第14話 私のものを、私が選ぶ
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
白を基調とした天井には淡い草花の装飾が施され、カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、その模様の一部を柔らかく照らしている。どこか遠くから小鳥の声が聞こえ、庭師たちが仕事を始めたのか、ときおり砂利を踏む微かな音も混じっていた。
しばらくのあいだ、エレノアは寝台の中で瞬きを繰り返した。
(……どこ?)
そう思った直後、昨日の出来事が少しずつ戻ってくる。
ロシュフォール公爵家。
祖母からの招待。
東の庭。
医師の診察。
ヴァレリアへ「帰りません」と告げたこと。
夜になってやってきた父と話したこと。
そして、父が一人でベルナール家へ帰ったこと。
「……私、ここにいるんだ」
声に出してみると、ようやく実感が伴った。
昨夜は何度か目を覚ました。
一度目は、廊下を誰かが歩く音が聞こえたときだった。反射的に身体を固くして寝台の上で息を潜めたが、足音は部屋の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかっていった。
二度目は、夢を見た。
何の夢だったのかはよく覚えていない。ただ、目を覚ましたときには胸が激しく上下し、額に汗が滲んでいた。
それでも、誰も扉を開けて入ってこなかった。
怒られなかった。
起きてしまったことを責められず、眠れないことを咎められることもなかった。
(朝まで、ここにいられた)
エレノアは布団の端を指先で掴む。
たった一晩。
それだけなのに、昨日までとは違う朝に思えた。
やがて控えめなノックが響き、エレノアは少しだけ身体を強張らせた。けれど、扉の向こうから聞こえてきたのは穏やかな女性の声だった。
「エレノアお嬢様、お目覚めでしょうか」
「……はい」
「入ってもよろしいでしょうか?」
許可を求められた。
昨日から何度も経験していることなのに、そのたびに胸の奥が僅かに揺れる。
「はい。お願いします」
「失礼いたします」
入ってきたのは、昨日から身の回りの世話をしてくれている若い侍女だった。両手には水差しと洗面用の道具が載った盆を持っている。
「おはようございます、お嬢様。昨夜はお休みになれましたか?」
「何度か起きました。でも……眠れました」
「それはよろしゅうございました」
侍女はそれ以上、夢の内容や目を覚ました理由を尋ねなかった。洗面の準備を整えたあと、寝台から少し離れた場所へ立つ。
「お着替えはいかがなさいますか? お手伝いが必要でしたらお申し付けくださいませ」
エレノアは一瞬迷った。
昨日、医師に身体を診てもらった。
痣を見られることへの恐怖はまだ残っている。侍女に着替えを手伝ってもらえば、背中や腕の傷が見えるかもしれない。
「今日は……一人で着替えたいです」
「かしこまりました。では、お召し物だけご用意いたしますね」
何も聞かれなかった。
侍女は衣装棚から数着を取り出し、寝台近くの長椅子へ並べる。
「どれになさいますか?」
「私が決めても?」
「もちろんでございます」
三着あった。
淡い水色。
柔らかな生成り。
春らしい薄黄色。
エレノアは最後の一着へ目を留めた。
昨日、机の上に置いたリボンとよく似た色だった。
「これにします」
「黄色のお召し物ですね」
「はい。それから……」
机を見る。
昨日選んだ淡い黄色のリボンが、青いリボンの隣に置かれていた。
「あの黄色のリボンも使いたいです」
「よくお似合いになると思います」
侍女はそう言っただけで、青の方が似合うとも、こちらの方が上品だとも言わなかった。
選んだものを、そのまま受け取ってくれる。
「ありがとうございます」
「では、お着替えが終わるころに改めて参ります。髪を整えるお手伝いは必要ですか?」
「……お願いします」
「かしこまりました」
侍女が退出し、扉が閉まる。
エレノアは黄色いドレスへ手を伸ばした。
昨日までなら、選ぶ前に考えていただろう。
父はどう思うか。
ヴァレリアは何と言うか。
ミレーヌの方が似合うのではないか。
十五歳の伯爵令嬢として、何色が正しいのか。
けれど今日は違った。
(昨日、綺麗だと思ったから)
理由は、それだけだった。
◇ ◇ ◇
朝食の席へ向かう途中、エレノアは廊下の窓に映った自分の姿を見て足を止めた。
薄黄色のドレス。
同じ色のリボン。
昨日とは違う。
けれど、嫌ではない。
「お嬢様?」
後ろに控えていた侍女が立ち止まる。
「……似合いますか?」
「はい。とても」
「本当に?」
「もちろんでございます。ただ、私がお似合いだと思うことより、お嬢様ご自身はいかがですか?」
思っていなかった問いだった。
エレノアはもう一度窓へ映る自分を見る。
「……好きかもしれません」
「それでしたら、何よりでございます」
侍女は微笑んだ。
エレノアも少しだけ口元を緩め、そのまま食堂へ向かった。
扉が開く。
「おはよう、エレノア」
最初に声をかけてきたのはマルグリットだった。
「おはようございます、お祖母様」
「よく眠れた?」
「何度か起きました。でも、朝まで眠れました」
「そう」
それ以上を聞かない。
長い食卓にはすでにオーギュスト、アルフォンス、セドリックが座っていた。エレノアが入ってくると、セドリックがすぐに黄色いリボンへ気づく。
「今日は黄色なんだね」
「はい。昨日、使ってみたいと思ったので」
「似合ってる」
「ありがとうございます」
素直に受け取れた。
以前なら「そんなことありません」と否定していたかもしれない。
「ほう」
オーギュストが顎へ手を当てる。
「青もよかったが、黄色も似合うな」
「お祖父様もそう思いますか?」
「もちろんだ。だが赤も似合いそうだし、緑も見てみたい。紫も――」
「父上」
アルフォンスが呆れたように止める。
「朝から全部着せようとしないでください」
「誰が全部着せると言った」
「顔に書いてあります」
「書いておらん」
「書いてありますよ」
セドリックまで加わり、オーギュストが不満そうに眉を上げた。
エレノアは三人を見比べる。
そして小さく笑った。
昨日も思った。
この家では、誰かが少し強い言葉を使っても、それが必ず怒りへ繋がるわけではない。
声の大きさだけでは分からない。
表情。
距離。
相手の反応。
そのあとに続く空気。
少しずつ、それらを見てもいいのかもしれない。
「エレノア」
アルフォンスに呼ばれ、顔を向ける。
「朝食のあと、少し話したいことがある」
身体が僅かに固くなる。
アルフォンスはすぐに気づいた。
「悪い話だと決まったわけじゃない」
「……はい」
「ベルナール家から、昨日の調査について追加の連絡が来た。それと、皇室側からも返事が来ている」
第二王子。
その言葉を聞かなくても分かった。
胸の奥が冷える。
レオナード。
三年後、自分を信じなかった人。
処刑台の前でミレーヌを抱いていた人。
エレノアは膝の上で指を握った。
「今、聞く?」
アルフォンスが尋ねる。
エレノアは一瞬迷った。
朝食。
目の前には焼きたてのパンと温かなスープ、卵料理、果物が並んでいる。
聞けば、食べられなくなるかもしれない。
(今じゃなくてもいい?)
そう思った。
「……朝食のあとがいいです」
「ああ」
アルフォンスはそれだけ答えた。
話は終わる。
誰も「重要な話なのだから今聞け」と言わない。
エレノアはスープへ視線を落とし、匙を手に取った。
食べる。
今は、それを選んだ。
◇ ◇ ◇
朝食後、エレノアはアルフォンス、マルグリット、セドリックとともに小さな居間へ移った。
オーギュストも来ようとしたが、アルフォンスから「人数が多いとエレノアが疲れる」と言われ、渋々引き下がった。ただし「あとで全部聞くからな」と念を押していたため、完全に諦めたわけではなさそうだった。
窓際の長椅子へエレノアが座り、隣にはマルグリットが腰を下ろす。アルフォンスは正面の椅子へ座ったが、机を挟まず、手には二通の書状だけを持っていた。
「どちらから聞きたい?」
また選ばせてくれる。
「……皇室から」
「分かった」
アルフォンスは一通目を開く。
「昨日、こちらから皇室の婚姻関係を扱う窓口へ確認を入れた。エレノア本人が第二王子殿下との婚姻を望んでいないこと、ベルナール家から受諾の返書が出ているが、母方親族として本人の意思と家庭状況を確認していることを伝えた」
エレノアは黙って聞く。
「返答は、現時点では婚約は成立していない。ベルナール家の受諾返書をもって即座に正式婚約となるものではなく、皇室側でも次の手続きが必要になる、というものだ」
胸の奥から、ゆっくり息が抜けた。
「じゃあ……」
「ああ。今の時点で、お前は第二王子殿下の婚約者ではない」
分かっていた。
それでも、正式な窓口から確認されたことには別の重みがあった。
「よかった……」
思わず漏れた声は小さかった。
けれど部屋の全員に聞こえた。
アルフォンスは続ける。
「ただし、話そのものが完全に消えたわけではない。ベルナール家から受諾の意思が示されている以上、皇室側では事情確認を行うそうだ」
「誰にですか?」
「まずベルナール伯爵へ。それから、必要に応じてこちらにも問い合わせが来る」
「私にも?」
「可能性はある」
エレノアの指が強張る。
アルフォンスはすぐに付け加えた。
「だが、いきなり宮殿へ呼びつけられるような話ではない。少なくとも今届いている書面には、そのような命令はない」
「……はい」
「もしお前自身の意思確認が必要になった場合も、どんな形なら話せるかを先に相談しよう」
「断ったら?」
「何を?」
「第二王子殿下との婚約を」
「もう断っているだろう?」
エレノアは目を瞬いた。
「でも、お父様は受けるって」
「伯爵の返事と、お前の返事は別だ」
その言葉が胸へ落ちる。
父の意思。
自分の意思。
同じ家の人間でも、同じものではない。
「私は……断っています」
「ああ」
「これからも」
喉が僅かに震える。
「婚約したくありません」
「分かった」
アルフォンスは否定も説得もしない。
エレノアは膝の上の手を少し緩めた。
「もう一つはベルナール家からだ」
今度は身体が別の意味で緊張する。
「昨日話した食事の記録について、少し追加で分かったらしい」
「……はい」
「まず、配膳不要と記録されていた日の一部については、外出や病気の記録が見つからなかった」
エレノアは息を止めた。
「つまり?」
「その日、お前が屋敷にいた可能性が高い」
「可能性……」
「ああ。まだ断定はしない」
アルフォンスの言葉は慎重だった。
「それから、医師の往診記録も確認している。アデライン姉上が亡くなる前と、その後で、お前への往診回数が大きく減っているそうだ」
「私、病気をしなくなったんでしょうか」
「その可能性もある」
「怪我もしなかった?」
「昨日の診察を見る限り、少なくとも傷はあった」
エレノアは右腕へ視線を落とした。
薄黄色の袖の下。
そこにはまだ痣がある。
「でも、お医者様は来なかった」
「記録上はな」
「どうしてでしょう」
「分からない」
アルフォンスははっきり答えた。
「だから確認する」
エレノアは頷いた。
「それと、使用人の配置についても調べ始めている。マーサだけではなく、お前の身の回りを担当した者が何度か替わっている」
「何人ですか?」
「まだ正確な一覧は届いていない」
「……私、覚えてないです」
「構わない」
エレノアは唇を結ぶ。
「覚えてないこと、多いですね」
「そうだな」
「変でしょうか」
「変だと決める必要はない」
アルフォンスは少しだけ身体を前へ傾けた。
「毎日の使用人の名前や交代時期を全部覚えている十五歳の子の方が珍しいかもしれない。それに、つらかった時期の記憶が曖昧になることもあるとクラリスは言っていた」
「先生が?」
「ああ。ただし、お前がそうだと決めつけるつもりはないそうだ」
エレノアは少し安心した。
何でも傷のせいにされるのも、何でも自分のせいにされるのも嫌だった。
「マーサの聞き取りは?」
「明日以降になる。伯爵は第三者の立ち会いを受け入れた」
「誰が立ち会うんですか?」
「こちらから家令を一人出す案を考えている。俺やセドリックが行けば、相手が構えすぎる可能性もあるからな」
セドリックが頷く。
「マーサさんが話しやすいことが一番だと思う」
「私もそう思います」
エレノアは答えたあと、少し考える。
「私から、マーサに手紙を書いてもいいですか?」
三人の視線が集まった。
「どんな手紙?」
アルフォンスが尋ねる。
「ありがとうって。それから、無理して話さなくていいって」
「いいと思う。ただし、今はベルナール家が手紙の経路を気にしている。普通に送れば、伯爵側に読まれる可能性がある」
「……そうですよね」
「それでも送る?」
エレノアは考えた。
秘密にしたいこと。
知られてもいいこと。
「お父様に読まれてもいい内容にします」
「それなら、正式な書状として送れる」
「はい」
「書く?」
「書きたいです」
アルフォンスが紙と筆記具を用意するよう使用人へ頼んだ。
エレノアは机の前へ移動する。
真っ白な紙。
何を書けばいいのか迷う。
以前の手紙は、助けを求めるために書いた。
今度は違う。
『マーサへ』
最初の一行を書く。
手が少し震えた。
『私のために心配してくれていたことを、今になって知りました。あのとき私は何も話せなくて、ごめんなさい。』
そこで止まる。
「……謝らない方がいいでしょうか」
独り言のように漏らすと、アルフォンスはすぐに答えなかった。
「お前は謝りたい?」
「分かりません」
「なら、少し考えてみたらいい」
エレノアは書いた文を見る。
何も話せなかった。
それは事実。
でも、それはマーサを困らせるためではなかった。
(私は、悪いことをしたの?)
違う気がする。
エレノアは新しい紙を取った。
『私のために心配してくれていたことを、今になって知りました。あのときは何も話せなかったけれど、何度も声をかけてくれたことを覚えています。』
こちらの方が、今の気持ちに近い。
続きを書く。
『手紙を届けるのを助けてくれて、ありがとうございました。私は今、ロシュフォール家にいます。今日は安心して朝ご飯を食べることができました。』
そこまで書いて、エレノアは筆を止めた。
昨日の焼き菓子。
今朝のスープ。
食べてもいいのか尋ねなくても、最初から自分の分として置かれていた食事。
『お父様たちから昔のことを聞かれるかもしれないと聞きました。私のために無理をしてほしくありません。覚えていることだけを、マーサが話したいと思った範囲で話してください。』
そして最後。
『私は、マーサが悪いことをしたとは思っていません。助けてくれて、本当にありがとうございました。 エレノア』
書き終えた。
何度か読み返す。
「どう?」
マルグリットが尋ねる。
「……これで送りたいです」
「では、そうしましょう」
アルフォンスが手紙を取り上げることはなかった。
まずエレノア自身が封筒へ入れ、封をする。
それから叔父へ差し出した。
「お願いします」
「ああ。正式な使者に持たせる」
「はい」
今度の手紙は、隠さない。
父に見られてもいい。
それでも、自分の言葉で書いた。
エレノアは封筒が叔父の手へ渡るのを見届けた。
◇ ◇ ◇
同じころ、ベルナール伯爵家では別の記録が見つかっていた。
「旦那様」
執務室へ入ってきた家令の表情は、朝より硬かった。
ロベルトは机から顔を上げる。
「何だ」
「エレノアお嬢様付きの使用人配置について、一覧をまとめております。その途中で、少し気になるものが」
「見せろ」
差し出された紙を受け取る。
そこには数年分の配置変更が並んでいた。
マーサ。
そのあとに二人。
さらに別の侍女。
長く仕えた者もいれば、数か月で別部署へ移った者もいる。
「多いのか?」
「伯爵令嬢付きとしては、やや多いかと」
「理由は」
「記録上は、勤務態度、配置上の都合、本人希望など様々です。ただ……」
家令が一つの欄を指す。
「こちらの二名については、配置転換の申請者が同じです」
「誰だ」
「ヴァレリア奥様付きの侍女長でございます」
ロベルトの眉が寄る。
「マーサもか?」
「マーサについては、最終命令は旦那様です。ただ、その前段階の申請は同じ侍女長から出ております」
ロベルトは黙って一覧を見る。
まだ何も決まらない。
ヴァレリアは女主人だ。
娘の侍女配置へ関わること自体は不自然ではない。
「理由を調べろ」
「はい」
「本人たちがまだ屋敷にいるなら、所在も確認しろ。ただし、勝手に聞き取りはするな」
「承知いたしました」
家令が続ける。
「もう一点ございます」
「何だ」
「ロシュフォール公爵家からの書状についてです」
ロベルトの視線が上がる。
「今度は何だ」
「マーサへのお嬢様からの書状を、正式な使者を通じて届けたいとのことです」
「エレノアから?」
「はい。内容については、伯爵家の規則上必要であれば旦那様が確認して構わない、とも」
ロベルトはしばらく黙った。
「持ってこさせろ」
「すでに使者が待っております」
ほどなくして、封をされた手紙が運ばれてくる。
宛名はマーサ。
差出人はエレノア・ベルナール。
ロベルトは封筒を見つめた。
これまでなら、迷わず開いていた。
娘の手紙を確認する。
それは父親として、家長として必要なことだと思っていた。
だが昨夜の声が蘇る。
『私の気持ちまで、お父様が決めないでください』
さらにアルフォンスの言葉。
『娘が父親に知られない方法を探してまで、外へ助けを求めなければならなかったことだ』
ロベルトは封筒へ伸ばした手を止めた。
「旦那様?」
家令が呼ぶ。
「……これは」
口の中が乾く。
「中を確認しなくても、マーサへ渡せるのか」
「旦那様が許可なされば」
「規則は」
「旦那様がお決めになったものでございます」
当たり前の答えだった。
ロベルトは目を閉じる。
自分が決めた。
娘の手紙を確認することも。
外出を制限することも。
婚姻の返事を出すことも。
自分が家長だから。
父親だから。
必要だと思ったから。
(俺は、何を見ていた?)
問いが浮かぶ。
答えは出ない。
「……開けるな」
家令が僅かに目を見開く。
「よろしいので?」
「ああ。そのままマーサへ渡せ」
「承知いたしました」
手紙が運ばれていく。
ロベルトは空になった机の一角を見つめた。
たった一通。
娘が使用人へ送った手紙を開かなかった。
それだけだ。
何かを償ったわけでもない。
傷の理由が分かったわけでもない。
それでもロベルトにとっては、自分がこれまで当然だと思っていた行動を初めて止めた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
マーサの手元へ手紙が届いたのは、午後だった。
「私に……?」
封筒を受け取ったマーサは、表に書かれた文字を見ただけで誰からのものか分かった。
何度も見たことがある。
幼いころより少し整った、それでもまだ若い少女の文字。
「伯爵閣下から、そのまま渡すようにとのことです」
家令の言葉に、マーサは顔を上げた。
「旦那様は、お読みになっていないのですか?」
「そのように命じられた」
「……そうですか」
驚いた。
マーサは自室へ戻り、一人になってから封を開けた。
一行ずつ読む。
何度も声をかけてくれたことを覚えている。
手紙を届けてくれてありがとう。
ロシュフォール家にいる。
朝食を安心して食べられた。
無理をしないでほしい。
覚えていることだけを話してほしい。
『私は、マーサが悪いことをしたとは思っていません。』
そこまで読んだところで、文字が滲んだ。
「……お嬢様」
マーサは手紙を胸へ押し当てる。
泣いてはいけないと思った。
けれど、涙は止まらなかった。
幼い少女が、何度も「大丈夫」と言った。
痩せた気がして食事について尋ねても、「食べています」と答えた。
腕を庇っているように見えた日も、「転んだだけです」と笑った。
そしてマーサが問い続けたあと、エレノア付きから外された。
(覚えていてくださった)
自分が声をかけたことを。
何もできなかったと思っていた。
けれど、全部が消えていたわけではなかった。
「話します」
誰もいない部屋で、マーサは呟く。
「今度こそ、ちゃんと」
誰かを陥れるためではない。
自分が見たことだけを。
エレノアが食事を残していたのではなく、食事そのものが届いていないように見えた日。
袖口から見えた痣。
着替えを手伝おうとすると頑なに断られた日。
失敗したと言って何度も謝っていたこと。
そして、それらを尋ね始めてから、自分がエレノア付きから外されたこと。
知らないことは知らないと言う。
推測は推測として話す。
それでも、見たものを今度は黙らない。
◇ ◇ ◇
午後の終わり頃、エレノアはマルグリットとともに衣装室を訪れていた。
公爵家の衣装室は、ベルナール家で使っていたものよりずっと広い。棚には季節ごとの布地や小物が整然と収められ、壁際には採寸や仮縫いに使う大きな鏡が置かれていた。
「どうしてここへ?」
エレノアが尋ねる。
「昨日の診察で、身体に負担がかからない衣服の方がいいとクラリスから言われたの」
マルグリットは衣装係へ目を向ける。
「特に右腕と脇腹ね。締めつけの強いものはしばらく避けましょう」
「でも、私の服はベルナール家にあります」
「そうね」
「取りに行くんですか?」
その瞬間、胸が強く鳴った。
マルグリットはすぐに首を振る。
「今日取りに行くとは言っていないわ」
「……はい」
「必要なものはこちらで用意できるし、向こうにある物をどうするかは、あとで考えればいいの」
エレノアは衣装室を見回した。
「でも、そんなに用意してもらうのは……」
「嫌?」
「嫌じゃないです。でも、お金が」
「それは大人が考えることよ」
「でも」
言いかけて、止まる。
以前なら、そこで引き下がっていただろう。
けれど今日は少し考えてから言い直した。
「……たくさんは、まだ怖いです」
マルグリットが目を細める。
「何が怖い?」
「もらったら、返さないといけない気がします」
「何を?」
「分かりません。何かを」
贈り物。
食事。
服。
部屋。
親切。
与えられたものには、必ず何かがついてくる気がしてしまう。
「じゃあ、今日は必要な分だけにしましょうか」
「必要な分?」
「今夜と明日困らない程度。あとは必要になったら、そのとき考える」
胸の奥が少し軽くなる。
「それなら……」
「選べそう?」
「はい」
衣装係が数着を見せてくれる。
どれも身体を締めつけすぎない形で、袖も柔らかい。
「こちらはいかがでしょう」
淡い緑。
次は薄紫。
その次は白に近い青。
エレノアは一つずつ見た。
誰も急かさない。
「……これ」
手を伸ばしたのは淡い緑だった。
「こちらでございますね」
「はい。それと……」
隣にあった白い寝間着を見る。
柔らかそうな布。
「寝るときの服も、これがいいです」
「かしこまりました」
衣装係が微笑む。
エレノアは鏡の中の自分を見る。
黄色いドレス。
黄色いリボン。
明日は緑を着るかもしれない。
また青へ戻るかもしれない。
まだ分からない。
(私のものを、私が選んでる)
そのことが不思議だった。
自分の服。
自分の食事。
自分の身体。
自分が誰と話すか。
どこで眠るか。
誰と婚約するか。
すべてを一度に取り戻せるわけではない。
それでも、小さなところからなら選べる。
「お祖母様」
「なあに?」
「ベルナール家にある私の物って……私のものですか?」
マルグリットの表情が変わった。
「どうしてそう思ったの?」
「分からなくなって」
エレノアは鏡から目を逸らす。
「お母様の物も、前は私の部屋にあったんです。でも、いつの間にかなくなったものがあって」
マルグリットが動きを止める。
「アデラインの物?」
「はい」
「何がなくなったの?」
「全部は覚えていません。小さな箱とか、髪飾りとか……お母様が使っていたものだって聞いていました」
「誰に?」
「昔の侍女に」
「それはいつ頃まで部屋にあった?」
「お義母様たちが来る前は……たぶん」
記憶を辿る。
母の香りなど、もう覚えていない。
けれど小さな木箱は覚えている。
蓋に花の彫刻があった。
中には髪飾りや細い鎖の首飾りが入っていた気がする。
「ある日、なくなっていて」
「誰かに聞いた?」
「聞いたと思います」
「何と言われたの?」
エレノアは眉を寄せる。
曖昧な声が蘇る。
『子供が持つものではありません』
『奥様が管理なさいます』
誰の声だったのか。
「……管理するって」
「誰が?」
「分かりません。お義母様だったのか、侍女だったのか」
マルグリットの表情が硬くなる。
エレノアはすぐに身体を強張らせた。
「ごめんなさい」
「エレノア」
祖母は一度息を整える。
「あなたに怒っていないわ」
「……はい」
「顔に出てしまったわね。ごめんなさい」
「お祖母様が謝るんですか?」
「怖がらせたもの」
エレノアは目を瞬いた。
昨日のアルフォンスと同じだった。
大人が、自分の表情や声で怖がらせたことを認める。
「お母様の物、私が持っていたらいけなかったんでしょうか」
「いいえ」
マルグリットの声は今度こそ穏やかだった。
「何が正式にあなたへ贈られた物だったのか、相続上どのように扱われたのかは確認が必要よ。でも、少なくとも『子供だから』という理由だけで勝手に消していいとは思わない」
「確認できますか?」
「ええ。アルフォンスにも話しましょう」
「また調べることが増えますね」
「増えたら困る?」
「叔父様が大変かなって」
「本人に聞いてみる?」
エレノアは少し考えた。
「……はい」
マルグリットが笑う。
「そうしましょう」
自分で決めつけない。
相手が迷惑かどうかも。
相手が大変かどうかも。
本人へ聞いてみる。
それも、今までのエレノアにはなかった考え方だった。
◇ ◇ ◇
「姉上の遺品?」
その日の夕方、アルフォンスの声が低くなった。
エレノアはマルグリットとともに執務室へ来ていた。セドリックも同席しているが、今度は誰も話を急がせなかった。
「はい」
エレノアは覚えている範囲を話す。
「小さな木の箱がありました。花の彫刻があって、中に髪飾りとか、首飾りとか……たぶん」
「箱の色は?」
「濃い茶色だったと思います」
マルグリットが息を呑んだ。
「それ、私がアデラインへ贈ったものかもしれないわ」
「お祖母様が?」
「嫁ぐ前の誕生日にね。蓋に野薔薇の彫刻があったでしょう?」
記憶の中の箱。
花の形。
「……あったと思います」
「中には?」
「全部は覚えていません」
「無理に思い出さなくていい」
アルフォンスがすぐに止める。
「母上、その箱が姉上のものだったとして、エレノアへ正式に渡した記録はありますか?」
「分からないわ。でも、アデラインなら自分の娘へ残した可能性は高いと思う」
「推測と事実は分けましょう」
「ええ。そうね」
マルグリットもすぐに頷く。
エレノアはそのやり取りを見ていた。
家族でも、分からないことは分からないと言う。
願っている答えを、事実に変えない。
「ベルナール家へ確認する」
アルフォンスが言った。
「ただし、今すぐ『返せ』とは言わない。まず姉上の遺品目録と、婚姻時の持参品、死後の整理記録を確認する」
「そんな記録があるんですか?」
「普通は残っている。少なくとも公爵家側には、姉上が嫁いだ際に持たせた品の記録があるはずだ」
セドリックが立ち上がる。
「書庫を確認してきます」
「待て」
「はい?」
「今から全部探す気か」
「そのつもりでした」
「夕食前だぞ」
「まだ時間はあります」
「お前までエレノアのことで休まなくなるな」
アルフォンスの言葉に、セドリックが口を閉じる。
エレノアは思わず二人を見る。
「……私のせいで」
口から出かける。
だが、昨日と同じように途中で止めた。
「違いました」
アルフォンスとセドリックが同時にエレノアを見る。
「セドリックお兄様が探すって決めたんですよね」
「そうだけど」
「でも、休んでください」
セドリックが目を瞬く。
「私が心配します」
今度はアルフォンスが小さく笑った。
「言われたな」
「父上が先に言ったからですよ」
「でも、私もそう思います」
エレノアが続ける。
「明日でもなくならないなら、明日でいいです」
セドリックは数秒黙ったあと、諦めたように肩を落とした。
「分かった。明日にする」
「はい」
「でも朝一番で探す」
「それなら」
エレノアは少し笑う。
「お願いします」
自分のために誰かが動いてくれる。
それを全部拒絶しなくてもいい。
でも、無理をしてほしくないと伝えてもいい。
どちらか一つではない。
「それと、エレノア」
アルフォンスが声をかける。
「今後ベルナール家からお前の私物を持ってくる必要が出るかもしれない」
身体が僅かに緊張する。
「私も行くんですか?」
「まだ決めていない」
「……はい」
「お前が行きたいなら、安全を確認したうえで方法を考える。行きたくないなら、品物の一覧を作って代理の者に取りに行かせる方法もある」
「一覧……」
「覚えている範囲でいい。服、本、装飾品、手紙、母親の遺品。お前が自分のものだと思っているものを書き出す」
エレノアは黙る。
自分のもの。
改めて考えると、すぐには浮かばない。
服はある。
本も少し。
髪飾り。
母の箱。
それから。
「……青い髪飾り」
セドリックが顔を上げる。
「青い?」
「昔、もらった気がします」
記憶の奥。
誕生日。
小さな箱。
青い石のような飾り。
「セドリックお兄様から」
セドリックの目が大きくなる。
「覚えてたの?」
「今、思い出しました」
はっきりではない。
けれど、確かに。
「私、もらいましたよね?」
「うん」
セドリックの声が少し掠れた。
「十一歳の誕生日に贈った」
「十一歳……」
「青い小さな石を使った髪飾り。高価なものじゃないけど、エレノアに似合うと思って選んだ」
胸の奥に、ぼんやりとした温かい記憶が浮かぶ。
届いた箱。
嬉しかった。
たぶん、すごく。
「でも……」
そのあとが分からない。
「どこにあるんだろう」
セドリックは何も言わなかった。
アルフォンスも。
誰も勝手な答えを出さない。
「それも一覧へ入れよう」
アルフォンスが言った。
「見つかるかは分からない。だが、お前のものなら確認する」
「はい」
エレノアは頷いた。
母の箱。
青い髪飾り。
失くしたと思っていたもの。
失くしたのか、取られたのか、どこかへしまわれたのかも分からない。
けれど今度は、分からないまま諦めなくてもいい。
◇ ◇ ◇
夜。
エレノアは新しく用意してもらった白い寝間着に着替え、寝台の上で一枚の紙を見つめていた。
アルフォンスから渡されたものだった。
『自分のものだと思うもの。覚えているものだけでいい』
そう言われた。
紙の一番上に、ゆっくり文字を書く。
『お母様の木の箱』
次。
『セドリックお兄様からもらった青い髪飾り』
それから少し考える。
『本』
何冊あっただろう。
題名までは思い出せないものも多い。
『服』
これも全部必要なのか分からない。
筆が止まる。
もっと大事なものがあった気がする。
(私のもの……)
何があっただろう。
部屋に置かれていたものの中で、自分が好きだったもの。
誰かから与えられたからではなく、自分が持っていたいと思うもの。
思い出そうとすると、不思議なほど何も浮かばない。
ベルナール家の自室には十五年間暮らしていたはずなのに。
「……少ない」
小さく呟く。
物がなかったわけではない。
けれど、自分のものだと思っていなかったのかもしれない。
いつ取り上げられても。
誰かへ譲るよう言われても。
別の場所へ移されても。
仕方がないと思っていた。
エレノアは机の端を見る。
昨日の青いリボン。
今日の黄色いリボン。
どちらもロシュフォール家から贈られたものだ。
叔父は言った。
全部、お前のものだと。
誰かに分けなくてもいい。
今日使わなくてもいい。
明日違う色を選んでもいい。
エレノアは紙へ新しく書いた。
『青いリボン』
その下。
『黄色いリボン』
さらに少し考え、明日着る予定の服を思い浮かべる。
『緑の服』
書いたあと、胸が少し温かくなる。
ベルナール家から持ってきたものではない。
母の形見ほど大切な歴史があるわけでもない。
高価かどうかも知らない。
それでも。
(私が選んだ)
だから、自分のものだと思えた。
紙の上には、過去から持ってきたいものと、ここで新しく選んだものが並んでいる。
失ったものだけではない。
これから増やせるものもある。
エレノアは筆を置き、二本のリボンを指先でそっと撫でた。
父との問題は終わっていない。
食事を止めた指示がなぜ出されたのかも分からない。
母の遺品がどこへ行ったのかも、侍女たちがなぜ次々と替わったのかも、まだ何一つ答えは出ていない。
第二王子との婚姻話も、正式には成立していないだけで、完全に消えたわけではなかった。
怖いことは、まだたくさんある。
それでも今夜は、昨日より少しだけ違った。
エレノアは紙の一番下へ、もう一行だけ書き加える。
『私がこれから選ぶもの』
具体的な名前ではない。
けれど、消したくなかった。
(これも、私のものにしていい)
誰かが決めた人生ではなく。
誰かに与えられた役割だけでもなく。
好きな色も、着たい服も、食べたいものも、会いたい人も、そしていつかは、自分が誰と生きていきたいのかさえ。
すぐに全部を決める必要はない。
今はまだ十五歳で、知らないことも多く、怖くて動けなくなることもある。
それでも、自分の人生から自分の意思だけを取り上げられるのは、もう嫌だった。
エレノアは黄色いリボンを丁寧に畳み、青いリボンの隣へ置く。
どちらも自分のもの。
どちらを選ぶかも、自分で決めていい。
そして明日の朝になったら、またそのときの自分へ尋ねればいい。
(今日は、黄色が好きだった)
その答えだけを大切にして、エレノアは寝台へ向かった。




