↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/90

第20話 私が知らなかったこと



 翌朝、エレノアが机へ向かうと、昨夜並べた三本の刺繍糸がそのまま残っていた。


 青、黄色、薄紫。


 どれか一つを選ぼうと思っていたわけではない。ただ、綺麗だと思った色を三つ並べただけだった。


 その隣では、花瓶に挿した野薔薇がさらに深く頭を垂れている。花びらは何枚か机へ落ち、最初に摘んだときの瑞々しさはほとんど失われていた。


 エレノアは椅子へ座り、しばらく花を見つめた。


(そろそろ、替えた方がいいのかな)


 昨日はまだ置いておきたいと思った。


 今朝は少し違う。


 枯れてしまうことが嫌なのではなく、この花はもう十分に咲いてくれたような気がした。


 だからといって、すぐに捨てたいわけでもない。


 エレノアは落ちた花びらを一枚手に取り、指先でそっと撫でる。


「……これ、残せるのかな」


 独り言を漏らしたところで、扉が叩かれた。


「おはようございます、エレノアお嬢様。リディアでございます」


「おはようございます。入ってください」


 入室したリディアは、エレノアが手にしている花びらへ目を向けた。


「野薔薇でございますね」


「はい。リディア、花びらって残せますか?」


「残す、ですか?」


「枯れたあとも」


 リディアは少し考える。


「押し花になさることはできます」


「押し花?」


「紙の間に挟んで乾燥させます。綺麗な色がそのまま残るとは限りませんが、形はある程度残せますよ」


 エレノアの目が少し明るくなった。


「やってみたいです」


「では、朝食後に厚手の紙をご用意いたしましょうか?」


「お願いします」


 答えてから、エレノアは花瓶を見る。


「この花も、今日までにします」


「新しいお花をお持ちしますか?」


「……自分で見に行きたいです」


「かしこまりました」


 リディアはそれ以上何も勧めなかった。


 エレノアは花びらを机へ戻し、今日の衣服を見る。


 淡い黄色。


 薄青。


 白。


 少し迷い、白を選んだ。


「リボンはどうなさいますか?」


「今日は……つけなくてもいいですか?」


「もちろんでございます」


「じゃあ、なしにします」


 髪を整えるものを何も選ばない。


 それも一つの選択だった。


        ◇ ◇ ◇


 朝食を終えたあと、エレノアは昨日と同じ南側の小さな居間へ向かった。


 今日は自分からアルフォンスへ頼んだ。


「昨日の続きが聞きたいです」


 アルフォンスは一度だけ確認した。


「今でいいのか?」


「はい」


「分かった」


 マルグリットとセドリックも同席するかと尋ねられ、エレノアは二人ともいてほしいと答えた。


 窓の外では朝の光が庭木の葉を透かしている。


 エレノアは昨日と同じ椅子へ座った。


 同じ場所。


 同じ人たち。


 それだけで少し落ち着く。


「昨日、新しい報告が来たんですよね」


「ああ」


「箱を誰が部屋から持っていったか分かったって」


「そこまでは分かった」


 アルフォンスは報告書を開く。


「ベアトリス本人が、お前の部屋から木箱を持ち出したことを認めた」


 エレノアの手が膝の上で僅かに動いた。


「ベアトリスが?」


「ああ」


「どうして?」


「ヴァレリアから、古い品を整理するよう指示されたと話している」


 名前を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 継母。


 その姿が浮かぶ。


 整った髪。


 優しく見える微笑み。


 細い指。


 けれど。


「ヴァレリア様が、箱を捨てるように言ったんですか?」


「そこまでは分かっていない」


 アルフォンスの答えは早かった。


「ベアトリスは箱を部屋から持ち出して、ヴァレリアへ渡したと証言した。ヴァレリアも箱を受け取ったこと自体は否定していない」


「……受け取った」


「ああ」


「お母様の箱だって知ってたんですか?」


 アルフォンスは少しだけ間を置いた。


「知っていたと、双方が話している」


 エレノアの指が強く重なる。


「知ってたのに?」


「ああ」


「私の部屋から?」


「ああ」


「私に何も言わないで?」


「今のところ、お前へ説明したという証言は出ていない」


 胸の奥に昨日と同じ感情が戻ってくる。


 怒り。


 今度は、昨日より輪郭がはっきりしていた。


「……嫌です」


 エレノアは小さく言った。


 誰も遮らない。


「それ、嫌です」


 もう一度。


「私の部屋にあったんですよね」


「ああ」


「私、探したんですよね」


「ああ」


「それなのに、ヴァレリア様は知ってたんですか?」


「箱を受け取ったことは認めている」


「どうして返してくれなかったの?」


 アルフォンスは答えない。


 まだ分からないからだ。


 エレノアも、それに気づいた。


「……ごめんなさい」


 口から出た瞬間、自分で止まる。


「違う」


 エレノアは首を振った。


「今の、ごめんなさいじゃないです」


 マルグリットが僅かに微笑んだ。


「ええ」


「叔父様が分からないことを聞いたからって、謝らなくていいですよね」


「ああ」


「じゃあ……分からないんですね」


「分からない」


 エレノアは息を吐く。


「ヴァレリア様は何て言ってるんですか?」


「保管するために移した、と」


「保管?」


「ああ。お前の部屋から出し、自分の管理する保管室へ移したと話している」


「じゃあ、あるんですか?」


「今のところ見つかっていない」


 エレノアの表情が固まった。


「ない?」


「昨日、ロベルトとヴァレリア、家令たちが保管室を確認した。だが、報告の時点では見つかっていない」


「お父様も探したんですか?」


「ああ」


 また、父。


 最近、父について聞くたびに、知っていた父と少し違う行動が出てくる。


 それでも。


(だからって、今までのことがなくなるわけじゃない)


 エレノアはそう思った。


 自分が帰りたくないと言ったとき、父は帰れと言った。


 婚姻も、自分の意思を聞かずに進めようとした。


 怪我にも気づかなかった。


 食事にも。


 マーサの訴えにも。


 今、調べている。


 それは事実。


 過去に調べなかった。


 それも事実。


 どちらか一つだけにしなくてもいい。


「叔父様」


「うん」


「お父様が今、調べてることと、私が帰りたくないことは別ですよね」


 アルフォンスは少し驚いたようにエレノアを見る。


「別だ」


「調べてくれてるから、帰らなきゃいけないわけじゃない?」


「もちろんだ」


「……よかった」


 エレノアは小さく息を吐いた。


 父が何かをしてくれるたび、返さなければならないような気がしていた。


 調べてもらった。


 だから会わなければ。


 だから帰らなければ。


 だから許さなければ。


 そんな形で、また自分の気持ちが後ろへ押しやられるのが怖かった。


「ロベルトが今何をするかは、ロベルトの責任だ」


 アルフォンスが続ける。


「それに対して、お前がどう感じるかはお前のものだ。感謝してもいい。しなくてもいい。今は分からなくてもいい」


「許さなくても?」


「ああ」


「ずっと?」


 アルフォンスは少し考えてから答えた。


「将来どう思うかまで、今決める必要はない」


 エレノアは頷いた。


「分かりました」


「続けるか?」


「はい」


 アルフォンスが報告書へ視線を戻す。


「ベアトリスは、箱をヴァレリアへ渡したあと、ノエルから所在を尋ねられた。そこで『お嬢様には必要のないものです』と答えた」


「昨日聞きました」


「ああ。そこに続きが出た」


 エレノアは身体を少し強張らせる。


「ベアトリスは、その言葉もヴァレリアの意向だったと話している」


 沈黙が落ちた。


「……ヴァレリア様が?」


「ああ。ベアトリスの証言では、ヴァレリアから『エレノアには必要ないから、聞かれても気にしなくていい』という趣旨のことを言われたそうだ」


 胸の中で何かが強く動いた。


 怖さではない。


 今度は、はっきり分かる。


 腹が立つ。


「必要かどうかは……」


 声が震える。


「私が決めることじゃないんですか?」


「そうだ」


「だって、私の部屋にあったんですよね」


「ああ」


「お母様のものだったんですよね」


「ああ」


「私、探したんですよね」


「ああ」


「だったら……」


 エレノアは唇を引き結ぶ。


「私に聞けばよかったのに」


 マルグリットが目を伏せる。


 セドリックは黙っている。


「いらないかどうか、聞けばよかったのに」


「そうだな」


「私、いらないって言ったかもしれないです」


 アルフォンスが僅かに眉を上げる。


「そう思うのか?」


「分かりません」


 エレノアは首を振った。


「でも、もし本当にいらなかったなら、自分でいらないって言いたかったです」


 その言葉が、自分の中へ深く落ちた。


 木箱だけではない。


 服。


 食事。


 手紙。


 婚姻。


 会う人。


 外出。


 何を欲しがるか。


 何を嫌がるか。


 誰かが先に決めていた。


「……私、何も選んでなかったんですね」


「全部ではないわ」


 マルグリットが静かに言った。


「え?」


「あなた自身が選んだことも、きっとあったはずよ。ただ、それを選択だと思えないくらい、小さくされていたのかもしれない」


「小さく……」


「今みたいに、今日は青にする、黄色にする、何もつけない。そういう選択は、昔のあなたにもあったかもしれない。でも周りが何度も先に決めてしまえば、自分で決めようとすること自体をやめてしまうこともあるでしょう」


 エレノアは今朝、何もつけないと選んだ髪へ触れる。


「……はい」


 少し分かる。


 選んでも変わらないなら、選ばなくなる。


 言っても聞いてもらえないなら、言わなくなる。


 痛いと言っても意味がないなら、大丈夫と言うようになる。


「叔父様」


「うん」


「箱、探してください」


「ああ」


「もし見つかったら……」


 言葉を止める。


 自分はどうしたい?


「私が見たいです」


「分かった」


「触ってもいい?」


 アルフォンスの顔が僅かに歪んだ。


「もちろんだ」


「でも、お母様のものですよね」


「姉上の遺品であることと、今の所有関係は確認が必要だ。だが少なくとも、お前が触れることすら許されない理由はない」


「……はい」


「見つけよう」


「お願いします」


 エレノアは頭を下げそうになり、途中で止めた。


 頼むことは、謝ることではない。


 代わりにアルフォンスを見る。


「お願いします、叔父様」


「ああ」


        ◇ ◇ ◇


「食事についても、新しく分かったことがある」


 アルフォンスが言ったのは、その少しあとだった。


 エレノアは一瞬だけ迷った。


 箱の話だけでも胸は重い。


 それでも、今は聞きたいと思った。


「聞きます」


「無理はするな」


「はい」


 アルフォンスは報告書を一枚めくる。


「以前見つかった配膳停止の記録について、日付の照合が進んだ」


「私が外に出てたかとか?」


「ああ。外出記録、家庭教師の記録、医師の診察記録などと照合した」


「どうでした?」


「少なくとも確認できた複数の日で、お前は一日屋敷にいた」


 エレノアの喉が小さく動く。


「病気は?」


「医師の診察記録はない」


「じゃあ……」


「なぜ食事を止められたのか、その理由についてベアトリスが証言した」


 エレノアは膝の上で手を握った。


「ベアトリスは、ヴァレリアの方針だったと話している」


「……また?」


「ああ」


「どんな方針ですか?」


「食事の時間を守らなかった場合、通常の配膳を下げる。昼食を残した場合なども、次の食事を厨房の残りにすることがあったと」


 エレノアは動かなかった。


 言葉だけが耳へ入ってくる。


 食事の時間。


 遅れる。


 残す。


 厨房。


 パン。


 何かが、記憶の奥でゆっくりと形になり始める。


『まだ終わってないの?』


 声。


 紙。


 机。


 家庭教師。


『今日の課題が終わるまで立たないように』


 時計。


 夕食。


 遅い。


 扉。


 誰か。


『時間を守れない子に、温かい食事はいりません』


 エレノアの息が詰まった。


「エレノア」


 セドリックが立ち上がりかける。


「待って」


 エレノアは片手を上げた。


「……待ってください」


 誰も動かない。


 エレノアは目を閉じる。


 追いかけない。


 思い出そうとしない。


 ただ、浮かんだものだけ。


 机。


 課題。


 時計。


 夕食に遅れた。


 でも。


「私……」


 声が掠れた。


「遅れたこと、あります」


「うん」


 マルグリットの声。


「家庭教師の課題が終わらなくて」


 エレノアは自分の腕を掴みそうになり、やめる。


「終わるまで部屋を出ちゃ駄目って言われて……でも、終わったら、夕食が終わってて……」


 胸が苦しい。


「誰に言われたか分かる?」


 アルフォンスの問いは低く、穏やかだった。


 エレノアは首を振る。


「分かりません」


「なら、それでいい」


「でも……」


「今分かったところまででいい」


「はい」


 息を吐く。


「厨房に行ったら、パンがあって」


「うん」


「誰かが……」


 声。


 赤茶色。


 髪。


 細い指。


『今日はもう――』


 頭の奥で言葉が少しだけ繋がった。


『今日はもう食事は終わっています』


 エレノアの身体が震える。


「思い出した?」


「……少し」


「話せる?」


 エレノアは迷った。


「少しだけ」


「うん」


「『今日はもう食事は終わっています』って」


 マルグリットの手が僅かに動く。


「誰が?」


「……分かりません」


 エレノアは目を開ける。


「赤茶色の髪だった気がします。でも、顔は分からない」


 誰も名前を出さない。


 それがありがたかった。


「それから?」


「たぶん……パンを食べました」


「誰かにもらった?」


「分かりません」


「そこまでにしよう」


 アルフォンスが言った。


 エレノアは頷いた。


 胸が上下している。


 怖かった。


 でも。


 以前のように、自分の記憶だけで全部を説明しなければならないわけではない。


「叔父様」


「うん」


「ベアトリスは、私が悪かったから食事をなくしたって言ってるんですか?」


「少し違う」


 アルフォンスは慎重に言葉を選ぶ。


「ベアトリスは、ヴァレリアから『規律を教えるための対応』だと説明され、自分もそう理解して従ったと話している」


「規律……」


「ああ」


「時間に遅れたから?」


「そういう場合があったと」


 エレノアは俯く。


 胸の奥に、古い考えが顔を出す。


(じゃあ、やっぱり私が悪かったの?)


 課題を早く終わらせればよかった。


 時間に遅れなければよかった。


 昼食を残さなければ。


 そうすれば。


「エレノア」


 マルグリットが呼ぶ。


 顔を上げる。


「今、何を考えたの?」


 エレノアは少し迷った。


 隠したくなる。


 でも。


「私が時間に遅れたなら……私が悪かったのかなって」


 言った。


 部屋が静かになる。


「時間を守ることを教えるのと、子供から食事を取り上げることは同じかしら」


「……分かりません」


「では、別の人で考えてみましょう」


 マルグリットは少し考える。


「セドリックが十歳のころ、遊びに夢中になって夕食へ遅れたことがあるの」


「お祖母様」


 セドリックが苦笑する。


「本当?」


 エレノアが見る。


「……何度か」


「何度も?」


「そこは重要じゃないと思う」


「重要よ」


 マルグリットが真顔で返し、アルフォンスが小さく笑った。


 重かった空気が、ほんの少し緩む。


「そのとき、セドリックお兄様はご飯をもらえなかったんですか?」


「もらったよ」


 セドリックが答える。


「父上には怒られたけど」


「何て?」


「食事を用意する人を待たせるな。次から時間を確認しろって」


「それだけ?」


「反省文を書かされたこともある」


「父上が書かせたんじゃない。お前が同じことを三日続けたからだ」


 アルフォンスが訂正する。


「三日も?」


「……十歳だったから」


 セドリックが目を逸らす。


 エレノアの口元が少し緩んだ。


 それでも、マルグリットの声は穏やかなままだ。


「遅れたことが良くなかったとしても、食べることまで取り上げなくても教えられるでしょう?」


「はい」


「まして、課題が終わらず部屋を出られなかったのなら、事情も確認すべきだった」


「……はい」


「失敗したことと、何をされてもいいことは別よ」


 以前も聞いた。


 失敗した子供を殴っていい理由などない。


 今度は食事。


「私が悪いことをしても……」


 エレノアはゆっくり言う。


「ご飯を食べていい?」


「もちろん」


「怒られてても?」


「ええ」


「嫌われても?」


 マルグリットの目が揺れる。


「食事は、好かれている子だけがもらう褒美ではないわ」


 エレノアは息を止めた。


 その言葉は、胸の奥の深いところへ落ちた。


 食事は褒美ではない。


 良い子だから食べられるのではない。


 失敗しなかったから与えられるのでもない。


「……そうなんですね」


「ええ」


 エレノアは自分の腹へ手を置いた。


 今朝、パンを一つ半食べた。


 大きい方を自分で選んだ。


 それは何かを上手にできたご褒美ではなかった。


 ただ、お腹が空いていたから食べた。


「覚えておきます」


 小さな声だった。


 それでも、誰も聞き逃さなかった。


        ◇ ◇ ◇


 話を終えたあと、エレノアはしばらく一人になりたいと伝えた。


「部屋へ戻る?」


 セドリックが尋ねる。


「温室に行きたいです」


「一緒に行こうか?」


 少し迷う。


「途中までお願いします」


「分かった」


 居間を出て、二人で廊下を歩く。


 朝の公爵邸は静かではあるが、人の気配はある。窓を拭く使用人、花を運ぶ庭師、書類を抱えて足早に進む従僕。


 誰もエレノアを特別な目で見つめ続けない。


 すれ違えば一礼する。


 それだけだ。


 温室へ続く渡り廊下へ差しかかったところで、エレノアが足を止めた。


「ここから一人で行きます」


「うん」


 セドリックはすぐに止まる。


「戻るとき呼ぶ?」


「一人で戻れると思います」


「分かった」


「……心配ですか?」


「かなり」


 正直な答えだった。


 エレノアは少し笑う。


「でも、一人で行ってもいい?」


「もちろん」


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 エレノアは一人で温室へ向かった。


 後ろを振り返る。


 セドリックは追ってこない。


 その場でこちらを見ているだけだった。


 エレノアはもう一度前を向いた。


        ◇ ◇ ◇


 温室へ入ると、湿った土と草花の匂いがした。


 誰もいない。


 庭師は奥の作業区画にいるのか、姿は見えなかった。


 エレノアはいつもの中央の椅子へ座る。


 静かだった。


 さっき聞いたことを、頭の中で一つずつ並べる。


 母の木箱は自分の部屋にあった。


 ベアトリスが持ち出した。


 ヴァレリアへ渡した。


 ヴァレリアは母のものだと知っていた。


 今は見つからない。


 食事を止める指示も、ヴァレリアの方針だったとベアトリスは証言した。


 でも。


(ベアトリスが言ってることが全部本当かは、まだ分からない)


 アルフォンスはそう言わなかったが、エレノアにも分かる。


 証言は事実と同じではない。


 誰かがそう話した。


 それも情報の一つ。


 確認が必要。


(ヴァレリア様が、全部悪いって決まったわけじゃない)


 そう考えると、胸の中に少しだけ混乱が生まれる。


 けれど。


(だからって、私が怖かったことがなくなるわけじゃない)


 そこも別だ。


 証拠が揃うまで、怖かったと言ってはいけないわけではない。


 誰が何をしたのか断定できなくても、自分が怖かったことは自分が知っている。


「……怖かった」


 声に出した。


 温室には誰もいない。


「嫌だった」


 もう一つ。


「お腹、空いてた」


 その瞬間、目から涙が落ちた。


 エレノアは驚いて頬へ触れる。


 泣こうと思ったわけではない。


 でも、涙が出た。


「……お腹、空いてたんだ」


 もう一度言う。


 固いパン。


 冷たい厨房。


 食事が終わったと言われた声。


 当時の自分は、それを空腹だと思っていただろうか。


 それとも。


 我慢できる。


 これくらい大したことじゃない。


 私が遅れたから。


 そうやって飲み込んだのか。


「食べたかった」


 声が震える。


「温かいご飯、食べたかった」


 涙が増える。


 でも、苦しいだけではなかった。


 十五歳になった今の自分が、もっと幼かった自分へようやく言葉を渡しているような気がした。


(食べたかったって言ってよかったんだ)


 誰もいない温室で、エレノアはしばらく泣いた。


 泣き止もうとはしなかった。


 声を殺す必要もない。


 ただ静かに涙を流し、落ち着いてからハンカチで頬を拭った。


 目の前には小さな白い花が咲いている。


 名前は知らない。


「……綺麗」


 泣いたあとでも、花を綺麗だと思えた。


 それが少し不思議だった。


        ◇ ◇ ◇


 ベルナール伯爵邸では、旧保管台帳が見つかっていた。


 ロベルトは家令から受け取った分厚い帳面を机の上へ置く。


 革張りの表紙は傷み、紙も黄ばんでいる。


「五年前の記録は」


「こちらでございます」


 家令が該当箇所を開く。


 調度品。


 食器。


 季節装飾。


 故アデラインの私物。


 ロベルトの目が止まる。


「ここだ」


 記録の一行。


『故アデライン様私物 木製小箱 一点 西保管室へ移動』


 日付もある。


 ベアトリスが証言した時期とほぼ一致する。


 確認欄には、ベアトリスの署名。


 その隣。


「これは……」


 もう一つの確認印。


 ヴァレリアのものだった。


「保管室へ入ったところまでは確かだな」


「はい」


「その後の移動記録は」


「現在確認しております」


 ページをめくる。


 翌年。


 さらに翌年。


 該当品の記載がない。


「処分記録は?」


「ございません」


「売却は?」


「ございません」


「譲渡も?」


「確認できておりません」


 ロベルトは眉間を押さえる。


「なら、記録上は保管室にあるはずだ」


「はい」


「だが、ない」


「はい」


「保管室から物を出せる人間は」


「当時ですと、奥様、私、侍女長、倉庫管理担当。それから旦那様の許可がある場合には各部署の責任者が」


「俺が出した記録は?」


「ございません」


「お前は」


「記憶にございません」


「倉庫管理担当は」


「当時の担当者は三年前に退職しております」


「名前は?」


「ギュスターヴ・メルシエでございます」


「所在は分かるか」


「王都北区に住んでいるはずです。退職後は親族の古物商を手伝っていると聞いております」


 ロベルトが顔を上げる。


「連絡を取れ」


「承知いたしました」


「まだ疑うな。ただ、五年前から今までに箱を見たか、誰かへ渡したか、記録外の移動があったかを聞け」


「はい」


 家令がメモを取る。


「それから、箱以外のアデラインの私物も全部照合しろ」


「すべてでございますか?」


「ああ」


 ロベルトは旧台帳を見る。


「エレノアの部屋から移されたものだけではない。婚姻時にアデラインが持ち込んだもの、死後に保管されたもの、エレノアへ渡ったもの。全部だ」


「かなりの量になります」


「分かっている」


「お時間もかかります」


「それでもやれ」


「承知いたしました」


 家令が退室する。


 ロベルトは一人になった。


 机の上には、五年前の記録。


 ヴァレリアの確認印。


 箱は確かに保管室へ入っている。


 ならば、ヴァレリアが「保管した」と言った部分までは記録と一致する。


 だが、そこから消えている。


(どこへ行った)


 そして、なぜ。


 単なる管理ミスなのか。


 誰かが移したのか。


 処分したのか。


 売ったのか。


 あるいは。


 ロベルトは考えを止めた。


 まだ証拠はない。


 推測で決めつけてはいけない。


 かつて、自分はそれをエレノアに対してした。


 何も確かめず、従順な娘だと決めつけた。


 問題などないと。


 同じことを、今度は逆向きにしてはいけない。


 扉が叩かれる。


「お父様?」


 ミレーヌの声だった。


「入れ」


 扉が開く。


 ミレーヌは少し遠慮がちに入ってきた。


「お忙しいですか?」


「調べものをしている」


「お姉様の?」


「ああ」


 ミレーヌは机の上の古い帳面を見る。


「昨日、私のお部屋も侍女が確認していました」


 ロベルトの眉が動く。


「お前の部屋を?」


「はい。お姉様のものが間違って混ざっていないかって」


「何かあったか」


「分かりません」


「分からない?」


「だって、私、自分のもの全部覚えてないです」


 ロベルトは言葉に詰まる。


 当然だ。


 十五歳の少女が、自分の部屋にある衣服や装身具すべての出所を覚えているとは限らない。


「侍女が一覧にしてるみたいです」


「そうか」


 ミレーヌは少し迷う。


「お父様」


「なんだ」


「お姉様のもの、なくなってるんですか?」


 ロベルトはすぐには答えなかった。


「いくつか、所在が分からないものがある」


「それって……私が持ってるかもしれないってこと?」


「可能性の一つとして確認しているだけだ」


「私、取ってないです」


 ミレーヌの声が強くなる。


「誰も取ったとは言っていない」


「でも、私の部屋まで調べてる」


「エレノアのものが移されていないか確認しているだけだ」


「同じじゃない」


「違う」


 ロベルトは声を強めかけ、抑えた。


「ミレーヌ。お前を犯人だと決めて調べているわけではない」


「……本当に?」


「ああ」


「お姉様は、私が取ったって言ってるんですか?」


「エレノアはそんなことを言っていない」


 むしろ、エレノアがミレーヌを名指ししたことは一度もない。


「じゃあ、どうして……」


「分からないから調べている」


 ミレーヌは黙った。


 ロベルトは続ける。


「お前が知らずに受け取ったものがある可能性もある。ヴァレリアや侍女が、以前エレノアが使っていたものをお前へ渡した可能性も否定できない」


「そんなの……」


 ミレーヌは戸惑ったように自分の袖を見る。


「知らないです」


「だから確認する」


「もしあったら?」


「エレノアのものなら、返す」


 ミレーヌの顔に複雑な表情が浮かぶ。


「私がずっと使ってても?」


「所有者がエレノアだと確認できればな」


「……」


「嫌か?」


 ミレーヌはすぐには答えなかった。


「分かりません」


 その答えに、ロベルトは少し驚いた。


「分からない?」


「だって、もしずっと自分のだと思ってたものが、本当はお姉様のだったって言われたら……嫌かもしれない」


 ミレーヌは俯く。


「でも、お姉様のなら返さないといけないんですよね」


「そうだ」


「……じゃあ、調べてください」


 ロベルトは娘を見る。


「いいのか」


「嫌かもしれないけど、知らないままの方がもっと嫌です」


 その言葉に、ロベルトは少しだけ目を細めた。


「分かった」


「でも、私にも教えてください」


「何を」


「もし私の部屋にお姉様のものがあったら」


「ああ」


「勝手に持っていかないで」


 ロベルトの呼吸が止まりかけた。


 エレノアが言ったことと似ている。


 私のものを、捨てないでほしい。


 ミレーヌは今、勝手に持っていかないでと言った。


 所有者が違うかもしれなくても、自分が長く使っていたものなら説明がほしい。


 当然のことだった。


「分かった」


 ロベルトは頷く。


「確認できたら、お前にも説明する」


「はい」


 ミレーヌが部屋を出ていく。


 ロベルトは閉じた扉を見つめた。


 説明する。


 聞く。


 確認する。


 たったそれだけのことを、自分は家族の中でどれほどしてこなかったのだろう。


        ◇ ◇ ◇


 昼食前、温室から戻ったエレノアはクラリスの診察を受けた。


 診察前には、いつも通り一つずつ確認された。


「今日は腕と脇腹の状態を見たいのだけれど、いいかしら」


「はい」


「背中は?」


 少し考える。


「今日は、いいです」


「分かったわ。では背中は見ない」


 それだけで終わる。


 エレノアは着替えを手伝ってもらい、必要な部分だけを見せた。


 クラリスは腕の痣を確認し、指先で触れる前にも尋ねる。


「ここ、少し触ってもいい?」


「はい」


「痛かったら言って」


 軽く押される。


「……少し痛いです」


「どのくらい?」


 エレノアは考える。


「前よりは痛くないです。でも、痛いです」


「それで十分よ」


 クラリスが手を離す。


「色も薄くなってきている。新しく腫れているところはないわ」


「治ってますか?」


「少しずつね」


 脇腹も確認する。


「ここは?」


「ちょっと痛いです」


「昨日より?」


「同じくらい……かな」


「分からなくてもいいわ」


「じゃあ、分かりません」


「ええ」


 診察が終わる。


 クラリスが記録を取っている間、エレノアは尋ねた。


「先生」


「なあに?」


「ご飯を食べない日が何回かあったら、身体に悪いですか?」


 クラリスの筆が止まった。


「何回か、というのがどれくらいかにもよるわ。どの程度食べなかったのか、どのくらい続いたのか、年齢や体調によっても違う」


「じゃあ、分からない?」


「今の情報だけなら、そうね」


 エレノアは少し安心した。


 断定されないことが、今は安心になる。


「でも、成長する時期の子供が必要な食事を繰り返し取れない状態は、望ましいことではないわ」


「罰でも?」


「罰?」


「時間に遅れたり、失敗したりしたら」


 クラリスの表情が僅かに変わる。


「食事を与えないことを罰にする、という意味?」


「はい」


「私は医師だから、身体の側から答えるわね」


 クラリスは椅子を少しエレノアの方へ向ける。


「身体は、失敗したかどうかで食事を必要としなくなるわけではないの」


 エレノアは瞬きをした。


「お腹は、悪いことしたか分からない?」


「そうね」


 クラリスが少し笑う。


「心臓も知らないし、胃も知らない。身体はただ、育つため、生きるために必要なものを求めるだけ」


「……そうなんですね」


「ええ」


「じゃあ、お腹が空いたら……」


「食べていい」


 今朝のマルグリットと同じ答え。


 違う人から聞いても同じ。


 エレノアはそれが嬉しかった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 クラリスが記録へ戻る。


「それと、前回より顔色は少しいいわね」


「本当ですか?」


「ええ。ただ、眠れない日や食べにくい日はまだある?」


「昨日は眠れました」


「食事は?」


「今朝、パンを一つ半食べました」


「食べたいと思って?」


「はい」


「なら、いい変化ね」


 エレノアは少し笑った。


「大きい方を、私が食べました」


 クラリスは事情を知らない。


 だから少し不思議そうな顔をした。


「それは……よかったわね?」


「はい」


 エレノアは笑った。


        ◇ ◇ ◇


 午後。


 押し花にするため、リディアが厚手の紙と重い本を用意してくれた。


 エレノアは野薔薇の花びらを一枚ずつ紙の上へ置く。


「全部挟みますか?」


「全部は……」


 少し考える。


「三枚にします」


「分かりました」


 なぜ三枚なのか、自分でも分からない。


 ただ、三枚がいいと思った。


 花瓶の花そのものは、庭師へ返すことにした。


 捨てる、ではなく、庭の土へ戻してもらえるという。


「そういうこともできるんですね」


「はい」


 リディアが答える。


「では、こちらは庭師へ渡しておきます」


「お願いします」


 花瓶が空になる。


 少し寂しい。


 でも、嫌ではなかった。


「午後、庭へ行ってもいいですか?」


「もちろんでございます。どなたかお呼びいたしましょうか?」


 エレノアは考える。


「今日は、一人で歩いてみたいです」


「かしこまりました。ただ、敷地の外へ出られる場合は――」


「出ません」


「では、何かございましたら近くの者へお声がけください」


「はい」


 公爵邸の庭を一人で歩く。


 初めてだった。


        ◇ ◇ ◇


 南庭へ出ると、午後の日差しは朝より柔らかくなっていた。


 庭師たちが遠くで作業している。


 完全に一人ではない。


 けれど、誰かが隣を歩いているわけでもない。


 エレノアはゆっくり歩く。


 どこへ行くかも決めていない。


 温室へ向かってもいい。


 野薔薇を見てもいい。


 噴水へ行っても。


(どこに行こう)


 誰にも聞かない。


 自分で考える。


 少し迷って、今日は温室ではなく庭の奥へ向かった。


 歩いたことのない道だった。


 低い生垣の間を抜けると、小さな池が見えた。


「こんなところ、あったんだ……」


 水面には空が映っている。


 池の端には石造りの長椅子が置かれていた。


 エレノアはそこへ座る。


 誰もいない。


 風が葉を揺らす音がする。


 遠くで鳥が鳴いた。


 ベルナール家にも庭はあった。


 けれど、こうして目的もなく一人で歩いた記憶がない。


 庭へ出るなら誰かと。


 行く場所も決められていた。


 服を汚さないように。


 長く外にいないように。


 人目につかないように。


 何か、いつも理由があった。


 今は。


(何もしてない)


 池を見ているだけ。


 働いていない。


 勉強していない。


 誰かの役にも立っていない。


 それなのに、帰れと言われない。


「……変なの」


 口元が少し緩む。


 昨日までは、何もしないことが不安だった。


 今も少しだけ不安。


 でも。


「ちょっと、好きかも」


 温室とは違う。


 ここも、少し好きかもしれない。


 好きな場所が増えていく。


 好きな色も。


 好きな食べ物も、これから見つかるのだろうか。


 そのとき、背後から足音がした。


 エレノアの肩が反射的に強張る。


「失礼いたします」


 聞き慣れない男性の声。


 振り返る。


 少し離れたところに、庭師らしい青年が立っていた。


 二十歳前後だろうか。日に焼けた顔に、短い焦げ茶色の髪。作業着の袖には土がついている。


「驚かせてしまいましたか?」


「……少し」


「申し訳ございません」


 青年はそれ以上近づかなかった。


「この先の生垣を剪定いたしますので、少々音がいたします。それだけお伝えしようと思いまして」


「あ……はい」


「こちらにおられても問題ございません。静かな場所へ移られたい場合は、東側の小道の方が今は作業をしておりません」


「ありがとうございます」


 青年が一礼して去ろうとする。


「あの」


 エレノアが呼び止めた。


「はい?」


「お名前は?」


 青年が少し驚く。


「庭師見習いのユリウス・フェルナーと申します」


「ユリウス」


「はい」


「ここ、よく来るんですか?」


「仕事ではよく参ります。池の周りは私の担当の一つですので」


「この池、名前ありますか?」


「正式な名前はございません。使用人の間では『南の小池』と呼んでおります」


「そのままですね」


 ユリウスが少し笑う。


「はい。公爵様も同じことをおっしゃいました」


「叔父様も?」


「三年前に」


 エレノアも笑った。


「ありがとうございます。私は、もう少しここにいます」


「かしこまりました。では、あちら側から作業いたします」


 ユリウスは十分に距離を取って去っていく。


 エレノアはその背中を見送った。


 知らない人と話した。


 少し驚いた。


 でも怖くはなかった。


(ユリウス)


 新しい名前を一つ覚えた。


 池へ視線を戻す。


 しばらくすると、遠くから枝を切る小さな音が聞こえ始めた。


 それすら、今は心地よかった。


        ◇ ◇ ◇


 夕刻近く。


 ベルナール伯爵邸では、古い帳簿の確認が続いていた。


 ギュスターヴ・メルシエへの使いも出された。


 返答には時間がかかる。


 その一方で、ミレーヌの私室の確認結果が届いた。


「旦那様」


 家令が小さな箱を持って入ってくる。


「何だ」


「ミレーヌお嬢様のお部屋で、出所を確認できない品がいくつかございました」


 ロベルトの表情が固くなる。


「エレノアのものか」


「まだ分かりません」


「ミレーヌには説明したか」


「はい。お嬢様ご本人にも確認いただき、出所が分からないものだけを一時的に別にしております」


「勝手に持ち出していないな」


「ミレーヌお嬢様の同意をいただいております」


「ならいい」


 家令が箱を開く。


 小さなブローチ。


 銀の櫛。


 刺繍入りのハンカチ。


 細い鎖の首飾り。


 どれも、青い石の髪飾りではない。


「これだけか」


「現時点では」


「エレノアの記録と照合しろ」


「承知いたしました」


「ミレーヌにも結果を伝えろ」


「はい」


 家令が箱を閉じる。


「それから、もう一点ございます」


「何だ」


「エレノアお嬢様のお部屋の衣装を調べたところ、仕立て屋の記録と一致しないものがございます」


「どういう意味だ」


「記録上は、過去三年間でエレノアお嬢様用として仕立てられたドレスが二十七着ございます」


「部屋には?」


「十四着でございます」


 ロベルトの眉が寄る。


「季節物を別に保管しているのではないか」


「そちらも確認しておりますが、現時点で五着が別保管。合計十九着です」


「残り八着は?」


「不明でございます」


「処分記録は」


「ありません」


「サイズが合わなくなって下げた可能性は?」


「ございます。ただ、その場合も通常は譲渡や廃棄の記録が残ります」


「調べろ」


「はい」


 家令が退出する。


 ロベルトは机へ肘をついた。


 箱。


 髪飾り。


 衣服。


 一つずつなら、管理の不備で説明できるかもしれない。


 だが。


(多すぎないか)


 まだ決めつけてはいけない。


 それでも、見落としていたものが次々に出てくる。


 娘の部屋から何が消えていたのか。


 自分は知らなかった。


 そして。


 娘自身も、それを当たり前として受け入れていたのかもしれない。


        ◇ ◇ ◇


 夕食前、エレノアは自室へ戻っていた。


 今日はよく歩いた。


 温室にも行った。


 一人で庭も歩いた。


 知らない池を見つけた。


 ユリウスという庭師見習いとも話した。


 そして、朝にはたくさんのことを知った。


 エレノアは机の紙へ今日のことを書いていく。


『お母様の箱は、ベアトリスが部屋から出した』


 少し考える。


 断定しすぎないように。


『ベアトリスは、ヴァレリア様へ渡したと話している』


『ヴァレリア様も、受け取ったことは認めている』


『箱はまだ見つかっていない』


『食事を止めるのは、ヴァレリア様の方針だったとベアトリスは話している』


 そこまで書いて、筆を止める。


 これも証言。


 確定した事実と、誰かの話を分ける。


 アルフォンスがそうしているから、自分も真似してみた。


 その下へ。


『私は、お腹が空いていた』


 これは証言ではない。


 自分のこと。


 自分が今日、思い出したこと。


 もう一つ。


『温かいご飯を食べたかった』


 文字が少し震えた。


 でも消さない。


 さらに下へ。


『怒ってもいい』


『嫌だったと言っていい』


『分からないことは、分からないままでいい』


 そして。


『南の小池が、少し好き』


 書き終えたところで、扉が叩かれた。


「エレノア、入っていい?」


 セドリックだ。


「はい」


 入ってきたセドリックは、机の上に広げられた紙を見ても覗き込まなかった。


「夕食だよ」


「今日、何ですか?」


「僕は知ってる」


「本当ですか?」


「魚の香草焼き」


 エレノアは少し考える。


「食べたことあります」


「好き?」


「……分かりません」


「じゃあ、今日分かるかもね」


「嫌いかもしれません」


「それも分かるね」


 エレノアは笑った。


「行きます」


 立ち上がる。


 そのとき、セドリックが机の端にある押し花用の紙へ気づいた。


「それ、何?」


「野薔薇です」


「押し花にするの?」


「はい。三枚だけ」


「どうして三枚?」


「分かりません」


「そっか」


「でも三枚がよかったんです」


「なら三枚だね」


 それだけ。


 理由はいらない。


 二人で部屋を出る。


 廊下を歩きながら、エレノアは今日聞いたことを思い返す。


 知らなかったことが、また増えた。


 おかしな気もする。


 普通なら、知ったことが増えたと言うのかもしれない。


 でも今のエレノアには、自分がどれだけ知らなかったのかを知っていく感覚の方が強かった。


 母の箱が自分の部屋にあったこと。


 それを探していたこと。


 食事を止める指示があったこと。


 その理由を「規律」と呼んだ人たちがいたこと。


 そして。


 自分がお腹を空かせていたこと。


 自分が嫌だったこと。


 自分が怒っていること。


 それすら、知らなかった。


(でも、今は少し分かる)


 全部ではない。


 それでいい。


「お兄様」


「うん?」


「今日の魚、嫌いだったら残していいですよね」


「いいよ」


「お腹が空いたら、ほかのものをお願いしても?」


「もちろん」


「じゃあ、食べてみます」


「うん」


 食堂の扉が近づく。


 中から、香草と焼けた魚の匂いが漂ってくる。


 エレノアは足を止めなかった。


 今日の自分が何を好きだと思うのか。


 何を嫌いだと思うのか。


 それは、食べてから決めればいい。


 知らないことは、怖いことばかりではない。


 これから自分について知っていくことも、まだたくさん残っているのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。