第12話 初めての朝
エレノアが目を覚ましたとき、最初に感じたのは、見慣れない天井への違和感だった。
白を基調とした天井には控えめな蔦模様の装飾が施され、閉じられたカーテンの隙間から差し込む朝の光が、その一部を淡く照らしている。ベルナール伯爵家にある自分の部屋とは違う景色に、まだ眠りの残る頭が状況を理解できず、エレノアは掛布の中で身体を固くした。
(ここ……どこ?)
胸の奥へ不安が広がりかけたところで、昨日の出来事が少しずつ戻ってくる。
祖母から届いた招待状。ヴァレリアとともに訪れたロシュフォール公爵邸。祖父母や叔父、セドリックとの再会。そして、医師の診察を受けたこと。
夜には父が迎えに来た。
怖かったけれど、自分の口で帰りたくないと言った。父は一人でベルナール家へ戻り、自分はこの屋敷に泊まることになったのだ。
「……そっか」
小さく呟いた途端、張りつめていた身体から少しだけ力が抜けた。
ここはロシュフォール公爵邸だ。
昨夜はなかなか眠れないのではないかと思っていたのに、実際には寝台へ入ってからの記憶がほとんどない。途中で一度だけ目を覚ましたような気もするが、それすら夢だったのか現実だったのか曖昧だった。
エレノアはゆっくりと身体を起こした。
動いた拍子に右腕の痣が僅かに痛んだものの、昨日までとは違い、その痛みを無意識に押し隠そうとはしなかった。クラリスから無理に触れないよう言われているため、そっと腕の位置を変える。
(痛いんだ)
そんな当たり前のことを、改めて自分の中で言葉にする。
(痛いなら、痛いって思っていいんだよね)
昨日までなら、これくらい大したことではないと考えていただろう。もっと痛かったこともある、動けないわけではない、服を着れば見えないのだから問題ない、と理由を並べていたはずだ。
けれどクラリスは、痛みを比べる必要などないと言った。
その言葉の意味を、エレノアはまだ完全には理解できていない。それでも、自分の身体が痛いと訴えているのに、それを自分まで否定する必要はないのかもしれなかった。
扉の向こうから控えめな物音が聞こえ、エレノアの肩が反射的に強張った。
すぐに扉が開くことはなかった。
代わりに、しばらくしてから二度、穏やかな音で扉が叩かれる。
「エレノアお嬢様、お目覚めでしょうか」
知らない女性の声だった。
昨日、客室へ案内された際に紹介されたロシュフォール家の侍女だった気がする。名前を聞いたはずなのに、緊張していたせいで思い出せない。
「……はい」
「入室してもよろしいでしょうか」
エレノアは答えようとして、一瞬だけ迷った。
ベルナール家では、使用人が朝の支度のために部屋へ入ることは当たり前だった。許可を求められることなどほとんどなかったため、「入ってもいいか」と聞かれるだけで、どう答えれば正しいのかを考えてしまう。
(嫌じゃない)
今は一人で着替えたいわけでもない。
「はい。お願いします」
「失礼いたします」
扉が開き、二十代半ばほどに見える侍女が入ってきた。栗色の髪をきっちりとまとめた女性は、寝台から少し離れたところで一礼する。
「おはようございます、エレノアお嬢様。昨夜からお世話を担当しております、リディアと申します」
「あ……」
思い出した。
「ごめんなさい。昨日、聞いたのに」
「お気になさらないでください。昨日は覚えることが多すぎたでしょうから」
責める気配はなく、リディアは穏やかに微笑んだ。
「昨夜はお休みになれましたか?」
「はい。たぶん……思っていたより、よく眠れたみたいです」
「それは何よりでございます」
リディアはカーテンへ視線を向けた。
「カーテンを開けてもよろしいでしょうか。まだ眩しいようでしたら、このままにもできますが」
「開けてください」
「かしこまりました」
厚いカーテンが左右へ引かれると、朝の光が室内へ広がった。空には薄い雲が残っているものの、昨日より明るく、窓の向こうでは朝露をまとった庭木が柔らかな光を受けている。
昨日歩いた東の庭も、ここから少しだけ見えた。
母が好きだった庭。
祖母と二人で話した場所。
そこで自分は初めて、帰りたくないと言ったのだ。
「お着替えはいかがなさいますか?」
リディアの声で意識が戻る。
「昨日のお召し物は手入れをしております。もちろん、そちらをお召しになっても構いません。ただ、奥様――マルグリット様から、お嬢様がお泊まりになる場合に備えて何着か用意するよう申しつかっております」
「私の服を?」
「はい。ただし、まだ寸法が完全には分かりませんので、ゆったりとした室内着や調整しやすいものが中心でございます」
エレノアは戸惑った。
昨日泊まると決めたばかりなのに、すでに自分のための服が用意されている。
「そんな……私、昨日急に泊まることにしたのに」
「はい」
「迷惑ではありませんでしたか?」
口にした瞬間、昨日祖母から言われたことを思い出した。
何を迷惑と思うかは、その人が決める。
エレノアが言葉を続ける前に、リディアは少し考えるような表情を見せた。
「少なくとも、私は迷惑だとは感じておりません」
返ってきたのは、曖昧に慰める言葉ではなかった。
「公爵家の侍女として、お客様がお泊まりになる準備は仕事の一つでございます。それに昨夜はマルグリット様がたいそう張り切っておられましたので、むしろ止める方が大変だったかもしれません」
「お祖母様が?」
「はい。あれも必要ではないか、こちらも用意した方がよいのではないかと」
リディアの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「最後にはセドリック様から、『一晩で部屋を埋め尽くすつもりですか』と止められておりました」
その光景を想像すると、胸の奥が少しくすぐったくなった。
「……お祖母様らしい、のかな」
「これからゆっくり知っていただければよろしいかと」
これから。
その言葉に、エレノアは瞬きをした。
今日帰るのかどうかさえ、まだ決めていない。それなのに「これから」と言われることが、不思議なほど温かく感じられた。
リディアが衣装棚を開く。
中には三着ほどの衣服が用意されていた。どれも華美すぎず、身体を締めつけない形のもので、色も淡い青や生成り、薄い若草色とそれぞれ違っている。
「どれになさいますか?」
問われた瞬間、エレノアの視線が三着の間を行き来した。
昨日も似たことがあった。
色を選ぶ。
何を身につけるか決める。
誰かから見れば些細なことなのに、自分にとってはまだ少し難しい。
(どれなら怒られない?)
真っ先に浮かんだ考えに気づき、エレノアは唇を閉じた。
違う。
今聞かれているのは、正解ではない。
「……どれでも、いいんですか?」
「もちろんでございます」
「リディアは、どれがいいと思いますか?」
「私の好みでございますか?」
「はい」
リディアは三着を見比べた。
「そうですね。私は若草色も春らしくて素敵だと思います。ただ、エレノアお嬢様がお召しになるのでしたら、どれもお似合いになるかと」
「じゃあ……」
若草色を選べば、リディアが喜ぶだろうか。
そう考えかけて、エレノアは昨日選んだ青いリボンを思い出した。
理由は簡単だった。
綺麗だと思ったから。
それだけでよかった。
三着をもう一度見る。
淡い青。
昨日のリボンより少しだけ白に近い、朝の空のような色だった。
「これにします」
「青いお召し物ですね」
「はい」
「かしこまりました」
リディアはそれ以上、理由を尋ねなかった。
エレノアは少しだけ安心する。
「それと……昨日のリボンはありますか?」
「もちろんでございます。こちらに」
丁寧に手入れされた青いリボンが差し出される。
「今日も使いたいです」
「承知いたしました」
自分で選んだものを、もう一度使いたいと思った。
その小さな事実を、エレノアは胸の中へ大切にしまった。
◇ ◇ ◇
着替えを終えたあと、エレノアは朝食のため一階へ向かった。
リディアから部屋で食べることもできると言われたが、少し迷った末に家族と一緒に食べたいと答えた。昨夜の夕食も皆と囲んだものの、父との話し合いの直後だったこともあり、何を食べたのかあまり覚えていなかったからだ。
食堂の扉が開くと、すでに何人かが席についていた。
「おはよう、エレノア」
最初に気づいたのはマルグリットだった。
「おはようございます、お祖母様」
「眠れた?」
「はい。思っていたより、たくさん」
「それならよかったわ」
マルグリットの隣では、オーギュストが新聞らしき紙面から顔を上げる。
「おはよう、エレノア」
「おはようございます、お祖父様」
「昨日はわしだけ仲間外れだったが、今日は同じ食卓につけるらしい」
「父上」
少し離れた席からアルフォンスが呆れた声を出した。
「まだ言っているんですか」
「当然だ。孫が大変なときに、なぜ祖父だけ別室へ追いやられなければならん」
「父上がいたら、伯爵に掴みかかりかねなかったからです」
「掴みかからん」
「本当に?」
セドリックが尋ねる。
オーギュストは少し黙った。
「……たぶん」
思わずエレノアの口元が緩む。
昨日までなら、大人同士が自分のことで言い合っていれば身体を縮こまらせていたかもしれない。しかし今の会話には、自分を責める響きがないことが少しずつ分かるようになっていた。
「ほら、エレノアが笑ったでしょう」
マルグリットが嬉しそうに言う。
「父上の役目もありましたね」
「どういう意味だ、アルフォンス」
「そのままの意味です」
席を勧められ、エレノアはセドリックの向かい側へ座った。
「おはよう、エレノア」
「おはようございます、セドリックお兄様」
言った瞬間、セドリックの手が止まった。
昨夜と同じだった。
今度はアルフォンスも止まる。
マルグリットが目を丸くし、オーギュストは面白そうに孫息子を見る。
「……エレノア」
アルフォンスが静かに呼んだ。
「はい?」
「今、何と?」
「え?」
「セドリックを」
セドリックが嫌な予感を覚えたような顔になる。
「父上、朝食にしましょう」
「お前は黙っていろ」
「昨日、黙っておこうって言ったのに」
「セドリックお兄様?」
エレノアが首を傾げると、アルフォンスが息子を見る。
「昨日からなのか?」
「……昨夜、一回だけ」
「なぜ報告しなかった」
「報告事項なんですか、これ」
「重要事項だ」
真剣な顔で言い切る叔父を見て、エレノアは戸惑った。
「叔父様?」
「エレノア」
「はい」
「俺のことも、もう少し親しみを込めて呼んでも構わないんだぞ」
「父上!」
昨夜セドリックが言っていた通りになった。
それに気づいた途端、エレノアは笑いを堪えきれなくなった。
「ふふっ……」
食堂が静かになる。
笑ってしまったことがまずかったのかと思い、エレノアは慌てて口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい」
アルフォンスがすぐに答える。
その表情は、どこか嬉しそうだった。
「ただ、何がおかしかったのかは聞いても?」
「昨日、セドリックお兄様が……叔父様なら、もっと親しい呼び方はないのかって対抗するって」
「セドリック」
「だから黙っていたんです」
「お前は父親を何だと思っている」
「妹に甘い父親です」
「姪だ」
「そのうち娘にしたい顔をしているじゃないですか」
その言葉に、アルフォンスの表情が僅かに止まった。
エレノアも笑みを消す。
娘。
その言葉は今の自分にはまだ大きすぎて、どう受け止めればいいのか分からない。
セドリックもすぐに気づいたらしく、表情を改めた。
「ごめん、エレノア。今のは僕が軽く言いすぎた」
「……いえ」
アルフォンスは少し考えてから、エレノアへ向き直った。
「今、何かを決めろという意味ではない」
「はい」
「今日は今日のことだけ考えればいい。昨日お前が言ったように、明日のことは明日決めてもいいんだからな」
その言葉に、エレノアはゆっくり頷いた。
「分かりました」
自分をここへ置いてくれることと、すぐに新しい家族の形を決めることは別なのだ。
そう分かると、胸の中に生まれかけた重さが少し薄れた。
やがて朝食が運ばれてくる。
焼きたてのパンと柔らかな卵料理、温かいスープ、果物。それほど豪華すぎる内容ではないが、湯気と香りが空腹を刺激した。
エレノアは目の前に置かれた皿を見る。
食べていい。
そう分かっている。
けれど、手がすぐには動かなかった。
昨日口にした言葉が蘇る。
『ご飯をもらえない日があっても……』
自分でも、どれほどあったのか分からない。
食堂へ遅れたから。
失敗したから。
何かをこぼしたから。
ヴァレリアの機嫌を損ねたから。
本当にそうだったのか。
誰が決めていたのか。
記憶が混ざっている。
「エレノア?」
マルグリットの声で顔を上げた。
「食欲がない?」
「……分かりません」
以前なら即座に「大丈夫です」と答えていただろう。
「お腹は空いていると思います。でも……」
パンへ視線を戻す。
「食べていいのかなって、少し思ってしまって」
食卓から音が消えた。
アルフォンスの表情が硬くなりかける。しかし昨日と同じように、怒りをエレノアへ向けないよう一度ゆっくり息を吐いた。
マルグリットも、無理に笑顔を作らなかった。
「食べたい?」
「……はい」
「なら、食べましょう」
「全部食べないと駄目ですか?」
「残してもいいわ」
「途中でお腹いっぱいになっても?」
「もちろん」
「もっと欲しかったら?」
「おかわりもあるぞ」
オーギュストが答えた。
「パンなら厨房にまだ山ほどある。お前一人で食べ尽くしたら、むしろ料理長が喜ぶかもしれん」
「それはさすがに無理です」
「では心配ないな」
あまりにも当然のように言われて、エレノアはパンへ手を伸ばした。
小さくちぎり、口へ運ぶ。
温かい。
表面は少し香ばしく、中は柔らかかった。
「……おいしいです」
「そうか」
オーギュストが満足そうに頷く。
誰も食べる速度を急かさない。
誰も皿を見て眉をひそめない。
少しずつ食べているうちに、身体が空腹を思い出したようだった。スープを飲み、卵料理を口へ運び、もう一度パンを取る。
二個目へ手を伸ばしたとき、一瞬だけ躊躇した。
昨夜の焼き菓子と同じだ。
(食べたい)
だから取る。
誰も怒らなかった。
◇ ◇ ◇
朝食が半分ほど進んだころ、食堂の扉が開いた。
執事がアルフォンスのそばまで歩み寄り、小声で何かを伝える。
「届いたか」
「はい。先ほどベルナール伯爵家より使者が参りました」
エレノアの手が止まった。
アルフォンスはそれに気づく。
「エレノア」
「はい」
「伯爵家から連絡が来たそうだ」
父。
その一言だけで胸がざわつく。
「……何て?」
「まだ俺も聞いていない」
アルフォンスは執事を見る。
「ここで聞いて構わない内容か?」
「伯爵閣下からの書状でございます。至急とのことですが、内容は公爵閣下宛てですので、私どもは存じません」
アルフォンスは少し考える。
「エレノア。俺はこれから書状を確認する。お前も内容を知りたいか?」
尋ねられ、エレノアは迷った。
怖い。
父が何を書いたのか知るのが怖い。
帰せ。
娘を返せ。
勝手な真似をするな。
そんな言葉が書かれているかもしれない。
けれど昨日、自分は「全部を大人に任せず、聞けるところは聞きたい」と言った。
(でも、昨日言ったからって、今日も同じことをしなきゃいけないわけじゃない)
自分へそう言い聞かせる。
知りたいのか。
今、知る準備があるのか。
「……内容によります」
「そうだな」
「叔父様が先に読んで、私が読んでも大丈夫そうなら……教えてもらえますか?」
「ああ」
「でも、今すぐ知らない方がいいと思ったら、朝食が終わってからにしたいです」
「分かった」
アルフォンスは書状を受け取ったものの、その場では開かなかった。
エレノアが目を瞬く。
「読まないんですか?」
「お前が朝食を終えてからにしたいと言っただろう」
「でも、叔父様は読んでも」
「至急とは書いてあるが、食事を数分中断しなければ帝国が滅びるような話ではないだろう」
オーギュストが鼻を鳴らす。
「もし滅びるなら、ロベルトの書状一枚でどうにかできる問題ではない」
「父上」
「何だ。事実だ」
緊張していたはずなのに、エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
書状は机の端に置かれた。
自分の朝食より先に処理しなければならないものではない。
その事実が、思った以上に嬉しかった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアはマルグリットとともに小さな居間へ移った。
アルフォンスとセドリックは隣の執務室でベルナール家からの書状を確認している。オーギュストもついて行こうとしたが、今度はマルグリットから「朝から怒鳴るなら置いていきます」と釘を刺され、渋々声量を抑える約束をして同行していた。
エレノアは窓辺の椅子へ腰を下ろす。
髪には昨日選んだ青いリボンがある。
指先で触れると、少し落ち着いた。
「気になるわね」
「はい」
「見に行く?」
「……まだ、ここにいます」
「分かったわ」
マルグリットは向かいに座り、刺繍道具を手に取った。エレノアへ何かを話すよう求めることもなく、淡い布地へ針を通し始める。
沈黙が続く。
けれど苦しくない。
ベルナール家での沈黙は、誰かが怒っているのではないかと不安になることが多かった。食器の置かれる音、足音、扉の開閉、それだけで相手の機嫌を考えた。
ここでは祖母が黙っていても、ただ刺繍をしているだけだった。
(静かなだけなんだ)
そんなことさえ、新しい発見だった。
しばらくして扉が叩かれる。
「入るよ」
セドリックだった。
「はい」
彼は室内へ入り、エレノアの表情を確かめるように少し離れたところで立ち止まった。
「父上が、話してもいいか聞いてほしいって」
「手紙のことですか?」
「うん」
胸が少し速くなる。
「……怖いことが書いてありましたか?」
「僕がそう判断して答えていい?」
セドリックの問いに、エレノアは考えた。
「はい」
「僕は、怖い内容だとは思わなかった。ただ、エレノアに関係する話だから、本人に何も知らせず進めたくないって父上が言ってる」
「お父様は……怒っていますか?」
「手紙だけでは分からない」
正直な答えだった。
「少なくとも、今すぐエレノアを返せとは書いていないよ」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアは大きく息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、そのとき初めて気づいた。
「聞きます」
「分かった」
マルグリットも立ち上がり、三人で執務室へ向かった。
◇ ◇ ◇
アルフォンスの執務室へ入ると、机の上には開封された二通の書状が置かれていた。
一通はベルナール伯爵家から。
もう一通には見覚えのない印章がある。
「エレノア」
アルフォンスが椅子から立つ。
「朝食は食べられたか?」
「はい」
「ならよかった」
いきなり書状の話へ入らないことに、エレノアは少し安心した。
「伯爵からの手紙について、どこまで聞いた?」
「今すぐ帰れとは書いていないって」
「そうだ」
アルフォンスは書状へ視線を落とす。
「昨夜こちらから確認を頼んだ件について、今朝から屋敷の記録を調べると書かれている」
「お父様が?」
「ああ。エレノアの食事、医師の診察歴、使用人の配置変更などだ」
マーサ。
その名前が頭に浮かぶ。
エレノアの表情が強張ったのを見て、アルフォンスが言葉を止めた。
「何か気になることがあるか?」
「……マーサは」
「昨日話した、以前お前付きだった侍女だな」
「はい」
「伯爵には、彼女の配置転換についても確認するよう伝えた」
胸がざわつく。
マーサが自分の手紙を運ぶ手助けをしてくれたことは、父に知られていない。叔父も運び手を明かさなかった。
「マーサが怒られませんか?」
「秘密の手紙を運んだことは伝えていない」
エレノアはほっとする。
「伯爵には、配置転換の理由を確認するよう求めただけだ。本人への聞き取りをする場合も、こちらへ知らせるよう返事をするつもりでいる」
「どうしてですか?」
「誰かが何かを隠していると決めつけているわけではないが、話を聞く前に証言を合わせられては困るからだ」
アルフォンスはそこで少し表情を和らげた。
「難しい話だったか?」
「少し。でも、分かります」
誰が自分を傷つけたのか。
なぜ食事を与えられないことがあったのか。
マーサがなぜ離されたのか。
まだ何も分かっていない。
「それと、伯爵は今日の午前中にエレノアと二人で話したいと希望している」
身体が強張った。
アルフォンスはすぐに続ける。
「断っていい」
エレノアは顔を上げる。
「会わなくても?」
「ああ。昨日も言っただろう。父親だからといって、今のお前が怖いと感じる相手と二人きりにならなければならない理由にはならない」
「でも、お父様が話したいって」
「伯爵が話したいことと、お前が会いたいかどうかは別の話だ」
昨日から何度も聞いている考え方だった。
相手が望むこと。
自分が望むこと。
その二つは、同じでなくてもいい。
「……今は、二人きりは嫌です」
「分かった」
あまりにも簡単に受け入れられ、エレノアは続ける。
「でも、もう二度と話したくないって意味じゃなくて」
「分かっている」
「今日は嫌なんです」
「それで十分だ」
アルフォンスは紙を一枚取り、簡単にメモを残した。
「伯爵には、本人が今日は一対一での面会を望んでいないと伝える」
「怒りませんか?」
「怒るかもしれない」
エレノアの指が僅かに動く。
「でも、それは伯爵がどう感じるかの話だ。エレノアが嫌だと答えてはいけない理由にはならない」
「……はい」
まだ怖い。
けれど、昨日より少しだけ理解できる。
父が怒るかもしれない。
だからといって、自分が必ず従わなければならないわけではない。
「もう一通は何ですか?」
エレノアは机の上の別の書状を見る。
アルフォンスの表情が僅かに変わった。
「皇室側からだ」
心臓が大きく跳ねた。
第二王子。
レオナード。
処刑台でミレーヌを抱いていた姿が、一瞬だけ脳裏へ蘇る。
エレノアの指先が冷たくなる。
セドリックがそれに気づいた。
「座る?」
「……はい」
近くの椅子へ腰を下ろす。
アルフォンスは急がなかった。
「昨夜話した通り、今朝こちらから皇室の窓口へ、婚約交渉の現状を確認した。これはその返答だ」
「第二王子殿下から?」
「いや。皇室の婚姻に関する事務を扱う部署からの正式な返答だ。第二王子殿下本人が書いたものではない」
それだけで、少し息がしやすくなる。
「内容は?」
「現時点では、正式な婚約は成立していない」
エレノアは息を止めた。
「本当に?」
「ああ」
アルフォンスは明確に頷く。
「ベルナール伯爵家から受諾の意向は届いている。ただし、皇室側で必要な確認と手続きが残っており、正式な婚約として公示された段階ではない」
エレノアは膝の上で両手を握った。
分かっていた。
叔父たちの調査でも、まだ正式ではないと確認されていた。
それでも、皇室側から正式な返答として聞くと意味が違った。
(まだ、婚約者じゃない)
レオナードの婚約者ではない。
三年後へ続いたあの道は、まだ始まっていない。
「それから、こちらが伝えた事情を受けて、手続きは一旦保留される」
「……止まったんですか?」
「少なくとも、今すぐ正式成立へ進むことはない」
「断れますか?」
アルフォンスはそこで、簡単に希望だけを与える答えをしなかった。
「最終的にどう処理されるかは、これからだ。伯爵家が一度受諾の意向を示している以上、何の説明もなく終わらせられる話ではない。皇室側の面子もあるし、第二王子殿下側がどう反応するかも分からない」
エレノアの胸が再び緊張する。
「でも」
アルフォンスが続ける。
「お前が嫌だと言ったのに、明日突然正式な婚約者になることはない。少なくとも、話をする時間はできた」
「時間……」
「ああ」
エレノアはゆっくり息を吐いた。
時間。
処刑台へ向かう馬車の中では、もう何も選ぶ時間など残っていなかった。
今は違う。
十五歳。
婚約はまだ成立していない。
叔父たちがいる。
祖父母がいる。
セドリックがいる。
そして何より、自分自身が嫌だと言えている。
「叔父様」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「俺は確認しただけだ」
「でも、私一人だったらできませんでした」
アルフォンスは少し黙った。
「なら、助けを求めてくれてよかった」
エレノアの胸が熱くなる。
「……はい」
「それと、もう一つ」
アルフォンスが言う。
「今後、第二王子殿下本人、あるいはその周辺から接触がある可能性はある」
身体が僅かに固まる。
「会わないといけませんか?」
「今の段階で、二人きりで会う必要はない。正式な話が必要になれば、俺か別の適切な立会人をつける」
「断ったら?」
「会うこと自体を?」
「はい」
「状況によるが、少なくとも勝手に二人きりにさせるつもりはない」
エレノアは頷いた。
今はそれで十分だった。
未来を全部決める必要はない。
今日のことを決めればいい。
「今日は、お父様とは二人きりで会いません」
「ああ」
「第二王子殿下とも、会いたくありません」
「分かった」
「それから……」
言葉を探す。
「今日も、ここにいたいです」
室内が静かになった。
昨日は「今夜は帰らない」だった。
今日は自分から言った。
「今日も、ロシュフォール家にいたいです」
アルフォンスの表情が僅かに緩む。
「分かった」
それだけ。
大げさに喜ばない。
抱きしめようともしない。
すぐに今後すべてを決めようともしない。
エレノアはその反応に安心した。
「明日のことは?」
セドリックが少し笑いながら尋ねる。
エレノアも彼を見る。
「明日、決めます」
「うん。それがいい」
◇ ◇ ◇
その日の昼前、ベルナール伯爵家では、ロベルトが執務室の机いっぱいに広げられた記録を見つめていた。
朝食の記録。
厨房の支出。
使用人の配置表。
医師を呼んだ履歴。
どれも、それまで彼が細かく確認することなどほとんどなかったものだ。
「これだけか?」
向かいに立つ家令へ尋ねる。
「現在すぐに確認できるものは、こちらでございます」
「エレノアの食事について、個別の記録はないのか」
「個々のお食事まで毎回記録することはございませんので……」
「なら、誰が把握している」
「厨房の者、あるいは奥様の指示を受けていた侍女でしょうか」
ヴァレリア。
昨夜アルフォンスから指摘されたことが蘇る。
エレノアは、誰が食事を与えなかったのか言っていない。
自分はなぜ真っ先に妻の名前を思い浮かべたのか。
(いや、違う)
家の中のことを主に取り仕切っていたのがヴァレリアだからだ。
それだけだ。
そう考えながらも、ロベルトは次の書類へ手を伸ばす。
「マーサの配置転換記録は」
「こちらに」
差し出された紙には、数年前の日付があった。
エレノア付き侍女から、リネン管理へ。
理由の欄には簡潔な文言しかない。
『主人への過度な干渉、職務範囲を越えた進言のため』
「これを承認したのは」
「伯爵閣下でございます」
自分の署名がある。
間違いない。
だが、その日のことをほとんど覚えていなかった。
ヴァレリアから相談を受けた。
問題のある侍女だと。
エレノアを甘やかし、教育へ口を出していると。
それで署名した。
本人には聞かなかった。
マーサにも。
エレノアにも。
『お父様から、私に聞きましたか?』
昨夜の娘の声が蘇る。
ロベルトは書類から目を逸らした。
「……マーサを呼べ」
家令が頭を下げかける。
「待て」
アルフォンスから言われた言葉も思い出した。
確認するなら知らせろ。
証言を合わせられる状況は避けたい。
ロベルトは苛立ちを覚えた。
自分の家だ。
自分の使用人だ。
それなのに、なぜいちいちロシュフォール公爵家へ配慮しなければならない。
だが昨夜、エレノアの震える声を聞いた。
『ご飯をもらえない日があっても……』
もし。
本当に自分の知らないところで何かが起きていたのなら。
「……先に公爵家へ連絡しろ」
「かしこまりました」
「マーサには、まだ何も言うな」
「はい」
家令が退室する。
ロベルトは一人になった。
机の上には、これまで見ようともしなかった記録が積まれている。
娘は同じ屋敷にいた。
十五年間。
その娘の腕に痣があることさえ、自分は知らなかった。
(俺は、本当に何も知らなかったのか)
その問いに答えようとして。
ロベルトは初めて、知らなかったことと、知ろうとしなかったことは同じなのかもしれないと考えた。
答えは、まだ出なかった。
◇ ◇ ◇
同じころ、ロシュフォール公爵邸では、エレノアが昨日とは違う場所を歩いていた。
東の庭ではない。
屋敷の南側にある、小さな温室へ続く廊下だった。
隣にはセドリックがいる。
「疲れたら戻ろう」
「はい」
「それから、ここは床が少し滑りやすいところがあるから気をつけて」
「分かりました」
「あと――」
「セドリックお兄様」
「何?」
「心配しすぎです」
口にしてから、エレノアは自分で驚いた。
こんなふうに誰かへ軽く言い返したのは、いつ以来だろう。
セドリックも一瞬目を丸くしたあと、困ったように笑った。
「そうかもしれない」
「昨日から、ずっと私の歩くところを見ています」
「気づいてた?」
「気づきます」
「じゃあ少し減らすよ」
「少しなんですね」
「全部は無理」
エレノアは小さく笑った。
窓から差し込む昼前の光が、青いリボンを照らす。
今日も問題はたくさん残っている。
父とのこと。
ベルナール家のこと。
身体の傷。
食事の記憶。
マーサのこと。
そして、止まっただけで終わったわけではない第二王子との婚約話。
けれど、今すぐ全部を解決しなくてもいい。
エレノアは温室へ続く扉の前で一度立ち止まり、ガラス越しに見える緑へ目を向けた。
「セドリックお兄様」
「うん?」
「明日は、何を決めることになるんでしょう」
「分からない」
セドリックは素直に答えた。
「でも、明日になってから考えればいいんじゃないかな」
「……そうですね」
エレノアは扉へ手を伸ばした。
昨日は、帰らないと決めた。
今日は、ここにいたいと決めた。
明日の自分が何を望むのかは、まだ分からない。
それでいい。
開いた扉の向こうから、温室の暖かな空気と花の香りが流れてくる。エレノアは一度だけ深く息を吸うと、自分で選んだ青いリボンを揺らしながら、その中へ足を踏み入れた。
そのころにはもう、彼女の知らない場所で二つの動きが始まっていた。
一つは、ベルナール伯爵家に残された記録を辿り、これまで見過ごされてきた日々を確かめようとする動き。
もう一つは、成立しかけていた第二王子との婚約交渉を、本人の意思を確認するまで先へ進めないための動きだった。
どちらも、まだ答えには辿り着いていない。
けれど少なくとも、エレノアが何も知らされないまま、誰かの決めた道だけを歩かされる時間は終わり始めていた。




