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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第23話 会うかどうかも、私が決める



 翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、最初に耳へ届いたのは窓を細かく叩く雨の音だった。


 昨夜までは晴れていた空が、いつの間にか薄い灰色の雲に覆われている。雨脚そのものは強くないものの、庭の木々はしっとりと濡れ、窓硝子を伝う雫が外の景色をわずかに歪ませていた。


 ベッドの中からその光景を見た瞬間、エレノアの胸の奥に小さな緊張が走った。


 雨の日。


 薄暗い部屋。


 屋敷の中へ閉じ込められるような感覚。


 ベルナール伯爵邸で何があったのか、はっきりした記憶が蘇ったわけではない。ただ、身体のどこかが雨の日を警戒しているような、理由の分からない落ち着かなさがあった。


(今日は、池へ行けないかな)


 昨日は明日も魚を見に行くかもしれないと思っていた。


 けれど雨が降っている。


 それなら、行かなくてもいい。


 昨夜、自分で紙へ書いたばかりだった。


『今日決めたことを、明日変えてもいい』


 エレノアはその言葉を思い出し、布団の中で小さく息を吐いた。


(行きたかったら、雨が止んでから行けばいい。止まなかったら、今日は行かなくてもいい)


 そう考えるだけで、予定を守れなかったような後ろめたさが少し薄くなった。


 ほどなくして、扉が控えめに叩かれた。


「おはようございます。リディアでございます」


「おはようございます。入ってください」


 扉が開き、リディアが入ってくる。いつものようにすぐカーテンへ手をかけることはせず、まずベッドのそばまで来た。


「よくお休みになれましたか?」


「はい。昨日、お昼にも寝たのに、夜も眠れました」


「それは何よりでございます」


「寝すぎじゃないですか?」


「クラリス先生から、お身体が休息を必要としている間は眠気が出ることもあると伺っております。それに、昨日の昼寝はそれほど長くありませんでしたから」


「そうなんですね」


 エレノアは身体を起こし、窓を見る。


「雨ですね」


「はい。午前中はこのまま降るようです」


「昨日、池へ行くかもしれないって言ったんですけど」


「ええ」


「今日は行かないかもしれません」


「かしこまりました」


 それだけだった。


 理由を求められない。


 昨日言ったでしょう、とも言われない。


 エレノアは少しだけ笑う。


「やっぱり、変えていいんですね」


「もちろんでございます」


「昨日、自分でも書いたんです。でも、人に言ってから変えるのは、まだちょっと悪いことみたいに感じます」


 リディアは少し考えた。


「お嬢様がどなたかと約束をなさっていて、相手の方がお待ちになっている場合には、予定が変わったことをお伝えした方がよいでしょう」


「はい」


「ですが昨日は、ユリウスと明日必ず会うお約束をなさったわけではございませんね?」


「魚に会いに行くって言いました」


「でしたら、魚たちも雨の日にお嬢様がお見えにならなかったことで腹を立てることはないかと」


 エレノアは一瞬黙ったあと、くすりと笑った。


「魚に怒られたら困ります」


「その際は、庭師へ対処法を尋ねましょう」


「ユリウスさん、今日は北庭ですよ」


「では、明日ですね」


 二人で小さく笑う。


 リディアが衣装を用意する間、エレノアはベッドから降りた。


 今日並べられたのは、薄い灰青色、淡い黄色、柔らかな桃色の三着だった。


 桃色を見たところで、エレノアの視線が止まる。


 嫌な色ではない。


 けれど何かが引っかかる。


「どうなさいました?」


 リディアが気づいた。


「……分かりません」


「何か気になりますか?」


「桃色の服を見たら、少しだけ……」


 胸の奥がざわつく。


 けれど映像も声も出てこない。


「嫌なのかもしれません。でも、桃色そのものが嫌なのかは分からないです」


「でしたら、今日は別のお色になさいますか?」


「はい」


 エレノアは灰青色と黄色を見る。


「黄色にします」


「かしこまりました」


「リボンは……今日はなしにします」


「はい」


 昨日は黄色いリボンを選んだ。


 今日はつけない。


 それでいい。


 リディアが桃色の衣装を片づけようとしたところで、エレノアはふと思い直した。


「リディア」


「はい」


「その桃色の服、なくさないでください」


 リディアが振り返る。


「もちろんでございます」


「今は着たくないだけです。ずっと嫌いって決めたくないので」


「では、衣装棚へ戻しておきます」


「お願いします」


 エレノアはほっとした。


 選ばないことと、捨てることは違う。


 今は欲しくないことと、永遠にいらないことも違う。


 それを自分で決められることが、少し嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、セドリックが窓の外を見て残念そうな顔をしていた。


「雨か」


「お兄様、何か予定があったんですか?」


「午後に馬へ乗ろうと思ってた」


「雨でも乗れるでしょう」


 オーギュストが新聞から目を上げずに言う。


「乗れるけど、わざわざ濡れたくないよ」


「若いくせに軟弱だな」


「お祖父様は雨の日に乗るの?」


「乗らん」


「じゃあ同じじゃないか」


「私は若くない」


 堂々と言われ、セドリックが言葉を失う。


 エレノアはパンをちぎりながら笑った。


 昨日は大きいパンを頼んだ。


 今日は普通の大きさでいいと思ったので、何も頼まなかった。


 その違いにも、少しずつ慣れてきている。


「エレノアは今日はどうするの?」


 セドリックが尋ねる。


「決めてません」


「昨日は池に行くって言ってなかった?」


「言いました。でも、雨なので変えました」


「そっか」


「魚には、明日会います」


 セドリックが笑う。


「魚と約束してるの?」


「してません。だから今日は行かなくても怒られないそうです」


「誰に聞いたの、それ」


「リディアです」


 少し離れて控えていたリディアは、何事もなかったような顔をしている。


 マルグリットが口元へ手を添えた。


「魚との関係まで相談に乗っているのね」


「お嬢様からご相談を受けましたので」


「頼もしいわ」


 食卓に笑いが広がる。


 エレノアはパンを口へ運びながら、その空気を静かに味わった。


 誰かが誰かをからかっている。


 でも、怖くない。


 言葉が少し強くても、そのあとに嫌な沈黙が落ちない。


 そんな違いも、最近は少しずつ分かるようになってきた。


 朝食が終わりかけたころ、食堂の扉の外で控えていた家令がアルフォンスへ近づいた。


「旦那様」


「どうした」


「ベルナール伯爵家から、今朝早く使者が参っております」


 エレノアの手が止まる。


 アルフォンスはすぐには家令へ続きを促さず、まずエレノアを見た。


「食事が終わってからにするか?」


 昨日までなら、その配慮だけで「大丈夫です」と答えていたかもしれない。


 エレノアは自分の皿を見る。


 パンが少し残っている。


 卵もあと一口分。


 お腹はまだ食べたいと言っている。


「食べ終わってからがいいです」


「分かった」


 アルフォンスは家令へ頷く。


「使者には待ってもらってくれ」


「承知いたしました」


 家令が下がる。


 誰も続きを尋ねない。


 セドリックも、オーギュストも、マルグリットも。


 エレノアは残ったパンを食べ、卵も口へ運んだ。


(先に食べても、情報はなくならない)


 以前なら、父から呼ばれれば食事の途中でも席を立った。


 何か言われれば、自分のことを後回しにした。


 今は違う。


 ベルナール家から何か届いた。


 それでも朝食は食べていい。


「ごちそうさまでした」


 食べ終えてナプキンを置く。


「聞きます」


 アルフォンスが頷いた。


「場所を変えよう」


     ◇ ◇ ◇


 朝食後、エレノアはアルフォンスの書斎へ移った。


 誰と一緒に聞きたいか尋ねられたので、少し考えてからセドリックにも同席してほしいと答えた。


 マルグリットもいてほしい気持ちはあった。


 けれど今日は、叔父と従兄だけで聞いてみようと思った。


 それも自分で選んだ。


 三人が座ると、アルフォンスは机の上へ封書を置いた。


「ベルナール伯爵家から、二つ報告が来ている」


「二つ?」


「ああ。一つは衣服について。もう一つは……ミレーヌについてだ」


 妹の名前が出た瞬間、エレノアの背中に力が入った。


 セドリックが気づいたのか、隣から視線が向けられる。


 けれど手を伸ばしてはこない。


 エレノアは一度息を吸った。


「服から聞きます」


「分かった」


 アルフォンスは書類へ目を落とす。


「ベルナール家の仕立て屋の記録を確認した結果、ここ三年ほどで、お前のために仕立てられた衣服のうち八着の所在が現在確認できていない」


「八着……」


「そのうち三着について、行き先が分かった」


「どこですか?」


「ミレーヌのところだ」


 エレノアの指が膝の上で僅かに縮む。


「……ミレーヌが持っていたんですか?」


「正確に言おう」


 アルフォンスの声は落ち着いている。


「三着は、お前の寸法で仕立てられたあと、ヴァレリアの依頼でミレーヌの寸法へ仕立て直されていた」


「お義母様が?」


「ああ」


「ミレーヌが欲しいって言ったんですか?」


「それは確認されていない。少なくとも、ミレーヌ本人は元々お前のために仕立てられた服だったことを知らなかったと話している」


 エレノアは黙った。


 胸の中にいくつもの感情が浮かぶ。


 嫌だ。


 悔しい。


 なぜ自分の服を勝手に。


 けれど同時に、昨日アルフォンスへ言った言葉を思い出す。


 知らなかったなら、ミレーヌだけが悪いことにはしたくない。


「私が、あげるって言った記録は?」


「今のところない」


「私が着なかったからって、お義母様は言ってるんですか?」


 アルフォンスが一瞬だけ目を上げた。


「ベルナール伯爵がヴァレリアへ確認した。彼女は、お前に合わなくなったことと、ほとんど着ていなかったことを理由として説明したそうだ」


「私に聞いたかは?」


「一着ずつ確認した記憶はない、と」


 胸の奥が冷える。


 エレノアは自分の袖を見る。


 今着ている黄色のドレス。


 自分で選んだ。


 今朝、三着から。


「私……その三着を見たことがあったんでしょうか」


「分からない」


「着たことは?」


「それも分からない」


「どんな服ですか?」


 アルフォンスは手元の報告を確認する。


「一着は淡い桃色に白い小花の刺繍。残る二着は、仕立て屋が意匠と布の記録をまとめているところだ」


「桃色……」


 今朝のことを思い出した。


 三着の服。


 その中の桃色を見たとき、胸の奥がざわついた。


 けれど、それだけで何かを決めることはできない。


「今朝、桃色の服を見たら、少し嫌な感じがしました」


 セドリックの顔が僅かに強張る。


「思い出したの?」


「いいえ」


 エレノアは首を横に振る。


「何も思い出してません。ただ、今日は着たくないって思っただけです」


「それでいい」


 アルフォンスがすぐに言った。


「今の感覚と昔の三着を無理に結びつける必要はない」


「はい」


「仕立て屋の話では、三着はヴァレリアの依頼で直された。それ以上はまだ確認中だ」


 エレノアは頷く。


 嫌な感じはある。


 けれど、証拠ではない。


 そうやって分けて考えられるようになったのも、以前とは違うところだった。


「残り五着は?」


「調査中だ。そのうち三着については、当時ベアトリスが受領した記録がある」


「ベアトリスさんが」


「ああ。ただ、受け取ったからといって彼女が自分の判断で何かしたとは限らない。衣装や生活用品の受領に関わる立場だった時期だからな」


「はい」


「さらに、二年前の冬ごろ、東側二階の衣装室を整理した記憶があるとベアトリスが話している」


「私の部屋の近く?」


「そうだ」


 エレノアは記憶を探そうとして、途中でやめた。


 思い出さなければならないわけではない。


「誰が整理したんですか?」


「ベアトリスと、当時衣装係だったサビーヌ・コルベールという女性だ」


 初めて聞く名前だった。


「サビーヌさん」


「今どこにいるか確認している。見つかれば話を聞く予定だ」


「お義母様は?」


「ベアトリスは、ヴァレリアから使っていないものを整理するよう言われたと話している。ただし、何をどうするよう指示されたかは覚えていないそうだ」


 エレノアは静かに聞く。


「箱も?」


 アルフォンスの目が僅かに細くなった。


「ベアトリスは、その整理の際に箱のような物を見た可能性があると話した。ただ、すでに見つかっているお母様の木箱に関する記憶と混同しているかもしれない、とも言っている」


 エレノアの心臓が少し速くなる。


「お母様の箱?」


「同じだとはまだ言えない」


「はい」


「ここは大事だから、急いで結びつけないでおこう」


「分かりました」


 エレノアは自分の手を見た。


 服。


 箱。


 髪飾り。


 少しずつ、自分の周りから何かが消えていった。


 その可能性は高くなっている。


 けれど誰が、何のために、どこまで関わったのかはまだ分からない。


「叔父様」


「うん」


「私のものって……どこまで私のものだったんでしょう」


 アルフォンスはすぐには答えなかった。


「どういう意味だ?」


「服も、お母様の箱も、髪飾りも。私の部屋にあったのに、誰かが持っていけたなら……私が持ってるだけで、本当は私のものじゃなかったのかなって」


「違う」


 今度はセドリックが答えた。


 声が少し強くなったため、エレノアの肩が僅かに揺れる。


 セドリックはすぐ気づいた。


「ごめん。大きな声になった」


「……大丈夫です。少し驚いただけです」


「うん」


 セドリックは一度息を整えた。


「髪飾りは間違いなくエレノアのものだよ。僕がエレノアに贈ったんだから」


「はい」


「誰かが勝手に動かしたとしても、それで持ち主が変わるわけじゃない」


 アルフォンスも頷く。


「服については、家の費用で仕立てたものだから法的な扱いは状況による部分もある。だが少なくとも、お前のために仕立てられ、身につけるものとして与えられたものを、お前の意思を一切確認せず別人へ回してよかったのかは別の問題だ」


「お母様の箱は?」


「相続関係をまだ調べている。だから法的に必ずお前のものだったとは今の段階では言えない」


「……はい」


「でも、お前が欲しいと思うことは自由だ」


 エレノアは顔を上げる。


「欲しいって言っていい?」


「何度でも」


 胸の奥が少し温かくなる。


「欲しいです」


「うん」


「お母様の箱、やっぱり欲しいです」


「探そう」


 アルフォンスが答える。


「誰の所有物かをきちんと確かめて、お前のものなら返してもらう。もし法的な扱いが別だったとしても、どうすればお前の手元へ戻せるか考える」


「はい」


 エレノアはそこで一度息をついた。


「服も……見たいです」


「三着を?」


「はい。返してって言うかは、見てから決めたいです」


「分かった」


「ミレーヌが着たから嫌だって思うかもしれないし、やっぱり欲しいって思うかもしれないし……分からないので」


「それでいい」


 アルフォンスが書類の端へ何かを書き留める。


「現物をすぐ動かさず、まず意匠の記録か絵姿を送ってもらうようにしよう。見たくなくなったら、その時点で止める」


「お願いします」


 エレノアは少し肩の力を抜いた。


「もう一つの報告は?」


 尋ねる。


 アルフォンスはすぐには答えなかった。


「ミレーヌについてだ」


「はい」


「聞く?」


 エレノアは考える。


 胸の中はまだ少しざわついている。


 服のことだけでも、十分重かった。


 でも、聞けないほどではない。


「少しだけ」


「分かった」


 アルフォンスは封書を閉じる。


「ミレーヌが、お前に会いたいと言っている」


 エレノアの呼吸が止まった。


     ◇ ◇ ◇


 会いたい。


 その言葉が、書斎の中へ落ちた。


 窓の外では雨が降っている。


 規則的な音が硝子を叩いているのに、エレノアには急に遠くなったように感じられた。


「……ミレーヌが?」


「ああ」


「どうして?」


「ベルナール伯爵にも理由は分からない。ミレーヌは以前から一度お前に会いたいと話していたそうだ」


「以前から……」


 自分は知らなかった。


「どうして今まで教えなかったんですか?」


 責めるつもりではなかった。


 けれど声に少し硬さが混じる。


 アルフォンスは誤魔化さなかった。


「最初にその話が出た時点では、お前へ伝えるには負担が大きいと私が判断した」


「叔父様が?」


「ああ」


「私に聞かないで?」


 アルフォンスが黙る。


 セドリックが父を見る。


 エレノアは胸の奥に、小さな引っかかりを感じた。


 守ろうとしてくれた。


 それは分かる。


 でも。


「……それって」


 言葉を探す。


「私が知らない方がいいって、叔父様が決めたんですよね」


「ああ」


「私のために?」


「そのつもりだった」


「お義母様が、私の服をミレーヌにあげたのも……たぶん、何か理由があったって言うんですよね」


 アルフォンスの表情が変わる。


「同じだと言いたいわけではありません」


 エレノアは慌てて続ける。


「叔父様が私のものを取ったわけじゃないし、傷つけようとしたわけでもない。でも……」


 膝の上で手を握る。


「私に関係することを、私に聞かないで決めるのは、少しだけ嫌です」


 言えた。


 言ったあと、心臓が速くなる。


 叔父を怒らせるかもしれない。


 そんな考えが一瞬浮かぶ。


 けれどアルフォンスは怒らなかった。


「……そうだな」


 低い声だった。


「すまなかった」


 エレノアが目を見開く。


「叔父様が謝るんですか?」


「私が決めたことだからな」


「でも、私を守ろうとして」


「守ろうとしたことと、お前が嫌だったことは両方成立する」


 アルフォンスは椅子へ深く座り直した。


「お前がここへ来たばかりのころは、ベルナール家から何か届くだけでもかなり怖がっていた。だからミレーヌの希望を伝えることで負担を増やしたくなかった」


「はい」


「だが、今のお前なら自分で聞くかどうかを選べる。私の方が、その変化に追いつけていなかった」


 エレノアは黙って叔父を見る。


「これからは?」


「緊急に守らなければならないことを除けば、お前に関係する申し出については、伝える前に『聞きたいか』を確認するようにする」


「全部?」


「できる限り」


「聞きたくないって言ったら?」


「そのときは聞かなくていい」


「あとから聞きたくなったら?」


「聞けばいい」


 エレノアはゆっくり息を吐いた。


「分かりました」


「怒っているか?」


 尋ねられて、少し考える。


「……少しだけ」


「そうか」


「嫌ですか?」


「いや」


「叔父様に怒っても?」


「怒っていい」


「でも、叔父様は私を助けてくれたのに」


「助けた相手には一生怒ってはいけない、なんて決まりはない」


 エレノアは目を伏せる。


(怒ってもいい)


 それも、まだ難しい。


 好きな人。


 大切にしてくれる人。


 助けてくれた人。


 そんな相手に不満を持つことが、ひどく恩知らずなことのように感じてしまう。


「……少し怒ってます」


 もう一度言う。


「分かった」


 アルフォンスはそれ以上謝罪を重ねなかった。


 許してくれとも言わない。


 エレノアが怒っていることを、そのまま受け取った。


 しばらくして、セドリックが静かに口を開いた。


「僕も気をつける」


「お兄様も?」


「僕もエレノアのためだと思って、先に決めそうになるから」


「……心配性だから?」


「それは否定できない」


 エレノアが少し笑う。


 張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。


「それで」


 アルフォンスが言う。


「ミレーヌが会いたいと言っていることは、今聞いた」


「はい」


「会うかどうかは決めなくていい。今日決める必要もない」


「ミレーヌは、ここに来るんですか?」


「お前が望まない限り来させない」


「私がベルナール家へ行く?」


「それも勧めない。少なくとも今の状態で、あの屋敷へ戻る必要はない」


 エレノアは少し安心した。


「もし会うなら?」


「ここでもいいし、別の場所でもいい。私やセドリック、祖父母の誰かが同席してもいい。扉を開けたままでも、使用人を置いてもいい。途中で終わらせてもいい」


「二人きりじゃなくても?」


「もちろんだ」


「話したくないことを聞かれたら?」


「答えなくていい」


「帰ってって言っても?」


「いい」


 選べるものが、いくつもある。


 会う。


 会わない。


 あとで決める。


 誰かと一緒に会う。


 途中でやめる。


 エレノアは自分の胸へ手を当てた。


 ミレーヌ。


 第一周回の妹。


 レオナードの隣にいた少女。


 処刑台から見た、守られる側の人間。


 けれど今のミレーヌはまだ十五歳で、レオナードとの婚約も何も始まっていない。


 服のことも知らなかったという。


 会いたいと言っている。


(会いたい?)


 自分へ問いかける。


 答えはすぐには出ない。


 怖い。


 顔を見たら、あの日のことを思い出すかもしれない。


 嫌いだと思うかもしれない。


 責めたくなるかもしれない。


 それでも。


(何を言うのかは、少し知りたい)


 その気持ちもあった。


「今日、決めなくていいんですよね」


「ああ」


「じゃあ、今日は決めません」


「分かった」


「でも、ミレーヌには……」


 エレノアは少し考える。


「待ってほしいって伝えてください」


「会わない、ではなく?」


「まだ決めてないから」


「分かった」


「私が決めるまで、来ないでって」


「ああ。そう伝える」


 エレノアは頷いた。


 胸の中の怖さは消えていない。


 それでも、決めさせられなかった。


 そのことだけで、少し呼吸が楽になった。


     ◇ ◇ ◇


 昼前。


 ベルナール伯爵邸では、ロベルトから話を聞いたミレーヌが不満そうに頬を膨らませていた。


「待ってほしい?」


「ああ」


「いつまで?」


「エレノアが決めるまでだ」


「でも、会わないって言ったわけじゃないんでしょう?」


「そうだ」


「じゃあ、明日かもしれない?」


「分からない」


「明後日?」


「分からない」


「一週間後?」


「ミレーヌ」


 ロベルトが名前を呼ぶ。


「エレノアは、まだ決めていない」


「分かってるけど……」


 ミレーヌは長椅子へ座り、膝の上で指を組んだ。


「私、謝った方がいいのかな」


「何をだ」


「服」


「お前は知らなかったのだろう」


「でも、着てた」


「知らずに渡されたものを着たことと、知っていて奪ったことは同じではない」


「お父様がそんなこと言うの、珍しいね」


 ロベルトの表情が固まる。


「……そうか」


「前だったら、『姉妹なんだから気にするな』って言いそう」


 否定できなかった。


 ミレーヌは父の顔を見てから、少し視線を逸らす。


「私も、たぶんそう思ってた」


「何を?」


「お姉様のものでも、家のものならいいって」


 桃色のドレスを思い出す。


「でも、自分の部屋のものを勝手に持っていかれそうになったら嫌だった」


 昨日、自分で言った。


 勝手に持っていかないで。


「お姉様も、嫌だったのかな」


「分からない」


「聞けばいいじゃない」


「だから、エレノアが会うと決めるまで待つ」


「……うん」


 ミレーヌは納得しきれていない顔だった。


 けれど立ち上がって公爵邸へ向かおうとはしなかった。


「じゃあ、待つ」


「ああ」


「でも、お姉様が会っていいって言ったら、ちゃんと教えてね」


「約束する」


「あと」


「何だ」


「桃色のドレス、まだ私の部屋にある?」


「別室で保管させている」


「残り二着も見つかったら、勝手に捨てないで」


「分かっている」


「私も見たい」


 ロベルトは少し考えたあと、頷いた。


「分かった」


 ミレーヌはそこで話を終えようとして、ふと振り返る。


「お父様」


「何だ」


「お母様、何て言ってた?」


 ロベルトは答えを選んだ。


「エレノアには合わなくなり、ほとんど着ていなかったため、お前へ回したと」


「お姉様に聞いた?」


「一着ずつ確認した記憶はないそうだ」


「……そう」


 ミレーヌの顔から少し表情が消える。


「お母様は、私にくれるとき何て言ってたんだろう」


「覚えていないのか?」


「普通に、新しい服だと思ってた」


 ミレーヌはそれだけ言い、部屋を出ていった。


 廊下へ出たところで、向こうからヴァレリアが歩いてくる。


「ミレーヌ」


「お母様」


「お父様とお話ししていたの?」


「うん」


「何を?」


 ミレーヌは母を見る。


 いつもと同じ綺麗な顔。


 いつもと同じ穏やかな声。


 けれど今日は、すぐに答えられなかった。


「服のこと」


「……そう」


「お母様」


「何かしら?」


「桃色のドレス、覚えてる?」


「もちろんよ。あなたによく似合っていたでしょう」


「元はお姉様のだったの?」


 ヴァレリアの表情は変わらない。


「エレノアのために仕立てたけれど、使わなかったからあなた用に直したのよ」


「お姉様は、いいって言った?」


 ほんの短い沈黙があった。


「ずいぶん昔のことよ。一つ一つの会話までは覚えていないわ」


「そうなんだ」


「どうしたの?」


「別に」


 ミレーヌは母の横を通り過ぎようとした。


「ミレーヌ」


 呼び止められる。


「お姉様に会いたいと言っているそうね」


「うん」


「何を話すつもり?」


「分からない」


「エレノアは今、少し不安定なのでしょう? 無理に刺激しない方が――」


「まだ会ってくれないよ」


 ミレーヌが言葉を重ねた。


「え?」


「待ってって」


「そう……」


「だから待つ」


「それがいいわ」


 ヴァレリアが微笑む。


「今はそっとしておいてあげましょう」


 ミレーヌはその顔を見つめた。


 以前なら、そのまま頷いたと思う。


 けれど今日は一つだけ尋ねた。


「お母様」


「何?」


「お姉様って、何色が好きだった?」


 ヴァレリアの微笑みが僅かに止まる。


「急にどうしたの?」


「知ってる?」


「エレノアはあまり色にこだわらない子だったわ」


「何でもいいって?」


「ええ。昔から」


「本当に昔から?」


 ヴァレリアの目が細くなる。


「何が言いたいの?」


「何も」


 ミレーヌは首を振った。


「仕立て屋さんが、お姉様は昔、青がいいとか花がいいとか言ってたって話したらしいから」


 ヴァレリアは黙った。


「私、お姉様のこと全然知らないんだなって思っただけ」


「あなたが気にする必要はないわ」


「……そうかな」


「姉妹でも、すべてを知っている必要なんてないのよ」


「うん」


 それはたぶん正しい。


 けれど。


 知らなくていいことと、知らないまま誰かが決めていたことは、同じなのだろうか。


 ミレーヌにはまだ分からなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後になっても雨は止まなかった。


 エレノアは温室へ行くことにした。


 一人でもよかったが、今日はセドリックを誘った。


「お兄様、何もしない時間は作れましたか?」


 温室へ向かう途中で尋ねると、セドリックが遠い目をした。


「父上に書類を増やされた」


「昨日のが終わらなかったんですか?」


「終わったよ。終わったから新しいのが来たんだ」


「それは……」


 何と言えばいいのか分からない。


「頑張ってください?」


「エレノアまで父上側になった」


「違います」


 エレノアは笑う。


「じゃあ、何て言えばいいですか?」


「かわいそうって言って」


「かわいそうですね」


「全然思ってないだろう」


「少しは思ってます」


「少しなんだ」


 温室の扉が開く。


 湿った外気とは違う、土と葉の温かな匂いが広がった。


 雨音は硝子屋根を通して柔らかく響いている。


 エレノアはゆっくり歩きながら、葉についた水滴を眺めた。


「お兄様」


「うん?」


「ミレーヌのこと、どう思いますか?」


 セドリックの歩みが少し遅くなる。


「正直に?」


「はい」


「今は信用してない」


 はっきりした答えだった。


 エレノアは驚かなかった。


「嫌いですか?」


「そこまでは分からない。昔は普通に従妹として見ていたし、会えば話すくらいだった。でも今は、エレノアがあの家でどう扱われていたのか調べている途中だから、警戒はしてる」


「ミレーヌが何かしたって分かったわけじゃないのに?」


「うん。だから、何かしたと決めつけてもいない」


 セドリックは立ち止まり、近くの葉へ目を向ける。


「警戒することと、有罪だと決めることは別だと思ってる」


「……私も、そうしたいです」


「うん」


「前の……」


 言いかけて止まる。


 第一周回。


 それをセドリックは知らない。


「昔のことを思い出すと、ミレーヌの顔を見るのが怖い気がします」


「なら、会わなくてもいい」


「でも、今のミレーヌが何を言うのか知りたい気もします」


「じゃあ、まだ決めなくていい」


「叔父様と同じこと言いますね」


「親子だからかな」


 冗談めかした声。


 けれど「親子」という言葉を聞いて、エレノアは昨日のことを思い出した。


 娘。


 嫌ではなかった。


「お兄様」


「何?」


「もし私が……」


 そこで言葉を止める。


 養女になったら。


 そう言いかけた。


 まだ決めていない。


 けれど尋ねてみたい。


「もし、私がずっとここにいたら、嫌ですか?」


 セドリックが足を止めた。


「嫌なわけないだろう」


 あまりにも即答だった。


 エレノアが目を丸くする。


「もう少し考えてください」


「考える必要ないよ」


「でも、ずっとですよ?」


「うん」


「お兄様の家なのに」


「エレノアの家にもなればいい」


 胸の奥が大きく揺れる。


 セドリックは続けようとして、やめた。


 決めさせるようなことを言いたくないのだと、エレノアにも分かった。


「……今すぐ決めろとは言わないから」


「はい」


「でも、僕は嫌じゃない。それだけ覚えておいて」


「はい」


 エレノアは小さく頷いた。


 温室の硝子を雨粒が流れていく。


 外は灰色なのに、ここには緑がたくさんある。


「お兄様」


「うん?」


「今日、叔父様に少し怒りました」


「知ってる。隣にいたから」


「そうでした」


 エレノアは恥ずかしくなって少し俯く。


「嫌われなかったです」


「父上に?」


「はい」


「それくらいで嫌うわけないよ」


「お兄様も?」


「僕も」


「お祖父様も、お祖母様も?」


「もちろん」


「……何回怒っても?」


「内容によるけど、怒ったこと自体で嫌いにはならない」


「内容によるんですね」


「そこは何でも許すって言ったら嘘になるから」


 エレノアは顔を上げる。


 その答えの方が、なぜか安心した。


 何をしてもいいわけではない。


 でも、怒ること自体が悪いわけでもない。


「それなら分かります」


「うん」


「私も、お兄様が悪いことしたら怒っていいですか?」


「もちろん」


「何もしない時間を作りすぎたら?」


「それは父上に任せよう」


「ずるいです」


 また笑う。


 雨の日なのに。


 ベルナール家にいたころは、理由も分からず落ち着かなかった雨の日なのに。


 今日は笑っている。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。


 ベルナール伯爵邸では、家令が一通の古い雇用記録をロベルトの前へ置いた。


「サビーヌ・コルベールの現在地が判明いたしました」


「どこだ」


「王都西区です。五年前にベルナール家へ入り、二年前の冬まで衣装係を務めたあと退職。現在は既婚で、サビーヌ・ルヴェルの名で暮らしております」


「退職理由は?」


「結婚です。記録上、問題はございません」


「連絡は取れるか?」


「使いを出せます」


「無理に呼びつけるな。事情を説明して、話を聞くことへ同意するか確認してくれ」


「承知いたしました」


 家令が書類をまとめる。


「それと、もう一点」


「何だ」


「二年前の冬の衣装室整理について、倉庫の移動記録が一部残っておりました」


 ロベルトの顔が上がる。


「見せろ」


 差し出された古い帳簿には、日付と品目が簡略に記されている。


 衣服。


 古布。


 装身具箱。


 書籍。


 小物。


 いくつかは西側保管室へ。


 いくつかは修繕。


 いくつかは譲渡。


「誰が書いた」


「当時の倉庫係です。署名はオスカー・メルヴァン」


 新しい名前だった。


「今もいるのか?」


「はい。現在は馬車庫の物品管理へ移っております」


「呼んでくれ」


「すぐに」


 家令が退室する。


 ロベルトは帳簿を見つめた。


 装身具箱。


 その文字だけで、アデラインの木箱だと決めることはできない。


 この家には他にも箱はいくつもある。


 だが日付は、ベアトリスが衣装室を整理したと話した時期と近い。


 やがて、四十代半ばほどの男が緊張した面持ちで入ってきた。


「お呼びでしょうか、旦那様」


「オスカー。二年前の冬、この記録を書いたのは君か?」


 帳簿を示す。


 オスカー・メルヴァンは近づき、慎重に文字を確認した。


「はい。私の字でございます」


「覚えているか?」


「すべては難しいですが……」


「思い出せることだけでいい」


 ロベルトは一つずつ品目を示した。


「東側二階の衣装室から移されたものだそうだ」


「はい」


「この『装身具箱』は?」


 オスカーが目を細める。


「……木箱だったと思います」


「色は?」


「濃い茶色だったかと」


 ロベルトの指が止まる。


「彫刻は?」


「そこまでは……」


 オスカーは眉を寄せ、記憶を探る。


「いえ、何か模様があったような気はいたします。ただ、花だったかどうかまでは」


「どこへ移した?」


「記録では西側保管室となっております」


「今、そこにはない」


「そうなのですか?」


「ああ」


 オスカーの顔に戸惑いが浮かぶ。


「移したあと、どうなったか覚えているか?」


「申し訳ございません。私は指定された場所へ運んだだけで、その後は」


「誰の指示だった?」


「当時の衣装係から移動票を受け取ったと思います」


「サビーヌ・コルベール?」


「はい」


「その上の指示者は?」


「分かりません」


 ロベルトは息を吐く。


 また一段。


 だが、まだ足りない。


「西側保管室から物が出た場合の記録は?」


「通常は残します」


「通常は?」


「ご家族や侍女長が直接お持ちになる場合、後から記録することもございました」


「記録されないことも?」


 オスカーは答えにくそうに視線を落とす。


「……ございました」


「分かった」


 責めても記録は戻らない。


「この日付の前後一月分、西側保管室の搬出記録をすべて確認してくれ」


「承知いたしました」


「それと、箱を運んだときのことを何か思い出したら、どんな小さなことでも家令へ伝えてほしい」


「はい」


 オスカーが退出する。


 ロベルトは帳簿を閉じなかった。


 エレノアの部屋にあったという木箱。


 ノエルが見た。


 エレノア自身が行方を尋ねた。


 ベアトリスは「お嬢様には必要のないものです」と答えた。


 そして二年前の冬、東側二階の衣装室から濃い茶色の装身具箱が西側保管室へ移されている。


 同じ箱なのか。


 まだ断定できない。


 その後どこへ行ったのかも分からない。


 けれど、調べる場所は一つ増えた。


「西側保管室……」


 ロベルトは低く呟いた。


 そこへ自分が足を運んだ記憶は、ほとんどなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夜になり、雨はようやく弱くなった。


 エレノアは自室で、いつもの紙を開いていた。


 今日は何を書くか。


 朝は予定を変えた。


 叔父に怒った。


 ミレーヌが会いたいと知った。


 でも、会うとも会わないとも決めなかった。


 しばらく考え、ペンを動かす。


『怒っても、嫌われるとは限らない』


 その下へ、もう一つ。


『会うかどうかも、私が決める』


 書き終えてから、じっと文字を見る。


 それから少し迷い、さらに小さく書き足した。


『まだ決めない、でもいい』


 ペンを置く。


 窓の外からは、もう強い雨音は聞こえない。


 エレノアは立ち上がり、硝子へ近づいた。


 雲の切れ間から、ほんの少しだけ夜空が覗いている。


 明日は晴れるだろうか。


 晴れたら魚を見に行きたい。


 でも、朝になって気が変わったら別のことをしてもいい。


 ミレーヌに会うかどうかも同じだ。


 今日決めなくてもいい。


 明日決める必要もない。


 誰かが待っているからといって、自分の心を急がせなくていい。


(でも……)


 エレノアは窓へ映る自分の顔を見る。


(少しだけ、会ってみたいと思ってる)


 怖さの隣にある、小さな気持ち。


 今は、それを否定しなかった。


 会いたいと決めたわけではない。


 ただ、そう思う自分もいる。


「それも、今はそれでいい」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 その夜、ベルナール伯爵邸では、母の木箱へ繋がるかもしれない古い保管記録が見つかっていた。


 けれどエレノアはまだ知らない。


 明日、その報告を聞くかどうかさえ、まだ決まっていない。


 窓の外で、最後の雨粒が軒から落ちた。


 エレノアは机の上の紙を閉じると、今日はもう何も決めずに眠ることにした。

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