第21話 食べたいものを、食べたいと言う
食堂へ近づくにつれて、香草と焼いた魚の匂いが濃くなっていった。
エレノアはセドリックと並んで廊下を歩きながら、その匂いを意識して吸い込んでみる。空腹かと聞かれれば、たぶん空腹なのだと思う。けれど以前の自分なら、お腹が空いているかどうかを考えるより先に、出されたものを残さず食べられるか、食べるのが遅くならないかを気にしていただろう。
(今日は、食べてから決めればいい)
魚が好きなのか嫌いなのかも、まだ分からない。それでも、分からないまま食堂へ向かっていいのだと思えるようになった。
「どうしたの?」
隣を歩くセドリックが、わずかに歩調を緩めた。エレノアがいつの間にかゆっくり歩いていたらしい。
「いい匂いだなと思っていました」
「それなら、今日の料理長は喜ぶと思うよ」
「料理長に言った方がいいですか?」
「言いたければね。でも、言わなきゃいけないわけじゃない」
またそれだ、とエレノアは思う。
言ってもいい。
言わなくてもいい。
どちらでもいい。
最近、公爵邸ではそんな言葉を何度も聞く。最初はどちらかを選ばなければならないこと自体が難しかったのに、今では少しだけ、その自由を面白いと思える瞬間が増えていた。
「じゃあ、おいしかったら言います」
「うん。それがいい」
食堂の扉が開かれる。
長い食卓にはすでにアルフォンス、マルグリット、オーギュストが揃っていた。窓の向こうでは夕暮れが庭を淡い橙色へ染め、磨かれた銀器にも柔らかな光が映り込んでいる。
「遅かったな」
オーギュストが言ったものの、咎める響きはない。
それでもエレノアの身体は一瞬だけ反応した。
「ごめんなさ――」
言いかけて、止まる。
食堂の時計を見る。
約束の時間には遅れていない。
オーギュストも急かしていない。
「……遅くないですよね?」
確認すると、オーギュストが目を丸くした。
「ああ。まだ鐘も鳴っておらんぞ」
「では、謝らなくてもいいですね」
「もちろんだ」
オーギュストが答えたあと、向かいのマルグリットが口元をほころばせる。
「それに、お祖父様の『遅かった』は、待ちきれなかったという意味よ」
「マルグリット」
「違うの?」
「……今日は昼からあまり顔を見ていなかったからな」
少しばつが悪そうに視線を逸らす祖父を見て、エレノアは思わず笑った。
「お庭を歩いていました」
「一人でか?」
「はい」
「一人で!?」
今度はアルフォンスまで反応した。
エレノアが瞬きをすると、セドリックが肩をすくめる。
「ほら。僕より父上の方がひどいだろう?」
「何がだ」
「心配性」
「お前に言われたくない」
「僕はちゃんと途中で帰ったよ。エレノアが一人で行きたいって言ったから」
「そうなのか?」
アルフォンスの視線が向けられる。
エレノアは頷いた。
「一人で歩いてみたかったんです」
「怖くなかったか?」
「少しだけ驚いたことはありました。でも、怖くはなかったです」
「何かあったのか?」
アルフォンスの眉が寄る。
それを見たエレノアは、以前ならすぐに「何もありません」と答えていただろう。心配をかけるのが怖かったからだ。
けれど今日は、実際にあったことをそのまま話してみる。
「庭師の方に後ろから声をかけられて、少し驚きました。でも、近づかないで話してくれました」
「庭師?」
「ユリウス・フェルナーさんです。南の小池の周りも担当しているそうです」
「ああ、フェルナーか」
アルフォンスは名前を知っているらしい。
「若いが真面目な男だ。去年から正式に見習いとして入っている」
「公爵様、去年ではなく一昨年です」
給仕をしていた年嵩の従僕が、ごく自然に訂正した。
アルフォンスがそちらを見る。
「そうだったか?」
「はい。来月で丸二年になります」
「……そうか」
セドリックが笑いを堪えている。
「父上、屋敷の人間のことはちゃんと覚えようよ」
「お前は全部覚えているのか」
「少なくともユリウスは覚えてる」
「私は今日覚えました」
エレノアも加わると、セドリックが得意そうに頷いた。
「ほら、エレノアも覚えてる」
「今日会ったばかりの人と競うな」
アルフォンスが呆れたように返し、食堂の空気が柔らかくなる。
やがて最初の皿が運ばれてきた。
白身魚の表面には細かく刻んだ香草が散らされ、薄く焼き色がついている。横には柔らかく煮た野菜と、小さなじゃがいもが添えられていた。
エレノアは皿を見つめる。
量は多すぎない。
それでも、最初に浮かんだのは食べ切れるかという心配だった。
(残してもいい)
今朝、何度も教えてもらった。
頭では分かっている。
それでも身体はまだ、その考えに追いついていない。
ナイフを入れて一口分を切り分ける。香草の香りと魚の淡い塩気が口の中へ広がり、エレノアはゆっくり噛んだ。
「どう?」
セドリックが早速聞く。
「セドリック」
マルグリットが静かに名前を呼んだ。
「まだ一口目でしょう」
「あ……ごめん」
セドリックが苦笑して口を閉じる。
エレノアはもう一口食べてみた。
嫌ではない。
むしろ香草の香りは好きかもしれない。
魚そのものはどうだろう。
三口目。
そこで少し考えた。
「……好きだと思います」
「魚が?」
「香草のところが」
「そこだけ?」
「魚も嫌いじゃないです。でも、上の香草がおいしいです」
エレノアがそう答えると、給仕をしていた従僕がほんの少しだけ目元を和らげた。
料理長へ伝えるのだろうか。
そう思った瞬間、朝にセドリックと交わした会話を思い出した。
「あとで、料理長さんにおいしかったって伝えてもらってもいいですか?」
近くにいた従僕へ頼む。
「もちろんでございます。料理長のマティアスも喜びます」
マティアス。
また一つ、新しい名前を知った。
「お願いします」
言ったあと、エレノアはもう一口魚を食べた。
食べたいから食べる。
褒められるためでも、怒られないためでもない。
それはまだ意識しなければできないことだったが、それでも昨日までより少し自然になっていた。
◇ ◇ ◇
食事の途中、じゃがいもを半分ほど食べたところで、エレノアの手が止まった。
もう一つ残っている。
食べられないわけではない。
頑張れば食べられる。
けれど、魚をもう少し食べたい。
(どっちを食べる?)
これまでなら考える必要すらなかった。皿にあるものを全部食べればよかったからだ。
今日は違う。
エレノアはじゃがいもと魚を見比べ、魚へナイフを入れた。
それから、じゃがいもを一つ残した。
給仕の者が皿を下げに来たとき、身体が強張った。
何も言われない。
皿はそのまま下げられる。
けれど、エレノアは去っていこうとする従僕を思わず呼び止めた。
「あの」
「はい、お嬢様」
「じゃがいも、残しました」
「はい」
それだけだった。
エレノアは次の言葉を待つ。
従僕も待っている。
「……怒らないんですか?」
従僕は僅かに目を見開いた。
それから、エレノアを不安にさせないようにするためか、声を少し柔らかくした。
「私が怒ることでございましょうか?」
「でも、残したから」
「お腹はいっぱいでございますか?」
「少し」
「でしたら問題ございません。もし別のお料理をもう少し召し上がりたいのでしたら、それもお申し付けください」
エレノアは食卓を見回した。
誰も怒っていない。
オーギュストは自分の魚を食べているし、マルグリットも静かに待っている。アルフォンスは心配そうではあるものの、何も口を挟まなかった。
「……魚なら、もう少し食べたいです」
言った瞬間、自分でも驚いた。
残したのに。
それでも別のものを食べたいと言った。
「承知いたしました」
従僕は何のためらいもなく答えた。
「少量でよろしいでしょうか?」
「はい。さっきの半分くらい」
「かしこまりました」
皿が下げられる。
新しい魚が来るまでの間、エレノアは膝の上に置いた手を見つめていた。
指先が少し震えている。
「エレノア」
アルフォンスが呼ぶ。
「はい」
「大丈夫か?」
いつもの問い。
けれど今日は答えが違った。
「……緊張しています」
「うん」
「でも、少し嬉しいです」
アルフォンスの目元が柔らかくなる。
「そうか」
「残したのに、ほかのものを食べたいって言ってもよかったから」
誰もすぐには答えなかった。
エレノアはその沈黙を怖いとは思わなかった。
マルグリットがナプキンを置き、静かに微笑む。
「何をどれだけ食べたいかは、毎日同じではないもの」
「残すのは悪いことじゃないんですか?」
「食べ物を粗末にしないことは大切よ。でも、自分の身体が必要としている以上に無理をして食べることとは別でしょう」
「……別」
「ええ。もし量が多いなら、次から少なくしてもらえばいいの」
「少なくしてもらって、足りなかったら?」
「追加してもらえばいい」
エレノアは瞬きをする。
あまりにも簡単だった。
「そんなふうにしていいんですね」
「そのために料理人も給仕もいる」
オーギュストが言う。
「食べる者の腹具合を無視して皿へ盛るだけなら、料理人ではなく秤でも置いておけばよい」
「お祖父様、それをマティアスの前で言ったら怒られるよ」
「なぜだ。褒めているだろう」
「絶対伝えないでくださいね」
セドリックが給仕の従僕へ言うと、相手は真面目な顔のまま答えた。
「申し訳ございません。料理長には食卓でのお言葉も報告することがございますので」
「裏切ったな」
「職務でございます」
エレノアは思わず声を上げて笑った。
すぐに口元を押さえる。
けれど誰も咎めない。
ほどなく追加の魚が、小さな皿に半量だけ盛られて届いた。
「ありがとうございます」
エレノアは今度こそ、何も気にせず口へ運んだ。
やはり香草の部分がおいしかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室の長椅子に座り、机の上へ並べられた四つの品を眺めていた。
小さなブローチ。
銀の櫛。
刺繍入りのハンカチ。
細い鎖の首飾り。
どれも自分の部屋にあったものだ。
けれど、誰からもらったのかと聞かれると答えられなかった。
ミレーヌは銀の櫛へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「これ、いつからあったの?」
そばに控えていた侍女へ尋ねた。
侍女の名はコレット・ラヴァン。ミレーヌ付きになって二年ほどの若い侍女で、問題となっている品が部屋へ入った時期までは知らない。
「申し訳ございません。私がお仕えするようになったときには、すでに鏡台にございました」
「じゃあ、その前の人なら知ってる?」
「以前お付きしていた者へ確認できるかもしれません」
「誰だっけ」
「エリーズでございます。エリーズ・ダルモンです」
「ああ……」
言われれば顔は思い出せる。
結婚のため辞めた侍女だった。
「聞いてもらえる?」
「家令へお伝えいたします」
「お願い」
コレットが一礼する。
ミレーヌは再び品々を見る。
昨日までは、自分のものだと思っていた。
正確には、自分の部屋にあるのだから自分のものなのだろう、と考えたことすらなかった。
「ねえ、コレット」
「はい」
「こういうものって、普通は誰からもらったか覚えてるもの?」
侍女は少し困った顔をした。
「品によるかと存じます」
「この櫛は?」
「日用品としてお渡しされたものでしたら、記憶に残っていないこともあると思います」
「首飾りは?」
「贈り物でしたら、贈り主を覚えている方が多いかもしれません」
「……私、覚えてない」
ミレーヌは細い鎖を見つめる。
「お母様からだったのかな」
「私からは何とも申し上げられません」
「そうだよね」
ミレーヌは背もたれへ身体を預けた。
昨日、父に言った。
もし自分がずっと自分のものだと思っていた品が姉のものだったら、嫌かもしれない。
その気持ちは今も変わらない。
けれど、別の嫌な感じも胸の中へ生まれていた。
(もし本当にお姉様のものだったら、どうして私の部屋にあるの?)
誰が持ってきたのか。
なぜ自分は知らなかったのか。
そもそも姉の部屋に何があったのか、ミレーヌはほとんど知らない。
同じ屋敷に住んでいたのに。
「お姉様、いつ帰ってくるのかな」
何気なく口にした言葉に、コレットは答えなかった。
ミレーヌが顔を上げる。
「知らない?」
「私どもには何も」
「お父様も教えてくれないの」
「……はい」
「お母様は、そのうち戻るって言ってたけど」
けれど数日経っても、エレノアは帰ってこない。
公爵家から迎えが来る気配もない。
父は毎日、古い記録を調べている。
母と父が二人きりで話す時間も増えた。
使用人たちの空気も変わった。
「私、何か知らないのかな」
ミレーヌの呟きに、コレットが僅かに目を動かした。
「お嬢様?」
「みんな何か調べてるでしょう? でも、私にはあまり話してくれない」
「旦那様のお考えがあるのではないでしょうか」
「私には関係ないから?」
「それは……」
コレットは答えに困る。
ミレーヌは膝を抱えそうになり、ドレスが皺になることを思い出してやめた。
「お姉様のことなのに」
姉。
その呼び方をしていながら、自分はエレノアについて何を知っているのだろう。
好きな食べ物。
知らない。
好きな色。
知らない。
仲のいい友人。
知らない。
部屋に何があったか。
知らない。
(私、お姉様のこと、何も知らないの?)
少し不気味だった。
同じ屋敷に十五年近く住んできた相手なのに。
「コレット」
「はい」
「私がお姉様と最後に一緒にお茶したの、いつか覚えてる?」
侍女は考え込んだ。
「私がお仕えしている時間だけで申し上げれば……お二人だけで、ということでしょうか?」
「うん」
「申し訳ございません。記憶にございません」
「じゃあ、お母様も一緒なら?」
「何度かございます」
「そのとき、お姉様は何食べてた?」
コレットの表情が止まった。
「……お茶は召し上がっていたと思います」
「お菓子は?」
「申し訳ございません」
「分からないんだ」
「はい」
ミレーヌは四つの品へ視線を戻す。
「私も分からない」
自分が知っている姉は、静かで、あまり喋らなくて、何を聞いても大丈夫と言う人だった。
だから、大丈夫なのだと思っていた。
けれど父たちは今、その「大丈夫ではなかった可能性」を調べている。
ミレーヌには、まだ何が起きているのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
夕食後。
エレノアは食堂を出る前に、給仕をしていた従僕へもう一度声をかけた。
「料理長さんに、本当に伝えてくださいね」
「承知しております。香草をお気に召されたこともお伝えいたします」
「はい」
「じゃがいもの量についても、明日から少なめにいたしましょうか?」
尋ねられて、エレノアは少し考える。
「毎日ですか?」
「ご希望でしたら」
「……明日は少なめがいいです」
「明日だけ、でございますね」
「はい。その次は、その日に決めてもいいですか?」
「もちろんでございます」
エレノアは嬉しくなった。
今日決めたことが、ずっと続く決まりにならない。
明日の自分は、明日決めていい。
「お願いします」
食堂を出ると、アルフォンスが後ろから追いついた。
「エレノア」
「はい?」
「少しだけ話していいか?」
その問い方に、エレノアは足を止めた。
以前なら父親ほど年上の男性から「話がある」と言われれば、それだけで身体が強張った。
アルフォンスはその反応を知っているからこそ、いつも選ばせてくれる。
「長いですか?」
「いや。急ぎではないし、明日でもいい」
「……今、聞きます」
「分かった」
二人は廊下脇の小さな談話スペースへ入った。
セドリックはついてこなかった。
エレノアがアルフォンスと二人で話せる時間も、以前より増えている。
窓際の椅子へ向かい合って座る。
「ベルナール家から、午後に追加の報告が届いた」
エレノアの指が僅かに動いた。
「箱ですか?」
「箱そのものはまだ見つかっていない」
「そうですか」
残念だった。
胸が少し沈む。
けれど、なくなったと決まったわけではない。
「別のものについてだ」
「何ですか?」
「お前の衣服だ」
「服?」
「ああ。ベルナール家の仕立て屋の記録と、現在屋敷に残っている衣服の数が合わないらしい」
エレノアは瞬きをする。
「私の服が?」
「記録上、過去三年間で二十七着仕立てられている」
「二十七……」
多いのか少ないのかも分からない。
「今確認できているのは十九着。残り八着の所在が分かっていない」
「八着」
「覚えはあるか?」
エレノアは考える。
自分の衣装棚。
季節ごとに服が入れ替わる。
自分で選んだ記憶はほとんどない。
新しい服が来ても、ヴァレリアや侍女が選んだものを着ていた。
「……分かりません」
「うん」
「二十七着あったかも分からないです」
「それでいい」
「でも、私の服ですよね?」
「記録上、お前のために仕立てられたものだ」
「だったら、どうしてなくなってるんですか?」
「まだ分からない」
また、分からない。
けれど今度は、その答えに苛立つより先に考えられた。
(分からないから、調べるんだ)
「ミレーヌの部屋も確認したと報告があった」
エレノアの身体が少し固くなる。
「ミレーヌの?」
「ああ。ただし、誤解しないでほしい。ミレーヌが盗ったと決まったわけではない」
「はい」
「本人も確認に同意しているそうだ。出所の分からない小物が四点見つかったが、お前のものかどうかはまだ分からない」
「何がありました?」
アルフォンスが四点を説明する。
ブローチ。
銀の櫛。
刺繍入りのハンカチ。
細い鎖の首飾り。
エレノアは一つずつ聞いたが、どれにもはっきりした記憶はなかった。
「青い髪飾りは?」
「なかった」
「そうですか……」
セドリックからもらった青い石の髪飾り。
自分のものだったと記録で分かったのに、まだどこにあるのか分からない。
「エレノア」
「はい」
「ミレーヌの部屋にあった品について、何か思い出したら教えてほしい。ただし、思い出そうと無理をする必要はない」
「はい」
アルフォンスはそこで話を終えようとした。
けれどエレノアは、胸の中に浮かんだ疑問を飲み込まなかった。
「叔父様」
「うん?」
「もし、ミレーヌが私の服を着ていたら、どうなりますか?」
「状況を確認する」
「返してもらう?」
「お前が所有者だと確認できれば、基本的にはそうなるだろう。ただ、まずどういう経緯でミレーヌの手に渡ったかを調べる」
「ミレーヌが知らなかったら?」
「知らずに渡された可能性もある」
「それなら……」
エレノアは言葉を探す。
第一周回のミレーヌを思い出す。
レオナードの腕の中にいた妹。
自分が処刑される日、守られていた少女。
胸の奥が痛む。
今でも好きにはなれない。
怖くもある。
許せないものもある。
けれど。
(今のミレーヌは、まだあの日のミレーヌじゃない)
十五歳の妹が、知らずに誰かから服を渡されていたのなら。
「知らなかったなら、ミレーヌだけが悪いことにはしたくないです」
アルフォンスは少し驚いた顔をした。
「そう思う?」
「……好きだからじゃないです」
「うん」
「ミレーヌのこと、今は好きか分からないです」
「それもいい」
「でも、知らないことまで悪いって言われるのは……」
エレノアは自分の手を見る。
「嫌だから」
第一周回の自分は、していないことをしたと言われた。
知らない証拠を積み上げられた。
何を言っても信じてもらえなかった。
だからこそ、今のミレーヌへ同じことをしたくない。
「分かってから決めたいです」
アルフォンスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙の中で、エレノアは少し不安になる。
「変ですか?」
「いや」
アルフォンスはゆっくり首を振った。
「姉上に似ていると思っただけだ」
エレノアの目が大きくなる。
「お母様に?」
「ああ」
「どこが?」
「誰かを庇ったところじゃない」
「え?」
「分からないことを、分からないまま裁かないところだ」
アルフォンスは懐かしそうに目を細めた。
「姉上はそういう人だった」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
母のことを、もっと知りたい。
その思いが自然に浮かぶ。
「叔父様」
「うん」
「お母様のこと、今度教えてください」
「今でもいいぞ」
「今日は……」
少し考える。
たくさん聞いた。
たくさん感じた。
今日はもう十分かもしれない。
「今度がいいです」
「分かった」
「私が聞きたい日に」
「ああ」
エレノアは立ち上がる。
談話スペースを出ようとして、ふと思い出した。
「叔父様」
「今度は何だ?」
「私、今日、一人で庭を歩きました」
「聞いた」
「明日も歩いていいですか?」
「もちろん」
「その次の日も?」
「もちろんだ」
「毎回、聞かなくても?」
アルフォンスが一瞬言葉を失う。
それから、何かに気づいたように表情を柔らかくした。
「敷地内なら、毎回私の許可を取らなくていい」
「……本当に?」
「ああ。ただし、遠くへ行くときや体調が悪いときは、誰かに伝えてくれると安心する」
「許可じゃなくて?」
「連絡だ」
エレノアはその違いを考える。
行っていいか聞くのではない。
行くと伝える。
「分かりました」
小さく頷いてから、もう一つ確かめる。
「明日は、南の小池へ行くってリディアに言えばいい?」
「それでいい」
「じゃあ、そうします」
エレノアは今度こそ談話スペースを出た。
アルフォンスはしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
少し前まで、エレノアは何をするにも許可を求めていた。
座っていいか。
食べていいか。
残していいか。
話していいか。
触れていいか。
外へ出ていいか。
それを一つずつ、「自分で決めていいもの」へ戻していかなければならない。
アルフォンスは拳を握りそうになり、途中で力を抜いた。
怒りを抱くことと、それをエレノアの前へ持ち込むことは別だ。
彼自身も学んでいる途中だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
エレノアが目を覚ましたとき、カーテンの隙間から淡い朝日が差し込んでいた。
昨日より少し早い時間らしい。
身体を起こす。
脇腹に僅かな違和感はあるが、強い痛みではない。
喉が渇いていた。
ベッド脇に用意された水を飲み、しばらく窓を見る。
(今日、何を着よう)
以前なら、侍女が持ってきた服をそのまま着た。
最近は毎朝、選ぶ。
それが少し楽しみになってきていた。
扉が叩かれる。
「おはようございます。リディアでございます」
「おはようございます。入ってください」
リディアが入ってくる。
手には三着。
「本日は少し暖かくなりそうですので、薄手のものを中心にお持ちしました」
淡い緑。
薄紫。
生成り。
エレノアはベッドから降り、三着の前へ立つ。
昨日は白だった。
今日は。
「緑にします」
「かしこまりました」
「リボンは……」
リディアが箱を開く。
青。
黄色。
白。
薄紫。
エレノアは迷う。
「黄色」
「はい」
緑の服に黄色のリボン。
合うのか分からない。
でも、今日はそれがいい。
「変じゃないですか?」
尋ねてから、エレノアは少し考え直す。
「……変でも、つけたいです」
リディアの手が一瞬止まった。
それから、柔らかな笑みが浮かぶ。
「では、黄色にいたしましょう」
「はい」
鏡の前へ座る。
髪へ黄色いリボンが結ばれる。
エレノアは鏡の中の自分を見る。
淡い緑の服。
黄色いリボン。
昨日とは違う。
「リディア」
「はい」
「朝食のあと、南の小池へ行ってきます」
「かしこまりました。お供は?」
「一人で行ってみます」
「分かりました」
許可は求めなかった。
行くと伝えた。
それだけなのに、胸の奥が少しくすぐったい。
「それから……」
「はい」
「朝ご飯、今日は何ですか?」
「焼きたてのパンと卵料理、果物、それから温かいスープでございます」
エレノアは少し考える。
昨日の夕食。
魚。
香草。
じゃがいも。
食べたいものを追加してもらった。
「パン、大きいのがあったら大きい方がいいです」
リディアはごく自然に頷いた。
「厨房へ伝えてまいります」
「お願いします」
エレノアは鏡の中の自分を見る。
黄色いリボンが揺れていた。
まだ、自分が何を好きなのかはほとんど知らない。
何を食べたいのかも、どこへ行きたいのかも、毎日変わる。
それでもいい。
(今日の私は、大きいパンが食べたい)
それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
一方、ベルナール伯爵邸では朝から一つの照合結果が出ていた。
ロベルトの執務室に呼ばれた仕立て屋は、机の上へ広げられた記録と布見本を見比べていた。
王都で長く店を構える仕立て職人、アニエス・モロー。五十歳を少し過ぎた女性で、アデラインが生きていたころからベルナール家へ出入りしている。
「間違いございません」
アニエスは記録の一行を指先で示した。
「こちらの八着は、すべてエレノアお嬢様の採寸で仕立てております」
「本人へ渡したのか?」
ロベルトが尋ねる。
「納品はいたしました。ただ、私はお嬢様ご本人へ直接お渡ししておりません」
「誰に渡した」
「通常は奥様付きの方か、衣装管理を担当する侍女でございます」
「名前を覚えているか」
「すべては難しいのですが……」
アニエスは帳簿をめくる。
「こちらの三着は、ベアトリス様が受領されています」
ロベルトの表情が硬くなる。
「残りは?」
「二着は当時の衣装係。こちらに受領署名がございます」
「名前は」
「サビーヌ・コルベール」
家令がすぐに書き留める。
「残り三着は?」
「……こちらは」
アニエスの指が止まった。
「何だ」
「ミレーヌお嬢様用として、後日寸法を直す依頼を受けています」
部屋の空気が変わった。
「誰からだ」
「奥様からです」
「ヴァレリアから?」
「はい」
「エレノア用に仕立てた服を、ミレーヌ用に直したのか?」
アニエスは慎重に頷いた。
「三着については」
「なぜだ」
「私は、エレノアお嬢様には合わなくなったため妹君へ譲る、と説明を受けました」
「エレノア本人の了承は確認したか」
アニエスの顔に困惑が浮かぶ。
「申し訳ございません。ご家族間でのお譲り物でしたので、私は奥様のお申し付けをそのまま……」
ロベルトは何も言えなかった。
エレノアが了承したのか。
そもそも、その服を一度でも見たのか。
分からない。
「三着は、いつ直した」
「記録を確認いたします」
帳簿がめくられる。
アニエスが日付を読み上げる。
ロベルトはその数字を見つめた。
三着。
少なくとも八着すべてが完全に消えたわけではなかった。
そのうち三着は、エレノアのために仕立てられたあと、ミレーヌの寸法へ直されていた。
けれど、それで疑問が減ったわけではない。
むしろ新しい疑問が生まれた。
「ミレーヌは、このことを知っていたと思うか?」
「それは私には分かりません」
「当然だな」
ロベルトは息を吐く。
決めつけない。
知らないことは、調べる。
エレノアに対してできなかったことを、今度こそしなければならない。
「その三着の意匠と布を、できるだけ詳しく書き出してくれ」
「承知いたしました」
「今ミレーヌの部屋にある衣服と照合する。ただし――」
ロベルトは家令を見る。
「ミレーヌには説明してから確認しろ。勝手に持ち出すな」
「承知しております」
昨日、ミレーヌ自身から言われたことだった。
勝手に持っていかないで。
その言葉が、今も耳に残っている。
「それから残り五着だ」
ロベルトは帳簿へ視線を戻した。
「三着がミレーヌへ渡ったからといって、全部同じだと決めるな。一着ずつ追え」
「はい」
アニエスが小さく息を吐いた。
「旦那様」
「何だ」
「一つ、よろしいでしょうか」
「ああ」
「エレノアお嬢様は……お元気なのでしょうか」
ロベルトの視線が止まる。
アニエスは少し気まずそうに続けた。
「私は直接お会いする機会がほとんどございませんでした。ただ、幼いころは奥様――アデライン様とご一緒に、よく店へいらしていましたので」
「……今はロシュフォール家にいる」
「存じております」
「医師にも診てもらっている」
「そうでございますか」
アニエスの表情が少しだけ緩んだ。
「何か知っているのか?」
ロベルトが尋ねると、彼女は首を横に振った。
「いいえ。ただ……」
「ただ?」
「最後に直接お見かけしたとき、ずいぶん静かになられたと思っただけでございます」
「いつだ」
「三年ほど前です。採寸のため一度だけ」
「何かあったのか?」
「何かを見たわけではございません」
アニエスは慎重に答える。
「以前は布を見せると、ご自分から触れておられたのです。アデライン様がご存命のころは、青がいい、花がいいと、それは楽しそうに」
ロベルトは黙って聞く。
「けれど、そのときは何を見せても、『何でもいいです』と」
胸の奥に重いものが沈んだ。
「それだけか?」
「はい。それだけです」
アニエスは余計な推測をしなかった。
「ですから、何かの証言になるようなお話ではございません」
「いや」
ロベルトは低く答える。
「記録しておいてくれ」
家令が頷く。
エレノアは、昔から何も欲しがらない子だった。
ロベルトはそう思っていた。
だが。
アデラインが生きていたころは、青がいい、花がいいと自分で選んでいた。
(いつからだ)
何でもいい。
大丈夫です。
必要ありません。
そんな言葉ばかりを口にするようになったのは。
そして自分は、それをいつから「手のかからない娘」と呼ぶようになったのだろう。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたエレノアは、一人で南庭へ向かった。
今日は大きい方のパンを食べた。
卵も食べた。
果物は少し残した。
スープは全部飲んだ。
誰にも怒られなかった。
庭へ出ると、朝の光がまだ低く、葉の先に残った露が小さく輝いている。淡い緑のスカートを揺らしながら歩くと、髪に結んだ黄色いリボンが肩の近くで時折触れた。
南の小池へ向かう。
昨日覚えた道。
今日は迷わない。
生垣を抜けると、水面が見えた。
「あ」
池のそばに先客がいた。
ユリウスだ。
昨日と同じ作業着で、池の縁にしゃがみ込んで何かを確認している。
エレノアに気づくと、すぐに立ち上がった。
「おはようございます、エレノアお嬢様」
「おはようございます」
「本日もこちらへ?」
「はい」
エレノアは昨日座った石の長椅子を見る。
「ここ、少し好きなので」
口にしてから気づく。
昨日は一人で呟いただけだった。
今日は、人へ言った。
自分が好きだと思う場所を。
ユリウスは大げさに喜ぶことも、理由を尋ねることもしなかった。
「それはよかったです」
ただ、そう答えた。
「今日は何をしているんですか?」
「水草の状態を見ています。増えすぎると池の水が淀みますので」
「取るんですか?」
「必要な分だけ。全部取ると今度は小魚の隠れる場所がなくなります」
「魚がいるんですか?」
「おりますよ」
ユリウスが池を指す。
「静かにしていると、あの辺りに出てくるかもしれません」
エレノアは水面を見る。
すぐには何も見えない。
「待っててもいいですか?」
「もちろんです」
ユリウスは作業へ戻った。
エレノアは長椅子へ座る。
水面を見る。
一分。
二分。
どれくらい経ったか分からない。
何もしない。
ただ待つ。
やがて、水草の陰から小さな銀色の魚が一匹だけ現れた。
「いた……」
思わず声が漏れる。
ユリウスが振り向く。
「出ましたか?」
「はい。小さい」
「まだ若い魚ですね」
エレノアは少し身を乗り出す。
魚はすぐに水草の下へ消えた。
けれど、もう一匹。
さらに一匹。
水面近くへ姿を見せる。
エレノアはしばらくそれを眺めた。
何かを成し遂げたわけではない。
誰かの役に立ったわけでもない。
ただ、魚が出てくるのを待っていた。
(こういう時間も、あっていいんだ)
胸の中で言葉にする。
昨日までなら、何もしない時間に落ち着かなかった。
今も完全には慣れていない。
それでも、今日は帰ろうとは思わなかった。
「ユリウスさん」
「はい」
「明日も魚、出ますか?」
「おそらく」
「じゃあ、明日も来るかもしれません」
「お待ちしております――と言いたいところですが、私は明日は北庭の担当です」
「そうなんですか」
「魚はおりますので」
ユリウスが真面目な顔で言う。
エレノアは笑った。
「魚に会いに来ます」
「それがよろしいかと」
風が吹く。
黄色いリボンが揺れる。
池の水面に小さな波紋が広がった。
エレノアはそれを眺めながら、ふと思った。
ここへ来ることも。
大きいパンを選ぶことも。
じゃがいもを残すことも。
魚を追加してほしいと言うことも。
全部、とても小さなことだ。
けれど。
(小さいことを、自分で決めるのって……こんな感じなんだ)
誰かに逆らうためではない。
誰かを困らせるためでもない。
ただ、自分がそうしたいから選ぶ。
エレノアは水面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
まだ、ベルナール家で何が起きていたのかは分からない。
母の箱も見つかっていない。
青い髪飾りも。
なくなった服も。
父をどう思えばいいのかも、ヴァレリアをどこまで恐れればいいのかも、ミレーヌとこれからどう向き合うのかも分からない。
けれど、それらが分からないままでも。
今日の朝、自分が大きいパンを食べたかったことだけは分かる。
今日、この池へ来たかったことも分かる。
それでいい。
水草の陰から、さっきより少し大きな魚が姿を見せた。
エレノアは誰かを呼ぶこともせず、ただ静かにその魚を目で追った。
自分のためだけに過ごす朝が、少しずつ長くなっていった。




