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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第22話 知らなかったものまで、罪にはしない


 南の小池から戻るころには、朝の涼しさが少しずつ薄れ始めていた。


 庭へ降りたときにはまだ葉の先に残っていた露も、今では陽射しを受けてほとんど消えている。エレノアは淡い緑色のスカートを揺らしながら屋敷へ続く小道を歩き、ときどき肩へ触れる黄色いリボンの感触を確かめた。


 魚を見ただけだった。


 誰かの手伝いをしたわけでも、勉強をしたわけでもない。公爵家の役に立つことをしたわけでもなく、一人で池の前に座り、水草の間から小さな魚が出てくるのを眺めていただけだ。


 それなのに、不思議と胸の奥が軽い。


(何もしていないのに、楽しかった)


 そう思ったところで、エレノアの足がわずかに遅くなる。


 何もしていない。


 その言葉には、以前なら悪い意味しかなかった。


 何もしていないなら、働かなければならない。誰かの役に立っていないなら、自分がそこにいる理由を作らなければならない。


 けれど今朝は違った。


 魚を見ていた。


 それだけで楽しかった。


「お嬢様?」


 玄関近くまで戻ったところで、扉のそばにいたリディアがエレノアへ気づいた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


 自然に口から出た言葉に、エレノア自身が少し驚く。


 リディアは驚いた様子を見せず、いつもの穏やかな表情で頭を下げた。


「お帰りなさいませ、エレノアお嬢様。お池はいかがでしたか?」


「魚がいました」


「まあ」


「小さい魚です。ユリウスさんが、静かにしていたら出てくるかもしれないって教えてくれて……待っていたら、本当に出てきました」


 話しているうちに、少し楽しくなってくる。


「三匹……いえ、最後に大きいのもいたから、四匹見ました」


「それはよろしゅうございました」


「明日も行こうと思っています。ユリウスさんはいないそうですけど」


「お一人で?」


「はい。魚に会いに」


 言ったあと、少し可笑しくなった。


 魚に会いに行く。


 そんなことを予定にしてもいいのだろうか。


 けれどリディアは笑わなかった。


「では、明日もお天気になるとよろしいですね」


「……はい」


 それだけだった。


 勉強はどうするのかとも、そんなことをして何になるのかとも言われない。


 エレノアは屋敷の中へ入りながら、そっと息を吐いた。


「リディア」


「はい」


「今日、このあと何かしなければいけないことはありますか?」


「昼食までは特に予定はございません。午後にはクラリス先生がお身体の様子を確認しにいらっしゃいますが、それ以外は何も」


「何も……」


「はい」


「本当に?」


「本当に、でございます」


 リディアが少しだけ微笑む。


「本をお読みになっても、お部屋でお休みになっても、温室へ行かれても構いません。もちろん、何もなさらなくても」


 最後の言葉に、エレノアは瞬きをした。


「何もしなくても?」


「はい」


「……それって、何をするんですか?」


 尋ねてから、自分でも変な質問だと思った。


 リディアも一瞬目を丸くしたあと、口元をほころばせる。


「何もしないのでございますから、何をするかは決まっておりませんね」


「そうですよね」


 二人で小さく笑う。


 エレノアは階段へ向かいかけて、ふと思いついた。


「じゃあ、少しだけ何もしないでみます」


「かしこまりました」


「……変ですか?」


「いいえ」


 リディアは首を横に振った。


「何もしない時間を過ごしてみようと、ご自分でお決めになったのでしょう?」


「はい」


「でしたら、それも立派なご予定かと」


 エレノアはしばらく考え、それから頷いた。


「では、昼食までの予定は、何もしないことにします」


     ◇ ◇ ◇


 何もしないというのは、思っていたより難しかった。


 自室へ戻ったエレノアは長椅子へ腰を下ろしたものの、すぐに周囲へ視線が動いてしまう。


 窓辺には、先日摘んだ野薔薇の花びらを押し花にするための紙が置かれている。


 机には本がある。


 棚の上には、自分で書き足している「私がこれから選ぶもの」の紙もある。


 どれも気になる。


(何もしないって決めたのに)


 そう思ってから、少し違う気がした。


 何もしないことまで、守らなければならない決まりにしてしまっている。


「……違う」


 小さく呟く。


 何もしなくてもいい。


 何かしたくなったら、してもいい。


 たぶん、そういうことなのだ。


 エレノアは背もたれへ身体を預けた。


 窓から庭が見える。


 風に揺れる木々。


 遠くで鳥が鳴いている。


 廊下の向こうからは、使用人が歩く足音が微かに聞こえてくる。


 しばらくそのままでいると、不思議なことに眠くなってきた。


(寝てもいいのかな)


 誰もいない部屋で、誰に尋ねるでもなく考える。


 眠い。


 なら、寝てもいいのだろう。


 エレノアは長椅子に置かれていた薄い膝掛けを手に取り、身体へ掛けた。


 ベッドへ移動するほどでもない。


 少しだけ。


 目を閉じる。


 眠ってしまったら昼食に遅れるかもしれない、という考えが浮かんだ瞬間、身体が強張った。


 食事に遅れる。


 食事がなくなる。


 厨房へ行く。


 冷たい床。


 固いパン。


『今日はもう食事は終わっています』


 声が頭の奥で響いた。


 エレノアは目を開けた。


 呼吸が少し速い。


「……ここは、ロシュフォールのお屋敷」


 声に出して確かめる。


 窓。


 野薔薇。


 淡い色の壁。


 長椅子。


 自分で選んだ緑色の服。


 髪には黄色いリボン。


 ここはベルナール伯爵邸ではない。


(もし寝過ごしたら……)


 昨日教えてもらったことを思い出す。


 食事の時間を過ぎたからといって、身体が食事を必要としなくなるわけではない。


 食べ損ねたなら、あとから食べればいい。


「起きたら、食べたいって言えばいい」


 言葉にすると、少しだけ呼吸が楽になった。


 それでも完全に眠気へ身を任せるのは怖い。


 エレノアはしばらく迷ったあと、部屋の呼び鈴を鳴らした。


 ほどなくしてリディアが扉を叩く。


「お呼びでしょうか」


「はい。入ってください」


 リディアが入室すると、エレノアは少し言いにくそうに膝掛けの端を握った。


「私、少し眠いんです」


「では、お休みになりますか?」


「そうしたいんですけど……」


 言葉が止まる。


 リディアは急かさない。


「もし、お昼まで寝てしまったら」


「はい」


「ご飯、なくなりますか?」


 リディアの表情がほんの一瞬だけ変わった。


 悲しそうに見えた気がする。


 けれどすぐに、いつもの落ち着いた声が返ってきた。


「なくなりません」


「遅れても?」


「はい。お目覚めになってから召し上がれます」


「料理長さんに迷惑じゃない?」


「マティアスでしたら、むしろ温かいものを用意し直そうとすると思います」


「……怒らない?」


「怒りません」


 リディアはそこで少し考えた。


「もしご心配でしたら、お昼になってもお休みでしたら一度お声をかけましょうか。それとも、起きるまで眠っていたいですか?」


 また選択肢が二つある。


 エレノアは考えた。


「一度、起こしてください」


「かしこまりました」


「でも、まだ眠かったら……」


「そのままお休みになりますか?」


「はい」


「では、そのように」


 リディアが一礼する。


 エレノアは安心して長椅子へ身体を預け直した。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 扉が閉まる。


 今度は、先ほどより簡単に目を閉じられた。


(ご飯は、なくならない)


 その言葉を胸の中で繰り返しながら、エレノアは静かな眠りへ落ちていった。


     ◇ ◇ ◇


 ベルナール伯爵邸では、そのころ一着のドレスがミレーヌの前へ運ばれていた。


 淡い桃色の布地に、白い小花の刺繍が入っている。


 派手ではない。


 けれど上質な生地で、裾には細かな刺繍が丁寧に施されていた。


「これが?」


 ミレーヌは立ったまま、そのドレスを見つめた。


 向かいには父ロベルトと家令がいる。


 母ヴァレリアはいない。


 ミレーヌ自身が、先に自分へ説明してほしいと求めたため、ロベルトがその言葉を守った形だった。


「ああ」


 ロベルトが答える。


「仕立て屋の記録では、元々エレノアのために仕立てられたものだ」


「……お姉様の?」


「そうだ」


「でも、これ、私の服だよ」


「今はな」


 ミレーヌはドレスへ近づいた。


 見覚えがあるどころではない。


 何度も着た。


 去年の春、母と王都へ出かけたときにも着ていたはずだ。


「間違いじゃないの?」


「仕立て屋本人が帳簿と布見本を確認した」


「名前を書き間違えたとか」


「採寸記録もエレノアのものだった」


「じゃあ……」


 ミレーヌはドレスの肩へ触れる。


「なんで私の大きさなの?」


「あとから直された」


「誰が?」


「ヴァレリアが仕立て屋へ依頼した」


 ミレーヌの指が止まった。


「お母様が?」


「ああ」


「どうして?」


「エレノアには合わなくなったため、お前へ譲ると説明したらしい」


 ミレーヌはしばらく何も言わなかった。


「お姉様が?」


「何がだ」


「お姉様が、私にあげるって言ったの?」


「それを確認している」


「分からないの?」


「今のところ、エレノア本人が譲ることに同意したという記録はない」


「じゃあ、お姉様に聞けばいいじゃない」


 ミレーヌはすぐに言った。


 ロベルトの表情がわずかに硬くなる。


「今は、こちらから必要以上の問い合わせをしないことになっている」


「どうして?」


「エレノアはロシュフォール家で療養している」


「でも、自分の服かどうかでしょう?」


「だからこそだ」


 ロベルトは声を荒らげなかった。


「こちらの都合で、思い出せ、答えろと求めるべきではない」


 ミレーヌは父を見る。


 以前の父なら、こんな言い方をしただろうか。


 分からない。


 最近、父は少し変だ。


 静かになったというより、何かを言う前に考える時間が増えた。


「あと二着ある」


「え?」


「同じように、エレノア用として仕立てられたあと、お前の寸法へ直された服が」


 ミレーヌの顔から表情が消える。


「三着も?」


「ああ」


「私、知らないよ」


「分かっている」


「本当に知らない」


 思ったより強い声が出た。


 ロベルトが少し目を見開く。


「私、お姉様から取ってないから」


「ミレーヌ」


「欲しいなんて言ってない。お姉様の服が欲しいなんて、一回も――」


「お前が盗ったとは言っていない」


「でも!」


 ミレーヌは言葉を切り、唇を噛んだ。


 胸の奥がざわつく。


 昨日まで、自分の服だった。


 お気に入りとまでは言わなくても、何度も袖を通した。


 それが急に「姉のものだった」と言われる。


 まるで自分が知らないうちに、姉から何かを奪っていたようで気持ちが悪かった。


「……お母様に聞く」


 ミレーヌが踵を返しかける。


「待ちなさい」


「どうして?」


「私が先に話す」


「また私には教えてくれないの?」


「そういう意味ではない」


「じゃあ、何?」


 ミレーヌの声には、子供っぽい苛立ちが混じった。


「私の服なんでしょう? 私が着てたんだから、私にも関係あるじゃない」


「ある」


 ロベルトははっきり答えた。


 ミレーヌが黙る。


「だから説明した。お前が言った通り、勝手に部屋から持ち出さず、まずお前に話した」


「……うん」


「だが、今確認したいのは、ヴァレリアがどのような経緯で仕立て直しを指示したかだ。お前が先に問い詰めれば、話が混乱する可能性がある」


「問い詰めるつもりじゃ……」


 言いかけて、ミレーヌは止まる。


 たぶん、今すぐ母に会えば問い詰める。


 どうして姉の服を自分へ渡したのか。


 姉は本当にいいと言ったのか。


 自分は何も知らなかったのに。


「……分かった」


 不満は残る。


 それでもミレーヌは引いた。


「でも、あとで教えて」


「ああ」


「絶対?」


「ああ」


 ロベルトが答える。


 ミレーヌはもう一度桃色のドレスを見る。


「これ、どうするの?」


「今はそのまま保管する」


「私の部屋に?」


「嫌か?」


 問われて、ミレーヌは困った。


 昨日まで何とも思わなかった。


 けれど今は。


「……見たくないかも」


「分かった」


「でも、勝手に捨てないで」


「捨てない」


「お姉様のものだったら、お姉様に返すんだよね?」


「本人の所有物だと確認でき、本人が返してほしいと望めばな」


 ミレーヌは少し考える。


「望まなかったら?」


「それもエレノアが決めることだ」


「私がもらっていいって言われたら?」


「そのときは、そのとき考えればいい」


 父の答えは、最近いつも曖昧だ。


 以前ならもっと簡単に決めていた気がする。


 けれど今は、誰が何を望んでいるのかを一つずつ確認しようとしている。


「……お父様」


「何だ」


「お姉様って、服、好きだった?」


 突然の問いに、ロベルトが答えられなくなる。


「何色が好きだった?」


 沈黙。


「どんな飾りが好きだった?」


 また、沈黙。


 ミレーヌは父の顔を見つめた。


「知らないの?」


 ロベルトの喉が動いた。


「……知らない」


「お父様も?」


「ああ」


「私も知らない」


 ミレーヌは桃色のドレスへ視線を落とした。


「昨日、コレットと話してたの。私、お姉様が何を好きなのか何も知らないって」


 ロベルトは答えない。


「同じ家にいたのに、変だよね」


「……そうだな」


 ミレーヌはその答えを聞いて、少しだけ眉を寄せた。


 誰かに「そんなことはない」と否定してほしかったのかもしれない。


 けれど父は否定しなかった。


     ◇ ◇ ◇


 ロベルトがヴァレリアの部屋を訪れたのは、その少しあとだった。


 窓辺ではヴァレリアが刺繍をしていた。


 淡い赤褐色の髪が午後前の光を受け、肩のあたりで柔らかく輝いている。


「あなた?」


 ヴァレリアは針を止めた。


「どうなさったの?」


「確認したいことがある」


「また?」


 ほんの一瞬だけ疲れたような色を見せたあと、ヴァレリアは微笑んだ。


「ええ、もちろん。私に分かることでしたら」


 ロベルトは向かいの椅子へ座らなかった。


 手にした書類をテーブルへ置く。


「三年前から昨年にかけて、エレノア用に仕立てたドレス三着を、ミレーヌ用に直している」


「ああ、そのこと」


 返答は早かった。


「覚えているのか?」


「ええ。すべてを細かくは覚えていませんけれど、何着か仕立て直したことはあります」


「なぜだ」


「なぜ、と言われましても……」


 ヴァレリアは針を布へ置き、困ったように微笑んだ。


「エレノアには合わなくなったからですわ」


「サイズが?」


「ええ。それに、あの子はほとんど着ませんでしたもの」


「本人はミレーヌへ譲ることに同意したのか?」


 ヴァレリアの表情が僅かに止まった。


「家族の間で、そこまで大げさな確認が必要でした?」


「質問に答えてくれ」


「……本人に一着ずつ聞いたか、と言われれば覚えておりません」


「では、誰が決めた」


「私でしょうね」


 あっさりした答えだった。


「まだ着られる服を捨てるより、ミレーヌへ回した方がいいと思っただけです」


「エレノアのために仕立てた服だ」


「家の金で仕立てた服でしょう?」


「だから、本人の意思は必要ないと?」


「あなた」


 ヴァレリアの声が少し低くなる。


「最近、何もかもを悪い方へ考えていません?」


「悪い方かどうかを確認するために聞いている」


「姉の着なくなった服を妹へ回すことが、それほどおかしいことですか?」


「着なくなったのか、着る機会を与えられなかったのかが分からない」


 ヴァレリアの眉が動く。


「どういう意味?」


「仕立て屋は、エレノア本人へ直接納品していない」


「それは普通でしょう。伯爵家の令嬢へ職人が直接衣装を届ける方が珍しいわ」


「三着とも、エレノアが一度でも袖を通したのか?」


「そんな昔のことまで覚えていません」


「エレノアへ渡されたことを確認したか?」


「だから、覚えていないと言っているでしょう」


 ヴァレリアは小さく息を吐いた。


「私は家の中のものを管理していただけです。子供はすぐ大きくなるのですから、使えるものを妹へ回すことくらいあります」


「ミレーヌには、元々エレノアの服だったと伝えたか?」


「必要がありました?」


「ミレーヌは知らなかった」


 そこで初めて、ヴァレリアの目がわずかに細くなった。


「ミレーヌにまでこんな話をしたの?」


「本人の部屋にあるものだ」


「あの子を巻き込む必要はないでしょう」


「巻き込んだのは誰だ」


「何ですって?」


「エレノアの服をミレーヌへ渡したのが君なら、最初に二人の間へその問題を持ち込んだのは君だ」


 室内が静かになる。


 ヴァレリアの指先が刺繍布の上で止まった。


「まるで私が二人を争わせたような言い方ね」


「そうは言っていない」


「同じでしょう」


「違う。私は事実を確認している」


 ロベルトはテーブルの書類へ目を落とした。


「残り五着についても調べる」


「好きになさい」


「それから、ベアトリスにも改めて確認する」


 ヴァレリアの表情は崩れなかった。


 だが、刺繍布へ置かれていた指が僅かに縮む。


「ベアトリスに?」


「ああ。三着とは別の衣服を彼女が受領している」


「侍女が衣装を受け取るのは普通のことでしょう」


「当時、彼女は君付きの上級侍女として衣装や生活用品の受領に関わっていた。今は侍女長だ。過去の受領経路を確認するなら、話を聞くのは当然だ」


「……そう」


「何か問題が?」


「いいえ」


 ヴァレリアは微笑んだ。


「何も」


 ロベルトはそれ以上追及しなかった。


 笑顔があるから嘘だとも、声が揺れないから真実だとも決めない。


 以前の自分なら、妻がそう言うならそうなのだろうと終わらせていた。


 今は違う。


 記録を確認する。


 証言を照合する。


 それでも分からなければ、分からないまま保留する。


「ミレーヌには、私から説明した」


「何を?」


「三着が元々エレノア用だったことを」


 ヴァレリアの顔から、初めて明確に笑みが消えた。


「どうしてそんなことを」


「知りたいと言ったからだ」


「あの子はまだ十五歳よ」


「エレノアも十五歳だ」


 ヴァレリアが黙る。


 ロベルト自身も、その言葉を口にしたあとで胸の奥に鈍い痛みを覚えた。


 十五歳。


 二人とも同じ十五歳だ。


 それなのに、自分はずっと片方を「守られる子供」として扱い、もう片方には家のための婚姻を受け入れさせようとしていた。


「今後、ミレーヌの部屋から何かを確認するときも、本人へ説明する」


「あなた、本気なの?」


「ああ」


「エレノアの件で、ミレーヌまで疑われたらどうするの」


「疑われないように、事実を確認する」


「世間はそんなに丁寧ではないわ」


「だからこそ、こちらが雑に扱うわけにはいかない」


 ヴァレリアは夫を見つめた。


 以前なら、自分の言葉に頷いていた男。


 家の中の細かなことは任せると言っていた男。


 それが今では、一つ一つの記録を自分で確かめようとしている。


 ヴァレリアは視線を落とし、刺繍布を手に取った。


「分かりました」


 声は穏やかだった。


「好きになさい」


 ロベルトが退室する。


 扉が閉じてからも、ヴァレリアはしばらく動かなかった。


 針を持ち上げる。


 糸を布へ通そうとして、針先が狙った場所から僅かにずれた。


 それだけだった。


     ◇ ◇ ◇


「エレノアお嬢様」


 リディアの声で目を覚ましたとき、エレノアは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 柔らかな長椅子。


 膝掛け。


 窓から入る昼の光。


「……リディア?」


「はい。お昼の時間になりました」


 エレノアは瞬きをする。


 眠っていた。


 本当に眠ってしまったらしい。


「ご飯は?」


 起き抜けに口から出た。


 リディアは微笑む。


「ございます」


「……なくなってない?」


「なくなっておりません」


 胸の奥がゆっくり緩む。


「起きます」


「まだお眠いようでしたら、もう少しお休みになっても」


 エレノアは自分の身体へ意識を向ける。


 眠い。


 けれど、それよりお腹が空いている。


「食べたいです」


「では、参りましょう」


 長椅子から立ち上がる。


 髪の黄色いリボンが少し曲がっていたので、リディアが直そうと手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「リボンを直してもよろしいですか?」


「はい」


 エレノアは頷く。


 指先が髪に触れる。


 怖くない。


 鏡で確認すると、黄色いリボンが元の位置へ戻っていた。


「ありがとうございます」


「いえ」


 食堂へ向かう途中、エレノアは不思議な気持ちになった。


 昼食の時間まで眠った。


 誰にも怒られなかった。


 食事もなくならなかった。


 それだけのことなのに、何か大きなことを確かめた気がする。


     ◇ ◇ ◇


 午後、クラリス・ベルモンが訪れた。


 診察室として使っている客間にはエレノアとクラリス、そしてエレノアが同席を希望したリディアだけがいる。


「今日は腕から見てもいい?」


「はい」


「袖を上げるのは自分でできる? それとも手伝った方がいい?」


「自分でやります」


「分かったわ」


 エレノアは袖をゆっくり上げる。


 以前あった痣は、かなり薄くなっている。


 クラリスは目で確認したあと、触れてよいかを尋ね、許可を得てから指先で周囲をそっと確かめた。


「痛みは?」


「そこは、もうほとんど痛くないです」


「ほとんど、ね」


「はい」


「ゼロではない?」


 エレノアは少し考える。


「強く押されたら痛いと思います」


「では押さないでおきましょう」


 クラリスがすぐに手を離す。


 次に脇腹について尋ねられる。


「昨日よりどう?」


「少し楽です。でも、身体をひねると痛いときがあります」


「ちゃんと言えたわね」


 褒めるというより、確認するような穏やかな声だった。


 エレノアは少しだけ笑う。


「前は、痛くても大丈夫って言ってたから」


「そうね。でも、大丈夫じゃないことを大丈夫と言わなくてもいい」


「はい」


 診察が一段落すると、クラリスが記録へ書き込む。


「食事はどう?」


「食べています」


「量は?」


「昨日、じゃがいもを残しました」


「そう」


「でも、魚を追加してもらいました」


 クラリスの筆が一瞬止まる。


「食べたかったから?」


「はい。魚の上の香草がおいしかったので」


「それはいいわね」


「今日は朝、大きいパンを食べました」


「それも食べたかったから?」


「はい」


 答えると、クラリスが微笑んだ。


「空腹や好みで食べるものを決められるようになってきたのね」


「まだ分からないことも多いです」


「分からなくていいのよ」


 クラリスは記録を閉じる。


「身体は毎日違うもの。昨日好きだったものを今日は食べたくないこともあるし、昨日足りた量で今日は足りないこともある」


「毎日決めてもいい?」


「もちろん」


 昨日から何度も聞いている言葉なのに、また少し安心する。


「それから、今日、お昼まで寝ました」


「よく眠れた?」


「途中までは」


「何かあった?」


「寝る前に、起きたらご飯がなくなってるかもって思いました」


 クラリスはすぐには答えない。


「それで?」


「リディアに聞きました」


「何て?」


「なくならないって」


「うん」


「起きたら、本当になくなってませんでした」


 エレノアは自分の手を見る。


「変なんですけど……嬉しかったです」


「変じゃないわ」


 クラリスの声は静かだった。


「怖かったことと違う結果が起きたら、安心するでしょう?」


「はい」


「それを何度も経験していけば、身体も少しずつ『ここでは同じことが起きない』と覚えていくことがある」


「身体が?」


「頭では分かっていても、身体が先に怖がることがあるでしょう?」


 エレノアは白い皿を見た日のことを思い出す。


 割れる音。


 腕を掴まれた感覚。


 実際には何も起きていないのに、身体だけが昔へ戻ったようになった。


「あります」


「逆もあるの。安全だった経験を少しずつ積み重ねていくことで、身体も今を覚えていく」


「じゃあ、今日寝たことも?」


「そうね。『昼まで寝ても食事はなくならなかった』という経験になった」


 エレノアはゆっくり頷いた。


(怖い記憶だけじゃなくて、安全だった記憶も増やせるんだ)


 その考えは、不思議なくらい温かかった。


     ◇ ◇ ◇


 診察が終わったあと、エレノアはクラリスと一緒に客間を出た。


 廊下の先からセドリックが歩いてくる。


「終わった?」


「はい」


「どうだった?」


「よくなってるそうです」


「よかった」


 セドリックの顔が明るくなる。


 けれど、すぐに細かな状態を尋ねてこない。


 以前なら「どこがまだ痛い」「何を言われた」と心配のあまり聞いていたかもしれない。


 最近は、エレノアが話したい範囲を待つようになっていた。


「お兄様」


「何?」


「今日、昼まで寝ました」


「うん?」


「何もしないって決めて」


「……何もしないって決めて寝たの?」


「はい」


 セドリックが一瞬だけ何とも言えない顔をしたあと、笑った。


「それ、すごくいいと思う」


「本当に?」


「僕もやりたい」


「セドリック」


 ちょうど廊下の向こうからアルフォンスが現れた。


「お前は昨日頼んだ書類を片づけてからにしろ」


「父上、聞いてたの?」


「聞こえた」


「何もしない時間を過ごすのも大切らしいよ」


「やるべきことを終えた人間が言えばな」


 エレノアは二人を見比べ、笑う。


「お兄様は、何もしないの駄目なんですか?」


「駄目ではない。順番の問題だ」


「エレノア、父上は僕にだけ厳しいんだ」


「十八歳の跡取りに十五歳の療養中の娘と同じ対応を求めるな」


「娘?」


 エレノアの口から言葉が出た。


 アルフォンスが固まる。


「あ」


 自分でも気づいたらしい。


 まだ養女ではない。


 エレノアはアルフォンスを見る。


 アルフォンスは珍しく明らかに困っていた。


「すまない。今のは――」


「嫌じゃないです」


 エレノアが言う。


 アルフォンスが黙る。


「まだ、どうするかは決めてないですけど」


「ああ」


「でも、嫌じゃなかったです」


 それだけ伝える。


 養女になると決めたわけではない。


 ベルナール家との関係をどうするかも決めていない。


 それでも、叔父から「娘」と呼ばれたことを嫌だとは思わなかった。


 アルフォンスの顔が少しだけ緩む。


「……ありがとう」


「何で叔父様がお礼を言うんですか?」


「言いたかったからだ」


 その答えに、エレノアは少し考える。


「理由、それだけでいいんですよね」


「ああ」


 アルフォンスが笑った。


「それだけでいい」


     ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。


 ベルナール伯爵邸の侍女長室では、ベアトリス・ロランが古い受領簿を前に座っていた。


 五十を過ぎた彼女の髪には白いものが混じり始めている。


 現在はベルナール家の侍女長。


 だが、ヴァレリアがこの家へ入った当初から数年間は、彼女の身の回りを主に担当する上級侍女として働き、衣服や装身具の受領にも頻繁に関わっていた。


 そのころの署名が、今になって次々と掘り起こされている。


「こちらの三着です」


 家令が帳簿を示した。


 ベアトリスは眼鏡をかけ直す。


「……確かに、私の署名ですね」


「受領したことは覚えていますか?」


「一着一着までは」


「その後、どこへ?」


「通常でしたら、衣装室へ運びます」


「エレノアお嬢様の?」


「当時は東側二階の衣装室です」


「本人へ渡したことを確認しましたか?」


 ベアトリスは口を閉じた。


「……そこまでは覚えておりません」


「では、受領後に別の場所へ移した可能性も?」


「ございます」


「誰の指示で?」


「それも、今ここでは答えられません」


 家令は責めなかった。


「思い出したことだけで構いません」


「はい」


 ベアトリスは帳簿を見つめる。


 長く仕えてきた家だ。


 当時は何の疑問も持たなかったことが、今になって一つずつ問い直されている。


 マーサは過保護だと思っていた。


 エレノアは甘やかされすぎた子供だから、自立させなければならないと聞かされていた。


 食事の時間を守らないなら、規律を教える。


 身の回りのことを自分でさせる。


 必要以上に使用人が構わない。


 そういう方針なのだと理解していた。


(本当に、それだけだったのかしら)


 今さら浮かんだ疑問を、ベアトリスは口には出さなかった。


 代わりに、帳簿の一箇所へ目が止まる。


「……待ってください」


「何か?」


「この日付」


 一本の指で、二年前の冬の日付を示す。


「覚えているのですか?」


「服ではありません」


 ベアトリスは眉を寄せた。


「このころ……東側二階の衣装室を整理したはずです」


「誰が?」


「私と、当時の衣装係が」


「サビーヌ・コルベールですか?」


「ええ」


「何のために?」


 ベアトリスは記憶を辿る。


「奥様から、使っていないものを整理するようにと」


「ヴァレリア様から?」


「はい。ただ……」


 そこで言葉を止める。


「何です?」


「処分しろと言われたのか、別の場所へ移せと言われたのか、そこまでは覚えていません」


「その整理に、エレノアお嬢様は立ち会いましたか?」


 ベアトリスは長い沈黙のあと、首を横に振った。


「少なくとも、私は覚えておりません」


「では、お嬢様本人へ一つずつ確認した記憶は?」


「……ありません」


 部屋の中が静かになる。


「サビーヌへ話を聞く必要がありますね」


「ええ」


 ベアトリスは頷いた。


 それから、ふと何かを思い出したように顔を上げる。


「家令様」


「何でしょう」


「整理した中に、服だけではなく……箱もあったかもしれません」


「箱?」


「大きなものではありません。装身具を入れるような……」


 家令の表情が変わる。


「木製ですか?」


 ベアトリスの呼吸が止まった。


 野薔薇の彫刻がある木製の小箱。


 以前、自分がエレノアの部屋から運び出し、ヴァレリアへ渡した品。


「……いえ」


 ベアトリスはすぐに首を振った。


「同じものだったかは分かりません」


「西保管室へ移されたアデライン様の小箱を思い出したのですか?」


「それとは別の記憶かもしれません。混同している可能性があります」


「分かりました」


 家令は無理に答えを求めなかった。


「では、『二年前の冬に東側二階の衣装室を整理した記憶があり、その際に箱状の物品を見た可能性がある。ただしアデライン様の小箱と同一かは不明』と記録します」


「……お願いします」


 ベアトリスは小さく息を吐く。


 分からない。


 覚えていない。


 そればかりだ。


 けれど以前なら、分からないことを「大したことではない」で済ませていただろう。


 今は、それができなかった。


「サビーヌは、まだ王都に?」


「確認中です」


「見つかったら……」


 ベアトリスは帳簿を見つめたまま言った。


「私も、もう一度話を聞きたいです」


「なぜです?」


「自分が何をしていたのか、確認したいので」


 家令はしばらく彼女を見たあと、静かに頷いた。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


 エレノアは自室の机に座っていた。


 目の前には「私がこれから選ぶもの」と書いた紙がある。


 これまでに書いた言葉を一つずつ読む。


 知りたいことを、自分で決める。


 お母様のことを知りたい。


 私のものだったものを、探したい。


 失敗しても、傷つけられていいわけではない。


 その下に、新しい言葉を書こうとして、ペンを止める。


 今日あったことを思い出す。


 池。


 魚。


 昼寝。


 なくならなかった昼食。


 大きいパン。


 緑の服。


 黄色いリボン。


 叔父から不意に「娘」と呼ばれたこと。


 嫌ではなかった。


 でも、まだ決めなくていい。


 何を書こう。


 しばらく考えてから、ゆっくり文字を書く。


『何もしない時間があってもいい』


 少し迷い、その下へもう一行。


『今日決めたことを、明日変えてもいい』


 そこでペンを置く。


「……うん」


 声に出してみる。


 悪くない。


 窓の外には夜の庭が広がっている。


 南の小池はここから見えない。


 けれど、あそこには今も魚がいる。


 明日も行きたい。


 朝になって行きたくなくなったなら、行かなくてもいい。


 それも自分で決めていい。


 エレノアは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。


 夜空を見上げる。


(明日は、何がしたいかな)


 答えはまだない。


 けれど以前のように、答えがないことを怖いとは思わなかった。


 分からなければ、明日になってから決めればいい。


 そのころベルナール伯爵邸では、失われた衣服を追う古い帳簿の中から、二年前の冬に行われた衣装室整理という新しい糸が見つかっていた。


 その糸が母の木箱へ繋がっているのか。


 消えた服へ繋がっているのか。


 それとも、まったく別の出来事なのか。


 まだ誰にも分からない。


 エレノアも、そのことを知らない。


 今夜の彼女が知っているのは、もっと小さなことだけだった。


 昼まで眠っても、食事はなくならなかった。


 何もしない時間を過ごしても、誰にも責められなかった。


 そして明日のことは、明日の自分が選んでいい。


 今のエレノアにとっては、それで十分だった。

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