第13話 見落とされていたもの
温室の扉をくぐった途端、エレノアの頬を柔らかな暖気が撫でた。外の空気にはまだ春先の冷たさが残っていたが、ガラス張りの室内には陽光が満ち、湿った土と花の甘い香りがゆっくりと混ざり合っている。
左右には背丈の低い花壇が並び、その奥には大きな鉢植えの木々が置かれていた。赤や黄色、白、淡い紫と様々な花が咲いているものの、整えられすぎているわけではなく、葉の間から小さな蕾が覗いている様子まで自然に残されている。
「……暖かい」
エレノアが呟くと、隣を歩いていたセドリックが頷いた。
「祖母上が寒い季節でも花を見たいって言って、少しずつ増やしていったんだ。今では庭師の方が夢中になってるけどね」
「お祖母様が?」
「母上が亡くなってから、特にここへ来ることが増えたかな」
母上という言葉に、エレノアは一瞬だけ迷った。
セドリックの母――すでに亡くなっている叔母のことだ。
「セドリックお兄様のお母様も、お花が好きだったんですか?」
「好きだったよ。育てるのはあまり上手じゃなかったけど」
セドリックは懐かしそうに温室の奥を見る。
「水をやりすぎたり、逆に忘れたりしてね。庭師から『奥様は愛情だけお与えください』って遠回しに世話を止められてた」
「そんなことを言われたんですか?」
「本人は『私には花を育てる才能がないみたい』って笑ってたよ。父上だけは最後まで、『そんなことはない、花の方が根性不足なんだ』って言ってたけど」
あまりにも理不尽な言い分で、エレノアは思わず笑ってしまった。
「花のせいなんですか?」
「父上の中ではね」
「叔父様って、意外と……」
続きを言っていいものか迷い、エレノアは口を閉じた。セドリックはそんな彼女を見て、少し楽しそうに首を傾げる。
「意外と?」
「……子供っぽいところがあるんですね」
「あるよ。かなり」
「本人の前では言わない方がいいでしょうか」
「僕はいつも言ってる」
「それはセドリックお兄様だからでは?」
「エレノアが言ったら、たぶん喜ぶと思う」
「どうしてですか?」
「それだけ遠慮せず話してくれたってことだから」
エレノアは返事をせず、近くに咲いていた白い花へ視線を落とした。
遠慮しない。
それがどんな状態なのか、まだよく分からない。
相手を怒らせないように言葉を選び、迷惑をかけないように振る舞い、求められるより先に自分から譲る。そうしていれば大きな失敗をしないで済むと、いつの間にか思うようになっていた。
(でも、セドリックお兄様には、心配しすぎって言えた)
言ったあとも何も起こらなかった。
怒られなかったし、嫌な顔もされなかった。むしろセドリックは自分が心配しすぎていたことを認め、少し減らすと答えてくれた。
そんな小さな経験が、一つずつ胸の中へ積み重なっている。
「エレノア?」
「あ……ごめんなさい」
「考え事?」
「はい。少しだけ」
セドリックは続きを尋ねなかった。
そのことにも、エレノアは少しずつ慣れ始めている。
二人は温室の奥へ進み、中央に置かれた丸い卓のそばまでやってきた。周囲には四脚の椅子があり、その一つへ腰を下ろすと、ガラス越しの日差しが肩のあたりを温めた。
「ここ、好きかもしれません」
何気なく口にしたあと、エレノアは自分の言葉に目を瞬いた。
セドリックは何も大げさな反応をせず、向かいの椅子へ座る。
「そっか」
「……それだけですか?」
「何が?」
「好きかもしれないって言ったから」
「うん」
「どうして好きなのか、聞かないんですか?」
セドリックは少し考えてから、温室を見回した。
「理由があるなら聞いてみたいけど、なくてもいいんじゃない?」
昨日、クロノアと話したことを思い出す。
好きなものに、必ず理由が必要なわけではない。
「暖かいからかもしれません」
「うん」
「お花があるからかも」
「うん」
「静かだからかもしれないし……よく分かりません」
「じゃあ、今は『なんとなく好き』でいいんじゃないかな」
エレノアは小さく頷いた。
「……はい」
自分の好きな場所が、一つ増えた。
まだ「一番好き」と決める必要はない。ただ、今日この場所へ来て、ここにいたいと思った。その感覚を、自分のものとして持っていてもいいのだろう。
しばらく花を眺めていると、温室の外を一人の使用人が足早に通っていく姿が見えた。ロシュフォール家の使用人らしいが、手には封書を載せた盆を持っている。
エレノアの視線が無意識に追いかけた。
「気になる?」
セドリックが尋ねる。
「……ベルナール家からでしょうか」
「分からない。ここには一日中いろんな書状が届くから」
「そうですよね」
分かっていても、胸の奥が落ち着かない。
父は屋敷の記録を調べ始めている。
マーサのことも。
「セドリックお兄様」
「うん?」
「マーサ、大丈夫でしょうか」
セドリックの表情が少し真剣になる。
「手紙を運ぶのを手伝ってくれたことが知られるのが怖い?」
「はい。それに……お父様がマーサへ話を聞くかもしれません」
「その可能性はあるね」
「私が頼んだから」
言葉にすると、胃の辺りが重くなった。
「もしマーサが怒られたら、私のせいです」
セドリックはすぐに否定しなかった。
代わりに、少し考えてから口を開く。
「エレノアが手紙を頼んだことが、きっかけの一つではあると思う」
「……はい」
「でも、マーサさんは自分で手伝うと決めたんだよね?」
「そうです」
「危険かもしれないことも分かったうえで?」
「はい。安全に届けられないなら、手紙を戻すって言ってくれました」
「なら、彼女にも選んだ部分がある」
エレノアは膝の上の手を見る。
「それでも、何かあったら嫌です」
「それはそうだね」
「守れますか?」
思わず尋ねていた。
セドリックは簡単に「守れる」とは言わなかった。
「絶対に何も起こらないとは約束できない。でも父上は、伯爵がマーサさんへ聞き取りをするなら、こちらにも知らせるよう求めてる。それに、秘密の手紙を運んだ人が誰なのかは明かしてない」
「……はい」
「心配なら、父上にもう一度伝えようか?」
エレノアは少し考えた。
誰かに任せるのではなく、自分がどうしたいのか。
「私から言いたいです」
「分かった。じゃあ、戻ったら一緒に行こう」
「一緒に?」
「一人で行きたい?」
「……一緒がいいです」
「じゃあ一緒に」
それだけで話は決まった。
エレノアは温室の天井を見上げる。ガラスの向こうには薄い雲が流れ、その隙間から差し込んだ光が葉の表面をきらきらと照らしていた。
自分で決めるということは、一人で何もかもしなければならないことではないらしい。
そのことも、少しずつ分かってきた。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、ロベルトが家令から新たに運び込まれた帳簿を受け取っていた。
執務机の上には朝から確認している書類が積み重なり、普段なら使用人へ任せている細かな記録まで広げられている。窓から入る昼前の光は明るかったが、部屋の空気は朝よりも重くなっていた。
「これは?」
「厨房の食材管理記録でございます」
「エレノア個人の食事は分からないと言っただろう」
「はい。ただ、奥様付きの侍女から厨房へ出された指示が、一部残っておりました」
ロベルトの手が止まる。
「ヴァレリアの?」
「正確には、奥様付き侍女の署名でございます」
家令が数枚の紙を差し出した。
そこに記されているのは、食事の量や時間、客人の予定など、屋敷を運営するうえでは珍しくない指示ばかりだった。ロベルトは一枚ずつ目を通していたが、途中である記述に視線を止める。
『東側二階への夕食配膳不要』
日付を見る。
数年前。
「東側二階とは」
「当時のエレノアお嬢様のお部屋がございました区画かと」
「配膳不要……?」
ロベルトは次の紙を見る。
別の日にも、似た記録があった。
『昼食不要』
『夕食は厨房残りを使用』
『菓子不要』
毎日ではない。
連続しているわけでもない。
それだけを見れば、体調不良や外出、本人の希望という可能性もある。
「理由は書いていないのか」
「ございません」
「エレノアが外出していた日は?」
「現在、照合しております」
「病気だった可能性は」
「医師の記録とも照らし合わせます」
ロベルトは紙を置いた。
断定できない。
これだけでは何も決まらない。
それなのに、昨夜の娘の声が耳に残る。
『ご飯をもらえない日があっても……』
「これを出した侍女は誰だ」
家令が署名を確認する。
「当時の奥様付き侍女、ベアトリスでございます。現在も勤務しております」
「呼べ」
口にした直後、ロベルトは眉を寄せた。
マーサへの聞き取りについては、先にロシュフォール家へ知らせることにした。だが、すべての使用人について逐一許可を求める必要があるのか。
自分の家の調査だ。
「……いや、待て」
「はい」
「まず、当時の勤務記録と指示書を全部集めろ。ベアトリス本人には、まだ何も聞くな」
家令が僅かに目を見開いた。
「承知いたしました」
「それから、ヴァレリアにも今はこの記録のことを言うな」
「奥様にも、でございますか?」
「ああ」
答えてから、ロベルト自身が不快そうに顔を歪めた。
妻を疑っているわけではない。
そう思いたい。
だが、もし何も問題がなかったのなら、記録を確認してから話しても遅くない。
「誰かを犯人にしたいわけじゃない」
誰へ言うでもなく呟く。
「何があったのか知りたいだけだ」
家令は返事をしなかった。
ロベルトは次の書類へ手を伸ばす。
今度は医師の往診記録だった。
エレノアの名は、驚くほど少ない。
「これだけか?」
「現時点で確認できたものは」
「十五年間で?」
「幼少期には何度かございます。アデライン様がご存命だったころには、発熱や風邪、転倒などで診察を受けた記録がございますが……」
「その後は?」
家令が別の頁を開く。
「奥様がお亡くなりになったあとは、かなり少なくなっております」
ロベルトは眉を寄せた。
「健康だったということではないのか」
「その可能性もございます」
「なら、おかしくはない」
「はい」
家令は否定しない。
だが、ロベルトの胸には何かが残った。
昨日医師が確認したという、新旧の痣や古い傷。
もしそれらが本当に何度も生じていたのなら、一度も医師が呼ばれなかったのか。
(本人が隠していたなら……)
そう考えたところで、昨夜と同じところへ戻ってしまう。
なぜ隠していたのか。
そして自分は、なぜ気づかなかったのか。
「エレノアの部屋付き侍女は、マーサのあと何人替わった」
「確認いたします」
「それも一覧にしろ。期間と、配置転換の理由もだ」
「承知いたしました」
家令が書類を抱えて退出しようとしたとき、扉の外から声がかかった。
「あなた、入ってもいいかしら」
ヴァレリアだった。
ロベルトの手が止まる。
「……ああ」
扉が開き、淡い藤色の昼用ドレスをまとったヴァレリアが入ってくる。いつも通り髪も衣服も整えられていたが、その表情には昨夜から消えない心配が浮かんでいた。
「朝からずっとここにいると聞いたわ。少し休んだ方がいいんじゃない?」
「調べるものがある」
「エレノアのこと?」
ロベルトは机の上の書類へ一瞬視線を落とした。
「ああ」
ヴァレリアは向かい側へ座らず、机から少し離れた場所に立った。
「昨日のことなら、私もまだ信じられないわ。あの子が帰らないなんて……それに、身体に傷があるなんて」
「お前は知らなかったのか」
ロベルトが尋ねる。
ヴァレリアの表情が止まった。
「傷のこと?」
「ああ」
「知らないわ」
「本当に?」
問いかけた瞬間、ヴァレリアの顔に傷ついたような色が浮かんだ。
「私を疑っているの?」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味?」
ロベルトはすぐに答えられなかった。
アルフォンスから言われた。
エレノアは加害者の名前を言っていない。
誰が傷つけたのかは、まだ分からない。
「確認しているだけだ」
「私にも?」
「家にいた全員についてだ」
ヴァレリアはしばらく夫を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「そう。なら、私も協力するわ」
あまりにも自然な返答だった。
「エレノアのためになるなら、何でも聞いて。私が覚えていることなら答えるから」
「ああ」
「でも……」
ヴァレリアはそこで視線を落とした。
「あの子、昨日から少し様子がおかしかったでしょう?」
「何が言いたい」
「ロシュフォール家へ行く前からよ。第二王子殿下とのお話を急に拒んで、以前とはまるで違うことを言うようになった」
「それは俺も思っていた」
「何か理由があるんじゃないかしら」
「あるだろうな」
ロベルトが答えると、ヴァレリアの目が僅かに細くなる。
「ロシュフォール家から、以前に何か言われていた可能性は?」
「何を?」
「分からないわ。ただ、急にあちらへ助けを求めたのなら――」
「手紙のことは知っているのか」
ロベルトの問いに、ヴァレリアが止まった。
「……手紙?」
「知らないのか」
「何の話?」
ロベルトは数秒、妻の顔を見る。
昨夜アルフォンスが秘密の手紙について話したことを思い出す。
誰が運んだかは教えなかった。
「いや、いい」
「待って。エレノアがロシュフォール家へ手紙を出したの?」
「今は俺が確認している」
「でも、あの子の手紙は――」
ヴァレリアが言葉を止めた。
ロベルトの視線が鋭くなる。
「手紙は?」
「あなたが確認することになっていたでしょう?」
ほんの僅かな間だった。
それでもロベルトは、その間を意識した。
「そうだ」
「なら、どうやって?」
「それを調べる必要はない」
「使用人が規則を破ったなら問題でしょう」
「今はエレノアに何があったのかを調べる方が先だ」
ヴァレリアは夫を見つめる。
やがて、穏やかな表情を作った。
「……そうね。あなたの言う通りだわ」
それ以上追及しなかった。
しかし部屋を出る直前、ヴァレリアの視線が机の上に積まれた古い使用人配置表へ一度だけ落ちたことを、ロベルトは見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸へベルナール家から二通目の連絡が届いたのは、昼食を少し過ぎたころだった。
エレノアはセドリックとともにアルフォンスの執務室を訪れ、温室で考えたことを伝えようとしていた。扉の前まで来たところで、ちょうど執事が書状を持って出てきたため、二人は顔を見合わせる。
「ベルナール家から?」
セドリックが尋ねると、執事は頷いた。
「はい。マーサという使用人への聞き取りについて、伯爵閣下から事前の連絡でございます」
エレノアの顔が強張った。
「もう、聞くんですか?」
「まだでございます。公爵閣下へ知らせたうえで行うとのことです」
少しだけ安心する。
「父上に会おう」
「はい」
執事が改めて取り次ぎ、二人は執務室へ入った。
アルフォンスは書状を読み終えたところだった。
「ちょうどよかった。エレノアにも確認したいことがある」
「マーサのことですか?」
「ああ」
エレノアは叔父の机の前まで進む。
「私も、そのことで話したくて来ました」
「そうか」
「マーサを、守ってほしいです」
アルフォンスは黙って続きを待った。
「私が手紙を頼みました。マーサは危ないかもしれないのに助けてくれました。でも、お父様は手紙を運んだのがマーサだって知らないんですよね?」
「ああ。俺からは伝えていない」
「なら、できれば知られたくありません」
「分かった」
「それから……」
エレノアは一度言葉を止める。
「マーサが前に私の侍女を外されたときのことを、お父様が聞くんですよね」
「その予定らしい」
「一人で聞かれるんですか?」
「今のところは、そこまで決まっていない」
エレノアは胸の前で手を重ねた。
「私、嫌です」
以前なら「心配です」とだけ言っていたかもしれない。
けれど今は、もう少しはっきり言ってみる。
「お父様が一人でマーサに聞くのは嫌です。マーサが本当のことを言えなくなるかもしれないから」
「伯爵が怖いと思う?」
「分かりません。でも……」
マーサが自分へ話してくれたことを思い出す。
エレノアの食事や身体を心配し、何度も尋ねた。
その後、侍女の役目から外された。
「マーサは、私のことを心配してくれていました。それで、ヴァレリアお義母様が関わって、最後にはお父様が配置を変えたって言っていました」
「覚えている」
「もし同じ家の中で、お父様やお義母様がいるところで聞かれたら……話しにくいかもしれません」
アルフォンスはしばらく考える。
「分かった。伯爵へ提案してみよう」
「何をですか?」
「聞き取りをするなら、ベルナール家だけで完結させない。第三者を立ち会わせる」
「第三者?」
「こちらの人間でもいいし、双方が認められる者でもいい。ただ、最初から誰かを罪人扱いするための尋問にはしない」
エレノアは頷く。
「マーサが嫌だって言ったら?」
「それも確認する。本人の意思を無視して連れ出すようなことはしない」
「……お願いします」
「それから、エレノア」
「はい」
「お前が同席する必要もない」
思っていなかった言葉だった。
「私がいなくても?」
「ああ」
「でも、私のことなのに」
「お前にしか分からないことを尋ねる必要が出るかもしれない。だが、すべての確認にお前自身が立ち会う必要はない」
アルフォンスは机の上の書状を指先で整えた。
「傷ついた本人が、証明するために何度も同じ話をし続けなければならない形にはしたくない」
エレノアは黙った。
処刑される前。
何度も聞かれた。
なぜ毒を用意したのか。
誰に頼んだのか。
どうしてミレーヌを憎んだのか。
していないと答えても、問いは形を変えて繰り返された。否定するほど「言い逃れをしている」と言われ、泣けば「罪を認めたのか」と言われ、最後には何を話しても同じなのだと思うようになった。
指先が冷たくなる。
「エレノア?」
セドリックの声で、今の部屋へ意識が戻った。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。少し休む?」
エレノアは一度目を閉じた。
ここは牢ではない。
目の前にいるのは尋問官でもない。
「大丈夫……」
口にしかけて止める。
「少しだけ、嫌なことを思い出しました」
言い直すと、アルフォンスの表情が僅かに変わった。
「話したいか?」
「今は、話したくないです」
「分かった」
それ以上聞かれない。
エレノアはゆっくり呼吸を整えた。
「でも、ここにいてもいいですか?」
「もちろんだ」
セドリックが近くの椅子を引く。
「座る?」
「はい」
エレノアは腰を下ろした。
逃げなくてもいい。
話さなくてもいい。
そのままここにいてもいい。
しばらくして呼吸が落ち着いてくると、アルフォンスがベルナール家への返書を書き始めた。マーサへの聞き取りは第三者立ち会いのもとで行いたいこと、本人へ不利益が生じないよう求めること、秘密の手紙の運搬経路については今回の聞き取りと切り離すことが記されていく。
「叔父様」
「何だ?」
「私の名前も書くんですか?」
「お前が希望したこととして書いてほしい?」
また選ばせてくれる。
エレノアは少し考えた。
「……書いてください」
「いいのか?」
「はい。マーサを心配しているって、私が言ったことにしてほしいです」
「分かった」
アルフォンスは文面へ一行を書き加えた。
エレノアはその様子を見つめる。
以前の自分なら、父へ何かを求めるだけでも怖かった。
今も怖い。
それでも、自分の希望が書面の中へ残っていく。
誰かに都合よく言い換えられず。
自分の言葉として。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
ベルナール伯爵家の使用人棟で、マーサはいつものように洗い上がったリネンの確認をしていた。
窓から入る光の下で、一枚ずつ布の状態を確かめ、ほつれがあれば修繕へ回す。表面上はいつもと変わらない仕事だったが、朝から屋敷の空気がどこか落ち着かないことには気づいていた。
伯爵が古い記録を集めさせている。
厨房の者まで呼ばれ、過去の帳簿を探している。
そして、エレノアは昨夜戻らなかった。
(お嬢様……)
秘密の手紙が届いたことは分かっている。
ロシュフォール家から訪問があり、その後に正式な招待状まで届いたのだから、少なくとも助けを求める声は届いたのだ。
けれど、その先で何があったのかは知らない。
扉が開き、年若い使用人が顔を覗かせた。
「マーサさん」
「どうしたの?」
「家令様がお呼びです」
マーサの手が止まった。
「……私を?」
「はい。でも、今すぐではなくていいそうです。手が空いたら家令室へ、と」
「分かったわ」
若い使用人が去ったあと、マーサは手にしていた布をゆっくり畳んだ。
来た。
そう思った。
手紙のことが知られたのかもしれない。
あるいは、別のことかもしれない。
逃げることはできない。
だが、エレノアが勇気を出して差し出した手紙について、自分から話すつもりもなかった。
マーサは残っていた仕事を整え、しばらくして家令室へ向かった。
扉を叩く。
「マーサです」
「入れ」
中へ入ると、家令が一人で待っていた。
ロベルトもヴァレリアもいない。
それだけで僅かに呼吸が楽になる。
「座りなさい」
「失礼いたします」
椅子へ腰を下ろす。
家令は一枚の紙を前に置いていた。
「伯爵閣下が、過去の使用人配置を確認しておられる」
「はい」
「お前がエレノアお嬢様付きからリネン管理へ移ったときのことについて、後日正式に話を聞きたいとのことだ」
マーサの胸が強く鳴った。
「……承知いたしました」
「ただし、今日は聞き取りをしない」
「はい?」
「ロシュフォール公爵家から、第三者の立ち会いを求める返書が来ている」
マーサは思わず顔を上げた。
「ロシュフォール公爵家から?」
「ああ」
「どうして……」
家令は少し迷ってから、もう一枚の書面を見る。
「エレノアお嬢様ご本人が、お前に不利益がないよう望んでいるそうだ」
マーサは動けなかった。
「お嬢様が……?」
「そう書かれている」
胸の奥に、熱いものが広がる。
助けなければと思っていた。
あの小さな少女が、いつも「大丈夫」と笑っていたころから。
何かがおかしいと気づいていたのに、十分には助けられなかった。
だから今度こそ、自分が助けるのだと思っていた。
それなのに。
エレノアの方も、自分を心配している。
「……そうですか」
マーサは俯き、膝の上で両手を重ねた。
「分かりました」
「聞き取りの日時と立会人については、双方で調整する。それまでは、当時のことを思い出せる範囲で整理しておいてくれ」
「はい」
「それから」
家令の声が少し低くなる。
「誰かから、この件について何を話せ、あるいは何を話すなと指示された場合は、私へ報告するように」
マーサは家令を見る。
「誰か、とは?」
「誰であってもだ」
それ以上の説明はなかった。
「……承知いたしました」
マーサは深く頭を下げた。
部屋を出て、静かな廊下へ戻る。
窓の外には、ベルナール家の庭が広がっている。
エレノアがまだ幼かったころ、マーサはこの廊下を何度も小さな主人と歩いた。転んで膝を擦りむいたときには泣いていたし、母親を失ったばかりのころは夜になると眠れないと言っていた。
それがいつからだっただろう。
泣かなくなった。
痛いと言わなくなった。
何を聞いても、「大丈夫」と答えるようになった。
(今度は、ちゃんと話さないと)
マーサは胸の前で手を握る。
知っていること。
見たこと。
知らないこと。
推測ではなく、自分が確かに覚えていることを。
それが今、自分にできることだった。
◇ ◇ ◇
夕方が近づくころ、エレノアは再び客室へ戻っていた。
机の上には、昨日ロシュフォール家から贈られた色とりどりの布やリボンが置かれている。今朝も使った青いリボンは髪につけたままだったが、エレノアは椅子に座り、他の色を一つずつ眺めていた。
扉が叩かれる。
「エレノア、入ってもいいか?」
アルフォンスの声だった。
「はい」
叔父が入ってくる。
その手には一通の書状があった。
「マーサの件で返事が来た」
エレノアは椅子から立ちかけたが、アルフォンスが「そのままでいい」と言ったため、座り直した。
「どうなりましたか?」
「伯爵は、第三者の立ち会いを受け入れた」
「本当ですか?」
「ああ。日時はまだ決めていない。マーサ本人にも、今日の段階では詳しい聞き取りをしていないそうだ」
胸の奥に溜まっていた息が抜ける。
「よかった……」
「それと、ベルナール家でいくつか記録が見つかり始めている」
エレノアの指が止まる。
「私の?」
「ああ」
「何が書いてありましたか?」
アルフォンスはすぐには答えなかった。
「聞きたいか?」
その問いに、エレノアは迷う。
怖い。
けれど知りたい。
「……全部じゃなくていいです」
「分かった」
「今、分かっていることだけ」
「食事について、何度かお前の部屋への配膳を不要とする指示が残っているらしい」
エレノアの顔から表情が消えた。
「配膳を……」
「ああ。ただし、まだ理由は分からない。外出していた日なのか、体調の問題なのか、何か別の事情があったのかも確認できていない」
「誰が?」
「指示書には、ヴァレリア付きの侍女の署名があるそうだ」
胸の奥で何かが揺れた。
記憶が浮かびそうになる。
食堂の扉。
冷めた皿。
厨房の隅。
『今日はもう――』
その先が曖昧になる。
エレノアは両手を握った。
「思い出せません」
「思い出さなくていい」
「でも、私のことなのに」
「記録があるなら、記録から確かめればいい」
アルフォンスはエレノアの正面ではなく、少し斜めに置かれた椅子へ座った。
「お前の記憶だけに頼る必要はない」
「……私が覚えてなくても?」
「ああ」
「本当にあったことなら?」
「記録や証言が残っている可能性がある」
エレノアは俯く。
覚えていない。
そのことが、自分の言葉を弱くするような気がしていた。
けれど叔父は、覚えていないことを責めない。
「叔父様」
「何だ?」
「もし、私が勘違いしていたら?」
「何を?」
「ご飯をもらえなかったって思っていたけど、本当は違ったら」
「そのときは、違ったと分かるだけだ」
「怒りませんか?」
「なぜ怒る」
「みんなに調べてもらっているのに」
アルフォンスは少し考えてから答えた。
「調べるのは、最初からお前の言葉を疑っているからじゃない。何が起きていたのかを、できるだけ正確に知るためだ」
「……はい」
「お前が覚えていることと記録が違うなら、それも大事な情報になる。逆に、お前が覚えていないことを記録が教えてくれるかもしれない」
エレノアは机の上のリボンへ視線を落とした。
「じゃあ、分からないことは、分からないままでいいんですね」
「今はな」
アルフォンスが頷く。
「分からないものを、急いで答えにする必要はない」
その言葉は、昨日から何度も形を変えて自分へ与えられている。
決められないなら待っていい。
分からないなら分からないと言っていい。
怖いなら怖いと言っていい。
「……私、今まで反対だったかもしれません」
「反対?」
「分からなくても答えなきゃいけないと思っていました。嫌でも大丈夫って言わないといけないし、欲しくてもいらないって言った方がいいし、痛くても我慢できるなら痛くないのと同じだって」
アルフォンスの表情が僅かに歪む。
エレノアはそれを見て一瞬身を固くしたが、叔父はすぐに気づき、ゆっくり息を吐いた。
「すまない。お前に怒っているんじゃない」
「……はい」
「まだ顔に出るな」
「少しだけ、怖かったです」
「教えてくれてありがとう」
アルフォンスは無理に笑わなかった。
それでも、声を意識して柔らかくしていることは分かった。
「俺も気をつける」
「叔父様が?」
「ああ。俺が怒ることと、お前を怖がらせていいことは別だからな」
エレノアはその言葉をゆっくり受け止める。
大人も気をつける。
自分だけが相手の機嫌を読んで、怒らせないようにしなくてもいい。
「……叔父様」
「何だ?」
「今日は、帰らなくていいんですよね」
「ああ」
「お父様から、帰れって手紙は来ていませんか?」
「来ていない」
「明日は?」
「まだ決めていないだろう?」
「はい」
「なら、今日は考えなくてもいい」
エレノアは窓の外を見る。
夕方の光が庭へ長い影を落とし始めている。
昨日、この時間にはまだ、自分が本当にロシュフォール家へ残れるのか分からなかった。
今日は違う。
父はベルナール家で記録を調べている。
マーサはすぐに責められることなく、第三者を交えた聞き取りを待っている。
婚約の手続きは止まっている。
そして自分は、ここにいる。
「叔父様」
「うん?」
エレノアは机の上から一本のリボンを手に取った。
淡い黄色だった。
「これ、明日使ってみてもいいですか?」
アルフォンスが目を瞬く。
「もちろんだ」
「青も好きかもしれないんですけど、これも綺麗だと思って」
「ああ」
「好きな色、一つに決めなくてもいいですか?」
アルフォンスは一瞬だけ驚いたあと、穏やかに笑った。
「何色好きでもいいんじゃないか?」
「……そうですよね」
エレノアも少し笑う。
青を選んだから、ずっと青だけを選ばなければならないわけではない。
昨日決めたことに、今日も縛られなくていい。
自分で決めるということは、一度決めた答えを永遠に守り続けることではないのかもしれない。その日、その時、自分がどう思うのかを確かめながら、必要なら選び直してもいい。
エレノアは淡い黄色のリボンを、青いものの隣へ置いた。
どちらも捨てなくていい。
どちらかだけを正解にしなくてもいい。
そしてその頃、ベルナール伯爵家では、長い間ただの日常として処理されてきた古い記録が、一枚、また一枚と集められ始めていた。
配膳を止めた記録。
医師を呼ばなかった年月。
入れ替わっていった使用人。
理由の短い配置転換。
それらはまだ、誰かの罪を証明する答えではない。
けれど、これまで「何もなかった」とされてきた十五年間の中に、本当に何もなかったのかを問い直すには十分だった。
そしてエレノア自身もまた、すべてを思い出そうとはしていなかった。
今はただ、自分が痛かったことを否定しない。
怖かったことを、なかったことにしない。
分からないことを、無理に答えへ変えない。
それだけでよかった。
(明日は、黄色にしてみよう)
窓から差し込む夕日の中で、エレノアは二本のリボンを見比べた。
その小さな選択を、今度は誰にも譲らなかった。




