第15話 今度は、私も知りたい
翌朝、エレノアが最初に選んだのは、前日に衣装室で自分の手を伸ばした淡い緑色のドレスだった。
寝台から起きたあと、長椅子へ用意されていたそれをしばらく眺めてから、エレノアは昨日の自分が「これがいい」と口にした瞬間を思い出した。誰かに似合うと言われたからでも、伯爵令嬢としてふさわしいと教えられたからでもなく、自分で選んだ服だった。
「今日は、これを着ます」
「かしこまりました」
身支度を手伝う侍女は、それ以上何も言わなかった。エレノアが右腕を庇わずに済むよう袖を通すときだけ動きをゆっくりにし、髪を整える段階になってから、机の上に並べてあった二本のリボンへ視線を向ける。
「髪飾りはいかがなさいますか?」
「……今日は、つけなくてもいいですか?」
「もちろんでございます」
その答えを聞いて、エレノアは小さく頷いた。
青も好きかもしれない。
黄色も昨日は綺麗だと思った。
けれど、毎日どちらかを選ばなければならないわけではない。
(今日は、何もつけたくない)
それも選んでいいのだと思えると、不思議なくらい気持ちが軽かった。
鏡の前で立ち上がり、淡い緑色のドレスを纏った自分を見る。まだ見慣れない姿だったが、昨日までよりも少しだけ「自分で選んだ自分」に見えた。
「ありがとうございます」
「いいえ。朝食のお席へ向かわれますか?」
「はい」
廊下へ出ると、窓から差し込む朝日が床へ長く伸びていた。
昨夜は一昨日よりも長く眠れた。
途中で一度目を覚ましたものの、扉の外の足音に怯えて身体を固くすることはなかった。ここがベルナール家ではないと思い出すまでの時間も、ほんの少しだけ短くなっている。
(慣れてきたのかな)
そう思ったあと、エレノアは自分で首を傾げた。
まだ二晩しか過ごしていない。
慣れたと決めつけるには早い。
(分からない、でいいんだった)
それだけで、答えを急いで探さなくてもよくなる。
◇ ◇ ◇
「緑か」
朝食の席で最初に気づいたのは、やはりオーギュストだった。
「はい」
「似合うな」
「ありがとうございます」
「昨日の黄色もよかったが、今日の緑も――」
「祖父上」
セドリックが苦笑する。
「毎朝それをやるつもりですか?」
「孫娘の服を褒めて何が悪い」
「悪いとは言ってません。でも、そのうちエレノアが食事を始める前に十分くらいかかりますよ」
「十分で済むなら短いだろう」
「父上も止めてください」
セドリックから話を振られたアルフォンスは、紅茶のカップを置きながら首を横へ振った。
「無理だ。昨日止めたが、今日もこれだ」
「諦めないでください」
「お前がやれ」
「やってます」
いつものように始まった三人のやり取りを見ながら、エレノアは小さく笑った。
それから、自分の前に置かれた朝食へ視線を落とす。
パン。
温かなスープ。
卵。
少量の果物。
昨日とほとんど同じ量だった。
全部食べなければならないとは言われていない。残しても怒られず、もっと欲しければ頼んでもいいと、昨日も一昨日も教えられている。
エレノアはまずスープを一口飲んだ。
温かい。
「エレノア」
アルフォンスから呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
「食事中にする話ではないから、あとで話そうと思っていることがある」
一瞬だけ匙を持つ手が止まった。
けれど昨日と同じだった。
叔父は今すぐ聞けとは言わない。
「ベルナール家のことですか?」
「ああ」
「マーサのことも?」
「それもある」
胸が僅かに強く鳴った。
マーサへ送った手紙は、昨日のうちに届いたはずだった。
「悪いことがありましたか?」
「そう決まったわけじゃない。昨日、話した通り、今日はマーサへの聞き取りを行う予定だ。それとは別に、セドリックが朝から書庫を調べてくれた」
「書庫?」
そこでエレノアは思い出す。
「お母様の物……」
「ああ」
アルフォンスが頷いた。
「公爵家に残っている記録の一部が見つかった」
聞きたい。
そう思った。
同時に、怖いとも思った。
母の遺品が自分へ残されていたと分かれば、それが消えた理由を考えなければならなくなる。反対に、自分のものではなかったと分かれば、ずっと大切にしていた記憶の意味が変わるような気もした。
「……朝食のあとに聞きたいです」
「分かった」
アルフォンスはそれ以上話さなかった。
エレノアはもう一度スープへ匙を入れる。
今は食べる。
話を聞くのは、そのあと。
昨日覚えたことを、今日も使うことができた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアはアルフォンスとセドリックとともに執務室へ向かった。
マルグリットも同席するか尋ねられたが、今回はエレノア自身が少し考えてから、「叔父様とセドリックお兄様だけで大丈夫です」と答えた。祖母が嫌なわけではなく、昨日より一人少ない場所でも話を聞ける気がしたからだった。
執務机の上には、数冊の古い帳簿と一枚の書類が置かれている。
「これが?」
「姉上がベルナール家へ嫁いだときの記録だ」
アルフォンスが一冊を示した。
「公爵家から持たせた品や、本人が所有していた装飾品のうち、記録に残しておく必要があったものが書かれている」
「全部ですか?」
「いや。日用品や細かな私物まで全部ではない。ただ、ある程度価値のある品や家から持たせた物は残っている」
エレノアは緊張しながら帳簿を見る。
古い紙。
丁寧な文字。
母が生きていたころに書かれたものだと思うだけで、胸の奥が締めつけられた。
「昨日話していた木箱だが」
セドリックが一枚の紙を指す。
「祖母上の記憶と一致する記載があった」
「本当に?」
「うん」
セドリックは読み上げる。
「野薔薇彫刻入り木製装身具箱。アデライン・ロシュフォール個人所有。婚姻時持参品」
エレノアの指先が僅かに震えた。
「お母様の……」
「少なくとも、そういう箱が実在してベルナール家へ持ち込まれたことは確認できた」
アルフォンスは慎重に言う。
「ただし、姉上の死後に誰が正式に相続したかは、この記録だけでは分からない」
「私のものだったかは、まだ分からないんですね」
「ああ」
エレノアは少し残念に思った。
けれど、その気持ちを隠す必要もない気がした。
「……私のものだったらいいなって、思っています」
「そうか」
「だめですか?」
「なぜだめなんだ?」
逆に尋ねられ、エレノアは言葉に詰まる。
「欲しがるのは……よくないことなのかなって」
「自分の母親が使っていたものを手元に置きたいと思うことが?」
「……はい」
「俺も欲しいぞ」
あまりに即答され、エレノアは目を瞬いた。
「叔父様も?」
「姉上の物なら何でも欲しい」
「父上、それを今言うとエレノアと取り合いになりますよ」
セドリックが呆れたように言う。
「取り合わん。エレノアの物ならエレノアの物だ」
「でも欲しいんでしょう?」
「欲しいと思うことと、奪うことは別だ」
アルフォンスは真顔だった。
エレノアはしばらく叔父を見る。
それから、ふっと口元が緩んだ。
「……そうですね」
「ああ」
「欲しいと思ってもいいんですね」
「もちろんだ」
欲しい。
嫌だ。
好き。
怖い。
帰りたくない。
会いたい。
それらはすべて、自分の中に浮かんだだけで誰かを傷つけるものではない。
その気持ちをどう扱うかは、そのあと考えればいい。
「それから、これもあった」
セドリックが別の箇所を示す。
「青石を使った髪飾りそのものはこの帳簿には載っていない。当然だけど、僕があとから贈ったものだからね」
「はい」
「でも、僕の方の記録が残っていた」
「お兄様の?」
「贈答品の記録」
セドリックが少し照れくさそうに笑う。
「公爵家はこういうところだけは細かいんだ」
「だけは余計だ」
アルフォンスが言う。
「十一歳の誕生日に、青い石を使った髪飾りをエレノアへ贈った記録がある。だから、少なくとも僕が贈ったこと自体は確認できた」
「じゃあ、あれは本当に私のもの?」
「贈った時点でね」
胸の奥が温かくなる。
昨日までは曖昧な記憶だった。
今は記録がある。
自分へ贈られたもの。
「見つかるでしょうか」
「分からない」
セドリックは期待させるための嘘を言わなかった。
「でも、探すことはできる」
「はい」
エレノアは頷いた。
それで十分だった。
「もう一つ」
アルフォンスが別の書類を取る。
「これは姉上が亡くなったあとの財産整理に関する、公爵家側の控えだ」
エレノアは顔を上げる。
「当時、姉上個人の所有品について、ベルナール家側から一覧が送られてきている。ただし、かなり大まかなものだ」
「木箱は?」
「装身具類として一括されている可能性がある。個別名はない」
「そうですか……」
「だから、ベルナール家側に残っている原本や詳細記録を確認する必要がある」
「お父様に頼むんですか?」
「ああ」
少し怖い。
母の物まで調べることで、父がまた怒るのではないか。
「怒りませんか?」
「怒るかもしれない」
アルフォンスは否定しない。
「でも、確認はする」
「叔父様は怖くないんですか?」
何気なく尋ねた。
アルフォンスが少し考える。
「怖いものはある」
「あるんですか?」
「あるに決まっている」
意外だった。
叔父は何でもできるように見える。
公爵で。
父より爵位が高く。
昨日も父を前に一歩も引かなかった。
「何が怖いんですか?」
「大切な家族を失うことだ」
エレノアは息を止めた。
「一度、姉上を失った」
アルフォンスは帳簿へ目を落とす。
「そのあと、お前とも距離ができた。俺はそれを、仕方がないことだと自分へ言い聞かせていた」
「叔父様……」
「だから今は、お前が助けてほしいと言ったのに、また何もしないままになることの方が怖い」
胸の奥が熱くなる。
「でも」
アルフォンスは顔を上げた。
「怖いからといって、お前の代わりに全部を決めていい理由にはならない」
エレノアは静かに頷いた。
「私も、怖いです」
「ああ」
「でも、知りたいです」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
アルフォンスとセドリックがエレノアを見る。
「何を?」
「ベルナール家で、何があったのか」
言葉にすると、怖さが強くなる。
右腕の痣。
背中。
脇腹。
食事。
消えた母の物。
届かなかった手紙。
いなくなったマーサ。
思い出せない出来事。
「全部を一度には無理かもしれません」
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
「聞いたら、怖くなるかもしれません。思い出したくないことも、思い出すかもしれないです」
「なら、急がなくてもいい」
「はい。でも」
以前の自分なら、知らない方がいいと思った。
何も見なければ。
何も聞かなければ。
怒られないようにしていれば。
それで日々は過ぎていった。
その先にあったのが、あの処刑台だった。
(今度は、知らないままにしたくない)
未来の冤罪まで今すぐ調べられるわけではない。
クロノアにも、人間社会のすべては分からない。
だからこそ、自分の周りで起きていたことくらいは知りたいと思った。
「今度は、私も知りたいです」
エレノアは言った。
「誰かに全部調べてもらって、あとから結果だけ聞くんじゃなくて……私も、聞けることは聞きたいです」
アルフォンスはすぐに賛成しなかった。
「無理をしてでも?」
「それは……嫌です」
「途中でやめても?」
「はい」
「今日知りたいと思っても、明日は知りたくないと思うかもしれないぞ」
エレノアは少し考える。
「そのときは、明日の私が決めます」
アルフォンスの表情が柔らかくなった。
「分かった」
セドリックも笑う。
「じゃあ、そうしよう」
「はい」
「ただし、一つだけ約束して」
「何ですか?」
「思い出せないことを、無理に思い出そうとしないこと」
エレノアは右腕へ視線を落とす。
「……はい」
「分からないなら、分からないでいい」
「クラリス先生にも言われました」
「なら先生の言うことを聞こう」
「お兄様もですか?」
「僕も。父上も」
「俺まで勝手に入れるな」
「違うんですか?」
「違わん」
エレノアは思わず笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午前、ベルナール伯爵家ではマーサへの聞き取りが始まった。
場所は使用人区域ではなく、一階の小さな面談室が選ばれた。
ロベルト。
ベルナール家の家令。
そしてロシュフォール公爵家から派遣された家令補佐の三人が同席している。
ヴァレリアはいなかった。
ロベルトがそう決めた。
「座ってくれ」
マーサは緊張した面持ちで椅子へ腰掛けた。
「失礼いたします」
手には、昨日エレノアから届いた手紙を持っている。
ロベルトの視線が一瞬そこへ向かった。
封は開いている。
だが、中身は知らない。
「最初に確認する」
ロベルトが口を開く。
「エレノアからの手紙について、内容を話す必要はない」
マーサが驚いたように顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「あれはお前宛てだ」
言ってから、ロベルト自身が僅かに表情を硬くした。
今までの自分なら、そんなことを言っただろうか。
「今日聞きたいのは、お前がエレノア付きだったころに見聞きしたことだ」
「承知いたしました」
「分からないことは分からないと言ってくれ。推測なら推測だと」
それは昨夜から何度もアルフォンスに言われた考え方だった。
事実と推測を分ける。
誰かを犯人と決める前に、まず何が起きていたのかを確認する。
「まず、お前がエレノア付きになったのはいつだ」
「アデライン様がお亡くなりになってから、およそ一年後でございます」
「何年ほど仕えた」
「専属に近い形では三年ほどでございます。その後、リネン管理へ異動いたしました」
「異動理由を聞かされたか」
マーサは少し迷った。
「お嬢様への接し方について、出過ぎた真似が多いと」
「誰から」
「当時の侍女長からでございます」
「ヴァレリアの侍女長か」
「はい」
ロベルトの表情が硬くなる。
「具体的に何をした」
「……お嬢様のお食事について、何度か確認いたしました」
「食事?」
「はい」
マーサは膝の上で手を握る。
「お嬢様が以前より痩せられたように見えましたので」
「いつ頃だ」
「私が異動になる数か月前からです」
「食べていなかったのか」
「分かりません」
マーサは首を振る。
「私がお食事を直接管理していたわけではございません。ただ、朝食を召し上がっていないように見える日や、昼を過ぎても何も口にされていないように見える日がございました」
「本人には聞いたのか」
「はい」
「何と」
「『食べています』と」
ロベルトの喉が動く。
「なら、なぜ疑った」
「ある日、お嬢様のお部屋へ伺った際に、夕食前にもかかわらず、固くなったパンを召し上がっていたことがございました」
「パン?」
「厨房で残ったものだったと思います」
「なぜそんなものを」
「尋ねました。ですが、お嬢様は『これで十分だから』と」
室内が静かになる。
「そのことを報告したのか」
「侍女長へ」
「返事は」
「お嬢様は食が細いから、余計な世話を焼くなと」
ロベルトは何も言わない。
「ほかには」
「お怪我をしているように見えたことがございます」
「どこだ」
「腕です」
ロベルトの指が僅かに動いた。
「見たのか」
「袖口から、少しだけ」
「どんな傷だ」
「痣のように見えました。ただし、きちんと確認したわけではございません」
「本人には」
「転んだと仰いました」
「それだけか」
「……いいえ」
マーサが一度息を吸う。
「着替えのお手伝いをお断りになることが増えました」
「いつから」
「正確には覚えておりません。ですが、以前は私がお手伝いしても問題なかったのに、あるころからご自分でなさるようになりました」
「理由は」
「『もう自分でできます』と」
ロベルトは目を閉じた。
今なら、その言葉を別の意味で聞いてしまう。
「なぜ俺に言わなかった」
思わず出た。
マーサの顔が強張る。
家令が僅かに視線を動かした。
ロベルトは自分の言葉に気づく。
まただ。
なぜ娘が言わなかった。
なぜ使用人が言わなかった。
自分は聞いたのか。
「……いや」
ロベルトは息を吐く。
「責めているわけではない。報告しようとしたことは?」
マーサはしばらく黙った。
「ございます」
ロベルトの顔が上がる。
「いつだ」
「異動の少し前です」
「誰に」
「旦那様へ直接お話ししたいと、家令補佐へ申し出ました」
室内にいるベルナール家の家令が顔を上げる。
「当時の家令補佐は」
「先代の家令補佐でございます。すでに退職しております」
「それで?」
「数日後、侍女長から呼ばれました」
「何と言われた」
「主人の家庭方針へ使用人が口を出すものではないと」
ロベルトの表情が消える。
「そのあと、異動か」
「はい」
「俺への面会は?」
「叶いませんでした」
「……」
「旦那様からの配置転換命令だと聞きました」
ロベルトは何も言えなかった。
命令した。
覚えている。
ヴァレリアから、エレノア付きの侍女が分を越えて口を出していると聞いた。
書類を確認し。
署名した。
本人へ聞かず。
エレノアへも聞かず。
「お嬢様は」
マーサが続ける。
「私が異動するとお伝えしたとき、最初に謝られました」
「何と」
「『私が困らせたからですよね。ごめんなさい』と」
ロベルトの目が揺れる。
「私は違うと申し上げました。でも、お嬢様は何度も謝っておられました」
昨夜の娘の声が蘇る。
『失敗したら私が悪いし、怒らせたら私が悪いし』
あれは突然生まれた言葉ではない。
もっと前から。
「もう一つ」
マーサの声が少し震えた。
「これは、私の推測を含みます」
「言ってくれ」
「お嬢様は、誰かが大きな声を出すと怯えておられました」
ロベルトは黙って聞く。
「ですが、それが誰か特定の方を恐れていたのか、大きな音そのものが苦手だったのかは分かりません」
「ヴァレリアを怖がっていたか」
マーサはすぐには答えなかった。
「私には断定できません」
「そうか」
「ただ」
「何だ」
「ヴァレリア奥様がいらっしゃると、お嬢様はよく謝っておられました」
ロベルトの表情が硬くなる。
「何について」
「それが、私にはよく分からなかったのです」
「分からない?」
「はい。座る位置や、お茶を飲む速さ、ミレーヌお嬢様より先に菓子へ手を伸ばしたこと。そういうことで、すぐに『ごめんなさい』と」
ロベルトは息を止めた。
「ヴァレリアが謝らせたのか」
「直接そのように命じたところを、私は見ておりません」
マーサは事実と推測を分けた。
「ですから、なぜお嬢様がそうなさっていたのかは分かりません」
ロベルトは背もたれへ身体を預ける。
昨日までなら。
それでも証拠にはならないと言ったかもしれない。
今も、証拠ではない。
誰が娘を殴ったのか。
誰が食事を止めたのか。
まだ分からない。
だが。
(俺は、何も知らなかった)
知らなかったことだけは、もう否定できなかった。
そして。
知らなかったのは、娘が何も言わなかったからだけではない。
「マーサ」
「はい」
「当時、お前の話を聞かなかったことについては……」
言葉が止まる。
謝罪。
簡単に口にしていいものなのか。
それすら分からない。
「いや」
ロベルトは首を振った。
「今は、続きを聞かせてくれ」
「承知いたしました」
マーサは頷いた。
まだ聞き取りは終わらない。
けれど、初めてだった。
ベルナール家の中で、エレノアが「大丈夫」と言っていたその外側に何があったのかを、誰かが正式に聞こうとしていた。
◇ ◇ ◇
午後。
ロシュフォール公爵邸の東の庭で、エレノアは一人ではなく、セドリックと並んで歩いていた。
少し離れたところには侍女がいる。
監視ではない。
必要になったときに呼べる距離。
「疲れてない?」
セドリックに聞かれ、エレノアは少し考えた。
「少し」
「戻る?」
「もう少し歩きたいです」
「分かった」
すぐに答えが返る。
歩調もエレノアに合わせている。
「お兄様」
「うん?」
「今日、マーサの話を聞いているんですよね」
「今ごろはね」
「何を話しているんでしょう」
「気になる?」
「はい」
エレノアは正直に答える。
「怖くもあります」
「そっか」
「私の知らない私のことが出てきそうで」
セドリックはすぐに慰める言葉を重ねなかった。
「それは怖いかもしれないね」
「はい」
「聞きたくないことがあったら、聞かなくてもいいからね」
「でも、知りたいです」
「うん」
「変ですか?」
「全然」
風が吹く。
木々の葉が揺れ、柔らかな音を立てる。
「僕だったら」
セドリックが少し考えながら言う。
「自分の知らないところで自分について話されていたら、かなり気になると思う」
「お兄様でも?」
「もちろん」
「もっと平気なのかと思っていました」
「僕を何だと思ってるの?」
「何でも知っていて、何でもできる人?」
セドリックが吹き出した。
「父上にも同じようなことを思ってなかった?」
「思っていました」
「親子揃って過大評価されてるなあ」
「違うんですか?」
「違うよ」
笑いながら答える。
「分からないことだらけだし、間違えることもある」
「……間違えたら?」
「謝る」
「怒られませんか?」
「怒られることもあるよ」
「怖くないんですか?」
「相手による」
セドリックは少し笑う。
「でも、間違えたからって殴られて当然だとは思わない」
その言葉に、エレノアの足が止まった。
セドリックもすぐ止まる。
「ごめん。急だったね」
「……いいえ」
エレノアは右腕へ視線を落とした。
「まだ、そこがよく分からないです」
「うん」
「先生にも、お祖母様にも言われました。失敗したことと、殴られたことは別だって」
「うん」
「頭では……少し分かります」
でも。
身体は違う。
何かを落とすと心臓が跳ねる。
誰かの声が強くなると謝りたくなる。
失敗すれば、そのあと何かが起きると思ってしまう。
「お兄様」
「何?」
「私、もしここで何か壊したら、どうなりますか?」
「物によるかな」
予想外の答えに、エレノアが目を瞬く。
「物?」
「例えば、すごく古い貴重品を壊したら父上はかなり落ち込むと思う」
「怒りますか?」
「わざとじゃないなら、まず怪我してないか聞くんじゃないかな。そのあと、どうして壊れたか確認する」
「それだけ?」
「それだけじゃないかも。危ないことをして壊したなら注意はされると思うよ」
「罰は?」
「必要ならあるかもしれない」
エレノアの身体が僅かに固くなる。
セドリックは続けた。
「例えば、危ない場所へ勝手に入ったなら、しばらくそこへ近づかないよう言われるとかね。でも、殴ることを罰とは呼ばないよ」
エレノアは黙った。
「注意されることと、傷つけられることは違う」
「……はい」
「それに、ただ手が滑って皿を割ったくらいなら」
セドリックは肩を竦める。
「片づける」
「私が?」
「いや。怪我すると危ないから使用人を呼ぶ」
「でも、割った人が片づけないと」
「破片で手を切る方が困るよ」
エレノアの胸がざわつく。
白い皿。
床へ落ちる音。
散らばった破片。
『何度言えば分かるの?』
腕を掴む指。
「……エレノア?」
声が遠くなる。
白い破片。
拾わなければ。
早く。
怒られる。
「ごめんなさい」
「エレノア」
「すぐ片づけます」
「今、何も割れてないよ」
その言葉で、景色が戻る。
庭。
緑。
風。
目の前にいるセドリック。
エレノアは何度か瞬きをした。
「……あ」
「ここは庭だよ」
「はい」
「何も割れてない」
「はい」
「触ってもいい?」
セドリックが手を伸ばさずに尋ねる。
エレノアは少し迷ってから、首を横へ振った。
「今は……いいです」
「分かった」
手は伸びてこない。
それだけで呼吸が戻ってくる。
「ごめんなさい」
言ったあと。
自分で気づいた。
「……違う」
「うん」
「謝らなくていいんですよね」
「少なくとも、今のことで僕に謝る必要はないよ」
エレノアはゆっくり息を吐く。
「白いお皿でした」
セドリックは黙っている。
「たぶん」
「うん」
「落としたんだと思います」
「うん」
「誰かに……腕を掴まれて」
そこから先が見えない。
「分かりません」
「それでいいよ」
セドリックは何も補わなかった。
「戻ろうか?」
今度は。
エレノアは少し考えてから頷いた。
「はい。今日は、戻りたいです」
「分かった」
二人は屋敷へ向かう。
セドリックは触れない。
エレノアが自分の足で歩ける速度に合わせて、隣を歩くだけだった。
◇ ◇ ◇
夕方。
マーサへの聞き取り内容をまとめた報告書が、ロシュフォール公爵邸へ届けられた。
アルフォンスは執務室でそれを受け取った。
すぐにはエレノアへ持っていかない。
まず自分で読む。
食事。
固くなったパン。
腕の痣。
着替えを拒むようになったこと。
頻繁な謝罪。
ヴァレリアの前で特に謝罪が増えていたという観察。
マーサがロベルトへの直接報告を求めたあと、侍女長から注意を受け、配置転換されたこと。
どれも単独では、誰が何をしたかを決めるものではない。
けれど、これまで見つかった記録と重なる部分がある。
アルフォンスは報告書を机へ置いた。
「父上」
セドリックが向かい側に座る。
「どうでした?」
「よくない」
「マーサさんの話?」
「ああ」
アルフォンスは息子へ必要な範囲を説明した。
セドリックの表情が次第に硬くなる。
「ヴァレリア夫人は?」
「まだ断定するな」
「分かってます」
セドリックは拳を握る。
「でも」
「俺も同じ気持ちだ」
アルフォンスの声は低い。
「だからこそ急ぐな」
怒りに任せて犯人を決めれば、エレノアのためにならない。
それに。
「伯爵が聞き取りに応じたのは意外でした」
「少しは、自分が何も見ていなかったことに気づいたのかもしれない」
「許せますか?」
アルフォンスは黙った。
姉の娘。
痣。
食事。
助けを求める手紙。
十五年間。
「今、俺が許すかどうかは重要じゃない」
やがて答える。
「エレノアがどう思うかだ」
「はい」
「それに、知らなかったことと責任がないことは同じじゃない」
「……そうですね」
「だが、責任があることと、すべての加害者だと決めつけることも同じじゃない」
セドリックは頷いた。
「エレノアには?」
「本人へ聞く」
「聞きたいかどうかを?」
「ああ」
アルフォンスは報告書を閉じた。
◇ ◇ ◇
夕食前。
エレノアの部屋を訪れたアルフォンスは、まず扉の外から入室の許可を求めた。
「どうぞ」
中へ入ると、エレノアは窓際の椅子へ座っていた。
机の上には昨日作り始めた「自分のもの」の一覧が置かれている。
「叔父様」
「少しいいか?」
「はい」
「マーサへの聞き取りが終わった」
エレノアの表情が変わる。
「……そうですか」
「ああ」
「マーサは、大丈夫でしたか?」
「少なくとも報告を見る限り、無理に話させられた様子はない。お前の手紙も受け取っている」
「よかった」
「内容を聞きたいか?」
来た。
朝、自分で言った。
知りたいと。
けれど、今になって胸が苦しくなる。
「怖いです」
「ああ」
「聞きたいです」
「今?」
エレノアは少し考える。
さきほど庭で白い皿を思い出したばかりだ。
まだ身体に疲れが残っている。
「……全部は、今日は無理かもしれません」
「なら全部聞く必要はない」
「少しだけ」
「分かった」
アルフォンスは向かいの椅子へ座る。
近すぎない距離。
「マーサは、お前が以前より痩せたように見えて、食事について何度か確認していたそうだ」
「はい」
「お前は食べていると答えていた」
エレノアは記憶を探す。
「……言った気がします」
「ある日、夕食前に、お前が固くなったパンを食べていたのを見たそうだ」
胸の奥が揺れる。
固いパン。
口の中が乾く。
「厨房の……」
言葉が漏れた。
アルフォンスは待つ。
「厨房の端に、残ったパンを置く場所がありました」
「覚えている?」
「少し」
「続ける?」
エレノアは迷う。
「はい」
「マーサが理由を聞いたとき、お前は『これで十分だから』と答えたそうだ」
その言葉。
覚えている。
十分。
食べられるだけありがたい。
残っているなら、それでいい。
「私……」
エレノアは膝の上で手を握る。
「お腹、空いてたと思います」
アルフォンスの表情が揺れる。
けれど、声は変えない。
「そうか」
「でも、ご飯の時間に行けなかったのかもしれません」
「そうかもしれない」
「私が悪かったのかも」
「それも、まだ分からない」
エレノアは顔を上げる。
叔父は否定しなかった。
けれど、肯定もしない。
「ただ」
アルフォンスが続ける。
「十五歳にもなっていない子供が、何度も食事を逃して固い残り物を食べていたのなら、大人が理由を確認するべきだったと俺は思う」
「……はい」
「お前が悪いと決める前にな」
エレノアはゆっくり頷いた。
「今日はここまでにする?」
まだ報告は残っている。
分かる。
でも。
身体が少し重い。
「……はい」
言えた。
「今日は、ここまでがいいです」
「分かった」
アルフォンスは報告書を閉じる。
責めない。
残りを無理に聞かせない。
「叔父様」
「何だ?」
「明日になったら、続きを聞いてもいいですか?」
「もちろんだ」
「明日、やっぱり聞きたくないって言っても?」
「ああ」
エレノアは少し笑った。
「ありがとうございます」
アルフォンスが立ち上がる。
扉へ向かう前に、エレノアはもう一度呼び止めた。
「叔父様」
「ん?」
「私、今日、少し思い出しました」
アルフォンスの足が止まる。
「白いお皿のことです」
「……そうか」
「セドリックお兄様と庭にいたときに」
「つらかった?」
「はい。でも」
エレノアは右腕へ視線を落とす。
「途中でやめられました」
「そうか」
「分からないって言えました」
アルフォンスの顔が僅かに緩む。
「それなら十分だ」
「はい」
扉が閉まる。
エレノアは一人になった部屋で、机の上の紙を見る。
『私がこれから選ぶもの』
昨日、自分で書いた言葉。
その下はまだ空白だった。
エレノアは筆を取る。
何を書こうか考える。
そして、ゆっくり一行を加えた。
『知りたいことを、自分で決める』
少し変な書き方かもしれない。
物ではない。
けれど、消したくなかった。
過去を知ることも。
知らないままでいることも。
今は聞かないことも。
明日聞くことも。
誰かに決められるのではなく、自分で選びたい。
全部を一度に取り戻す必要はない。
今日は少しだけ。
明日も、できるなら少しだけ。
エレノアは筆を置いた。
窓の外では、夕暮れが庭を淡い橙色に染め始めている。
怖い。
それは消えない。
知れば傷つくこともあるかもしれない。
自分が信じていたものが、違っていたと分かる日も来るかもしれない。
それでも。
(今度は、私も知りたい)
誰かが作った答えを与えられるのではなく、自分の目で確かめ、自分の心で考えたい。
その願いもまた、エレノアが自分で選んだものだった。




