第19話 なくなった箱と髪飾り
翌朝、エレノアは目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。
昨夜は思っていたよりもよく眠れた。
眠る前、何度か母の木箱と青い髪飾りのことが頭に浮かんだ。アルフォンスが「新しい報告が来た」と言っていたのだから、聞こうと思えば昨夜のうちに聞けた。
それでも、自分で明日にすると決めた。
(ちゃんと、待てた)
誰かに「今日はもうやめなさい」と止められたわけではない。
怖くなって逃げたわけでもない。
知りたいと思いながら、それでも今日は聞かないと決めた。
その違いが、今朝になっても胸の奥へ小さな安心として残っている。
寝台から上半身を起こすと、視線は自然と机へ向かった。
小さな花瓶の野薔薇は、昨日よりさらに花びらを伏せている。薄桃色の一枚が机の上へ落ちていた。
「あ……」
エレノアは寝台を降り、そっと近づいた。
落ちた花びらを指先で拾う。
(枯れちゃう)
当然のことなのに、胸の奥が少し寂しくなった。
昨日、マルグリットは言っていた。
花だから、いつかは枯れる。
また見に行けばいい。
それでも、せっかく自分で選んで摘んだ花が形を失っていくのは寂しい。
エレノアは花びらを捨てず、机の端へ置いた。
そのとき、扉が控えめに叩かれる。
「おはようございます、エレノアお嬢様。リディアでございます」
「おはようございます。入ってください」
リディアが入室し、いつものようにカーテンを開けるか尋ねた。
「お願いします」
「かしこまりました」
朝日が部屋へ入る。
リディアは衣服を整えてから、机の野薔薇へ気づいた。
「少し元気がなくなってまいりましたね」
「はい」
「新しいものと替えましょうか?」
エレノアはすぐに答えず、花を見る。
「……まだ、これがいいです」
「では、このままにいたしましょう」
「枯れても?」
「お嬢様が替えたいと思われるまで」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます」
昨日は知らないことを明日へ残した。
今日は、枯れかけた花をまだ置いておく。
どちらも、自分で決めていい。
「今日は、これにします」
衣服の中から淡い若草色を選ぶ。
「リボンはいかがなさいますか?」
「青にします」
「かしこまりました」
青。
その色を選んだ瞬間、髪飾りのことが浮かぶ。
十一歳の誕生日。
セドリックが自分の小遣いで買ってくれた青い石の髪飾り。
自分は何度も「私に?」と尋ね、鏡の前で少し曲がったまま髪につけていたらしい。
そして、いつからか見なくなった。
(今日は、聞こう)
昨日とは違う。
今はそう思えた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、焼きたてのパンと卵料理、温かな野菜のスープが並んでいた。
エレノアはパンを一つ取り、半分に割る。
以前なら、まず周囲の皿を見ていた。
誰がどれくらい食べているのか。
自分が多すぎないか。
残して怒られない量はどれくらいか。
今も、その癖が完全になくなったわけではない。
けれど今日は、自分の腹具合を考えた。
(朝は、これくらい食べられそう)
パンを一つ。
卵料理。
スープ。
食べ終わって、まだ欲しければもう一つ取ればいい。
それだけだ。
「エレノア」
向かいからセドリックに呼ばれた。
「はい?」
「今日、青なんだね」
視線が髪のリボンへ向いている。
「はい。今日は青にしました」
「似合ってる」
「ありがとうございます」
素直に答えてから、エレノアは少しだけ迷った。
「お兄様」
「うん?」
「昨日の話、今日聞こうと思います」
セドリックの表情が少し変わる。
すぐに意味を理解したらしい。
「分かった」
「朝ご飯のあとでもいいですか?」
「もちろん」
アルフォンスも頷く。
「食べ終わってからにしよう」
「はい」
そこで話は終わった。
誰も食卓で報告の続きを始めない。
エレノアはそれが嬉しかった。
知ると決めたからといって、一刻も早く知らなければならないわけではない。
スープを飲む。
温かい。
卵を食べる。
パンを食べ終える。
少し考えてから、もう半分だけ欲しいと思った。
「これ、半分にしてもいいですか?」
パン籠へ手を伸ばしながら尋ねると、オーギュストが首を傾げた。
「パンに許可を取っているのか?」
「お祖父様」
マルグリットが窘める。
「いや、悪い意味ではないぞ」
「分かっています」
エレノアは笑った。
「一つだと多いかなと思って」
「なら、俺と半分にする?」
セドリックが尋ねる。
「お兄様も食べたいんですか?」
「少しなら」
「じゃあ、半分こにします」
エレノアはパンを割り、大きさを見比べる。
ほんの少しだけ片方が大きい。
以前なら、大きい方を相手へ渡しただろう。
手がそう動きかける。
けれど止めた。
「……私、こっちにします」
大きい方。
セドリックが受け取った小さい方を見て、それからエレノアを見る。
「了解」
それだけだった。
誰も咎めない。
誰も「姉なのだから」「令嬢なのだから」「相手へ譲りなさい」と言わない。
エレノアは少しだけ嬉しくなって、大きい方のパンを食べた。
◇ ◇ ◇
朝食後。
エレノアはアルフォンスの執務室ではなく、南側の小さな居間を選んだ。
「ここでいいんですか?」
リディアが茶器を置きながら尋ねる。
「はい。叔父様のお部屋だと、少し緊張するので」
「分かりました」
自分で場所を選ぶ。
それも以前なら考えなかったことだ。
居間にはエレノア、アルフォンス、マルグリット、セドリックの四人がいる。
窓から朝の庭が見える。
アルフォンスの手元には一枚の報告書があった。
「準備はいいか?」
「はい」
エレノアは答えたあと、付け加える。
「途中で嫌になったら、止めます」
「ああ」
「分からないことがあったら、分からないって言います」
「それでいい」
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
「聞きたいです」
アルフォンスが報告書へ目を落とす。
「昨日、ベルナール家がお前の私室を確認した」
胸が小さく鳴る。
「お父様が?」
「ああ。家令たちと一緒に確認したそうだ。ただし、お前から許可を得ていない引き出しや私的な箱の中までは開けないよう指示したと報告されている」
エレノアは少し驚いた。
「お父様が?」
「そう書かれている」
「……そうですか」
嬉しい、とは違う。
だからといって嫌でもない。
何と呼べばいいか分からない感情が残った。
「続けてください」
「分かった」
アルフォンスは一度エレノアを見てから続ける。
「姉上の野薔薇の木箱は、少なくとも以前、お前の部屋にあったことが確認できた」
エレノアの指が動いた。
「私の部屋に?」
「ああ」
「本当に?」
「マーサがお前付きから外れたあと、半年ほど担当した侍女が証言している」
「名前は?」
「ノエル・ファランド」
「ノエル……」
覚えている。
顔も浮かぶ。
茶色い髪をきっちりまとめ、少し早口で話す侍女だった。
「覚えてる?」
セドリックが尋ねる。
「はい。少し」
嫌な人だった記憶はない。
優しかったという強い記憶もない。
ただ、いた。
自分の部屋へ出入りしていた。
「ノエルは、私の部屋で箱を見たんですか?」
「ああ。茶色い古い木箱で、花の彫刻があったと証言している。花の種類までは覚えていないそうだが、記録と照らせば姉上の箱である可能性は高い」
「じゃあ……お母様の箱は、私が持っていた?」
「少なくとも、お前の部屋に置かれていた時期がある」
「どうして?」
「そこはまだ分からない」
アルフォンスは断定しない。
「姉上が生前にお前へ渡したのかもしれない。亡くなったあと、誰かがお前のものとして部屋へ置いた可能性もある。法的な所有関係は別に確認が必要だ」
「でも、あったんですね」
「ああ」
エレノアは息を吐く。
母の箱。
自分の部屋にあった。
それなのに、ほとんど覚えていない。
「……なくなったんですか?」
アルフォンスの表情が僅かに硬くなった。
「ああ」
「いつ?」
「正確には分からない」
「誰が?」
「それも分からない」
「捨てられた?」
「分からない」
「売られた?」
「それも、まだ分からない」
エレノアの質問へ、同じ答えが続く。
以前なら焦ったかもしれない。
分からないことが多すぎる。
けれど今は、アルフォンスが知らないことを知らないまま答えているのだと理解できる。
「……続きがあるんですよね」
「ああ」
「聞きます」
「ノエルによれば、箱がなくなったあと、お前自身が箱の場所を尋ねている」
エレノアの呼吸が止まった。
「私が?」
「ああ」
「誰に?」
「ノエルに」
「何て?」
「『ここにあった箱を知りませんか』と」
胸の奥がざわめく。
その言葉。
聞いた瞬間、頭の中で何かが揺れた。
衣装棚。
しゃがみ込む自分。
空いた場所。
何かがない。
『……ない』
幼い自分の声。
エレノアは目を閉じた。
「エレノア?」
「待ってください」
「ああ」
誰も急かさない。
エレノアは記憶の端へ無理に手を伸ばさないようにしながら、浮かんでくるものだけを受け止める。
木の匂い。
蓋。
指でなぞった凹凸。
花。
『お母様の――』
そこで途切れた。
「……少し、覚えてるかもしれません」
目を開ける。
「箱を?」
「触ったことがある気がします」
マルグリットの目が揺れる。
「どんなふうに?」
「分かりません。ただ……」
エレノアは自分の指先を見る。
「表面を触ってた気がします。でこぼこしてて……」
「彫刻ね」
「たぶん」
「無理に続けなくていいわ」
「はい」
エレノアは一度息を整える。
「ノエルは、私に何て答えたんですか?」
「知らない、と答えたそうだ」
「それから?」
「ノエルは当時の侍女長、ベアトリスへ確認した」
昨日聞いた名前。
身体が少し固くなる。
「ベアトリスは?」
アルフォンスが一拍置いた。
「ノエルへ、『お嬢様には必要のないものです』と答えたそうだ」
エレノアは瞬きをした。
「……必要のないもの?」
「ああ」
「私に?」
「ああ」
「お母様の箱が?」
「そう言った理由は、まだ分からない」
胸の奥に、冷たいものではなく別の感情が生まれる。
すぐには名前をつけられなかった。
悲しい。
怖い。
でも、それだけではない。
「どうして……」
声が震えた。
「どうして、私に必要かどうかを、ベアトリスが決めるんですか?」
アルフォンスは答えなかった。
答えられないからではない。
エレノア自身の言葉を待っている。
「私がいらないって言ったんですか?」
「その証言はない」
「じゃあ、私が捨ててって言った?」
「それも確認されていない」
「私、探してたんですよね?」
「ああ」
「だったら……」
エレノアの手が膝の上で強く握られる。
「必要だったんじゃないですか?」
マルグリットが静かに頷いた。
「少なくとも、あなたは箱がなくなったことに気づいて、どこにあるのか尋ねたのよね」
「はい」
「なら、あなたにとって何でもいいものではなかったのでしょう」
「……はい」
エレノアは唇を噛みそうになり、やめた。
(嫌だ)
はっきりと思った。
(それ、嫌だ)
誰かが勝手に決める。
あなたには必要ない。
あなたには似合わない。
あなたにはいらない。
そんな言葉を、自分はどれだけ受け入れてきたのだろう。
「叔父様」
「うん」
「私、怒ってもいいですか?」
アルフォンスの目が少し見開かれた。
「もちろんだ」
「でも、誰が持っていったか分からないですよね」
「ああ」
「ベアトリスが悪いって決まったわけでもない」
「ああ」
「それでも?」
「誰かを犯人だと決めつけることと、起きたことに腹を立てることは別だ」
以前マルグリットが教えてくれたことと似ている。
感情と行動は同じではない。
「……嫌です」
エレノアは言った。
「勝手に、私に必要ないって決められたの、嫌です」
声が少し震える。
けれど、止めなかった。
「お母様のものだったのに。私、どこにあるか聞いたのに。それなのに、誰も教えてくれなかったなら……嫌です」
マルグリットの目に涙が浮かぶ。
アルフォンスの表情も険しくなる。
その顔を見て、エレノアの身体が一瞬だけ強張った。
アルフォンスはすぐに気づいた。
「すまない」
「……叔父様も怒ってますか?」
「ああ」
「私に?」
「違う」
今度は、エレノアが自分で息を吐いた。
「分かってます」
アルフォンスが目を瞬く。
「少しびっくりしました。でも……叔父様が私に怒ってるんじゃないって、今は分かります」
その言葉に、アルフォンスの険しい表情が少し崩れた。
「そうか」
「はい」
怖さが完全になくなったわけではない。
強い怒りの顔を見ると、身体はまだ反応する。
でも、身体が怖がったことと、目の前の人が自分を傷つけることは同じではない。
少しずつ、分けられるようになっている。
「箱は探してくれるんですよね?」
「ああ。ベアトリス本人への確認も行う」
「私も……結果を知りたいです」
「分かった」
「でも、一度に全部じゃなくていいです」
「ああ」
エレノアは頷いた。
そして、もう一つのことを思い出す。
「髪飾りは?」
セドリックの肩が僅かに動いた。
「それも、ノエルが覚えていた」
アルフォンスが答える。
「青い石の髪飾りを、お前が何度か身につけていたそうだ」
エレノアはセドリックを見る。
「本当に、使ってたんですね」
「……うん」
セドリックが微笑む。
でも、その笑みは少し寂しそうだった。
「僕の記憶だけじゃなくなったね」
「はい」
「ちゃんと届いてた」
「はい」
エレノアの胸が温かくなる。
「お兄様」
「なに?」
「私、嬉しかったと思います」
セドリックの目が揺れた。
「覚えてないのに?」
「だって、何度もつけてたんでしょう?」
「うん」
「嫌だったら、つけないと思います」
「……そうだね」
「だから、きっと嬉しかったです」
セドリックは少し俯き、それから笑った。
「じゃあ、そう思っておく」
「はい」
「ただ」
アルフォンスが続ける。
「髪飾りも、いつからか見なくなったとノエルは証言している」
エレノアは青いリボンへ触れた。
「それも、なくなった?」
「可能性はある。だが、箱と同じ時期か、同じ理由かは分からない」
「私がどこかにしまった可能性も?」
「ある」
「壊したかも?」
「ある」
「誰かが持っていったかも?」
「それもある」
エレノアは少し考えた。
「じゃあ、まだ分からないですね」
「ああ」
「探してください」
「分かった」
セドリックがエレノアを見る。
「見つかったら、また使う?」
エレノアはすぐには答えなかった。
十一歳の自分は使っていた。
でも十五歳の自分が使いたいかは、まだ分からない。
「見つかってから決めます」
一瞬の沈黙。
それからセドリックが笑った。
「うん。それがいい」
「嫌ですか?」
「全然」
「せっかくお兄様がくれたのに、使わなかったら?」
「それでもエレノアのものだよ」
セドリックは穏やかに答えた。
「贈った時点で、僕のものじゃない。使うか、しまっておくか、別の形で残すか。それはエレノアが決めればいい」
エレノアは青いリボンから手を離した。
「……ありがとうございます」
昔の贈り物なのに、今になってもう一度受け取ったような気がした。
◇ ◇ ◇
同じころ。
ベルナール伯爵邸では、ベアトリスが再びロベルトの前へ呼ばれていた。
今回は昨日よりも空気が重い。
机の上には、食事に関する指示書だけでなく、ノエルの証言を書き取った記録も置かれている。
「ベアトリス」
「はい」
「この署名を確認しろ」
ロベルトが一枚の紙を差し出す。
ベアトリスは目を落とした。
『東側二階への夕食配膳不要』
日付。
署名。
彼女の指先が僅かに止まる。
「私の署名でございます」
「お前が書いたのか」
「……はい」
「理由は」
「記憶が曖昧でございます」
「思い出せる範囲でいい」
ベアトリスは紙を見つめた。
「おそらく、奥様からの指示を記録したものかと」
ロベルトの表情が変わる。
「ヴァレリアから?」
「はい。ただし」
ベアトリスはすぐに続けた。
「『食事を与えるな』という意味の指示ではなかったと記憶しております」
「では、どういう意味だ」
「お嬢様が食事の時間を守らなかった場合、通常の配膳を下げる。必要なら厨房で軽食を取らせる。そのような教育上の対応だったかと」
「教育?」
「はい」
「十五にもならない娘に、食事を使って時間を守らせたのか」
「……当時は、そのように認識しておりました」
ロベルトの声が低くなる。
「『夕食は厨房残りを使用』もか」
別の紙を置く。
ベアトリスの顔色が変わった。
「それも、お前の署名だ」
「はい」
「これも教育か」
「……奥様から、食べ物を粗末にしないことを教えるためだと」
「何をしたら、厨房の残りになる」
「食事の時間に遅れた場合や、昼食を残した場合など……」
「エレノア本人へ、その規則を説明していたのか」
ベアトリスが黙る。
「答えろ」
「私から直接は」
「誰が説明した」
「奥様か、担当侍女が……」
「確認したのか」
「いいえ」
ロベルトは椅子へ深く座った。
怒りをぶつけるのは簡単だ。
だが、今必要なのは事実だ。
「この日付を見ろ」
一枚目。
「家庭教師の記録では、エレノアはこの日、一日屋敷にいた」
ベアトリスが紙を見る。
「医師の診察もない。外出もない。それでも夕食の配膳は不要になっている」
次。
「この日もだ」
さらに次。
「この日は昼食不要。だが午前も午後も家庭教師の授業を受けている」
「……」
「病気でも外出でもない」
ベアトリスの唇が固く結ばれる。
「なぜ食事を止めた」
「旦那様」
「何だ」
「私は……奥様の方針に従っていただけでございます」
部屋が静まり返った。
家令補佐の筆が止まる。
「どの方針だ」
「お嬢様には規律が必要だと」
「だから食事を?」
「私は、それが虐待になるなどとは……」
「俺は虐待という言葉を使っていない」
ベアトリスの顔が強張った。
ロベルト自身も、その言葉を聞いて胸の奥が冷える。
「お前は、なぜ今その言葉を使った」
「……怪我が見つかったと聞いておりますので」
「誰から」
「屋敷内では、すでに噂になっております」
あり得ない話ではない。
エレノアが戻らない。
ロシュフォール家の医師が診察した。
ロベルトが過去の記録を調べている。
使用人の間で何も広まらない方が不自然だ。
「食事を止めることと、怪我は別だ」
「はい」
「身体的な罰については、本当に知らないんだな」
「存じません」
「ヴァレリアがエレノアを叩いたところを見たことは?」
「ございません」
「ミレーヌは?」
ベアトリスが驚いて顔を上げる。
「ミレーヌお嬢様が、でございますか?」
「ああ」
「ございません」
「他の使用人は?」
「少なくとも、私が見たことはございません」
ロベルトは頷いた。
そこは証言として記録する。
知っていることと知らないことを混ぜない。
「では、別件だ」
ノエルの証言書を出す。
「エレノアの部屋にあった木箱を覚えているか」
ベアトリスの顔から表情が消えた。
「木箱……」
「花の彫刻がある、古い箱だ」
沈黙。
「覚えているな」
「……はい」
ロベルトの目が細くなる。
「どこへやった」
「私は、処分しておりません」
「なら、どこだ」
「……奥様へお渡ししました」
誰も動かなかった。
ロベルトの声だけが、低く部屋へ落ちる。
「ヴァレリアへ?」
「はい」
「なぜ」
「奥様から、お嬢様の部屋に置かれている古い品を整理するよう指示がありました」
「それで姉上の――」
ロベルトは言葉を止める。
アデラインの箱。
自分も存在を知っていたはずだ。
だが、あの箱がエレノアの部屋にあったことすら覚えていない。
「その箱がアデラインのものだと知っていたか」
「後から知りました」
「いつ」
「奥様へお渡しした際に」
「ヴァレリアは知っていた?」
「……はい」
「何と言った」
ベアトリスは視線を下げる。
「『これはアデライン様のものね』と」
ロベルトの手が机の上で止まる。
「それから?」
「私には、『こちらで預かる』と」
「どこへ持っていった」
「奥様のお部屋へ」
「その後は」
「存じません」
「本当に?」
「はい」
ロベルトはベアトリスを見つめ続けた。
「ノエルがお前へ箱の所在を尋ねた」
「……はい」
「お前は『お嬢様には必要のないものです』と答えた」
「はい」
「なぜだ」
「奥様から……」
声が小さくなる。
「何と言われた」
「『エレノアには必要ないから、聞かれても気にしなくていい』と」
ロベルトは息を吸った。
怒鳴らなかった。
机も叩かなかった。
ただ、その言葉を一つずつ頭の中で確認する。
箱はエレノアの部屋にあった。
ベアトリスが持ち出した。
ヴァレリアへ渡した。
ヴァレリアはアデラインのものだと認識した。
そしてエレノアには必要ないと言った。
ここまでは、今の証言で繋がった。
だが。
「ヴァレリアが処分したところを見たか」
「いいえ」
「売却した?」
「存じません」
「ミレーヌへ渡した?」
「それも存じません」
「今どこにある?」
「分かりません」
ロベルトは頷く。
そこから先は、まだ分からない。
「青い石の髪飾りは」
ベアトリスが顔を上げる。
「青い……」
「エレノアが使っていたものだ」
「……覚えております」
「それもお前が持ち出したのか」
「いいえ」
今度はすぐに否定した。
「本当か」
「はい。髪飾りについては、私は存じません」
「ヴァレリアが持っているところを見たことは?」
「ございません」
「ミレーヌは?」
「ございません」
ロベルトは家令補佐を見る。
「記録したな」
「はい」
「箱についての証言と、髪飾りについて知らないという証言を分けて記録しろ」
「承知いたしました」
ベアトリスはまだ何か言いたそうだった。
「何だ」
「旦那様」
「言え」
「私は……」
彼女は唇を震わせる。
「お嬢様に危害を加えるつもりはございませんでした」
ロベルトは答えなかった。
「奥様が、母君を亡くされて甘やかされていると。将来困らないよう、厳しく教える必要があるとおっしゃって……」
「だから従った?」
「……はい」
「エレノア本人がどう思っているか、聞いたことは?」
「ございません」
「食事が足りているかは?」
「ございません」
「箱を返してほしいかは?」
「ございません」
ベアトリスの顔が歪む。
ロベルトは自分へ同じ問いを向けられているような気がした。
聞かなかった。
自分も。
「今日はここまでだ」
「旦那様」
「屋敷から出るな。誰かと証言内容を合わせようとするな」
「……承知いたしました」
「これは処罰を決めたという意味ではない。調査が終わっていないからだ」
「はい」
ベアトリスが退室する。
扉が閉まる。
ロベルトはしばらく動かなかった。
「旦那様」
家令が呼ぶ。
「……ヴァレリアを呼べ」
「よろしいのですか」
「ああ」
「食事記録についても?」
ロベルトは考える。
「木箱からだ」
「かしこまりました」
「食事については、まだ言うな」
証言を混ぜたくない。
先に箱について、ヴァレリア自身の言葉を聞く。
彼女が何を覚えているのか。
何を知らないと言うのか。
何を説明するのか。
ロベルトは机の上の報告書を見つめた。
もう、知らなかったという言葉だけでは何も終わらない。
◇ ◇ ◇
昼前。
ヴァレリアはロベルトの執務室へ呼ばれた。
「お呼びですか?」
いつも通り、身なりは整っている。
薄紫のドレス。
髪も乱れていない。
ただ、部屋に家令と第三者がいるのを見て、ほんの一瞬だけ足が止まった。
「座ってくれ」
「……はい」
ヴァレリアが腰を下ろす。
「エレノアの私物について確認している」
「聞いております」
「アデラインの木箱を覚えているか」
ヴァレリアの表情が僅かに変わった。
それはほんの一瞬だった。
「木箱?」
「野薔薇の彫刻があるものだ」
「……ええ」
「覚えているんだな」
「見たことはあります」
「どこで」
「以前、エレノアの部屋に」
ロベルトは黙って彼女を見る。
「その箱を、ベアトリスから受け取ったことは?」
ヴァレリアの指先が膝の上で僅かに動く。
「昔のことですから……」
「あるか、ないか」
「……あったかもしれません」
「何のために」
「古いものを整理していた時期がありましたので」
「アデラインのものだと知っていたか」
「ええ」
「なら、なぜエレノアの部屋から出した」
「保管するためです」
「どこに」
「……私の管理する保管室へ」
「今もあるのか」
ヴァレリアが黙った。
ロベルトの目が細くなる。
「ヴァレリア」
「確認しなければ分かりません」
「なぜ分からない」
「何年前の話だと思っているのですか?」
初めて、ヴァレリアの声に僅かな苛立ちが混じった。
だが、すぐに表情を整える。
「ごめんなさい。責められているように感じてしまって」
「責めているのではない。確認している」
「分かっています」
「エレノアは箱を探していた」
ヴァレリアの目が動く。
「そうなのですか?」
「知らなかったのか」
「ええ」
「ベアトリスは、お前から『エレノアには必要ないから、聞かれても気にしなくていい』と言われたと証言している」
ヴァレリアの顔から、微笑みが消えた。
「……そのような言い方をしたかは覚えていません」
「似た趣旨のことは?」
「古い品です。壊れかけていた可能性もありますし、エレノアには年齢に合ったものを用意していましたから」
「アデラインの形見だぞ」
「だからこそ、大切に保管しようとしたのではありませんか?」
「なら、なぜエレノアへ説明しなかった」
「私は、あの子が探していたことを知りませんでした」
「ベアトリスは知っていた」
「ベアトリスが私へすべて報告していたわけではありません」
筋は通る。
少なくとも、完全には崩れていない。
「箱は今どこだ」
「確認します」
「今すぐだ」
「ロベルト」
「何だ」
「私を疑っているの?」
静かな問いだった。
以前のロベルトなら、ここで否定したかもしれない。
妻を疑うなど。
お前がそんなことをするはずがない。
だが、今は。
「調べている」
ヴァレリアの瞳が僅かに揺れた。
「それは、同じことでしょう?」
「違う」
「どう違うの?」
「まだ何も決めていないからだ」
ロベルトは机の上へ手を置く。
「お前が箱を保管しただけなのかもしれない。ベアトリスの記憶が違っている部分もあるかもしれない。だが、エレノアが探していたものが本人へ何の説明もなく部屋から消えた。その事実は確認しなければならない」
「……分かりました」
ヴァレリアはゆっくり立ち上がる。
「では、保管室を確認しましょう」
「俺も行く」
今度こそ、ヴァレリアの動きが止まった。
ほんの一瞬。
それから微笑む。
「もちろんです」
◇ ◇ ◇
そのころエレノアは、南の温室でセドリックと一緒に過ごしていた。
今日は本を一冊持ってきている。
読もうと思って持ってきたのだが、まだほとんどページは進んでいない。
「読まないの?」
向かいに座るセドリックが尋ねる。
「読んでます」
「十分くらい同じページだけど」
「……見てたんです」
「文字を?」
「たぶん」
セドリックが笑う。
「箱のこと考えてる?」
エレノアは本を閉じた。
「はい」
「ごめん」
「どうしてお兄様が謝るんですか?」
「気を逸らした方がいいかなと思って温室に誘ったから」
「気は逸れてます」
「本当に?」
「少しは」
エレノアは椅子へ深く座る。
温室には柔らかな土の匂いと、咲き始めた花の甘い香りが混じっている。
「私、怒ってるみたいです」
「うん」
「変ですか?」
「全然」
「前は……」
言葉を探す。
「怒るって、怖い人がすることだと思ってました」
父が机を叩く。
ヴァレリアの声が冷たくなる。
誰かが腕を掴む。
そういうものと、怒りが結びついていた。
「自分が怒ったら、誰かを傷つけると思ってた?」
「たぶん」
「今は?」
「……まだ分かりません」
エレノアは手のひらを見る。
「でも、さっき叔父様に話しても、誰も傷つけませんでした」
「うん」
「私、箱を勝手に持っていかれたのが嫌だって言いました」
「うん」
「それだけでした」
「それでいいんじゃない?」
「怒っても、殴らなくていいんですね」
セドリックの表情から笑みが消えた。
それでも声は穏やかだった。
「うん」
「物を投げなくても?」
「うん」
「ご飯をあげないとかもしなくていい?」
「しなくていい」
「じゃあ……」
エレノアは少し考える。
「怒ること自体が悪いんじゃない?」
「僕はそう思う」
「お兄様も怒りますか?」
「かなり」
「見えません」
「顔に出さないようにしてるから」
「どうするんですか?」
「相手に言う。距離を置く。父上に相談する。必要なら正式に抗議する。剣を使うような状況なら別だけど」
「普通は殴らない?」
「普通はね」
エレノアはしばらく黙った。
「……覚えておきます」
「うん」
「私、怒ってもいい」
「いいよ」
その言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。
(私は、怒ってもいい)
誰かを傷つけるためではなく。
自分が嫌だったと知るために。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸の保管室は、屋敷西側の奥にあった。
普段使わない調度品や、季節外れの装飾、古い食器、衣類などが保管されている。
ロベルト、ヴァレリア、家令、そして記録係の四人が中へ入る。
「アデラインの品はどこだ」
「こちらだったと思います」
ヴァレリアが棚の奥を指す。
いくつかの箱が並んでいる。
家令が一つずつ下ろす。
布。
古い花瓶。
銀食器。
使われなくなった燭台。
だが、野薔薇の木箱はない。
「ないな」
ロベルトが言う。
「別の場所かもしれません」
「どこだ」
「覚えていません」
「記録は?」
家令が保管台帳を確認する。
「アデライン様のお名前が記載されたものは……いくつかございます。しかし、木箱についての個別記載は見当たりません」
「いつの台帳だ」
「四年前からのものでございます」
「それ以前は?」
「旧台帳を確認する必要がございます」
ロベルトはヴァレリアを見る。
「ここへ移したのは何年前だ」
「五年ほど前だったと思います」
「なら旧台帳を探せ」
「承知いたしました」
家令が部下を呼びに出る。
ヴァレリアは棚を見回している。
「本当に、ここへ?」
ロベルトが尋ねる。
「そのはずです」
「誰かへ渡した可能性は?」
「ありません」
「売った?」
「まさか」
「処分した?」
「していません」
「ミレーヌへ?」
「渡していません」
すべて即答だった。
「では、どこにある」
「だから、分からないと言っているでしょう」
今度は苛立ちが隠れなかった。
ヴァレリア自身も気づいたらしく、口を閉じる。
ロベルトは彼女を見つめる。
「……探すぞ」
「ええ」
「見つかるまでだ」
ヴァレリアは返事をしなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ロシュフォール家へ届いた報告は、まだ途中経過だけだった。
木箱はベルナール邸内にあった。
ベアトリスがエレノアの私室から持ち出し、ヴァレリアへ渡したことを認めた。
ヴァレリアも受け取ったこと自体は否定していない。
しかし、現在の所在は不明。
青い髪飾りについては、ベアトリスもヴァレリアも現時点では関与を認めておらず、手掛かりは増えていない。
アルフォンスは報告書を読み終え、長く息を吐いた。
「父上」
セドリックが声をかける。
「エレノアに?」
「……今日は話さない」
「昨日と同じですか」
「ああ。朝に一度聞いている」
「本人に、新しい報告が来たことだけ知らせます?」
「そうする」
セドリックが頷いた。
エレノアは昨日、自分で今日聞くと決めた。
そして今日、聞いた。
だからといって、報告が来るたびに際限なく受け取らせる必要はない。
◇ ◇ ◇
夕食後。
エレノアは居間でマルグリットと刺繍布を眺めていた。
自分で刺すかどうかは、まだ決めていない。
ただ色糸を見るのが楽しくて、箱を開いて並べている。
「この色、綺麗」
薄紫の糸を持ち上げる。
「何を刺したい?」
「まだ分かりません」
「では、決まってからでいいわね」
「はい」
そこへアルフォンスが入ってきた。
「エレノア」
「叔父様」
「新しい報告が来た」
指が止まる。
胸が少し鳴った。
「箱の?」
「ああ」
「見つかりました?」
アルフォンスは首を横へ振る。
「まだだ」
「そうですか……」
「ただ、誰が部屋から持ち出したかについては進展があった」
聞きたい。
今すぐ。
そう思った。
でも今日は朝に一度聞いた。
温室でも箱のことを考えた。
怒ってもいいのだと知った。
少し疲れている。
「今日、聞いた方がいいですか?」
言ってから、自分で気づく。
「あ……」
アルフォンスが微笑む。
「どうする?」
エレノアは考えた。
「……明日にします」
「分かった」
「でも、一つだけ」
「なんだ?」
「なくなってないですよね?」
「何が?」
「調べること」
アルフォンスはすぐに頷いた。
「続いている」
「私が今日聞かなくても?」
「ああ」
「じゃあ、明日聞きます」
「分かった」
アルフォンスが部屋を出る。
エレノアは刺繍糸へ視線を戻した。
薄紫。
黄色。
青。
緑。
たくさんある。
「お祖母様」
「なあに?」
「私、今日は怒りました」
「ええ」
「でも、今は少し楽しいです」
「そうね」
「同じ日に、両方あってもいいんですか?」
マルグリットは柔らかく笑った。
「もちろんよ」
「怒ってるのに笑っても?」
「いいのよ」
「楽しいからって、怒ってたことが嘘になるわけじゃない?」
「ならないわ」
エレノアは薄紫の糸を指先へ巻いてみる。
(そっか)
悲しい。
怖い。
腹が立つ。
嬉しい。
楽しい。
どれか一つを選ばなくてもいい。
「私、この紫も好きかもしれません」
「綺麗だものね」
「でも青も好きです」
「ええ」
「黄色も」
「たくさん好きになっていいのよ」
エレノアは笑った。
机の上には、まだ何も刺されていない白い布がある。
何を作るかは決まっていない。
今日決める必要もない。
なくなった箱も、髪飾りも、まだ戻ってはいない。
母の形見がどこにあるのかも分からない。
それでも、調査は止まっていない。
自分が休んでいる間にも、誰かが探してくれている。
そして、自分はその間に別のことをしていていい。
エレノアは色糸の箱から、青と黄色と薄紫を一本ずつ取り出した。
「お祖母様」
「なあに?」
「明日、何か刺してみたいです」
「では、何を刺すか考えましょうか」
エレノアは少し考えてから首を振った。
「明日、決めます」
「そうしましょう」
窓の外では、夕暮れがゆっくりと庭を染めている。
答えが出ていないものは、まだたくさんある。
それでもエレノアは、答えのないものを抱えたまま眠ることが、以前ほど怖くなくなっていた。
明日になれば、また選べる。
聞くか。
待つか。
知るか。
休むか。
そして、何色の糸を使うのか。
誰かに決めてもらうのではなく、そのたびに自分で考えればいい。
エレノアは三本の糸を白い布の上へ並べると、満足そうに小さく笑った。




