第17話 お母様が遺したもの
雨は夜のうちに上がっていた。
朝、エレノアが目を覚ますと、窓の外には昨日までの灰色が嘘だったかのような淡い青空が広がっていた。庭の木々にはまだ無数の雫が残り、朝日を受けるたび、小さな宝石のように光っている。
窓を少し開けてもらうと、湿った土と草の匂いが部屋へ流れ込んだ。
「……いい匂い」
思わず呟くと、朝の支度を整えていたリディアが振り返った。
「雨上がりの匂いがお好きですか?」
「好き……」
そこまで言って、エレノアは窓の外を見た。
以前なら、「分かりません」と答えていたかもしれない。
けれど今は、もう一度ゆっくり息を吸ってから頷いた。
「たぶん、好きです」
「では、覚えておきますね」
「え?」
「お嬢様がお好きなものを」
リディアはそう言って、寝台脇へ用意していた衣服を整えた。
今日並んでいるのは淡い黄色と、少し青みを帯びた白色の二着だった。エレノアは迷った末、今日は白色の方を選ぶ。
「リボンはいかがなさいますか?」
「今日は……なしにします」
「かしこまりました」
すぐに返ってきた答えに、エレノアは少しだけ笑った。
昨日は青いリボンを選んだ。
今日は何もつけない。
それでいい。
(昨日好きだったものを、今日も選ばなくてもいいんだ)
そんな当たり前のことを、毎朝少しずつ覚えている気がした。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが昨日の雨で散歩を一日奪われたことについて、まだ不満を述べていた。
「たった一日でしょう?」
マルグリットが呆れたように言う。
「一日でも一日は一日だ」
「雨はあなたに許可を求めて降るわけではありませんよ」
「それは分かっている」
「分かっている人は朝から雨に文句を言いません」
向かいに座るセドリックが肩を震わせている。
エレノアもパンをちぎりながら笑った。
「お祖父様、今日は晴れましたよ」
「そうだとも。だから食後は庭へ出る」
「まだ石畳が濡れていますから、転ばないでくださいね」
「セドリック、お前はわしを何歳だと思っている」
「祖父上が転んだら、祖母上に僕たちまで怒られそうなので」
「なぜお前たちまで?」
「止めなかったからです」
「分かっているじゃない」
マルグリットがさらりと言うと、今度はアルフォンスまで笑った。
エレノアは家族の顔を順番に見る。
こういう時間に、まだ少し戸惑う。
誰かが誰かをからかっている。
けれど、誰も怯えていない。
少し強い言葉があっても、食卓の空気が凍ることはない。
昨日、廊下で皿が割れたときにも感じたことだった。
同じ「注意」でも違う。
同じ「失敗」でも、そのあとに起きることは違う。
(まだ、知らないことがいっぱいある)
それは以前なら怖いことだった。
今は少しだけ、知っていけるものにも思えた。
パンを食べ終え、エレノアは籠の中へ手を伸ばした。
二つ目。
一瞬だけ指が止まる。
けれど、そのまま取った。
今日は誰にも尋ねなかった。
セドリックが気づいたような気がしたが、何も言わない。
それも嬉しかった。
褒められなければできないことにはしたくない。
ただパンをもう一つ食べたかったから、取った。
それだけでよかった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えて食堂を出ようとしたところで、アルフォンスに呼び止められた。
「エレノア」
「はい?」
「少し話したいことがある。ただ、急ぐ話じゃない」
エレノアの足が止まる。
胸が少し緊張した。
その変化に気づいたらしく、アルフォンスはすぐに言葉を足した。
「悪い知らせではない。姉上の持ち物についてだ」
「お母様の?」
「ああ」
緊張が別のものへ変わった。
「聞きたい」
すぐに答えてから、エレノアは一度考える。
「……今、聞きたいです」
「分かった」
アルフォンスは頷いた。
マルグリットも一緒に来るか尋ねたが、エレノアは少し迷った末に首を振った。
「今日は、叔父様と二人で聞いてみたいです」
「ええ」
マルグリットは寂しそうな顔もせず、ただ微笑んだ。
「いってらっしゃい」
その反応にも、エレノアは少し驚いた。
誰か一人を選んでも、別の誰かが傷つくわけではないらしい。
◇ ◇ ◇
アルフォンスの執務室へ入ると、机の上には何冊かの古い帳簿が並べられていた。
以前見たものよりもさらに古く、革張りの表紙は角が擦れている。隣には新しく書き起こされた一覧表が置かれていた。
「昨日の午後から、姉上がベルナール家へ嫁ぐ際に持っていった品の記録を、もう一度詳しく確認させた」
「木の箱も?」
「あった」
アルフォンスは一枚の紙をエレノアの前へ置く。
「野薔薇の彫刻が入った木製の装身具箱。これは間違いなくロシュフォール家から姉上個人へ贈られたものだ」
エレノアは紙に書かれた文字を見つめた。
以前にも存在は確認されていた。
けれど、今日はさらに詳しい記録がある。
「お母様が結婚する前から持っていたんですか?」
「ああ。十八歳の誕生日に母上から贈られたものらしい」
「お祖母様が?」
「そうよ」
突然、後ろから声がしてエレノアは振り返った。
開いた扉の向こうにマルグリットが立っている。
「あ」
エレノアが驚くと、マルグリットは少し困ったように笑った。
「ごめんなさい。入ってもいいかしら?」
「はい」
「アルフォンスから、あの箱のことを調べていると聞いてね。もしあなたが嫌でなければ、私から話せることもあると思ったの」
エレノアは頷く。
「聞きたいです」
マルグリットが隣へ座る。
「あの箱はね、アデラインが十八歳になったときに贈ったの」
「どうして野薔薇だったんですか?」
「アデラインが好きだったからよ」
「お母様が?」
「ええ。庭に立派な薔薇園があるでしょう? でもあの子は、整えられた大輪の薔薇より、庭の端や森へ続く道に咲く小さな野薔薇の方を好んでいたの」
エレノアは母の肖像を思い浮かべる。
穏やかに微笑む女性。
自分には、ほとんど記憶が残っていない。
「どうして好きだったんでしょう」
「本人は『勝手に咲いているから』と言っていたわ」
マルグリットが懐かしそうに笑う。
「誰かが形を整えなくても、咲きたいところで咲いているのが好きなんですって」
エレノアは息を止めた。
「お母様が……」
「ええ」
不思議だった。
肖像画の中でしか知らなかった母が、少しだけ人間になったように感じる。
野薔薇が好きだった。
理由もあった。
十八歳の誕生日に母親から箱をもらった。
きっとその箱を開けたり、閉じたりした日もあった。
「中には何が入っていたんですか?」
「それは分からないわ。贈ったときは空だったから」
「空?」
「装身具箱だもの。何を入れるかはアデラインが決めればいいと思って」
エレノアは木箱を想像した。
母は何を入れただろう。
首飾り。
耳飾り。
指輪。
あるいは、まったく違うもの。
「その箱は……お母様が亡くなったあと、誰のものになるんですか?」
アルフォンスとマルグリットが視線を交わした。
「そこが、まだ確認できていない」
アルフォンスが答える。
「姉上個人の所有物だったことは間違いない。だが、亡くなったあとの財産整理がベルナール側でどう処理されたか、詳細な原本がこちらにはない」
「私のものだった可能性はありますか?」
「ある」
「お父様のものだった可能性も?」
「ある」
「ミレーヌのものは?」
「それは状況による。ただ、姉上とミレーヌには血縁がない。何の手続きもなく当然にミレーヌの所有物になるような品ではない」
エレノアは少し安心した。
その安心に気づき、自分で戸惑う。
(私、お母様のものをミレーヌに持っていてほしくないんだ)
そんなふうに思う自分は、意地悪なのだろうか。
顔に出たのか、マルグリットが静かに尋ねる。
「何を考えたの?」
「……言ってもいいですか?」
「もちろん」
「もし、お母様の箱をミレーヌが持っていたら……嫌だなって思いました」
言ったあと、胸がざわつく。
「ミレーヌが悪いって決まっているわけじゃないのに」
「それとこれは別よ」
マルグリットは穏やかに答えた。
「あなたが嫌だと思うことと、ミレーヌを責めることは同じではないわ」
「でも……」
「感情まで公平に分ける必要はないの」
「感情まで?」
「ええ。お母様の大切な品を、自分が持っていたい。そう思うこと自体は誰かを傷つける行為ではないでしょう?」
昨日の言葉と重なる。
欲しいと思うことと、奪うことは違う。
「私……欲しいです」
エレノアはゆっくり言った。
「もし、ちゃんと私が受け取っていいものなら、お母様の箱が欲しい」
アルフォンスの目元が僅かに緩む。
「分かった。なら、まず誰の所有物なのかを確認しよう」
「はい」
「お前のものなら、返還を求める」
「もし、お父様のものだったら?」
「そのときは、そのとき考える」
エレノアは目を瞬く。
「今、決めないんですか?」
「所有関係が分からないうちに、取り返すだの諦めるだの決めても仕方ないだろう?」
「……そうですね」
「分かってから考えればいい」
まただ。
分からないことを、先に怖がらなくていい。
エレノアは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
「もう一つある」
アルフォンスが別の紙を取り出した。
「青い石の髪飾りについてだ」
エレノアの顔が上がる。
十一歳の誕生日にセドリックから贈られたもの。
自分には、その記憶がほとんどない。
「こちらの贈答記録では、確かにお前へ贈ったものになっている。セドリックが自分の小遣いから代金を出した記録まで残っていた」
「お小遣い?」
「あいつ、当時かなり使ったらしいぞ」
「叔父様」
扉の外から低い声がした。
アルフォンスが固まる。
エレノアが振り返ると、そこにセドリックが立っていた。
「……いつからいた?」
「僕の小遣いの話を始めたところからです」
「そうか」
「そうか、じゃありません」
セドリックはため息をつきながら入ってくる。
「別に隠していたわけではありませんけど」
エレノアは思わず笑った。
「高かったんですか?」
「子供の僕にはね」
「どうして、そんなものを?」
「エレノアの誕生日だったから」
「それだけ?」
「それだけ」
セドリックは空いている椅子へ座る。
「当時、何を贈ればいいか分からなくて。店で見た青い石が綺麗だったから、エレノアに似合うと思った」
「私、喜びました?」
尋ねた瞬間、セドリックの表情が少しだけ変わった。
「……うん」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「覚えてなくて……」
「それは謝らなくていい」
先回りするように言われ、エレノアは口を閉じる。
セドリックが苦笑した。
「今、謝ろうとした?」
「……少し」
「危なかったね」
「はい」
エレノアも小さく笑った。
「どんなふうに喜んだんですか?」
「最初は驚いてた。『私に?』って三回くらい聞いたかな」
「三回も?」
「たぶん」
「そのころから同じだったのね」
マルグリットが呟く。
「母上」
「だってそうでしょう? 今も何か渡すと、本当に自分へくれるのか何度も確認するもの」
エレノアは少し恥ずかしくなって俯いた。
けれど、セドリックは笑わなかった。
「それから、鏡の前で髪につけてたよ」
「自分で?」
「うん。でも少し曲がってた」
「……それは言わなくていいです」
「ごめん」
口では謝りながら、セドリックは笑っている。
エレノアも頬を膨らませたあと、結局笑ってしまった。
「私、その髪飾りを使っていましたか?」
「少なくとも、その日はずっとつけてた」
「そのあとも?」
セドリックは少し考える。
「僕が会えた範囲では、何度か見たと思う。でも、いつから見なくなったかまでは覚えてない」
「そうですか」
「探す?」
エレノアは少し迷う。
木箱。
髪飾り。
母のものと、自分のもの。
「……はい」
今度は迷いながらも、はっきり答えた。
「探したいです」
「分かった」
アルフォンスが頷く。
「ベルナール側へ、個人所有品の記録確認も正式に求める」
「お父様は怒りませんか?」
反射的に出た言葉だった。
アルフォンスは少し考えてから答える。
「怒るかもしれない」
エレノアは目を見開いた。
「怒るんですか?」
「俺には分からないからな。怒らないとは約束できない」
「……はい」
「でも、伯爵が怒るかどうかと、お前の所有物を確認することは別の話だ」
エレノアは膝の上で手を握る。
父が怒る。
そう考えるだけで、まだ身体が強張る。
「怒られたら……どうしますか?」
「話をする」
「叔父様が?」
「必要なら」
「私も?」
「お前が参加したければ」
「参加したくなかったら?」
「しなくていい」
答えが一つずつ返ってくる。
エレノアはゆっくり息を吐いた。
「じゃあ、今は探したいです」
「うん」
「怒られるかどうかは、そのとき考えます」
アルフォンスが少し笑った。
「それでいい」
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵家では、昼過ぎから当時の侍女長への聞き取りが行われていた。
名前はベアトリス・ロラン。
五十歳を少し越えた女性で、ヴァレリアがベルナール家へ入ってから数年後に侍女長へ昇格している。現在も屋敷へ仕えており、落ち着いた物腰と厳格な勤務態度から、若い侍女たちには恐れられていた。
ロベルトの執務室には、昨日と同じく家令とロシュフォール家から派遣された家令補佐が同席している。
ヴァレリアはいない。
「マーサから、エレノアの食事について相談を受けたことは覚えているか」
ロベルトが尋ねると、ベアトリスは僅かに眉を寄せた。
「何年も前のことでございますので、正確には」
「覚えている範囲でいい」
「……お嬢様が食事を残されることについて、マーサが心配していたことは覚えております」
「残す?」
「はい」
「食事を取っていない、ではなく?」
「私が聞いたのは、食が細いという話だったと記憶しております」
家令補佐が記録を取る。
「マーサは、夕食前にエレノアが厨房の残ったパンを食べていたと証言している」
ベアトリスの表情が僅かに動いた。
「厨房の?」
「ああ」
「それは存じません」
「エレノアへの食事を下げるよう命じたことは?」
「時間を大幅に過ぎた場合はございます」
ロベルトの眉が動く。
「どういう意味だ」
「伯爵家の食事には時間がございます。朝食、昼食、夕食。それぞれ準備があり、厨房の都合もございますので」
「時間に遅れたら、食べさせなかったのか」
「そのような意味ではございません」
ベアトリスはすぐに否定した。
「食卓の料理をいつまでも置いておくことはできませんので、下げることはございました。必要であれば別に軽食を用意することになっておりました」
「誰の判断で?」
「通常は厨房か、担当侍女でございます」
「エレノアに軽食が用意されていたか?」
沈黙が落ちた。
「……そこまでは、私には」
「侍女長だっただろう」
「すべての食事を直接監督していたわけではございません」
ロベルトの指が机を叩きそうになり、止まった。
以前なら声を荒らげていたかもしれない。
だが、それでは何も分からない。
「では、別のことを聞く」
「はい」
「マーサは、俺へ直接話したいと申し出た。そのあと、お前はマーサへ『主人の家庭方針へ使用人が口を出すな』と注意したそうだな」
ベアトリスの顔から、僅かに血の気が引いた。
「……そのようなことを申した可能性はございます」
「なぜだ」
「マーサは、お嬢様の教育方針について繰り返し意見を述べておりましたので」
「誰から、その教育方針を聞いた」
「奥様からでございます」
ロベルトの目が細くなる。
「ヴァレリアから?」
「はい」
「どんな方針だ」
ベアトリスは少し迷った。
「お嬢様は……母君を亡くされたあと、周囲が甘やかしすぎたため、自立心が育っていないと」
「誰がそう言った」
「奥様です」
「それで?」
「身の回りのことは、年齢に応じてご自身でなさるように。失敗した場合にも、使用人が先回りして庇わないように、と」
「食事もか」
「いいえ」
ベアトリスは首を振る。
「少なくとも、私が奥様から食事を与えるなと命じられたことはございません」
「身体的な罰は?」
「ございません」
「エレノアに痣があったことは?」
「存じません」
「本当に?」
「はい」
ロベルトは彼女を見つめる。
今のところ、ヴァレリアが食事を止めた証言はない。
殴った証言もない。
だが。
「マーサをエレノア付きから外すよう、誰が言った」
ベアトリスは黙った。
その沈黙が、それまでより長かった。
「答えろ」
「……奥様から、ご相談がございました」
「相談?」
「マーサをこのままお嬢様付きにしておくことは、教育上よくないのではないかと」
「それを俺へ報告したのもヴァレリアだ」
「はい」
「お前も賛成したのか」
ベアトリスは目を伏せた。
「当時は」
「理由は?」
「マーサは、お嬢様へ情をかけすぎているように見えました」
「情をかけることが問題なのか」
「使用人として、必要以上に主人の家庭事情へ踏み込むべきではないと考えておりました」
ロベルトはしばらく何も言わなかった。
それは、自分も同じだった。
マーサが口を出しすぎる。
ヴァレリアがそう言った。
侍女長も同じ意見だった。
だから署名した。
(俺は、一度もエレノアに聞かなかった)
昨日から何度も浮かぶ事実が、また胸へ刺さる。
「マーサが俺への面会を求めたことを、ヴァレリアは知っていたか」
「……分かりません」
「お前は?」
「家令補佐から聞きました」
「そのあと、ヴァレリアへ話したか?」
ベアトリスの唇が動く。
だが、すぐには声が出なかった。
ロシュフォール家の家令補佐が筆を止める。
部屋の空気が張り詰めた。
「ベアトリス」
「……お話しした可能性はございます」
「可能性?」
「何年も前のことで、正確には覚えておりません」
「何を話した」
「ですから、正確には――」
「覚えている範囲でいい」
ベアトリスは膝の上で手を握った。
「マーサが旦那様へ直接お話ししたがっている、と……奥様へ申し上げたような記憶はございます」
ロベルトの表情が固まった。
「何の話をしたがっているかも?」
「そこまでは……」
「マーサがエレノアの食事を心配していたことを、お前は知っていた」
「はい」
「エレノアの教育方針について意見を述べていたことも」
「はい」
「そのマーサが俺へ直接話したいと言っていることを、ヴァレリアへ伝えた可能性がある」
「……はい」
「その数日後、ヴァレリアは俺へマーサの配置転換を相談した」
ベアトリスは答えなかった。
ロベルトも、それ以上は言わない。
繋がっているように見える。
だが、まだ足りない。
ヴァレリアがマーサの報告を封じるために配置転換させたのか。
それとも本当に教育方針の違いだけだったのか。
この証言だけでは決められない。
「今日話した内容を書面にする。確認して署名してもらう」
「……かしこまりました」
「それから、当時エレノアの身の回りを担当していた侍女を全員洗い出してくれ」
家令が頷く。
「厨房についてもだ。誰が食事を運び、誰が下げていたか、残っている勤務記録から可能な限り確認する」
「承知いたしました」
ロベルトは椅子の背へ身体を預けた。
机の上には、また一つ記録が増える。
知れば知るほど、何も知らなかった自分の姿がはっきりしていく。
それでも今は、目を逸らすことだけはできなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、エレノアはマルグリットと庭を歩いていた。
雨上がりの空気はまだ少し冷たい。
石畳にはところどころ水溜まりが残り、二人はゆっくりと乾いた場所を選びながら進む。
道の先に、小さな白い花が咲いていた。
「お祖母様」
「なあに?」
「野薔薇って、今もありますか?」
「あるわよ」
「見たいです」
マルグリットは少し驚いたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「では行きましょうか。ただ、少し歩くわよ」
「大丈夫です」
言ったあと、エレノアは自分で言い直す。
「……たぶん歩けます。疲れたら言います」
「ええ。それがいいわね」
屋敷の整えられた庭を抜け、森へ続く小道へ近づく。
そこには大輪の薔薇園とはまるで違う、小さな花がいくつも咲いていた。
「これが……」
「ええ。アデラインが好きだった野薔薇よ」
薄い桃色。
華やかな大輪ではない。
けれど、濡れた葉の間からいくつも顔を出し、朝の雨粒を残したまま風に揺れている。
エレノアはしばらく何も言えなかった。
母がこれを見た。
同じ場所だったかは分からない。
同じ花でもないだろう。
それでも。
「綺麗です」
「そうね」
「お母様は、これが好きだったんですね」
「ええ」
エレノアは花へ手を伸ばしかけて、止めた。
「摘んでもいいですか?」
「もちろん」
マルグリットは答えたあと、少し笑う。
「でも、どうして聞いたの?」
「勝手に取ったら怒られるかなって」
「ここはあなたの祖父の庭よ」
「じゃあ、お祖父様に聞いた方が?」
「一本摘んだくらいで怒ったら、私が叱ります」
エレノアは思わず笑った。
「お祖父様、よく叱られていますね」
「昔からよ」
一本だけ。
エレノアは小さな野薔薇を摘んだ。
棘へ触れないよう慎重に持ち上げる。
「部屋に飾ってもいいですか?」
「もちろん」
「明日、枯れたら?」
「花だから、いつかは枯れるわね」
「……そっか」
「また見に来ればいいのよ」
エレノアは手の中の花を見る。
ずっと残るものだけが、大切なわけではない。
今日綺麗だと思った。
今日欲しいと思った。
だから摘んだ。
それでいいのかもしれない。
「お祖母様」
「なあに?」
「お母様のこと、もっと聞きたいです」
マルグリットの足が止まった。
「どんな子だったのか。何が好きだったのか。何が嫌いだったのか」
エレノアは野薔薇を見つめながら続ける。
「私は、お母様のことをあまり覚えていません。だから……知りたいです」
マルグリットの目に、僅かに涙が浮かんだ。
けれど、泣き崩れたりはしない。
「ええ」
優しい声だった。
「何から聞きたい?」
エレノアは考える。
母の好きなもの。
嫌いなもの。
子供のころ。
父と出会ったころ。
自分を産んだころ。
聞きたいことはいくらでもある。
でも、今日は。
「お母様が子供だったころの話がいいです」
「分かったわ」
二人は再び歩き始めた。
「アデラインはね、見た目よりずっとお転婆だったのよ」
「え?」
「木登りもしたし、勝手に馬小屋へ入って叱られたこともあるわ」
「お母様が?」
「アルフォンスを連れて」
「姉上が勝手に行ったんです」
後ろから声がした。
振り返ると、いつの間にかアルフォンスとセドリックが歩いてくる。
「叔父様」
「母上、そこは正確に話してください」
「あなたも喜んでついていったでしょう?」
「俺は姉上に連れていかれたんです」
「叔父様も、お祖父様と同じことを言っています」
エレノアが言うと、セドリックが吹き出した。
「確かに」
「セドリック」
「僕は何も言ってません」
「笑っただろう」
「笑うくらいいいでしょう」
穏やかな笑い声が、雨上がりの庭へ広がった。
エレノアは手の中の野薔薇を見た。
母の箱がどこにあるかは、まだ分からない。
青い髪飾りも見つかっていない。
ベルナール家で何が起きていたのかも、分からないことばかりだ。
それでも、母について一つ知った。
野薔薇が好きだった。
整えられた大輪の薔薇より、誰に形を決められるでもなく、咲きたいところで咲いている小さな花が好きだった。
(私も、そうなれるのかな)
頭の中へ浮かんだ言葉に、エレノアは少しだけ驚く。
すぐに答えは出なかった。
だから、答えを決めることもしなかった。
ただ手の中の花を大切に持ちながら、家族と一緒に歩く。
今日の自分は、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
夕方。
部屋へ戻ったエレノアは、小さな花瓶へ野薔薇を一輪だけ挿してもらった。
机の上へ置くと、薄桃色の花が夕暮れの光を受けている。
その隣には、昨日まで書き足してきた紙がある。
エレノアは椅子へ座り、筆を取った。
『知りたいことを、自分で決める』
『失敗しても、傷つけられていいわけではない』
その下へ、新しい一文を書く。
『お母様のことを知りたい』
少し考えて、さらにもう一つ。
『私のものだったものを、探したい』
母の木箱。
青い髪飾り。
それだけではないのかもしれない。
自分が知らないうちに失ったものが、ほかにもあるのかもしれない。
物だけではない。
好きなもの。
嫌いなもの。
安心できる場所。
誰かに触れてほしい日と、触れてほしくない日。
食べたい量。
知りたいこと。
聞きたくないこと。
エレノアは野薔薇へ目を向けた。
(全部、一度になくてもいい)
一つずつでいい。
今日は母の好きだった花を知った。
明日は、また別の何かを知るかもしれない。
知らないままにしておきたいことがあれば、それも自分で決めればいい。
窓の外では、濡れた庭へ夕陽が差し始めていた。
昨日まで降っていた雨の跡はまだ残っている。
けれど、その雫さえ光を受ければきらきらと輝いて見える。
エレノアは筆を置き、花瓶の野薔薇へそっと指先を近づけた。
触れる前に、小さな棘があることに気づく。
痛いものがあるから、綺麗ではないわけではない。
綺麗だから、棘がないわけでもない。
両方あっていいのだろう。
「……お母様」
小さく呼んだ。
返事はない。
それでも以前のような空虚さだけは感じなかった。
今日、母について一つ知ったからだ。
野薔薇が好きだった人。
弟を連れて馬小屋へ忍び込み、母親に叱られた人。
十八歳の誕生日に、野薔薇の彫られた箱を贈られた人。
肖像画の中で微笑んでいるだけだった母が、少しずつエレノアの中で息をし始めている。
そして同時に、エレノア自身もまた、自分が何を好きで、何を嫌い、何を欲しいと思う人間なのかを知り始めていた。
まだ十五歳。
一度目の人生では、このころにはもう、自分の気持ちより誰かの機嫌を優先することが当たり前になっていた。
けれど今度は違う。
急がなくていい。
誰かに決められた形へ、自分を押し込めなくてもいい。
エレノアは机の上の紙を丁寧に閉じた。
そして、野薔薇をもう一度見て微笑んだ。
咲きたいところで咲く花を、今日のエレノアはとても綺麗だと思った。




