第16話 知らなかったことを、少しずつ
翌朝、エレノアは窓を叩く小さな雨音で目を覚ました。
厚い雲に覆われた空から細かな雨が降り続いており、窓硝子を伝った雫が幾筋もの線を作っている。晴れた日には朝の光がたっぷりと差し込む客室も今日は少し薄暗く、火の残る暖炉から漂う穏やかな温もりが、外の冷えた空気を遠ざけていた。
(雨……)
寝台の中で目を瞬きながら、エレノアはしばらくその音を聞いていた。
ベルナール家にいたころ、雨の日はあまり好きではなかった。
庭へ出られないからではない。屋敷の中にいる時間が長くなり、廊下や階段ですれ違う人が増えるからだった。
誰かに呼び止められるかもしれない。何かを頼まれるかもしれない。失敗して、叱られるかもしれない。
そんなふうに考えながら、なるべく自室から出ないようにしていた日もあった気がする。
けれど、その記憶さえ今は輪郭が曖昧だった。
(本当にそうだったのかな)
昨日なら、答えを探そうとしていたかもしれない。
今は違う。
(分からないなら、まだ分からなくていい)
そう思えるだけで、頭の奥へ力を込めて記憶を引きずり出そうとせずに済んだ。
やがて控えめなノックが響き、侍女が入室の許可を求める。エレノアが返事をすると、朝の支度を整えた侍女が入ってきた。
「おはようございます、エレノアお嬢様。本日は少し冷えますので、厚手の羽織もご用意しております」
「ありがとうございます」
寝台から下りたエレノアは、長椅子に用意された衣服へ目を向けた。
昨日着た淡い緑色のドレスとは別に、今日は生成りと薄紫の二着が置かれている。どちらも身体を強く締めつけない形で、右腕や脇腹へ負担がかからないよう仕立てが調整されていた。
「どちらになさいますか?」
エレノアは二着を見比べる。
昨日までなら、どちらが正しいかを考えただろう。
朝食の席にふさわしいのはどちらか。祖父母が好みそうなのはどちらか。公爵家の客として失礼ではないのはどちらか。
けれど今日は、布地へ触れながら少し考えたあと、薄紫の方を選んだ。
「こっちがいいです」
「かしこまりました」
「それから……今日は青いリボンを使います」
「はい」
侍女が机の上から淡い青色のリボンを取る。
昨日は何も髪につけなかった。
その前は黄色を選んだ。
今日は青。
どれか一つを好きな色に決めなくてもいい。昨日の自分と今日の自分が違っても、誰かに叱られるわけではない。
髪を結ってもらいながら鏡を見ると、エレノアは少しだけ口元を緩めた。
「青も、やっぱり綺麗ですね」
「はい。ですが、昨日の何もつけていない髪型もよくお似合いでしたよ」
「何もつけなくても?」
「もちろんです」
侍女は鏡越しに微笑んだ。
「お嬢様がお好きなようになさるのが、一番かと存じます」
その言葉を聞きながら、エレノアは青いリボンへそっと触れた。
(好きなように)
まだ、その言葉には慣れない。
けれど、以前ほど怖くもなかった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアはすぐにはマーサの証言について尋ねなかった。
食後の紅茶をゆっくり飲み、オーギュストが雨のせいで庭へ出られないと不満を漏らすのを聞き、セドリックが「雨に文句を言ってもやみませんよ」と返すやり取りを眺めていた。
「昔は雨でも馬に乗っていたんだぞ」
「それで祖母上に怒られていたんでしょう?」
「怒られてなどおらん」
「叱ったわよ」
マルグリットが静かに口を挟むと、オーギュストが言葉を止めた。
「あなた、泥だらけのまま玄関へ入ってきたでしょう。しかもアルフォンスまで連れて」
「……昔の話だ」
「私まで巻き込まないでください」
アルフォンスが紅茶を飲みながら眉を寄せる。
「父上が『男なら雨くらい気にするな』と言ったんでしょう」
「お前も楽しんでいただろう」
「俺は十二歳でした」
「十二なら十分だ」
「何が十分なんですか」
三人のやり取りを聞いていたエレノアは、堪えきれずに笑った。
するとオーギュストがすぐにこちらを見る。
「エレノア、お前はどう思う?」
「え?」
「十二歳なら雨の中で馬に乗っても――」
「エレノアを巻き込まないでください」
アルフォンスが遮る。
「ずるいぞ」
「何がですか」
また始まった。
エレノアは口元へ手を添えながら、しばらく笑っていた。
笑ったあと、胸の奥が少しだけ軽くなっていることに気づく。
昨日はマーサの話を聞いた。
今日はその続きを聞くかもしれない。
けれど、それだけで一日を埋めなくてもいいのだ。
つらいことを調べている最中でも、朝食を食べて、家族のくだらない言い合いを聞いて笑っていい。
(ずっと怖がっていなくてもいいんだ)
そのことが、少し不思議だった。
◇ ◇ ◇
朝食からしばらくして、エレノアは自分からアルフォンスの執務室を訪れた。
扉の前まで来てから、一度だけ深く息を吸う。昨日は叔父の方から部屋へ来てくれたが、今日は自分から聞きに来ると決めていた。
ノックをすると、中から声が返る。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開けると、アルフォンスは執務机で書類を確認していた。窓際にはセドリックもおり、雨に濡れた庭を背に一冊の帳簿を読んでいる。
「エレノア?」
アルフォンスが書類から顔を上げた。
「どうした?」
「昨日の続きを……聞きに来ました」
口にしただけで胸が少し強く鳴る。
アルフォンスはすぐに報告書へ手を伸ばさなかった。
「今、聞きたい?」
「はい」
「全部?」
エレノアはそこで少し考えた。
「分かりません」
「分かった。じゃあ、聞けるところまでにしよう」
それだけだった。
全部聞くか、一つだけ聞くかを先に決めなくてもいいらしい。
アルフォンスは執務机から離れ、応接用の長椅子へ場所を移した。エレノアが向かいへ座り、セドリックは同席するか確認してから少し離れた椅子へ腰掛ける。
「昨日は食事の話までだったな」
「はい」
「その次に、マーサが話したのは傷のことだ」
エレノアの肩が僅かに強張る。
アルフォンスはそこで一度止まった。
「続ける?」
「……はい」
「マーサは、お前の袖口から腕の痣らしいものを見たことがあるそうだ。ただし、はっきり確認したわけではない」
「腕……」
「聞いたとき、お前は転んだと答えたらしい」
エレノアは右腕へ視線を落とした。
今も袖の下には痣が残っている。
「私、よく転んでたんでしょうか」
「俺には分からない」
「マーサも?」
「分からないと言っている」
誰も勝手に答えを作らない。
エレノアは袖の上から腕へ触れた。
(転んだって、本当に思ってた?)
思い出せない。
誰かにそう言えと言われたのかもしれないし、自分で考えたのかもしれない。
ただ。
「転んだって言えば……それ以上聞かれないから?」
口から出た言葉に、自分自身が驚いた。
アルフォンスもセドリックも、すぐには答えない。
「そう思う理由がある?」
アルフォンスが静かに尋ねた。
「分かりません」
エレノアは首を振る。
「でも、なんとなく……そう言っておけばいいって思っていた気がします」
「そうか」
「思っていただけかもしれません」
「ああ。それでも構わない。今はそう感じた、というだけ覚えておけばいい」
エレノアは頷いた。
「それから、マーサは着替えの手伝いについて話している」
「着替え?」
「以前はマーサに手伝ってもらっていたが、ある時期から断るようになったそうだ。『もう自分でできます』と言っていたらしい」
エレノアの指が止まる。
昨日の朝も、一人で着替えたいと言った。
理由は。
痣を見られたくなかったから。
「……今と同じ」
小さく漏れた。
「何が?」
「ここへ来てからも、最初に着替えるとき、一人がいいって言いました」
「そうだったのか」
「痣を見られたくなかったからです」
言葉にすると、胸が苦しくなる。
「じゃあ、昔も……」
そこから先を言いかけたとき、アルフォンスが静かに止めた。
「同じ理由だった可能性はある。だが、まだ分からない」
「……はい」
「自分でできるようになったから手伝いが不要になった可能性もあるし、別の理由かもしれない。今のお前と似ているからといって、過去も必ず同じだったとは決めない方がいい」
エレノアは少しだけ驚いた。
叔父なら、自分が傷を隠していた証拠だと言うかと思った。
けれど、言わなかった。
「叔父様は、私が傷を隠していたと思わないんですか?」
「思うかどうかなら、可能性は考えている」
アルフォンスの声は穏やかだった。
「だが、俺がそう思うことと、それが事実だと決めることは別だ」
昨日聞いた言葉と似ている。
欲しいと思うことと、奪うことは別。
疑うことと、決めつけることも別なのだろう。
「……難しいですね」
「難しいな」
「叔父様でも?」
「だから昨日から何度も帳簿と報告書を読み直している」
アルフォンスが少し疲れた顔で答えると、セドリックが横から口を挟んだ。
「父上、昨夜も遅かったんですよ」
「余計なことを言うな」
「エレノアには休めって言うくせに」
「お前もだ」
「僕は寝ました」
「嘘をつけ。書庫の灯りが消えたのはかなり遅かったぞ」
二人が互いを見る。
エレノアは少し眉を下げた。
「……二人とも、休んでください」
「ほら」
セドリックが父を見る。
「お前も言われているんだぞ」
「僕は父上より寝てます」
「比べるな」
深刻な話をしていたはずなのに、少しだけ空気が緩んだ。
エレノアは胸の前で息を整える。
まだ聞ける。
「続き、聞きたいです」
アルフォンスは一度エレノアの表情を確かめてから、報告書へ視線を戻した。
「マーサは、食事や傷について気になったことを、当時の侍女長へ何度か伝えたそうだ」
「侍女長……」
「ヴァレリア夫人付きの侍女長だ」
身体の奥が冷える。
アルフォンスはそれに気づいたのか、すぐに続ける。
「その侍女長が何を知っていたかは、まだ分からない。マーサによれば、食事について相談した際には『お嬢様は食が細いから、余計な世話を焼くな』という趣旨のことを言われたそうだ」
「食が細い……」
エレノアは記憶を探す。
食べる量。
幼いころ。
母がいたころ。
何も浮かばない。
「私、本当に食が細かったんでしょうか」
「それも確認中だ。姉上が生きていたころの記録や、昔から仕えている使用人の話が残っていれば分かるかもしれない」
「クラリス先生には?」
「今のお前の状態だけで、何年も前の食事量までは分からない」
「そうですよね」
エレノアは小さく息を吐いた。
また一つ、分からない。
けれど、その言葉に以前ほど焦らなくなっている。
「マーサは、私のお父様にも話そうとしたんですか?」
アルフォンスの目が僅かに動いた。
「……そこも聞く?」
「はい」
「マーサは、当時の家令補佐を通じてロベルト伯爵へ直接話したいと申し出たそうだ」
エレノアは顔を上げた。
「お父様に?」
「ああ。だが、面会はできなかった」
「どうして?」
「分からない」
アルフォンスはそこで事実だけを並べた。
「マーサが面会を申し出た数日後、侍女長から『主人の家庭方針へ使用人が口を出すものではない』という趣旨の注意を受けた。その後、マーサはお前付きから外されてリネン管理へ移された」
エレノアの唇が僅かに開く。
「それ……」
胸の中で何かが繋がりそうになる。
マーサが自分を心配した。
父へ話そうとした。
そのあと、いなくなった。
「お父様が、マーサを外したんですか?」
「最終的な配置転換命令に署名したのは伯爵だ」
「……どうして」
「伯爵自身の説明では、ヴァレリア夫人から、マーサがお前を甘やかして教育へ口を出し、使用人として分を越えているという報告を受けたからだそうだ」
「お義母様が」
「ただし」
アルフォンスの声が少し強くなる。
「ヴァレリア夫人が、マーサがお前の状態を伯爵へ報告しようとしたことまで知っていたかは確認できていない」
エレノアは息を吐く。
また、決めてはいけないところだ。
「お父様は、マーサに聞かなかったんですよね」
「ああ」
「私にも」
「ああ」
「お義母様の話だけで?」
「少なくとも、伯爵本人はそう説明している」
胸の奥が痛んだ。
殴られたときとは違う。
もっと鈍く、重い痛みだった。
(お父様は、私よりお義母様の話を信じたの?)
そう考えた瞬間、目の奥が熱くなる。
エレノアは俯いた。
「エレノア」
セドリックの声がする。
けれど、近づいてはこない。
「私……」
声が少し震える。
「マーサがいなくなったとき、自分のせいだと思っていました」
「マーサも、そのことを話している」
アルフォンスが答えた。
エレノアは顔を上げる。
「何て?」
「配置転換を告げられたとき、お前は『私が困らせたからですよね。ごめんなさい』と何度も謝ったそうだ」
息が止まった。
覚えていない。
なのに、その言葉だけはあまりにも自分らしいと思った。
「……私、言いそうです」
「そうだな」
「今でも、言いそう」
「今は途中で気づくことも増えた」
アルフォンスの言葉に、エレノアは目を瞬く。
「昨日もセドリックへ言いかけて止めただろう?」
「……はい」
「それは前と同じじゃない」
胸の中に、小さな温かさが生まれる。
全部変わったわけではない。
今もすぐ謝る。
自分のせいだと思う。
でも、途中で気づけることがある。
「マーサは……私が悪くないって言ってくれたんでしょうか」
「配置転換のとき?」
「はい」
「違うと伝えたそうだ」
エレノアは目を閉じた。
覚えていない。
けれど、マーサは言ってくれた。
あのころにも、自分が悪くないと言ってくれた人がいた。
「……覚えてなくて、ごめ――」
そこまで口にして止まる。
アルフォンスもセドリックも何も言わない。
エレノアは自分で言い直した。
「覚えていないのが、少し悲しいです」
「うん」
セドリックが静かに答えた。
「それなら、悲しいでいいと思う」
「はい」
謝る代わりに、悲しいと言えた。
その違いは小さい。
けれど、エレノアにはとても大きく感じられた。
◇ ◇ ◇
同じころ、ベルナール伯爵家では、別の話し合いが始まろうとしていた。
朝から降り続く雨のせいで屋敷の窓は薄暗く、ロベルトの執務室では昼前にもかかわらず卓上燭台へ火が灯されている。机の上にはマーサの聞き取り記録と、ここ数年の使用人配置表が並べられていた。
ロベルトはそれらを何度も見比べていた。
マーサがエレノア付きから外された時期。
食事への疑問を持った時期。
自分への面会を求めた時期。
そして、ヴァレリアから報告を受けた時期。
完全に同じ日ではない。
それでも近い。
「旦那様」
家令が扉の前から声をかける。
「奥様がお見えです」
「入ってもらえ」
扉が開き、ヴァレリアが入ってきた。
深い葡萄色のドレスを纏い、赤褐色の髪を丁寧にまとめている。いつものように身なりには一分の隙もなく、夫の机に大量の書類が積まれているのを見ると、心配そうに眉を寄せた。
「あなた、昨夜も遅かったのでしょう? 少しお休みになった方がよろしいのではなくて?」
「座ってくれ」
ロベルトの声に、ヴァレリアの表情がほんの僅かに変わる。
だが、すぐにいつもの穏やかな顔へ戻った。
「ええ」
向かいの椅子へ腰を下ろす。
「エレノアのこと?」
「ああ」
「公爵家から、また何か言ってきたのかしら」
「マーサから話を聞いた」
ヴァレリアは目を瞬いた。
「マーサ?」
「以前、エレノア付きだった侍女だ」
「もちろん覚えているわ。少し……熱心すぎるところのあった方でしょう?」
ロベルトは机の上の記録へ目を落とす。
「お前は当時、マーサがエレノアを甘やかし、教育へ口を出していると俺に報告したな」
「ええ」
ヴァレリアは迷わず頷いた。
「覚えているわ。エレノアが幼いころの話でしょう?」
「なぜ、そう思った」
「なぜって……」
ヴァレリアは困ったように微笑む。
「マーサはエレノアを大切に思うあまり、何でも先回りしてしまっていたの。自分でできることまで手伝って、叱られれば庇って。あれでは令嬢として自立できないと思ったからよ」
「叱られれば?」
ロベルトが顔を上げる。
ヴァレリアは一拍置いた。
「教育上の注意よ。礼儀作法や生活態度についての」
「誰が叱った」
「私のこともあれば、家庭教師や侍女長のこともあったでしょう。何年も前のことを一つ一つ覚えてはいないわ」
答えは自然だった。
少なくとも、表面上は。
「マーサは、エレノアが食事を取っていないことを心配していたそうだ」
「食事?」
ヴァレリアの眉が寄る。
「エレノアは食が細かったでしょう?」
「それは誰から聞いた」
「誰から、という話ではないわ。食卓でもあまり召し上がらないことがあったもの」
「俺は覚えていない」
「あなたは毎食、子供たちと一緒ではなかったでしょう?」
静かな返答だった。
責める口調ではない。
だが、ロベルトは言葉を失った。
事実だった。
仕事。
領地。
社交。
帝都での付き合い。
家族全員で食卓を囲まない日はいくらでもあった。
「マーサは、夕食前にエレノアが厨房の残りと思われる固いパンを食べているのを見たと言っている」
「まあ……」
ヴァレリアは驚いたように口元へ手を当てた。
「それは私も知らなかったわ」
「食事を与えなかったことは?」
「あるはずがないでしょう」
今度は答えが早かった。
「少なくとも、私はそんな指示をしていないわ」
「お前が直接していなくても、侍女長がしていた可能性は?」
「それなら私も知りたいわ」
ヴァレリアはロベルトの目をまっすぐ見た。
「もし本当にエレノアへ食事が与えられていなかったのなら、許されることではないもの。厨房や侍女長へ確認するべきでしょう?」
ロベルトは黙った。
想定していた反応と違う。
もっと否定すると思っていた。
怒るかもしれないとも考えていた。
しかしヴァレリアは、自分から調査を提案している。
「あなた」
ヴァレリアの声が少し柔らかくなる。
「もしかして、私を疑っているの?」
「……まだ誰も決めていない」
「そう」
僅かな沈黙が落ちる。
窓を打つ雨音が、急に大きく聞こえた。
「なら、調べましょう」
ヴァレリアは静かに言った。
「エレノアが怪我をしていたことも、食事のことも、私だって知りたいわ。あの子が私を怖がっていると聞いて……正直、どうしていいのか分からないの」
「エレノアが怖がっていることは認めるのか」
「認めるも何も、あの子自身がそう言ったのでしょう?」
「理由に心当たりは」
ヴァレリアは視線を伏せる。
「厳しくしすぎたことは、あったかもしれないわ」
ロベルトの指が机の上で止まった。
「厳しく?」
「アデライン様を亡くしたあと、あの子はとても不安定だったでしょう。私も、あの子の母親にならなければと思っていた。けれど、私はアデライン様ではないし、貴族の娘として育ったわけでもない」
自嘲するような微笑が浮かぶ。
「だからこそ、間違ってはいけないと思っていたの。礼儀作法も、振る舞いも、しっかり身につけさせなければと」
「それで、何をした」
「注意したわ。何度も」
「手を上げたか」
空気が止まった。
ヴァレリアの目が僅かに見開かれる。
「私が?」
「答えてくれ」
「……いいえ」
今度の返答は静かだった。
「私はエレノアを殴っていないわ」
「腕を掴んだことは?」
「子供を止めるために手を取ったことくらいはあるでしょう。でも、痣が残るほど掴んだ覚えはないわ」
「皿を割ったことについて叱ったことは?」
ヴァレリアの眉が寄る。
「皿?」
「覚えていないか」
「子供が食器を割ったことなんて、一度や二度はあったかもしれないわ。ミレーヌだって小さいころには割したことがあるでしょう?」
ロベルトは彼女の顔を見続けた。
動揺しているようにも見える。
本当に覚えていないようにも見える。
あるいは。
(俺に見抜けるのか?)
その疑問が浮かんだ。
これまで、自分はヴァレリアの話を信じていた。
疑う必要がないと思っていた。
だが、信じていたから正しいとも、今疑っているから嘘だとも言えない。
「侍女長からも話を聞く」
「ええ。そうして」
ヴァレリアは反対しなかった。
「厨房の記録も確認して。エレノアの食事が本当に止められていたのなら、誰かが指示したはずでしょう?」
「そうだな」
「私も協力するわ」
ロベルトは返事をしなかった。
ヴァレリアはしばらく夫を見ていたが、やがて静かに立ち上がる。
「エレノアは……帰ってくるの?」
扉へ向かう前に尋ねた。
「分からない」
「あなたが、そう言うのね」
「本人が帰りたくないと言っている」
ヴァレリアは僅かに目を伏せた。
「そう」
それだけ言い、扉へ向かう。
「ヴァレリア」
ロベルトが呼び止めた。
「何?」
「マーサが俺へ直接話そうとしたことを、お前は知っていたか」
初めて。
ヴァレリアの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
それから振り返る。
「何の話を?」
「マーサは配置転換の前、当時の家令補佐へ、俺と直接話したいと申し出ている」
「……知らないわ」
「本当に?」
「ええ」
ヴァレリアの声は乱れなかった。
「マーサがあなたに何を話そうとしていたのかも、私は知らない」
ロベルトは黙って彼女を見る。
「それなら、当時の侍女長へ確認する」
「そうして」
ヴァレリアは今度こそ部屋を出た。
扉が閉じる。
ロベルトは長いあいだ動かなかった。
肯定する証拠もない。
否定する証拠もない。
ただ、調べなければならないことだけが増えていく。
以前の自分なら、ヴァレリアが「知らない」と言えば、それで終わっていたのかもしれない。
今は。
(エレノアにも、同じように聞いていればよかったのか)
ようやく浮かんだ問いは、あまりにも遅かった。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎたころ、エレノアはクラリスの診察を受けていた。
診察は毎日必要なものではないが、数日前に確認した痣の状態と、食事や睡眠について一度経過を見たいという話になっていた。
「腕を見てもいい?」
「はい」
「袖を上げるのは自分でできそう?」
「できます」
「では、お願いします」
エレノアは自分で右袖をゆっくりと上げる。
痣はまだ残っているが、色は少し変わっていた。
クラリスは必要以上に触れず、目で状態を確認したあと、触診が必要な場所だけ先に説明する。
「ここを少し触ります。痛かったらすぐ言ってね」
「はい」
指が触れる。
以前なら身体を固くしたかもしれない。
今日は緊張こそしたものの、息を止めずにいられた。
「痛みは?」
「少しだけです」
「昨日より?」
「減ったと思います」
「分かりました」
診察が終わると、クラリスはすぐに袖を戻すよう促した。
「食事はどう?」
「食べています」
答えた直後、エレノアは少し考える。
以前も、マーサへ同じように答えたらしい。
食べています。
それだけでは、本当のことが伝わらなかった。
「……でも」
クラリスが待つ。
「全部は食べていません」
「うん」
「昨日のお昼は少し残しました」
「そう」
「怒られませんでした」
「それはよかった」
「朝は全部食べました。今朝も、ほとんど」
「お腹が空いていた?」
「はい」
「食べたあと、気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりは?」
「ありません」
クラリスは記録へ書き込む。
エレノアはその様子を見ながら、自分から続けた。
「前は……固いパンを食べていたことがあったみたいです」
クラリスの筆が止まる。
「思い出したの?」
「少しだけです。マーサが話してくれたことを聞いて、厨房の端に残ったパンを置く場所があったことは思い出しました」
「そう」
「先生」
「なに?」
「食べられなかったから、身体が弱くなったんでしょうか」
クラリスはすぐには答えなかった。
「今の時点では、そこまで言えません」
「分からない?」
「ええ。食事が十分ではない期間が長く続けば身体へ影響することはあります。でも、あなたが実際にどのくらい食べられていなかったのか、どれくらいの期間だったのかは、まだ分かっていないでしょう?」
「はい」
「だから、今は決めつけない」
叔父と同じだ。
分からないことを、分からないまま置く。
「ただし」
クラリスは少しだけ表情を柔らかくした。
「今、お腹が空いたときに食べられていることは大事です。残したいときに残せることもね」
「残すことも?」
「身体の声を聞く練習になるから」
エレノアは少し不思議そうに首を傾げた。
「食べる練習じゃなくて?」
「食べることも、やめることも、自分で決める練習」
その言葉に、エレノアは昨日書いた一文を思い出した。
『知りたいことを、自分で決める』
食事も同じなのかもしれない。
「先生」
「はい」
「私、前より少しだけ……自分で決められるようになったと思います」
クラリスは微笑んだ。
「それは私が決めることではないわね」
「え?」
「あなたはどう思う?」
エレノアは少し考える。
青いリボン。
薄紫のドレス。
マーサの話を聞くこと。
途中で止めること。
触られたくないと伝えること。
「……なったと思います」
「なら、その感覚を大切にしましょう」
「はい」
褒められたから正しいのではない。
自分がそう思うから。
それが少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
診察を終えたあと、エレノアは廊下を歩いていた。
雨はまだやんでいない。
窓の外では庭木の葉から雫が落ち、石畳が黒く濡れている。外へ出られない代わりに屋敷の中を少し歩こうと思い、侍女とともに普段あまり使わない西側の回廊まで来ていた。
そのとき、前方から一人の若い使用人が歩いてくる。
両手には数枚の皿が載った盆。
エレノアは何気なく見た。
使用人が近づく。
次の瞬間だった。
盆の上で一枚の皿が滑った。
「あっ」
使用人が声を上げる。
白い皿が床へ落ちる。
硬い音が廊下へ響き、陶器がいくつもの破片になって散った。
エレノアの身体が凍った。
呼吸が止まる。
白い破片。
床。
音。
頭の中に、別の場所が重なった。
『何度言えば分かるの?』
腕。
掴まれる。
痛い。
拾わなければ。
(早く拾わないと)
足が一歩前へ出かける。
しかし、その前に同行していた侍女が静かにエレノアの前へ腕を出した。
「お嬢様、そのままでいてくださいませ。破片がございます」
怒鳴り声ではない。
皿を落とした若い使用人は青ざめていた。
「申し訳ございません!」
すぐに頭を下げる。
「お怪我は?」
別の使用人が駆け寄ってくる。
「ありません」
「手を出さないで。箒を持ってきますから」
「はい……」
誰も殴らない。
誰も腕を掴まない。
皿を落とした使用人は怯えているが、周囲はまず怪我がないかを確かめている。
エレノアは動けないまま、その光景を見ていた。
(違う)
胸が激しく上下する。
(あのときと、違う)
けれど、身体はすぐには理解してくれない。
「お嬢様?」
侍女が心配そうに呼ぶ。
「触らないで……」
反射的に出た。
侍女はすぐに一歩下がる。
「はい。触りません」
エレノアは何度か呼吸を繰り返した。
昨日、セドリックが言った。
皿を割ったら、まず怪我をしていないか確認する。
破片は危ないから、使用人を呼ぶ。
今、目の前で本当にそうなっている。
皿を落とした使用人へ、年上の使用人が尋ねる。
「手は本当に大丈夫?」
「はい」
「なら、次から盆へ載せすぎないように。雨の日は床も滑りやすいから気をつけて」
「申し訳ありません」
「謝るのはそれで十分。箒をお願い」
「はい」
それだけだった。
注意はされた。
けれど、傷つけられなかった。
エレノアの目から、突然涙がこぼれた。
「お嬢様……」
「大丈夫、じゃ……」
いつもの言葉を言いかける。
違う。
「……少し、怖いです」
「かしこまりました」
「部屋に戻りたいです」
「はい。別の廊下から参りましょう」
侍女は触れず、少し前を歩く。
エレノアは白い破片を一度だけ振り返った。
誰も怒鳴っていない。
誰も殴られていない。
皿はただ、皿だった。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ったあと、エレノアはしばらく長椅子へ座っていた。
侍女が温かい飲み物を用意するか尋ねたので、少し考えてから頼んだ。蜂蜜を入れた温かなミルクが届き、両手でカップを包むと、冷えていた指先へ少しずつ熱が戻ってくる。
(怖かった)
認める。
皿が割れただけなのに、怖かった。
けれど、それを「大したことじゃない」と消す必要もない。
ノックが響いたのは、それからしばらくしてからだった。
「エレノア、入ってもいい?」
セドリックの声だった。
「はい」
扉が開く。
セドリックは入ってきたものの、すぐ隣には座らず、少し離れた椅子を指した。
「ここ、いい?」
「はい」
腰を下ろす。
「廊下で皿が割れたって聞いた」
「はい」
「怪我は?」
「ありません」
「よかった」
それから、セドリックは何も聞かなかった。
エレノアはカップの中のミルクを見る。
「昨日、お兄様が言った通りでした」
「何が?」
「皿を割った人に、最初に怪我してないか聞いていました」
セドリックは少し驚いたあと、頷いた。
「そっか」
「注意もされていました」
「うん」
「でも、殴られませんでした」
声が震える。
「誰も、腕を掴まなかった」
「うん」
「怒鳴られなかった」
涙がまた滲んだ。
エレノアはそれを拭おうとしたが、セドリックは何もせず待っている。
「私……」
言葉が詰まる。
「昨日、お兄様が言ったこと、本当だったんですね」
「うん」
「でも、私のときは……」
そこまで言って止まる。
記憶はまだない。
白い皿。
腕。
声。
それだけ。
「分からない」
「うん」
「誰だったのか、何があったのか、まだ分からないです」
「それでいいよ」
「でも」
エレノアはカップを両手で握る。
「普通じゃなかったのかもしれないって、少し……分かりました」
セドリックの表情が揺れる。
怒りではない。
悲しそうだった。
「そう思った?」
「はい」
エレノアは涙を拭う。
「皿を割ったら怒られるのは普通だと思っていました。痛いことをされても、私が割ったなら仕方ないって」
言葉にするほど、胸が痛くなる。
「でも、あの人は皿を割ったのに、怪我してないか聞いてもらっていました」
「うん」
「それを見たら……」
エレノアは俯いた。
「私も、そうしてもらってよかったのかなって」
セドリックはすぐに答えなかった。
急いで慰めるのではなく、エレノアの言葉が部屋の中へ落ち着くまで待ってから、静かに口を開く。
「僕は、そう思うよ」
エレノアが顔を上げる。
「エレノアも、怪我してないか聞いてもらってよかったと思う」
また涙がこぼれた。
けれど今度は、怖さだけではなかった。
(私も?)
失敗した自分にも。
皿を割った自分にも。
心配してもらう権利があった。
そんなことを考えたことすらなかった。
「お兄様」
「うん?」
「……手、握ってもらってもいいですか?」
セドリックの目が少し見開かれる。
すぐに柔らかな表情へ変わった。
「もちろん」
差し出された手へ、エレノアの方から手を伸ばす。
昨日は触られたくなかった。
今日は、自分から触れてほしいと言った。
セドリックの手は温かかった。
「昨日は嫌だったのに」
「今日はいいんでしょ?」
「はい」
「なら、それでいいよ」
「変わっても?」
「毎日同じじゃなくていい」
エレノアはその言葉を聞きながら、兄の手を少しだけ強く握った。
◇ ◇ ◇
夕方になっても、雨は細く降り続いていた。
エレノアは夕食の前に机へ向かい、これまで書き足してきた紙を広げる。
『お母様の木の箱』
『セドリックお兄様からもらった青い髪飾り』
『本』
『服』
『青いリボン』
『黄色いリボン』
『緑の服』
『私がこれから選ぶもの』
『知りたいことを、自分で決める』
物と気持ちが混ざった、不思議な一覧になっている。
それでも、誰かへ見せるためのものではない。
自分のための紙だ。
エレノアは筆を持った。
今日の出来事を思い出す。
マーサは、自分を心配していた。
父へ話そうとしてくれていた。
そのあと配置を外された。
自分はマーサへ謝った。
けれど、マーサは違うと言ってくれたらしい。
そして今日、皿が割れた。
誰も傷つけられなかった。
注意されることと、傷つけられることは違った。
エレノアはしばらく考え、一行を書き加える。
『失敗しても、傷つけられていいわけではない』
文字を書き終えたあと、じっと見つめる。
まだ、完全には信じられない。
頭では理解できても、身体はきっと次に皿が割れたときも怯えるだろう。
大きな声が聞こえれば謝るかもしれない。
誰かが怒った顔をすれば、自分のせいだと思うかもしれない。
(それでも、今日見た)
皿を割った人が、殴られなかった。
怪我をしていないか心配された。
注意はされたけれど、それだけだった。
それは誰かから教えられた言葉ではなく、自分の目で見たものだった。
エレノアは紙の端を指先で撫でる。
過去はまだ分からないことばかりだ。
ヴァレリアが何をしたのか。
父が何を知らなかったのか。
誰が食事を止めたのか。
どうしてマーサは自分のそばからいなくなったのか。
母の木箱はどこにあるのか。
青い髪飾りは残っているのか。
知りたいことは増えている。
それでも、一度に全部を知る必要はない。
今日、マーサの話を少し聞いた。
怖くなったら止まった。
廊下で皿が割れて、部屋へ戻りたいと言えた。
触られたくないときには断り、そのあと自分から兄へ手を握ってほしいと頼めた。
(昨日より、少しだけできた)
そう考えたところで、エレノアは筆を置いた。
廊下の向こうから夕食の準備を知らせる足音が近づいてくる。
以前なら、その音を聞いただけで姿勢を正し、何か頼まれるのではないかと身構えていたかもしれない。
今日は違った。
扉がノックされる。
「エレノアお嬢様、夕食のご用意が整いました」
「はい。今行きます」
返事をして立ち上がる。
机の上の紙は、そのままにしておいた。
隠す必要はないと思ったからではない。
見られても平気になったわけでもない。
ただ、自分の部屋へ誰かが勝手に入り、勝手に読むことはないと、少しずつ信じられるようになってきたからだった。
扉へ向かいかけたところで、エレノアは一度だけ振り返る。
紙の一番下に書いた文字が見える。
『失敗しても、傷つけられていいわけではない』
まだ、自分へ何度も言い聞かせなければならない言葉だった。
それでも、以前のエレノアなら書くことすらできなかった。
間違えれば怒られる。
怒らせれば自分が悪い。
傷つけられても、自分が原因なのだから仕方がない。
そう思っていた少女が、ほんの少しずつ別の考え方を知り始めている。
エレノアは扉を開けた。
廊下の窓の向こうでは、まだ雨が降っている。
けれど、朝より空は明るくなっていた。
雨がいつやむのかは分からない。
明日になれば晴れるのか、それともまだ降り続くのかも分からない。
分からないことは、分からないままでいい。
必要になったとき、自分で確かめればいい。
エレノアは待っていた侍女とともに、家族のいる食堂へ向かって歩き出した。




