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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第11話 父と叔父の話し合い

 ロシュフォール公爵邸の客室には、夜の訪れとともに昼間とは違う静けさが降り始めていた。


 窓の外には薄い藍色の空が広がり、庭を囲む木々はすでに輪郭だけになりつつある。室内では壁際の燭台に火が灯され、揺れる明かりが淡い色の壁紙を柔らかく照らしていたが、エレノアは先ほどから何度も扉の方へ視線を向けていた。


 父が来る。


 そう考えるたびに、胸の奥が縮むようだった。


 両手で包んでいたカップの中には、蜂蜜を少しだけ加えた温かなミルクがまだ半分ほど残っている。冷める前に飲もうとは思っているのに、馬車の音が聞こえた気がするたびに耳を澄ませてしまい、なかなか口をつけられなかった。


「気になる?」


 向かい側に座っているマルグリットから尋ねられ、エレノアは小さく頷いた。


「……はい。もう着いたでしょうか」


「まだだと思うわ。門へ到着すれば、こちらにも知らせが来るでしょうから」


「そうですか」


 安心したような、かえって落ち着かなくなったような、不思議な気持ちだった。


 できれば来てほしくない。


 けれど、来なければ何も進まないことも分かっている。


(お父様は、何を言うんだろう)


 帰れと言われるだろう。


 勝手なことをするなとも言われるかもしれない。


 十五歳の娘が決めることではない、と再び言われる可能性も高い。


 書斎で婚約を拒否したときの父の声が耳の奥に蘇り、エレノアは無意識に右腕を左手で押さえそうになった。けれど途中で気づき、膝の上へ手を戻す。


 今日は医師に診てもらった。


 右腕だけではなかった。


 自分が見ないようにしていたもの、自分では大したことではないと思おうとしていたものを、初めて他人に見せた。


 クラリスは怒らなかった。


 祖母も怒鳴らなかった。


 叔父たちも、自分へ怒りを向けなかった。


 その事実を思い出すと、浅くなっていた呼吸が少しだけ楽になる。


「エレノア」


「はい」


「さっきアルフォンスから聞かれたこと、覚えている?」


 父との話し合いへ出るかどうか。


 エレノアは頷いた。


「まだ決められない?」


「……はい」


 答えると、マルグリットは静かに微笑んだ。


「なら、まだ決めなくていいわ」


「でも、お父様が着いてしまったら」


「着いたからといって、すぐにあなたが決める必要はないでしょう?」


「そう……ですよね」


「アルフォンスたちが先に話すこともできるし、あなたが途中から入りたいと思えばそうしてもいい。最後まで会いたくないと思ったなら、それでもいいのよ」


 選択肢が一つではない。


 そのことを、ここへ来てから何度教えられただろう。


 着る服。


 贈り物。


 診察を受けるか。


 誰にそばにいてもらうか。


 帰るか。


 父と会うか。


 以前の自分なら、どれも自分で決めるものだとは思わなかった。


「お祖母様」


「なあに?」


「もし私がお父様と会わなかったら、お父様は怒ると思います」


「そうかもしれないわね」


 マルグリットは簡単に否定しなかった。


「叔父様にも、迷惑がかかります」


「アルフォンスは自分で引き受けると決めたのよ」


「でも、私のせいで」


 そこまで口にして、エレノアは止まった。


 今日、何度も言われたことを思い出す。


 自分が失敗したことと、誰かに傷つけられたことは別。


 誰かが怒ることと、自分が悪いことも、本当は同じではないのかもしれない。


(お父様が怒ったら、それも私のせいなの?)


 問いが浮かぶ。


 答えはまだ出ない。


 ただ、以前なら問いそのものが生まれなかった。


「……少し、考えたいです」


「ええ。ゆっくり考えなさい」


 マルグリットが答えた直後、廊下から控えめな足音が近づいてきた。やがて扉が二度叩かれ、祖母が応じると、ロシュフォール家の侍女が静かに入室する。


「失礼いたします。ベルナール伯爵閣下がお着きになりました」


 エレノアの身体が固まった。


 分かっていた。


 来ると知っていた。


 それでも実際に父がこの屋敷へ到着したと聞いた瞬間、指先から温度が失われていく。


「……分かりました」


 マルグリットが答える。


 侍女はエレノアへ余計な視線を向けることなく一礼し、そのまま退室した。


 扉が閉まっても、エレノアはしばらく動けなかった。


「来た……」


「ええ」


「お父様が」


「ええ」


 マルグリットの返事は変わらない。


 落ち着いている。


 それがありがたかった。


 エレノアは自分の胸へ手を当て、ゆっくり息を吸った。


        ◇ ◇ ◇


 ロベルト・ベルナールが案内されたのは、ロシュフォール公爵邸の一階にある応接室だった。


 客人を迎えるための部屋ではあるが、昼間ヴァレリアたちが通された明るい応接室とは違い、こちらは公的な話し合いにも使われる場所だった。重厚な机と椅子、深い色の絨毯、壁際に並ぶ書棚が、単なる親族同士の訪問ではない空気を作っている。


 扉が開くと、ロベルトは執事の案内を待ちきれないように室内へ入った。


「アルフォンス!」


 その声に、すでに室内で待っていたアルフォンスが立ち上がる。


 セドリックも同席していた。


 オーギュストは別室にいる。本人は出ると言い張ったが、アルフォンスが「最初から父上までいたら話し合いではなく包囲になる」と止めたためだった。


「夜分に呼び出して申し訳ない、ベルナール伯爵」


「そんなことはどうでもいい。エレノアはどこだ」


 挨拶さえほとんどない。


 アルフォンスはロベルトの顔を見つめた。


「二階の客室で休んでいる」


「すぐに呼んでくれ。連れて帰る」


「その前に話がある」


「話ならあとで聞く。娘が迷惑をかけたことについては謝罪するが、まず連れて帰らなければ――」


「迷惑?」


 アルフォンスの声が低くなった。


 それでも怒鳴らない。


「何のことだ」


「何って、勝手にこちらへ残るなどと言い出したそうじゃないか」


「それを迷惑と呼んでいるのか」


「十五歳の娘が親の許可もなく他家へ泊まると言っているんだぞ。お前たちだって困るだろう」


「困っていない」


 即答だった。


 ロベルトが眉を寄せる。


「親族とはいえ、家は別だ」


「姉上の娘だ」


「それでもベルナール家の娘だ」


「ああ。だからお前を呼んだ」


 アルフォンスは向かいの椅子を示した。


「座れ」


「エレノアを先に――」


「座れ、ロベルト」


 声量は変わらなかった。


 だが、公爵としての響きがあった。


 ロベルトは口を閉じる。


 爵位はロシュフォール公爵家の方が上だ。


 しかもここは相手の屋敷。


 感情のまま押し切れる場所ではない。


 数秒の沈黙のあと、ロベルトは不満を隠さないまま椅子へ腰を下ろした。


「それで、何があった」


「こちらが聞きたい」


 アルフォンスも座る。


 セドリックは父の斜め後ろに控えた。


「エレノアが第二王子殿下との婚姻を拒否したのは知っているな」


「もちろんだ」


「それでも受諾の返書を出した」


「家長として当然の判断だ」


「本人の意思を無視して?」


「十五歳だぞ」


 ロベルトは苛立ったように息を吐く。


「まだ子供だ。皇族との婚姻がどれほどの意味を持つのか、理解できていないだけだ」


「だから、お前が代わりに決めると?」


「貴族の婚姻とはそういうものだろう」


「すべての貴族令嬢が、自分の意思を一切聞かれず嫁がされているとでも?」


「綺麗事を言うな」


 ロベルトの眉間に皺が寄る。


「家同士の婚姻だ。本人の感情だけで決められるものではない」


「本人の感情だけで決められないことと、本人の意思を完全に無視することは同じではない」


「第二王子殿下だぞ」


「相手が誰であろうと同じだ」


 アルフォンスは視線を逸らさなかった。


「それに、確認した限り、皇室から正式な婚約命令が下ったわけではない。まだ打診と交渉の段階だ」


 ロベルトの表情が僅かに動いた。


「だから何だ」


「断れない話ではなかったということだ」


「断る理由がない」


「エレノアが嫌だと言った」


「それだけで?」


「十分重要な理由だと思っている」


 ロベルトが椅子の背へ身体を預ける。


「お前は昔から姉上のことになると甘かった」


 アルフォンスの目が細くなる。


「エレノアにも同じか。本人が嫌だと言えば、何でも許すつもりなのか?」


「何でもとは言っていない」


「同じことだろう」


「違う」


 アルフォンスはそこで一度言葉を切った。


「少なくとも、嫌だと言った娘を部屋に閉じ込めるような真似はしない」


 ロベルトの顔から苛立ちが一瞬消える。


「……何の話だ」


「外出を制限したそうだな」


「婚約を前にして妙な行動をされては困るからだ」


「手紙も確認すると伝えた」


「当然だ」


「訪問者も制限する」


「必要ならな」


「使用人との接触まで制限した」


「使用人区域へ意味もなく出入りしていたからだ」


 アルフォンスは返事をせず、数秒ロベルトを見つめた。


「それを全部、当然だと思っているのか」


「父親として必要なことだ」


「十五歳の娘が婚姻を拒否したから、外との連絡手段を制限することが?」


「言い方を変えるな」


「変えていない。お前がしたことを並べただけだ」


 室内の空気が重くなる。


 暖炉では小さく薪が爆ぜ、その音が妙に大きく聞こえた。


「それで?」


 ロベルトが先に沈黙を破った。


「その話と、今日帰さないことに何の関係がある」


「エレノアが帰りたくないと言っている」


「ヴァレリアから聞いた」


「一度だけではない。時間を置いて何度確認しても答えは変わらなかった」


「だから子供の気分に付き合うのか?」


「ロベルト」


 アルフォンスの声がわずかに変わった。


「お前は今日、エレノアを見たか?」


「朝食のときに」


「腕を見たか」


 ロベルトが黙る。


「何だ、その質問は」


「答えろ」


「腕など、いちいち見るわけがないだろう」


「背中は?」


「は?」


「脇腹は。太腿は」


 ロベルトの表情から、今度こそ苛立ちが消えた。


「何の話をしている」


 アルフォンスはすぐには答えなかった。


 医師から聞いた内容。


 エレノアから共有を許された範囲。


 それを頭の中で改めて確認してから、言葉を選ぶ。


「今日、本人の同意を得て医師に診てもらった」


「ヴァレリアから聞いた。なぜ勝手に――」


「本人が診察を望んだ」


「何を診た」


「複数の傷だ」


 ロベルトの口が止まる。


「……傷?」


「右上腕、脇腹、背中、肩甲骨の近く、太腿。服を着ていれば見えにくい場所に、新しい痣と治りかけの痣、それ以前の傷と思われる痕が複数あった」


 アルフォンスは、医師が断定していないことを断定しなかった。


「医師によれば、正確な原因や時期は傷だけでは分からない。ただ、一度どこかへぶつけた程度で、すべてを説明するのは難しいそうだ」


 ロベルトは何も言わなかった。


 顔から血の気が引いている。


 セドリックはその反応を黙って見ていた。


「知らなかったのか」


 アルフォンスが尋ねる。


「……知らない」


「本当に?」


「知らない!」


 ロベルトの声が大きくなる。


 アルフォンスは反応しない。


「そんな傷があるなど、聞いたこともない。エレノアも何も言わなかった」


「聞いたことは?」


「何?」


「お前から、あの子に」


 ロベルトの眉が寄る。


「怪我をしていないか、困っていることはないか、誰かに何かされていないか。そう聞いたことはあるのか」


「そんなもの……」


 言葉が続かない。


 アルフォンスは目を逸らさなかった。


 ロベルトの沈黙が答えになりかけていたが、それでも勝手に意味を決めるつもりはない。


「エレノアは、自分が失敗したからだと言った」


「失敗?」


「ああ」


「何の?」


「本人も、すべては覚えていない」


 ロベルトの顔に混乱が浮かぶ。


「意味が分からない」


「俺たちもまだ分かっていない」


「なら、なぜ俺を責める」


「責めるために呼んだんじゃない」


「同じだろう!」


 ロベルトが椅子から立ち上がりかける。


 セドリックの身体が僅かに動いたが、アルフォンスは手で制した。


「俺は事実を確認している」


「ならエレノアを呼べ。本人に聞けばいい」


「今のお前の前に?」


「父親だぞ!」


「だから何だ」


 アルフォンスも立ち上がった。


 怒鳴ってはいない。


 しかし、今まで抑えていたものが声の底へ滲む。


「父親なら、怖がっている娘を今すぐここへ呼びつけて問い詰めてもいいのか」


「怖がっている?」


 ロベルトが止まる。


「誰を」


「家へ帰ることをだ」


「そんなはずがない」


 即答だった。


「どうしてそう言い切れる」


「十五年間育ててきた家だぞ」


「だからこそ、俺も理解できない。理解できないから調べる」


「誰かに吹き込まれたんだ」


 ロベルトの目が鋭くなる。


「そうでなければ急にこんなことになるはずがない。昨日まで何も――」


「昨日まで何も言わなかったから、今日も何もないと?」


「エレノアは従順な子だった」


 その言葉を聞いた瞬間、セドリックの表情が僅かに変わった。


 アルフォンスも沈黙する。


「……何だ」


 ロベルトが二人を見る。


「従順だったから、問題がないと思ったのか」


「少なくとも、こんな騒ぎを起こす子ではなかった」


「騒ぎ?」


 セドリックが初めて口を開いた。


 ロベルトが視線を向ける。


「何だ」


「助けてほしいと言うことを、騒ぎと呼ぶんですか」


 アルフォンスが息子を見る。


 止めなかった。


「セドリック、お前には関係ない」


「従兄です」


「これは親子の問題だ」


「なら、どうしてエレノアは父親ではなく僕の父へ助けを求めたんでしょう」


 ロベルトの顔が固まった。


 言った直後、セドリックもそれ以上は続けない。


 秘密の手紙そのものをどこまで明かすかは、事前に父と決めていた。


 アルフォンスが引き取る。


「エレノアは俺に助けを求めた」


「……何?」


「手紙で」


 ロベルトの顔色が変わる。


「手紙?」


「ああ」


「いつだ」


「それをお前に教える必要はない」


「待て。あいつの手紙は――」


 そこで止まった。


 アルフォンスは聞き逃さない。


「確認していたんじゃないのか?」


「……」


「どうやって外へ出したのか、それが気になるか」


「当然だろう」


「俺が気になるのは違う」


 アルフォンスは机へ片手を置く。


「娘が父親に知られない方法を探してまで、外へ助けを求めなければならなかったことだ」


 ロベルトは何も返せない。


「手紙には、第二王子との婚姻を望んでいないこと、拒否しても話を聞いてもらえなかったこと、外出や手紙を制限されたことが書かれていた」


 アルフォンスは、必要以上の内容を明かさなかった。


「そして最後に、助けてほしいと書いてあった」


「……」


「俺はそれを読んだ」


 静かな声だった。


「だから動いた」


「誰が運んだ」


「答えない」


「ベルナール家の使用人か」


「答えないと言った」


「うちの者を勝手に――」


「今、それが一番重要か?」


 ロベルトが言葉を失う。


 アルフォンスは椅子へ座り直した。


「今日、お前を呼んだ理由は三つある」


 指を立てるようなことはせず、順に告げる。


「一つ。エレノアは今夜、ベルナール家へ帰りたくないと言っている。俺はその意思を尊重し、今夜はこちらで預かる」


「認められない」


「二つ。医師が複数の傷を確認している。原因が分かるまで、少なくとも安全だと確認できない場所へ無理に戻すつもりはない」


「俺の家が危険だと言うのか」


「分からないから確認する、と言っている」


「同じだ!」


「違う」


 アルフォンスは即座に否定する。


「今の段階で、お前やヴァレリアが傷つけたと決めつけるつもりはない。使用人かもしれない。別の理由があるかもしれない。本人の記憶も曖昧だ」


 ロベルトは黙る。


「だから調べる。その間、本人が帰宅を恐れている家へ戻すのは避ける」


「……三つ目は」


「第二王子殿下との婚約交渉だ」


 空気が変わった。


「受諾の返書を出したそうだな」


「ああ」


「撤回しろ」


 ロベルトの目が見開かれる。


「何だと」


「少なくとも、本人の意思を確認できるまで交渉を止めろ」


「そんなことができるか!」


「まだ正式な婚約ではない」


「一度受けると返事をしておいて撤回すれば、ベルナール家の信用に関わる!」


「娘より家の信用が大事か」


「そういう話ではない!」


 ロベルトが机へ身を乗り出す。


「相手は第二王子殿下だ。皇室に対して、やはりやめますで済むと思っているのか」


「だから俺も動く」


「何?」


「必要なら、ロシュフォール公爵家として事情を確認する」


「余計なことをするな!」


 その声が応接室へ響いた。


        ◇ ◇ ◇


 二階の客室まで、言葉の内容は聞こえなかった。


 けれど、低く響く声だけは届いた。


 エレノアの肩が跳ねる。


 手にしていたカップの中で、ミルクの表面が揺れた。


「……お父様」


 分かる。


 声そのものまでははっきり聞こえなくても、あの響き方を知っている。


 マルグリットが窓際から振り返った。


「ここにいましょうか」


「……」


 エレノアは答えられなかった。


 父は怒っている。


 叔父に。


 自分のせいで。


(私のせいで、叔父様が怒鳴られてる)


 胸が苦しくなる。


 やはり行かなければならないのではないか。


 自分が謝れば。


 帰ると言えば。


 そうすれば話は終わる。


 父も帰る。


 叔父も困らない。


 祖父母も巻き込まれない。


 セドリックも。


 マーサも。


 そこまで考えたところで、別の記憶が浮かんだ。


『今日は、帰りません』


 自分で言った。


 庭でも。


 休んだあとでも。


 ヴァレリアの前でも。


 何度聞かれても同じだった。


(帰りたくない)


 その気持ちも消えていない。


「お祖母様」


「なあに?」


「私が帰るって言ったら、話し合いは終わりますか」


 マルグリットはすぐには答えなかった。


 エレノアの顔をじっと見る。


「終わるかもしれないわね」


「そうしたら、叔父様も困らなくて」


「エレノア」


 祖母の声は柔らかい。


「帰りたいの?」


 問われて。


 エレノアは黙った。


「……帰りたくありません」


「なら、そのために嘘をつく必要はないわ」


「でも」


「アルフォンスは、困っているから話しているのではないのよ」


「じゃあ、どうして」


「あなたの叔父だから」


 マルグリットは椅子へ戻ってくる。


「家族が助けを求めてきた。それに応えたいと自分で決めたの」


「私が頼んだから」


「そうね。でも、引き受けると決めたのはアルフォンスよ」


 エレノアはカップを見つめる。


「誰かに助けてもらうと、その人に迷惑をかけます」


「そういうこともあるわ」


 意外な答えに顔を上げる。


「迷惑じゃないって言わないんですか?」


「何を迷惑と思うかは、その人が決めることでしょう?」


 マルグリットは少し笑った。


「少なくともアルフォンスは、あなたを守るためにロベルトと話すことを迷惑だとは思っていないわ。セドリックも、私も、あの人も同じよ」


「あの人?」


「あなたのお祖父様」


 少しだけおかしそうな響きだった。


「今ごろ別室で、どうして自分だけ話し合いから外されたのかって腹を立てているでしょうね」


 思わず、エレノアの口元が緩んだ。


 ほんの少し。


 それでも笑えた。


「お祖父様、怒っているんですか」


「ええ。でもあなたにではないわ」


 その区別。


 エレノアは胸の中へゆっくり落とす。


 怒っている。


 でも、自分にではない。


「……私、下へ行ってみたいです」


 自分の口から出た言葉に、エレノア自身が驚いた。


 マルグリットも目を見開く。


「話し合いに?」


「まだ……分かりません」


「ええ」


「でも、近くまで」


 エレノアはカップを机へ置く。


「行ってみたいです」


「どうして?」


 答えを探す。


 父に会いたいわけではない。


 怖くないわけでもない。


「私のことで話しているから」


 エレノアはゆっくり言葉にする。


「全部を大人の人に任せるんじゃなくて、自分で聞けるところは聞きたいです。でも、無理だったら戻りたいです」


 マルグリットの表情が柔らかくなる。


「それでいいわ」


「途中で戻っても?」


「もちろん」


「部屋へ入らなくても?」


「いいわよ」


 エレノアは立ち上がった。


 足に少し力が入りにくい。


 それでも歩ける。


        ◇ ◇ ◇


「余計なことだと?」


 アルフォンスはロベルトを見つめていた。


「娘が拒否している婚姻について確認することが?」


「ロシュフォール家には関係ない」


「エレノアは姉上の娘だ」


「ベルナール家の娘でもある!」


「だから俺は、お前から奪うと言っているんじゃない」


 アルフォンスは言葉を慎重に選んだ。


「少なくとも今夜は安全を確認する時間を置き、婚姻交渉も一旦止めろと言っている」


「安全、安全と……何が危険だと言うんだ」


「それをこれから調べる」


「本人が何も言っていないなら、単なる怪我かもしれないだろう」


「かもしれない」


 アルフォンスは認めた。


 ロベルトが僅かに勢いを取り戻す。


「なら――」


「だが、帰宅を恐れている」


「それはお前たちが大事にしたからだ」


「今日数時間会っただけで、十五年間暮らした家を怖がるようになると?」


「久しぶりに会った親族に甘やかされて、感情的になっているんだ」


「ロベルト」


 アルフォンスは目を細めた。


「お前は、あの子が何を言っても、全部別の理由へ置き換えるのか」


「何?」


「婚姻を嫌だと言えば、理解できていないだけ。帰りたくないと言えば、感情的になっているだけ。助けを求めれば、誰かに吹き込まれただけ」


「それは――」


「いつになったら、エレノアが言った言葉を、そのまま聞く」


 ロベルトの口が閉じる。


 しばらくして、視線を逸らした。


「……お前には分からない」


「何が」


「あの子は昔から大人しい。自分から何かを強く言うような子じゃなかった」


「だから、今言っていることが重要なんじゃないのか」


 ロベルトは黙った。


 アルフォンスも急かさない。


 やがてロベルトは額を押さえた。


「俺は、あの子のためにやっている」


 掠れた声だった。


「第二王子殿下との婚姻だってそうだ。伯爵家の娘として、これ以上ない縁談だ。将来困ることもない。地位も保証される」


「本人が望んでいなくても?」


「今は分からないだけだ」


「またそれか」


「十五歳なんだぞ!」


 ロベルトが顔を上げる。


「十五の子供に、自分の人生すべてを正しく判断できると思うのか!」


「思わない」


 予想外の答えだったのか、ロベルトが止まった。


「だから大人がいる」


 アルフォンスは続ける。


「教える。説明する。選択肢を示す。危険なら止める。判断する時間を与える。だが、それは本人の言葉を消すこととは違う」


「……」


「エレノアは、第二王子殿下が嫌だと言ったんだろう?」


「ああ」


「理由を聞いたか」


 ロベルトの目が動く。


「……聞いた」


「最後まで?」


「理由らしい理由は言わなかった」


「言えなかったのかもしれないとは思わなかったか」


「なぜ言えない」


 その言葉に、アルフォンスはすぐ返さなかった。


 目の前の男は、本当に分かっていないのか。


 あるいは分かろうとしていないのか。


 今の情報だけでは断定できない。


「それも、これから本人が話せるなら聞く」


 アルフォンスは答えた。


「ただし、無理に聞き出すつもりはない」


「そんな悠長な」


「急がせた結果、十五年間何も見えなかったのなら、俺は急がない」


 ロベルトの眉が動く。


 そのときだった。


 扉の外で、わずかな物音がした。


 セドリックが振り返る。


「誰だ」


「私よ」


 マルグリットの声だった。


 アルフォンスが扉へ目を向ける。


「母上?」


 扉がゆっくり開く。


 まずマルグリットが姿を見せた。


 その後ろ。


 少しだけ隠れるように、エレノアが立っていた。


 ロベルトが椅子から立ち上がる。


「エレノア!」


 大きな声に、エレノアの身体がびくりと震えた。


 アルフォンスがすぐに父娘の間へ入ろうとする。


 だが。


「叔父様」


 エレノアが呼んだ。


 アルフォンスが止まる。


「……大丈夫か?」


 その問いに、エレノアは一度迷った。


 いつもの言葉。


 大丈夫。


 反射的に出そうになる。


「怖いです」


 代わりに、そう答えた。


「でも、少しだけ話したいです」


 アルフォンスは数秒エレノアを見る。


「分かった」


 それだけだった。


 ロベルトは娘を見つめている。


「エレノア、帰るぞ」


 最初の言葉がそれだった。


 エレノアの指が震える。


 けれど、隣に祖母がいる。


 叔父も。


 セドリックも。


「……帰りません」


「まだそんなことを言っているのか」


 ロベルトの眉間に皺が寄る。


「お前がどれだけ迷惑を――」


「ロベルト」


 アルフォンスの声が割って入る。


 エレノアは目を伏せそうになった。


 迷惑。


 やはり。


 そう思った瞬間。


(違う)


 祖母の言葉を思い出す。


 何を迷惑と思うかは、その人が決める。


 エレノアは震える指を握った。


「叔父様」


「何だ」


「私から言ってもいいですか」


「ああ」


 アルフォンスが一歩下がる。


 完全には離れない。


 けれど、前を塞がない。


 エレノアは父を見る。


「お父様」


「何だ」


「私は、今日ここにいたいと自分で決めました」


「だから、それをお前が決めることでは――」


 同じ言葉。


 書斎でも聞いた。


 胸の奥に、冷たいものが走る。


 けれど、今はあのときとは違う。


「全部を私一人で決められるとは思っていません」


 エレノアは言った。


 ロベルトが止まる。


「でも、私がどうしたいかまで、お父様が決めることではないと思います」


「エレノア」


「私は帰りたくありません」


「理由を言え」


 強い声だった。


 エレノアの肩が揺れる。


「なぜ帰りたくない。何が不満なんだ。食事か、部屋か、使用人か。それともヴァレリアと何かあったのか」


 一気に問いかけられる。


 頭が白くなる。


 答えなければ。


 理由。


 説明。


 正しく。


 そう思うほど、言葉が出なくなる。


「ロベルト、質問を重ねるな」


 アルフォンスが止める。


「俺は娘に聞いている!」


「今のあの子を見ろ」


 その一言で、ロベルトがエレノアを見る。


 顔色が悪い。


 呼吸が浅い。


 指先が震えている。


 それでもエレノアは逃げなかった。


「……分からないんです」


 やっと声が出る。


「何が」


「全部は、分かりません」


「なら帰ってから――」


「でも、怖いんです」


 ロベルトの言葉を遮った。


 自分が父の言葉を遮った。


 そのことに、エレノア自身が驚く。


「家が?」


 父の問いに、少し考える。


「家に帰ることが、怖いです」


「なぜ」


「分かりません」


「それでは話にならないだろう」


 胸が痛む。


 けれど。


 今日、クラリスが言ってくれた。


 分からないことを、無理に分かったことにしなくていい。


「分からないままでも、怖いんです」


 エレノアは言った。


 声は震えていた。


「分からないから、怖くないことにはできません」


 ロベルトが黙る。


「今日、先生に身体を診てもらいました」


「聞いた」


「痣がありました」


「……ああ」


「昔の傷も」


 父の顔を見る。


 驚いているように見える。


 本当に知らなかったのかもしれない。


 でも、それだけでは分からない。


「お父様は、知っていましたか」


「知らない」


 今度は即答だった。


「そんな傷があるなんて、俺は知らなかった」


 エレノアは父の顔を見つめた。


 嘘かどうかは分からない。


 ただ。


 聞きたいことが一つ浮かんだ。


「どうして、知らなかったんですか」


 ロベルトの顔が止まる。


 エレノア自身も、言ったあとで驚いた。


「私は、同じ家にいました」


「……」


「ずっと、お父様の娘でした」


 喉が痛い。


 涙が出そうになる。


「どうして、知らなかったんですか」


 責めたいわけではなかった。


 本当に知りたかった。


 父は答えない。


 エレノアは待つ。


「お前が何も言わなかったからだ」


 やがて返ってきた答えに、胸の奥が冷えた。


「私が?」


「そうだ。痛いとか、怪我をしたとか、誰かに何かされたとか、一度も――」


「聞きましたか?」


 ロベルトが止まる。


「お父様から、私に聞きましたか?」


「……」


「私が大丈夫かって」


 沈黙。


 それが長かった。


 エレノアは父を見ていた。


 怒りではない。


 悲しい。


 ひどく悲しかった。


(聞かれたこと、あったかな)


 思い出そうとする。


 母が亡くなったあと。


 ヴァレリアとミレーヌが来て。


 自分の部屋が変わって。


 食事が変わって。


 使用人が変わって。


 マーサがいなくなって。


 ロシュフォール家とのやり取りが減って。


 父は。


「……覚えていません」


 エレノアは呟いた。


「お父様に、大丈夫かって聞かれたこと」


「エレノア」


「覚えていないんです」


 涙が一粒だけ頬を伝った。


 すぐに拭こうとして、手を上げる。


 けれど途中で止めた。


 泣いても怒られない。


 ここでは。


「私、ずっと大丈夫だと思わないといけないと思っていました」


 声が掠れる。


「失敗したら私が悪いし、怒らせたら私が悪いし、ご飯をもらえない日があっても……」


 言った瞬間。


 室内の空気が変わった。


 エレノアも止まった。


「……ご飯を?」


 セドリックの声が低くなる。


 エレノアの顔から血の気が引いた。


 言ってしまった。


 何を。


 どこまで。


「エレノア」


 アルフォンスが呼ぶ。


「今、思い出したのか」


「分かりません」


 呼吸が速くなる。


「ご飯をもらえないって……でも、私が遅かったから。食堂に行くのが遅かった日とか、失敗した日とか、だから……」


 言葉が混ざる。


 冷たい皿。


 厨房。


 残っていたパン。


 空腹。


『もう下げたわよ』


 誰の声。


 分からない。


「もういい」


 アルフォンスが静かに言った。


「今はそれ以上話さなくていい」


「でも」


「話したくなったときでいい」


 エレノアは唇を噛みそうになり、やめた。


 マルグリットが隣へ寄る。


 触れない。


 ただ、そこにいる。


 ロベルトは立ち尽くしていた。


「食事を与えられていなかった……?」


 独り言のようだった。


「俺は知らない」


 エレノアは父を見る。


「そうですか」


「本当だ」


「……はい」


「信じていないのか」


 その問いに、答えられない。


 信じる。


 信じない。


 今は決められない。


「分かりません」


 エレノアは正直に言った。


 ロベルトの顔が歪む。


「父親だぞ」


 その言葉が胸へ刺さる。


 けれど、エレノアはもう「父親だから信じなければならない」と即座には思えなかった。


「だから、分からないんです」


 静かに答えた。


「お父様なのに、私はお父様が怖いときがあります」


 ロベルトが息を呑む。


「お父様なのに、私が嫌だと言っても聞いてくれませんでした」


「それはお前のために――」


「私のためかどうかは、私が決めたいです」


 以前も言った言葉だった。


 今度は、あの書斎よりもはっきり言えた。


「全部じゃなくていいんです」


 涙で視界が滲む。


「まだ子供だから、私が知らないことがあるのも分かります。でも、私の気持ちまで、お父様が決めないでください」


 ロベルトは何も言わなかった。


 エレノアは大きく息を吸う。


「第二王子殿下とは、婚約したくありません」


「……」


「ベルナール家へは、今日は帰りません」


 そして。


「明日のことは、明日決めたいです」


 マルグリットが僅かに微笑む。


 エレノアは父の返事を待たなかった。


「叔父様」


「何だ」


「もう、部屋へ戻ってもいいですか」


「もちろんだ」


「お父様との話は?」


「俺がする」


「……お願いします」


 アルフォンスは頷いた。


 エレノアはロベルトを見る。


 何か言わなければならない気がする。


 謝るべきなのか。


 けれど、何に謝るのか分からない。


 だから。


「おやすみなさい、お父様」


 それだけ言った。


 ロベルトの唇が動く。


 だが、言葉は出なかった。


 エレノアはマルグリットとともに部屋を出る。


 廊下へ出た瞬間、膝から力が抜けそうになった。


「エレノア」


 マルグリットが腕を伸ばしかけ、止める。


「触っていい?」


「……はい」


 答えると、祖母の腕が背中へ回る。


 柔らかい。


 痛くない。


 エレノアは祖母へ少しだけ身体を預けた。


「怖かった……」


「ええ」


「すごく、怖かったです」


「よく話せたわね」


「途中で、何を言っているのか分からなくなりました」


「それでもいいのよ」


「帰らないって、言えました」


「ええ」


 廊下をゆっくり歩く。


 窓の外はもう暗い。


 庭のところどころに置かれた灯りだけが、夜の中へ淡く浮かんでいる。


(帰らないって言えた)


 父の前で。


 怒られても。


 怖くても。


 言えた。


 それだけで、胸の奥に小さな温かさが残った。


        ◇ ◇ ◇


 応接室では、エレノアが出ていったあとも誰もすぐには話さなかった。


 ロベルトは扉を見つめている。


 アルフォンスは座らない。


 セドリックも黙っていた。


「……食事を与えられていなかったと言った」


 やがてロベルトが呟く。


「そう聞こえた」


「俺は知らない」


「さっきも聞いた」


「本当に知らないんだ」


 ロベルトがアルフォンスを見る。


 先ほどまでの怒りは薄れていた。


 代わりに混乱がある。


「ヴァレリアがそんなことをするはずがない」


 アルフォンスの目が細くなる。


「今、誰がヴァレリアだと言った?」


 ロベルトが止まる。


「エレノアは加害者の名前を言っていない」


「だが家のことなら――」


「使用人かもしれない。ヴァレリアかもしれない。お前かもしれない。別の誰かかもしれない。今は分からない」


「俺が娘にそんなことをするわけがない!」


「なら、調べればいい」


 アルフォンスは静かだった。


「俺は最初からそう言っている」


 ロベルトは拳を握る。


「……今夜は」


「ああ」


「本当に帰さないつもりか」


「本人の意思を聞いただろう」


「明日は」


「明日、また本人へ聞く」


「いつまでそんなことを続ける」


「必要な間は」


「ベルナール家へ戻さないつもりか」


「そこまではまだ決めていない」


 アルフォンスは明確に答えた。


「だが、今日分かったことを無視して、明日の朝になったから帰れとは言わない」


「……」


「お前にも確認してもらいたいことがある」


「何だ」


「屋敷の記録だ」


 ロベルトが眉を寄せる。


「記録?」


「エレノアの食事。医師の診察歴。侍女の配置変更。特に、マーサという侍女が外された時期の前後」


 マーサの名前を聞いた瞬間、ロベルトの目が動いた。


 アルフォンスはその変化を見た。


「覚えているのか」


「……名前は」


「エレノア付きだったそうだな」


「ああ」


「なぜ外した」


 ロベルトは記憶を探るように眉間へ皺を寄せる。


「ヴァレリアから、侍女として分を越えた振る舞いがあると聞いた」


「どんな」


「細かいことまでは覚えていない。主人の教育方針に口を出すとか、エレノアを甘やかすとか……そんな話だったはずだ」


 セドリックとアルフォンスが視線を交わす。


 これまで分かっていた事実と繋がる。


 だが、まだ理由を確定するには足りない。


「それで、お前が配置転換を命じた」


「ああ」


「本人へ確認したか」


「誰に」


「マーサに」


 ロベルトは黙る。


「していないのか」


「使用人一人の配置転換だぞ。いちいち――」


 そこまで言って。


 自分で何かに気づいたように、言葉を止めた。


 エレノアはさきほど尋ねた。


 どうして知らなかったのか。


 聞いたのか、と。


「……していない」


 ロベルトが答えた。


「エレノアにも?」


「……していない」


 アルフォンスは責める言葉を重ねなかった。


「確認してくれ」


「何を」


「当時の記録をだ。マーサの配置転換理由。エレノアの食事。医師。衣服。使用人の交代。姉上が亡くなったあとから今まで、確認できるものを」


「十五年分を調べろと言うのか」


「アデラインが亡くなったあとの分でいい。必要ならこちらから人を出す」


「ベルナール家の内部を公爵家に調べさせろと?」


「嫌ならお前が調べろ。ただし、記録を捨てるな」


 ロベルトの目が鋭くなる。


「俺が隠すとでも?」


「そうは言っていない」


「同じだ」


「違う。今から何かが失われれば、誰が失わせたのか分からなくなる。それを避けたいだけだ」


 ロベルトはしばらく黙り、やがて低く答えた。


「……分かった」


 初めてだった。


 今夜、彼が明確に譲ったのは。


「それから婚約の返書だ」


 ロベルトの表情が再び硬くなる。


「それは別だ」


「別ではない」


「エレノアが混乱している今、縁談まで撤回する必要はない」


「混乱していても、拒否の意思は一貫している」


「皇室相手なんだぞ」


「分かっている」


「返書はもう出した」


「正式な婚約成立ではない」


「だが――」


「明日の朝、こちらからも皇室側の窓口へ確認を入れる」


 ロベルトが顔を上げる。


「何をするつもりだ」


「現時点で本人の同意がなく、母方親族として事情確認中だと伝える」


「待て!」


「婚約を破棄するとは言わない。まだ成立していないからな」


「それでも余計な波風が立つ!」


「もう立っている」


 アルフォンスは静かに言った。


「娘が助けを求めて家を出た時点でな」


 ロベルトは返せなかった。


 暖炉の火が小さく揺れる。


「今夜は帰れ」


 アルフォンスが告げる。


「エレノアはこちらで預かる。明日以降については、また話す」


「……会わせてもらえないのか」


「さっき会った」


「二人でだ」


 アルフォンスはすぐには答えない。


「それはエレノアに聞く」


「父親なのに?」


「父親だからこそ、今は聞く」


 ロベルトは目を閉じた。


 疲れたように息を吐く。


「……分かった」


 アルフォンスが僅かに目を細める。


 それは理解したという意味なのか。


 ただ今夜は引くというだけなのか。


 まだ分からない。


 だから、判断しない。


「明日の朝、また連絡する」


「ああ」


 ロベルトは立ち上がる。


 扉へ向かいかけて、足を止めた。


「アルフォンス」


「何だ」


「エレノアは……」


 続きが出てこない。


「何だ」


「いや」


 ロベルトは首を振った。


「何でもない」


 そのまま部屋を出ていった。


        ◇ ◇ ◇


 ベルナール伯爵家の馬車が公爵邸を離れたころ、エレノアは客室の寝台に腰掛けていた。


 着替えはまだしていない。


 髪には、朝に自分で選んだ青いリボンが残っている。


 マルグリットは夕食の準備を確認するため、少し前に部屋を出た。


 今は一人だった。


「……クロノア」


 小さく呼ぶ。


 すぐには何も起きない。


 少しして、窓辺の空気が淡く揺らぎ、小さな銀色の光が形を作った。


『呼んだ?』


「うん」


 クロノアが窓辺へ座るように浮かぶ。


『疲れてるわね』


「すごく」


『でしょうね』


 エレノアは少し笑った。


「今日、お父様に言ったの」


『何を?』


「帰らないって」


『そう』


「怖かった」


『うん』


「お父様、怒ってた」


『うん』


「でも、帰らなかった」


 クロノアは何も足さない。


 ただ聞いている。


 それが今は心地よかった。


「それからね」


 エレノアは自分の腕を見る。


「先生に診てもらった」


『身体を?』


「うん。痣がいっぱいあった」


 クロノアの表情が僅かに曇る。


「私、あんまり覚えてないの」


『無理に思い出さなくていいんじゃない?』


「先生もそう言った」


『いい先生ね』


「うん」


 エレノアは指先で青いリボンへ触れる。


「私ね、今日だけでいっぱい決めた」


『そうね』


「診てもらうって決めて、帰らないって決めて、お父様と少し話すって決めて、途中で戻るって決めた」


『ずいぶん決めたわね』


「疲れるね。自分で決めるのって」


 思わず本音が漏れた。


 クロノアが少し笑う。


『そりゃそうよ。何でも自分で決めるのは疲れるわ』


「でも、自分で決める方がいい」


 その言葉だけは迷わなかった。


『そう』


「全部じゃなくていいけど」


『うん』


「分からないときは、分からないって言っていいみたいだし」


『それも立派な答えよ』


 エレノアは窓の外を見る。


 真っ暗な庭。


 遠くの灯り。


 今夜、自分はここで眠る。


 ベルナール家ではない場所で。


 父に連れ戻されず。


 ヴァレリアの足音を気にせず。


 誰かが部屋へ入ってくることを怖がらず。


(眠れるかな)


 分からない。


 悪夢を見るかもしれない。


 途中で目を覚ますかもしれない。


 それでも。


「クロノア」


『なに?』


「私、今日ここで寝るんだ」


『そうね』


「ロシュフォール家で」


『うん』


「……変な感じ」


 嬉しいとも、安心したとも、まだ上手く言えない。


 けれど、嫌ではなかった。


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


 クロノアの姿が銀色の光へ溶ける。


「はい」


「僕だけど、入ってもいい?」


 セドリックの声だった。


「はい」


 扉が開く。


 セドリックは室内へ入ると、エレノアから少し離れた場所で足を止めた。


「伯爵は帰ったよ」


 エレノアの指が止まる。


「……帰ったんですか」


「うん。一人で」


 胸から大きく息が抜けた。


 自分でも驚くほどだった。


「そうですか」


「父上から、今夜はもう何も考えなくていいって」


「叔父様は?」


「まだ少し仕事がある。明日のこともあるからね」


「私のせいで」


 言いかける。


 セドリックの眉が僅かに上がる。


 エレノアは途中で止めた。


「……違いました」


「何が?」


「叔父様がやるって決めたんですよね」


 セドリックの表情が柔らかくなる。


「そうだよ」


「なら……ありがとうございますって、あとで言います」


「それでいいと思う」


 セドリックは手にしていた小さな箱を机へ置いた。


「これは?」


「夕食の前にお腹が空いたらって、祖母上が」


 箱の中には、小さく切られた柔らかな焼き菓子が数個入っている。


 エレノアは反射的に尋ねた。


「食べてもいいんですか?」


 セドリックが一瞬黙った。


 その沈黙に、エレノアは不安になる。


「ごめんなさい、変なことを――」


「違う」


 セドリックは慌てて首を振った。


「ごめん。どう答えたらいいか考えてた」


「……はい」


「食べてもいいよ。でも、食べなくてもいい」


 エレノアは箱を見る。


「全部?」


「全部食べてもいいし、一個でもいい。夕食が近いから、無理して食べる必要もない」


「残したら?」


「明日にすればいい」


「誰かに怒られませんか」


「怒らない」


 即答だった。


 エレノアは一つだけ取った。


 小さな焼き菓子。


 口へ入れると、優しい甘さが広がる。


「……おいしい」


「よかった」


 セドリックが笑う。


 エレノアはもう一つ取ろうとして、途中で手を止めた。


 食べたい。


 そう思う。


(じゃあ、食べよう)


 二つ目を取る。


 それだけのことなのに、少し嬉しかった。


「セドリックお兄様」


 呼んでから。


 エレノアは固まった。


 セドリックも固まった。


 数秒。


 二人とも動かなかった。


「……ごめんなさい」


「待って」


 セドリックが片手を上げる。


「今の、もう一回言って」


「え?」


「いや、無理ならいい。でも、できれば」


 いつもの落ち着いた顔が少し崩れている。


 エレノアは目を瞬いた。


 幼いころ。


 そう呼んでいた気がする。


 母と一緒にロシュフォール家へ来ていたころ。


「セドリック……お兄様」


 今度は少し照れながら呼ぶ。


 セドリックは顔を背けた。


「……だめだ」


「え?」


「嬉しすぎる」


 エレノアは思わず笑った。


 声が出るほどではない。


 でも、自然に笑えた。


「そんなにですか?」


「そんなにだよ。父上にはしばらく黙っておこう」


「どうして?」


「絶対に対抗するから」


「対抗?」


「『叔父様だけじゃなくて、もっと親しみのある呼び方はないのか』とか言い出す」


 想像できない。


 けれど少しだけ面白かった。


「叔父様なのに?」


「父上だから」


 セドリックが真顔で答える。


 エレノアは今度こそ小さな声を立てて笑った。


 笑ったあとで、自分が笑ったことに気づく。


 胸の奥が少し温かい。


 怖いことはなくなっていない。


 ベルナール家の問題も。


 第二王子との縁談も。


 身体に残る傷も。


 食事をもらえなかった記憶も。


 父が何を知っていて、何を知らなかったのかも。


 何一つ、終わってはいない。


 それでも今夜。


 エレノアは、自分で選んだ青いリボンを髪につけたまま、自分が食べたいと思った焼き菓子を二つ食べ、帰りたくないと言った場所へ戻らずにいられた。


 ほんの一日で人生が変わるわけではない。


 十五年間身についた恐怖も、三年後の処刑台で刻まれた記憶も、簡単には消えない。


 けれど。


(今日は、私が決めた)


 それだけは確かだった。


 そして一階では、アルフォンスが執務机へ向かい、翌朝皇室側へ送る問い合わせの文面を確認していた。


 婚約はまだ成立していない。


 だからこそ、今なら止められる可能性がある

 

同時に、ベルナール家で何が起きていたのかも確かめなければならない。エレノアの言葉だけを証明のために何度も繰り返させるのではなく、残っている記録や周囲の証言から、大人たちの側で確かめる必要がある。


 アルフォンスは書きかけの文書から顔を上げ、閉じた扉の向こうへ視線を向けた。


 今夜、姪はここにいる。


 それだけで十分だ。


 明日のことは、明日エレノアへ聞けばいい。


 彼女がまた「帰りたくない」と言うなら、その声を聞く。


 そして、その次の日も必要なら聞く。


 今度こそ。


 誰かの都合で、エレノアの言葉を消させないために。

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