさが少し消えた。
「エレノアは私が連れてきたのです。帰宅時間もあります」
「承知しています」
「なら」
「父が、お話ししたいことがあるそうです」
ヴァレリアの動きが止まる。
「公爵閣下が?」
「はい」
「何のお話でしょう」
「父から直接」
セドリックはそれ以上言わなかった。
ヴァレリアは青年の顔を見つめる。
先ほどから何かがおかしい。
マルグリットとエレノアが庭へ出た。
アルフォンスが呼び出された。
医師らしき女性が廊下を通った気もした。
そして今、エレノアは客室で休んでいるという。
(何を話したの?)
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
エレノアが何かを話した。
その可能性が高い。
何を。
縁談のこと。
ロベルトのこと。
自分のこと。
(まさか)
右腕。
今朝、エレノアが自分の腕を庇った姿を思い出す。
ヴァレリアは笑みを保った。
「分かりました。では、公爵閣下をお待ちします」
「ありがとうございます」
再び腰を下ろす。
だが、もう茶へ手を伸ばす気にはならなかった。
◇ ◇ ◇
エレノアが目を覚ましたとき、窓から入る光は少し橙色を帯びていた。
ほんの少し横になるつもりだった。
いつの間にか眠っていたらしい。
「……お祖母様?」
「ここにいるわ」
寝台の近くから声がする。
マルグリットが椅子へ座っていた。
「私、寝てしまって」
「ええ」
「どれくらい?」
「一時間も経っていないわ」
エレノアは身体を起こす。
「帰る時間」
口にした瞬間、胸が苦しくなった。
マルグリットはその変化を見逃さない。
「エレノア」
「はい」
「もう一度聞くわね」
祖母は慎重に言った。
「今も、ベルナール家へ帰りたくない?」
エレノアは掛け布を握る。
診察を受けた。
痣を見せた。
自分の傷が一度のものではないと言われた。
失敗したことと、傷つけられたことは別だと言われた。
少し眠った。
その間に気持ちが変わったか。
(帰りたい?)
ベルナール家の自室。
父。
ヴァレリア。
ミレーヌ。
マーサ。
マーサのことを思うと胸が痛む。
自分が戻らなければ、彼女に疑いが向くかもしれない。
「マーサ……」
「マーサ?」
「あ……」
「誰?」
「ベルナール家の使用人です」
エレノアは迷う。
マーサの名前を出していいのか。
秘密の手紙を運ぶ手助けをしてくれた。
そのことが知られれば。
「私を、助けてくれた人です」
そこまでにする。
「その人が心配?」
「はい」
「あなたがここへ残ったら、その人が困るかもしれない?」
「……分かりません。でも、お父様たちが手紙のことを知ったら」
言ってから口を閉じる。
マルグリットは静かに尋ねた。
「最初の手紙を外へ出すのを、その人が助けてくれたのね?」
エレノアはすぐには答えなかった。
「言いたくなければ、答えなくていいわ」
その一言で。
逆に、話そうと思えた。
「はい」
「そう」
「マーサは悪くありません。私が頼みました」
「分かっているわ」
「もしお父様に知られたら」
「そのこともアルフォンスへ話していい?」
「……はい」
「分かった。できるだけ、その人へ危険が及ばない方法を考えましょう」
「できますか?」
「必ずとは言えないわ」
マルグリットは正直に答える。
「でも、考えることはできる」
エレノアは頷いた。
すべて解決すると約束されるより、その方が信じられた。
「それでも」
マルグリットが続ける。
「マーサという人を守るために、あなたが怖い場所へ戻らなければならないとは思わないわ」
エレノアは黙る。
「もう一度だけ聞くわね」
「はい」
「帰りたい?」
答えは変わらなかった。
「……帰りたくありません」
「ここにいたい?」
「はい」
今度は先ほどより、少しだけ早く答えられた。
「ここにいたいです」
「分かった」
マルグリットが立ち上がる。
「なら、アルフォンスに伝えましょう」
「お義母様は?」
「まだ応接室にいるわ」
身体が固くなる。
「私が言わないといけませんか」
「自分で言いたい?」
エレノアは考える。
怖い。
けれど、自分のことだ。
父へも。
ヴァレリアへも。
いつかは自分で言えるようになりたい。
ただ、今は。
「……叔父様に、そばにいてほしいです」
「もちろん」
「お祖母様も」
「いるわ」
「それなら」
エレノアは胸へ手を当てた。
「自分で言います」
◇ ◇ ◇
応接室へ戻ったエレノアを見た瞬間、ヴァレリアは立ち上がった。
「エレノア」
「お義母様」
「大丈夫? 具合が悪くなったと聞いたわ」
大丈夫。
いつもの答えが口元まで来る。
エレノアは一度唇を閉じた。
「疲れました」
それだけ答える。
「そう。では帰りましょう。屋敷で休んだ方が――」
「その前に」
アルフォンスの声が入った。
エレノアの隣にはマルグリットがいる。
少し離れてアルフォンス。
セドリックとオーギュストも室内にいた。
人数が多い。
ヴァレリアを囲んでいるように見えないよう、それぞれ距離を取っている。
それでも緊張は隠せなかった。
「ベルナール伯爵夫人」
アルフォンスがヴァレリアへ向き直る。
「今日はエレノアをこちらへ泊めたいと思っています」
ヴァレリアの表情が止まった。
「……何ですって?」
「体調が優れません。医師にも診せました」
「医師?」
ヴァレリアの視線がエレノアへ向く。
その瞬間、エレノアの身体が硬くなる。
アルフォンスは半歩だけ位置を変えた。
エレノアを完全に隠すのではない。
けれど、ヴァレリアから真っ直ぐ視線が突き刺さらない位置へ。
「なぜ、私に断りもなく?」
「本人の同意は得ています」
「私は保護者として同行しているのです」
「承知しています」
「でしたら、先に私へ――」
「お義母様」
エレノアが呼んだ。
ヴァレリアが止まる。
心臓が激しく鳴っている。
手が冷たい。
逃げたい。
でも。
自分で言うと決めた。
「私が、診てもらいたいと言いました」
「エレノア」
「それから」
声が震える。
マルグリットの気配が隣にある。
叔父もいる。
誰も代わりに言わない。
待ってくれている。
「今日は、帰りません」
言えた。
ヴァレリアの顔から、初めて笑みが消えた。
「何を言っているの?」
「ここに泊まります」
「勝手なことを言わないの」
その声。
少しだけ強い。
エレノアの肩が跳ねた。
視界の端が暗くなる。
謝らなければ。
そう思う。
(違う)
息を吸う。
今はロシュフォール家。
祖母がいる。
叔父がいる。
自分は十五歳。
処刑台ではない。
ベルナール家の閉じた部屋でもない。
「勝手かもしれません」
エレノアは答えた。
「でも、私が決めました」
「あなたはまだ十五歳なのよ」
「はい」
「伯爵家の娘が、父親の許可もなく他家へ泊まれると思っているの?」
言葉が詰まる。
分からない。
制度のこと。
法律のこと。
自分には知らないことが多い。
そのとき。
「その話は、俺がロベルトとします」
アルフォンスだった。
「公爵閣下」
「エレノアは、自分の意思を言っただけです」
「しかし」
「十五歳だから、すべてを一人で決められるとは俺も言いません」
アルフォンスは冷静だった。
「だからこそ、周囲の大人が本人の状態を見て判断する必要がある」
「状態?」
ヴァレリアの視線が再びエレノアへ向く。
「何かあったの?」
優しい声へ戻っている。
エレノアの身体は、それでも強張った。
「エレノア」
ヴァレリアが一歩近づく。
「私に話して」
その瞬間。
エレノアは一歩下がった。
自分でも意識する前に。
室内の全員が、それを見た。
ヴァレリアも。
足が止まる。
「……どうして逃げるの?」
その問いに。
エレノアは答えられなかった。
分からないから。
なぜ自分の身体がヴァレリアを怖がるのか。
何をされたのか。
どこまで覚えているのか。
まだ整理できていない。
「分かりません」
「分からない?」
「でも」
エレノアは自分の腕を抱きそうになり、途中で止めた。
「今は、近づかないでください」
ヴァレリアの目が僅かに見開かれる。
「私が怖いの?」
聞かれた。
答えれば。
何かが変わる。
エレノアは唇を震わせた。
「……はい」
室内が静まり返った。
ヴァレリアの顔から、今度こそ完全に表情が消えた。
「なぜ?」
「分かりません」
「何もしていないでしょう?」
その言葉に。
頭の奥で何かが弾けた。
白い皿。
割れる音。
赤褐色の髪。
細い指。
腕を掴まれる。
『何度言えば分かるの?』
「っ……」
息が止まる。
「エレノア!」
誰かが呼ぶ。
けれど近づいてこない。
それがありがたい。
「ごめんなさい……」
エレノアは震える声を漏らした。
「ごめんなさい、お皿……ちゃんと、片づけますから……」
ヴァレリアの顔色が変わった。
マルグリットが息を呑む。
アルフォンスの拳が強く握られる。
けれど。
誰も結論を口にしなかった。
今の断片だけでは、誰が何をしたのか断定できない。
ただ。
エレノアがヴァレリアを前にして、皿を割った記憶を思い出した。
その事実だけが、重く残った。
「エレノア」
アルフォンスが呼ぶ。
声をできる限り穏やかにして。
「今は皿なんてない」
エレノアの呼吸が乱れている。
「ここを見ろ」
命令ではない。
導くような声。
「窓がある。庭が見える。お前が選んだ青いリボンもある」
エレノアの手が髪へ触れる。
青いリボン。
自分で選んだ。
「そうだ」
アルフォンスが続ける。
「ここはロシュフォール家だ」
「……はい」
「今は、誰もお前を叱っていない」
「はい」
少しずつ呼吸が戻る。
ヴァレリアは動かなかった。
顔色が悪い。
「今のは……」
口を開く。
「何なの?」
エレノアは答えられない。
アルフォンスが前へ出た。
「今日はここまでにしましょう」
「待ってください」
ヴァレリアの声が強くなる。
「今のまま、私だけ帰れと言うのですか?」
「はい」
「エレノアを置いて?」
「今夜は」
「ロベルトが認めると思っているのですか」
「それは俺が話します」
「あなたには、この子を勝手に――」
「勝手にはしません」
アルフォンスの声が、初めて少しだけ低くなった。
「本人が帰りたくないと言っています」
「子供の一時的な感情です」
その言葉に。
エレノアが顔を上げた。
また。
自分の言葉が別のものへ変えられる。
不安。
一時的。
わがまま。
反抗。
そうやって、自分が言った「嫌」が違う名前へ変えられていく。
(嫌だ)
胸の奥に、小さな怒りが生まれた。
まだ怖い。
でも。
嫌だった。
「違います」
エレノアが言った。
ヴァレリアが見る。
「一時的ではありません」
「エレノア」
「私は帰りたくありません」
「今は興奮しているだけよ」
「違います」
「落ち着けば――」
「今、決めました」
声が震えている。
それでも、目を逸らさなかった。
「庭でお祖母様に聞かれたときも、そう答えました。少し休んで、起きたあとにも、もう一度聞かれました」
ヴァレリアが黙る。
「それでも同じでした」
エレノアは胸へ手を当てる。
「だから、一時的ではありません」
「……」
「私は今日、ベルナール家へ帰りたくありません」
静かな言葉だった。
けれど、誰にも代わってもらわなかった。
自分で言った。
ヴァレリアはしばらくエレノアを見つめていた。
やがて、アルフォンスへ視線を移す。
「ロベルトへは、あなたから説明するのですね」
「はい」
「私は、認めたわけではありません」
「承知しています」
「エレノア」
呼ばれる。
身体が少しだけ強張る。
「明日、迎えに来ます」
エレノアは答えなかった。
明日どうするかは、まだ決めていない。
今日と同じ答えになるかもしれない。
変わるかもしれない。
だから今、約束する必要はない。
「今日は、ここにいます」
それだけを返した。
ヴァレリアの目が細くなる。
「……そう」
彼女はそれ以上言わなかった。
◇ ◇ ◇
ヴァレリアを乗せたベルナール家の馬車がロシュフォール公爵邸を出たのは、日がかなり傾いてからだった。
エレノアは見送りには出なかった。
客室の窓からも見なかった。
見れば、追いかけなければならないような気がしたから。
代わりに、寝台の端へ座っていた。
マルグリットがそばにいる。
少しして、アルフォンスとセドリックが入ってきた。
「エレノア」
「はい」
「ヴァレリアは帰った」
アルフォンスが告げる。
「……怒っていましたか」
「怒っていたと思う」
正直な答え。
エレノアの顔が曇る。
「ごめんなさい」
「お前が謝ることではない」
「でも」
「伯爵夫人が怒ったとして、それは伯爵夫人の感情だ」
セドリックが言った。
エレノアは従兄を見る。
「僕たちは、エレノアがどうしたいかを聞いた。エレノアは残りたいと言った。それを聞いて、大人同士で話をすることにした。それだけだよ」
「……はい」
「父上はこれからベルナール伯爵へ手紙を?」
「いや」
アルフォンスが答える。
「直接話す」
「今日?」
「ああ」
エレノアの顔が強張る。
「叔父様が、ベルナール家へ?」
「行かない」
「え?」
「ロベルトをこちらへ呼ぶ」
アルフォンスは机の近くへ立つ。
「エレノアがここにいる以上、俺が屋敷を離れるつもりはない」
胸が温かくなる。
「来ますか?」
「来させる」
少しだけ公爵らしい強い言葉。
エレノアの肩が揺れたのを見て、アルフォンスはすぐに表情を緩める。
「……怖がらせたな」
「いえ」
「無理に否定しなくていい」
エレノアは少し迷う。
「少しだけ、びっくりしました」
「そうか」
それで終わった。
怒らない。
エレノアはまた一つ、それを覚えた。
「叔父様」
「何だ」
「お父様が来たら、私も話さないといけませんか」
「話したいか?」
すぐに問い返される。
「……分かりません」
「なら、今は出なくていい」
「でも、私のことなのに」
「お前のことだからこそ、お前が出るかどうかも決めていい」
「……」
「必要なら、あとで呼ぶ。そのときも嫌なら来なくていい」
エレノアは息を吐いた。
「ありがとうございます」
「それから」
アルフォンスが少し迷った。
「マーサという使用人のことは、母上から聞いた」
エレノアの表情が変わる。
「マーサは悪くありません」
「分かっている」
「私が頼んだんです」
「それも聞いた」
「お父様たちに知られたら」
「今のところ、こちらから名前を出すつもりはない」
「本当ですか?」
「ああ」
「でも、どうやって手紙が届いたのか聞かれたら」
「ラング商会を経由したことまでは、必要ならこちらで説明する」
「その前は?」
「言わない」
アルフォンスははっきり答えた。
「俺たちが確認すべきなのは、お前が助けを求めた理由だ。手紙を運んだ使用人を差し出すことじゃない」
エレノアの胸にあった重さが、少しだけ軽くなる。
「ただし」
「はい」
「絶対に守れるとは約束できない」
叔父は続けた。
「ロベルトたちが独自に調べる可能性はある。だから、こちらもできる範囲で先に動く」
「……はい」
簡単に「任せろ」と言わない。
できない約束をしない。
それが嬉しかった。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸へ戻ったヴァレリアを、ロベルトは玄関ホールで待っていた。
妻一人が馬車から降りた瞬間、その表情が変わる。
「エレノアは?」
ヴァレリアはすぐには答えなかった。
「中で話しましょう」
「どこにいる」
「ロシュフォール家よ」
ロベルトの顔色が変わる。
「何?」
「今日は泊まるそうよ」
「誰が許可した!」
玄関ホールへ怒声が響いた。
近くにいた使用人たちが一斉に動きを止める。
「声を落として」
「どういうことだ!」
「公爵が認めたわ」
「アルフォンスが?」
「エレノア本人も帰りたくないと言った」
ロベルトが言葉を失う。
「……何を吹き込まれた」
「分からない」
「分からないだと?」
「私だって、何が起きているのか全部分かっているわけではないの」
ヴァレリアの声にも苛立ちが混じる。
「ただ」
そこで止まる。
エレノアの反応。
皿。
謝罪。
自分を見る目。
「ただ、何だ」
「医師が呼ばれた」
ロベルトの眉が寄る。
「医師?」
「エレノアを診たようよ」
「なぜだ」
「それも、はっきりとは聞いていない」
「お前は付き添っていたんじゃないのか!」
「私をエレノアから離したのよ」
ヴァレリアが初めて強い口調で返した。
「マルグリット様が、孫と二人で亡くなったアデライン様の話をしたいと言った。そこで無理についていけると思う?」
ロベルトが黙る。
「そのあと、公爵が呼ばれて、医師が動いて、エレノアは帰らないと言い出した」
「何を話したんだ」
「だから分からないと言っているでしょう」
ヴァレリアは額へ手を当てる。
「でも、ロベルト」
「何だ」
「あの子は、私を怖いと言ったわ」
ロベルトの表情が変わる。
「お前を?」
「ええ」
「なぜ」
「本人も分からないと言っていた」
ヴァレリアは自分の手を見る。
記憶の断片が胸の奥を刺す。
けれど、それを言葉にはしなかった。
「それから、皿を片づけるから許してほしいと謝っていた」
「何の話だ」
「分からない」
また同じ答え。
だが今度は、ヴァレリア自身にも苛立ちがあった。
「ロシュフォール家は、何かを疑っている」
「何を」
「それが分からないのよ」
ロベルトはその場を歩き始める。
「迎えに行く」
「待って」
「俺の娘だ」
「今行ってどうするの?」
「連れ戻す」
「公爵家で?」
ロベルトの足が止まる。
「先代公爵夫妻もいる。現公爵もいる。エレノア本人が帰りたくないと言っている。その状態で怒鳴って連れ帰れば、どう見えると思う?」
「なら放っておけというのか!」
「違うわ」
ヴァレリアが夫を見る。
「考えて動けと言っているの」
そのとき。
玄関の外が騒がしくなった。
間もなく執事が入ってくる。
「旦那様」
「何だ」
「ロシュフォール公爵家より、使者が参っております」
ロベルトとヴァレリアが同時に振り返る。
「公爵閣下より、至急お話ししたいことがあるため、本日中に公爵邸へお越しいただきたいとのことです」
ロベルトの顔が硬くなる。
アルフォンスは待つつもりがない。
けれど、ベルナール家へ怒鳴り込んでくるつもりもない。
自分の領域へロベルトを呼ぶ。
「……分かった」
ロベルトは低く答えた。
「馬車を用意しろ」
◇ ◇ ◇
そのころ。
エレノアはロシュフォール公爵邸の客室で、夕食前の温かな飲み物を手にしていた。
蜂蜜をほんの少し入れた温かいミルク。
マルグリットが「飲めそうなら」と持ってきてくれたものだった。
飲み切れとは言われていない。
残してもいいと言われた。
エレノアは両手でカップを包む。
「お祖母様」
「なあに?」
「お父様、来るんですよね」
「ええ」
「怒りますよね」
「たぶん」
正直な答えだった。
「……怖いです」
「うん」
「でも」
エレノアはカップへ視線を落とす。
「帰りたいとは、思いません」
それを確認できた。
父が怒ると想像しても。
迷惑をかけると思っても。
怖くても。
帰りたくない。
(怖いのに、変わらない)
自分の気持ちは、それほどはっきりしている。
「お祖母様」
「なあに?」
「今日、ここにいてもいいですか」
マルグリットは少し驚いた顔をした。
もう何度も同じことを確認している。
それでも。
エレノアがもう一度聞きたいのだと分かったのだろう。
「もちろんよ」
「明日のことは?」
「明日考えましょう」
「明後日は?」
「明後日になったら考えればいいわ」
「ずっと先のことも?」
「今すぐ決めなくていい」
エレノアはカップを見つめたまま、小さく笑った。
「それなら、今日はここにいます」
「ええ」
「今日は、帰りません」
言葉にするたび。
それが自分の意思になっていく。
やがて廊下の向こうから、慌ただしくはないものの、普段より多い足音が聞こえ始めた。
ベルナール伯爵を迎える準備が始まったのだろう。
エレノアの指がカップへ少し強く触れる。
怖い。
それでも。
逃げているだけではない。
自分で選んで、ここにいる。
ロシュフォール公爵邸の玄関では、アルフォンスが静かにロベルトを迎える準備をしていた。
今夜、すべてが解決するわけではない。
エレノアが受けてきたものの全貌も、まだ誰にも分からない。
ロシュフォール家からの手紙がなぜ彼女へ届かなくなったのかも。
母アデラインの死後、ベルナール家の中で何が少しずつ変わっていったのかも。
第二王子との縁談も、まだ止まってはいない。
けれど、一つだけ。
これまでとは決定的に違うことがあった。
エレノアが「帰りたくない」と言ったとき。
今度は、その言葉をなかったことにしない大人たちがいた。
そして今夜。
ロシュフォール公爵家は初めて、ベルナール伯爵家へ明確な意思を示す。
エレノア本人が帰りたいと言うまで。
少なくとも今日は――彼女を帰さない。




