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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第24話 知りたいことを、一つずつ



 翌朝、エレノアが目を覚ましたときには、雨はすっかり上がっていた。


 昨夜まで窓硝子を細かく叩いていた雨粒はなく、代わりに朝の光が薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいる。庭の木々はまだ濡れていて、葉の先に残った雫が風に揺れるたび、陽光を受けて小さく輝いていた。


 エレノアは布団の中でしばらく外を眺めてから、昨日のことを思い出した。


 魚。


 雨。


 叔父に少し怒ったこと。


 そして、ミレーヌが自分に会いたがっていること。


(今日は、どうしよう)


 胸の奥に浮かんだ問いへ、すぐに答えようとはしなかった。


 昨日、自分で書いた。


『まだ決めない、でもいい』


 だから、ミレーヌのことはまだ決めなくてもいい。


 その一方で、池へは少し行きたい。


 雨上がりの池がどうなっているのか、見てみたいと思った。


(昨日行かなかったから、今日は絶対に行かないといけないわけじゃない)


 そこまで考えてから、それでも行きたいのだと気づく。


 義務ではない。


 昨日の埋め合わせでもない。


 ただ、見たい。


 その違いが少し嬉しくて、エレノアは布団の中で小さく笑った。


 ほどなくして、扉が控えめに叩かれる。


「おはようございます。リディアでございます」


「おはようございます。入ってください」


 リディアが入室し、いつものようにまずエレノアの様子を確認する。


「昨夜は眠れましたか?」


「はい。雨の音も途中から聞こえなくなりました」


「夜半にはほとんど止んだようでございます」


「今日、池へ行こうと思います」


「かしこまりました」


「昨日行けなかったからじゃなくて、行きたいからです」


 わざわざ付け足したエレノアに、リディアは一瞬だけ目を細めた。


「では、今日はお嬢様が行きたいから池へいらっしゃるのですね」


「はい」


「雨上がりですので、道が少し滑りやすくなっております。足元だけお気をつけください」


「分かりました」


 そこでエレノアはベッドから降りた。


 今日の衣装は、淡い青、薄紫、生成りの三着だった。


「紫にします」


「こちらですね」


「はい」


 迷わなかった。


 リディアが衣装を手に取る。


「髪はどうなさいますか?」


「今日は……」


 エレノアは鏡台に並べられたリボンを見る。


 青。


 白。


 薄紫。


 黄色。


 その中で、青へ目が止まる。


 青い髪飾り。


 セドリックからもらったもの。


 どこへ消えたのか分からない。


 今の自分は、それを探している。


「青にします」


「かしこまりました」


 リディアがリボンを手に取る。


「つけてもいいですか?」


「お願いします」


 鏡の前へ座る。


 髪へ触れる前に許可を求められることにも、だいぶ慣れてきた。


 それでも、指先が耳の後ろを通った瞬間だけ、身体が僅かに強張る。


 リディアの手が止まった。


「お嬢様?」


「大丈夫です」


 反射的に言ってから、エレノアは少し考える。


「……少しびっくりしました」


「一度、手を離しましょうか?」


「はい」


 リディアの手が離れる。


 エレノアは鏡の中の自分を見る。


 怖いわけではない。


 リディアに触られることが嫌なわけでもない。


 ただ、耳の後ろへ指が触れた瞬間、何かが身体の奥で跳ねた。


「もう一回、お願いします」


「よろしいのですか?」


「はい。今度は、触る前に言ってもらってもいいですか?」


「もちろんでございます」


 リディアはエレノアの後ろへ立つ。


「では、右側の髪に触れますね」


「はい」


「耳の後ろへ指を通します」


「はい」


 今度は強張らなかった。


 青いリボンが髪へ結ばれる。


「できました」


「ありがとうございます」


 エレノアは鏡の中で青色を見る。


 髪飾りとは違う。


 でも、これは今朝自分で選んだ青だ。


 それでいい。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えたあと、エレノアは予定通り南の小池へ向かった。


 雨上がりの庭には湿った土と草の匂いが濃く残り、石畳の端には小さな水溜まりができている。雲の切れ間から差し込む光はまだ柔らかく、濡れた葉の表面がところどころ白く輝いていた。


「おはようございます、お嬢様」


 途中で声をかけてきたのは、庭師のユリウスだった。


 今日は北庭ではなく、南側の植え込みを確認していたらしい。


「おはようございます」


「昨日は生憎の雨でしたな」


「はい。でも今日は魚を見に来ました」


「それはちょうどよろしい。雨の翌日は水面近くへ出てくることもあります」


「本当ですか?」


「運がよければ」


 ユリウスはそう言って笑った。


「ただ、池の縁は滑ります。今日はいつもより一歩離れてご覧ください」


「分かりました」


「では、私はあちらにおりますので、何かございましたらお呼びください」


「一緒にいなくていいんですか?」


「お嬢様が一人で魚をご覧になりたいのであれば」


 エレノアは少し考える。


「今日は、一人で見てみます」


「かしこまりました」


 ユリウスはそれ以上近づかず、少し離れた植え込みへ戻っていった。


 完全に一人ではない。


 何かあれば声が届く。


 けれど、池の前には自分しかいない。


 エレノアは昨日までより少し遠い位置に置かれた小さな腰掛けへ座った。


 水面は雨の影響で少し濁っている。


 すぐには魚が見えない。


 以前なら、ここで焦ったかもしれない。


 せっかく来たのだから見なければ。


 時間を無駄にしてはいけない。


 そんな考えが浮かんでいた気がする。


 今は、ただ待つ。


 風が吹く。


 木の葉から雫が落ち、水面へ小さな輪を作る。


 鳥の声がする。


 遠くで庭師たちが何かを話している。


 そのうち、水草の影が揺れた。


「あ」


 小さな銀色の魚が一匹、姿を見せる。


 エレノアは声を潜めた。


「いた」


 少し遅れて、もう一匹。


 さらに小さな魚が二匹。


 昨日見た魚と同じかどうかは分からない。


 でも、それでよかった。


(今日もいた)


 口元が緩む。


 魚はエレノアが昨日来なかったことなど知らない。


 責めもしない。


 ただ今日、水の中を泳いでいる。


 エレノアはしばらく眺めていた。


 やがて、少し離れたところからユリウスの声がする。


「見えましたかな?」


「はい。四匹います」


「それはよかった」


「昨日の魚と同じですか?」


「さて。私にも見分けはつきません」


「ユリウスさんでも?」


「魚の方から名乗ってくれれば分かるのですが」


 エレノアは思わず笑った。


「魚は喋りません」


「それが困ったところです」


「困るんですか?」


「庭師としては、少しくらい相談に乗ってほしいときもあります」


「何を相談するんですか?」


「どの水草が好きか、とか」


 エレノアはまた笑う。


 その声に驚いたのか、一匹の魚が水草の奥へ消えた。


「あ」


「逃げましたな」


「私が笑ったから?」


「その可能性はあります」


「じゃあ、静かにします」


「しかし、お嬢様が笑わない方が魚より困りますな」


 ユリウスはそれだけ言い、また仕事へ戻った。


 エレノアは水面を見つめながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、ベルナール伯爵邸には一人の女性が訪れていた。


 サビーヌ・ルヴェル。


 旧姓コルベール。


 二年前までベルナール家で衣装係として働いていた女性である。


 三十歳前後の彼女は、濃紺の質素な外出着を身につけ、案内された応接室で落ち着かなさそうに両手を組んでいた。


 呼びつけられたわけではない。


 家令から事情を説明され、話を聞かせてもらえないかと頼まれた。


 断っても構わないとも言われた。


 それでも、かつて仕えた伯爵家の主人からの依頼である。


 断る方が難しい。


 扉が開き、ロベルトが入ってくる。


 サビーヌはすぐに立ち上がった。


「お久しぶりでございます、伯爵様」


「急に来てもらってすまない」


「いいえ」


「座ってくれ」


 二人が向かい合う。


 家令も記録役として同席した。


「先に伝えておく。君を責めるために呼んだわけではない」


「はい」


「覚えていないことは、覚えていないと答えてほしい。推測で埋めなくていい」


 サビーヌは少し驚いたようにロベルトを見た。


 以前の主人とは、話し方が違う。


 昔のロベルトは使用人へ細かく口を出す人間ではなかった。家の中のことは妻や家令、侍女長へ任せ、必要な報告だけを受け取ることが多かった。


「承知いたしました」


「二年前の冬、東側二階の衣装室を整理したことを覚えているか?」


 サビーヌは少し考える。


「はい。覚えております」


「ベアトリスと一緒だった?」


「はい」


「誰の指示だ」


「奥様です」


 ロベルトの視線が僅かに鋭くなる。


「ヴァレリアから直接?」


「最初の指示は、そうだったと思います」


「どんな指示だった?」


「……『エレノアお嬢様がお使いにならないものを整理するように』と」


「処分しろと?」


「そこまでは言われておりません。使えるもの、修繕が必要なもの、保管するものに分けるように、と」


「エレノア本人は立ち会ったか?」


「いいえ」


 サビーヌは即答した。


「本人へ、整理していいか確認した?」


 今度は少し間があった。


「私は、しておりません」


「ベアトリスは?」


「分かりません。ただ、少なくとも整理の場にお嬢様はいらっしゃいませんでした」


「なぜ本人がいない状態で整理した?」


「……奥様の指示でしたので」


「疑問には思わなかった?」


 サビーヌの表情が曇る。


「当時は」


「今は?」


「今になって考えれば……ご本人のお部屋のものですから」


 そこで言葉を止める。


「ですが、当時の私は衣装係でした。奥様や上級侍女から指示されたものを整理するのが仕事で、それ以上のことを考えておりませんでした」


「責めているわけではない」


「はい」


「整理したものを覚えているか?」


「衣服が多かったです。あとは帽子、古い靴、装身具の空箱、書籍が少し」


「木箱は?」


 サビーヌの眉が寄る。


「木箱……」


「濃い茶色。花の彫刻があった可能性がある」


 長い沈黙。


「……見たような気がいたします」


 ロベルトは動かなかった。


「気がする?」


「はい。申し訳ございません。はっきりとは」


「構わない。続けてくれ」


「小さな箱が一つございました。装身具箱くらいの大きさで……ただ、中身は確認しておりません」


「どこへ?」


「最初は保管へ回したと思います」


「西側保管室?」


「はい」


 オスカーの証言と一致する。


「その後は?」


 サビーヌは首を横に振りかけて、途中で止めた。


「……いえ」


「何か思い出した?」


「確か、あとで……」


 額へ指を当てる。


「奥様が、保管へ回したものを一度確認なさったような」


「ヴァレリアが?」


「はい。ただ、その箱だけを確認したのか、保管品全体だったのかは覚えておりません」


「どこで?」


「西側保管室だったと思います」


「君もいた?」


「途中まで」


「途中まで?」


「奥様がお見えになったので、私は整理表をお渡ししました。そのあと別の仕事へ戻るよう言われました」


「誰に?」


「ベアトリスさんに」


 ロベルトは家令を見る。


 家令が記録する。


「そのあと箱を見た?」


「いいえ」


「翌日以降は?」


「……覚えておりません」


「青い石の髪飾りは?」


 サビーヌが顔を上げる。


「髪飾り?」


「エレノアが以前身につけていたものだ。青い石がついた、小さな髪飾り」


 サビーヌはしばらく考えた。


「青い石……」


 目を閉じる。


「見たことは、あると思います」


「どこで?」


「エレノアお嬢様がつけていらしたところを」


「整理した品の中では?」


「分かりません」


「思い出せない?」


「はい」


「では、それ以上はいい」


 ロベルトは無理に続けなかった。


 サビーヌが僅かに息を吐く。


「伯爵様」


「何だ」


「エレノアお嬢様は……」


 言葉を選んでいる。


「今、どうなさっているのでしょうか」


「ロシュフォール公爵家で療養している」


「そうですか」


「何か気になることが?」


 サビーヌは視線を膝へ落とした。


「私、お嬢様とあまりお話ししたことがなかったのです」


「衣装係だったのに?」


「はい」


「なぜだ」


「……直接お部屋へ伺うことが、あまり許されていなかったからです」


 室内の空気が変わる。


「誰に?」


「最初は、ベアトリスさんから」


「理由は?」


「お嬢様には身の回りのことを自分でなさる習慣をつける方針だから、必要以上に手を出さないように、と」


「ヴァレリアの方針だと?」


「そう聞いておりました」


 ロベルトの顎に力が入る。


「服を仕立てるための採寸は?」


「仕立て屋が来る日には呼ばれておりました。でも、納品後に着付けをすることは少なかったです」


「誰がやっていた?」


「……分かりません」


「誰もやっていなかった可能性は?」


 サビーヌは答えられない。


「私は、納品されたものを受け取って衣装室へ入れるところまでで、その後は……」


「つまり、エレノア本人が着たかどうか確認していなかった」


「はい」


 ロベルトは目を閉じた。


 八着。


 そのうち三着はミレーヌへ。


 残る五着はまだ不明。


 仕立てた。


 受け取った。


 衣装室へ入れた。


 それなのに、本人が着たのか誰も確認していない。


「サビーヌ」


「はい」


「最後に一つだけ」


「はい」


「当時、エレノアを見て、何かおかしいと思ったことはなかったか?」


 サビーヌはすぐには答えなかった。


「……痩せていらっしゃるとは思いました」


「いつごろだ」


「私が辞める少し前には」


「誰かに言った?」


「いいえ」


「なぜ?」


「食が細い方なのだと聞いておりました」


「誰から」


 サビーヌの唇が動く。


「奥様か……ベアトリスさんだったと思います。どちらから最初に聞いたのかは、申し訳ございません」


「他には?」


「お嬢様は、いつも『大丈夫です』と仰っていました」


 ロベルトの胸が詰まる。


「服が少し緩そうに見えたときも、『大丈夫です』と」


「……そうか」


「ですから、本当に大丈夫なのだと」


 サビーヌは膝の上で手を握る。


「今になって思えば、私も一度くらい、別の聞き方をすればよかったのかもしれません」


「それを今ここで君一人の責任にするつもりはない」


 ロベルトは低く言った。


「家の主人だったのは私だ」


 サビーヌは何も答えなかった。


     ◇ ◇ ◇


 昼食前、エレノアが池から戻ると、玄関近くでアルフォンスと出会った。


「お帰り」


「ただいまです」


「魚は?」


「いました。四匹です」


「昨日と同じ?」


「分かりません。魚が名前を教えてくれないので」


 アルフォンスが一瞬きょとんとする。


「……誰にそんなことを言われたんだ?」


「ユリウスさんです」


「あいつか」


「庭師さんは魚に相談したいことがあるそうです」


「何の相談だ」


「どの水草が好きか」


 アルフォンスが笑う。


「なるほど。それは確かに本人たちへ聞くのが早いな」


「でも喋らないので困るそうです」


「難しい問題だ」


 二人でそんな話をしながら廊下を歩く。


 以前なら、公爵という立場の叔父と魚の話をするなど考えられなかった。


 それどころか、父とこんな話をした記憶もほとんどない。


 ロベルトと会話するときは、礼儀。


 勉強。


 婚姻。


 失敗しないこと。


 そんなものばかりだった。


「エレノア」


「はい」


「ベルナール家から新しい報告が来ている」


 身体が僅かに強張る。


 けれど昨日とは違う。


 アルフォンスはすぐに内容を言わなかった。


「聞きたいか?」


 エレノアは叔父を見る。


 昨日、自分が怒ったこと。


 叔父が謝ったこと。


 そして、これからは選ばせると言ったこと。


 本当に守ってくれている。


「急ぎですか?」


「いや」


「悪いこと?」


「良いとも悪いとも、まだ言えない。調査が少し進んだ」


「箱ですか?」


「箱に関係する可能性がある」


 胸が少し速くなる。


「……お昼のあとでもいいですか?」


「もちろん」


「先に食べます」


「ああ」


 アルフォンスが微笑む。


「そうしよう」


     ◇ ◇ ◇


 昼食では、エレノアは魚料理を選んだ。


 朝、池で魚を見たから食べるのがかわいそうになるかと思ったが、出てきた料理を見ると普通においしそうだった。


「魚を見たあとに魚を食べるんだ」


 セドリックが何気なく言う。


 エレノアの手が一瞬止まった。


「……駄目ですか?」


「え?」


 セドリックが慌てる。


「違う違う。全然駄目じゃない。ちょっと面白いなって思っただけ」


「面白い?」


「池の魚と料理の魚は別だし」


「そうですよね」


 エレノアは皿を見る。


 それから、少し考えて一口食べた。


「おいしいです」


「うん」


「じゃあ、食べます」


「どうぞ」


 マルグリットが二人のやり取りを見ながら微笑んでいる。


「エレノア」


「はい?」


「食べたいものを食べるのに、理由を作らなくてもいいのよ」


「……はい」


「もちろん、食べたくないときも同じ」


「はい」


 エレノアはもう一口食べる。


 香草の香りがする。


 おいしい。


 それだけで十分だった。


     ◇ ◇ ◇


 食後、エレノアは昨日と同じ南の小客間を選んだ。


 書斎より、こちらの方が落ち着く。


 今日はアルフォンスとセドリックに加え、エレノア自身がマルグリットにもいてほしいと頼んだ。


「途中でやめてもいいですか?」


 座って最初に確認する。


「もちろん」


「分からないって言っても?」


「いい」


「今日は全部聞かなくても?」


「ああ」


 三つ確認してから、エレノアは頷いた。


「聞きます」


 アルフォンスが報告書を開く。


「まず、昨日話したサビーヌ・コルベールの現在地が分かった」


「衣装係だった人ですね」


「そうだ。結婚して、今はサビーヌ・ルヴェルという姓になっている。今日、ベルナール伯爵が本人から話を聞いた」


「何て?」


「二年前の冬に、お前の衣装室を整理したことは覚えていた」


 エレノアの指が膝の上で動く。


「私がいないときに?」


「ああ」


「私に聞かないで?」


「サビーヌ自身は、お前へ確認していない」


 胸の奥が重くなる。


「誰の指示でしたか?」


「ヴァレリアだと証言している」


 エレノアは目を伏せる。


 驚かなかった。


 でも、驚かなかった自分が少し悲しい。


「お義母様は、何て?」


「『エレノアが使っていないものを整理するように』という趣旨だったと、サビーヌは覚えている」


「使ってないって、誰が決めたんですか?」


 アルフォンスは答えない。


 答えられないのだと分かる。


「……私じゃないんですね」


「少なくとも、今ある証言ではお前が決めたとは確認できていない」


「はい」


 エレノアは息を吐く。


「続けてください」


「衣服や帽子、古い靴、書籍などを整理した。その中に、小さな木箱があった可能性がある」


「お母様の?」


「まだ分からない」


 アルフォンスはすぐに線を引く。


「濃い茶色だったという別の証言はある。サビーヌも木箱を見た記憶はあるが、野薔薇の彫刻まで確認できていない」


「どこへ行ったんですか?」


「最初は西側保管室へ移した可能性が高い」


「最初は?」


 その言葉が引っかかった。


「そのあと、ヴァレリアが保管品を確認した可能性がある」


「お義母様が?」


「ああ。サビーヌは整理表を渡したあと、ベアトリスから別の仕事へ戻るよう言われたそうだ」


「そのあと箱がどうなったかは?」


「分からない」


 エレノアは黙る。


 西側保管室。


 ヴァレリア。


 ベアトリス。


 木箱。


 点が少しずつ増えている。


 でも、まだ線にはならない。


「青い髪飾りは?」


 自分から尋ねた。


「サビーヌは、お前が身につけていたところを見た記憶はある。ただ、衣装室整理の中にあったかは覚えていない」


「そうですか」


 少しだけ残念だった。


 けれど、無理に答えを作られるよりいい。


「もう一つ、サビーヌの証言がある」


「何ですか?」


「彼女は衣装係だったが、お前の部屋へ直接入ることは少なかったそうだ」


「どうして?」


「必要以上に身の回りを手伝わず、自分でできるようにするという教育方針だと聞かされていた」


 エレノアの喉が詰まる。


 似た言葉。


 何度も聞いている。


 自立。


 規律。


 甘やかさない。


「私……そんなに何もできない子だったんですか?」


「違う」


 マルグリットが答えた。


 声は穏やかだが、迷いはなかった。


「少なくとも、今のあなたを見ていれば分かります。あなたはできることまで取り上げられていた子ではなく、助けが必要なときまで助けてもらえなかった子よ」


 エレノアは祖母を見る。


「でも、自分でできることは自分でするのが普通なんですよね?」


「ええ。けれど、自分でできることを自分でするのと、困っていても誰にも頼れないことは違うわ」


「……違う」


「違うわ」


 マルグリットは繰り返した。


「十五歳の子供が服を仕立ててもらう。着付けを手伝ってもらう。体調が悪ければ食事を運んでもらう。怖いことがあれば大人へ相談する。それは甘やかしではないの」


 エレノアの目が熱くなる。


「サビーヌさんは?」


 声が少し掠れる。


「私が痩せてるって思わなかったんですか?」


 アルフォンスが一度言葉を選んだ。


「思っていたそうだ」


「……そう」


「ただ、食が細いのだと聞いていた」


「誰から?」


「ヴァレリアかベアトリスのどちらかだったと思うが、どちらから最初に聞いたかは覚えていない、と」


 エレノアは膝の上の手を見た。


「私も、大丈夫って言ってたんですよね」


「サビーヌはそう証言している」


「……やっぱり」


 小さく笑いそうになって、笑えなかった。


「私、ずっと大丈夫って言ってたんですね」


 セドリックの表情が歪む。


 エレノアはそれに気づいた。


「お兄様」


「うん」


「そんな顔しないでください」


「どんな顔?」


「悲しそうな顔」


「……ごめん」


「謝らなくてもいいです」


 エレノアは少し考える。


「私も、昔の私がかわいそうだと思います」


 その言葉に、三人が黙った。


 エレノア自身も驚いていた。


 以前なら。


 昔の自分を思い出せば、悪かったところを探した。


 失敗したから。


 言うことを聞かなかったから。


 役に立たなかったから。


 だから仕方なかった。


 でも今は。


「ご飯が少なくても、大丈夫って言って。服が合わなくても、大丈夫って言って。痛くても、大丈夫って言って……」


 喉が震える。


「誰かに、大丈夫じゃないって言ってもよかったのに」


 マルグリットの目が潤む。


 けれど彼女はエレノアへ抱きつかなかった。


 手も伸ばさない。


 エレノアが選ぶのを待つ。


 それが分かった。


「お祖母様」


「なあに?」


「手、握ってもいいですか?」


「もちろんよ」


 エレノアから手を伸ばす。


 マルグリットの手は温かかった。


「昔の私、誰かにこうしてほしかったのかな」


「そうだったかもしれないわね」


「分からないです」


「分からなくていいのよ」


「はい」


 エレノアはしばらくその手を握っていた。


 泣きはしなかった。


 泣いてもよかったのだろう。


 でも今は、涙よりも胸の奥へじわじわ広がる悲しさを、そのまま感じていたかった。


「叔父様」


「うん」


「今日は、ここまでにします」


「ああ」


 アルフォンスはすぐ報告書を閉じた。


「まだ続きはありますか?」


「少しある」


「明日聞いてもいい?」


「もちろん」


「明日になって、聞きたくなかったら?」


「そのときは、また後日にしよう」


「分かりました」


 エレノアは頷いた。


「今日は、ここまでです」


     ◇ ◇ ◇


 その日の午後。


 ベルナール伯爵邸の西側保管室では、オスカー・メルヴァンと家令が古い搬出記録を確認していた。


 棚から下ろされた帳簿は埃をかぶり、紙の端が黄ばんでいる。


「この月です」


 オスカーが一冊を開く。


 二年前の冬。


 東側二階衣装室から物品が移された月。


 一枚ずつ確認する。


 衣服。


 古書。


 修繕用布。


 家具。


 小箱。


 記録は細かいものもあれば、驚くほど簡素なものもある。


「装身具箱の搬入は、この日」


「はい」


「搬出は?」


「今のところ見つかりません」


「別の名称で記録された可能性は?」


「ございます。木箱、小箱、私物箱など」


 二人でページをめくる。


 やがて、オスカーの手が止まった。


「家令様」


「どうした」


「これを」


 指された行。


『私物箱 一 西保管室より本邸へ戻し』


「日付は?」


「搬入から十二日後です」


「誰が受け取った?」


 欄を見る。


 署名はない。


 代わりに短い文字だけが残されている。


『奥方確認』


 家令の眉が寄る。


「これだけか?」


「はい」


「本邸のどこへ戻した?」


「書かれておりません」


「誰が運んだ?」


「記録なしです」


 オスカーの顔色が悪くなる。


「当時は、ご家族から直接指示があった場合、簡略に書くことがございまして……」


「責めているわけではない。これがアデライン様の箱だとも、まだ決まっていない」


「はい」


「だが、重要だ」


「……はい」


「原本は動かさない。写しを取る。ロベルト様へすぐ報告しよう」


 家令が帳簿を閉じようとする。


 そのとき、オスカーが再び止めた。


「待ってください」


「何だ」


「同じ日に、もう一つございます」


 数行下。


『装身具類 小包一 確認済』


「これも奥方か?」


「欄が……」


 二人が覗き込む。


 そこには、別の文字があった。


『B・R』


 家令の顔が強張る。


「ベアトリス・ロラン……?」


「可能性はあります。ただ、署名ではありません」


「断定するな」


「はい」


「この記号が誰を示すのか、他の記録と照合する」


 家令は慎重に言った。


「装身具類というだけで、青い髪飾りとも限らない」


「はい」


「だが、これも写しを取る」


 調査は、また一つ先へ進んだ。


 答えには、まだ届いていない。


     ◇ ◇ ◇


 夕刻。


 ロベルトの書斎には、二つの写しが置かれていた。


 一つ。


『私物箱 一 西保管室より本邸へ戻し 奥方確認』


 もう一つ。


『装身具類 小包一 確認済 B・R』


 ロベルトは長い間、それを見つめていた。


 ヴァレリアは、アデラインの箱を西側保管室へ置いたと話した。


 その箱は、現在そこにない。


 もしこの「私物箱」が同じものなら、十二日後に本邸へ戻されている。


 しかも奥方確認。


 だが、「奥方」が必ずヴァレリアを指すのか。


 当時の記録形式ではどうなのか。


 同じ日に記された装身具類の「B・R」はベアトリスなのか。


 それもまだ分からない。


「旦那様」


 家令が声をかける。


「ベアトリスをお呼びしますか?」


 ロベルトはすぐに答えなかった。


「先に記号を確認しろ」


「承知いたしました」


「この帳簿の前後一年分を見て、『B・R』が他にどこで使われているか調べる」


「はい」


「『奥方確認』についてもだ。ヴァレリア以外を指す例があるか確認する」


「かしこまりました」


「それが終わるまで、ベアトリスにもヴァレリアにもこの記録は見せない」


 家令が僅かに目を見開く。


「理由を伺っても?」


「先に答えを与えたくない」


 ロベルトは書類から目を離さない。


「何も知らせずに、それぞれが何を覚えているか聞く。そのあと記録と照合する」


「承知いたしました」


 以前のロベルトなら、すぐヴァレリアへ尋ねていたかもしれない。


 そして妻がもっともらしい説明をすれば、それで終わらせていた。


 今は、それをしない。


 信じるためでも、疑うためでもない。


 確かめるために。


     ◇ ◇ ◇


 ロシュフォール公爵邸では、エレノアが温室の小さな机へ向かっていた。


 目の前には刺繍布。


 隣には色とりどりの糸が並んでいる。


 先日、自分で「明日決める」と言った刺繍を、まだ始めていなかった。


 今日になって、やってみたいと思った。


 マルグリットが向かいに座っている。


「何を刺してみたい?」


「まだ決めてません」


「では、簡単なものから練習してみる?」


「はい」


「葉っぱ、星、小さな花。どれがいいかしら」


 エレノアは糸を見る。


 野薔薇。


 母の好きだった花。


 一瞬、それにしようかと思った。


 けれど。


「星にします」


「あら」


「変ですか?」


「いいえ。野薔薇を選ぶのかと思っただけ」


「私も最初、そうしようと思いました」


「どうして変えたの?」


「……お母様が好きだったから選ぶのもいいけど、今日は私が星を刺してみたいって思ったので」


 マルグリットの顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。


「では、星にしましょう」


「はい」


「何色?」


 エレノアは迷う。


 黄色。


 青。


 紫。


「青にします」


「分かったわ」


 青い糸を取る。


 針へ通すのは少し難しい。


 マルグリットに手伝ってもらおうかと思って、やめる。


 まず自分でやってみたい。


 一度失敗する。


 糸が穴を外れる。


 胸の奥が僅かに強張る。


 失敗。


 その言葉に身体が反応する。


 けれど、誰も怒らない。


 マルグリットは待っている。


「もう一回やります」


「ええ」


 二度目。


 また外れる。


「……難しいです」


「最初はみんなそうよ」


「お祖母様も?」


「もちろん。昔は糸より指を刺す方が上手だったわ」


「本当ですか?」


「何度もね」


「痛そう」


「痛かったわ」


 エレノアは少し笑う。


 三度目。


 糸が穴を通った。


「あ」


「できたわね」


「はい」


 小さな成功。


 それだけなのに嬉しい。


「失敗しても、三回目にできました」


「そうね」


「怒られませんでした」


 言ってから、エレノアは自分で少し笑う。


「当たり前ですよね」


「今は、まだ当たり前だと思えなくてもいいのよ」


「……はい」


 布へ針を通す。


 初めての星は、少し歪んだ。


 左右も揃っていない。


 でも。


「これ、直した方がいいですか?」


「エレノアは直したい?」


 また自分へ返ってくる。


 エレノアは歪んだ星を見る。


「……このままにします」


「どうして?」


「初めてだから」


 指先でそっと布へ触れる。


「上手じゃないけど、私が最初に作った星なので」


「素敵ね」


「次は、もう少し上手にします」


「ええ」


 エレノアは二つ目の星を刺し始める。


 今度は少しだけ形が整った。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


 エレノアは自室へ戻り、机の紙を開いた。


 今日のことを思い返す。


 池へ行った。


 魚を見た。


 青いリボンを選んだ。


 サビーヌという元衣装係の話を聞いた。


 昔の自分が、何度も「大丈夫」と言っていたことを知った。


 そして、自分で昔の自分を「かわいそう」と思えた。


 それは、少し苦しかった。


 でも以前のように、自分を責める苦しさとは違った。


 ペンを取る。


『大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないと言っていい』


 書いてから、少し眺める。


 もう一つ。


『失敗したものも、残していい』


 今日刺した歪んだ青い星を思い出す。


 完璧ではない。


 でも捨てなかった。


 直さなかった。


 自分が最初に作ったものだから。


 そして最後に、もう一行。


『知りたいことは、一つずつでいい』


 木箱。


 青い髪飾り。


 服。


 食事。


 自分がなぜ何度も「大丈夫」と言っていたのか。


 ミレーヌ。


 ロベルト。


 ヴァレリア。


 知りたいことはたくさんある。


 全部を今日知る必要はない。


 答えが見つかったからといって、全部を一度に聞く必要もない。


 エレノアは紙を閉じた。


 机の隅には、今日刺した小さな布が置かれている。


 二つの青い星。


 一つ目は歪んでいる。


 二つ目は少しだけ整っている。


 どちらも自分が作ったものだ。


「明日、もう一個作ろうかな」


 そう呟いてから、少し考える。


「……明日、作りたかったら」


 言い直す。


 それでいい。


 そのころベルナール伯爵邸では、エレノアがまだ知らない二つの古い記録が、静かに机の上へ置かれていた。


 西側保管室から本邸へ戻された『私物箱』。


 同じ日に確認された『装身具類』。


 そこに残された『奥方確認』と『B・R』の文字。


 母の木箱と青い髪飾りへ繋がるものなのか、それとも別の品なのか。


 まだ答えは出ていない。


 けれど、消えたものを追う道筋は、以前より確かに細く絞られ始めていた。


 エレノアはそれを知らないまま、今夜も自分で寝る時間を決める。


 明日、新しい報告を聞くかどうかも。


 ミレーヌに会うかどうかも。


 歪んだ星の隣へ三つ目を刺すかどうかも。


 すべて、明日の自分が選べばいい。


 灯りを消す前、エレノアは机の上の青い星をもう一度見た。


 最初の星は、やはり少し歪んでいた。


 けれど今度は、その歪みを見ても失敗という言葉だけは浮かばなかった。


 初めて作ったもの。


 今のエレノアには、その呼び方の方がずっと似合っているように思えた。

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