第18話 私の部屋にあったもの
翌朝、エレノアが最初に目を向けたのは、窓ではなく机の上だった。
小さな花瓶に挿した野薔薇は、昨日よりわずかに花びらを下げている。それでも薄桃色はまだ失われておらず、朝の柔らかな光の中で静かに咲いていた。
(まだ咲いてる)
昨夜、眠る前にも何度か眺めた。
母アデラインが好きだった花。
整えられた薔薇園の大輪ではなく、庭の端や森へ続く道で、誰に植える場所を決められたわけでもなく咲く野薔薇。
昨日までなら、それだけで胸が苦しくなっていたかもしれない。
母のことを覚えていない自分。
母の持ち物がどこにあるのかさえ知らない自分。
失ったものばかりが浮かんだだろう。
今朝は少し違った。
(今日も、何か知れるかな)
知らないことは怖い。
けれど、知ることのすべてが怖いわけでもない。
そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「おはようございます、エレノアお嬢様。リディアでございます。入ってもよろしいでしょうか」
「はい」
返事をすると、リディアが朝の衣服を載せた台を押して入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます、リディア」
エレノアがそう返すと、リディアはいつものように窓辺へ向かう前に立ち止まる。
「カーテンを開けてもよろしいですか?」
「はい。今日は開けたいです」
「かしこまりました」
布が左右へ引かれ、朝の光が部屋いっぱいに広がった。
エレノアは眩しさに少し目を細める。
今日の衣服は三着だった。
淡い水色。
柔らかな若草色。
そして、白地に細い青糸で小花が刺繍されたもの。
「今日は三つなんですね」
「はい。昨日仕立て直しが終わったものが戻ってまいりましたので」
「仕立て直し?」
「お嬢様のお身体へ負担がかからないよう、少しゆとりを持たせてございます」
エレノアの視線が自分の脇腹へ落ちる。
クラリスに診てもらった傷。
まだ強く押されれば痛む場所もある。
「……私のために、直したんですか?」
「はい」
リディアは当然のことのように答えた。
「嫌でしたか?」
「違います。ただ……」
エレノアは言葉を探す。
「私、まだここにずっといるって決まってないのに」
リディアの手が止まった。
「それでも、今ここにいらっしゃいますから」
「でも、何着も直したら、お金もかかりますよね」
「かかりますね」
否定されなかったことに、エレノアは少し驚いた。
「手間も?」
「もちろん」
「じゃあ……」
「ですが、それは公爵様たちが承知して決められたことでございます」
リディアは三着の衣服を整えながら、穏やかな声で続けた。
「お嬢様が『直してほしい』と無理に命じられたわけではございません。こちらが必要だと判断し、用意したものです。ですから、その費用や手間までお嬢様が背負う必要はございません」
「……そうなんですか」
「はい」
エレノアはしばらく三着を眺めた。
(何かしてもらったら、その分を返さないといけないと思ってた)
食事をもらう。
服をもらう。
部屋を使わせてもらう。
医師に診てもらう。
守ってもらう。
そのたびに、自分は何を返せばいいのだろうと考えていた。
だから、できるだけ迷惑をかけないようにしなければならないと思っていた。
「リディア」
「はい」
「私、何か仕事をした方がいいですか?」
「お仕事、ですか?」
「はい。ここに泊めてもらって、ご飯も食べて、服まで用意してもらっているから……何もしないのは、よくない気がして」
リディアはすぐには答えなかった。
少し考えたあと、エレノアの目を見る。
「それは、働きたいからでしょうか?」
「え?」
「お嬢様ご自身が何かをなさりたいのか、それとも、何かしなければここにいてはいけないと思っていらっしゃるのかで、少し違うと思いました」
エレノアは言葉を失った。
考えたことがなかった。
(私は、働きたいの?)
机を拭きたい?
洗濯物を畳みたい?
食器を運びたい?
何か手伝いたい?
そう問われると、答えはすぐには出てこない。
「……何かしないと、いけない気がします」
「そうですか」
「何もしないでいるのは……悪いことみたいで」
「では、そのことは公爵様や大奥様にお話ししてみてはいかがでしょう」
「リディアは、どう思いますか?」
「私でございますか?」
「はい」
リディアは少し困ったように笑った。
「私は、お嬢様に私の仕事を取られると困ります」
「え?」
「お掃除もお洗濯も、私どもの仕事でございますから」
思いがけない答えに、エレノアは目を瞬いた。
「取ることになるんですか?」
「全部なさってしまったら」
リディアの表情が少しだけ柔らかくなる。
「もちろん、お嬢様が趣味として何かをなさりたいなら別でございます。刺繍でも、読書でも、庭仕事でも。ですが『ここにいるために働かなければならない』ということでしたら、それは私には判断できません」
「……そうですよね」
「ですので、選ぶ前に聞いてみるのがよろしいかと」
エレノアは頷いた。
また一つ、聞かなければ分からないことができた。
けれど、それは怖いだけの疑問ではなかった。
「じゃあ、朝食のときに聞いてみます」
「はい」
「それから今日は……」
三着の衣服を見る。
「白いのにします。青い刺繍の」
「かしこまりました」
「リボンは……黄色がいいです」
「はい」
昨日とは違う。
それでいい。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、エレノアはなかなか質問を切り出せなかった。
オーギュストは朝から届いた領地報告についてアルフォンスと話しており、セドリックは焼いた林檎を切り分けている。マルグリットはエレノアの皿が空きかけているのを見ても何も言わず、自分の紅茶へミルクを足していた。
話を遮ってはいけない。
食事中に余計なことを言ってはいけない。
そんな感覚が残っている。
けれど、アルフォンスとオーギュストの話が一区切りついたところで、エレノアは意を決した。
「あの、叔父様」
「ん?」
「聞きたいことがあります」
「どうした?」
全員の視線が集まる。
それだけで身体が少し強張った。
エレノアは膝の上で指を組み、ゆっくり言葉にした。
「私、ここで何か仕事をした方がいいですか?」
食卓が静かになった。
最初に反応したのはセドリックだった。
「仕事?」
「はい」
「どうして?」
「泊めてもらっているからです。ご飯も食べていますし、服も直してもらって、クラリス先生にも来てもらっています」
話しているうちに、自分がどれだけ多くのものを受け取っているのかが気になってくる。
「だから、何か返した方がいいと思って……」
「エレノア」
マルグリットが呼ぶ。
「はい」
「ここへ泊まる代わりに働かなければいけないと、誰かに言われたの?」
「いいえ」
「では、以前そういうことがあった?」
エレノアは口を開きかけて止まった。
分からない。
でも。
部屋。
洗濯物。
食器。
誰かの声。
曖昧なものが頭の奥を通り過ぎる。
「……分かりません」
「そう」
マルグリットはそれ以上追わなかった。
アルフォンスが椅子へ少し深く座り直す。
「先に答えると、ここにいるために働く必要はない」
「何もしなくても?」
「ああ」
「でも……」
「エレノア」
今度はオーギュストが口を開いた。
「お前はここで食事をするたび、代金を払うつもりか?」
「代金……」
「寝台を一晩使ったら宿代を払い、椅子へ座ったら使用料を払うのか?」
「それは……」
「家族の家とは、そういうものではない」
エレノアの胸が小さく跳ねた。
家族。
その言葉にはまだ戸惑う。
けれどオーギュストは、何かを決めつけるようには続けなかった。
「今すぐここを自分の家だと思えと言っているわけではない。だが少なくとも、わしらはお前から宿代を取るつもりで迎えたのではない」
「……はい」
「もちろん、何かやってみたいことがあるなら話は別だ」
アルフォンスが続ける。
「勉強でも、刺繍でも、庭いじりでも、書庫の整理でもな。ただし、『ここに置いてもらうため』にする必要はない」
「何もしない日があっても?」
「あっていい」
「一日中?」
「体調が悪ければ一日中寝ていてもいい」
「元気でも?」
アルフォンスが一瞬詰まる。
セドリックが笑った。
「父上、試されてますよ」
「分かっている」
アルフォンスは少し考えた。
「元気でも、何もしない日があっていい。ただし、毎日ずっと何もしないでいたら、俺は『退屈じゃないか』とは聞くかもしれない」
「怒るんじゃなくて?」
「怒る理由がない」
「……そうなんですね」
エレノアは皿の上へ視線を落とした。
(何もしなくても、ここにいていい)
簡単な言葉なのに、胸の奥へ入っていかない。
まだ信じ切れない。
「すぐ信じなくてもいいわ」
マルグリットが言った。
エレノアは顔を上げる。
「顔に出ていたかしら?」
「……少し」
「何度でも確かめればいいのよ」
「同じことを?」
「ええ」
「昨日聞いたことでも?」
「今日また不安になったなら」
エレノアはしばらく考えたあと、頷いた。
「じゃあ……たぶん、また聞きます」
「何度でもどうぞ」
その答えに、少しだけ肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
同じ朝。
ベルナール伯爵邸では、ロベルトが一枚の古い指示書を前に黙り込んでいた。
昨日のベアトリスへの聞き取りを受け、家令たちはさらに過去の記録を洗い直していた。
厨房記録。
使用人配置。
食材支出。
個別の配膳指示。
日々の細かな記録はすべてが残っているわけではない。それでも、帳簿の間に挟まれていた古い紙片や、月ごとにまとめられた指示書が少しずつ見つかっていた。
「これはいつのものだ」
「五年前の秋でございます」
家令が答える。
エレノアが十歳になる少し前。
紙には簡潔な文字が並んでいる。
『東側二階への夕食配膳不要』
その下に日付。
さらに、小さな署名。
ベアトリス。
「これ一枚だけか」
「いいえ」
家令は別の紙を差し出した。
『昼食不要』
別の日。
『夕食は厨房残りを使用』
さらに別の日。
『菓子不要』
ロベルトの眉間へ深い皺が寄る。
「理由は」
「記載されておりません」
「病気だった可能性は?」
「現在、医師の記録と照合しております」
「外出は?」
「そちらも確認中です」
ロベルトは紙を置いた。
これだけでは何も決まらない。
外出していたなら配膳不要は当然だ。
体調を崩していたなら、食事内容を変えた可能性もある。
菓子を欲しがらなかっただけかもしれない。
だが、『夕食は厨房残りを使用』という一文だけは、どうにも胸へ引っかかった。
「これを書いたのはベアトリス本人か」
「署名上は」
「本人へ確認しろ」
「承知いたしました」
「それから、この日付を全部照合してくれ。エレノアの外出記録、家庭教師の記録、医師の診察、家族行事。屋敷にいたかどうかだけでも分かるものを集めろ」
「かしこまりました」
家令が書類を受け取ろうとする。
「待て」
「はい」
「ヴァレリアには、まだ言うな」
家令の手が止まった。
「奥様には?」
「ああ」
「理由を伺っても?」
ロベルトはすぐには答えなかった。
昨日、ヴァレリアは自分から調べるよう言った。
協力するとも。
ならば隠す必要はないはずだ。
それでも。
「まず事実を確認したい」
「承知いたしました」
家令が一礼して出ていく。
ロベルトは椅子へ座ったまま、もう一度紙を見る。
『夕食は厨房残りを使用』
マーサの証言。
夕食前、厨房で固いパンを食べていたエレノア。
『これで十分だから』
ロベルトはその場面を見ていない。
だから、想像でしかない。
だが、その想像の中にいる娘は、いつも自分が知っていたと思っていたエレノアよりずっと小さく見えた。
(なぜ、俺は何も知らない)
答えは少しずつ見え始めている。
聞かなかったからだ。
家のことはヴァレリアに任せていると思っていた。
娘が従順なのは、問題がないからだと思っていた。
何も訴えないのは、不満がないからだと。
ロベルトは額へ手を当てた。
マーサは訴えようとしていた。
自分へ直接。
それすら届かなかった。
いや。
(届かなかった、で済ませていいのか)
家令補佐が面会希望を受けた。
ベアトリスが知った。
ヴァレリアへ伝えた可能性がある。
その後、配置転換。
自分は署名した。
すべての最後に、自分の名前がある。
扉が叩かれた。
「お父様?」
若い少女の声。
ロベルトは顔を上げた。
「ミレーヌか」
「入ってもよろしいですか?」
「ああ」
扉が開き、ミレーヌが入ってくる。
淡い桃色のドレスに身を包み、長い髪を肩へ流している。いつもなら明るい表情を浮かべている娘だが、今日は少し不安そうだった。
「お仕事中でしたか?」
「少しな」
「……エレノアお姉様のこと?」
ロベルトの表情が僅かに変わる。
「なぜそう思う」
「だって、お姉様が帰ってこないから」
ミレーヌは机の前で立ち止まった。
「お母様に聞いても、『今は公爵家で休んでいるの』って。それだけで……」
「そうか」
「お姉様、病気なんですか?」
「……怪我が見つかった」
「怪我?」
ミレーヌの目が大きくなる。
「どこを?」
「詳しく話す必要はない」
「でも……」
「ミレーヌ」
ロベルトが少し強く呼ぶと、少女の肩が縮こまった。
その反応に、ロベルト自身が言葉を止める。
声を少し強くしただけだ。
それでも子供は身を縮める。
エレノアも。
あの夜、自分が名を呼んだだけで身体を固くした。
「……すまない」
「え?」
「声を荒らげた」
ミレーヌが戸惑う。
「いえ、それくらい……」
その言葉にも、ロベルトは胸を刺されたような感覚を覚えた。
それくらい。
どこまでが「それくらい」なのか。
「お姉様、帰ってきますよね?」
ミレーヌが尋ねる。
「分からない」
「え……?」
「エレノアは、今は帰りたくないと言っている」
ミレーヌは明らかに驚いた。
「どうして?」
「それを調べている」
「お母様と喧嘩したんですか?」
「なぜヴァレリアが出てくる」
「だって……」
ミレーヌは困ったように視線を泳がせた。
「お姉様、お母様の前だといつも静かだったから」
ロベルトの背筋が伸びる。
「どういう意味だ」
「え?」
「いつも静かだった、とは」
ミレーヌは父の表情を見て、不安そうに瞬きをした。
「その……お食事のときとか、お茶のときとか」
「普段と違ったのか」
「分かりません」
「覚えていることだけでいい」
ロベルトは意識して声を抑えた。
問い詰めてはいけない。
目の前にいるのも十五歳の娘だ。
ミレーヌは少し考える。
「お姉様って、もともと静かな人でしょう?」
「そうだと思っていた」
「でも、お母様がいないときの方が……」
そこで言葉が止まる。
「何だ」
「少し、話してたかも」
「誰と」
「侍女とか……私とか」
「お前と?」
「小さいころですけど」
ミレーヌは記憶を探すように眉を寄せる。
「私が庭で転んだとき、お姉様がハンカチを貸してくれたり。お菓子を半分くれたこともあったし」
「ヴァレリアがいると?」
「……あまり喋らなかった気がします」
「なぜ」
「知りません」
ミレーヌの顔に困惑が浮かぶ。
「私、お姉様がそういう人なんだと思ってたから」
ロベルトは何も言えなかった。
自分と同じだ。
そういう人だと思っていた。
静か。
従順。
手がかからない。
それを性格だと思っていた。
「ミレーヌ」
「はい」
「エレノアが食事を取っていなかったところを見たことはあるか」
少女の顔から笑みが消えた。
「食事?」
「食べていない日だ」
「……分かりません」
「食卓にいなかったことは?」
「ありました」
「いつだ」
「そんなの覚えてません。何年も前のこともあるし……」
「理由は?」
「具合が悪いとか、お部屋で食べるとか……」
「誰から聞いた」
ミレーヌはますます困った顔になる。
「お母様、かな」
ロベルトの胸が重くなる。
「エレノア本人から聞いたことは」
「ないと思います」
「そうか」
「お父様」
「なんだ」
「何かあったんですか?」
ロベルトは答えに迷った。
ここで、ヴァレリアを疑っているなどと言うべきではない。
証拠はない。
ミレーヌに余計な疑念を植えつけることもしたくなかった。
「まだ分からない」
結局、それだけを答えた。
「だから調べている」
「私も何かした方がいいですか?」
「いや」
「でも、お姉様のことなら……」
「思い出したことがあれば教えてくれ。ただし、無理に思い出そうとしなくていい」
言ってから、ロベルトは自分の言葉に奇妙な感覚を覚えた。
それは、ロシュフォール家がエレノアにしていることと似ている。
「分かりました」
ミレーヌは頷いた。
扉へ向かいかけ、途中で止まる。
「お父様」
「なんだ」
「お姉様に……会えますか?」
ロベルトの眉が動く。
「会いたいのか」
「はい」
ミレーヌは少し迷ったあと、小さく続けた。
「だって、ずっと帰ってきてないから」
その言葉に悪意があるようには見えなかった。
少なくとも、今のロベルトには。
「エレノアが会いたいと言えばな」
「私が行きたいだけじゃ、駄目なんですか?」
「今は駄目だ」
「……そうですか」
残念そうにしながらも、ミレーヌは頷いた。
「分かりました」
扉が閉じたあと、ロベルトはしばらくそこを見つめていた。
ミレーヌが何を知っているのか。
何も知らないのか。
それもまだ分からない。
分からないことばかりだった。
◇ ◇ ◇
昼前、ロシュフォール公爵邸へベルナール家から使者が到着した。
エレノアはそのことを、昼食前にセドリックから聞いた。
「父上のところに報告が来たみたい」
「何の?」
「詳しくは僕もまだ聞いてない。ベルナール家の記録についてだと思う」
エレノアの指先が僅かに冷える。
「私、聞いた方がいいですか?」
「それを僕に聞く?」
責める口調ではない。
セドリックは少しだけ笑っている。
エレノアも、自分が何を尋ねたのか気づいた。
「……聞きたいかどうか、ですよね」
「うん」
「分かりません」
「なら、今決めなくていいんじゃない?」
エレノアは廊下の窓から庭を見る。
昨日摘んだ野薔薇が咲いていた場所は、ここからは見えない。
「お昼ご飯を食べてから決めます」
「いいと思う」
「お兄様」
「うん?」
「今日のお昼、何ですか?」
「それは僕も知らないな」
「じゃあ、それを先に知りたいです」
セドリックが一瞬きょとんとしてから笑った。
「それ、いいね」
エレノアも笑う。
調査より先に、昼食の献立を知りたい。
そんなことを選んでもいい。
◇ ◇ ◇
昼食は鶏肉と根菜の煮込みだった。
柔らかく煮込まれた人参と蕪、香草の香りが染みた鶏肉。温かなスープと小さな丸パンも添えられている。
エレノアは煮込みをほとんど食べ、パンを半分残した。
以前なら、残したパンを見て不安になっただろう。
今日は少しだけ気になったものの、そのまま皿を下げてもらった。
食後、アルフォンスから話を聞くかと尋ねられた。
「聞きます」
今度は自分で決めた。
ただし。
「全部じゃなくてもいいですか?」
「もちろん」
「嫌になったら止めます」
「ああ」
マルグリットも同席するか尋ねる。
今日はエレノアから頷いた。
「お祖母様にもいてほしいです」
「ええ」
セドリックについても尋ねられる。
「お兄様も」
「了解」
四人で小さな居間へ移った。
アルフォンスは報告書を持っているが、エレノアへ直接渡すことはしなかった。
「まず、ベルナール家で過去の食事記録を調べている」
「はい」
「いくつか、気になる指示書が見つかった」
エレノアの身体が僅かに強張る。
「どんなものですか?」
「お前の部屋があった東側二階への食事を届けなくていい、という指示だ」
「……私の部屋に?」
「ああ。ただし、まだ理由は分からない」
アルフォンスはすぐに付け加える。
「外出していた日かもしれない。体調を崩していた可能性もある。今は日付を他の記録と照合しているところだ」
「何回くらい?」
「確認できている範囲では、複数回」
「一回じゃない?」
「一回ではない」
エレノアは膝の上で手を握る。
胸の奥に、昨日とは違う冷たさが広がった。
「ほかにもあるんですか?」
「ある」
「聞きたいです」
アルフォンスが一拍置く。
「『夕食は厨房の残りを使用』という指示も見つかっている」
エレノアの呼吸が止まった。
厨房。
固いパン。
マーサ。
『これで十分だから』
自分が言ったらしい言葉。
「エレノア?」
マルグリットの声が遠く聞こえる。
エレノアは目を閉じた。
無理に思い出さない。
それでも、何かが浮かんだ。
暗い廊下。
厨房の裏口。
灯り。
誰かの背中。
皿ではない。
籠。
パン。
『今日はもう――』
そこから先がない。
「……厨房」
「何か思い出した?」
「少し」
エレノアはゆっくり目を開ける。
「でも、ちゃんとは分かりません」
「それでいい」
「厨房の端に……パンが置いてあったのは覚えてます」
「うん」
「昨日も言いました」
「ああ」
「それと……誰かがいた気がします」
アルフォンスは質問しなかった。
誰だ。
男か女か。
何歳か。
何を言った。
何も。
ただ待っている。
「でも、分かりません」
「なら、そこまでだ」
「はい」
エレノアは一度深く息を吸った。
「その紙、誰が書いたんですか?」
アルフォンスの目が僅かに動く。
「署名は、当時の侍女長のものだ」
「名前は?」
今まで知らなかった。
だから、アルフォンスは一度確認するようにエレノアを見る。
「知りたい?」
「はい」
「ベアトリス・ロラン」
「ベアトリス……」
名前を口にする。
知っている。
当然だ。
ベルナール家の侍女長なのだから。
けれど、その顔を思い浮かべた瞬間、身体が少しだけ強張った。
厳しい顔。
きっちりと結われた髪。
廊下。
『お嬢様』
声。
その先が出てこない。
「怖い?」
セドリックが尋ねた。
「……少し」
「なら止める?」
エレノアは迷った。
「あと一つだけ聞きたいです」
「何を?」
「ベアトリスが、私にご飯をあげないって決めたんですか?」
「分からない」
アルフォンスは即答した。
「書類へ署名したのはベアトリスだ。だが、自分で決めたのか、誰かの指示を受けて書いたのか、それとも別の事情があったのかはまだ確認できていない」
「……そうですか」
「署名があることと、命令した人間が同じとは限らない」
「はい」
エレノアは頷いた。
名前を知った。
けれど、犯人の名前を知ったわけではない。
そこを混ぜてはいけない。
「今日は、ここまでにします」
「分かった」
アルフォンスはすぐに報告書を閉じた。
エレノアは胸へ手を当てる。
怖い。
でも、自分で止められた。
それだけで少し呼吸が楽になった。
「叔父様」
「ん?」
「調べるのは、続けてください」
「ああ」
「私が聞かない間も?」
「調査自体は進める。ただ、お前へ何を伝えるかは、その都度確認する」
「お願いします」
自分が知らないことを、誰かが勝手に自分へ詰め込むわけではない。
でも、自分が聞くまで何も進まないわけでもない。
その距離が、今のエレノアにはありがたかった。
◇ ◇ ◇
話を終えて部屋へ戻る途中、エレノアはふと足を止めた。
「どうしたの?」
隣を歩くマルグリットが尋ねる。
「私の部屋……」
「ええ」
「ベルナール家の」
言葉にすると、胸の中に奇妙な感覚が広がった。
「まだ、そのままなんでしょうか」
「どうでしょうね」
「私、何を置いてたんだろう」
青い髪飾り。
母のもの。
自分の服。
本。
手紙。
「覚えていない?」
「少しは。でも……」
エレノアは眉を寄せる。
「自分の部屋なのに、自分のものが何だったか、よく分からないです」
マルグリットは黙って聞いている。
「服はあったし、本もありました。でも、それを私が選んだのかって聞かれたら……分からなくて」
ここへ来てから、毎朝服を選んでいる。
青。
黄色。
緑。
白。
今日は何もつけない。
そんなことをしているうちに、初めて疑問に思った。
「ベルナール家にいたとき、私は何を自分で選んでたんでしょう」
「確かめたい?」
エレノアはすぐには答えなかった。
戻るのは怖い。
部屋を見るのも怖いかもしれない。
けれど。
「今すぐ帰るのは嫌です」
「ええ」
「取りに行くのも……まだ嫌」
「ええ」
「でも、何があるかは知りたいです」
「なら、その方法を考えましょう」
「私が行かなくても?」
「行かずに確認する方法もあるでしょう」
エレノアは顔を上げる。
「例えば?」
「あなたの許可をもらって、信頼できる人に確認してもらう。あるいはベルナール家へ、あなたの私物の一覧を出すよう求める」
「お父様に?」
「そうなるでしょうね」
怖さが戻る。
でも、先ほどの話を思い出した。
父が怒るかどうかと、自分のものを確認することは別。
「……お願いしたいです」
「どちらを?」
「まず、一覧を出してほしいです」
マルグリットが微笑む。
「分かったわ。アルフォンスに相談しましょう」
エレノアは一歩進み、また止まった。
「お祖母様」
「なあに?」
「私がいない間に、私のものを捨てられたりしませんか?」
今度は、マルグリットの表情が少しだけ厳しくなった。
「その可能性が絶対にないとは言えないわ」
エレノアの胸が冷える。
「だから、早めに『エレノアの私物を勝手に処分しないように』と正式に伝えておきましょう」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるわ」
「私が戻らなくても?」
「戻るかどうかとは別の話です」
また、その言葉。
別の話。
いくつものことを、一つにまとめなくていい。
帰るかどうか。
父が怒るかどうか。
自分の持ち物を守ること。
母の遺品を探すこと。
全部別々に考えていい。
「お願いします」
エレノアははっきりと言った。
「私のものを、捨てないでほしいです」
「ええ」
マルグリットは頷いた。
「その言葉を、そのまま伝えましょう」
◇ ◇ ◇
その日の午後、アルフォンス名義の書状がベルナール伯爵家へ届けられた。
内容は簡潔だった。
エレノアが現在ベルナール邸へ戻っていない期間中、本人所有の衣服、装身具、書籍、書簡、私的な小物類を本人の承諾なく移動・廃棄・譲渡しないこと。
アデラインが婚姻時に持参した個人所有品について、現存品と記録を照合すること。
エレノアの私物について、可能な範囲で一覧を作成すること。
そして、確認作業に際しては、エレノアの私室を必要以上に荒らさないこと。
ロベルトは書状を二度読んだ。
「……エレノア本人が求めているのか」
使者は一礼する。
「少なくとも、私物を処分しないでほしいというご意向は、エレノア様ご本人からのものと伺っております」
ロベルトは目を閉じた。
「分かった」
拒否はしなかった。
「私室には、誰も勝手に入れるな。確認する人間を決める」
「旦那様」
家令が尋ねる。
「奥様には?」
ロベルトは少し考えた。
「私物確認については伝える。だが、先ほど見つかった食事の指示書についてはまだ話すな」
「承知いたしました」
「エレノアの部屋は……」
ロベルトの言葉が止まる。
娘の部屋。
最後に入ったのはいつだ。
思い出せない。
「俺も行く」
「旦那様が?」
「ああ」
家令が僅かに驚く。
「勝手に触るつもりはない。ただ、何があるのか確認したい」
自分の娘が十五年近く暮らした部屋。
その中に何があるか、自分はどれほど知っているのか。
答えは、聞くまでもなかった。
◇ ◇ ◇
エレノアの私室は、屋敷の東側二階にあった。
ロベルトは扉の前で立ち止まった。
ここへ来ること自体が久しぶりだった。
扉を開ける。
室内は整っている。
寝台。
机。
本棚。
衣装棚。
窓辺の小さな椅子。
豪華ではない。
伯爵令嬢の部屋として不自然なほど質素というわけでもない。
少なくとも、一見しただけなら。
「……これが」
ロベルトは部屋を見回す。
娘の部屋なのに、娘の好みが分からない。
壁紙は淡い灰青色。
カーテンは白。
寝具も白。
花はない。
飾りもほとんどない。
「エレノアは、この色が好きだったのか」
家令へ尋ねる。
「申し訳ございません。私には」
「誰が選んだ」
「内装につきましては、奥様が整えられたものと記憶しております」
ロベルトは黙った。
本棚へ近づく。
歴史書。
礼儀作法。
詩集。
語学。
領地経営の入門書。
どれも令嬢の教育用として不自然ではない。
だが。
「エレノアが自分で買った本はどれだ」
「……確認いたします」
机の引き出しは閉じられている。
ロベルトは手を伸ばしかけて止めた。
エレノアは、私室を必要以上に荒らさないでほしいと言っている。
「本人の許可なしに、引き出しは開けるな」
「ですが、一覧を作るには」
「外から確認できるものから始めろ。引き出しや箱の中は、必要ならロシュフォール側へ確認を取る」
「承知いたしました」
衣装棚を開く。
何着ものドレスが並んでいる。
色は白、薄灰、紺、茶。
落ち着いた色が多い。
「……十五歳の娘は、こういう色を好むものなのか」
誰にともなく漏らした。
家令は答えない。
そのとき、衣装棚の下段に小さな空間があることに気づいた。
「これは?」
古参の侍女が呼ばれた。
「以前は何が入っていた」
侍女はしばらく考えた。
「装身具を入れた小箱などがあったかと存じます」
「小箱?」
「はい」
「どんなものだ」
「申し訳ございません。私は直接扱っておりませんので……」
「誰が扱った」
「お嬢様付きの侍女か、侍女長かと」
「マーサが外れたあとに担当した者を呼べ」
「かしこまりました」
ロベルトは衣装棚を見つめる。
空いている。
そこに何があったのか。
いつなくなったのか。
分からない。
やがて、一人の侍女が連れてこられた。
三十代半ばほどの女性だった。
「名前は」
「ノエル・ファランドと申します」
「エレノア付きだった時期は?」
「マーサの後、半年ほどでございます」
「この棚に何があったか覚えているか」
ノエルは部屋を見回し、少し緊張した様子で衣装棚へ近づく。
「……木の箱がございました」
ロベルトの目が鋭くなる。
「どんな」
「茶色の……少し古い箱でございます」
「彫刻は?」
ノエルが考える。
「花が、あったような……」
「野薔薇か?」
「申し訳ございません。花の種類までは」
「その箱はどこへ行った」
ノエルの表情が曇る。
「分かりません」
「お前が担当していた間になくなったのか」
「……はい」
「いつ」
「正確には覚えておりません。ただ、私がお嬢様付きになったころにはありました。それからしばらくして……」
「なくなった?」
「はい」
「エレノアは何も言わなかったのか」
ノエルが黙る。
「答えろ」
「……一度、尋ねられました」
ロベルトの呼吸が止まる。
「何と」
「『ここにあった箱を知りませんか』と」
「それで?」
「私は、存じませんと」
「そのあと、どうした」
「侍女長へ確認いたしました」
「ベアトリスに?」
「はい」
「何と言われた」
ノエルの視線が床へ落ちる。
「……『お嬢様には必要のないものです』と」
部屋の空気が変わった。
「必要のないもの?」
「はい」
「誰がそう判断した」
「そこまでは……」
「ヴァレリアか」
「存じません」
「ベアトリス自身か」
「分かりません」
ロベルトは拳を握った。
怒鳴りそうになる。
だが、止めた。
ノエルが怯えている。
「エレノアへは何と伝えた」
「侍女長へ確認したところ、必要のないものだと言われた、と……」
「エレノアは?」
「……『そうですか』と」
「それだけか」
「はい」
「泣かなかった?」
「私の前では」
「怒らなかった?」
「いいえ」
ロベルトは目を閉じた。
まただ。
何も言わない。
従順。
問題がない。
その言葉の裏で、娘は何を諦めていた。
「ノエル」
「はい」
「ほかに覚えているものはあるか。エレノアの所有物で、途中から見なくなったもの」
ノエルはしばらく考える。
「青い石の髪飾りを……」
ロベルトが顔を上げた。
「青い石?」
「はい。小さな青い石を使った髪飾りでございます。お嬢様が何度か身につけておられました」
「それもなくなったのか」
「……いつからか、見なくなりました」
「理由は」
「存じません」
「本人へ聞いたことは?」
「ございません」
ロベルトは何も言えなくなった。
木箱。
青い髪飾り。
どちらも、ロシュフォール側が探しているものだ。
そして、どちらも確かにこの部屋にあった。
「このことを記録しろ」
ようやく声を出した。
「ノエルの証言として。箱と髪飾りがこの部屋にあったこと。箱についてエレノア本人が尋ねていたこと。ベアトリスへ確認したこと。その回答。全部だ」
「かしこまりました」
「ベアトリスを呼べ」
家令が一礼する。
「ただし」
ロベルトは続けた。
「まだヴァレリアには話すな」
「承知いたしました」
人々が動き始める。
ロベルトは一人、娘の部屋の中央に立っていた。
ここには確かにエレノアが暮らしていた。
なのに、父親である自分の痕跡はほとんどない。
何を好んでいたのか。
何を読んでいたのか。
どんな色を選んでいたのか。
何を大切にしていたのか。
何を失っていたのか。
何も知らない。
窓辺の机へ視線を向ける。
引き出しは閉じたままだ。
ロベルトは触れなかった。
娘が自分のものを守ってほしいと言った。
せめて今は、その言葉だけでも守らなければならない。
◇ ◇ ◇
夕方。
ロシュフォール公爵邸へ、新しい報告が届いた。
アルフォンスは内容を読んだあと、しばらく黙っていた。
向かいに座るセドリックが眉を寄せる。
「父上」
「ああ」
「見つかったんですか?」
「現物はまだだ」
「じゃあ?」
「木箱は、少なくともエレノアの部屋にあった」
セドリックの目が鋭くなる。
「いつまで?」
「マーサが外れたあとに担当した侍女が、最初のころには見ている。その後、なくなった」
「誰が?」
「分からない」
アルフォンスは報告書を机へ置く。
「エレノア自身が箱の所在を侍女へ尋ねている。侍女はベアトリスへ確認した。ベアトリスから返ってきたのは『お嬢様には必要のないものです』という言葉だったそうだ」
セドリックの手が強く握られる。
「必要がない?」
「落ち着け」
「母上の形見ですよ」
「分かっている」
「それを誰かが勝手に――」
「まだ誰が持ち出したか分からない」
アルフォンスの声が低くなる。
「ベアトリスが自分で処分したのか、誰かに命じられたのか、別の場所へ移しただけなのかも分からない。『必要がない』という言葉の意味も、本人へ確認する必要がある」
「……分かってます」
「分かっている顔じゃない」
「父上だって同じ顔してますよ」
アルフォンスは黙った。
否定できなかった。
「もう一つある」
「何ですか」
「青い髪飾りも、同じ侍女が見ている」
セドリックの表情が変わる。
「本当に?」
「ああ。エレノアが身につけていたそうだ。だが、それも途中から見なくなった」
「……そうですか」
セドリックは俯いた。
少なくとも。
自分が贈ったものは届いていた。
エレノアは使っていた。
それだけは確かになった。
嬉しいはずの事実なのに、その先が分からない。
「エレノアに話しますか?」
セドリックが尋ねる。
アルフォンスはすぐには答えない。
「本人に聞く」
「今?」
「いや」
窓の外を見る。
夕暮れ。
「夕食前だ。今日はもう、ベルナール家の食事記録について聞いている」
「じゃあ……」
「今夜は伝えない」
「でも、見つかったことを早く知りたいかもしれません」
「ああ」
「なら?」
「だから本人に聞く。ただし、今すぐ内容を伝えるんじゃない」
アルフォンスは立ち上がった。
「『新しい報告が来た。今日聞くか、明日以降にするか』と聞く」
セドリックは少し黙ったあと、頷いた。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
夕食前、エレノアは野薔薇の水を替えていた。
昨日より少し元気がない。
花びらの端も僅かに丸まっている。
それでも、まだ捨てたくなかった。
水を替え終えたところで、扉が叩かれる。
「エレノア、俺だ」
「叔父様?」
「入っていいか?」
「はい」
アルフォンスが入ってくる。
表情はいつも通りに見える。
でも、何か話がある。
エレノアにも分かった。
「新しいことが分かったんですか?」
「ああ」
胸が少し強く鳴る。
「お前の部屋にあったものについて、新しい報告が来た」
エレノアは野薔薇を見る。
「木の箱?」
「それも含まれている」
「……髪飾りも?」
アルフォンスは少し驚いたあと、頷いた。
「含まれている」
聞きたい。
すぐに。
そう思った。
でも同時に、今日すでに食事の記録を聞いたことも思い出す。
ベアトリスという名前を知った。
厨房の記憶が少し戻った。
胸の奥には、まだ疲れが残っている。
(どうしよう)
以前なら、聞かなければならないと思った。
今は違う。
「今日、聞かなかったら……なくなりますか?」
「情報が?」
「はい」
「なくならない」
「明日でも?」
「もちろん」
「明後日でも?」
「構わない」
「叔父様は、早く話したいですか?」
アルフォンスが少し考える。
「俺は、お前が聞きたいときに話したい」
「……そうですか」
エレノアは野薔薇へ視線を戻した。
知りたい。
とても。
母の箱。
兄からもらった髪飾り。
自分が失ったもの。
けれど、今日はもう胸が少し疲れている。
「明日、聞きたいです」
「分かった」
「今日は……聞きません」
「ああ」
アルフォンスはそれ以上何も言わなかった。
エレノアは少しだけ不安になる。
「叔父様」
「ん?」
「本当にいいんですか?」
「何が?」
「せっかく調べてもらったのに、今日聞かなくて」
「調べたことは明日も残っている」
あまりにも簡単な答えだった。
「……はい」
「それに」
アルフォンスは机の上の野薔薇を見る。
「今日は夕食だろう?」
エレノアが目を瞬く。
「はい」
「何が出るか知ってるか?」
「知りません」
「俺も知らない」
昨日、セドリックと交わした会話を思い出した。
エレノアは笑った。
「じゃあ、それを先に知ります」
「ああ」
アルフォンスも笑う。
エレノアは机の上の紙を開いた。
今日書き加えることがある。
『私のものを、捨てないでほしい』
まず、それを書いた。
少し下へ、もう一つ。
『知りたいことでも、今日聞かなくていい』
筆を置く。
昨日までなら、知ることを選べるようになることが自由なのだと思っていた。
でも、それだけではない。
知りたいことを、今日は聞かない。
明日にする。
それも、自分で選ぶことだった。
「行くか?」
「はい」
エレノアは立ち上がった。
野薔薇を一度だけ振り返り、アルフォンスと一緒に部屋を出る。
廊下には夕食の匂いが漂っていた。
「叔父様」
「なんだ?」
「今日は何でしょうね」
「俺に聞かれても分からん」
「お肉の匂いがします」
「そうだな」
「お腹、空きました」
その言葉を口にしたあと、エレノアは自分で驚いた。
お腹が空いた。
以前なら、それを言っていいのかさえ考えたかもしれない。
アルフォンスは何も特別なことのようには扱わなかった。
「なら、ちょうどいい」
「はい」
二人で食堂へ向かう。
母の箱について、新しいことが分かった。
青い髪飾りについても。
エレノアはまだ、その内容を知らない。
けれど、それでよかった。
情報は逃げない。
明日もそこにある。
今夜はまず、温かな夕食を食べる。
自分が空腹だと気づいたから。
それを満たしてもいいのだと、少しずつ知り始めたから。
エレノアは隣を歩く叔父の横顔を見てから、ほんの少し歩幅を大きくした。




